軍港境標石
 軍港第二(三)区境石は宮島町腰細浦にある陸繋島東側の転石の中に二つに折れて点在しており、いずれも満潮時には海中に没してしまう位置にある。この境石は花崗岩製で24p角、埋込み部分を含めた全長は232pもあり、一人ではとても動かせそうにない大きなもので、陸繋島の沿岸に建立されていたものが波の浸食で倒壊して二つに折れて転石になったものであろう。
 銘文は一面のみで「軍港第二(三)区境 呉鎮守府」とあり、呉鎮守府とあるので呉軍港の境石とみられ、当初は刻字のバランスから二区境と刻されていたものが、後述するように軍港境域の改正により三区境に改刻されて現在みられるようなバランスのよくない数字となったものとみられるのである。
 呉軍港の境域の移り変わりをみていくと、明治19年(1886)5月4日勅令によって呉浦に第二海軍区鎮守府と呉軍港が決定しており、明治22年(1889)7月1日海軍省令で呉軍港の範囲(図3)が制定された。呉軍港は呉港を中心とした瀬戸島、倉橋島、東能美島、江田島に囲まれた内海部分と江田島湾の範囲とされた。
 明治23年(1890)6月13日勅令で呉軍港の境域が制定された。呉軍港境域の範囲はこれまで海域のみであった呉軍港の範囲に加えて瀬戸島、倉橋島、東能美島、西能美島、江田島の島嶼部と呉港の後背地である安芸郡、賀茂郡の一部が追加された。
 明治29年(1896)3月21日勅令で厳島の東岸から似島の範囲の海域が追加され、4月1日海軍省令呉軍港規則で呉軍港境域内の海域が二区に分けられて呉港部分が一区とされその他の部分が二区とされた。腰細浦の境石は建立年が刻されていないが二区境とあるのでこの時点で建立されたものとみられるのである。
 明治33年(1900)4月30日海軍省令軍港要港規則で呉軍港境域内の呉港部分に一区と二区の範囲が設定されその他の部分が三区とされた。腰細浦の境石にこの時点で二区を三区に改刻したためにバランスの良くない刻字となったのである。
 大正5年(1916)12月には呉軍港境域の範囲に倉橋島東南海域、大正8年(1919)5月に賀茂郡広村の一部と広湾海域、大正10年(1921)4月に安芸郡熊野町の一部と賀茂郡郷原村の一部、昭和6年(1931)12月に大黒神島の範囲の海域が追加されており、昭和8年(1933)5月には宇品港域軍事取締区域に似島、峠島とその海域が含まれたので呉軍港境域の範囲から除外されている。
 この呉軍港境域内では呉軍港規則やのちに改正された軍港要港規則などによると、軍港内への入港や築造物などについて許可を得るなど様々な制限が加えられていた。また、昭和12年(1937)10月7日海軍省令軍機保護法施行規則で軍港要港内での航空や測量、撮影、模写などにも許可を得るよう制限が加えられていた。なお、制限の詳細についてはこれらの規則を参照されたい。
 呉軍港境域標石(大正15年11月)の建立経緯については調査中
 軍港第二(三)区境標石
標石番号 所 在 地 備 考
 廿日市市宮島町 腰細浦
 呉軍港境域標石(大正15年11月)
 第21号  呉市・旧黒瀬町・旧安浦町境  
第26号  呉市広・仁方境 白日峠
第46号  広島市安芸区・呉市・安芸郡坂町境  情報提供より
近代戦争制限区域標石