4
「秋の夜更けに、何を・・・。おやあ、どうやら穏やかじゃないなあ」
八雲が、荒い息を整えながら立ち上がると、その目の前に痩せた長身の男が着ぶくれした姿で立っている。
「人生の先輩として言わせてもらうけど、集団暴行はやめなさいよ。集団暴行は」
「そんなんじゃないですぅ。勝さん」
倒れている竜之介が情けない声を上げる。
「おやあ、その声は大村くんじゃないか。いくら何でも、人生、集団暴行で捨てちゃダメだよ。ということは、君は大村君の友達の変質者寸前君・・・」
八雲はしかし、その言葉を半分も聞いていない。竜之介が喋っている。
その事実が八雲の意識に到達するまで、しばらくの時間がかかっていた。
「大村ァ」
八雲はあえぐようにして駆け出そうとした。
「坂本さん。おれはいいから、神無月さん。よろしく。こっちは腰が抜けただけだから」
「おや、被害者は神無月さんかい。やっぱり、バイト先の同僚に淫らな感情を持ってしまった若者二人がこれ幸いと・・・」
「違います」
「違います」
思わずハモる二人だ。
「ついでに言うと、変質者寸前じゃありません。こいつ、坂本八雲っていいます。
坂本、こちらバイト先の社員の勝康成さん」
「ほう、彼が話に聞く『碧丘の坂本八雲』君かい」
のんびりした康成の言葉が、辺りの張りつめていた空気を四散させていく。
「どんな話になっているのかは知りませんが、坂本八雲です」
「ま、いいや、ともかく、神無月さんも介抱しないとならないし、家、近くだから家においで。ラーメンくらいなら出るよ」
そう言う話だったのだが。
「誰だよ、侘びしいポテチや清涼飲料水のボトルの転がった四畳半でインスタントラーメンだなんて言ったのは」
八雲が竜之介の脇腹をつつく。
「そんなこと言ったって、普通そうだろう」
「どうかなさった?」
そんな二人に、這々の体でここにたどり着いた四人を出迎えた美女が声をかけてくる。
「な、なんでもありません」
「こ、この、ラーメン美味しいです」
「そう、よかったわ。お代わりもありますから。存分に召し上がってね。若いんだもの。軽いものでしょ。
康成。私、女の子の様子見てくるから」
「ひとつ、頼みますわ」
康成は自分の前に置かれた湯飲みから梅昆布茶をすする。
小綺麗な集合住宅の一室。そのキッチンで二人は大盛ラーメンを饗されていた。
ある漫画家が二〇世紀に予言したとおり、ラーメンは二五世紀でも大衆食としての地位を失ってはいない。
まだ、意識の戻らない衣舞は、くだんの美女がベッドルームへと連れて行った。
「奥様ですか」
竜之介が、小さな声で尋ねる。
「いえいえ。単なる同居人です」
あっさり切り替えされる。
「ところで、食べてからで結構ですから、良ければ事情を教えてもらいましょうか。どうやら、僕も関わってしまったようですしね」
その言葉に黙ってラーメンを啜る八雲達二人だったが。
「うわ、おいしいです。これ」
竜之介が感嘆の声をあげる。
「でしょう」
満足そうに笑みを浮かべる康成だ。
「しかし・・・これ」
坂本が頓狂な声をあげた。
「どうした。坂本さん」
「勝さん、こ、これ、地球の本節じゃ、ないんですか」
「なんだ。それ」
「えーい、村さんは知らないのか。我らが出生の星、地球は土佐の鰹節。そのなかでも貴重品の本節だ」
「そ、それは解るが、坂本さんは喰ったことがあるのか」
「ああ、師匠の所に来た本節の出汁をご馳走になったことがある。しかし何故、本節が」
わなわなと両手を握りしめたりする八雲だ。
「あの人は、なかなか謎の多い人ですからねえ。おかげで同居しはじめてから体重が増えてしまいました」
とてもじゃないがそうは見えない。
「で、もういいかな」
「はい、じゃあぼくが」
2杯目のラーメンも舐めるように食した竜之介が康成に向き直る。
「始まりは、この坂本八雲が、衣舞ちゃんに恋情を持ったことから始まります」
「なにも、そこから始めるか 村さん」
「何事も原点が大切だ」
いつまでもらちの明かない話だが、そんな二人をにこにこと見つめる康成だった。
「ともかく、今日も今日とて、変質者寸前の行動。これでは友人として余りにも不憫。そういうわけで、休憩室に拉致監禁。神無月さんへの告白タイムを演出したんですが」
そこで、大きく溜息をつく。
「見事に失敗。神無月さんは毛筋ほどの動揺も見せず、勤務を終えてしまったのです。
で、その反省会を駐輪場で行っていたところ、突然坂本が『何か変だ』と言い出しまして、ついたところがあの場所、で神無月さんが襲われていて、救いに入った私たちは、私は惨敗。坂本は惜敗と。そう言うわけです」
「ということは、君たちはただの通りすがり。襲われていた理由も何も解らないのかな」
「坂本が何故、襲われていたことが解ったかを始め、僕は何も解りません」
言い切る竜之介だったりする。
「坂本君、何か補足することは」
「いえ、特に」
はっきりとした一瞬の記憶。砕けたマスケラの下にあった真っ赤な髪と、瞳。その顔はあまりにも衣舞に酷似していた。まるで双子のように。しかし、そのことはここで言ってはならないような気がする。
「で、坂本君、君はどうしてそんなことが解ったのかな」
「それは・・・。解りません。ただ、もう、身を灼くような焦燥感があって、神無月さんが危ないような気がして」
「ふーむ。大人から言わせてもらうと、二人とも、この一件、深入りはしない方がいいと思うんだがね」
ただ、そこにいる三人とも、そうならないことを良く理解していたのかも知れない。
5
「しかし、旧式だな、それ」
「文句を言うな。文句を。見かけは古くても最新型なんだから」
竜之介は黒い薄手の弁当箱のようなAIデバイスのキーボードを叩きながら言う。静まりかえった室内にメカニカルスイッチの音が密かに響く。
「しかし、いつ見ても思うけど、マニアだよなあ。村さん。今時、キーボードだもんな」
現状に於いてほとんどの情報端末はスティックタイプだ。入力デバイスも静電反応型シートをスティックから引き出して使う。ディスプレイもシートディスプレイで必要充分な情報が得られる。それをこの竜之介の機械は今時、余ほどの好き者でもない限り使わないキーボードにTFTを使用したタイプだ。言ってみれば半導体全盛時代に真空管に固執したオーディオマニア。電気製品と化した内燃機関付き乗用車を否定し、純粋な機械としての旧車を愛した車エンスーのようなものかもしれない。
「でもな、今風のは追従してくれないんだ」
そう言う竜之介の指の動きは確かに素早い。
「充分、普通のでも対応できると思うけど」
「文句を言わない。文句を言わない」
確かに八雲は文句を言える立場ではない。あの事件の翌日。ここは校内の生徒用AIデバイスルーム。週末の校内には残っている人間はほとんどいない。そんな中で、竜之介と八雲は不正なデータを入手しようとしていた。
「しかし、ここのプロミネンス・ウォールってすごくきついんだろう」
「ああ、いつの時代も教育関係のアクセス制限には凄いものがあるからなあ」
「そんななのに、なんでわざわざここから」
「そこが盲点なんだよ」
画面の表示がふっと変わる。
「アクセス制限フリーのとこからのアクセスはかえってきついし、足跡もたどりやすい」
「その場所からさっさと情報入手したら逃げてしまえばいいじゃないか」
「はあ。詳しく説明しても聞く気もないだろうからそうはしないが、そんなことして見ろ。あっという間にナンバー辿られてご用だ」
予兆は二一世紀はじめからあったサイバーテロの嵐は、結局二一世紀後半に爆発。『人が地球以外に住むことは聖書に書かれておらず、それを実践することは神への冒涜である』とする聖書至上主義者。彼らによる恒星間移民船大量喪失という悲劇を人類にもたらすことになる。
その結果、サイバースペースの制限は非常に強いものとなって人類に被さることになる。更に、それ以降の数々の歴史的な事件によって、その規制は今も続いているわけだ。
「このサイバースペースにジャックインするためにCPUの固有コードが必要なのは知っているよな」
「ああ」
あまり自信なげに八雲が応える。
もはやサイバースペースはあまりにありきたりで、空気のようなものとなっている。それをいちいち考える人間の方が希少だ。
「で、今我々はこのサイトに正式に学校の自由研究の一環としてアクセスしている。これは誰に恥じることない真正直なアクセスだ」
「確かに、こっちではそう動いているように見えるけどね」
教室の旧式AIデバイスのグラスディスプレイは医療・薬品メーカーのサイトを定期的にページをめくっている。時々カットアンドペーストまで行う芸の細かさだ。
「で、そのアクセスの下でもう一本、本命を潜り込ませているわけだ」
問題は竜之介のマシンだった。目まぐるしく変わる画像はしかし、珍妙なものだった。
「本当はこんなものではないんだぞ」
なにやら遙か昔のダンジョン型RPGのような表示がなされている。それが凄まじい高速で移動している。
「サイバースペースは人間に認識できるものではないんだな。これが」
「はあ」
「で、ヴィジュアル化しているんだが。しかし、『ライデン』で保つかなあ。上級ソフトはスペックリミットぎりぎりで使えないから。お年玉でCPU変えようと思っていた矢先なんだ。と」
「どうした」
「見つけた。おし撤収」
竜之介の手の動きが更に速くなる。たしかに、これではタッチパネルなどでは対応し切れまい。この非合法の複線アクセス。痕跡を消し脱出するためには、プログラムだけでは対処しきれない。何事も戻す方に3倍の労力を必要とするという意見はおそらく正しい。
「しかし、村さん、時々思うんだけど、いったい何者だい」
「ある時は古典ヤングアダルト小説収集家。またある時は、偏向したアニメマニア。しかしてその実態は。ただの中等教育生徒。大村竜之介だぁ」
その声と共にマシンのディスプレイがぱちんと閉じられた。
「撤収終了。あ、そっちも終わらせてかまわないよ」
「あ、ああ」
言われるままに学校のAIをカットする。
「でだ」
右手で取り出したメモリーチューブを弄びながら、竜之介が難しい顔をする。
「初等教育の『道徳』でな、友達が悪いことをする時は止めさせるのが本当の友達だって習ったんだが」
そこで、手を止めた。
「常識的な友人として言わせてもらえば、今回の件からは手を引くべきだ。そう言いたいんだがな。襲われるような女の子でなくたって、坂本さんなら引く手あまただろうに」
八雲が笑いながら応える。
「俺だって理性が叫んでるさ。しかし」
二人の声が合わさる。
『お医者様でも、草津の湯でも、恋の病は治りゃせぬ』
「それに村さん、常識的な友達かい。それは初耳だなあ」
「はあ、初めて同じクラスになったときに気づくべきだったよ」
そう言ってチューブを八雲の方へと放る。
「幸運を、たぶんそれが必要なことをするんだろうから」
「おい、まだ残ってるのか」
その時、AIデバイスルームの管理教員、二人の担任がドアを開けて顔を覗かせた。
「大村、坂本、お前さんら、いい加減にしとけよ」
「あ、高杉先生、今帰ります」
「先生、さようなら」
二人はそそくさと部屋を後にした。
5
その、まるっきり髷を結った人間が出入りするような佇まいの剣道場とそれに付属するような小さな家は、八雲の自宅からほんの二、三十分のところにあった。
僅か二年前までは、毎日のように通っていた場所。そして、二年前のあの日からあえて避けていた場所でもある。
自然建材を模した合成建材だが、伝統的な建築法で建てられた家の客間に通された八雲は落ち着かずに身じろぎした。
『まいったな。なんで客間なんだ』
内弟子同然の頃、掃除に入ったことは何度かある。しかし、客として入ったことはない。今日も道場の方か、もしくは師匠の書斎の方に招かれるかと思っていたのだが、客間だった。床の間には幕末の剣豪。千葉周作の書と師匠が自慢する軸が二年前と同じようにかけてある。
その軸を前に出された座布団も当てず、八雲は黙って正座のまま、師匠を待っていた。
遠くで子供達の声が聞こえてくる。夕刻。秋の日は客間の南に開け放たれた濡れ縁からも真っ赤な光を差し込ませる。
『紅、あの、襲撃者は一体』
その紅が昨日の記憶を蘇らせる。
あの衣舞にそっくりの顔を持った娘は何だったのか。なぜ、彼女を襲ったのか。
結局、彼らが康成の家を辞するまで、衣舞は奥から出てくることはなかった。だから、何故襲われたかは、襲撃者が何者なのかは依然不明のままだ。
『そして、何故、俺はそれが解ったんだ。虫が知らせてくれたか。既に赤い糸でも繋がってるんじゃあるまいな。いや、そんな』
思わず笑みが浮かんでしまう。
「おい、八雲。久し振りに会ったってのにどーいう面してんだ。おめえはよぉ」
八雲の楽しげな空想は、その声に中断させられてしまった。
「し、師匠」
正座のまま文字通り二〇センチほど飛び上がる。
「おうよ、その師匠が二年振りに尋ねてきたすっかりご無沙汰の弟子に、稽古が終わって水も浴びずに会いに来てみたら、おい。その弟子が狂ったように笑ってやがる。え、こっちはどーいう反応すりゃあいいんだ」
たんたんたんたんとまくし立てられて八雲としては声もない。
「師匠は相変わらずお元気そうで」
「おうよ、もう八〇を過ぎたがお前に関係なく元気にさせてもらってるよ」
師匠こと千葉利一はこの地で五〇年以上剣道場を開いている。
その、どう見ても六〇前にしか見えない顔を八雲に近づける。
「で、今日はどうしたい。二年も顔を出さなかった愛弟子が急に顔を出しやがったんだ。なんか用があるんだろうさ」
「はい」
そう答える八雲だ。
「そうかい」
どかっと床の間を背に腰掛ける。沈黙。八雲は師匠の目をただ見つめるだけだ。
時が流れる。
「ふーん。ちったあまともな顔になったか」
しばらくして白髪頭をかきながら師匠が言った。
「用ってのは、預かってるものを返せっていうんだろう。義理堅いこった」
「返していただけますか」
「返すも何も、ありゃ、お前が勝手においてったもんだ。返すのは吝かじゃねえが、何につかうね」
「守らねばならないものができました」
静かに八雲は答えた。
「ほう、剣が目的だったガキがよく言う」
フンと鼻を鳴らした。
「が、至極いいや。剣は所詮手段に過ぎねえ。それが二年の間にようやく解ったようだな」
「その二年間ですっかり鈍りました」
「そうかよ」
師匠は面白そうに言った。
「そうは、思えねえがな。確かにありゃあ、大事だった。が、それでおめえは剣をやめた。やめられる程度の剣だったってことだ。
ところが、今度はその剣を再び握ろうってんだ。面白いねえ。
え。剣を離すほどの大事は今も昔も変わってねえ。が、今のお前には大事じゃねえってことだ。面白いぜ、これはよ」
からからと笑う。
「おい、八雲。オンナでも出来たか」
「え・・・」
ここまであからさまに言われては絶句するしかない。顔に血が上った。
「昔っからおめえは素直すぎるんだよ、だからここ一番で鼻毛読まれて強くなれねえ。らしいってば、らしいんだがな」
そう言って立ち上がった。
「おし、情けねえ顔してたら客として追い返す所だったが、こう、面白い顔されたんじゃ追い返すわけにもいかねえ。いるもん返してやるからこっちへ来い」
すたすたと歩き出す。八雲が慌てて後に続いた。
「ばあさん、八雲に飯だ。なんか用意してやってくんな」
勝手の方へそう大声を上げるとそのまま書斎へとはいる。あとに続く八雲にそこいらへ座るように促すと、乱雑な室内の一面。もの入れの戸を開けてかき回しはじめた。
やがて、細い合皮のケースを取り出す。
「おう、これだ。これ。ほれ」
ぽん。と八雲にそのケースを放る。
「有り難うございます」
そう言ってケースを開く。中には一振りの木刀が納められていた。
八雲の目が砂漠で水を見つけた旅人のように輝く。
「そいつも、道具にすぎねえ。あんまり思い詰めるんじゃねえぞ」
返事はない。八雲は2年振りの自分の血と汗を吸い込んだ分身を見つめて動かない。
「けっ」
師匠はそんな弟子を苦笑いしつつ見ていた。
廊下から旨そうな夕餉の匂いが流れてくる。
「ま、時間はあるんだろ。久し振りに飯、喰ってけ」
「は、はい」
その言葉に八雲は夢から覚めたように顔を上げる。あわてて木刀をケースに収める。
「ま、今度来るときは、そのおまえの大事を連れてくるんだな。そうしねえと敷居をくぐらせねえぜ」
「そんな、師匠」
「二年も敷居跨がなかった男が何言うか」
師匠がからからと笑った。
7
「しかし、一体なんなのか」
竜之介は昨日のことがなかったかのように仕事をこなしている衣舞を見ながら舌を巻く。
週末の店内は結構の入りだった。そんな中、彼女はいつものようにやってきて、いつものように仕事をしている。
竜之介も学校帰り、いつものように店に来てバイトをしているわけだ。
「そういえば、彼女、どこの学校だっけ」
何も知らない。何も解らない。
康成は何も言わない。だから、竜之介も何も聞く必要はない。
第一、八雲がストーカー状態になるまでは、あまり親しい間柄でもなかった。ただの同僚。その他大勢の一人に過ぎない。
更に竜之介の色々な過去の伝統文芸によって偏向した趣味は、彼女を興味の対象としていなかった。
「第一、正統派過ぎるものな。もう少し元気というか、性格がきついというか、髪の毛はロングの黒に限る。いや、・・・であればおかっぱも可か」
と、江戸時代の生類憐れみの令、昭和平成時代初期の治安維持法などとともに、三大悪法と言われる二一世紀冒頭の某法に引っかかりかねないことを考えてしまう竜之介だった。
確かに、栗色の地毛に白い肌。慎ましげに張った鼻梁。鳶色がかった瞳は静かなものをたたえている。間違いなく正統派美少女ではあった。以前、百人並と評した竜之介だったが、それは控えめに過ぎた。
しかし、目立たない。
「そういえば、この娘、笑ったところを見たことないな。それか」
半年ほど一緒に仕事をしているが、笑ったところを見たことがない。
「それじゃ、あがります」
静かにそれだけ言うと竜之介の方に会釈するとレジを出た。
「大村さん。どうしたんですかあ」
衣舞の背中を見送った竜之介に既にあがった女子バイトが声をかけてくる。
これから週末の繁華街にでも出るつもりか。なかなか勇ましい面相だった。
「ああ、もしかして、友人と神無月さん争う気なんですか。わあ、いいなあ。愛情の前には友情も壊れてしまうんですね。愛し合う男達の前に現れた美少女。そして三角関係と愛憎。なんてス・テ・キ」
と、天井を見上げる。
少しだけ彼女の言葉を想像してげんなりしてしまう竜之介だった。少なくとも彼には同性を恋愛対象と見る趣味はない。
「吉田さん。お化粧、週末モードにはいるのはお店出てからね。一応、お店の中ではバイトなんだから。『我ら、お給料のために』」
一応、古顔の竜之介としてはそういう注意も必要になる。
「はあい。『我ら、お給料のために』」
足取りも軽く出ていく。
「おーい。大村君、あんまり、変なものはやらせないでくれよ」
女子バイトが引き上げた後にレジに入ってきた康成がそう言う。
「本屋で、火の話は御法度だよ」
「この人も解らない人だ」
昨日、自宅を訪れてからますます解らなくなっている。
「ま、人なんぞなにやらかしているか解ったものではないけれどね」
そう呟くと続けた。
「成功を祈るぞ。坂本さん。心の中で応援するだけなら誰でもできるけどな」
その頃、密かな応援を受けた八雲の姿は師匠宅を辞した後、公園にあった。
「襲撃側が条件を変更する必然性はまったくない」
それが結論だった。
結局の所昨日の襲撃は成功の一歩手前まで迫っていたことは間違いない。第一の闖入者は容易に排除が可能だった。
しかし、その排除が容易な第一の闖入者。八雲達が発した雑音が第二の闖入者を呼び。計算外のファクターの連続に襲撃者は実行を断念した。
当然、被襲撃者側としては、何らかの対策を講じるのが常識といえたが。
竜之介の連絡で、衣舞がいつもの通り出勤し、いつもの通り帰宅したことは解っていた。
「まったく、いつもの通りだって言うんだから。呆れる」
古いカメラの三脚に、やはり古い双眼鏡をねじ込み、格好だけは天文観測という形で公園の暗がりに佇む八雲はそう呟いた。
まるで、襲撃者されることを望んでいるかのような行動だった。
「いったい、何がしたいのか」
それは自分にも向けた疑問だった。こんなことをしていても何にもならない。それは痛いほどよく解っているつもりだった。
他の場所で襲撃されたらどうするのか。一日中張り付いているわけにもいかない。
しかし、居ても立ってもいられなかった。何かをしたかった。たとえそれが自己満足であっても。
「ま、ホルモン全開のお年頃さ。お互いな」
そう竜之介に言われても仕方がない。
「しかし。ここまで迷うとはな。本当に変質者になった気分だ」
そう呟いたときだった。
人の気配がした。
「来た」
夜の公園をいつもの通りに、衣舞が歩く。街灯の光に照らされた少女の横顔を八雲は視界の隅に置きながら、あたりを警戒する。
公園は誰もいない。やがて、視界から衣舞の姿が消えた。
後はできることは何もない。この先の自宅に押し掛けるわけにもいかない。ただ、一度襲撃された場所に張り付くしかない。
「なにしてんだかな」
ほうと息を吐くと腰を伸ばした。
「何」
誰もいないはずの公園。間違いなくそうだった場所に誰かがいる。
八雲はそっと振り返った。いつのまにか右手には一本の木刀が握られている。
街灯の光の届かぬ闇。そこから一つの人影が現れた。
静寂が辺りを支配する。
襲撃者が真っ白いマスケラを外す。紅い髪の少女。昨日、八雲が見たものは幻ではなかった。衣舞そっくりの少女。その口元が嘲笑の形に歪む。抜く手も見せずにその手から刃が放たれる。
コーン
黒い刃が八雲の持つ木刀が弾く。
それが合図だったかのように。少女は八雲へと飛びかかった。
|