![]() 4月30日 砂漠へ ―――砂漠で一面の星を見るのが夢だった。 バスは闇の中を走り続けていた。 エルフードへ向かうこの夜行バスの中で、眠ることはほとんどできなかった。 夜通しスピーカーから大音量でアラブ音楽が流れているし、町に到着するたび明かりが付いてドカドカと人が乗り降りする。 そしてなにより安眠を妨げているのは寒さだった。 モロッコがこんなに寒いなんて思わなかった。 持ってる服すべてを着込んで、さらに足にバスタオルを巻きつけて、それでも寒かった。 けれど、そのおかげでいいこともあった。夜明けを見ることができたのだ。 熟睡していたら見逃してしまっていたかもしれない。 闇の色が端からだんだんと紫に薄らいでゆき、やがてオレンジ色へと染まってゆく。 その中に椰子の木や岩山の形が幻のように浮かび上がってくる。 その輪郭がはっきりした頃、眩しい光が射し込んできた。 美しく幻想的な夜明けだった。 途中の町、エルラシディアを出る頃にはすっかり青空が広がっていた。 乾いた裸の岩山が続き、これまで見てきた地中海の湿潤な景色とはあきらかに違う世界にやって来たことを実感する。 右手には川が流れているのか緑に覆われた谷が続いていて、グランドキャニオンのような岩山とのコントラストが美しい。 車窓の景色に目を奪われているうちに、バスはエルフードの町に到着した。 エルフードは砂漠への入り口に当たる町だ。 バスを降りるとすぐ、まだ若い青年に声をかけられた。砂漠へのツアーの勧誘のようだ。 勧められるままに椅子に座り、ミントティーを飲みながら交渉する。 一泊二日で砂漠までのランドローバーとベルベル人のテント訪問ツアー、ホテル代込みで600DH(1DHは約10円)。 二人分でこの値段は悪くない。 話がまとまると、さっそくこの青年アブデュルの後について、ボロボロのランドローバーに乗り込んだ。 ![]() 町を出るとまもなく、行く手には砂と岩の荒野しか見えなくなった。 しばらくして、とある場所で車から降ろされた。 砂の中にところどころ色の変ったところがあり、剥き出しの黒い岩がのぞいている。 「見てみろ」と言われたのでよく見てみると、その黒い岩の中にアンモナイトのような化石がいくつも見えた。 この辺りはかつては海の底で、このような化石がよく取れるのだという。 近くには磨いた化石を売っている小屋もあったが、相場がよく分からない。 結局何も買わずに再び車に乗り込んだ。 次に着いたのはベルベル人のテントだった。 迎えてくれたのは白いターバンを巻いたおじいさん。刻まれたしわと大きな目が印象的だった。 テントの中ではミントティーをごちそうになった。 両手に持ったふたつのポットからグラスにお茶が注がれる。 モロッコに来てからというもの、私はすっかりこのミントティーのファンになっていた。 ミントのさわやかさとたっぷり入れた砂糖の甘さが、乾いた喉に心地よい。 外にはラクダやヤギもいたが、この家族は遊牧より観光客の相手で生計を立てているのだろうか。 ベルベル人の遊牧生活に触れるという、こういったツアーそのものが彼らの生活を変えてしまっているような気がして、ちょっと複雑な気持ちになる。 それがいいか悪いかは私には分からない。 道なき砂漠の中をランドローバーはひた走る。 目印になるようなものも見えないのに、どうして行き先が分かるのだろうか。 ちなみに、この辺りは砂漠といっても石や岩が混在する、英語でいうデザートにあたるものだ。 私たちが砂漠という時に思い浮かべる、一面砂の砂漠はデューンという。 そうこうするうちに、遠くに見えていた砂丘がどんどん近づいてきた。 あの砂丘が私たちの目的地、メルズーカのデューンだ。 ようやくランドローバーが止まった。ここが私たちの今日の宿だ。 ホテルとは名ばかりの、砂に埋もれてしまいそうな小さな建物。申し訳程度に石の塀に囲まれている。 見渡す限り、他に建物の影は見えない。 荷物を降ろすとランドローバーは去っていった。 アブデュルの後について中に入る。 狭い建物の中は薄暗く、客室も2、3室しかないようだ。 部屋に案内されると、これまた何もない部屋だった。 ベットがひとつあるだけ。電灯すらない(もちろんこんな砂漠の真中に電気など通っているはずもない)。 トイレ、シャワーは建物の外にあった。 昨夜からの睡眠不足で眠かったが、ホテルの裏はすぐ砂丘だ。 じっとしていられなくて、外に出た。 ![]() 陽射しが強い。風が髪を乱す。 砂はさらさらと足元で崩れてゆき、なかなかうまく歩けない。 一面の砂の中では距離感がつかめない。 ずいぶん歩いたような気がしても、振り返ればそこにホテルが見える。 風が強く打ちつける度に、砂が少しずつ模様を変えてゆく。 砂が描く波の模様は、まるでここが海であるかのような錯覚を起こさせた。 太陽は容赦なく照りつける。 空は雲もなくただ青。地平線は砂にかすんでいた。 部屋に戻ると、そのままベッドに倒れ込み、眠った。 ふたりでこのベッドは狭かったが、気にもならなかった。 目が覚めた時、外はまだ日が高く、見るからに暑そうだった。 外に出る気はしなかったのだが、トイレは外にしかない。 強い陽射しに閉口しながらも、外に出てみた。 庭の小屋には、眠そうな顔をしたロバとにぎやかに歩き回るニワトリがいた。 その裏手に小さなトイレとシャワー室があった。 アラブ式トイレは形は和式トイレと似ているが、水洗ではなく小さなバケツに水道から水を入れて流す。 こんな所でちゃんと水が出るんだろうかと心配だったが、大丈夫だった。 しばらく部屋でぼんやり過ごしていたが、外から聞こえる太鼓の音に部屋から出てみた。 ロビー(兼食堂)で太鼓を叩いていたのは、このホテルの関係者のようだった。 (この人たちがホテルの人間なのか、ガイドなのか、はたまた観光客相手のラクダ引きか、私には最後まで分からなかった) 太鼓は素焼きの壷のようなものに皮(ラクダ?)を張ったものだ。 みんな暇なのか、ミントティーを飲みながら手取り足取り、叩き方を教えてくれた。 指をそろえてピンと伸ばして広げ、指先ではなく、第二関節の上あたりではじくように叩く。 指先まで力を入れていないといい音にならない。 ちゃんと鳴るようになるとリズムの取り方も教えてくれた。 左手一回に右手一回。 私の鳴らすリズムに合わせて、いつのまにか合奏が始まる。 太鼓は最も原始的な楽器だといわれるが、その音は体の中のリズムを呼び覚ますようで心地よかった。 夕方近くなると、この粗末なカフェホテルにも人が増えてきた。 エルフードやリッサニの町から、砂漠の夕日を見るためにやって来た観光客たちだ。 それまで私たちと暇つぶしをしていた人たちは、ジュラバをはおって(それまでは普通のシャツにジーパンだった)ラクダを引いて観光客たちの相手を始めた。 ![]() 私も外に出てみた。 日の入りにはまだ時間があるはずだが、砂の色は少し赤みを増しているようだった。 砂の上の波も、傾きかけた陽によって、より深い影を刻んでいた。 昼間、砂しか見えなかったこの場所には、いまや至るところに人影があった。 波のような美しい模様も、大勢の足跡に乱されていた。 砂の上に座ってみると、この命の無いように見える砂漠にも生き物がいることに気がついた。 砂の上に点々と続く線のような跡が何なのか気になっていたのだが、その先を辿ってゆくと、一匹のスカラベが歩いていた。 よく見ると他にもいっぱい跡がある。この砂の中にも生の営みがあるのだ。 だんだんと砂丘が赤く染まり始める。そして空も。 空の端のほうにかすかにたなびく雲を紫色に染めながら、太陽が沈み始める。 そこにいる人間は、みな同じ方角を見つめていた。 太陽が揺らめきながら地平線へと姿を消してゆく。 その最後の光が消えると、空の明るさもそれを追って地平線に吸い込まれていった。 ![]() 日が沈んで、大勢の観光客が帰ってしまうと、砂漠に静寂が戻ってきた。 太陽の火照りをかすかに残して、砂も眠り始める。 蒼い闇に包まれ空を仰ぐと、白い月が輝きを増して浮かんでいた。 夕食の時間だ。 今日ここに泊まっているのは、私たちの他にはフランス人のカップルとイタリア人の4人組だけだった。 イタリア人たちは外にテントを立てて、そこに泊まっている(その方が安いらしい)。 みんな他に行く所もないし、お腹も空いているしで、何となく食堂に集まってしまったが、なかなか料理は出てこない。 そのうちに昼間の人たちが太鼓の演奏を始めた。 激しく緩く、強く弱く、響くリズムは心地よい。 演奏が終わると、彼らは太鼓を私たちに渡し、なにか日本の歌を歌えという。 Aさんと相談して、外国でよく知られていそうな「上を向いて歩こう」を歌った。 太鼓は更にみんなの手をまわってゆく。 フランス人のお兄さんは太鼓を叩くのがとても上手かった。 イタリア人は朗らかに「オーソレミオ」を歌った。 ほかにもみんなでいっぱい歌を歌った。 まるでキャンプのようで楽しかった。 ゆらゆらとゆらめくロウソクの暖かい明かりが、その気分を高めていたようだった。 料理もおいしかった。 私たちが注文したのはタジン(モロッコの代表的な煮込み料理)とカレーとサラダだったが、どれもおいしくて長い間待った甲斐があったというものだ。 モロッコに着いてまだ二日目だったが、確信したのは「モロッコは食べ物がおいしい」ということだった。 この確信は旅行が終わるまで裏切られることはなかった。 食後のミントティーを飲んでから、まだ騒いでいるイタリア人たちにおやすみを告げ、食堂を出た。 外に出てみると、昼間あんなに吹いていた風が、今はまったくない。 動くものひとつない静寂の中、月が砂漠を白く照らしていた。 足元には自分の影がくっきりと落ちている。 月明かりがこんなに明るいなんて、今まで知らなかった。 空を見上げると、数え切れないほどの星が見えた。 けれど、圧倒的な月の明るさに空もあかるみを帯び、星の光はかき消えがちだった。 これが新月の晩であれば、漆黒の空にどれほどの星が瞬いていただろうか。 砂漠で星を見るという夢は実現したものの、ちょっと残念な気持ちを抱いて眠りに就いた。
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