『翔』四号より 
    ヤマトタケル報告白書
               Part 2】



モットーは臨機応変、いきあたりばったり
実際、もう日本はもちろんのこと、東南アジアの民族音楽から何から、いろんな音楽を聴きまくって、私なりにプランを立てました。序幕の≪聖宮≫は中国の古代音楽がピッタリ。≪明石の浜≫は義太夫と琵琶。≪熊襲≫のところは林英哲の和太鼓の世界。それから≪走水≫はゼッタイ文楽の三味線だけで行きたい!≪夢≫のところはお経。最後は謡曲でと。こういうのをバッパッと考えまして、長沢先生に全部注文として出しました。
それから、その〜・・・、これは歌舞伎の演出に関わってくる問題ですが、大体新作物の音楽ってのは、BGM的ですねぇ。雰囲気描写、ムード描写、映画音楽などと一緒です。しかし従来の歌舞伎音楽ってのは、動作に全部ついているわけです。義太夫が、チンチンチン・チン・ポテチン・チンチンチンなんて具合に。ある時はBGMになり、ある時は体について音楽が芝居と一体になる面白さ。これが歌舞伎音楽ですから、やっぱりそういう音楽を作りたいと思いました。

それから、生でやらずに録音でやりましたのは、資金面での問題の他に和楽器の特性という点があります。例えばバイオリン一梃で弾くのと十梃で弾くのとでは全然効果が違うんですね。ところが和楽器はもともとが独奏用に出来ているから、何梃で弾こうがあまり効果がないんです。ボリュームを出すにはやはり機械的に増幅をしなくちゃならないと。・・・そういうわけで録音の方がよいだろうということになりました。
しかし録音というのは、生のように音が待ってくれませんから、よっぽどキチンと作っとかないと大変なことになってしまう。で、普通なら一回録音したらお終いのところを、今度は四回やったんですね。だいたい音楽家の方には歌舞伎の間合いなんて分かりませんから、私が出向いて、実際に動作をしながら録音を致しました。

例えば一番顕著な例で申し上げますと、あの鳥になるところですね。タラタラタラ〜・ララ・タラタラタララララ〜(メロデイーをつけて)と普通に出てきちゃう。それを動作に付くことを考えて、タ〜ラ・ラ〜ラ〜タラ〜ラ・ラ・タララ・ララ(テーブルを叩きリズムを刻みながら)と、こうしてくれとかね、そういうメリハリをつけるわけです。羽がほしい〜ってとこも、ピィー・ピィー・ピィー・チャン!ときちゃうと出来ない(演技が)から、ピィーッ・ピィーッ・ピィーッ・フン・チャン!というように、フンという間が入んないといけないとかね。その点は自分が役者ですから、全部計算がつくので、そういうようにして一曲一曲作っていったわけです。
もちろん私は音楽の勉強など全然したことないんですが、何となくこれまで歌舞伎の中で培われてきた、まあ、カンだけでやったようなものといいますか・・・。

結果、審査員全員一致で、「これは歌舞伎だ」と、「古典歌舞伎の技法を応用した新作歌舞伎である」と認められ、目出度く無税になったわけでございます。
というように、演出というのは、そういうプロデュース的なことも考えてやっていかなくてはならないというのが実際でございまして・・・、ただ机の上だけで考えているのならどんなことでも出来ますけれど・・・

そして、12月9日、私の誕生日から稽古に入りました。読み合わせを二週間、「千本桜」の夜の部終演後に二時間位続けまして、26日からベニサンという大きなスタジオで立ち稽古に入ったんですね、歌舞伎興行としては非常に珍しい二ヶ月稽古に。
ちゃんと実際通りに設計図をひいてやったんですが、やってみるとクマソの館なんて全然動けないんです。「こりゃダメだ!」って、またスタッフ全員集まって設計のし直し。
あそこは新劇的演出にしたんです。クマソの国は自由の国ですから、みんながぐちゃぐちゃあ〜といる感じ。蜷川演出的な感じにしたいと思って。歌舞伎に群集場面ってのはありませんし私も初めてなので、こっちをあっちに動かし、あっちをこっちに動かし、なかなかあれでも苦労があるものでございます。
で、「ともかく一回通し稽古をしよう !」 ということになってやったら、大変な長さ!何と六時間以上!!(笑)「一体どこをカットしよう??」ってまたまた頭ひねってカット考えて、1月6日からは、クマソの館の設計をやり直しまして、動きも何もかも全部変えて稽古しました。それで1月12日にまた通し稽古したんですが、まだ長い。
三幕だけでもすごい長いんです。「こんなのやってたんじゃあどうにもならないよ」ってんで、またハァ〜ン!と考えて。朝倉先生、吉井先生、舞台監督、私と四人が集まって、ご飯食べながら、「あそこカットしよう」「これカットしよう」って。死ぬところもぐだくだ言って長い。家来のお別れカット、国造のところカット、樫の葉の件カット・・・みんな議論百出!
それで家来のお別れをカットしようってことになったんですね。最初あれはもっと長かったんです。「タケヒコお前はよくやってくれた、すべった転んだ・・・」「ヘタルベお前はよくやってくれた、すべった転んだ・・・」と。それをバッサバッサとカットしまして。(笑)ヤマトタケルの死に方も、ズーッと舞台奥まで行く演出だったんです。去って行きながら、「さようなら〜、さようなら〜」って台詞があって、いろんな星が出てきてっていうすごい素晴らしいシーンだったんですけど、残念ながらカットして、もうバタンと死んじゃおうと。それで最後の宙乗りに山をもっていこうと。

ところがですねェ、タケルが死んで白鳥になって出てくるまでに三十分位あるんです。「駄目だ、十五分が限度だよ」ってことになった。「もう、いらんわァ〜」って言われちゃいますから、やっぱりまたカットしかないということになって・・・。もとはタケルが死んでから、兄姫が白鳥を追いかけて行くシーンがあったんです。兄姫が若タケルと海岸をさまようシーンが。児太郎さんには悪いけどこれもカットするしかないということで、カット。すると今度は、カットはいいけれども、じゃあピラミッド作る時間が間に合わない!とくるんですね。芝居の最中に後ろで組み立ててるわけですから、そこをカットして短くしちゃうと、ピラミッド組み立てる間ない、物理的に無理だと。そこでまた、う〜ん!と考えて、ともかくタケルが死んじゃってヘタルベがやるところは同じ場面にしよう。(当初は違うセットの予定だった)そうするとその間に組み立てられますから。
実はヘタルベの幕切れはタケヒコと二人のはずだったんですね。だけど、次の場ではタケヒコが白い衣裳を着てすぐに出なきゃならないのに、それじゃあ困るよ〜と。じゃあ、しょうがないからヘタルベ一人に幕切れ切らそう。それで二十秒つなごう。それしかない。それで、「命さまのいない大和なんて、命さまのいない大和なんて・・・」という原作にない台詞つけちゃったというわけなんです。「命さま〜!」って言ってる間に着替えられるだろうって。(笑)その結果、ヘタルベいい役になっちゃったねえ・・・というようなもんで、そういう作り方をしていくんですね。全部逆算してね。で、何とか十五分ほどで出られるようになったというわけでございます。

ほんとに段取りを考えるのがなかなか大変なんですねェ・・・。≪走水≫のところでも、船が回転して、「弟姫ー!」って泣かなきゃならないんですけど、その時に船の後の出っ張りが邪魔なんです。それで「取ってよ」という。「どうやって取るんですか?」「じゃあどっかで雷落として、その時にボーン!とやって、後ろだけ壊れたらおかしいから前もはじけて、ついでに真ん中も弟姫が飛び込みやすいように壊れるようにしよう、とかね。カーテンコールで帝の手を取る演出なんていうのも、舞台稽古で代役がやってんのを僕見ていて、パッとひらめいて、「あっ、ちょっと手を取ってみて、ハイハイ」なんて感じで考えついたんです。私は実にもういきあたりばったり、その場その場でどうにでもなる。ピシッと設計図をこしらえてその通りにやる演出家の方もいらっしゃいますが、私の演出ってのは、臨機応変、いきあたりばったりをモットーにやっております。(笑)
ようやく見え始めた全体像
まあ、そういうようにいろいろあった結果、一月十二日に大体いまの形に出来上がりました。そして、スゴイ衣裳が出来上がって参りまして、十七、十八、十九と三日間かかってその披露が行われました。もう僕はすっかり喜んじゃったんですが、着る方は大変!重くて動けないんですよ。(笑)
毛利先生「重いの作ってスミマセン、スミマセン」って謝りたおして(笑)・・・、特に皇帝の衣裳と、姥神の、あのネクタイぶら下がってるみたいなあの衣裳。それから、クマソ兄弟のが重いそうですね。クマソ兄弟のなんて、何しろ八畳敷くらいもあるんですから。
それ見て吉井先生が「ハァ〜ッ、僕はどうしよう。こんな衣裳に照明あてたらどうなっちゃうんだ。僕は熱がでた〜」って。(笑)

なにしろいきあたりばったり流(笑)ですから、自分でもどんな芝居になるのかよくわからないんです。最初はもっと全編大活劇って感じになるんじゃないかと思ってたんですが、意外とスゴイ泣く芝居になりまして、特に三幕は悲しい芝居になって・・・・。私はタケルが死んだ後のタケヒコとヘタルベが想いを語るところ、とっても好きなんです。我ながらいい感じに出来たなあと思っております。
それと、やはり朝倉先生とか吉井先生とか、皆様芝居をよく知っている方たちなので、適切な意見を言って下さる。ここはいいとか、あれは長いとか、ここは退屈とかって。僕はとにかくカーッとやる方だから、皆様の意見を参考にして、その都度手直しして、だんだんに形が出来上がっていったんですね。で、本当に「はあ〜、出来たなァ・・・」と思ったのが、一月二十日位だったでしょうか。

それで二十七日からいよいよ演舞場での舞台稽古に入ったわけでございます。みんな稽古積んできてるから、もう芝居はバッチリ、プロンプターなんかいらない!
ただしテクニカルリハーサルになって困ったのは伊吹山のヒョウですね。どうも変なヒョウになっちゃって、あそこでストップ。それでまた三時間位みんなで考えて、まあ、いまみたいなヒョウになったんです。
舞台稽古見た時に、最初、サァーッと聖宮が出てくるところを見て、「ああ〜、照明がきれいだなァ・・・」と僕思ったんですが、吉井先生もその時初めて「歌舞伎に照明入れてよかった!」とおっしゃっていました。「僕は本当に怖かったけど、梅原先生の”南北がいま生きていたら、きっと歌舞伎に照明を入れたにちがいない!”という言葉に意を強くしてやってみた。でも、どんなになるか本当に心配だった」って。
私は『コックドール』の時に照明が非常によかったんで、絶対の自信はあったんですが、案の定非常に綺麗で、特に二階から見ると素晴らしい!

で、その聖宮の幕開きですが、あの三つの幕が開いていくというのは、一枚一枚扉を開いてだんだん古代に来た、というイメージにしたんですね。
『廓文章』で、夕霧を待つ伊左衛門が何枚もサーッ、サーッと襖を開けてって、そこに夕霧がいるという、あの発想が素晴らしい。それで「ああ〜、これで行こう!」と、ああいう演出を考えました。あのカーテンは5、6枚吊るともっと綺麗なんですけど、鉄管の関係で物理的に三枚しか吊れない。じゃあ最後はライトカーテンで開けよう。それで回転さしてせり上げよう、というように考えまして、あの美しい幕開きになったんですね。
他にもなるべく歌舞伎の要素を色濃く取り入れたいと思いまして、立ち回りにはツケを入れて見得を切りました。それからだんまりも入っております。このように『ヤマトタケル』は、あくまでベースに歌舞伎の演出法を用いて作られた舞台であるというわけでございます。
始まった、主演者としての苦労
そして、ようやく二月四日(1986年) に初日の幕があきました。ご承知のように大変な反響を呼んで、お客様もよく入って下さいました。本当に私もこれほど大成功するとは思っておりませんでした。
さて、ここで始まるのが第三の、主演者としての苦労でございます。年末にひいた風邪がお正月休みの間にも治らなくて、咳ばっかりでるところへ、ベニサンスタジオはすごくホコリっぽい。そんな中で立ち回りやら、火の場面の旗の踊りやらをやってホコリ吸いまくって、それとあのスモークが喉にいけなくて、喘息性気管支炎になってしまって夜も眠れない。おまけに肝臓の数値まで上がっちゃって、そんな中での開幕ですから、毎日点滴して、ほんと、いつ倒れるか、いつ倒れるかと思ってやってたんです。
そのうちついに声が出なくなっちゃって、声っていうのは三日休めば治るんですけど、三日も休むわけにはいかないし、お客はドンドン入ってくるしで・・・、とにかく倒れるまでやるしかないんですね。「そのかわり倒れたら休ましてくださいよ」って、その時のために信二郎をスタントに、すぐ出来る状態にしてやってたんですけど、まあいい塩梅に、どうにかこうにか倒れずにすみました。非常にそういう点では辛かった演舞場の二ヶ月でございました。
四月は一ヶ月休みを取って、やっと声も体も回復しまして、五、六月と名古屋、京都も無事過ぎまして、目出度く千秋楽を迎えようとしているわけでございます。

え〜、面白い話もいっぱいございますねェ・・・。時々帝さまが西と東、クマソとエゾを間違えましたり、倭姫さまが袋(火打ち石の入った)をお忘れになったこともありまして、僕は「ど、どうしよう!」と思いましたね。ああいう深刻な場面ですから、なにかやったら却っておかしいし、僕はもう、冷や汗がパアーッと出てきて。そしたら倭姫、「あげるものがあります」(懐をまさぐるゼスチャー)でもない!(さらにまさぐる)やっばり、ない!そのうち「袋ですが、あとで差し上げます」って(笑笑)。やったー!と思いましたよ(笑)。サスガですね。
昨日も吉弥さん(ヤイレポ役)、あんまり気を入れ過ぎて、槍受け取ってくれないんです。見得切って、カーッとやってて、「あれ?なんかあったかな?!って思ったら、槍受け取るの忘れてましたー!」って(笑)。

それから煙のところですね。特に南座なんか、舞台と客席が近いから、煙がバーッと行って申し訳ないんですけど、前列のお客さんがみなさん、これでしょう。(ハンカチや扇子で煙をあおぐゼスチャー)何だかやりにくいんですねえ。特に死ぬとこなんかで、パタパタ、ザワザワあおがれると・・・(笑)
「ああ〜、雲が来た・・・」 ザワザワザワ〜。
「私は天に昇ろうとしているのに・・・(ハッハッハッと喘ぎ、死にそうな表情)・・・お前たちはあおいでいるのかァ〜・・・」とも言えませんので、黙って死んで参りますけれども(笑)。
走水のところで僕が「何にも見えないぞー!」 って言ったら 「こっちも見えへんがなァー!」って、客席から声がかえった日もあったくらいで(笑)。
そういうこととも戦って、いかに緊迫感を出すかということに不屈の闘志を燃やすわけでございます。中には日によって捨てちゃう役者さんもいらっしゃるかもしれませんが、僕はそういうことは絶対にしなくて、NEVER GIVE UPですから、なかなか辛い時もございますね(笑)。

しかしお陰様で新橋演舞場は大変な大入りになりまして、これまでの最高記録を破り、開場以来の動員を記録したということでございます。続く中日劇場でも開闢以来の大入りとなり、南座もご承知のように近来にない大入り続きだそうで、私大変に喜んでおります。
【ここで衣裳デザインを担当された毛利臣男氏登場】
猿之助さんはスポーツマン ? !
今日はあの〜、この後打ち合わせがあるので京都に来たんですが、このような集まりがあるとは知らずにお邪魔して申し訳ございません。いま久しぶりに『ヤマトタケル』を作った時の苦労話を聞かせて頂きまして、すごい懐かしい気持ちです。
本当にその通りなんです! ぼくは衣裳を担当させて頂きましたが、猿之助さんのあの苦労から考えますと、僕なんかの苦労はゴミみたいなもので(笑)、いまはただ、本当に楽しかった!という思いですね。

僕が猿之助さんにものすごく感じたのはですね、とにかくインテリジェンスっていうか、頭の中がコンピューターってのか、「どうなってんだろう?」って思うくらい、あの、本当に素晴らしいんですねェ。それでいながらすごいスポーツマンなんですよ。
例えばサッカーってのは、こう、球がどこから飛んでくるか分かんないですね。だけどその球が飛んできたら、パツと、それをどこに返すか、或いはどういう具合にもっていくか・・・何というのか、機転というんですかねェ、そういうスポーツマン的機敏さを、一緒にお仕事していてすごく教わるんです。
猿之助さんていうのはネガティブ(消極的、否定的 )、後ろ向きじゃないんですね。こうなったらどうしよう、こうなったらこうしよう、っていつも前向きなんです。NEVER GIVE UP! 絶対に負けない!!
僕はもう本当に遥か後輩なんですが、僕にはまた僕なりにアシスタントがおりますので、そういう精神を伝えて行けたらと思っております。

衣裳の苦労話を、ってことなんですが、・・・もう本当に重い衣裳作っちゃって、いろんなスゴイことやっちゃって(笑)。
でも、そんな布団のような、八畳より広い衣裳作るってのは、僕なりに「絶対に面白いんだ!」と思って作るんですね。その情熱を買って頂いて、だから僕もよけいに責任を持って作る、というわけなんです。本当に楽しんで作らせて頂きました。
やっぱりこういう気持ちにさせてしまうというのも、猿之助さんの、その前向きな姿勢だと思います。本当に、こういうように前向きに物事をドンドン進めて行く方ってのは、日本人として、僕たち大切にしていかなくちゃあなりません。それに猿之助さんは日本だけじゃないですよ、今や。”世界の猿之助!”だと僕は思っております。本日はどうもありがとうございました。
【毛利臣男氏の退場に続いて再び猿之助さんの登場があり 】

いやあ、お褒めにあずかって恐縮です。毛利先生はご承知のようなお人柄なんですね。非常に熱っぽくて繊細、ナイーブな感覚の持ち主でいらっしゃる。
最初お目にかかった時は、もう、どこかの空手の先生かと思ったんですが(笑)、非常に優しい、ヤマトタケルのような心をもった方でいらっしゃるから、大変に楽しく仕事をさせて頂いております。
  成功の鍵 & 三都の印象は…
え〜 、この『ヤマトタケル』がなぜ大成功したのかという質問をよく受けるんですが、私はいつも答えます。二つあると思います。
一つは、全スタッフがそれぞれの立場で、従来の概念を踏まえた上で飛躍したこと。みんなが手をつないで上手くホップ・ステップ・ジャンプ!とやった。これがやはり成功に導いた一番の原因だと思います。
二つ目は、お金と時間をかけたこと。つまり、欧米、ブロードウェーなどと同じやり方で芝居作りをしたことでございます。
日本の場合、ヒドイのなんて三日くらいで作っちゃって、稽古はたった一日だとかいうのもあるくらいですからね。僅かながらでも世界の舞台へ出てって仕事を致しますと、こんな粗製濫造で、いい芝居が出来るはずないと、つくづく思います。逆にまた、こんな粗製濫造でもそこそこいい芝居ができるのは、日本だけじやないでしょうか。それだけ日本人、特にスタッフの優秀さは大変なものだと思いますね。仕掛けにしても何にしても、日本人が15分で出来ることが、他の国ではそうはいかない。だから、日本人が、十分な時間と経費をもって作ったら、世界に冠たる素晴らしい演劇が生まれると私は思っております。
さて、このお芝居で東京・名古屋・京都と回ったわけですが、舞台から見た客席の印象をちょっと付け加えて申し上げます。
私思うんですが、最近、非常に東京の観客は熱っぽくなっているんじゃないでしょうか。以前は関西の方がすごかったんですが、80年代を境にして、段々東京の方がすごくなってきました。
それと「ヤマトタケル」の特色は、男性が実に四割を占めた。欧米じゃ女性と男性の割合は五分五分ですが、日本は90%以上が女性で、男性が少ないのを私は非常に憂えていたんですが、今回は何と四割も。しかも若い男性や実年の男性が多くて、大変嬉しゅうございました。ネクタイ締めたいい男性が、さめざめと涙流してくださる光景なんか見るとねェ、ほんと、嬉しくなりますね。
それと、これはどこでも言えた傾向ことですが、中でも東京は特に若い女性が多かった。綺麗な方がいっぱいいらっしゃるわけです、客席にね。だからって、いつもの客席が綺麗じゃないって意味じゃありませんが(笑)
大体古典関係のものが趣味というような方々ってのは、お召し物でもちょっと地味つくり、奥ゆかしい方が多いでしょ。ところが若い人ってのは、パーッとしたのを着てくるから目立つ。非常にファッショナブルで綺麗なんです。
そういうように常はあまりお芝居など見ないというような方々が多く来て下さったので、極端に言えば海外に似た反応を示すんですね。お芝居中にはあまり手を叩くなんてことないけど、終わると、ウワァー!っと湧くという。
今回は名古屋のお客さんもすごい湧いたんですよ。大体名古屋というのは、保守的、質実剛健の土地柄のようで、拍手喝采が起こるようなところでも、拍手も起こらなくて、ジワ、ため息で、「はぁーっ!」って、感心して見てるというような・・・。だからやってる方は劇中ちょっとしんどいんですね。「分ってんのかなあ・・・?」なんて感じで。(笑)
ところが今回は非常に燃えてくれて、私、それにビックリいたしました。

さて京都に参りましたら、ちょっと客席の平均年齢が高いんですね。東京、名古屋と、その〜、若い女性と男性が非常に多くて、それに慣れてたもんですから、やや感じが違うんです。熊襲館の場が終わりまして、洗面所に行きますと、壁越しにお客さんの声が聞こえてくるんですね。「この芝居、かわってはりまんなぁ〜」「そうでんなあ〜」って奥ゆかしい。(笑)
もう一つ顕著な例は、東京でも名古屋でも、幕が閉まっても拍手が鳴り止まなくって、もう一回(カーテンコールを)やんなくちゃあいけないかなあ・・・なんて、そのまま終わっちゃうのがちょっと申し訳ないような気になる時があるんですが、そういうのないですね、南座は。それとこれも(拍手を頭上でするポーズ)も余所より少ない。もちろん、土日なんかはすごく湧いて、いいんですけどね。そういう日ってのは、やっぱり若い人たちだとか、これまであまり歌舞伎と縁がなかったというような人たちが多いようなんです。なまじっか芝居が分ってるというような方は、何となく冷静な目でご覧になる傾向があるのかもしれませんね。
というようなことが、三都連続で芝居を打って参りまして、私が感じたことでございます。
目指すは二十一世紀歌舞伎団
えー、このスーパー歌舞伎は、第二、第三と続けて、なんかこう、歌舞伎の中での新しい一つの突破口となり得るような、歌舞伎であって歌舞伎を超えたもの、とにかくウワーッと興奮するような、新しい、楽しい演劇空間を創造し得たらいいなあ、と私は思っております。
梅原先生もついにごビョーキになられまして(笑)、この世界はいったん入ると麻薬と一緒で、泥沼に足を突っ込んで抜けられない世界でございますから、もう「第二作を!」と張り切っておられます。
まあ、今回一番嬉しかったのは、やはりこれまで「歌舞伎なんて見ない!」と言ってたような方がたくさん見に来てくださたことですねェ。何てったって、そこから始まっていくわけですから。そういう役目は今回よく果たせたと思っております。

私、思うんですね。”芸” というのは、例えば、どれほどの名優であっても、大スターであっても、見た人が亡くなっちゃうとそれまでなんです。大体没後八十年、九十年も経つと、その名優がいかに素晴らしかったかを伝えてくれる人がいなくなってしまう。そうすると消えてしまうわけです。
ところが、創造作品を残すと、「三代目菊五郎は四谷怪談を作った」とか、「小団次は黙阿弥ものの世界を開いた」とかって、歌舞伎の歴史の中に何百年あとでも残ってるんですね。決して「○○の弁天小僧がすばらしかった」とか、「××の松王丸がよかった」とか、「△△の忠信がよかった」とかいうようには江戸時代の名優は残ってないんです。創意、工夫、創造をやった人しか残っていない。従来の型をその通り上演して、いかに上手くやろうと、観客を魅了しようと、その観客が語り伝えることが途絶えたら歌舞伎史上には残らないというのが、歴史的な考察だと私は思っております。
本当に、役者ってのは”どちらを取るか” すごいむつかしい問題で、最後は役者の行く道の選択の自由なんですが・・・、私の場合は「将来、歴史の一ページに残るような役者になりたいな」と大志を抱きまして、こうしてエッチラオッチラやっているわけでございます。もちろん、「俺はもういい、八十年しか残んなくても、そこにいるお客にさえ最高のものを与えられれば満足だ」という行き方も、それはそれでとても素晴らしいことだと考えておりますが・・・。

え〜・・・、私はですね、誠に常に夢見る少年でございまして(笑)、これはまたまた将来のすごい遠大な話になってきちゃうんですけれども・・・・。私は、例えば”二十一世紀歌舞伎団”というようなものを持ちたいんですね。モーリス・ベジャールさんの二十世紀バレー団のような、二十一世紀に向けての本格的な歌舞伎団を。
後継者問題についてよく質問をうけますが、自分の子供だとか身内だとかに継がせていくだけが方法じゃないと思うんですね。やはり、”その時代のメッセージを送れるような歌舞伎!”その時代のメッセージになれるような歌舞伎俳優!”そういったものを目指して、一つの運動としてやっていきたい、集団的に。芝居というのは一人では出来ないですからね。
それからやはり人間の身体と言うのは老いてきますから、その時に向けて、他人(ひと)の身体で自分の心を表現する方法を得る。そのためには若い役者、スターがたくさん生まれていないと・・・。ですから、そういう役者、スター作りをやっていきたいと思っております。
天翔るこころ、それはなにか・・・
「私は普通の人が追わぬものを必死に追いかけたような気がする。それは何か、よく分からぬ。私はその天翔る心から多くのことをした。天翔る心、それがこの私だ・・・・」
これは私の好きな台詞なんですけど、非常に共感を呼ぶんですね。「天翔る心・・・」のところですが、その台詞を喋っていて、”あ、これは僕が自分自身の言葉として喋っているな・・・”と錯覚を起こすんですけど、「それは何かよく分からぬ」というところがいいんですね。
「猿之助は、切れる」 とか何とか、誉めてくださる方が時々ありますが、私は別に切れるとも何とも思ってないし、栄誉や名声などの目的があってやってるわけでも決してないんです。自分では、私ほど不器用な人間はいないと思っています。本当にまるでヤマトタケルみたいに生き方が不器用なんです。
ただ、”天翔る心” か何か知りませんが、損得なくやってしまう。 歌舞伎が大好きなので、愛している、という感じなので、私の歌舞伎をやりたい!これこそが歌舞伎なんだ!というような気持ちで、本当に損得なくやっている。
・・・・梅原先生もおっしゃってますが、童心になっちゃうわけです。まるで子供が玩具で遊ぶようなもの、何の邪心もないんです。
何か目的があるのでしょう?」 とか、「どういう目的でこのスーパー歌舞伎をやったのですか?」とか、歌舞伎をどういう風にしたいんですか?」とかって、よくインタビュー受けたりします。でも、何もないんです。やりたいから、やってるんです。それが”天翔る心”なんです。それは何か、って言われても、よく分からないんです、自分でも。夢中でいつも何かやっていて、それが、ヤマトタケルじゃありませんけど、新しい歌舞伎への礎となってくれたら、こんなに嬉しいことはございません。







HOMEへ


E−Mail: kitama-e@mxr.meshnet.or.jp

「ヤマトタケル報告白書」はいかがでしたか。「翔」ならではの、どこよりも詳しい、そして、
丈の語り口調がそのまま伝わってくるような、臨場感あふれる再現だったでしょ。(自分で言う・・・)