5月4日 アトラスを越えて

    アトラス山脈はモロッコをふたつの顔に分ける。
    北側はマラケシュ、フェズといった都市に代表される「城壁とメディナの世界」であり、南側は広大な自然が広がる「オアシスとカスバの世界」だ。
    巨人の名を冠されたこの山脈によって地中海の温暖な気候は遮断され、その両側に異なった気候風土を産み出している。
    アトラス越えのルートは3種類ある。
    ひとつはフェズやメクネスからモワイヤン・アトラスを越えてエルラシディアに入る方法。私たちが来るとき夜行バスでたどったルートだ。
    それからマラケシュからオート・アトラスを越えてワルザサートに入る方法。
    そして最後はアガディールやタフロウトからアンチ・アトラスを越えてワルザサートに入る方法だ。
    私達はワルザサートからマラケシュへ、つまり二番目の方法で帰ることにした。

    朝8時半発のマラケシュ行きのバスはほぼ満席状態だった。
    CTMバスは全席指定で、冷房も完備されている。
    こんな立派なバスに乗るのは、モロッコに来て初めて。
    地元の人々に交じって観光客らしい欧米人も何人か乗っていた。
    荷物を預けるとお金を取られるので、リュックはバスの中に持ち込むことにした。
    網棚に入りきらず足元に置くことになって、少し窮屈になってしまった。
    たいした額ではないので、預けた方がいいかもしれない。



    ワルザサートの町を出ると、赤茶色の不毛の荒野が広がっていた。
    その中にそびえる赤い岩山とヤシの緑が迫力ある景色をつくり出している。
    岩山の側面には切り取られたような地層の模様が浮かんでいる。
    映画「アラビアのロレンス」のロケはこのワルザサートの周辺で行われたらしい。
    次々に現れる荒削りな景色に一時も目が離せなかった。
    景色はめまぐるしく変って行く。
    気がつくとバスは川沿いを走っていた。
    川の周囲の緑と、時折見え隠れする赤い壁の集落。
    ここ数日で見なれたと言えば見なれた景色なのだが、やはり目を離すことができない。
    やがて、その向こうに白く雪を抱いた山が見えてきた。山は見え隠れしながらだんだん近づいてくる。

    途中、バスはいくつかの小さな村を通過した。
    このCTMバスは直行便なので途中の村には止まらない。
    それはそれで快適なのだが、町に着くたびに止まっては人々の話し声であふれかえっていた民営バスがちょっと懐かしい。
    かなり高度が高くなっているのか外は涼しそうだ。
    道行く人の着ているジュラバも砂漠地方のような麻の布ではなく、綿か毛のような厚手の物のようだ。
    頭にもターバンでなく毛糸の帽子をかぶっている。

    バスはなおも山を登って行く。
    豊かな緑の山も、高度が高くなるにつれて木が少なくなってきた。
    岩の多い山肌に、背の低い潅木がまじる。
    道路の幅が狭くなっていて、バスの車窓から見えるのはすぐ横の斜面だけだ。
    時々、短い草が所々生えるだけの斜面にヤギの群れが姿を見せたりする。
    仰ぎ見る空は抜けるような青だ。
    雪と見まごうばかりの白い雲が、ものすごい速さで動いていく。
    影が、山肌を同じ速さで通り抜けて行く。

アトラス越え

    やがて視界がひらけて峠にさしかかった。
    ティスカ峠、標高2260メートル。
    ものすごいカーブの連続だ。
    バスはうなるようにして急な坂道を進み、速度を落としてカーブの曲がる。
    それを何度も何度も繰り返し、だんだん高度を上げて行く。
    カーブで速度が落ちるときは絶交のシャッターチャンス。
    重なってどこまでも続く山並み。
    見下ろすと、私達が今越えてきた道路が白い蛇のように山肌をうねっている。
    あんなところを通って来たのかと怖くなるくらいだった。

    山間の小さな村でバスが止まった。
    休憩のようだ。何の説明もないのでいつまで止まっているか分からない。
    バスを降りてみると、道沿いの店からはタジンやケバブのいい香りが漂っている。
    時間はまだ11時前、まだお腹はそんなにすいていない。
    マラケシュまでは6時間以上かかると聞いていたので、もう一度くらい休憩があるだろう。
    店には入らないで、人家の途切れる百メートル先くらいまで歩いてみた。
    山のひんやりした空気が気持ちいい。
    道の左側は緑濃い谷になっていて、その向こうに山が迫っている。
    道端の木は白い花を散らしている。
    緑豊かで静かな村だった。


    みやげ物屋をひやかしながらバスに戻ったが、30分以上たってもまだバスは動かない。
    やっぱりここで昼食を取るんだったかな、と思いつつ、これだけ時間が経ってしまうと、ゆっくり食べることはできないだろう。
    そんなことを迷っているうち、やっとバスは発車した。


    しばらく眠っていたようだ。
    気がつくと、外の景色は赤い岩山でなく緑の大地とゆるやかな山々に変っていた。
    ヤシの木ではなく針葉樹の林が続く。
    穏やかな平原の景色は、これまで見てきたダイナミックな景色の後では少し退屈だった。
    逆ルート、つまりマラケシュからワルザサートに向かえば、この景色の変化はもっとドラマチックだっただろう。

    道路に車が増えてきたなと思ったら、もうマラケシュの町に入っていた。
    2時を過ぎたところだ。
    思ったより早くマラケシュに着いてしまった。
    結局、休憩はあの一回だけだったようで、昼ごはんは食べ損ねてしまった。

    マラケシュはモロッコのほぼ中央に位置する古都。
    赤土の日干しレンガで造られた赤い街。
    モロッコのすべてがこの町に凝縮されているとも言われている。
    さすがにバスターミナルは大きくて、いくつものホームにバスが待機し人があふれている。
    久々に人の熱気と車の吐き散らす排気ガスに包まれて、しばし呆然としてしまう。
    砂漠やオアシスののんびりしたペースに慣れてしまっていたようだ。
    少し緊張してリュックを肩にすると、まだ陽の高いマラケシュの町へと歩き出した。

(モロッコ旅日記 おわり)

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