あなたはご存じだろうか、”エルドラン”という島を。
 遠い海の遙か彼方に、その島はあるという……。



 森ではぐれたサヤカ達を探すため、普段の頼りない姿とは似ても似つかないほど凛々しい狩人に変身したナユタ。そのナユタは、神妙な面もちで考え込んだあと、こう言った。
「ナインテール、とっても言い難いことなんだけど、一生のお願いなんだ……」
 森の中で空腹のワーウルフに追いかけられ、離ればなれになってしまったサヤカとエディンを探す手がかりを完全に失ってしまったナユタ。残された希望は一つしかないとばかりに、聖母像にすがりつくような勢いでナインテールの前足を握った。
 慈悲を乞うようなその瞳は、領主の圧制に苦しめられる農民にも負けず劣らずである。だがナインテールにとってみれば、男に「言いにくいこと」と言われるのは、ある意味複雑だった。
「な、何だよ……」
 ナユタの突然の奇行にゴクリと唾を飲み込み、ナインテールは困惑に満ちた表情をナユタに向けて訊ねた。
「可愛い妖精に変身してくれないか?」
「………」
 可愛い妖精に変身してどうしろと言うのか。ナユタの言葉をよく飲み込めなかった(と言うより深く考えたくなかった)ナインテールの頭の中を、’妄想’という名の暴走馬車が駆け巡る。考えれば考えるほど、イケナイ方向に暴走馬車は突き進んでいった。
 この物語はイヤ〜ンな方面の話しではないので、ナインテールはブルブルと顔を激しく左右に振ると、
「なんだそりゃ〜! アホか! このヘボナス! ボケ! スカ! 便所虫! ガラガラヘビのガラとスープ!」
 と一気にまくし立てる。
「……前回のラストでそこまで言ってか?」
 ナユタは軽くため息をついてから、「つまりだねぇ〜」と人差し指を立てて言葉を続けた。
「ナインテールに妖精になってもらうのは、僕の願いを叶えて欲しいからなんだ。僕の願いは、もちろんサヤカ達を見つけることさ。それを妖精になったナインテールに叶えて欲しいんだよ」
「ふ〜ん。で、何でそれが一生の願いなんだよ?」
 ナインテールはすました顔で、ナユタの言葉にはほとんど感心なさげに白い髭をいじくる。
「いや、だから……。素直に妖精にはなってくれないだろうと思って……」
「当ったり前だ〜! 俺に羽の生えた女の子になって「キャピッ♪」ってしろとでも言うのか! 何を好きこのんで妖精なんかに変身しないといけないんだ!」
 たちまちナインテールは、こめかみの辺りに青筋を立てて激怒する。勢いあまって髭を引き抜いてしまっているが、頭に血が上った本人は気付いていない。
「別に「キャピ♪」っとしろとまでは言ってないよ……。いいかい、ナインテールが僕の願いを叶えてくれたら、そこに待っているのはなんだと思う? それこそ感動の対面とハッピーエンドじゃないか。ナインテールはその素晴らしいエンディングの演出ができるんだよ。カッコイイと思わないか?」
「ふんっ、おだてりゃ豚はおろか象だって木に登るかも知れないがな、オレ様はそれほど単純ではないぞ。どうせいつもみたいにオレ様を乗せようって魂胆だろ? どう考えたって、一番オイシイのはお前じゃないか」
「ううっ」
 ナインテールの鋭い指摘に、ナユタは眉毛の端をピクリと動かせて言葉を詰まらせた。
「そ、それは違うよ。よく考えてご覧。古今東西、人気が出るのは何も主役やヒロインだけじゃない。感動の名シーンを陰で演出した、クールな二枚目のだって人気が出るんだよ。だってそうだろ? 決して自分の手柄を表に出さず、陰で二人を祝福する。まさに”粋”じゃないか。そういう姿こそ、本当の格好良さとは思わないかい?」
「クールな二枚目……、人気が出る……、粋……、格好良さ……」
  ナユタの言葉は、ナインテールの心を激しく揺さぶった。ナユタはここで一気に畳みかける。
「そうさ、ナインテールはクールな二枚目だ。人気NO.1間違いなし!」
「ふはははは〜、オレ様としたことが、何でそんなことに気が付かなかったんだ! オレ様こそクールな二枚目だ! 人気NO.1だ! よ〜し、妖精に変身してお前の願いを叶えてやるぞ」
 果てしなく単純なナインテールは、無意味に両目をメラメラと燃やして変身を始めた。一瞬ナインテールの身体が白い煙に包まれ、その中から一人の妖精が姿を現す。
 身長30センチほどの少女の背中には、トンボのような透明の羽根が付いている。愛くるしい微笑みを浮かべて飛ぶその姿は、まさに妖精と呼ぶに相応しかった。
 が、身に付けている服は例の小麦色をさらに黄色に近づけたような色だった。ナインテール曰く”ナインテール・ブラウン”というらしいが、流行る気配はダニの幼虫ほども無い。
「さあ行くぞ。……じゃない、行くわよ♪」
 あれほど嫌がっていたナインテールだったが、すっかりその気になっている。
「うげっ、気持ち悪ぅ……」
 たまらずナユタは、冷や汗をかきながらブルッと身を震わせた。外見は可愛らしい妖精なのだが、中身がナインテールだと思うと、今の言葉は背中にゴキブリが走り回るような感覚だった。
「さあ、目を閉じて。自分が叶えたいと思う願いを強く心に思い描くのよ」
(何とかならないのか、その口調。強く心に思えって方が無理だよ……)
 そう心の中で呟きながらも、ナユタは目を閉じた。そして、サヤカに会いたいという願いを強く心の中で思う。
 妖精となったナインテールは、腰から下げていた革袋から光り輝く粉をナユタに振りかけながら、呪文を唱え始めた。
「人の願いは心の光り……」
 呪文に呼応するように、ナユタの振りかかる粉はさらに輝きを増していった。その光景は、黄金に輝く雪を浴びているかのようである。
「ナユタの夢と希望は、結局不幸へと導かれる……」
「おっ、おいナインテール! なんだそれ!」
「ふふっ、軽いジョークだわよ。次はちゃんとやるから」
「ものすごい不吉なジョークだよ」
 憮然としながら、ナユタはもう一度願いを思い描き始めた。
「夢と希望は、幸福へと導かん……」
 呪文が終わるのと同時に、ナユタの身体が激しい光りを発した。薄暗くなり始めた森の中に、まるで星が煌めいたと思うと、光りは一気に収束して、天に向かって放たれる。
「ふふっ、願いは叶ったようね」
 ナユタの消えた空を見つめながら、妖精は満足げな笑みを浮かべた。きっとサヤカの許に向かったと信じて。
「ところで……」
 ここでナインテールはふと気付いた。
「わたしはどうやってナユタやサヤカの所に行けばいいの……?」
 妖精自身では、願いを叶えることはできない。ナインテールは、たった一人取り残されることとなった……。





第3笑・楽しいピクニックに・・・・なるわけないよね(^^;B

11


「まったく……、最近ツキがねえぜ」
 おぼろげに顔を出した月が見下ろす森の中を、一匹のワーウフルが身体を引きずるように歩いていた。その頬は深く落ちくぼみ、手足は枯れ木のように細い。一見して空腹に満たされているのが分かる。
 このワーウルフは、もう数日間も何も口にしていなかった。とはいえワーウフルは狩りの名手。全力で走ればどんな動物よりも速いし、大きな耳は小さな物音でも聞くことができ、鋭い爪は一撃で獲物の喉を切り裂いた。’森のハンター’といわれる所以である。
 だから、獲物を取り逃がしていたわけではなかった。単に獲物がいなかったのである。妖精の森には小動物が豊富にいるはずなので、獲物を見つけられなかったのは不運としか言いようがない。
 しかしついに今日、待望の獲物を見つけることができた。それも、人間の子供が二人。空腹を満たすには十分過ぎるほどだった。
 彼自身は人間を見たのは初めてであったが、人間を食べたことのある仲間の話では、その肉はすこぶる旨いらしい。しかも人間はその辺にいる動物と違って、恐怖に戦(おのの)いたり泣き叫ぶ表情がはっきり分かるという。その話を聞いたとき、彼の中にある獣(けもの)としての心が疼き、それだけでヨダレが満ちてきたほどだ。
 だがその子供達に近づこうと慎重に接近していたとき、いきなり鉛のタマが飛んできて彼の眉間に命中した。そのおかげで二人の子供から遅れをとることになり、後を追いかけようにも背の高い藪をかき分けて進むのは、空腹の彼にとって骨の折れる作業であった。
 結局藪を抜ける頃には、完全に二人を見失うことになった。
「くそっ、いつもの俺だったら、あんなガキ二人……」
 久しぶりの獲物であったし、なによりもまだ食べたことのない人間を逃がしたのは、悔やんでも悔やみきれなかった。
 そんなときだった。男の狩人が、しかも自分の方からノコノコとこちらの方にやってきたのである。
 今度こそ獲物にありつけることを確信した。今度の人間は子供でもなく、また武器まで持っている。だが少なくとも彼には、自分の姿を見て動揺しているように見えた。
 しかし、相手は相当手練れの狩人だったようだ。男の放った矢は彼の頭をかすり、背後の木に突き刺さった。それは手元が狂ったのでもなく、わざと外したのだ。その気になれば、男はいつでも自分を仕留めることができたと言い放った。
 男は、「命が惜しければ去れ」と言った。その言葉が、矢を向けるその姿が、少しも怯えていないその瞳が、すべてが癪に障った。
 だからこそ、気付いたときには男に襲いかかっていた。男が弓を引いたのも見えていたが、そんなことはもはや関係ない。何度も獲物を逃がして生きていけるほど、野生の世界は甘くないのだ。ここで男を食うか、それとも自分が死ぬかだった。
 しかし、幸運が訪れたのは彼の方だった。相手の男が不運だったのか、それともよほどの間抜けだったのかも知れない。男が矢をひいた瞬間、弓の弦(つる)が切れてしまったのだった。その途端、男は野ウサギのように逃げ出した。
 獲物が自分に背を向けて逃げていく。それは、いままで何度も見てきた狩りの光景だった。そしてその度に、獲物を捕らえてきたのだ。彼は男を追いかけながら、今度そこ腹一杯の肉にありつけることを確信した。
 だがそれも束の間、彼は男の逃げ足に脅威を感じた。いくら追えども差が縮まらないのである。今まで狩りをしてきて、こんなことはことは初めてであった。自分が空腹だったせいもあるだろうが、仲間からも人間が足の速い動物だと聞いたことはない。その辺りにいる野ネズミの方がよほどすばしっこいという話しだ。
 最後は自分の疲労が限界に達し、男を逃がしてしまった。獲物を二度も逃がしたのも初めてであったが、なによりもあの男に足の速さで負けたのは、彼のプライドは大きく傷つけた。
「畜生っ、どいつもこいつも俺をおちょくりやがって!」
 ワーウルフは側にあった草むらに向かって、やたらめったらとツメを振るった。感情を爆発させたその叫びは、もはや言葉にはなっていない。細切れになった葉が身体に降りかかるのも意に介さず、彼はそれまで幾多の獲物を捕らえてきたツメ振るい続けた。
「へへっ、切り刻んでやる」
 いつしか目の前の草むらは、数日前に最後に捕らえた野鹿に変わっていた。腹に爪を突き立てたときに鹿が浮かべた苦悶の表情が、はっきりと浮かび上がってくる。
 狂気と快楽に溺れているとしか思えないほど歪んだ眼差しを向けたまま、彼は文字通り切り刻んでいった。何度も何度も。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
 やがて息を切らしたワーウルフは、前屈みになって荒い息を付いた。目の前には、ボロボロになった草むらが、無言のままワーウルフにその姿をさらしている。
「何をやっているんだ、俺は……」
 その光景を目の辺りにして、血走ったワーウルフの瞳から、急激に力が失われていった。
「……いよいよ駄目か」
 すでに全身の感覚も薄れ始め、頭もぼやけ始めていた。今際の際(いまわのきわ)とはこんなものなのだろうかと、薄れゆく意識の中で絶望感だけが膨らんでいく。そこには’森のハンター’と恐れられる威圧感はなく、まるで路地裏をうろつく浮浪者のようであった。






 それからどれだけ歩いたか分からないが、不意に、ぼやけた視界の中に見たことのある影が飛び込んできた。
「あれは確か……」
 半眼だった瞼が徐々に開いていくに従って、目に入ってくる映像がはっきりしていく。彼の視線の先にいたのは、紛れもなく始めに取り逃がした二人の子供だった。なにやら月に祈りでも捧げるような格好をしている。
「へへっ、へへへへへ……」
 信じられないといった表情のワーウルフから、かすれた笑い声が漏れる。二人が何を月に祈っているかは知らないが、自分も月の女神に感謝することにした。奇跡は起こるものだと。
「もう、しくじらねぇ」
 死にかけていた瞳に、再び残忍な光りが宿る。もはや完全に二人に集中していたが、彼は本物の獣のように全く無駄のない動作で、一歩二歩と二人に近づいていった。ハンターとしての血と極限を超越した精神状態が、無意識にそうさせているのだろう。
 低く身を屈めたワーウフルが、足音一つ立てずに森の闇の中へと消えていった……。




12

「さて、お祈りもすんだことだし……」
 閉じていた瞼をスッと開き、サヤカは胸の前で組んでいた両腕を下ろした。その晴れやかな表情には、大切な眼鏡が直ったという喜びと、もう一つ、ナユタと再会できるという願いへの希望がはっきりと現れている。
「そろそろ行きましょうか、エディン」
 サヤカは、隣で同じように手を合わせてたエディンに声をかけて立ち上がり、ワンピースのスカートに張り付いた草を払い落とす。
「ああっ、待ってよ」
 目を閉じて手を合わせていたら眠そうになっていたエディンは、スタスタと歩き始めたサヤカのあとを慌てて追いかけた。
 眠そうになるのも無理はない。ナユタやサヤカが昼寝をした間も(ナユタは気絶していたのだが……)、彼は一人で遊び回っていたのだ。しかも今日は朝から歩きづめ。先程はワーウフルに追いかけられているへんてこな狩人を見て、ナユタが助けを呼んできてくれたと希望は湧いてきたが、小さい身体に溜まった疲労はどうしようもなかった。
 疲れているのはサヤカも同様であったが、今は疲労よりも希望の方が勝っていた。森で迷い、さらに大切な眼鏡を壊してからというもの沈んでいた彼女の表情にも、妖精と出会って願いを叶えて貰ったことで、ようやくいつもの明るさが戻っていた。
「行くったってどこに行くのさ?」
「どこって、森の外に決まっているじゃない」
 サヤカは首だけ振り向いて、歩きながら答えた。
「変に歩き回ると、もっと迷っちゃうんじゃないの?」
「だからって、じっとしているわけにもいかないでしょ。もうすぐ夜になるし、とにかくこの森から早く出ないと」
「でもさぁ……」
 エディンは不安げな表情をして立ち止まり、口の中を何やらモゴモゴさせている。何か言いたいらしいが、はっきりとは言えないらしい。
「あら〜、どうしちゃったのかな、エディン君? もしかして恐いのかな?」
 サヤカも立ち止まって振り返ると、まるで幼稚園の先生のような口調でエディンをからかってみた。
「ち、違うよっ!」
 エディンは口の端に泡をためながら、猛烈な勢いで否定した。
「さっきみたい怪物がウヨウヨしてるかも知れないんだよ? もしかしたら、サヤカ姉ちゃんの後ろに……」
「えっ、うそ!?」
 短い悲鳴と共に、サヤカは首を引っ込めながら、眼鏡の奥の瞳を一杯に開いて後ろを振り返る。まるで、肩の向こうで無数の蜘蛛が自分の糸でバンジージャンプをしている、と聞かされた時のような驚きようである。
 だがサヤカが振り向いた先には、怪物どころかリスの子一匹いなかった。むろん、バンジージャンプをする蜘蛛もいるはずはない。
「あれ……?」
 鳩が豆鉄砲を食らったようにきょとんとしながら、サヤカは辺りを見渡す。その背中の向こうから、エディンのゲラゲラという笑い声が聞こえてきた。
「はははっ、サヤカ姉ちゃんだって恐いんじゃないか。子供の僕よりずっと年上のくせに」
「………」
 だ・ま・さ・れ・た。この五文字が、メリーゴーランドのようにグルグルとサヤカの頭の中を回っていた。やがてサヤカの拳が小刻みに震え始め、おでこには青筋が一つ二つを増えていく。
「コ……、コ………」
 「コラ〜、エディン」と振り向こうとしたサヤカの背中に、エディンが飛びついた。ちょうどサヤカの肩の上から腕を回すような格好になると、サヤカの首筋を軽く締め付ける。
「ガオ〜。お前を殺してその肉を食ってやる〜。はははっ」
「コ、コラッ! ふざけるのはやめなさい、エディン」
 怪物よりも始末の悪い弟をサヤカはなんとか振り払おうとするが、エディンは猿のようにひょいひょいとサヤカの手をかわして、いつまでも離れようとしない。
「謝るまで離さないぞ」
「も〜、しょうがないわねぇ」
 仕方なくサヤカが謝ろうとしたその刹那……


 パチッ


「んん?」
「あれ?」
 二人の耳に、やけにはっきりとそんな乾いた音が聞こえてきた。ちょうど小枝を踏んで、折ってしまったような音だ。
 二人の動きが一瞬のうちに止まり、驚きの表情を浮かべたまま辺りの様子をうかがった。騒いでいた二人とは対照的に、辺りは不気味なほど静まり返っている。
「な……何よ今の音?」
「ウ、ウサギか何かが枝をふんだんだよ。きっとね……」
 エディンの「きっと」という言葉には、ほとんど力がこもってはいなかった。ウサギのような小さな動物が立てたような音ではなかったからだ。もっと大きな、そう、ちょうど先程見かけたようなワーウルフが立てたような、そんな音だった。
「そ、そうよね。ワーウルフなんてことは、ないわよね。ふふっ……」
 サヤカが引きつった笑みを浮かべる。
「やっぱり行こうか。早く家に帰らないと」
 ぎこちない動きでサヤカの背中から降りると、エディンはクイクイとサヤカの服の袖を引っ張る。
「そ、そうしましょうか」
 ナユタに会えるという希望が見えたとて、やはり恐いものは恐い。急に森の闇の向こうが、恐怖に感じられた。節くれ立った木の表面が、なんとなく人の顔に見えてくる。妖精の森には、ワーウフルのような妖魔だけでなく、人間を襲う人面樹がいるという噂をサヤカも聞いたことがあった。
 二人は辺りをキョロキョロとうかがいながら、寄り添うように歩き始めた。


 ガサリッ


 どこかで草が擦れる音がした。
「ひぃっ」
「ね、姉ちゃん……」
 自然と二人は早歩きになる。
 何かの視線を感じた。息が詰まりそうなほど、寒気を覚えるような視線である。ちょうど、そばを通り抜けた大木の方からだった……
「うわぁ、姉ちゃん!」
 エディンが悲鳴を上げた。茶色い何かが、木の奥らから伸びてくる。サヤカが振り向いた視線の先にあったのは……
「きゃあ、蛇!」
 木の奥から現れたのは、褐色の地に赤褐色の紋を持つニシキヘビであった。しかし胴の大きさはサヤカの腕よりも太く、長さに至っては葉の陰に隠れて想像もできない。
 蛇が嫌いなサヤカは頭を抱えるようにして飛びのいたが、その拍子にバランスを崩して地面に尻餅をついてしまった。そのサヤカの目の前に、大蛇がぬぅっと近づく。
「あ……、ああ……」
 目の前で赤い舌をチロチロとさせながら、大蛇はじっとサヤカを見つめている。まるで相手を見定めているかのようだ。膝をガクガクと振るわせたまま、サヤカの表情は凍り付いていた。
 だがやがて大蛇は頭を二度三度をひねると、そのままスルスルと木の上に戻ってしまった。どうやら食べようとしていたわけではなかったらしい。騒いでいたので、様子を見に来たのであろうか。
「はぁ……」
 全身の力が抜けていくのを感じながら、サヤカは深いため息を付いた。安堵の表情を浮かべるサヤカの背後で、音もなく影が動く。
 刹那、五本の閃光が走った。 
「あぶないっ!」
 閃光と叫び声が交差するなか、何かがサヤカの身体にぶつかり、彼女は地面の上を横に転がった。そのサヤカの目の前を、鋭い爪が空を切り裂くように過ぎてゆく。
「エディン?」
 地面に倒れるサヤカの上に乗っていたのは、エディンであった。彼がサヤカを押し倒していなければ、あの爪はサヤカの身体に刻まれていただろう。
「チッ」
 舌打ちと共に、のそりと人影が草むらの奥から現れる。否、その腕は濃い茶色の体毛に覆われており、その頭は人間のものではなく、狼であった。
「ワーウルフ!」
 咄嗟にエディンは背負っていたリュックサックを前に抱え、中に入れておいたパチンコを構えた。狙いをワーウルフの額に定める。
「いちいち……」
 ワーウルフは、エディンとそのパチンコを憎々しく睨みつめた。初めて二人を見つけたときもそのパチンコのせいで二人を見失い、今度もまたエディンがサヤカを助けた。
「邪魔すんじゃねぇ!」
 ワーウルフはエディンの顔面に拳を食らわせた。鈍い音と共にエディンは吹き飛ばされ、二度三度と地面を転がり、大蛇の出てきた大木の幹の側にうつ伏せになる。殴られた拍子に気を失ったのか、エディンはそのままぐったりと動かなくなってしまった。
 倒れたエディンの側には、リュクサックの中に入っていた彼の玩具や、弁当の籠やら水筒やらが散乱していた。
「エディン!」
「おっと」
 エディンの様子を見に行こうと振り返るサヤカの足を、ワーウルフが後ろからはらった。その拍子に、サヤカは再び地面の上に倒れる。
「へへっ、他人の心配より自分の心配をした方がいいぜ」
 ワーウルフは牙をむき出すようにしてせせら笑った。驚愕に震えるサヤカの目の前で、ワーウルフはゆっくりと腕を振り上げる。天の月と重なり合った五本の爪が、不気味に鈍い光を放った。
 その時、二人の間に青白い閃光が煌めいた。




13 

 青白い世界が、ゆっくりと色あせてゆく。
(いよいよか……)
 ナユタは、ゆっくりと噛みしめるように呟いた。
 思えば長い道のりであった。夕日は地平線の彼方に消えゆき、月が森を照らそうとしている。
(ところで、なんて言ってサヤカに声をかけたら良いんだろう)
 ナユタはふと再開の場面を考えてみた。
(いきなり抱きつくってのもあるけどなぁ〜。狩人に変身したままだから逆にサヤカを驚かせるだろうし。どうせサヤカに会えるんなら、ナインテールに変身を解いて貰えばよかった。そうしたら、森ではぐれた幼なじみ同士の感動の再開、抱き合う二人を満月が祝福、読者は感動の涙っていう展開になったのに……。う〜ん、やっぱりここは正義の味方みたいに、さわやかに現れよう。角度的には右45度のアングルが良いかな。「君を助けに来たよ、サヤカちゃん」とか言いながら、ニッコリと笑いかけて奥歯を光らせるんだ。サヤカは感激のあまり涙を流しながら、やっぱり僕に抱きつく。そのサヤカを、僕が優しく受け止めるんだ。ふふっ、ナインテールという邪魔者はいない。そのまま涙と感動のハッピーエンドだ。前はシャドウを捕まえた感謝状を鳩に取られて終わるっていうオチだったけど、今度は最後でキメてやるんぞ)
 「よしっ」と気合いを入れて、ナユタはぎゅっと拳を握りしめた。






 やがて、目の前に人影が見えてきた。いよいよ対面の瞬間である。ナユタは右45度に構えて、感動のエンディングに備える。
 そして……、
「君を助けに来たよ、サヤカ……ちゃん?」
 最高の笑顔でバッチリ決めた、はずだった。しかし目の前に現れたのは、サヤカとは似ても似つかない狼の姿をした妖魔。
 その姿は忘れるはずもない。ワーウルフだった。
 だがワーウルフの方も、突然ナユタが目の前に現れたものだから、爪を振りかぶったまま両目をキャビアのように小さくして固まっている。
「サ、サヤカ?」
 ナユタは鋭い牙の並ぶ口を、大きな耳を、長く伸びた爪を、一つ一つ確かめるように触っていった。
「そ、そんな馬鹿な……」
 やがてナユタはワナワナと身体を振るわると、崩れ落ちるようにして地面に両手と両膝をついた。そして、どこからともなくスポットライトがナユタを灯す。まるで実験に失敗したどこかの学者のようだ。
「あ、あの〜。サヤカは……」
 後ろから少女の声がして肩を叩かれたが、奈落の底に突き落とされたナユタには届くはずもなかった。
「どこの誰だかは知らないが、しばらく僕を一人にしてくれないか。これから、探し求めていた少女を失った主人公が、心の叫びを吐露する悲しい場面なのだから」
「は、はい……」
 少女はおずおずと手を下げる。
「ああ、月の女神よ。何と運命は皮肉なものであろうか」
 月を見上げるナユタの瞳から、涙の滴がはじけた。その手にはしっかりと目薬が握られている……。
「森で迷った哀れな兄弟を助けるため、深い藪を抜け、ワーウルフに追いかけられ、果てはカエルと口づけを交わすという苦い経験までして、とうとう会える瞬間がやってきたと思ったのに。数々の困難のくぐり抜けて会えた少女は、こんな醜い姿に」
 「こんな」と言いながら、ナユタはワーウルフを指さす。
「僕は一瞬たりとて二人のことを忘れたことはない。二人の子供が暗い森の中で迷い、不安に駆られ、恐怖に打ちひしがれ、寂しさに怯える姿を思うだけで、僕の心は、シャボン玉のように弾けて消えてしまいそうだった」
 ナユタは涙を拭って立ち上がり、天の月に向かって両腕をかざして更に言葉を続ける。
「女神よ、まだ試練が続くというのなら、この僕に力を貸してくれ。その優しい微笑みは、僕の心を癒してくれるだろう。その輝きは、この暗く果てしない茨の道に光りを灯す道標となってくれるだろう。夜の帳(とばり)を導き、あなたはそのために姿を見せたのだから。やがて現れるだろう天の川は、あなたからのっ!?」
「くだらねぇ三文芝居はそこまでだ」
 不意にナユタは胸元を捕まれ、ワーウルフに引き寄せられた。目の前では、怒りのあまりに血走ったワーウルフの視線が、真っ直ぐナユタを睨み付けている。
「久しぶりだなぁ。のこのことまた現れるとは、人間に逃げられたワーウルフをおちょくりに来たのか? それとも……」
 ワーウルフは更にナユタを引き寄せ、ドスの利いた声でこう続けた。
「そんなに俺に食われたいのか?」 
「……も、もしかして、さっき僕を追いかけていたワーウルフか?」
 目を丸くして驚くナユタの問いかけに、ワーウルフは無言のまま頷き、また鋭い視線をナユタに向けた。
「ということは、さっきの女の子の声が……」
 まさかと思いながらも、ゆっくりと振り返ったその先には、申し訳なさそうな顔をしたサヤカの姿があった。
「あの、なんだか声をかけずらかったものですから……」
 大粒の汗と苦笑いを浮かべたまま、ナユタはメデューサに睨まれたかのごとく徐々に石化していく。
 一秒……、
 二秒……、
 三秒……、
 四秒……、
 五秒……と、あたりは沈黙に包まれた。
「はは、ははははは……」
 その沈黙を破るように、ナユタの乾いた笑い声があたりにこだました。
「だ〜はっはっ! そうか、そうだったのか! あ〜っはっはっはっはっはっ!」
 ナユタはワーウルフの肩をポンポンと叩き、「わはははは」と馬鹿笑いを上げながらスタスタとその場から離れようとした。だがワーウルフは去りゆくナユタの襟を後ろから掴むと、強引に目の前に引き戻した。
「待てコラぁ。笑って済まそうとすんじゃねぇ」
「鬱陶しい奴だなぁ。お前の臭い息をこれ以上嗅ぎたくなかっただけだ」
「相変わらず口の減らねぇ奴だな。今度は自慢の弓矢も持ってねぇんだぞ」
「確かに、弓矢はもうない……」
 ナユタが持っていた弓矢は、前回ワーウルフに襲われたときに、愚かにも自分で壊してしまったのだ。
「つまり、今のお前は丸腰ってことだな」
「その通りだ。そこで、これで決着をつけないか」
 そう言うと、ナユタは拳を握りしめてワーウルフの目の前に掲げた。
「もしお前が負けたら、二度と僕らの前には姿を現さないと約束するんだ。そしてもし僕が負けたら、煮るなり焼くなり好きにして構わない。ただし、サヤカちゃんやエディン君は見逃してやってくれ。僕一人を食べれば十分だろう」
「なるほどな。男と男の、真剣勝負ってやつか」
「そう……。男と男の炎の真剣勝負、ジャンケンだっ!」
「………」


「アホォ〜、アホォ〜」 


 時刻外れのカラスが飛んでいく。世界遺産級のお馬鹿だ。
「ふざけんのもいい加減にしろ〜!」
 ワーウルフはついにブチ切れて(当然であろう)、右手を振りかぶった。
「くっ、待て。いきなり始めるなんて卑怯だぞ」
 これから一回勝負にしようかに三回勝負にしようか決めようと思っていたナユタは、慌ててジャンケンのモーションに入る。
「ジャン、ケン、ポンっ! 僕はチョキ、お前はパー。僕の勝ちだっ!」
 正真正銘のパーはナユタの方である。ワーウフルのパー(もちろん爪を立てて襲いかかってきたもの)は、そのままナユタの顔面に向かって振り下ろされてきた。
「うおっ」
 ナユタはワーウルフの爪を間一髪でよけ、サヤカを抱きかかえたまま大げさに地面を何度が転がる。ちょうど大蛇が現れた大木の幹の側まで転がりで、傍らではエディンが倒れている。
「大丈夫かい、サヤカちゃん?」
「えっ? ああ、はい……」
 襲われそうになったのはナユタの方なのに、何故自分が助けられたのかはよく分からなかったが、とりあえずサヤカは返事をしておいた。
「汚い奴だ。ジャンケンをすると見せかけて僕を油断させ、実はすぐ後ろにいたサヤカちゃんを狙うなんて」
「狙ったのはふざけたてめえの方だ! 勘違いするのも程々にしろ!」
「勘違い? 勘違いしているのはお前の方だ。お前から離れたのは、もちろん距離を取るためではある。だが、もう一つの狙いは……」
 ナユタは意味ありげな笑みをワーウルフに向けたまま、背後の大木に手を伸ばした。そしてその大木に絡まっていた蔓(つる)を握ると、力を込めてその蔓を引き寄せる。
 ガサガサと音を立てて引っ張られてきた蔓を、ナユタは地面に叩き付けた。バシッという鋭い音を立てて、蔓は地面の草を何本か巻き上げる。まるで鞭のようだ。
「狩人は森の専門家。例え丸腰だったとしても、自分の身を守る術はいくらでもあるさ」
「ふんっ、そんな即席の鞭で何ができる?」
「何ができるかって? なんなら試してみようか?」
 鼻で笑うワーウルフに、ナユタは蔓の鞭を握り直した。そして、嵐のような鞭裁きが始まる。


ヒュン……、バシッ、バシッ、バシッ、バシッ、バシッ、バシッ、バシッ、バシッ。


 目にも留まらぬ早さだった。ワーウルフの足下で、緑色の草が激しく巻き上がる。例えるならば、何百という小魚が水面で跳ねているよう、と言えるだろうか。数え切れないほどの草が飛び跳ねていた。
「……と、こんな具合さ」
 ナユタが蔓の先端をキャッチした瞬間、嵐は静まった。ワーウルフは一歩も動いていない。いや、動けなかったのだ。
 しかも、ナユタはただやみくもに蔓の鞭を振るっていたわけではない。ワーウルフの足下の草は、まるで天に輝く満月のように寸分の狂いもなく円形に刈られて、地面が露わになっていたのである。どれ程熟練したサーカスの調教師でも、拷問吏でも、これほど見事な鞭裁きを見せることはできないだろう。
 ワーウルフは、あんぐりと口を開けたまま硬直していた。やがてその口から伸びる2本の犬歯の一つにヒビが入り、パキッという小さな音と共に途中から折れてしまった。
「今のは警告代わりだ。自慢の牙を二本も失いたくないだろ。命が惜しかったらここから去れ」
 脅しではなかった。一歩でも近づいたら容赦なく鞭を振るうぞという意志が、ナユタの瞳から強烈に放たれている。
「ここから……去れだと」 
 ナユタの言葉に、ワーウルフの視線が徐々に鋭くなっていく。震えるほど強く握りしめた拳からは、いつしか赤い血が染みだし、ポトリポトリと滴り落ちていた。
「てめえのその言葉がムカツクんだ! その態度が、その眼が、その逃げ足の早さが、すべてがムカツクんだよ! 森の専門家だぁ? ナメんな! この俺はワーウルフだ! 森のハンターだ! 獲物を目の前にして逃げられるかってンだ!」
 ワーウルフは大地を蹴った。体勢を低くし、かまいたちのごとく一直線にナユタに突っ込んでいく。
「愚かな」
 短く呟くと、ナユタは鞭を大きく振りかぶった。ヒュンという音を立てて、鞭はまるで生命を得たかのごとくナユタの頭上に伸びていく。そして、狙いをワーウルフに定めた。
「何度やっても同じことだ!」
 そう、何度やっても同じである。それが宿命なのだ。
 まさに鞭を放とうとした瞬間、ビクリと鞭が動かなくなってしまったのだ。
「んんっ、どうしたんだ!」
 鞭の先を見上げるナユタの視線の先には……。
「き、木に鞭が絡まってる!」
 まったく、どちらが愚かなのだろうか。全く同じ光景で、前回は弓矢を壊してしまい、今回は鞭を木に絡ませている。何をやっても上手く行かない、ナユタの悲しい宿命……。
 すでにワーウルフとの距離は半分以上縮まっていた。ナユタは一瞬の逡巡の後、鞭を握りしめたままワーウルフから離れるように大木の幹に向かってジャンプした。ワラビーやカンガルーにも負けず劣らずの、素晴らしい跳躍力である。
 臆したか、ナユタ? 
 そう思われたその時、ナユタはジャンプした木の幹を蹴って反動をつけ、振り子玉のように半円の軌跡を描きながら、ワーウルフめがけて右足を突き出した。
「きぃえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
 さすが、転んでもただでは起きないのが変身したナユタの凄さである。木に絡まった鞭を利用して、三角蹴りもどきのウルトラC級の離れ業を繰り出した。
 黄金の右足を放つナユタと、凶悪な爪を振りかぶるワーウルフ。両雄が今まさに雌雄を決しようとしたその時、


ボキッ!


 ああ……、やはり宿命とは皮肉なものである。
 不運にも、ナユタが鞭を絡ませた枝は腐っていたのだ。人間の体重と、なによりもナユタの三角蹴りもどきの勢いに耐えられなかったのであろう。枝の付け根あたりから豪快にボッキリと折れてしまった。
 枝が折れれば、当然ナユタに残された道は、落ちるしかない。
 ちょうどスピードも一番乗ってきた勢いのまま、しかも蹴りのモーションそのままに、ナユタは地面と激しく衝突した。強制的な股裂けである。「ぐぎぃっ」という音が聞こえてきそうだ。加えて股間も強打した。
「っ!!」
 叫び声も上げられず、ナユタは悶絶した。二歳児のらくがきのように変形したナユタの顔面から察するに、きっとこう叫びたいのだろう。


もちゃちゅぴれうにょに〜ん※□★♀&〒?♪(^^;(TT)(−△−)(><)ヽ(∇⌒ヽ)(ノ⌒∇)ノ


 作者もよく分からないが、とにかく「もちゃちゅぴれ」な状況なのは確かなようだ。
「あの、大丈夫ですか?」
 サヤカが心配そうな顔をして声をかけた。
「い、いや、君には分からない痛みだろうから……」
 男としてこれほど恥ずかしい格好はない。できればそっとしておいて欲しかった。
「へっ、つくづく間抜けな野郎だなぁ。約束通り、お前の肉を食わせてもらうぜ」
 股を押さえながら蹲るナユタの傍らに、薄笑いを浮かべたワーウルフの影が近づいた。
「俺の自慢の牙を片方折った報いだ。残った牙でお前の首をカッ切ってやる」
 ナユタ、絶体絶命の大ピンチ!
 ワーウルフが牙を剥き出してナユタに襲いかかろうとしたまさにその時、ワーウルフの目の前で赤いの炎が膨れ上がった。
「ぐわっ、何だ!?」
 ワーウルフは慌てて顔を背けた。しかしそれでも、髭が何本が焦げてしまって嫌な臭いを発している。もう少し踏み込んでいたら、完全に顔面は丸焼けになっていただろう。
「は〜はっはっはっはっはっ!」
 薄暗い森の中に、高笑いだけがこだまする。声の主の姿はどこにもない。
「そ、その声はまさか」
 聞き覚えのあるその声に、ナユタはハッと起き上がった。
「守護霊として生まれ変わって早100年。このオレ様がいる限り、ナユタの一族に不幸は訪れない。霊界の貴公子、大妖怪ナインテール様参上!」
「ナインテール!」 
 会心の笑みを浮かべたナインテールが、意味不明に赤いマントをなびかせ、ナユタが鞭を絡ませた大木の枝の上に乗っていたのである。




14

「ナインテール、助けてくれてありがとう! よくここが分かったじゃないか」
 ナユタにとって、ナインテールの姿がこれほどまでに頼もしく、そして心の底から格好良く思えたことはかつてなかった。喜びに目を輝かせながら、ナユタは力一杯ナインテールの名を叫んだ。
「ふん、オレ様を見くびるな。ドジで、間抜けで、ど〜〜〜〜〜〜しよ〜もないお前の守護霊をやってやってるんだぞ。お前の危機ともなればすぐに駆けつけるぐらい、リンゴを5秒で食うよりも容易いことだ。オレ様はこれに変身したのさ」
 そう言ってナインテールが変身したのは、全身が真っ黒の犬だった。しかし普通の犬ではない。三つの頭を持ち、その瞳はルビーのように紅く光り、口からはチラチラと炎を覗かせている。三頭の狂犬、ケルベロスである。
 妖魔であるケルベロスは、そこらにいる犬よりも能力的に遙かに優れている。例えば犬は人間よりも驚くほど嗅覚が発達しているが、ケルベロスの嗅覚はその犬よりも更に優れているし、脚力も森で最速を誇るワーウルフに匹敵するものを持っている。
「ケルベロスの嗅覚を使えば、こんな人気のない森の中、人間なんてすぐに見つけることが出来るのだ。ふふっ、やはりオレ様って頭が切れるなぁ」
「んん? すぐに見つけることが出来る?」
 勝手に自分の脳味噌を自画自賛するナインテールの言葉を聞きながら、ナユタの頭には一つの疑問が浮かんでいた。
「待ってよ。じゃあ始めからケルベロスになっていれば、すぐにサヤカ達を見つけられていたってこと?」
「まあ、そうなるかも知れんな」
 自己満足の余韻に浸りながら、九尾の姿に戻ったナインテールが答える。
「だったら今までの苦労は何だったんだよ〜!」
「知るかボケ! 狩人にしてくれと言ってきたのはそっちの方だろうが。オレ様はそれを聞いてやっただけだ。お前はケルベロスの「ケ」の字も言ったか? まあそれに気付いたオレ様と、気付かなかったお前の差は、やはりここの違いだろうなぁ」
 と言って、ナインテールは自分の頭を指さした。
「しっかしお前も相変わらずドジだなぁ。そんなワーウルフとサヤカを見間違えるなんて。その上鞭は木の枝に引っ掛けるはわ、無様に股裂けをやるはわ……。我ながら、何でこんな奴の守護霊をやっているのかと自己不信に陥りそうだ」
「ちょっと待て〜! どうしてそんなことまで知ってるんだよ?」
「何故かって? 陰から見てたからに決まってるだろ。意外とすぐ側にお前達がいたからな。ケルベロスの素早さを持ってすれば、すぐに着けるさ」
「だったらもっと早く助けてくれよ〜! こっちは危うく食べられそうになったんだぞ!」
「ふんっ。お前は言ったではないか。オレ様はクールな二枚目と。主人公の危機を救うクールな二枚目はな、ギリギリのタイミングで助けると相場が決まっているものだ」
「いらんことまで守るな〜!」
「愚かな奴め。ギリギリのタイミングを計るのがどれ程大変なのか分かっているのか? 遅ければ主人公を殺してしまうことになるし、早すぎたらちっとも格好良くない。絶妙のタイミングで助けを入れるのが、二枚目の二枚目たる使命だ」
「ああ……、一瞬でもナインテールのことが頼もしいと思った自分が馬鹿だ」
 ナユタは心の底から後悔しながら、頭を抱えた。
 そんなことはお構いなしに、ナインテールは枝の上からジャンプすると、ナユタとワーウルフの間に着地した。そしてワーウルフをビシッっと指さし、こう言い放つ。
「よく聞け二流妖魔。こんな三流主人公を相手に何をムキになっている。それよりも、一流妖怪のこのオレ様と最後の決着をつけようではないか。お前が負けたら、そうだな……、オレ様のために特上の肉でも用意しろ。そしてもしオレ様が負けたら、それはあり得ないが、その時こそこの間抜けを食っても良い。まあ食ってもあまり旨いとは思えんがな」
「おっ、おい。勝手に決めないでよ」
 どう考えてもナインテールの言葉は理不尽であるが、ナユタの言葉はナインテールの右耳から左耳に通り抜けるだけだった。
「どうだ? 今度こそ真剣勝負だ。クライマックスに相応しい最高の舞台をこのオレ様と…」
「さっきから訳の分からねぇことをギャアギャアぬかしやがって。いきなり炎が出てきた理由はよく分からねぇが、今度こそお前を食ってやる!」
 ナインテールのセリフの途中であったが、ワーウルフはナインテールの横をまるで眼中にないように走り抜け、再びナユタに襲いかかっていた。
 それも当然である。なぜなら、ワーウルフにはナインテールの姿も見えず、声も聞こえないからだ。だから突然ナユタが木の上に向かって喋りだしたのも、恐怖で気が狂ったのだとワーウルフは思ったであろう。
 だがナインテールは、そんなことには少しも気付いていない。
「お、おのれ二流妖魔め。よくも、よくもオレ様のことを……」
 怒りに燃えるナインテールの頭の上に、真っ赤な巨大な炎が浮かび上がっていった。
 一方ナユタとワーウルフに目を向ければ、今まさにワーウルフがナユタに襲いかからんばかりであった。しかもナユタは、まだ先程の股裂けの痛みが収まっていない。
「くうっ」
 ナユタは今度こそ顔をしかめた。武器になりそうな物は、今や腰に差しているナイフのみ。しかしそのナイフも、藪を抜ける際に葉を切り開きながら進んだため、刃がボロボロになっている。
 今は迷っている暇はないと思い、ナユタは頭を瞬時に切り替えた。別に使い物にならなくても良いのだ。突然目の前に刃物を向けられれば、例えボロボロになっていても威嚇にはなるはずである。ただ、ワーウルフを脅かすことが出来さえすればよい。
「だあっ!」
 ナユタは素早く腰からナイフを抜き、大声を上げながらワーウルフの目の前にかざした。
「うおっ!」
 効果は十分だったようだ。ナイフに驚いたワーウルフはバランスを崩し、勢い余って前につんのめるような格好になった。
 「やったぞ!」と心の中で歓喜の声をあげ、ナユタは周囲に目を向けた。刃の欠けたナイフは、所詮脅し程度にしか効果はない。新たに武器になりそうな物を探さなくてはならなかった。
 だがその直後だった。
「よくも……、よくもオレ様のことを無視したな〜!」
 ナインテールが、怒りの言葉と共に鬼火を放ったのだ。
 しかし鬼火を放たれた相手、つまりワーウルフは体勢を崩している。鬼火は僅かにワーウルフの頭をかすめただけで、彼の前に立ってた不幸な男に向かっていた。
「うわあ!」
 ナユタは世界新記録級に目玉を飛び出させ、何故か自分の方に向かってきた鬼火に仰天した。 
(ど、どうにかしなくちゃ) 
 考えるナユタは、奇跡的に足下に転がっていた水筒を見つけた。エディンがワーウルフに殴られたときに、持っていたリュックサックの中から弁当籠などと一緒にまき散らせた物だ。中にはサヤカが間違えて酒を入れてしまったのであるが、昼食を食べているときにナインテールがそれを飲んでしまい、ナユタはヒドイ目に遭わされた。
 これを使えば鬼火が僕をよけるかも知れない。ナユタはそう考え、素早く水筒を拾い上げて鬼火に向けて中身をぶちまけた。
 水を使って火を消すならまだしも、生き物でもない鬼火が、水に怖がるだろうという発想はあまりにも滑稽である。
 が、ナユタの行動はあながち間違ってもいなかった。なぜなら、本当に鬼火は生きていたのである。
「おおっと!」
 鬼火は水(この場合は酒だが)をかわすようにして大きく沈み込み、再び浮き上がってナユタに向かっていた。創り出した妖怪に似てか、性格もひねくれている。
「てやんでぇ。危ねぇじゃねえか、このスットコドッコイ!」
「なんだよこの鬼火は〜」
 どう考えても無茶苦茶な鬼火を相手に、もはやよけるしかない。ナユタは腰を屈めて頭を亀のように引っ込め、生ける鬼火はその上を通過していった。
 だがそこへ、今度はバランスを崩したワーウルフが突っ込んで来た。何をやっても状況が好転しない、災難な男である。
 丁度二人で頭突きをやり合う格好となり、さらにワーウルフの勢いも加わって、ゴツッという鈍い音が響いた。
 空腹で頭が朦朧とし始めているときに、強烈な頭突きはツライ。さしものワーウルフもバタッと地面に倒れ、動かなくなってしまった。
「いてててて……」
 しかし、いつも体を張っているナユタは打たれ強い。目尻に涙を浮かばせながらも、鬼火の行方を探る。
 顔をしかめて見つめる先で、鬼火は更にナユタの背後にあった大木の横を通り抜け、その後ろにあった樹齢何百年と思える巨木に突っ込んでいた。 
「ひゃ〜はっはっは、鬼火様のお通りでい! 燃えろ燃えろ〜!」
 鬼火が突っ込んでいった瞬間、轟音と共に巨木は紅蓮の火柱に包まれた。さらにものすごい爆風が広がり、辺りの木々が木の葉を舞わせながらザワザワと揺れる。
 炎に包まれた巨木は、まさしく「火柱の樹」である。深い藍色(あいいろ)を帯びてきた空を背景に、見上げるほど背の高い樹が炎に包まれている。ある意味、芸術的とも言える光景だ。
 そして一瞬して巨木を炭に変えて、炎はかき消すように消えてしまった。
「………」
 ナユタは口を大きく開けながら、茫然とそれを見つめていた。正直、シャレにならない破壊力である。
「な、な、な、なんてことするんだ〜! 僕に当たっていたら、確実に骨すら残ってなかったぞ!」
 ナユタはナインテールに向けて思いっきり怒りをぶちまけた。
「オレ様のことを無視するのが悪いんだろうが!」
「無視したのは僕じゃない、ワーウルフの方だろ!」
「知るか! せっかくの見せ場をぶち壊しやがって! あれからオレ様の格好いいセリフが続くところだったんだぞ!」
「それのどこが『霊界の貴公子』なのさ! そんなダサイ毛皮なんかしちゃってさ! それに何が『このオレ様がいる限り不幸は訪れない』だよ! かえって苦労が増えるばかりじゃないか! 」
 ナユタはいまだに、ナインテールが言うところのナインテール・ブラウン(つまりナインテールの毛皮の色)が流行するとは、ミジンコの涙ほども思ってはいなかった。
 そして、確かにナインテールがいてくれて良かったとは思っている。その変身能力がなければシャドウも捕まえられなかっただろうし、今もこうしてサヤカを見つけることはできなかったであろう。だが、それ以上に気苦労が増えたのもまた事実なのだ。
「なにぃ?」
 聞き捨てならない言葉だったのか、ナインテールは耳をピクリと動かして声を低くした。そしてナインテールはものすごい勢いでナユタの脇を走りすぎると、背後の大木を登り始めて太い枝の上に乗っかる。
「聞けぃ、この四流主人公!」
 確かにナインテールは背が低い分、下からだといまいち威圧感に欠けてしまう。それで木の上に登ったのであろう。かつて無いほどの怒りの形相で、ナインテールは続ける。
「オレ様には嫌いな言葉がいくつかある! その一つが、’ダサイ’だ! いつもドジで間抜けな五流主人公のお前に、’ダサイ’などと言われる覚えはない! そして六流主人公に、自慢の毛皮をとやかく言われる筋合いもない! ファッション感覚などまるでない七流主人公に、いったい何が分かるんだ! そもそもナインテール・ブラウンが流行らないのは、お前が格好良く活躍しないからでないか、この八流主人公め!」
 どうやら’ダサイ’と言われたことが相当頭に来ているようである。この調子だと、後半の苦労が増えたという言葉は耳にも入っていないのであろう。
 ナユタは「はぁ〜」と重苦しいため息をついた。やはりこの妖怪と付き合っていると、気苦労が絶えない。
「だいたい九流主人公のお前には…」
 と、ナユタの格が九流にまで落ちたところで、ナインテールの言葉が途絶えた。何かに気付いたのか、視線の先を右手の方にあった木の幹の方に向ける。
 すると、ナインテールの針のように細い目が徐々に見開いていき、額には一つ二つと脂汗が浮かんでいった。
 幹には、巨大なニシキヘビが絡みついていたのである。先程サヤカの目の前に現れた、褐色の地に赤褐色の紋を持つニシキヘビである。
「へ、へ、へ、蛇……」
 ナインテールは四本の脚をガクガクと振るわせながら、目をコインのようにまん丸にして、大蛇を見つめた。さらにその大蛇が、太い枝を伝ってヌルヌルとナインテールの方に近づいていく。
「よ、よ、寄るな来るな近づくな触るなくっつくなあっち行けコノヤロー!」 
 ナインテールの必死の言葉も虚しく、大蛇はどんどんとナインテールに近づいていく。
「はははっ、何を驚いてるんだよ。蛇に妖怪のナインテールは見えるわけないじゃないか」
 ナインテールのあまりの怯えぶりに、ナユタは腹を抱えて笑った。
「ほら、そいつの頭の後ろに白い斑点が三つ並んでいるだろ。だから別名オリオンって呼ばれているんだよ。ちょうどオリオン座の3ツ星みたいだからね」
「オ、オリオンだかオニオングラタンスープだか知ったことか、ボケ!」
 ビクビクと震えている姿では、ただの虚勢を張っているにしか見えない。
 大蛇は更にナインテールに近づくと、にゅうっと頭を起こし、唾液の糸を引かせながらゆっくりと口を開いた。そしてユラユラと頭を動かして狙いを定める。
 そして次の刹那、フッと大蛇の影が消えた。
 ナインテールが悲鳴を上げる暇もなく、大蛇はナインテールの頭の上すれすれを通り抜けていき、ガサッと後ろで音を立てた。そのまま大蛇はゆっくりと頭を戻していき、バリバリと口の中を動かす。昆虫でも捕まえたのであろう。
 その下で、ナインテールは白目を剥いたまま剥製のように固まっていた。恐らくその目の前に好物のリンゴが出されても、超高級食材を使った豪華料理を並べられても、動くことはないだろう。
 大蛇は口の中の昆虫を一気に飲み込む。最後にチロリと赤い舌を出し、そのまま何もなかったかのようにズルズルと身体を幹の方に這わせていった。
 硬直したナインテールの前を、大蛇の長い身体が戻っていく。やがて最後の尻尾がナインテールの身体を弾き、ナインテールは枝の上から落下していった。






「ふぅ〜」
 静けさの戻った森の中に、ナユタの短いため息が漏れる。
 ナインテールが気を失って安堵するのもおかしな話しであるが、ナユタにはそんな疲労感があった。
 ともあれ、サヤカ達を見つけることもできたし、やっかいなワーウルフも今は気を失っている。後はサヤカ達を森の外まで送り届けるだけだ。
「君がサヤカちゃんだね?」
 ナユタはサヤカの方に振り返り声をかけた。サヤカは「は、はい」と口ごもりながらコクリと頷く。
「森の中でナユタという少年に会ってね、彼に頼まれて君とエディン君を捜しに来たんだ」
「ナユタに!?」
 ナユタという言葉を聞いた瞬間、それまで虚ろげだったサヤカの表情がパッと明るくなった。
 無理もないだろ。それまでに、目の前にいきなり大蛇が現れ、さらにワーウルフに襲われそうになったと思ったら、今度は突然見知らぬ男が出てきたのだから。
 その後は恐らく彼女の理解を超えていただろう。何もいない虚空に向かって男が喋り始めるわ、突然大木が炎を吹き上げたのだから。そのすべてに高飛車な狐の妖怪が関わっているなど、サヤカは知る由もない。
 ナユタはそんな彼女に優しく微笑みかけ、安心させるように肩に手を置こうとした。そこには右45度の角度がどうのこうのとかいうアホらしいこだわりは、もはや無い。
「いきなりで驚かせてしまったかも知れないけど、もう大丈夫だよ。森の外でナユタ君が待っている。僕が必ず君とエディン君を彼のところに連れていってあげるよ」
「はっ、そういえばエディン!」
 エディンの名前を聞いて、サヤカは慌てて大木の幹の近くに倒れているエディンに駆け寄った。ちょうどワーウルフに殴られたエディンの様子を見に行こうとしたときに、ワーウルフに足をかけられて転んでしまい、その時にナユタが現れたのだ。
「………」
 ナユタは無言のまま、行き場を失った右手を宙に漂わせる。
「エディン?」
 サヤカはうつ伏せに倒れているエディンに声をかけ、仰向けに起こしてみた。エディンの顔は、殴られた右の頬が赤く腫れ上がっており、唇も薄く切っている。
「エディン君は大丈夫かい?」
 サヤカの背中からナユタが声をかけた。
「ええ、気を失っているだけみたいです」
 目元を明るく弾ませながら、サヤカは振り返った。少し様子見を見ただけで分かってしまうところが、サヤカのすごさだ。よく気絶する不運な男が側にいるだけあって、サヤカは経験豊富である。 
 サヤカはポケットからハンカチを取りだしてエディンの唇に滲んだ血を拭い、側に散らばっているエディンの玩具を彼のリュックサックに詰め始めた。
 暫くしてその手が、ふと止まる。
「エディン君も無事だったことだし、すべて終わったな……」
 手を腰に当てながら、ナユタは空に向かって呟いた。西の空に輝く宵の明星を見つめながら、今までの苦労が蘇ってくる。
「いえ、まだ終わってませんよ」
 と、苦労を噛みしめるナユタの耳にサヤカの声が入ってきた。
「えっ、どういうことだい?」
「ワーウルフを助けてあげないと」
 ナユタに背を向けたまま、サヤカはスクッと立ち上がる。
「ワーウルフを助けるだって!?」
 ナユタが我が耳を疑いなら叫んだ。
「君たちはあいつに食べれそうになったんだぞ」
「それはお腹が減ってきたからです。あの人、あのままだったら本当に死んでしまいそうじゃないですか」
「それは仕方ないんだよ。森の中じゃ、獲物にありつけない者は死んでいく。それが野生の掟さ。食うか、食われるかなんだ」
「……すいません、放っておけないんですよ。お人好しすぎるのかも知れないですけどね、ふふっ」
 苦笑いを浮かべたのか、サヤカのポニーテールが小さく揺れた。
「それに、ちゃんと考えもありますから」
 振り返ったサヤカは、一つの籠を抱えていた。




15

 真っ白い世界を漂っていた。
 上も、下も、右も左もない。
 感じられるのは、腹の底から沸いてくる空腹感と、ひどい頭痛だけだった。
(俺はこのまま死ぬのか?)
 自分の声があたりに響き、また帰ってくる。
(このまま腹を空かして死ぬんだな、俺は……)
 森のハンターと呼ばれた自分が、なんと無様な死に方であろうか。それも、さっきまで目の前には獲物がいたというのに。
 空腹で行き倒れたという同族の話を聞いたとき、彼はそんな仲間のことを笑い飛ばしたが、今はそんな自分がひどく愚かに思えた。
(何が森のハンターだ、まったくよぉ……)
 彼は自嘲気味に笑った。所詮は人間が勝手に付けた名だ。そんな名前を誇りに思っていた今までの自分に、腹が立つ。ハンターといえども、その日の獲物に命を懸けている。獲物を捕らえられなければ、今の自分のように死んでいくだけだ。
(肉が食いてぇ……)
 口の中が湿っていくのが感じられた。死にゆく最後の願いが食べ物のことだと思うと我ながら情けなくなるが、きっとそんなものなのであろう。今際の際に高尚な願いを出来る者など、いるはずはない。
 そんなことを考えていると、口の中に肉の味が広がっていった。
 幻覚を感じ始めたのだから、いよいよなのだろう。彼は覚悟を決めたが、口の中には確かな歯ごたえが感じられる。こんなはっきりとした幻覚があるのだろうか。
 彼はもう一度しっかりと、口の中の物を噛みしめてみた。その瞬間、パッと口の中に肉の味が広がっていく。
「っ!!」
 彼は再び現実の世界に戻っていった。
 ぼやけた視界の向こうから、一人の少女の姿が浮かび上がってくる。それは、彼が追いかけていた眼鏡をかけたポニーテールの少女だった。 






「あの、お口に合いました?」
 不安げにサヤカが訊ねてきた。そんなサヤカを、ワーウルフは唖然としながら見つめている。
「お昼のお弁当が少し余っていたんです。これだけじゃあ足りないでしょうけど、もし良かったら食べて下さい」
 サヤカは弁当籠を広げている。その中には、チキンの唐揚げいくつか残っていた。
 ワーウルフの一瞬思考が止まった。何がなんだか分からない。サヤカと弁当籠の中の唐揚げを交互に見つめながら、ワーウルフは戸惑っていた。
「唐揚げなんて食べないですかね? 私たちは生のお肉なんて食べないので。でも唐揚げも美味しいですよ」
 そういってサヤカは、チキンの唐揚げをワーウルフの鼻先に近づけた。いかにも食欲をそそりそうな香りが、ワーウルフの鼻を刺激し、ここ数日腹の中に巣くっていた空腹の虫を一気に騒がせた。
「く、くれ!」 
 ワーウルフは奪い取るような勢いで弁当籠を手にすると、チキンの唐揚げを鷲掴みにして、口の中に頬張った。その瞬間、若鶏の肉汁と、香辛料の香りが口の中に広がる。
 今まで食べたどの肉よりも美味しかった。冷めても美味しさを損なわないのが、サヤカの弁当の神髄である。
 我を忘れて唐揚げをがっつくワーウルフを、サヤカは満足げに微笑んで見つめる。
「ふぅ〜」
 僅かに残った唐揚げをアッと言う間に平らげ、ワーウルフは深いため息をついた。そしてワーウルフは、そのままごろりと地面に大の字になり、両目の上に右腕を乗せる。
「畜生……」 
 ワーウルフの声は僅かに震えていた。隠した両目の脇から、光る物が滴っていく。
「何で……、何でこんなに旨いんだよ」
 決して空腹が満たされたわけではなかったが、もやは彼等を襲って食べようなどという気は完全に失せていた。それほどまでに、サヤカの弁当はワーウルフの心に響いたのである。
 サヤカは弁当籠の蓋を閉めて綺麗に包み直すと、ワーウルフに背を向けて離れていった。そしてそのサヤカを、ナユタが迎える。
「良かったな」
「ええ、美味しいと言って貰えて」 
 自分の料理を食べて喜んでくれるなら、それが一番嬉しい。ナユタはそんな言葉をサヤカから聞いたことがあった。
「本当に良かったです、何もかも……」
 その時、サヤカが身体をフラリとバランスを崩した。ナユタが慌てて駆け寄って、サヤカの身体を正面から受け止める。
「すいません。なんだか私も、疲れちゃった……みたいです」
 ナユタの胸の中で、サヤカは上目遣いに疲労感を一杯に溜めた顔をナユタに向けた。
「本当に、私たちのことを捜しに来てくれてありがとうございました。でもちょっとおっちょこちゃいな狩人さんを見ていると、なんだかナユタを見ているようで……」
「えっ?」
「ナユタも、いつもドジでおっちょこちょいなんです。だから放っておけなくて、側にいてあげたいのですけど。でも、失敗することを気にすることなく、いつも前向きで。もしかしたら、ナユタが助けに来てくれるかも知れないって思っていたんです。途中で森で迷ったり、怪物に追いかけられるかも知れないですけどね。ナユタってそんな男の子なので」
 サヤカが僅かに微笑む。
「ナユタに会ったら謝っておいて下さい。心配かけてごめんねって。そして、先に休んでごめん……って」
 そのままサヤカは、ゆっくりと目を閉じて寝息を立て始めた。
「……サヤカ、もうゆっくり休んで平気だよ。後は僕がちゃんと家まで送ってあげるからね」
 穏やかなサヤカの寝顔を見つめながら、静かなときは過ぎていった……。






「あ〜やれやれ。ヒドイ目にあったな、まったく」
 呪縛から解放されたナインテールがのそのそと出てきた、頭の上の大きなタンコブが痛々しい。
「おっ、ナインテール。ようやくお目覚めかい? さっきは世紀の見物だったな〜。いつもは威張り散らしているナインテールが、蛇を見て失神するなんてさ」
「お、お前〜!」
「ははっ。冗談だよ、じょ〜だん。そんなにすぐに目くじらを立てるなよ。誰にも言わなからさ」
「ふんっ、嘘ついたら毒針を一千万本飲ませるからな」
 ナユタにしかナインテールは見えないというのに、いったい誰にバラすというのだろうか。相変わらずのおとぼけコンビである。
「さて、早く家に帰らないとサヤカのおばさんも心配するよね。魔法使いにでも変身して一気に帰ろうか、ナインテール? ちょうどサヤカもエディンも寝ちゃってるし」
「ふっ、オレ様に良い考えがある」 
 言うが早く、ナインテールは変身を始めていた。ナインテールの身体が、白い煙に包まれる。 
 その煙の奥から現れたのは、まるで雪のように白い毛艶を持った、一頭のペガサスであった。その背中には、同じように純白な翼を持っている。
「魔法じゃあ味気ないだろ。オレ様が送ってやるよ。ゆっくりルザイアの夜景を見せてやる。オレ様からの褒美だ」
「でも、三人もナインテールの背中には乗れないだろ?」
「ふぅ〜。鈍いやつだなぁ〜、本当に……」
 ナインテールはため息をつくと、こう言った。
「お前がサヤカを抱いていってやれよ」
「ぼ、僕が!?」
「言っただろ、オレ様はクールな二枚目だって。自分の手柄は表に出さず、影で感動のラストシーンを演出する。それが今のオレ様の役目だ。ヒロインを優しく抱きしめる、格好いい主役を演じてくれよ」
「ナインテール……」
 ナインテールの言葉に僅かな照れ笑いを浮かべながら、ナユタはエディンをナインテールの背中に乗せ、自分はサヤカを抱きかかえたままその後ろに腰を下ろした。
「さあ、行くぞ!」
 静かな森を切り裂くような嘶(いなな)きと共に、ナインテールは夜を迎えようとしている空に向かって駆けだした。






 夜空の上を、ペガサスが翼をはためかせながら駆けていく。
 その背中には一人の少年と、ポニーテールの少女を抱きかかえた狩人の若者が乗っていた。その凛々しくて若々しい顔は、太陽神であり、また弓の名手としても知られるアポロンの様でもあった。
 その兄弟としても知られる月の女神は、輝ける白銀の満月がとなり、二人を祝福するようにその光を投げかけている。
 神話の一場面を思わせる情景の中で、若者の茶色の髪と少女のポニーテールが風に靡(なび)いていた。この光景を画家が見ていたならば、恐らく何を放り出してでも、キャンバスに向かっていることだろう。それほどに神秘的であった。
 やがて馬上の若者が、ペガサスに一声かける。ペガサスはその言葉に応えるように、首を上げて嘶いた。
 ペガサスは更に大きく翼をはためかせ、飛ぶような勢いで駆け始めた。まるで彗星のようである。ペガサスが翼をはためかせるたび、そして夜空を駆けるたび、星屑が降っていった。
 しかしペガサスの上では、急激なスピードアップで若者がバランスを崩して落ちそうになっていたわけであり……。



おしまい




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