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コラム011 更新遅延の言い訳と近況報告 03/02/03



 気が付いたら、前にコラムを書いてから1年間が過ぎてしまった。この1年でシナリオも2つしか書いておらず、ほとんど更新していないに等しい体たらくだ。
 ここまで更新が滞った理由について、4つ挙げられるだろう。そこで、近況報告も兼ねた言い訳を記させていただく。

 更新スピード低下の第一の原因は、私自身がRPGをプレイする頻度が低下した事である。
 コラム010『当館作成秘話(?)』にも少し書いたが、私はまず「自作シナリオによるRPGのマスターを行って」から「その自作シナリオをテキスト・ファイル化する」というスタイルを取る事が多い。「過去に行ったセッションを思い出しながらテキスト・ファイル化する」のと比べて、“書く”という事に対するずっと強いモチベーションが持てるからだ。
 学生時代はもとより、社会人になった後も数年間は気が狂ったような高頻度でRPGを行っていた私だが、2000年から2001年にかけて徐々に無理が表面化して、友人と集まるペースも月1回以下に減り、コンベンション等に出かける事も余り無くなった。
 No.0096とNo.0097の執筆間隔が3ヶ月以上になったのも、その辺りの影響である。

 とは言え、望んでホームページを立ち上げた訳で、このまま更新が滞ってしまうのは忍びなかった。だから、2001年秋、ずっと過去に行ったセッションを元にNo.0098を執筆したり、新しくRPGを行う場を開拓しようとしたりしようと試みていた。

 しかしそんな矢先、母が病気になった。これが更新が滞った第二の理由である。

 2001年10月4日、母が自宅近くの産婦人科医で定期健診を受けたとき、子宮体癌と診断された。その後、日本医科大学付属病院で精密検査を受け、10月19日に同病院入院。10月25日に手術して、11月12日に退院した。
 進行期はステージ1aまたは1bで、5年生存率95%以上の“初期”との事だった。母の入院後は心配で心配で、隠れて何度も涙を流し、手術成功と聞く日まで気が気ではなかった。
 たまたま、母の発病を知る前に交わしていた約束でRPGを1セッションだけ行ったが、その後は退院までそれどころでは無かった。

 母は退院後しばらくして容態も落ち着き、2002年の正月を迎えた。
 私も気持ちが落ち着いて、RPGを再開する気になり、念願のシナリオNo.0100も書き上げる事ができた。
 1月末になって母が体調不良を訴え始めたが、担当医は「バッファリンを飲んでいなさい」と取り合わなかったので、私も「単なる疲れか、精神的なものだろう」と考えていた。担当医たちが要求した200万円の“お礼”(診療報酬以外の、領収書を貰わない金)も渡していたし、悪いようにはされないと信じてしまっていた。
 しかし、2月から療養を兼ねて父と母がハワイに行く事になり、その前にどうしてもと強く願って画像診断を受ける事になった。
 2002年2月3日にコラム010を書いた時点では想像もしていなかったのだが、2月5日に私が運転する車で母を日本医科大学付属病院に送り、そして母が戻ってくる事は無かった。
 2002年5月24日午前5時29分、私の母が亡くなった。享年58歳。直接の死因は腎不全、その原因は子宮体ガンであった。
 母の再入院と死が、更新が滞った第三の理由である。

 正直なところ、再入院の後の事は、怒りと自責と悲しみの連続で、あんまり思い出したくは無い。

 怒りという事に関して言えば、医師のいい加減さに対して強く覚えた。
 画像検査で腹水が貯まっている事が判明して再入院となり、細胞診でガンが見付かり、腫瘍マーカー(CA125やCA19-9やCEAやSTNやSLXなど)も「急に異常値を示し」たと説明を受けた。治療法について聞くと「カルボプラチンとタキソールによる化学療法を行うが、効果は保障しない」と言われた。
 この段階で不安になり、今更ながらセカンド・オピニオンを求めて「他の病院に相談するのでカルテと写真を出して欲しい」と言うと、渋られた。結局、事務局経由で話を通す事で、10日後にやっと手に入れる事が できた。
 カルテを見ると、母は退院時検査でグレードがG2だった事になっていた。グレードとはG1、G2、G3の三段階があり、G1とは「ガン細胞は見付からない」という意味で、G3は「ガン細胞がある」という意味。G2は「不明」という事である。しかし間違い無く担当医は「退院時はG1だった」と説明したし、カルテを見ても他の部分に書かれた「2」とは筆跡が異なり、まるで「1」を「2」に書き換えたように見えた。
 病院は、万事その調子だった。
 こうなってくると、最初の手術からして疑わしかった。治療方針について何も患者本人や家族に意見を求める事は無かった。本当にリンパ節まで取ったのか、切除した子宮にガン細胞はあったのか、なんでもっと早く再検査をしなかったのか。
 担当医は子宮体ガンの手術後に腹水が溜まる形で再発した事に関して「同じ患者を自分は見た事が無い」「世の中に似た患者がいるかどうかは知らない。調べる方法は無い」と言っていた。「タキソールとカルボプラチン以外の薬の使用は思い付かない」「認可されていない新薬を使う気は無い」とも言っていた。
 そんな思いで頭の中がグルグルした状態で、他の病院を訪ねたり、ボランティアで相談を受け付けると言う所にメールを送ったりした。だが、色好い返事は無かった。国立ガンセンターでは余命告知を受けたし、その他の病院でも暗に安楽死を勧められたりした。インターネットの某掲示板では、他の患者の不安を煽らない為か、私の相談は削除されていた。
 世の中では何となく「ガンの治療方法が増えている」という認識が広まっているが、本当のところ、外科手術以外に命を救う手段は無いらしい。再発して腹水が貯まるような状態になったら、もう絶対に助からない。
 ともかく、医者への怒りは尽きない。以下に列挙する。
 私が色々と訊くから、治療説明は私がいない所で済ませようとした。
 他の病院に持って行く為のカルテを、わざわざ母の前で渡した(母には秘密にしようと思っていたのに)。
 珍しく医師が私の顔を見て顔を和ませるから、母の病状が良くなったのかと思ったら、「父が医師のいい加減な態度を糾弾していて、それを私になだめてくれ」という話だった。
 釈然としない気持ちながら父をなだめ、父か控え室から出て行った後、医師たちは笑顔になった。父を馬鹿にしているようにしか取れなかった。私の目の前で、そんな態度を取った。
 余命について、担当医は何も教えてくれなかった。危篤になったら携帯に電話をしてくれと念押しして頼んだのに連絡をくれず、叔母から知らされた。
 他にもあるが、とにかくそういう調子の連続だった。

 自責と書いたが、正直言って、私も子供として万全の事を母にしなかった。
 クソ真面目に会社に行って、土日しかお見舞いをしなかった。その土日も、寝坊して昼過ぎに行ったり、病室で本を読んでいたり、もっと他にする事があったろうにと思う。
 母に嘘を吐いた。「どうせ末期なんでしょう?」と訊く母に、「腹水が出たお陰で再発の発見が早かったんだ。化学療法を5回受ければ助かるよ」などと答えた。腹水は致命的と知りながらこんな事をアドリブで言えるなんて、我ながら嘘が上手いなと思った。
 母が危篤になったとき、まだ1週間は持つと勝手に考えて帰宅してしまった。2日しか持たず、死に目にこそ遭えたが、もう会話らしい会話は交わせなかった。
 だいたい、最初の病院選びのときに「国立ガンセンターの方がいいのでは」と思いつつ、それを強く勧められなかった自分が恨めしい。

 母は健康な人で、私よりも長生きするのではと思っていたのだが、実際は祖母より先に死んでしまった。
 成人なのに「母親がいない」と嘆くのも情けないが、実際、現実の事とまだ信じられない。
 そんなこんなで、2002年の夏になっていた。

 母が亡くなっても趣味の分野への興味は持ち続けていたし、夏になった頃には友人と会ったり、コンベンションに出たりという事も再開した。
 夏以降の段階でホームページを更新しなかったのは、単なる怠惰である。色々と遊びには費やしたが、何となく更新をする気にはなれなかった。JGC2002に参加したり、旅行に行ったり、あまつさえ『ファイナルファンタジーXI』にまで手を出したりしていたのだから時間はあった。しかしシナリオを2つ書き上げるのみだった。
 そういう訳で、更新が滞った第四の理由は“怠惰”である。



 今後も、自分の“やる気”と相談しながら、ペースが遅くとも更新し続けるつもりである。
 お暇なときに様子を見に来ていただけたならば、幸いである。




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