『翔』四号より ヤマトタケル報告白書 【Part 1】 |
歌舞伎史上初の十か月ロングランで初演を飾り、日本演劇界に全く新しい演劇ジャンルを確立したスーパー歌舞伎”第一作”「ヤマトタケル」。
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それではこれから卓話に移りたいと思います。 本当に先ほども申し上げましたように、『ヤマトタケル』は思わぬ大成功をさせて頂きました。そこで今日は名古屋の中日サロン、あるいは雑誌その他でお話したこととダブル点があるかもしれませんが『スーパー歌舞伎・ヤマトタケルの報告白書』という題で、私の苦心談、手前みそ、舞台裏のお話などを致したいと思います。 まず、『ヤマトタケル』は、え〜、私が台本、演出、主演と一人三役を兼ねましたので、それぞれのパートにつきまして苦心したことなどをお話いたします。 |
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それは冗談からはじまった |
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まず台本でございます。え〜、梅原先生とは私、約二十年来お付き合いをさせて頂いておりまして、かねがね歌舞伎について色々意見を交わしておりました。 江戸時代に出来た古典は、型、演出として非常に素晴らしいものを持っているけれど、扱われている世界が徳川時代の封建的道徳観、世界観で書かれているので、作品だけ取り出してみると、現代人にはあまりピンとこない。 歌舞伎は常に人間の魂の美しさを描いていると思っておりますが、まあ例えば、『寺子屋』だったら、子供を犠牲にするとか…非常にそういった理解しにくい世界を描いておりますので…。 え〜、それに対して明治以降ですね、新歌舞伎というのが出来ました。これはご承知のように明治維新、文明開化の時代になりまして、欧米から近代文明、近代合理主義が入ってきて、それとともにリアリズム演劇、つまりいまで言う新劇ですね。それが入って来まして、その影響を受けて出来た歌舞伎でございます。 それまでの歌舞伎の脚本というのは文学性に欠けるものも多いと。くだらないと言ったら語弊がありますが、多くは、まあ、筋なんかどうでもいいような、荒唐無稽な内容であると。そこでやはり近代の歌舞伎はもっと文学性を持たなきゃあいかんということで出来たのが、坪内逍遥、岡本綺堂、真山青果という路線でごでいます。 ところが、え〜、これはその文学性を第一義にしたために、歌舞伎の「歌」「舞」の部分を切り落としちゃって、「伎」ですね、つまり台詞とか演技術中心の新劇的なものになっちゃった。それは非常に利にかなっているけれども、観ていてわくわくするような楽しさには欠けるとか…。このように現在の歌舞伎作品には二つの大きな流れがございます。 しからばこれからの歌舞伎というのは、古典の演出、観せ方の素晴らしさに、文学性、つまり現代の眼で観て、物語の面白さ、テーマの面白さがプラスされたものが出来たら非常に面白かろうと。え〜、こういう話を常に梅原先生と致しておりました。 ところがいつも残念なことに「作者がいないねェ〜」というところに話が落ち着くわけでございます。「いっそ先生書いてくださいよ」と冗談で申し上げましたら、先生も「まあ、そのうちに書こうネ」なんて、二人の話は冗談で終わっておりました。 と、ある時、1980年の夏、梅原先生から突然電話がかかりまして、「非常にいい物語をみつけた!君にピッタリだ!これはもう君以外には出来ない。『ヤマトタケル』を書く!!」とおっしゃる。 実は、まぁ、ああいう偉い学者先生とか、小説家の方々とかが芝居を書いてうまくいったという例はあまりないんですね。(笑)だからもう全然当てにしていなくて、「あー、是非!」なんて、社交辞令で言って…。(笑) ところが、ここが先生の偉いところだと思いますが、え〜、「それについて歌舞伎脚本の研究をしたいから、(見本を)送ってくれ」ちゅうわけですね。それで私はダンボール一杯、よい脚本の例、悪い脚本の例、両方を箱に分けて送ったわけです。 |
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それを先生はよく研究されまして、1981年が明けた2,3月頃、第
1稿が出来てきたわけですが、それがもうともかく、こんな(手で厚さを示して)電話帳くらいの厚さ! え〜、梅原先生の字っていうのはですね、何が何だかわからない。後で見ると自分でも書いた字が分からないくらい乱暴な字で(笑)、まあー、この乱暴な字というのは私も人後におちないんですが…。(笑) どうも梅原先生や私のような人種は、頭に浮かぶものが沢山あり過ぎて、手が追いつかなくてイライラしてくるんですね、カーッ、なんて。それでわーっと書きなぐる結果、自分でも分からない字になっちゃうわけで、普通の人にはなかなか読めない。そこで判読する係りが講談社にいるんですよ、先生の字を。(笑)だからちゃんと読めるきれいな字で来たわけですね。(笑) そしたらすごい面白い。大変に面白いんですね。私、一気に読んじゃった。 僕の注文はですね、「従来の歌舞伎の面白さに加えて、シェークスピアの台詞と、ワーグナーのスケールの壮大さ、そういったものを兼ね備えた作品を書いて下さい」と。その通りのものが出来たと思いました。 |
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先生の脚本の優れている点は、段取りがよくついているんです。ちゃんと幕切れには幕切れらしい台詞言うんですね。「少し色気が残っていますものねぇ〜」とかね。 これ、珍しいんです。先生は第一作目だからあえて素人と呼ばせていただくとすると、ほんと素人にしちゃあ珍しい!(笑) それから劇を盛り上げるテクニックもこれまたちゃんとご存知。例えば同じ事を三度聞いたりなんかするんですね。簡単な例では…、歌舞伎のくりあげってのがあります。「さあ、さあ、さあ、返答、どどどうじゃあ〜!」あんなの「さあ、どうだ」と一回言やあいいのを、「なんとかさあ、なんとかさあ、さあ、さあ、さあ!」って何度も繰り返す。あれが一つの作劇術なんです。 小碓命が兄を殺して帝に問い詰められる時、「おまえ、どうした?!」と。すると「こもに包んで川に捨てました」「なに?!」「こもに包んで川に捨てました」「もう一度言うてみよ」という具合に三度繰り返してある。今度は時間の関係で二度ですが、原作は三度。こういうのが図らずもあるわけですね。 「意識してこれ書かれたんですか?」って質問したら、「そんなの何も意識してないよ」っておっしゃるんです。で、「これはイケルな!」と私は思ったわけです。 講談社から出た原作は第二稿なんですね。第一稿見た時は女がすごくよく書けてのに対して、男があまり書けてない気がしたので先生に文句いったんですよ。 「女の役の方がいいじゃありませんか。もう、ヤマトタケル、役が悪い。もたればっかりでちっとも芝居するとこないから、先生、死ぬとこ、ちゃんと芝居するように書いてください」って。 実は最初は、だんだん足が悪くなっていくところも、先生は ”歌” で書いたんですね。古事記の素晴らしい名文句をちりばめて。しかしそれじゃあ芝居にならない。 「先生は自分で文章書いていらっしゃるから、奇麗な文章だからいいと思うかもしれないけれど、これをもし太夫が語ったら、う〜う〜言ってるだけで良さは伝わりませんよ。”歌”を台詞に翻訳しないと駄目です。近松の場合も改作の方が面白いのはそういうことなんです」と。 そしたら勘のいい先生だから、チャンチャンとご理解いただきまして、「書き直す」となったんですが、そうは言ってもお互い忙しい身ですから、そのうちゆっくり相談なんてことになっておりました |
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台本にかけた長〜い年月 |
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とにかく先生のことだから、こう、自由奔放に書いてあるんですね。第一稿を検討して、私が直したりして、確か1981年の夏に箱根で先生と一日こもりまして、「先生、こー直してください」「あー直してください」と全部やったわけです。 で、それからまた一年ばかり相経ち立ち申し候〜で(笑) 、第二稿が出来上がったのが、1983年・9月、『小栗判官』を京都・南座でやっている時ですね。忘れもしない、ひょう亭の座敷で、「出来たよ!あとは君のいいように料理してくれたまえ」って渡されたのが、何と第一稿よりももっと厚いものだったんです。(笑笑) それから私も忙しいので、そまま またしばらく年が経つわけですね。で、これを何時やろうか…という議論になりまして…。 え〜、最初、松竹の人たちは、先生の第一稿を読んだ時点てはまだ分からなかったんですね。「この芝居のどこが面白いんですか?山がないし、これをやってどうにかなるんですか?」って言うんです。で、僕は「絶対なります!」って。「そいじゃあシェークスピアの脚本だってそうでしょう。山があって谷があると思いますか?あれは演出次第で山、谷が出来てくるわけであって、バックボーンさえしっかりしていれば絶対面白くなります。あとは演出家の猿之助を信用してくださる以外はないんです」と。「信用して下さらないんだったら、自主公演でやります」って。その結果「信用するから是非やって下さい」ということになりまして、予定として、1986年の2,3月の新橋演舞場、5月・名古屋、6月・南座というスケジュールが出来ました |
それで昨年(1985年)の3月、南座で児太郎さん(現福助丈)の『玉藻前ーー』を演出している時に、電話帳二冊分よりも厚い台本をいよいよ短くしていく作業に入ったんですね。これが第一の台本の苦労です。 ”台本・市川猿之助 ” って書いてあると、よく批評家の方やなんかは、先生の原作を私が勝手に脚色したような感じに受け取って、「もっとああしろ、こうしろ」とおっしゃいますけれども、結局はテキストレジーで内容を短くする、ちょっと順序を変えるとか、そういうことだけであって、決して梅原先生の原作を脚色してるわけじゃあない。まあ、いきなりこの本が出てしまいましたので、誉められた場合はいいですが、けなされた場合、責任が全部先生に行っては申し訳ないと思ったので、私が台本を、「テキストレジーは猿之助である」と出したわけでございます。 あれ全部上演すると12時間かかりますから(笑)、それを3分の1の4時間以内でやるというのは、大変な作業なんですね。だいたい歌舞伎芝居というのは脇筋が面白いんですが、例に漏れず、梅原本でも伊吹山の鬼の件なんか大変な面白さなんですね。それからあの尾張の国造のところ。あの国造は、いまは単純な性格になっておりますが、原作では非常に複雑な、いわゆる政治に老獪な人物に書かれていて大変に面白い。それとみやず姫とのやりとりも…。 |
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それで昨年(1985年)の3月、南座で児太郎さん(現福助丈)の『玉藻前ーー』を演出している時に、電話帳二冊分よりも厚い台本をいよいよ短くしていく作業に入ったんですね。これが第一の台本の苦労です。 ”台本・市川猿之助 ” って書いてあると、よく批評家の方やなんかは、先生の原作を私が勝手に脚色したような感じに受け取って、「もっとああしろ、こうしろ」とおっしゃいますけれども、結局はテキストレジーで内容を短くする、ちょっと順序を変えるとか、そういうことだけであって、決して梅原先生の原作を脚色してるわけじゃあない。まあ、いきなりこの本が出てしまいましたので、誉められた場合はいいですが、けなされた場合、責任が全部先生に行っては申し訳ないと思ったので、私が台本を、「テキストレジーは猿之助である」と出したわけでございます。 あれ全部上演すると12時間かかりますから(笑)、それを3分の1の4時間以内でやるというのは、大変な作業なんですね。だいたい歌舞伎芝居というのは脇筋が面白いんですが、例に漏れず、梅原本でも伊吹山の鬼の件なんか大変な面白さなんですね。それからあの尾張の国造のところ。あの国造は、いまは単純な性格になっておりますが、原作では非常に複雑な、いわゆる政治に老獪な人物に書かれていて大変に面白い。それとみやず姫とのやりとりも…。 とにかくヤマトタケルの出てこないところに面白いところがふんだんにある。しかし脇筋ばかりやっていると時間がなくなっちゃうから、残念だけど面白いところも切らなくちゃならない。もちろん本筋は本筋で大変な長さ!! で、どこをどう切るかということで悩みまして、ともかく3月と8月の私の休みをそっくり全部使いまして、先ずは台本の第一稿が出来上がったわけでございます。それでもまだこ〜んなに(再び手で示して)厚いんですね。で、現在の上演本になるまで4回テキストレジーをやり直しております。それでやっと、その〜、4時間以内に収めたわけでございます。 なかなか本のカットというのは難しいんですね。その苦労というのが先ず第一の難関でございました。 さて、このテキストレジーがいいか悪いかは観客の皆様にご判断を仰ぐことになるわけですが、私は自分で言うのもなんですが、テキストレジーはかなり上手くいったと思っています。これ以上はなかなか難しいのではないかと。 もちろん新劇的にでしたら、もっとテンポが出ますから、もう少しはいけると思いますけども、歌舞伎のテンポではこれが最大の速さです。これ以上やると「歌舞伎にあらず」みたいなことになってしまいますから、このテンポでやる台本(ホン)としてはこれ以上やりようがない、というところまで、私は、煮詰めたと自負しております。 |
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演出/ かぶき をこえたものを | ||
つぎに始まるのが演出の苦労でございます。 梅原さんの本というのは近代の脚本の形式を取っていますから、どなたでも上演出来る。例えば蜷川演出で、平幹二郎、太地喜和子さんでやればもっと面白いかもしれない。また、北大路欣也さんと玉三郎さんでやったら、また違った『ヤマトタケル』が出来るかもしれない。 ところが私はこれを歌舞伎でやりたい! そのために歌舞伎俳優じゃなければならないというような立体的な舞台ににしなくちゃならん、というのが私の演出の苦労でございまして、私のねらいは、歌舞伎であって歌舞伎を超えたもの。そういった壮大な計画をもって『ヤマトタケル』演出は始まったわけでございます。 つまり、ある人から観れば「これは歌舞伎だ!」 と思うし、ある人から観れば「これは歌舞伎じゃない。今迄に観たこともない何か新しいものだ!」と、そう見えるような舞台を作りたいというのが、一番の私の基本的な考え方だったわけでございます。 そこでまずは、パリで私が演出を致しましたオペラ 『コックドール』 (1984年2、3月)でございます。 これはもう、『コックドール』の話があった時から 『ヤマトタケル』の予行演習にもなると思って引き受けまして、最初から『ヤマトタケル』のスタッフにと考えていた装置の朝倉先生、衣装の毛利先生にお願いをしたわけでございます。 それから舞台技術ですね。これは非常に仕掛けが多くて、ことに演舞場の機構を完璧に使いこなさなければならないので、金井俊一郎さんという舞台技術家の方があたる。 え〜、それと今度は照明を初めて歌舞伎に入れたい!と。これが私の夢でした。 歌舞伎というのは照明がないんですね。ご承知のように、ろうそくが白い明かりになって、、その後、多少、時代物、世話物とか、半明かりと称してちょっと暗くするのや何かが出来ましたが、非常に簡単なものしかない。 新歌舞伎、例えば近代リアリズムの入った『御浜御殿』とか『一本刀土俵入』にも照明はあるにはあるけれども、夕方は夕方らしく、夜は夜らしくという程度であって、芝居の起伏に応じて照明が芝居することは殆どないわけです。 ところが、新劇とか、オペラとか、他の演劇では照明がいまや非常に舞台美術の先端を行っておりまして、いろんな器材があって、いろんな面白い使い方がされています。そういう中で、歌舞伎にどの程度照明というものが可能なのか、そういう実験もしたいと思いましたので、どうしても吉井先生の照明でやりたい!と。で、まあこれも決まったわけでございます。 さて次に衣装につきまして…。 え〜、これは、例えば外国の方でも、歌舞伎をご覧にならない方でも、歌舞伎といえば「衣裳がきれいねェ」という意見が圧倒的です。ですから『ヤマトタケル』を歌舞伎でやるとなれば、美しい衣裳じゃないと意味がない。歌舞伎じゃなくなるわけですね。ご承知のように、神代の時代のものっていうのは、埴輪に見られるように、白い袋を被ったような実に簡単な衣裳で、こんなつまらないものはない。 そこで毛利先生に「ファッションショーとして見ても面白い芝居にしたいから、歌舞伎衣裳をさらに飛躍させた美しいものを何とか工夫して下さい」とお願い申し上げました。そしてその年の夏ですね、軽井沢にいろいろと資料を持ってきていただきまして、もう一昼夜にわたって衣裳のことを決めたわけでございます。 東南アジアのあらゆる資料、民族衣装からなにから全部見ると、一番やっぱりピーンとくるのが韓国の古代衣裳なんです。イメージがすごく合うんですね。 それで、大碓と小碓の早替わりですが、最初は段四郎と私でやろうかとちょっと思ったんです。あそこは会話劇ですから、それを早変わりでやるのは非常に興をそぐことですから。しかし毛利先生はじめ、「これは早変わりでやってほしい」と。 二つの人間性ってのは、必ず人間の中にあるもので、大碓と小碓の場合はそれが二人に別れている面白さだから二役することに意義がある、と提案されまして、何とか二役をやろうってことになったんですね。 「真ん中の柱は赤がいいですねえ」と毛利先生がおっしゃって、ちょうどブランデーの赤い箱があったのをポンと真ん中に置いて、「あー、これで装置ができましたね」なんて感じで(笑)衣裳と装置の打ち合わせが始まったわけでございます。 で、衣裳と装置というのは非常にコントラストが必要なので、基本的な考えとして、衣裳は豪華に、装置はシンプルにとバランスをとって考えなきゃならない。またいくら韓国風がいいといったって、そのままでは具合が悪い。やはりそこから飛躍し、創造しなくちゃならない。 それでさらにいろいろと資料を探して、ブータンとかネパールとか、あの辺りのも意外と日本の古代のイメージにあうことを見つけまして…。 |
ともかくそこで基本を決めて、それからまたぞろ何日が相経ち申し候で(笑)、また朝倉先生、毛利先生がおいでになって、装置とのバランスで決めていくという具合ですね。 それについて、え〜、三つのコンセプトを作りました。つまり大和朝廷とクマソとエゾですね。で、大和朝廷はお米、エゾが狩猟民族、クマソは採魚民族にしようということになりまして、模様をタコだとかカニだとか、魚、深海のイメージで、だから色もブルーやグリーンを使ったわけです。 誰誰の色はこれでいいとか、伊勢の大宮は赤と白だけでやろうとか、クマソの館は色の氾濫、グチャグチャーっとパレットをぶちまけたような感じを出したいと3.か、そういうのを一つ一つ決めて |
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夏の初めに話し合ったんですが、毛利先生すごい速くて、夏の真ん中くらいにはもうデザイン画がパーッと出来てきたわけです。 それを見て、もう僕は喜んじゃった! 僕のイメージにぴったりだとすっかり気に入っちゃって、今度は朝倉先生と、このデザインの時にはどういう装置にしよう。あーだ、こーだとまた始まる。 ご存知のように衣裳というのは仕立てに非常に時間がかかりますから、夏中に先ずこれが決まりました。 で、今度は九月、南座で『菊宴月白浪』をやっている時に朝倉先生、吉井先生、金井さん等々、みんな来てやるんですね。芝居終わってから連日またぞろあーでもない、こーでもないと。もう、僕が勝手なことばかりいうもので、みんな頭かかえこんじゃった。(笑) |
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難題、難題、また難題・・・・ | |
私の行き方として、とにかく幕間なしでやりたい。ちょっと消えたらすく゜パツとついて、消えたらすく゜ついて、というような暗転なしの続いた芝居がしたいと。背景も、舞台裏でコンコンコンなんて金槌の音が鳴る、あんなの絶対イヤだ。全部ともかく組んどいて、ガラガラっと出てパッと変わる、そういう芝居がしたいと言いまして、朝倉先生がいろいろと考えたわけでございます。本当にこれがもう大変!! この脚本は、外がでてくる、家ン中が出てくる、山が出てくる、海が出てくる、何が出てくる、ですから。あっち飛んだりこっち飛んだり、とにかく梅原先生、お構いなしに書かれますから(笑)。 例えば「パオから出てグルグル歩くと草原に出る 」とかね、そんなことが書いてあるんですから、よっぽどどうやってやるかを打ち合わせしておかなくちゃならない。 劇場機構の問題もあるでしょう。収納の問題もあるし…、何枚でも背景を飛ばしていけば、簡単に背景は変わりはますけど、吊れる枚数の制限があるし、その間にライトも全部吊り込まなきゃあなんないから、全て計算して逆算して割り出さなきゃならないわけですね。 ・・・・・ 結局、簡単にする方がいいですね。ところが簡単にすると、ヘタすれば、ちゃち、学芸会になってしまう。 しかしそこが朝倉先生の素晴らしいところで、簡単でありながらも実に深みのあるセツトを作った。実に上手いんですねェ。素材の選び方なんかも実に上手い。 歌舞伎のセットというのは、大体平面に絵を描いてあるというだけなんです。それを、柱でも丸い柱にして全部木が貼ってある。木立などにしても、ぜんぶ、木や幹をパッチワークみたいに貼ってあるので、だからゴツゴツした感じが出て、それに照明をかけると立派になり非常に深みが出る。 それから、とくにあの走水の場での浪なんて、歌舞伎でさんざん使い古された手法ですが、普通に浪描いたんじゃあつまんないからって、ああいう光る素材、ビニールみたいなものを貼り付けるわけですね。そいでやはり照明かけると、すごい綺麗に見える。あれなんて非常にすばらしい発想だと思うんです。それから、伊吹山! 実は伊吹山は、最初、私の発想では吊り橋が出て、吊り橋で立ち回りがあって、吊り橋が切って落とされて、インディージョーンズの映画みたいにパーッとなって、そこで小碓命が吊り橋につかまって大活躍をするという構想があったわけです。しかし、そんなのやるつもりなら「劇場をつぶさなきゃあ出来ません!」と言われました。(笑) それと、それでもどうしてもその構想通りやるって言うんなら、前・後編 に分けたらどうだと。二月に走水までバッチリやって、三月は伊吹山から脇筋の話まで全部やる、そういう大活劇をやろう!って、みんな真剣に考えて松竹に持っていったら「そりゃ困る。やっぱり白鳥伝説のところまでちゃんとやってくれないと」って言われました。団体客もあることだし、そんな二ヶ月にもわたってやっても、悠長に観にきてくれやしません」って。(笑)そいじゃあもう、伊吹山を大幅にカットするしかないなァと、まあ、私が押し切られまして、それからまたいろいろと考えるわけですね、ああでもない、こうでもないと。 そのうちに吉井先生が音を上げかけて 「これ本当にやるんですか?」って。「普通の芝居の四本分ですよ。こんなの、もう僕は降りたい!」って言い出した。(笑)そしたら、朝倉先生が「先生そんなことおっしゃらないでやってあげてくださいよ。猿之助さんのために」とかなんとか言ってとりなしてくれたり・・・。とにかくもうスタッフでメッチャクチャ、こんなになって(頭をかきむしるポーズ)やりましてね。 私も次々とこう頭の中にアイディアが浮かんでくるんだけど、実際論になるとですねェ、難しくって「こりゃあ出来ない!」って言われる。そうするとまた他のを考えなきゃならないので、もうイライラしてくるわけですよ。(笑) |
それから、十、十一月になってきますと、えー、一番大変な、音楽をどうするかということでござてます。ここで起こってまいりましたのが、入場税の問題!ご承知のように伝統演目または古典的演出を踏まえたものに関して、入場税は無税となっております。松竹としては当然何とか無税にしたいと。けれどもそれには古典的、伝統的な演出で見せなくちゃあいけない。しかし私のやろうとしているものは歌舞伎であって歌舞伎を超えたものなんだから、これが伝統的演出とどう結びつくか、これが一番危惧されたわけでございます。 で、私は演出家として悩みました。 音楽、ほんとにいろんなのができるんですよ。シンセサイザーでも、洋楽でも、何でも出来る・・・。 しかし大体歌舞伎ファンというのは、何故か洋楽器になっただけで、いくらいい音楽であっても拒否反応を示すという傾向があるでしょう。だから和楽器でいろんなことをやってみよう、と。 ところがそうやるとしてもですねぇ、話題性を考えるんなら、例えば喜多郎だとか、現代の作曲家に作曲依頼をするといい。しかしそうなると免税になるかどうかわからない・・・。 |
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文化庁の方に聞くと、審査する方にも、どこまでが古典的演技なのか、伝統的なのか、というようなハッキリした基準がないというんですね。「何かしらおかしいなあ?」と感じたら駄目なんだそうです。「何が一番まずいですか?」って聞いたら、「あれは歌舞伎でないとか、おかしいとか、すべった、転んだ」と、マスコミなどに騒がれるのが一番困ると。 ところが週間読売に出たんですよ、「ヤマトタケル、シンセサイザーがどうのこうの・・・はたして文化庁はどういう判定を下すか」なんて。そのうち週間新潮にも出ちゃった。(笑)マスコミにとってはどっちに転んでも面白い材料なんですね。もし無税にしたら、「何だ、あんな歌舞伎でないものに!」って言われるかもしれないし、税金取ったら、「新しい試みに税金取ったりして!」と言われるかもしれないわけで、文化庁としてはあまり話題にならない方がいいんですね、むしろ。 ところが興行というのは、話題にならなければ入らない。(笑) こういう難しいところがありまして、結局、日本音楽家集団の長沢先生に作曲を依頼致しました。とにかく無税にするためには音楽は奇抜には出来ないし、奇抜にしなくちゃ面白くないし、ほんと、これが一番大変だったですね。 |
いよいよ初日が近づいて・・・続きは 『報告白書 Part
2 』へ