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妖霊祓いはカフェにいる story.1
歌う人形(後編)

1993,9,13発行 『棲想圏 第拾五号』掲載

作 上杉 明

 そこは、いかにも高校の授業をサボって来ました。といった感じの喫茶店だった。残念ながら、高校で皆勤賞をもらってしまった座敷わらしはサボった事はない。だから想像に過ぎないのだが。
 看板の下に書かれてある、某有名メーカーのコーヒーの豆はこの暑いのに室内に出しっぱなし。確実に酸化して酸っぱいマンデリンが飲めるだろう。
 いや、そんなもの自体ないのかもしれない。アメリカンとブレンド、そして悲惨なブルマン・ブレンドと言う奴がせいぜいか。
 某、最北端の市のコーヒー専門店で飲んだ哀しい記憶が浮かび上がってしまう。
 『神様、私をあの店に導いていただいて感謝しています』
 柄にもなく呟いてしまう。本当に、あれは偶然の産物だった。あの日あんなに行き付けの飲み屋が閉まっていなかったら……。
 が、ここに居心地の良さを感じてしまう人間を否定するほど善人でもない。
 それに、意外とこんな店のスパゲッティが旨かったりするのだから。
 「いらっしゃい」
 眼鏡をかけたおとなしそうなマスターが声をかけてくる。が、これも表面だけで人はわからない。案外暴走族の族長上がりであったりする。
 そして、お目当てはいた。
 奥のボックス。面白くなさそうに汚れたバイク雑誌をめくっている少年。
 ジャーニーズ系のいい男。さらさらの細い髪、細い眉に目。通った鼻筋に、小さめの口、細い顎。特徴をつかもうとしてあきらめた。
 少なくとも、座敷わらしと共通のパーツはどこにもない。が、電話で聞いた特徴と合致する。
 二十代を数年しか残していない図々しさでその前に腰を降ろした。
 「なんだよ……」
 少年が顔を上げる。
 「あんた」
 その口がOの字に開いた。高校できゃーきゃー言っている女の子のファンがおそらくは数名失望する顔。
 「やぁ、痺れは取れたかい?」
 「知り合いだったのかい」
 「あ、コーヒーお願いしますね」
 マスターがお冷やを持ってくる。座敷わらしは無難な注文をすると再び少年の方へ向き直った。
 「負け犬の顔でも見に来たのかよ」
 少年がふてった顔でそう言う。
 「いや、協力者が信用できるか見に来たんだな。これが」
 「協力者?」
 「また、卑屈になっちゃって。若いんでしょ。もっとはつらつにならなきゃ」
 お冷やを飲んでそう言う。
 「そんなことはどうでもいい! 一体何だって言うんだ。あいつとつき合っているんだろう!
 あんた。それとも何か? オトナって奴は自分が奪った女の前の男を見に来るものなのか?」
 押し殺した声だった。怒鳴らないだけの分別はあるらしい。
 「男か。小僧なのに。しょってるねえ」
 ま、こんな事を言う座敷わらしもかなりしょっている。なにせ、『結婚してこそ男』という場所もあるのだから。
 「あのお嬢さんにつれなくされた。その理由を聞いても答えない。だから振られたと思った。原因は新しい男ができたからとしか考えられない。だから、後を追った。そしたら、さえない「おっさん」と話をしていた。あれが相手か。
 『おっさん、俺の女に手を出すな』」
 「……」
 しばしの沈黙。図星だ。
 「はい、お待ちどう」
 マスターの持ってきたコーヒーに口をつけると意志の力で表情を押さえつける。酸化した豆の最後の一滴までカップに落としてしまったコーヒーは破滅的な味がした。
 「やめたやめた。使いものになるかと思ったが、お嬢さんの気持ちも解らない男と話しても疲れるだけ。やめ! だな」
 そう言ってコーヒを飲み干すと立ち上がる。
 いや、立ち上がろうとした。
 「まて。いや、待ってくれじゃない。待って下さい。それはどういう意味です」
 「ほう……」
 座敷わらしは頭をかいた。どうやら心の底から馬鹿ではないらしい。悪ぶったかぶりものの下にはきちんとした躾があった。
 『目の輝きが違ってきやがった。使えるな』
 実際問題として使えなければ困るのだが。
 「じゃあ、話そうか」
 椅子に座りなおし、そして……。
 「そんな馬鹿な……」
 今まで知らなかった少女の身の上話を聞いた少年はかみつくように言った。自制を忘れたのか声のトーンが高い。
 「いや、ホントなんだなあ。お嬢さんは憑かれてる。それもタチの悪い奴にね。そして、オレに祓うことを頼みに来たんだな」
 悪い冗談だ。そう笑い飛ばせない何かがその言葉の底にある。
 「怨霊? みたいなものですか」
 だから、少年の握りしめた手から血の気が失せていた。
 「ああ、世の中、『可愛さ余って憎さ百倍』と言うけどね。愛と憎しみというのは同じコインの裏表でしかないんだよ。
 何かを愛しすぎると人間の心は死とともに浄化されない。だから、こっち側に残ってしまう。そして、その愛を他の人間の体で果たそうとするんだな。それが霊妖さ」
 そこで、座敷わらしは首を振った。
 「いや、そう言ったしち面倒なことはともかく、奴等はその目的のためには手段を選ばないんだ。そして、行動するためにはエネルギーが必要になる。そのエネルギーが……ある時は取り憑いた人間の命であり、今回は」
 「他人の命……?」
 「そう、他人の命。今度、彼女に留学の話が来ているんだろ。今度もまた『声』は彼女に些細な代償を求めるだろうなあ」
 「この……僕の命を」
 「だから、彼女は君を避けた。それだけの話さ。どうする」
 ぞんざいな問の答えは予想通り。
 「で、何をするんです。協力者として」
 座敷わらしはにっこりと笑うと少年の予想もつかなかったい問を発した。
 「まず、君が使い古した、そして君の血を吸ったことのある刃物はあるかい?」

 晩夏の月の光に白く浮き上がっているその建物は、古い倉庫だった。
 長い間倉庫として使われ、その最後の何年間かはライブハウスとして使われていた場所。
 その表面は永い風雪に削れていたが、過去の職人の仕事は、未だ崩れる兆候を見せていなかった。
 が、それも来月までの話だ。再開発の波は容赦なくここにもおしよせ、この倉庫は何の変哲もない建物に姿を変えるだろう。
 が、この倉庫の最後の数年間。この建物の中には音楽を愛する若者たちがいた。そして、彼らの思念はまだここにある。
 その思念こそ座敷わらしのもう一つの武器。
 ステージだったものに腰掛けて呟く。
 「あとは、本人達の意思次第……か」
 商品番号が古い潜水艦漫画の主役メカと同じ。そんな他愛ない理由からも気に入っているウォークマンから聞こえてくるのは、最近再結成されたとテクノポップスバンド。その古いナンバーだった。
 このフレーズを今から見るとまるでおもちゃのようなキーボードで必死になってコピーした時代。それはある意味で幸せな時代だったのかもしれない。
 少なくともポップでテクノな未来を信じ、生きていくことができた。
 あの頃、『愛』や『正義』、『未来』は明るい光に満ちていた。いや、『光』こそ絶対的な善だった。
 少なくともそう思いこむことができた。
 が、今は。
 座敷わらしは自分に言い聞かせるように肩をすくめた。
 そうではない事に気がついてしまったバカがここにいる。
 そして、少女。
 少女が霊妖に憑かれてしまったのは、彼女の側にそれを受け入れる気持ちがあったからだ。
 確かに、座敷わらしのところを訪れたからにはそんな気持ちを持ったことを忌まわしく思っているに違いない。
 が、その気持ちは完全に消え去ってしまったわけでもなかろう。
 その気持ちがなくなれば、霊妖は憑いてはいられないのだから。
 座敷わらしを訪ねたことが逆に、自分一人では拒絶できない事を雄弁に語っている。
 そして、その気持ちその気持ちが少しでも残っているならば、彼女から霊妖を引きはがすことはできない。
 「無力だよな……」
 座敷わらしは超人でも、何でもない自分の能力を笑うしかなかった。
 「人間、誰もが聖人君子じゃないんだぞ……とと?」
 電気を止められているため、持ち込んだコールマンのガスランプの光が揺れる。
 ギシ。重い金属製の扉がゆっくりと開く。
 少女の白い顔がのぞき込んだ。
 「やあ」
 座敷わらしはそれまでの深刻な顔が嘘のように明るい声で手をあげる。
 「あの……」
 どうしてここに呼んだのか聞こうとする少女の言葉にかぶせるように続ける。
 「いい、話が来てるんだって?
 海外留学。声楽家になるには絶好のチャンスなんだろう」
 「どうして、それを」
 「パパは何でも知ってるってね」
 七十年代も後半に生まれた人間には決して解らない、古いアメリカTVの題名でギャグをかましてから続ける。
 「どうするんだい」
 「そ……それは」
 「『声』の言うとおりにするのかい」
 少女は下を向く。
 まだ、決心がついていない。
 「言うとおりにすれば、君は素晴らしい声楽家になれる。世の中の天才と言われる人種は多かれ少なかれ君みたいなものかもしれないよ。
 人の命を吸い取ることで自分の才能を伸ばしていく……それはそれで一つの生き……」
 「やめて!」
 血を吐くような叫びだった。
 が、座敷わらしはあえて続ける。
 「どうして。
 何万人に一人になれるんだよ。その歌声は天上からのマナ、極楽の甘露のように人々の心を癒してくれる。
 それに比べれば、たかが数人の愛するものの命など安いものじゃないか……
 ねえ」
 コールマンのガスランタンに照らされた座敷わらしの顔はファウストを凋落しようとするメフィストフェレス。
 「さあ、正直になるんだ。
 さあ、楽に」
 少女は唾を飲み込む。
 「本当にしたいことはなんだい?」
 「本当にしたいことは……」
 自分の意志でなしに座敷わらしの問に口が動いた。
 「だれかの奥さんになって一生を終わるのか? それだけの才能を溝に捨てて」
 「わたしの……才能」
 「留学すれば、君の声楽家としての栄光の道が開かれる。このチャンスを逃すのか?」
 耳から入った甘い囁きが強い酸のように心を蝕んでいく。
 「私の……チャンス?」
 『そう、あなたには才能があるのよ』
 座敷わらしの声がいつしか『声』と変わっていった。
 『さあ、願いなさい。あなたの希望を。
 僅かな代償でそれをかなえてあげるわ』
 「わたしの願いは……」
 半ば眠りに落ちたように少女は言葉を紡ぎ出す。
 いつしかかがみ込んでいた座敷わらしがランプを消す。
 座敷わらしには、闇の中、少女の思いと一つになり、会心の笑みを浮かべる憑き物の姿がはっきりと見えた。
 この瞬間こそ、座敷わらしが待っていたものだった。
 己が想いを実現できるこの瞬間こそ、彼らにとって最も無防備な時。そして、もう一つの要素があれば……。
 そして……。
 「やめろぉ!」
 少年が飛び込んできたのはまさにその瞬間だった。

 それは、若さ故の暴走だったかもしれない。が、時にはその若さが全てを解決すると信じる幸せな時代がある。
 『小さな窓から漏れる明かりが消えた時、突入しろ。
 心の命ずるままに』
 座敷わらしは、そう言って不器用に片目をつぶって見せた。
 「やめろ! 霊妖!」
 そして、少年はここにいる。
 少女が振り向く。
 闇であるはずの建物の中は、しかし邪悪な虹色の光に染め上げられていた。
 その光の中心。少女が振り向く。
 そして、今や少女を支配する霊妖はこの獲物に肉食獣の笑みで迎えた。
 「なあ! あれはみんな嘘だったのかよ!」
 少年は倉庫の中に入ってくるとそう叫ぶ。
 『貴男は、わたしになにをしてくれたの?』
 少女の口を借りて、そう霊妖が答える。
 「なにって……」
 少年は口ごもった。
 少年に言いたいことは山ほどある。高校に入ってから、少年はずっと少女を見ていた。
 少年は何の取り柄もなかった。
 少女は歌唱科のエリートだった。
 しかし、出会った時、少年はこの世に自分以上に大切なものがあることを知った。
 それは、単なる錯覚かもしれない。しかし、今の心に忠実でありたかった。
 無謀ともいえる告白。そして、返答。
 以後、少ない時間と、人目を避けながら、二人は同じ時間を過ごしてきたはずだった。
 少年はそう、信じていた。しかし……。
 『あなたは私には何もしてくれていない。
 もしも、何かしてくれるなら……。
 貴男の命を頂戴!』
 「幻想……かよ。
 オレたちの時間はみんな幻想だったのか?
 おまえが本当に、心の底からそう思っているなら。オレの命なんぞくれてやらあ」
 少年は叫び、無造作に進んだ。
 「だがな、本当にそうなら、おまえの声で言ってくれ。そんな未練たらしい、おばんの声でなく!」
 『死ぬが「わ、わたしは……」よい』
 霊妖の声に少女の声が混じる。
 「どうなんだ! どうせ、つまらん世の中だ。おまえのためになるなら、死んでやる。
 どうなんだ? おまえの夢は、オレが死ねば実現できるのか?」
 『死を願いなさい。貴女の未来のために』
 甘い囁きが。
 「さあ! 答えろ おまえの未来にオレは必要ないのか? オレが死んだら本当におまえのためになるのか?」
 純粋な絶叫が。
 「わたしは……できない」
 少女が髪を振り乱し泣き叫ぶ。
 『うるさい! 死ねい!』
 次の一瞬。三つの悲鳴が倉庫の中に響いた。
 一つは霊妖に襲われた少年のもの。
 一つはその結果を予想した少女のもの。
 そして、もう一つは……。
 少年に掴み掛かろうとした霊妖はその凶々しいおぼろげな光を当たりにまき散らしながら、のけぞる。
 「へ……。霊妖が……」
 蒼白な顔で少年が吐き捨てた。右手には一本の使い古された切り出し。
 「祖父ちゃん……」
 少年の幼い日、祖父の手によって魔法のように作り出された竹とんぼに竹馬。この切り出しにその力があると信じ、誰も見ていないときに試した結果は今も左手の親指の付け根に残っている。
 『祖父ちゃんがいらなくなったら、やる』
 大騒ぎの後のぶっきらぼうな言葉。
 意味がわかったのは
 『祖父ちゃんは新しいの持っていったから』
 と、祖母が祖父の葬儀の後にそっと切り出しを渡してくれたときだった。
 「祖父ちゃん……。オレ、やることはやったよ。あと頼むよ。座敷わらしの兄ちゃん」
 意識がとぎれる。
 「いやあ! こんなこと望んでない! 出てってよ! 出てって!」
 泣きじゃくる少女の声が倉庫の中に響いた。
 『何故だぁ! 何故、私に力を与えない! 何故、私は再生しない!』
 少女と霊妖を繋いでいた光の糸がとぎれ、光が吹き出す傷口を押さえ、霊妖がのたうつ。
 「それは、あんたの想いが、自己中心的なものだからさ。若者のライブハウスだったこの場には純粋に音楽を求めた想いが満ちている。そして、古来より、使い込まれた刃物は魔を祓う力がある」
 『なにぃ!』
 霊妖の視線の先に座敷わらしが立っていた。
 「まだ、気がつかないのか? その考え方が己を滅ぼしたことを。その執着があんたの『道』を誤らしたんだよ」
 座敷わらしは淡々と語る。
 「いや、それはいい。他人を糧にし、己が歌を高める。因果報応。名をなした後に命を落としたとしても、それはあんたの生き方だ。
 だが、それを他人に強要はできん」
 『この娘は、それを望んだのだぞ! だから、私は望みを叶えてやったのだ! その仕打ちがこれか』
 座敷わらしはため息をついた。
 「人の弱い心につけ込んだだけだろうが。確かにこの娘の歌は、巧いよ。だが、クズだ。どんなに巧くても、心からの迸りがない。人は人が歌うから感動するんだ。あんたの操り人形の歌はその迸りがないんだよ。素人は感動しても、この道の大家には通用しない」
 『馬鹿な、私の歌は完璧だ』
 不安を覆い隠すような哄笑。
 「あんたの歌はね。あんたの上昇志向が歌に命を吹き込んでいた。が、この娘は違う。違う歌がある。この子は歌う人形じゃない!」
 笑いがとぎれる。
 『うるさい! わが望みを妨げる輩。貴様をまず、我が贄にしてやる』
 「しかたないか」
 座敷わらしは肩をすくめた。
 一振りした右手にマグライトが現れる。親指の一ひねりで闇の中に絞られた光が伸びた。
 「有無相生じ、難易相成し、長短相形し、高下相傾け、音声相和し、前後相随い、明暗相補う。即ち無為自然」
 ライトから伸びる光。そこに闇がからみつき、何も存在しない無の刃が作られる。そこへ、霊妖が襲いかかる。
 「霊妖昇天!」
 一切の光と闇が一瞬、無に帰し。
 そして、後には人だけが残った。

 「ぐああああーっ」
 座敷わらしはカウンターの上で気持ちよさそうに伸びをした。
 店内に流れるのは「アダージョ」ト長調。オーソン・ウェルズの『審判』のテーマにもなった曲だ。
 「疲れてますねえ」
 カウンターの中でバイト君がカップをふきながら笑いかける。
 「まあね」

 あれから、数日。
 お姫様は魔法使いの助力を得た騎士に助けられ、めでたしめたし。
 現代社会ではこのオチはすこしばかり通用しない。
 コールマンのガスランプの明かりの下、精も根も尽き果てた少年と、泣きじゃくる少女。もう、早いとは言えない時間。名門私立高校の校則を考えるなら不純異性交遊一発。満貫で退学ものなのは、同業者として容易に想像できる。この二人、一緒にいてはまずい。
 「さて……」
 座敷わらしは少年の脈と呼吸を確かめると、肩にしょった。
 「よくやったよ、おまえさん」
 そう、賞賛の言葉を呟くと表に止めて置いた愛車二号に放り込む。
 次は泣きじゃくる少女の番だった。
 「女は苦手なんだよな……」
 常日頃、女生徒指導は全部先輩の先生にまかせている座敷わらしはそう呟いた。
 「泣くなよ」
 そう言ってウェストバックからフラスコを取り出すと少女に放り投げる。
 「あいつは死んじゃいない。憑き物も落ちた。めでたし、めでたしだろう?」
 「そんなんじゃありません……わたし、彼を殺そうとしたんです」
 投げられたフラスコを握りしめ少女が鼻をすすった。
 「が、殺さなかった。お嬢ちゃんが奴を否定したからこそさ」
 「でも、その寸前まで考えたんです。わたし、彼が死んだら、立派な声楽家になれるかもしれないって……」
 「が、結果はそうしなかった。それで充分だろう? それとも、命がけでお嬢ちゃんを守った男に、別れの言葉を熨斗つけて送るのかい。愁嘆場はオレのいない所でやってくれよ」
 「そんな……」
 「いいじゃないか……。もしも、お嬢ちゃんが自分があの坊主に相応しくないと思うなら、相応しくなればいい。時間はまだたっぷりあるさ。それ、飲んで元気を出せよ」
 小さくうなずくと少女はフラスコの中の液体を喉に流し込む。生のバーボンにむせながらにっこりと笑った。

 その後、
 「いやあ、繁華街で封の開いていない缶ビール持って歩いていたものですから、職業上気になりまして」
 と、滅多に使わない高校教諭と書かれた名刺とともに少女の自宅に送り届たり。
 少年を彼の自宅のそばの公園で降ろしたり。
 翌日、休日出勤の教頭から
 「うちの学校にあんたがいるかって確認の電話があったが、どうしたんだい」
 と言った質問に曖昧に笑ったり。
 そんなことは省略しても構わないだろう。
 別れたときに浮かべた少年の笑顔以外は。

 「どうして、こんなに親身なってくれたんです」
 公園の近くで車を停めると後席の少年は座敷わらしにそう問いかける。
 「さあね。縁かな。偶然憑かれていたお嬢ちゃんがやってきた。それだけの話さ」
 何でもないことのように答えた。
 「だがな、覚悟しておけよ。おまえさん、あの、お嬢ちゃんの歌姫になれる可能性を潰したんだぞ」
 バックミラーに写る少年を見ながら続ける。
 「おまえさんは、愛情のつもりかもしれないが、余計なお世話だったという話もある」
 「そ、そんな」
 明らかな動揺。
 「愛も憎しみも同じコインの裏表。前に言っただろう? 
 ま、そんなことを欠片も思わないように、憑き物の力で得るはずだった未来以上のものを与えてやれ。
 出来るか?」
 その問に少年は大きく頷いた。笑顔とともに。

 その後、少女は結局高校の留学の選考に漏れた。
 が、実力で大学時代に渡米。夫の協力もあり、その名を世界に知らしめることになる。
 が、それは未来を見通す力を持たぬ座敷わらしには蛇足。
 さしあたっての関心は……。
 「さて、来たな」
 座敷わらしはそう呟いた。
 「あ、いらっしゃい」
 バイト君が店に入ってきた人物に声をかける。
 「やあ」
 「よお、今晩はおまえのおごりだかんな」
 技術系のサラリーマン。それ以外には見えない青年が笑みを浮かべた。
 「そうか……。彼女、来たか
 それは,良かった」
 バイト君がきょとんとした顔で二人を眺める。
 「あ、マンデリン下さい」
 椅子に座ってそう注文するともう一度呟いた。
 「本当に良かった」
 一方に開け放たれた窓から夏の残香を連れて風が吹き込む。
 「もう、秋だな。さて、どこでおごってもらおうか」
 座敷わらしがそう言ってカップを傾けた。


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