プロローグ
そのライブハウスは繁華街を少し外れた路地裏にあった。
黒く油光りのする厚い木の扉。扉の廻りにはひび割れた薄い石板が張り付けられている。
街の喧噪から隔絶された店の中にはステージといくつかのテーブルが置かれていた。入って右手にはカウンター。奥には小さいが桧のステージと、その上の古いながら手入れの行き届いたピアノが乗っている。
強引に分類するならライブハウスといったところだろうか。が、単なるロックやジャズのライブハウスとは一線を画している。
この街のごく少数の音楽を知る人間だけが集う店だった。
まだ、早い時間のためか店内には人影はまばらだ。そんななかを冷たく透き通った声が流れていく。
ステージには一人の少女が立っていた。
まだ高校生らしい少女。しかし、その歌は別離の哀しみを歌い上げている。
無情。
人は生きることで別れを繰り返す。
死別を……。
まばらな客たちは息をするのさえ忘れたように聞きほれている。
ただ一人、スーツ姿の青年を除いて。
青年はじっと少女を見つめている。ステージの上の少女はその青年の哀しげな視線に、挑むように歌い続けた。
密度の濃い時間がとぎれる。
少女は一礼すると楽屋へと下がった。
しばらくして我に返った客たちが手を叩いた。
カウンターの中、白いシャツに小粋にブルーの蝶ネクタイを締めた店員がテーブルの横にギターケースを置いたタンガリーシャツの青年に声をかける。が青年は肩をすくめて見せただけだった。
店員も苦笑いしながら頷くと真空管のアンプに火を入れる。
あの歌の後ではしばらくはどんな曲でもも感動をもたらすことはできないだろう。
薄暗い室内に優美で繊細なチューブの中のヒーターが薄赤く輝く。
慣れた動作で鈍く金属の光沢を見せる分厚いターンテーブルの上にLPが乗せられる。
充分に暖められたKT88。英国産の真空管が余裕を持って送り出すバッハのパイプオルガンの小フーガを、すっかりこなれた独逸のスピーカーが静かにかなでる。
店内にざわめきが戻った。
青年は静かに目の前の琥珀色の液体が入っているショットグラスを傾ける。
静かに満ち足りた時間が流れていく。
青年の前に先ほどの少女がやってきたのはそんな時だった。
青年はゆっくりと微笑んだ。
「来たね」
そう言って向かいの席に座るようにうながす。
少女は無言のままその席にこしかけた。
テーブルに近づいてきた店員に少女は固い声でオレンジジュースを注文する。
青年もショットグラスを干すとテーブルの上を店員の方に滑らせた。
店員は黙ってそのグラスを取り上げるとカウンターへと戻っていく。
「常連さんなんですね」
相変わらず声が固かった。
この店では音楽を純粋に楽しむため、原則として、アルコールが出ないことになっている。ごく少数、マスターが認めた常連を除いては。
店員がだまって注文の品をもってくる。
曲はいつしかBWV.646『我いずこに逃れ行かん』へと変わっていた。
「なぜ、来たんだい」
「それは……。あなたが私を見ていたから……」
「私か。いい子だね。お嬢さん」
「え」
「俺の友だちに高校教師がいるんだが……。よくぼやいてるよ。
『あいつら【うち】としか自分の事をいわねえ』ってね」
「お嬢さんだなんて、おじさん臭い」
くすり。と少女が笑みを浮かべる。
「なんで、いつもそんな笑顔を浮かべていないんだい?
どうしてあんな哀しい歌を歌うんだい」
「それは……」
少女にとってその質問は禁句。その問を発したほとんどの人間は冷たく拒絶されるはずだった。
が、青年の目を見ているといつも通りの反応が取れない。
「それは……か」
ポケットから黒い手帳と銀色のペンを取り出すと、ページを一枚ちぎり手早く地図を書いた。
「おそらく、君の相談に乗ってくれる座敷わらしが水曜と土曜の夜八時半頃からいるはずだ。
君が現状を望まないなら行くといい」
そう言ってメモを差し出す。
「何よ、こんなもの!」
少女は立ち上がり、差し出された紙をひったくるようにして取るとその細い指でくしゃくしゃに丸める。
「好きなようにすればいい」
青年はそう言って目を閉じた。
スピーカーからはBWV.647『ただ神の摂理にまかす者』へと変わる。足鍵盤がコラール演奏を、左右の手が副旋律と通奏低温をそれぞれ巧に奏していく。
少女はくるりと背を向けると店を出て行った。
店員が口も付けられていないグラスを下げに来る。
「どうしたんです。いったい」
「さあ、どうしたんだろうね」
青年はそう言って静かに、敬虔で充実した響きに耳をかたむけた。
1
くしゃくしゃな紙に書かれた地図は確かにこの二階を目的地としていた。
細長く急な階段の上。下のパンケーキハウスの名は、何度か級友の口から出たのを聞いたことがある。
少女がまだ、普通の少女だった頃だ。
夏。北の街最大の飲み屋街のはじに位置するためか、夜八時過ぎなのに当たりに人影は絶えない。
「まるで、禁酒時代の地下酒場への入り口みたいね」
見たことはないのにそう思った。
コーヒーの香りが階段を降りて漂ってくる。
『君が現状を望まないなら行くといい』
青年の声が彼女をここへ来させた。
決して現状を望んではいない。しかし、誰が救ってくれると言うのだろう。
誰も信じてくれないだろう。でも、嘘をつくような目ではなかった。
少女は首を振ると階段を登り始めた。
その頃、店内では……。
マスター自慢の松材でできた、十二人掛けのカウンター。そこには今はまばらに三人ほどが腰掛けているだけだ。奥には4人掛けのテーブルが三つ。テーブルは二つほどアベックで埋まっている。
自家製をこれみよがしにするのは野暮だというマスターの考えから、一番奥の右側の部屋には大型の焙煎機が一台、静かに眠っていた。
そんなありふれた姿のしかし、コーヒー好きには得難い店がここだ。
そして、水曜と土曜の夜にたむろする座敷わらしがそこにいる。
「ふあああ」
両手を思いっきり伸ばすと座敷わらしと某ライブハウスで称された、まだ二十代後半の男は首を左右に曲げた。
「ふあああ」
「疲れてますね」
カウンターの中でグラスを洗っていたバイト君がそう言って笑う。
「まあね。だってこの夏、休みなしだよ。イナカで小学校のセンセしてた方が暇だった」
そう言って香り高い液体が満たされたカップを傾ける。
「そして、この盆もたぶん、暇ではいられそうにないよ……」
男はカップを戻すとゆっくりと入り口のドアの方を向いた。
ドアを開けた少女と目が合う。
「こんばんわ、お嬢さん」
少女は目をしばたいた。
「さて、話があるんだろう」
「え……」
少女の前には栗鼠と葡萄のカップに香り高い液体が満たされ置かれていた。
イニシアチブは座敷わらしの方にあった。いつしか、彼女は彼のペースに巻き込まれている。
「エメラルド・マウンテンです。
炭酸には脱臭効果がありますから、リキュール・グラスの炭酸を召し上がってから飲んで下さい」
そう言ってカウンターの中の青年はグラスを磨き始めた。
彼女にもブルー・マウンテンとかが最高のコーヒーであるとの知識はある。が、隣の座敷わらしが勝手に注文したエメラルド・マウンテンが、どんなコーヒーなのかまでは知らない。
ただ、香水のような香だけが、この店のコーヒーがただ物でないことを知らせていた。
「ま、オレはホントならマンデリンを勧めるけれど、ちょっときつすぎるかもしれないからな。
あ、頼むから最初の一口だけは砂糖は入れないで。ここのマスターの美学に反するからね」
そう言う本人はそのマンデリンとやらを砂糖なしでデミタスカップで飲む。
少女は、カウンターの中の青年が勧めるリキュールグラスの炭酸を飲んでから隣の座敷わらしが勝手にオーダーしたエメラルド・マウンテンとやらを一口飲んだ。
「あれ? 甘い」
「コーヒーという奴は本来甘いものなのさ」 そう言って座敷わらしは自分のカップを傾ける。
「コーヒーはその他の『お茶』と比べて細工が少ないからね。豆を焙煎して砕いてお湯を注ぐ。豆の選択。焙煎の度合い。焙煎後の豆の保存。少しでも手を抜くと、全てが台無しになってしまうんだ。
キミが今飲んだ代物はおそらくはこの街最高の代物だと思う」
しばらく静かな時間が流れた。
店内には楽聖ベートーベンが現在に唯一残したとされる三大バイオリン協奏曲の一つ。ニ長調Op61が流れている。
「あの……」
少女はやっとそれだけの言葉を絞り出した。
「目の細い技術者系の野郎に言われてきたんだろう?」
座敷わらしはそう言って音楽に耳を傾ける。
曲は第一楽章のカデンツァ。バイオリニストの聞かせ所に入っていた。この部分をベートーベンは作曲していない。全てはバイオリニストの腕次第。
現在に残るのはJ.ヨアヒムと、F.クライスラーのカデンツァ。どうやらこのCDのモスクワフィルハーモニーのバイオリニストはクライスラーを模倣しているらしい。
「え、ええ」
少女は最初から座敷わらしのペースに巻き込まれていた。
「そうか……。やっぱりな。
畜生。今度会ったら地酒の一合くらいじゃ済まないからな。あの野郎」
そう言ってから向き直る。
「で、お嬢さん。何に憑かれているんだい」
座敷わらしの言葉には容赦がなかった。
2
初夏の闇の中に一本の塔が突き刺さっている。
過去において街全体に放送や、通信の恩恵を与えていた一本の塔は、街の拡大とともにその設置されたアンテナの数を減らし、現在に残るのは、ただ観光の名所としての名誉だけだった。
その足の下。数多くのベンチが並ぶその場所。ベンチの一つに下に少女と座敷わらしが腰掛けている。
あの店でコーヒーを飲み終えたあと、ここに来た。
そして、この場所でぽつぽつと語られるのは少女の過去。
何故か、この老けた座敷わらしには隠し事ができない。
それは、あのライブハウスの青年と同じだった。
少女はゆっくりと語りだす。
ただ、歌が好きなだけだった幼女時代。
幼稚園のお遊戯会では彼女が主役だった。
なのに、小学校に上がったとき、彼女の前に巨大な壁が立ちはだかる。
クラスメイトの一人は音楽教師の娘。
我流の少女と、幼いながら技法を使うクラスメイトの歌声。少女は初めて、完璧に負けを悟ったのだった。
普通の少女になれば良かったのかもしれない。が、少女は諦めなかった。
そして失意の少女に、『声』が現れ、『声』は、少女に美声を与える代わりにわずかな代償を求めた。
少女はクラスメイトに勝る声を手に入れ、そして……。
可愛がっていた小鳥が死んだ。
その時は何の関係もないと思ったのだが……。
中学の時、今の高校の声楽科に進むために悩んでいた時、再び『声』が聞こえた。
求める物はわずかな代償。
そして、少女は受け入れ、今度は長いこと家を守っていた愛犬が死んだ。
幼い時から一番の友達だったのに。
「その時なんとなく、おかしいとは思ったんです」
少女はそっとため息をついた。
『声』がする度に、大事な物を失ってしまう。
少女はしかし、その想いを打ち消した。その時までは『偶然』だと思いこむことができたのだった。
しかし…。
「一年ほど前のことです」
少女は優れた才能の中で苦闘していた。
有名私立高校に集った才能の中で、少女の才能はその他大勢でしかなかったのだから。彼女以上の才能の中で苦闘する少女に、再び『声』が聞こえた。
夏の発表会。その主役になりたければわずかな代償を。
少女は頷いてしまった。
「だから……」
少女の瞳に涙がにじんだ。
夏の発表会で中心となるはずだった三年生は、自らの不注意によってコンディションを崩した。その代役が、少女に与えられ……。
少女はその役を見事に果たした。
そして、少女を一番可愛がってくれた祖母がその会場で帰らぬ人になる。
もう、偶然ではすまされない。目を背けていた事実が突きつけられた。
それ以来の恐怖。
そして、今度『声』が聞こえてきたときの代償は何か。
少女の中で答は出ていた。
「信じていただけますか……」
しかし、座敷わらしは黙ったままだ。
「あの……」
もう一度口を開く。
と、今まで黙って頷いていただけの座敷わらしが突然しゃべりだした。
「いや、立派だなあ……。
お嬢さん、高校生だろ。
『信じていただけますか』か。
綺麗な日本語だねえ。よっぽど親御さんと小学校、中学校、高校の担任の指導が行き届いていたんだ」
「ふざけているんですか!」
少女の形の良い眉がつり上がる。
「『歌う人形』……か」
それにかまわず座敷わらしが言葉を継いだ。
「『歌う人形』?」
何故か、その単語が少女の心に波紋をもたらす。
座敷わらしは一つ頷くと頭をかいた。
「信じてるよ。
オレは、そんな例を山ほど見ている。
ところで、オレに歌って見せてくれないか? そんな難しい歌曲でなくていい。そこいらの歌謡曲でいいからさ」
少女はこくりと頷くとその場に立ち上がる。
ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
今流行している『純愛』をテーマにしたポップス。
愛を失った女の哀しみの歌。
二度と戻らぬ恋人を想って涙を流す歌。
水銀灯に照らし出された小さな広場をステージに少女は歌い続けた。
白い水銀灯の光。地面に投げ出された白い円に影を作って蛾が舞っている。
が、座敷わらしは舞う蛾ではないものを見ていた。
ぽとり。ぽとり。
光の中で急速に力を失って地面に落ちていく蛾がいる。
少女の歌声が高まるのにあわせるかのごとく、蛾達が地面へと落ちていく。
それは、偶然ではない。他者の命を糧にして紡ぎ出される美声。
それを才能といえるなら、少女はまさしく才能の持ち主
そして、座敷わらしはその背後で哄笑する影を見た。
3
座敷わらしが惚けていた。
日曜の朝。いつもの喫茶店。
が、これは彼にしてみると珍しいことといえる。
視線の先には、コーヒーの粉と湯気で燻された天井。bossのスピーカー。
コーヒーがメインの店でも結構音には気をつかっている。ただし、ミルから舞い飛ぶコーヒーの粉がCDプレーヤーのレンズにこびりついて今一つ音の輪郭がはっきりしないのはしかたがない。
今かかっているのはモーツアルトのヴァイオリン協奏曲K.219。「トルコ風」。
第三楽章の中間部。スタッカートでフォルテシモの跳躍するメロディと、伴奏の叩きつけるリズムが当時の偏見、「トルコ」を連想させた曲だ。
ま、現在の眼鏡、カメラ、出っ歯の「日本」の連想。タローさんよりはましかもしれないが。
しかし、今の彼には聞こえていないかのようだ。
カウンターの中ではこの店の一方の名物。髭のおじさんが小さな手帳に何か書き物をしている。
静かすぎる日曜の朝。
そんな中、座敷わらしの頭の中はめまぐるしく回転していた。
実は、あのあと不器用な襲撃を受けている。
決して喧嘩慣れしているとはいえない、いや、永世中立を標榜しているこの男が苦笑してしまうくらいの代物。
少女と別れた後に、愛車へと向かう彼を襲撃者は待ち伏せていた。ご丁寧にもフルフェイスのヘルメットといういでたちで。
喧嘩をする時にこれほど向いていない格好もない。視界は狭い。しかも、バイザーが急所をはっきり教えてくれる。
「おっさん、いい気になって人の女に手を出すなよな」
襲撃者はそう震える声で言った。
「はあ」
座敷わらしはそうため息をついた。人を襲うのに四の五のぬかす馬鹿はいない。なのに何だかんだぬかす野郎はこういった事のド素人。
しかも、語尾が震えている。
こう言ったことの評論には玄人。そんな彼の腰に巻いた、黒い「ザ・ノース・フェイス」のウェスト・バックには二つの凶器が隠されていた。
本来はウォークマンの入れ物として機能しているバックに入っている凶器。
その一つは単三乾電池を二本使用するインストルメンタル・マグライト社のマグライト。
マグライトの親玉。人間の鎖骨くらいは砕ける単一乾電池六本の代物には破壊力を譲るものの、やはり突っ込んであるアメリカ製のスチールのグリップをつけるならばこのミニ・マグライトも充分に凶器になりうる。
また、尻の穴にはナイロンの細引きが結びつけてあるから、振り回してやってもいい。
「しかし、善人過ぎる」
そう座敷わらしは一人ごちた。
彼の想像が正しければこのフルフェイスの君は王女様を守る騎士なのだから。
そして、おそらくは次の『声』の犠牲者。
こんな高校生のガキの鼻柱にスチールのマグライトを叩きつけて砕いても自慢にもなりはしない。
ならば。
座敷わらしはもう一つの凶器を取り出した。スタン・ガン。あまりにも強力故に日本ではある日から突然非合法品になってしまった代物だ。むろん彼が持っているのはそれ以前に購入した本物。
まあ、こっちの方が惨いという話もある。
世の中、拳で片が付くと信じる幸せな世代を生きる少年と、すっかりひねてしまった老獪な、少年の言うところの「おっさん」の戦いは一瞬。
少年はゼロハンにまたがらず、「おっさん」は悠々と愛車にまたがったのだった。
その後に痺れて痙攣する少年を残して。
「電話が来たよ」
髭のおじさんがコードレスの受話器を座敷わらしに差し出した。
「あ、すみません」
座敷わらしは神妙な顔をして受話器を受け取る。
少女が通う声楽科を持つ高校はこの街には一つしかない。
そして、幸いなことに座敷わらしにはその学校にコネを持つ人間の、いや、市内全ての学校にコネを持つ人間の知り合いがいたのだった。
「よう、わかった?
何? 留学の話が出てる? うん。
で、そいつの行き付けの喫茶店は? うん、……条の? ……丁目? うんうん。『ゼロ』って喫茶店だな。
サンキュー。じゃあ、今度旨いウィスキーでも奢るよ」
そこで一つ首を振る。
「あ、そうだ。五太郎だけどな。
うん。
プリント・イメージを呼び出すときにな、四倍角があると暴走するのはあれ、何だ?
何、仕様だって?
はあ、わかった。新バージョンもらうよ。うん」
ま、世の中には一般人の訳の分からない会話もある。
「さて」
座敷わらしは受話器をおじさんに渡すと立ち上がった。
「ありがとうございました。
しかたがないからお仕事で、まずいコーヒーを飲んできます」
「大変だね。用事すんだらまた、おいで」
髭のおじさんはおだやかにそう言った。
「そうさせてもらいます」
座敷わらしは片手を上げるとそう答え階段を降りていった。
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