その1 その2

名前 政治 経済 補給 建設 指揮 歩兵 騎兵 砲兵 備考
ヴィルヘルム C C C C D D D D プロシア王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世。叔父のフリードリヒ大王の政策に反して、オーストリアの外交政策を追随してフランス革命に対する干渉戦争という無意味な戦争に荷担した。
ブラウンシュバイク C C B C B B C B ブラウンシュヴァイク公爵アウグスト・ヴィルヘルム。ブラウンシュヴァイク公国君主。プロイセン国王フリードリヒ2世(大王)の重要な同盟者として、父カール1世とともに七年戦争に従軍した。1780年に公位を継ぎ、自国に数々の改革を実施した啓蒙専制君主として知られた。1787年に、オランダで起きた革命を鎮圧するために派遣されたプロイセン軍の司令官となり、オランダの革命を挫折させた。1792年、フランス革命に干渉するためにプロイセン軍の指揮をとる。1792年ヴァルミーでフランス革命軍に大敗を喫したあと、1793年にライン地方で反攻に転じたが、フランスのオシュ将軍に敗れて、対仏軍総司令官職を更迭された。のちプロイセンをナポレオン開戦に踏み切らせたが、1806年、アウエルシュタットでナポレオン配下のダヴー将軍に敗れて致命傷を負い、陣没した。
ブリュヒャー B C B C B B A C プロイセン軍の元帥。プロイセンやザクセンの兵士たちより<突進将軍>と愛称された。七年戦争では軽騎兵中尉、対仏戦争では騎兵指揮官として活躍し、1806年のイエナの戦いに従軍した。しかしリューベックの戦いでミュラに敗れて捕虜となる。ティルジットの和約後ポンメルン軍団総司令官として、プロイセン軍事政策を支持した。彼は「ナポレオンに征服された諸国民は愛国心に目覚め、きっと立ち上がるだろう」と言って、民族解放戦争を主張した。
 1813年にプロイセン軍を指揮し、ワーテルローでフランス軍を左翼から急襲して戦局を好転させた。彼は戦功によってワールシュタット公に叙されたが、ドイツ諸侯たちのドイツ国民の民族利益に対する裏切りに失望して引退した。
ホーエンローエ B C B C B C C B プロイセンの軍人。対仏戦争に従軍。1793年、ブランシュヴァイク公とともにカイザースラオテルンの戦いでフランス共和国軍に敗れ、ラインラントを放棄してパラティナへ退却する。1806年10月14日、イエナの戦いでナポレオンに敗北、続く10月28日のプレンツラウの戦いで降伏し、1万8000の兵とともにナポレオンの捕虜となった。1808年帰国を許される。
ハルデンベルク A B D B C D D D プロイセンの政治家。宰相。法律を学んでハノーヴァー官吏になる。1783年ブラウンシュヴァイク,1790年アンスバハ・バイロイトで仕事についた後,プロイセンの大臣になり,1795年フランスとのバーゼル講和の締結に尽くし,1798年州務,1804年ベルリンで外務大臣,1807年短期間首相。ティルジット和約後ナポレオンにより罷免され,引退中『リガの覚え書』を著し(1807),フランスを手本にした国の改革を求めた。1810年ナポレオンの承認を得て宰相となり,シュタインの後継者となってプロイセン改革を進めた。その内容は,営業の自由・ツンフト特権の除去・ユダヤ人の解放・国内関税撤廃であり,税制改革にも着手したが貴族の反抗で不十分であった。1814年のウィーン会議にはプロイセンを代表してフンボルトとともに出席した。
シュタイン B A B B C D D D プロイセンの政治家。ナッサウの帝国騎士身分の生まれ。1804年大臣となり財政改革を目指すが、一時罷免。1807年ティルジット和約後の、一年余りの最も困難な時期に首相となり、内政改革に尽力した。特に1808年の「十月勅令」による農奴解放、1808年の「都市条令」による都市自治権の拡大に代表される大改革は、その後のプロイセン・ドイツの近代化、その国民国家としての発展の礎となった。1808年、ナポレオンの圧力により辞職を余儀なくされ、ベーメンに逃れた後、1812年、露皇帝アレクサンドル1世の顧問としてロシアに招かれた。1814年ウィーン会議にて統一ドイツ帝国を提唱して反感をかい、1818年に引退。
クライスト D D C D B C C D ハインリッヒ・フォン・クライスト。ドイツのフランクフルトに生まれる。19世紀最高の劇作家。
ルードヴィヒ C C B C B C C C ヘッセン大公爵ルードヴィヒ1世?【情報求む】
リュッヘル C C D C B B D D プロイセンの軍人。1806年のイエナの戦いに従軍するが、ナポレオンに大敗する。
ヨルク C D C C B B D C イギリス人。プロイセン軍に勤務する。伯爵。1781年から1785年までオランダ軍に勤務して、プロイセン軍に入る。1794年対ポーランド戦争に参加、1805年旅団長となる。1806年、対ナポレオン戦争(リューベック戦争)で偉功を立てたが、自身は負傷して捕虜となった。翌1807年にティルジットの講和の後帰国し、1810年に軽装歩兵部隊総司令官となり、1812年からフランス軍と戦った。1812年ナポレオンのロシア遠征に際し、プロイセン軍司令官として出陣し、タウロッゲンにてロシアと単独講和を結んで、プロイセンの、ナポレオンよりの離反のきっかけをつくった。1815年に退役して、1821年に元帥となった。
チーテン D D C D C C C C プロイセンの将軍。ツィーテン。1815年ブリュッセルの戦いでナポレオン軍と戦うが、シャルルロワのサンブル川で敗北した。しかしワーテルロー戦でウェリントン軍を援護して、雪辱を果たす。
ワイマール B C D C C B C C ワイマール公エルンスト2世の子。父の死により幼少にしてワイマール公となり母公アマーリアが摂政となる。ゲーテと親交を持ち、文学を奨励し、ヘルダーやシラーらを招き、その首都ワイマールは、ドイツの精神的中心地となった。政治的にはプロイセンと同盟し、フランス革命政府軍と戦ってヴァルミー戦に参加するが敗北、つづいて1806年ナポレオンと対戦したがやはり敗北した。1815年ワイマール大公となり、1816年には連邦条約に基づき、ドイツの公国ではじめて憲法を定めた。
シャルンホルスト B B C C C B C A プロイセンの将軍。ニーダー・ザクセンの農民の子に生まれハンノヴァー軍に加入。1793対仏戦争で、徴兵制によるフランス革命軍の優秀性を知り、軍制改革の必要性を説き、ブラウンシュヴァイク公の幕僚長となる。1801年プロイセン軍に加入しナポレオン軍との戦闘に参加。1813年にグナイゼナウとともに国民皆兵令を実現させたが同年の解放戦争を指導中、負傷し死亡。
ビュロー D D D D B C B D プロイセンの軍人。伯爵。1807年義勇兵を率いてアイラウのロシア軍と合流。改新派と国王の間にたって、1812年から1813年まで東プロイセン臨時総督をつとめ、プロイセンの躍進に寄与する。1813年陸軍中将となり、同年ブリュッヒャー将軍のもとで、ルッカウ、グロスベーレン、デンネヴィッツで勝利し、その功により貴族の称号を与えられた。ナポレオン戦争でベルリンを防衛し、ワーテルロー会戦にも参陣した。1816年ケーニヒスベルクで死去。
グナイゼナウ C C A B B B C B プロイセンの将軍。軍制改革者。はじめオーストリア軍、ついでアンスバッハ軍に入隊しアメリカ独立戦争に参加。その後プロイセン軍に勤務し。ティルジットの和約までコルベルク要塞を防衛。プロイセン改革に際してはシャルンホルストを助けて軍制改革を指導した。自由主義的観点から国民軍の形成、貴族の特権の廃止、フランスヘの抵抗を主張したが、プロイセンの中立的立場を不満として一時イギリスに渡る。その後解放戦争の際にはブリュッヒャー軍の参謀長となり、ワーテルロー会戦では指導的役割を演じてナポレオンを破った。しかし彼の自由主義的思想はウィーン体制下の復古主義と対立することとなり、1816年に軍団司令官の地位を辞職。1831年ポーランドの蜂起の際にポーゼンに赴き,コレラにかかって死亡。


とりあえず、ブラウザの[戻る]で戻ってください。