しんぺいの部屋

〜プロポ〜


〜ピアノ演奏での「あがり」または「やましさ」について〜


わたしは、ひとの視線を意識する。

どうせやるなら、相手によく思われたい・・・そういう自意識がひとよりも強いと思う。

「周りがどう思おうと、わたしの知ったことではない」

と、口に出しては言うものの、実際はそれほどでもない。


つまりは、カッコつけなのだ。

虚勢の代償として、観念して「あがり」を払うしかない。

しかし、カッコつけだけのためなら、何もピアノを演奏するなどというめんどくさいことをする必要はない。

「あがる」原因を、他人の視線だけに求めるのは不十分だろう。


むしろ、音楽や芸術と自分との関係性の中に・・・完成されることのない無限の芸術と、同じく完成されることのない有限の人間の能力との関係性・・・得体の知れない芸術の「深さ」を思う畏怖の中に、ひとをあがらせ、困惑させるものがあるのではないか。


言ってしまえば「自意識」とは、「やましさ」のことではないか。

良心的なひとほど自意識にさいなまれ、やましさを覚えるものだと思っている。


「自分はちゃんとできるか?」

自分がちゃんとできるとは限らない・・・それどころか、たいていキズモノであることを知っている。

「今までできる限りのことをやってきました」

と、胸をはって言えない。前かがみになって、黙っている。


なぜこうなのかまで知っている。

分かっている。

練習が足りない。

才能が足りない。

精神的に弱い。

果ては雑誌の星占いコーナーに「思わぬトラブルにまきこまれる暗示が」などと書かれているだけで、汚らしい色をした雲が会場の上から動こうとしないのを見るだけで、ほかのひとのミスタッチを聴いただけで、不安になる。

あがるための条件が、整えられてしまう。


「本当は、自分が演奏するのよりももっときれいで美しい、感動的な音楽なんだけれど・・・」

言い訳がましく聞こえるけれど、本当なんだ。

信じてほしい。

舞台にあがって音を出した瞬間、これが「実際に」単なる言い訳に成り下がってしまうのが芸術のオソロシサであって、そういうことを思っただけで、あがってしまう。



それでも最近は、あがるに任せることにしている。



あがるひとは、「理想」と「現実」との距離をよくわかっていて、それに苦しんでいる・・・「苦しめるひと」ではないか。

V.E.フランクルという精神科医がいる。


第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害を受け、悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所で奇跡的に生き残った。

彼の著作『神経症−−その理論と治療』に、こんな一節がある。



人間の精神の序列において、「苦悩する人間(homo patiens)」の方が、知能の優れた「工作人(homo faber)」よりもより高い位置にある。



あがる=自意識のやましさに苛まれるのは、

「自分にできる限り美しい音楽をつくろう」

「聴くひとの心に訴え揺さぶれる音楽をやろう」

という意欲があるからだろう。

そして自分にはできないかもしれない、「できる」と確約できないことからくる「やましさ」=「罪の意識」は、美に向う運動性(ダイナミズム)を、演奏に与えてくれるだろう。


もちろん程度問題で、自罰的になることは決してない。ないけれど、本番前のネガティブな不安や悩みに向き合うことは、わたしには必要だ。

音楽への良心を確かめる最後の時間・・・まさにそのとき「悔悛の秘蹟」が、わたしの意識のあずかり知らぬところで行われているだろうから。

そうして魂のレベルで生まれ変わった自分は、練習のときに出せた音を出せない一方で、練習のときには出せなかった「あこがれの音」を出す。


いわゆるウマいヘタとは関係なく、理想(良心)と現実(罪)とのずれに、芸術の深さへの「つつましい畏れ」に、真正面から戦っている演奏は、たとえばピアノの発表会でもたまにある。(「たまに」しか感じられないのはわたしが鈍い証拠。本当はみんなそうであろうから)

そんなとき、わたしは感動する。

感動するしかない。


「あがり」または「やましさ」を、もっと積極的に、たとえばむやみに忌避排斥せず、必要なものとして包み入れるゆとりがあってもいいと思う。

(2004年 4月11日)

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