あなたはご存じだろうか、”エルドラン”という島を。
 遠い海の遙か彼方に、その島はあるという・・・・






「ルンルンル〜ン♪」
 朝日の射し込むキッチンに、サヤカの軽やかなハミングが流れていた。
 いつものように黒髪をポニーテールにして、銀縁の丸い眼鏡をかけている。骨の髄まで料理好きで、生き生きとした笑顔を浮かべていた。
 そして白いシャツの上からは、お気に入りの花柄のエプロンをしている。その姿はとても似合っており、まるで新婚の若奥様のようだ。
 サヤカはまな板に並べたレタスの葉を、シャキシャキと手際よく包丁で切っていく。その度に、新鮮なレタスの上で水滴がキラキラと弾けていた。
 その脇には油の入った鍋の中があった。中では、鶏肉の唐揚げがジュワジュワと勢いよく泡を立てている。唐揚げはちょうどいい具合にこんがりときつね色になっていた。
「そろそろいいわね」
 それを見たサヤカは、レタスを切るの手を止める。そしてさいばしを使って油の中から唐揚げをとりだし、クッキングペーパーの上に並べていった。できたての唐揚げは、なおもジュウジュウと音を立てている。
 唐揚げの隣には、その前に揚げて置いた皮付きのフライドポテトもあった。
「さ〜て、それじゃあサンドイッチを作りますか」
 サヤカは切ったレタスを大きな皿に移す。その皿には、トマト、キュウリ、ピクルス、チーズ、ハムが乗っていた。サンドイッチの中身だ。サヤカは「ああでもない、こうでもない」とトッピングに悩みながら、サンドイッチ作りに取りかかる。
 そこへ、一人の子供が元気のいい声を上げてキッチンに入ってきた。
「ねぇサヤカ姉ちゃん、まだできないのぉ〜?」
 サヤカの弟のエディンだ。髪はサヤカと同じく黒だが、派手に寝ぐせがついている。まだ幼稚園児だが、すでに”ガキ大将”として近所では有名だった。
「もうちょっと待っててね」
 とサヤカは言うものの、相変わらずトッピングに悩んでいて一つのサンドイッチもできていない。
「早くしないと遅くなっちゃうよ〜」
 なぜエディンが急(せ)かしているのかというと、今日はナユタといっしょに三人でピクニックに行くからだ。
 女性が支度に時間がかかるというのは常だが、サヤカの場合はちょっと違っている。いわゆる身支度の方は驚くほどできぱきと早いのだが、何せ料理に時間がかかるのだ。たいてい今日のように、盛りつけがどうのこうのと悩んでいる。
「まったくもぉ〜、サヤカ姉ちゃんはいつもそうなんだから」
 などと文句を言うエディンの目が、テーブルの上の唐揚げを捕らえた。「しめた」と顔をニヤつかせ、エディンはサルのようにヒョイと唐揚げをつまむと、口の中に放り込んでしまった。
「う〜ん、美味しい美味しい」
「あっ、コラ! お行儀悪いことしないの!」
 サヤカは、つまみ食いしたエディンをお姉さんらしい口調で叱る。
「だってぇ〜、ちっともお弁当ができないんだもん。盛りつけなんかどうでもいいじゃん」
「どうでもいいですってぇ〜!」
 エディンの言葉に、サヤカは丸い目をさらに大きくさせる。
「お料理っていうのはね〜、見た目だって大事なのよ。分かる? どんなに美味しい料理だって、見た目がひどかったら食べる気がなくなるでしょ。味、香り、見た目、すべてが揃って初めて美味しい料理ができるのよ。だから―」
「分かった、分かったよ。待ってるから早く作ってね」
 サヤカのお料理論に付き合っていては、日が暮れてお月様が出てしまう。エディンは早々にキッチンから退散していった。
「まったくもう・・・・」
 手を腰に当ててふくれっ面をしながら、サヤカはエディンの出ていったリビングの方を見つめる。そしてテーブルの上に視線を戻そうとしたとき、いかにも美味しそうな唐揚げが目に入った。
「・・・・・・」
 少し悩んだ後、サヤカはもう一度リビングの方をチラリと見た。誰もいない。エディンも自分の部屋に引きこもってしまったようだ。
 少しためらいつつも、サヤカは唐揚げを一つ摘んで急いで口の中に放り込んだ。
「うん、バッチリね♪」
 一噛みすると、口の中にジューシーな若鶏の肉汁と香辛料の香りがパッと広がった。眼鏡の奥の瞳をニッコリとさせながら、サヤカはうんうんと満足そうに一人頷く。
「さぁ、早く作っちゃわないと」
 意気揚々とシャツの袖をまくり、サヤカは再びサンドイッチと格闘するのであった・・・・






 それからしばらく経ち、エディンの我慢も限界に達しようとしていたとき、ようやくサヤカの弁当作りが終わった。
「エディン、時間は?」
 サヤカがキッチンから顔を覗かせる。
「もうすぐ約束の時間だよ」
 オモチャで暇を持て余していたエディンがぶっきらぼうに答えた。
「いっけな〜い。ついうっかり夢中になってたら・・・・」
 ドタドタと激しい音を立てて、サヤカは二階にある自分に部屋に急いだ。
 それからきっかり約束の時間に、水色のワンピースを着たサヤカが二階から降りてきた。このあたりはさすがである。
「ほらサヤカ、お弁当を入れておいてあげたわよ」
 そう言って弁当籠をサヤカに渡したのは、彼女の母親であるサラだ。ふっくらとパーマのかかった黒髪を肩のあたりまで伸ばした、どこにでもいる気だての良さそうなおばさんである。サヤカと同じその丸い瞳は、親子同じだった。
「何とかぎりぎりセーフね。ほら、早く行くわよエディン。じゃあお母さん行って来るわね」
「ちょっと待ちなさいよ、サヤカ」
 ナユタを待たせまいと急いで家を飛び出そうとするサヤカを、サラが慌てて止める。  
「忘れ物よ」
 サラは、テーブルの上に乗っかっている空のままの水袋を指さした。
「あっ!」
 サヤカは大きく口を開けて驚くと、水袋を取って駆け足でキッチンに向かっていった。そこには大きな瓶(かめ)が二つ並んでおり、サヤカはその中の液体を水袋に入れていく。
「ふふっ、うっかり忘れてたわ」
 苦笑いを浮かべてサヤカが戻ってきた。
「うっかり、うっかりって・・・・。今日はピクニックなんだから、気をつけなさいよ」
 脇を通り過ぎていく自分の娘に、サラは不安げに声をかけた。
「それはいつもドジばかりしてるナユタに言ってあげてよね。じゃあ行って来ま〜す」
「ふふっ、そうね」
 サラはクスクスと笑いながら、行ってらっしゃいとサヤカとエディンを見送る。






 ナユタの家は、サヤカの家の隣にある二階建ての赤い屋根の家だ。せっかく急いで出てきたのにも関わらず、ナユタはまだ外にはいなかった。
「まだナユタは支度しているのかしら・・・・」
 半ば予想していたことだが、ナユタはまだ支度でもしている最中のようだった。サヤカの頭には、着る洋服がなくなって慌てふためいているナユタの姿や、トイレにでも行って出られなくなったナユタの姿が思い浮かぶ。
「ナユタ〜、もう時間よ」
 サヤカはナユタの家のドアと叩いてみた。
 しかし返事がない。もう一度、今度はやや強くドアを叩いてみたが、返事はおろか物音一つ家の中からは聞こえてこなかった。
「どうしたのかしら?」
 サヤカは二階にあるナユタの部屋の窓を見上げた。いつもは開いているいるはずなのに、今日はまだ閉まっている。
(ナユタ・・・・) 
 サヤカは不安げな表情を浮かべる。そんなサヤカの耳に、何か規則正しい小さな音が聞こえてきた。
(んん? 何だろう)
 よく耳をそばだてて、サヤカはその音を聞いてみる。すると、それはこんなふうな音だった。
「グゥ〜、グゥ〜」
 間違いなくナユタのいびきだった。
「もぉ〜、しょうがないわねぇ・・・・」
 深いため息を付きながら、サヤカはうなだれるようにガックリ肩を落とした。支度はおろか、ナユタは起きてさえいなかったのだ。さすがはナユタ、登場一発目からやってくれる。
 一方のエディンは、ナユタを起こそうと持っていたボールを部屋の窓めがけて投げつけた。幼稚園児にしてはなかなかのコントロールで、ボールが当たるたびにドカドカと窓が音を立てる。
 主役の登場ということで、いざ本編へ・・・・



    



第一笑・楽しいピクニックに・・・・なるわけないよね(^^;@



「うわぁ〜、悪魔に殺される〜!」
 それまで大いびきをかいていたナユタが、突然ガバッと目を覚ました。その拍子に、胸の上に乗っかっていた何かが膝の上に転がり落ちる。
「はぁ〜、夢か・・・・」
 そこが自分の部屋であったことに、ナユタは心底胸をなで下ろした。バクバクという激しい心拍音が胸の奥から聞こえてくる。
 ナユタは恐ろしい夢を見ていた。物語でよく見るような、頭には角が生え、口は耳まで裂け、背中には蝙蝠のような翼を持った悪魔が急にのしかかってきて、さらに緑色の毒液のようなものを口から吐き出したのだ。
「何であんな夢を見たんだ・・・・?」
 いまだに放心状態のナユタはそんなことを考え始めたが、ふと膝の上に何かが乗っているのと、胸のあたりがいやに冷たいのに気付いた。ナユタがうつむいてそれを見てみると・・・・。
(こいつのせいか・・・・)
 膝の上にいたのはナインテールだった。そしてパジャマの胸のあたりには、ナインテールのものとしか思えないヨダレが盛大な世界地図を描いていた。
「へっへへっ、もう食えねぇよ・・・・むにゃむにゃ」
 などと寝言を言いながら、ナインテールは相変わらずナユタの膝の上で寝ている。子狐らしく、寝顔だけならかわいらしいのであるが・・・・。
「まったく、ちゃんとベットで寝ろよな・・・・」
 勝手に他人(ひと)のベットを占領しておきながら、必ずと言っていいほどナユタの上に落ちてくる。ナユタにとっては迷惑極まりない話であった。
 ナユタはナインテールの首根っこ掴んで傍らにどけた。どうせベットに寝かせても、すぐに落ちてくるのが目に見えているからだ。出会って数日で、そのことを思い知らされた。
 と、そんなとき外の方からサヤカの声がかすかに聞こえてきた。どうやらナユタのことを呼んでいるようだった。おまけに、どういうわけか窓がドカドカと音を立てている。
「んん? どうしたんだろう。今日は学校休みなのに・・・・」
 などと言いながら、ナユタは立ち上がって部屋の窓を開けた。
 そこへエディンの投げたボールがタイミング良く顔面にっ!



 ベチャッ!



 ベチャッ?ボールが当たってそんな音がするだろうか。
「ぶへっ、よくもやったなミリ〜っ!」
 本当の敵は下のエディンではなく、頭上のいたずら鳩ミリーであった。何とエディンの投げ球は、ナユタの頬をかすっただけなのだ。ナユタの顔面に落ちてきたのは、言うまでもなくミリーの糞だ。



 ボコッ!



 さらにナユタをかすったボールは部屋の天井に当たって跳ね返り、見事と言うべきコントロールでナユタの後頭部を直撃した。ナユタは頭を押さえてうずくまる。下からはエディンの笑い声がゲラゲラと聞こえてきた。
 ちなみに、鳩の糞がどのような匂いなのかは作者にも分からない。各々それらしい匂いを想像してもらって、のたうち回っていただきたい。
「いてててて・・・・」
 片目をつぶって痛みを堪えながら、ナユタは窓から顔を出して下を覗いた。エディンは相変わらず顔を真っ赤にして大爆笑を続け、サヤカは「何をやっているんだ」という風におでこに手を当てていた。漫画にして描けば、きっとドデカイ汗と共に黒い縦線が顔に何本もあることだろう。
「どうしたの、サヤカ?」
「どうしたのじゃないでしょ! いつまで寝てるのよ!」
 下でサヤカが、近所迷惑もはばからず叫ぶ。といっても、こんなことは日常茶飯事だ。
「いつまでって・・・・、今日は休みだし」
「約束したじゃない! 今日はピクニックに行くのよ!」
「ああっ、そうだった!」
 いまさら思い出したナユタは、頭を抱えて慌てふためいた。
「早く支度しなさいよ! 帰りが遅くなっちゃうわよ!」
「ちょっ、ちょっと待っててね」
 ナユタはヘラヘラと苦笑いを浮かべて、敵に襲われたヤドカリのようにヒョイと頭を引っ込めた。
「早くしないと」
 先ず何より着替えだとばかり、ナユタはタンスの方に走った。このあたり、瞬間的な早さは”ロードランナー”も真っ青だ。
 えっ、そんなもん知らない? まぁ普通に表現すれば、目にも留まらぬ早業といったところだ。窮地に陥ったときのナユタの脚力は、ギネス級であることを覚えておいてもらいたい。
 だがその途中で、ナユタは何かにつまずいた。この時ばかりは持ち前の脚力が災いし、ナユタは顔面から派手に転んだ。いや、転んだというよりヘッドスライディングしたといった方がいいだろうか。
「うう〜ん、誰だぁ〜?」
 ナインテールがフラフラと立ち上がる。どうやらナユタはこいつにつまずいたようだ。
「いひぇひぇひぇひぇ・・・・。ひゃんだヒャインヒェールひゃ・・・・」
 ナユタは鼻を押さえながら後ろを振り向いた。どうやらしたたか打ちつけたようだ。
「ナ〜ユ〜タァ〜。オレ様のメシを奪おうってんだな。そうはさせんぞ」
 完全には目覚めていないのか、ナインテールは酔っ払いのように千鳥足でまぶたはトロンと半開きだった。そしてその目が、妖しく紅く光る。
「ちょっ、ちょっと待ったっ! いまそれはマズイよ」
 ナユタは、「やめろやめろ」と両手をヒラヒラさせる。だがそんなナユタの必死の言葉も、ナインテールの怒りの炎の前にあえなく燃え尽きてしまった。食べ物の恨みとは恐ろしいものである。
「食らえ〜」 
 ナインテールの瞳が一際大きな輝きを発した。その瞬間ナユタは白い煙に包まれ、一瞬にしてヘビに変身してしまった。
「はっはっはっ。ザマ〜みやがれ」
 ナユタを変身させるだけ変身させておいて、ナインテールはコテッと再び横になってしまった。すぐさま「ぐ〜ぐ〜」といういびきが聞こえてくる。
(おお〜い! どうしてくれるんだよ〜!)
 さすがにヘビは喋れないので、ナユタの心の声をお届けしよう。
 とにかくナインテールをたたき起こすしかないので、ヘビになったナユタはナインテールのところへ這っていった。 
(ナインテールったら、早く起きてよ〜)
 ヘビになったナユタは、頭の部分でナインテールの身体を叩く。しかしどんなに強く叩こうが、噛みつこうが、つねろうが、くすぐろうが、ナインテールは夢の世界から帰ってこなかった。
(何でこんな時だけすぐに起きないんだよ・・・・)
 しまいには、ヘビになったナユタの頭の方がクラクラし始めていた。さらに悪いことは続くもので、シビレを切らせたサヤカが下からナユタの名前を叫ぶ。早くしろということだろう。
(どうすればいいんだ・・・・)
 残された手段はただ一つだった。しかし少々手荒すぎて、ナユタには気が引けていたのだが・・・・。
「ねぇサヤカ姉ちゃん、家のドアが開いてるよ」
 下からエディンの声が聞こえてきた。
「本当だ、不用心ねぇ」
 どうやら昨日の夜、ナユタは鍵をかけ忘れたらしい。果てしなくうかつな男だ。
「ナユタ〜、なにやってるの〜?」
 下の階でドタドタと音がする。サヤカが心配になって家の中に入ってきたようだ。
(ええ〜い、ままよ)
 こうなっては、サヤカが二階の自分の部屋に来るのは時間の問題だ。ナユタはついに強行手段に出た。
(おりゃ〜)
 何とナユタはナインテールの首を締め付け始めたのだ。どう見ても寝ているものを起こそうとしてるようには思えない。
「ぐへっ、げほっ! 苦しい・・・・」
 さすがのナインテールもこれにはかなわない。たまらず目を覚ました。が・・・・
「ぎゃあ〜! ヘビだ〜!」
 ヘビになったナユタを見るなり、今度は絶叫して気絶してしまった。口を開けたまま舌を出している。
(なんでだよ〜・・・・)
 どうやらナインテールはヘビが苦手だったようだ。
 そんなことはこの際ナユタにはどうでもよかった。問題は、自分を元に戻してくれる頼みの綱が気絶してしまったことである。ナインテールが頼みの綱というのも、問題といえば問題のような気もするが。
「ナユタ〜。部屋にいるの?」
 サヤカの声と共に、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
(くそぉ〜)
 ナユタはもう必死だ。さらにナインテールの首を締め付ける。



トントントン・・・・



 サヤカの足音がだんだん大きくなってきた。



ぎゅうぎゅうぎゅう・・・・ 



 ナユタはもっと激しく締め付ける。


トントントン・・・・


ぎゅうぎゅうぎゅう・・・・

トントントン・・・・

ぎゅうぎゅうぎゅ・・・・ 
トントントン。
 サヤカがドアの前にやってきた頃、いつしかナインテールの顔は蒼白を通り越して真っ白になっていた。
(いけないっ!)
 そうだナユタ。このままでは、ナインテールが2度も三途の川を渡ることになる。 
(早くドアの鍵を閉めないと)
 ナインテールが三途の川を渡るより、鍵を閉めることの方が大事なのか・・・・。
 ナユタはナインテールから離れ、ものすごいスピードでウネウネと床を這うと、ヘビとは思えぬほどの大ジャンプを見せた。その先にあるのは、ドアのノブである。
 だが何ともタイミングが悪い(良い?)ことに、ちょうどその時サヤカがガチャリとドアを開けた。
「ナユタ〜? ひぃ〜!」
 サヤカが驚くのも無理ない。ドアを開けた途端に空飛ぶヘビが襲いかかってきたら、誰だって悲鳴を上げる。
「いやぁ〜!」
 だがサヤカの驚きは半端なものではなかった。目を背けながらも、なぜかヘビになったナユタをキャッチ。おそらく本人も無意識であろう。
「いやぁ〜、いやぁ〜、いやぁ〜!」 
 怪物にでも襲われたかのような悲鳴を上げながら、サヤカはヘビになったナユタを猛然と振り回した。
 いつしかナユタの残像は2匹になり、4匹になり、8匹になり、16匹になり、32匹になり、64匹なり・・・・。
 やがて回転速度がマッハを越えるころには、サヤカは気を失って倒れてしまった。
 むろんナユタとて無事ではない。こちらも目を回しながら気絶してしまった。ナユタの頭の上を、三匹のひよこが飛び回る。ひよこたちは、まるでさえずるようにこう言った。
「ピヨピヨ〜。通算4回目のきぜ〜つぅ〜」
 紹介しよう、”スリー・チキンズ”だ。
 ナユタがあまりにも良く気絶するので、いままで気絶してきた回数を数えてみようというほんの遊び心である。以後、お見知りのほどを。





 ところで、全員気絶してしまってはちっとも話が進まない。
 誰か目を覚ましてくれないかと思っているところに起きてくれたのは、われらがドジ男である。
(いてててて・・・・。サヤカもヒドイなぁ、あそこまでやらなくてもいいのに)
 偶然とはいえ、いきなり襲いかかったナユタの方がヒドイ。あれは正当防衛だ。
(とくかくナインテールを起こさなくちゃ)
 ヘビになったナユタはナインテールのところまで這いずる。顔には赤みが戻っているものの、ナインテールはいまだに気絶していた。
(何かいい方法はないかな・・・・。そうだっ!)
 ナユタの頭の上で小さなマメ電球が光った。ヘビになったナユタは、おもむろに窓際の机の上まで這いずる。
 机の上にあるのは一個の丸いリンゴだった。ナインテールが、この部屋で食べるために持ってきたものである。好物のリンゴを近づければ、きっと目を覚ますだろうというのがナユタの作戦である。
 だがそんな作戦をぶち壊すかのように、無情にも奇襲攻撃に見舞われた。
「サヤカ姉ちゃ〜ん、なにかあったの?」
 サヤカの悲鳴を聞いて、下からエディンが声をかけてきたのである。
(ああもう〜。どうすればいいんだ)
 何も答えが返ってこなければ、エディンは心配して家の中に入ってくるだろう。ナユタにとってそれは困る。
(よし、これで何とか)
 ヘビになったナユタは尻尾を鉛筆に絡ませ、紙の上にガリガリと文字を書いていった。次にその紙を器用に丸め、窓の外に投げる。エディンの足下に落ちたその紙には、こう書いてあった。


”心配しないでそこで待っていなさい”


 心配するなと言われれば、心配してしまうのが子供心である。しかも返事は、まるでボウフラが組み立て体操をしているみたいな文字。そして先程の悲鳴。何かあったとしか考えられない状況である。
「サヤカ姉ちゃん、待ってて!」
 エディンは勇気を振り絞ってナユタの家に突入した。
(なんでそうなるのぉ〜)
 つくづく難儀な男だ。やること為すことすべて裏目に出る。
(とにかく一か八かだ)
 ヘビになったナユタは、リンゴを転がして机の上から落とした。ドンという音と共に床の上に落ちたリンゴは、ゴロゴロとうまい具合にナインテールの鼻の方に転がっていく。
「うう・・・・、うう〜ん・・・・」
 早くもナインテールはリンゴの匂いに反応したようだ。黒い鼻をヒクヒクとさせる。
「オレ様の鋭い嗅覚を刺激するこの香しいかおりは・・・・」
 ナインテールが目を開けた先には、つやつやした真っ赤なリンゴが転がっていた。
「おお、天からの贈り物か? それとも日頃のオレ様の行いが良いからか? ちょうどいい、デザートにリンゴでも食うか」
 どうやら食べ物の夢の続きを見ていたようだ。飛び起きたナインテールは、もともと細長い眼をさらに細めてリンゴにかぶりついた。
(よしっ、目を覚ましてくれたぞ。次はテレパシーを使って・・・・)
 何よりしなければならないのは、ヘビになった自分がナユタであることをナインテールに伝えることだった。そのためには、自分たちしか使えないテレパシーを使うのが一番だとナユタは考えたのだ。 
<お〜い、ナインテール。ちょっと机の上に来てみてよ>
<んんっ、ナユタか? どうした?>
<いいからさ、ちょっと机の上に来てよ。こっちにはもっ〜とおいしいリンゴがあるんだ>
<なにっ、ホントか!?>
<ホントもホントさ。早くしないと僕が食べちゃうよ>
「ざけんなぁ〜!」
 ナユタに食わせるかとばかり、ナインテールは机の上にジャンプした。このあたり、さすがにナインテールの扱いに慣れているナユタである。
「全部食ったら承知しない・・・・ぎゃあっ、ヘビだ!」
 普段は開けているのか閉じてるのか分からないような細い眼を、目玉が飛び出ようかというほど開いてナインテールは悲鳴を上げた。過去によほど苦い経験でもあったのだろうか。 
<待って、ナインテール。そのヘビは僕なんだよ>
「ヘ、ヘビがナユタなわけ、な、ないだろうが。ヘ、ヘボナスが」
 テレパシーで返事するのも忘れ、ナインテールは冷や汗をダラダラと垂らしている。
<だ〜か〜ら〜、ナインテールが僕をヘビに変身させたんじゃないか>
「そういえばさっき夢の中でナユタが出てきたなぁ。オレ様のメシを奪おうとしたから何かに変身させたような・・・・。そうかっ、オレ様はまだ夢を見てるんだ!」
<ちが〜うっ! ちゃんと現実の世界だよ>
「はっはっは〜、ヘビが喋るわけないじゃないか。そうか、お前もオレ様と同じ妖怪か何かなんだな。だからオレ様の姿も見えるし、喋ることもできる」
<僕がナユタだからだよ。早くもとに戻してったらっ!>
「何度も言うがナユタはヘビの姿なんぞしてないぞ。嘘をつくならもっとマシな嘘をついたらどうだ。だいたい自分をナユタと言い張る根拠が分からん。あんなドジで、マヌケで、役立たずで、格好悪くて、人生お先真っ暗なナユタにどうしてなりたいんだ?」
「おっ、大きなお世話だよ。僕はナユタなんだってば>
「ええ〜い、くどいやつだ。そんなにナユタになりたかったらしてやるわい」
 ナインテールの眼が妖しく赤く光り、ついにヘビはナユタになった。いや、戻ったと言うべきか。ともかく、すったもんだの末ナユタは元に戻ったわけである。
「やった〜! やっともとに戻れた」
「サヤカ姉ちゃん、大丈夫っ!」
 ナユタが机の上ではしゃいでいるちょうどその時、エディンが部屋に入ってきた。ぎりぎりセーフだ。
「あれっ・・・・。何で机の上なんかに、泣いてんのナユタ兄ちゃん?」
 エディンは、床に倒れているサヤカと、机の上で涙を流しながら喜びを噛みしめているナユタを交互に見つめた。状況がサッパリ分からない。
「あっ、いや。その〜・・・・」
 ナユタはただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
 出発からこんなんで大丈夫なんだろうか、ナユタよ。1000%波乱に満ちたピクニックが、いよいよ始まる・・・・。  





「うわぁぁぁぁ」



ドテッ!



 10点、10点、10点、10点、10点。ナユタは芸術的な尻餅をついた。
 心配していた早々にこのザマか・・・・。
「もぉ〜、何やってるのよ・・・・。滑るから気をつけてって言ったばかりじゃない」
 サヤカの声が洞窟の中に響く。
 ナユタ達がやってきたのは、”ドラゴン・ケイブ”と呼ばれている天然の鍾乳洞である。
 ルザイアの町の西に広がる森を抜けると、”飛竜の丘”という広い台地がある。実はこの台地には、奇妙な縦穴がいくつも開いているのだ。昔の人はこの縦穴をドラゴンの巣と考え、穴の底からドラゴンが飛び出してくると信じていた。”飛竜の丘”という名前も、その伝説に由来している。
 さてその縦穴は底はどうなっているのかというと、まるで蟻の巣のように巨大な鍾乳洞が広がっているのだ。同じくドラゴンの伝説になぞらえて、”ドラゴン・ケイブ”、つまり竜の洞窟という名前が付けられている。
 ”ドラゴン・ケイブ”の中では、様々な形の鍾乳石を見ることができる。
 まるでつららのように天井から垂れ下がっているもの。かと思えば地面からミミズのように天に向かっているもの。柱のように天井を支えているもの。じゃがいものように丸くてボコボコしているもの。山のような形をしているもの。
 まるで宮殿の広間を思わせるようなその風景を、”光りゴケ”というコケが幻想的に浮かび上がらせてた。
 ”光りゴケ”とは、淡い緑色の光りを発するコケだ。洞窟の中ではよく見られ、万能薬としても知られている。先程ナユタが足を滑らせたのも、このコケのせいだ。
 この神秘的な景観は、台地に降り注ぐ雨によって造られる。
 この台地に降った雨は地下に染み込み、そこに広がる石灰岩の層を少しずつ浸食するのだ。洞窟内には、至る所に水路が走っている。数十万年にも渡る自然の営みが、この鍾乳洞を造りだしたと言えよう。






 さて、”ドラゴン・ケイブ”の説明が終わったところで物語に戻ろう。
「洞窟の中ってけっこう涼しいんだね」
 袖の短いシャツ一枚しか着ていないナユタは、両腕を抱きかかえるようにして言った。
「だからもう一枚着てくれば良かったのに」
 一方のサヤカは準備万端で、ワンピースの上にもう一枚上着を羽織っていた。
 ルザイアは比較的温暖な気候にあるが、洞窟の中は外よりもいくらか涼しかった。おまけに地下水がそこかしこから湧き出しているので、実際の温度よりも寒く感じられる。 
「サヤカは準備がいいんだね」
「当たり前よ、これを読んだもの」
 と言ってサヤカがポシェットから取りだしたのは、『これを知らないで”エルドラン通”を語れるか!!』とかいう分厚い本だった。いかめしいタイトルが付けられているが、要はエルドランの名所案内のような本だ。 
 こういうことにはマメなサヤカである。
「あっ。あそこにあるのが”翡翠(ヒスイ)の大支柱”よ」
 サヤカは洞窟の奥にある巨大な柱を見つけると、ナユタとエディンを置き去りにして小走りに駆けだした。自分で滑らないように気をつけなさいと言いながら、すっかり忘れている。
「ああ〜、待ってよサヤカ姉ちゃん」
 エディンもサヤカのあとに続く。
「ちょっと〜、置いてかないでよ」
 ナユタもエディンのあとに続くべく起き上がろうとした・・・・瞬間にお尻に激痛が走り、ヘナヘナと倒れ込んでしまった。
「無様だなぁ・・・・」
 ナインテールの言うとおりだ。
「だって痛いんだもん、しょうがないじゃないか」
 ナユタはお尻をさすりながら立ち上がった。
「だいたい、なんでナインテールも来てるわけ?」
「むっ! 来ちゃ悪いか?」
「いやっ、悪いってことはないけど・・・・。ナインテールがこんな所に来てもつまらないだろうと思って」
「アホか。こう見えなくてもオレ様は妖怪界のピカソと言われていてな。見ろ、この岩の芸術を。まさにワンダーフェスティバル」
 意味が分からん。ピカソが涙を流しているだろう。
「それに家で待ってたら、オレ様の出番がなくなっちまうじゃないか」
(結局それなわけね・・・・)
 げんなりとした表情を浮かべながら、ナユタはサヤカ達のところに歩いていった。
 さて、お馬鹿な会話のせいですっかり遅れてしまったが、”翡翠の大支柱”について説明しよう。
 名前からだいたい想像が付くかと思われるが、”翡翠の大支柱”は緑色の光を放つ巨大な鍾乳石の柱である。柱のような鍾乳石は”ドラゴン・ケイブ”にもたくさんあるが、この大支柱はその中でも一際大きい。緑色の光りを発しているのは、”光りゴケ”が大支柱を覆うように付着しているからだ。
「すご〜い、挿し絵とはやっぱりぜんぜん違うわね」
 歓声を上げながら、サヤカは本の挿し絵と実物とを見比べていた。やはり実物は迫力が違う。
「でっかい木みたいだね」
 エディンは口を開けながら大支柱を上から下まで見ていた。
「そうね。私たち三人が手を繋いでも、大支柱を半分も囲めないわね」
 そんなことを言いながら、サヤカは世界樹(ユグドラシル)のことをふと思い出した。
 この世界のどこかに、視界を覆うほどの巨大な木があるという。それが世界樹だ。さすがに視界を覆うほどではないにしても、大支柱を見ているとそんな伝説もあながち空想ではないと思えてくる。
 ひとしきり大支柱の美しさを堪能して、サヤカはさらに奥へと歩いていった。むろん遅れてきたナユタには、感動に浸る間もない。
 さて次にナユタ達の前に姿を現したのは、”百枚皿”と呼ばれる”ドラゴン・ケイブ”でも一番の名所である。
 その名の通り、皿のような形をした石灰岩が山のようにいくつも積み重なって、ずっと奥まで続いている。さならが、巨人になって山の段々畑を見上げているようだ。
 まさに水の神秘と言えるだろう。サラサラと流れる地下水は、悠久の時をかけて少しずつ岩を削り、とても人の手では造り出せないような美観を見せてくれる。自然の力強さと、そして美しさをかいま見るようだ。
「すごい・・・・」
 迫ってきそうなほどの勢いに、サヤカは圧倒されていた。言葉を失うとはまさにこのことである。
「どうしてこんな形になるんだろうね」
 そんなエディンの素朴な疑問も、サヤカの耳には届いていなかった。 
 その一方でナインテールは。
<なぁナユタ、あれだけ皿があればどれだけメシが食べらえるだろうか?>
 などと考えていた。まったく食い意地の張った妖怪である。
<そんなことを知らないよ・・・・>
 ナユタは投げやりに答えた。
<半年ぐらいは食うものに困らなそうだなぁ・・・・じゅるじゅる>
<そいつは良かったね。それより、ヨダレが出てるよナインテール> 
<そうだ! 二人で皿を取り合って、山を崩した方の負けっていうゲームをやったら面白そうだな。どうだナユタ、すごいアイデアだろう?>
<ああ、すごいよ。ナインテールにしかできない発想だ・・・・>
 どこまで天然記念物を冒涜すれば気が済むのであろうか、この妖怪は。しまいには、ピカソの涙が枯れてシワシワのミイラになってしまう。






 そんなこんなで洞窟を進んでいくと、やがて通路は扇のような構造になってきた。つまり、通路が狭くて天井が広いという具合だ。こんな変わった地形も、鍾乳洞ならではである。
 そしてその天井からは、つららのような鍾乳石が無数に天井から垂れ下がっていた。
「これが”つららづくし”ね」
 サヤカがガイドブックのページをパラパラとめくって説明した。なんとも分かりやすい場所である。
 三人はしばし無言で天井を眺めていた。
「ねぇ、ここって疲れない?」
 ナユタの第一声がこれである。
「ふふっ、ずっと上を向いてないといけないからね」
「そうなんだよ。首が痛くなっちゃって」
 そう言って、ナユタは首の後ろの方を軽くもみ始めた。
「なんだかハリネズミの背中みたいだね」
「ははっ、そうだね」
 何とも子供らしいエディンの感想に、ナユタは笑みをこぼした。この時ナユタが「お化けミミズが垂れ下がっているみたいだ」などと美しさもかわいさもない連想をしていたことは、彼の名誉のためにも伏せておこう。
「でもさぁ、よく落ちてこないもんだよね」
「そうよね、ちょっと恐いわよね」
 なかなか美しさと迫力のある眺めであるが、いつなんどき上から落ちてくるかも知れないかと思うと確かに恐い。おまけに通路も狭いので、逃げ場がないときている。
「でもいままで一度も落ちてきてないんだろ?」
「そうガイドブックには書いてあるわね。よほど運が悪くない限りは、まず頭の上に落ちてくるなんてことはないでしょうね」
 そう言っている自分のすぐ側に、よほど運が悪い男がいることにサヤカは気付いていない。 
<ちょっとオレ様が調べてきてやろうか?>
 唐突にナインテールがテレパシーを送ってきた。
<調べるって・・・・、なにを?>
<危ないかどうかさ。本当に落ちてきてぶち当たった日にはシャレにならん>
<でもどうやって調べるのさ?>
<まぁ見てろって>
 自信満々に答えると、ナインテールはキツツキに変身した。そして翼をパタパタとはためかせて、天井に向かって飛んでゆく。
 そのナインテールは、ナユタの真上にある比較的太めの鍾乳石にとまった。もし落ちてきて当たったら、いかにも痛そうである。
(ふふふ・・・・、どこまでオレ様の攻撃に耐えられるかな?)
 ナインテールは思いっきりくちばしを振りかぶり、勢いよく鍾乳石にたたきつけた。ガツッという、岩とくちばしがぶつかる音が小さく響く。
「あれ? いま何か音がしなかった」
 その音を聞きつけて、サヤカがあたりをキョロキョロと見渡した。
「き、気のせいじゃないかな・・・・」
 と言ってごまかしながら、ナユタは何をやっているんだと言いたげに天井をチラリと見た。
 かたやナインテールであるが、思った以上に鍾乳石が堅かったのか、いとも簡単にはじき返されてしまった。くちばしを打ちつけたナインテールの方がクラクラしている。
(ぬぅ・・・・。お主、なかなかやるな)
 ナインテールはさっきよりも強くくちばしを打ちつける。ガキッというさらに大きな音が響くが、鍾乳石には傷一つ付かなかった。



 ブチッ!



「コノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノコノッ!!!」
 悲しいぐらい細い堪忍袋の緒を切らし、とうとうナインテールはムキになり始めた。彼の堪忍袋の緒は、そうめんか何かで出来ているのであろうか。
 洞窟の中には、千人の抗夫が一斉につるはしを振り下ろしたような音が鳴り響く。
「なっ、何なのよこの音・・・・?」
 突如巻き起こった怪音に、サヤカは怯えるようにしてナユタの腕に身を寄せた。さらに気付いてみれば、エディンもナユタの足にしがみついている。さすがにガキ大将も、生の怪奇現象には肝を冷やしたようだ。
「まさか幽霊の仕業なんかじゃないでしょうね・・・・」
「うへぇ・・・・」
 サヤカの言葉に、エディンは泣きそうな顔をする。
 サヤカは冗談のつもりで言ったのだが、実はそれが正解であった。キツツキに変身した九尾の狐が、両目にメラメラと怒りの炎を上げて猛然と鍾乳石を叩いていようとは、夢にも思わないだろう。
<お〜いナインテール。その辺にしておけったら。もう落ちてこないのは分かっただろ>
 ナユタはちょうど真上にいるナインテールにテレパシーを送った。
 だがそんなナユタの言葉も、左耳から入って右耳からただ通り過ぎるだけであった。 
「おりゃ〜!」



 ガツッ!



 ナインテールが最後の一撃を加える。そして・・・・落ちた。
 いや、落ちたのはナインテールである。相当脳ミソに衝撃があったのか、ナインテールは目を回しながら落下していった。一方のつらら状の鍾乳石は、ものの見事に傷一つ付いてなかった。
 落ちてきたナインテールを、ナユタは手の平でキャッチする。
<大丈夫かい、ナインテール?>
<うう〜ん・・・・>
 ナユタはナインテールに声をかけてみるが、彼は手の平の上でぐて〜となって呻(うめ)くだけであった。ナインテールの眼の中では、金色のお星様がキラキラと輝いている。 
「なんだったんだろう、今の騒ぎ?」
 心底安心した様子で、サヤカはホッと胸をなで下ろす。それでもまだサヤカとエディンの二人は、ナユタにしがみついたままだった。
(ふふっ。たまにはいいもんだなぁ、こんな気分も)
 頼れる正義の勇者にでもなった状況に酔いしれるように、ナユタは心の中でほくそ笑んだ。
「さあっ、早く先に進もう。”ドラゴン・ケイブ”もそろそろ終わりだし、洞窟を出たらお弁当でも食べようよ。お腹も減ってきたことだし」
 急に勇ましくなるナユタ。だがこのまますんなり終わるはずもないことは、読者の皆さんが一番よく知っているだろう。






 ”つららづくし”を過ぎてをやや急な下り坂を進むと、やがて洞窟の出口が小さく見え始めてきた。通路の脇には、滑らないようにと手摺りが設けられている。
「あれっ。何か聞こえない、ナユタ?」
 サヤカは眼をパチクリとさせながら、耳に手を当ててあたりを見渡している。
「ええっ? 別に何も聞こえないけど」
「そう? 変ねぇ、何か「ガガガガガガ・・・・」っていう音が聞こえるんだけど」
「ガガガガガガガ? なんだよそれ」
 ナユタは首を傾げる。
「ナユタ兄ちゃん、もしかしてまた幽霊じゃないのぉ・・・・?」
 エディンの声は完全に震えていた。どうやらこのガキ大将は、幽霊やそういった類の話は苦手なようだ。しょせん幼稚園児である。ナユタは心のメモ帳に、エディンの弱点を密かに書き留めておいた。
「はははっ、まさか」
 ナインテールは、相変わらずナユタの手の平の上で目を回している。今度はサヤカの空耳だろうと、ナユタは余裕のよしこちゃんといった表情で坂を下りていった。そこへ・・・・



 ヒュッ・・・・ガツッ!



 まるで槍のように鋭く尖った岩が超高速でナユタの目の前を通り過ぎていき、壁に当たって粉々に砕けた。



 ここで読者の皆様には説明しよう。あの槍のような岩はいったいどこからやってきたのか。
 答えはズバリ”つららづくし”である。
 ”つららづくし”で、ナインテールがムキになって落とそうとした鍾乳石があったのは覚えていると思う。実はあの鍾乳石、ナユタ達が立ち去ったあとに落ちたのである。
 その鍾乳石であるが、下が斜面であったのが幸いして、落下のエネルギーをそのまま持ったまま坂を下っていった。その間に摩擦によって少しずつ表面が削られ、だんだん槍のように鋭くなっていったのである。
 やがてネタとして程良い鋭さ加減となり、あとはナユタの目の前に突き刺さるだけ。
 とまあこんな具合である。



「うひゃ〜! なっ、なんだ!」



 ズルッ!



 芸人としてオーバーリアクションをするのは評価できるが、まだまだ思慮が浅い。ナユタはまたもや足を滑らせた。
「どわぁ〜! た、助けて〜!」
「ナユタぁ〜!」
 サヤカが慌てて手を差し伸べる。



 スカッ



 無情にも二人の手は空を掴むだけであった・・・・。ナユタに待っているのは、階段のような滑りやすい急坂。オチに落下ネタを持ってくるあたり作者のレベルアップを感じさせるところだ。ナユタよ、ここは潔く落ちるんだ。
「いやだぁ〜!」


 ドテ・・・・・・・ドテ・・・・・・ドテ・・・・・ドテ・・・・ドテ・・・ドテ・・ドテ・
 ドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテドテ


 後に、”ドラゴン・ケイブ”には本当にドラゴンがいるのではないかという噂が広がった。人々は口々にこう証言する。
 「あの時わたしは、たしかにドラゴンの咆哮を聞いたのだ」と。
 しかしそれが、一人の不運な男の上げた悲鳴と知る者はいない・・・・。





「う〜ん、おいしい空気ね」
 サヤカは大きく伸びをしながら、胸一杯に新鮮な空気を吸った。高原の心地よい風が、彼女の頬を撫でるようにそよそよと流れていく。
「ナユタ〜、早く来なさいよ。ここでお弁当でも食べましょ」
 サヤカは、やや後方をエッチラオッチラと不格好に腰を曲げて歩くナユタに声をかけた。
「ああ、ちょっと待ってよ。いてててて・・・・」
 ナユタは弱々しく腰のあたりを押さえる。先程”ドラゴン・ケイブ”で体験した”地獄の百段落ち”が、だいぶ堪えているようだ。
「もぉ〜、しょうがないわねぇ・・・・。エディン、ちょっと手を貸してあげてよ」
「ええ〜、やだよ。あんなマヌケでダサイ格好のナユタ兄ちゃんを助けるなんて」
「・・・・・・」
 「マヌケ」と「ダサイ」という言葉が、鋭い矢となってナユタの心にグサッと突き刺さる。
「そんなこと言わないの。わたしがナユタを連れてくるから、エディンはお弁当の用意をしておいて」
「うん、するする〜」
 お弁当という言葉を聞いて、エディンは乱暴に弁当籠を開け始めた。
 一方のサヤカは小走りにナユタのところに向かっていった。まるで風の妖精のように、大地を蹴るたびに彼女のポニーテールがゆらゆらと揺れる。 
「ナユタ、もう少しだから頑張って」
 サヤカはナユタの手を取ってグイッと引っ張った。その途端、「いててっ」と情けない悲鳴をナユタは上げる。サヤカは困ったように眉毛の端を下げた。
「ほら、わたしの肩に捕まって」
「悪いね・・・・」
 ナユタを支えるように、サヤカは彼の脇に立って肩を貸してやった。






 さて、お楽しみの弁当の時間である。ナユタ達がやってきた頃には、エディンがお弁当を広げて早くも口に入れていた。
「お先に〜」
「あっ、エディン! ずるいわよ、先に食べちゃうなんて」
 サヤカは猛然とエディンに駆け寄ると、げんこつを振り下ろした。
「お、おいちょっとサヤカってば〜」
 ポカッという軽い響きと共に、「あたっ」というエディンの悲鳴が聞こえる。



 ドテッ!



 支えを失ったナユタが無様に倒れた。
「ダメでしょ、エディン。ちゃんと待ってなきゃ」
「だってお腹空いたんだも〜ん」
 エディンは口を尖らせる。
「だってもなにもないの。お弁当はみんなで食べた方が―」



 キュルキュルキュル〜



 かわいい音が響く。
「・・・・・・」
「な〜んだ、サヤカ姉ちゃんだってお腹空いてるんじゃないか。はははっ」
「うっ、うるさいわね〜」
 トマトのように顔を真っ赤にして、サヤカは答えた。美味しそうな弁当の前に、お腹の虫は正直だったようだ。
「はい、ナユタ。おしぼりどうぞ」
「ああ、ありがとう。よっこらしょっと・・・・」
 サヤカから白いおしぼりを受け取り、ナユタはぎこちなく腰を下ろした。
「おいしそうだな〜」
 弁当籠は三つあり、一つには彩(いろど)り鮮やかなサンドイッチ、もう一つには食欲をそそりそうな鳥の唐揚げとフライドポテト、最後の一つにはデザートの果物が入っている。何とも豪勢な弁当だ。
「いただきま〜す」
 早速ナユタはサンドイッチを一切れ取って、口に運ぼうとした。そんなとき、チョイチョイと何かが腰のあたりをつついた。
(んん?)
 何だろうとナユタが振り返ると、
<オレ様にもメシをくれ>
 と言ってナインテールがズイと前足を突き出してきた。いつの間にか気が付いたようだが、おおかた食べ物の匂いに誘われたのだろう。
<うん。ちょっと待っててね>
 当然サヤカは三人分のお弁当しか作っていない。ナインテールも食べるということは、つまりナユタの分が減るということだ。こんなことなら少し多めに作ってもらうようにサヤカに頼んでおくべきだったと、ナユタは少し後悔した。
 よほどお腹がすいたのか、ナインテールはがっつく様にしてムシャムシャとサンドイッチを食べた。
<う〜ん、旨い旨い。お前の作るメシもこれぐらい旨かったらなぁ・・・・>
<わ、悪かったね・・・・>
 いつもご飯を作ってもらいながら、勝手なことを言う妖怪である。ナユタがサヤカほど料理上手でないことは確かなのだが。
<そこの肉を取ってくれ>
<はいはい・・・・>
 ため息をつきながら、ナユタは唐揚げをナインテールに取ってやる。こちらも「旨い旨い」と言って、元から細長い眼をさらに細めてペロリと平らげてしまった。妖怪のくせに食欲は旺盛である。
「美味しい、ナユタ?」
「んんっ? ああ、美味しいよ・・・・」
 本当はまだ一口も食べてないのだが、ナインテールの喜び様を見る限り美味しいのだろ。ナユタの言葉に、サヤカは「ありがとう」とニッコリと微笑んだ。
(さ〜てと、ようやく・・・・)
 ナユタがサンドイッチを口の中に入れようとしたとき、またもやナインテールがつついてきた。ナユタの笑顔は、玉手箱を開けたようにみるみると渋くなっていく。
<今度は何なのさ・・・・?>
<のどが渇いた。水をくれ>
<水? まったくもう・・・・>
 水ぐらい自分で取れとナユタは言ってやりたかったが、ひとりでに水袋が動いたらさぞやサヤカ達が驚くだろう。ナインテールの姿はナユタにしか見えないのだ。
「サヤカ、水が飲みたいんだけど」
「お水? はい」
 ナユタは受け取った水袋を脇に置いて、サヤカ達に見えないようにそっと口を開けてやる。ナインテールは袋の中に顔を突っ込むようにして、ガブガブと水を飲み始めた。
(やれやれ)
 自然とため息をこぼすなか、ナユタはサンドイッチを口に持っていった。そして・・・・ようやく食べられた。良かったな、ナユタ。






 それからしばらくの間、和やかな昼食の風景が続いた。サヤカもエディンも太陽の下で食べる弁当に舌鼓を打ち、すっかり満腹のようだ。
 それからエディンは、遊んでくると言ってオモチャ片手にどこかへ走っていった。サヤカはポカポカ陽気に誘われて、うつらうつらと夢の世界へ旅立とうとしている。
 一方のナユタもあれから食事を楽しんでいた。どういうわけか、水を飲んだっきりナインテールがおとなしくなってしまったのだ。楽しい会話を弾ませて、ナユタもスッキリとそのことに気付いていなかった。とんでもないことが起きようとしていることも知らずに・・・・。
 ナユタがその存在すら忘れかけようとしていた頃、突然ナインテールが水袋を持ったまま膝のところにもたれ掛かってきた。
「へっへっへ〜、楽しんでるか〜」
「なっ、なにやってるんだよナインテール?」
「ようナユタ、こんな日にゃあピクニックに限るなぁ」
 ナインテールが異様に酒臭い息を吹きかけてきた。おまけに足もフラフラしている。
「うへっ。何でお酒なんか飲んでるんだよ、ナインテール?」
「酒? オレ様は水を飲んだだけだぞ。ほれ、お前も飲め」
「ううっ、ぶへっ! やっぱりお酒じゃないか。何で水袋なんかにお酒が入っているんだよ」
 ここで読者の皆様には思い出していただきたい、朝のサヤカ家での騒動を。
 エディンが唐揚げをつまみ食いしてサヤカに叱られた。・・・・・・これは関係ないか。
 出かける直前に、サヤカが水袋を忘れて慌てて瓶(かめ)から水を入れたのを覚えていると思う。忘れてしまった? とにかくそんなことがあったわけである。
 サヤカの家には大きな瓶が二つあり、一つには生活で使う水が、もう一つには酒が入っている。父親が滅多に帰ってこないサヤカの家になぜ酒があるのかと思うかも知れないが、実は母親のサラが大の酒飲みなのである。
 答えが読めてしまったかも知れないが、つまり慌てていたサヤカは水の瓶と酒の瓶を間違ってしまったのである。
「なんだ吐き出しやがって、汚いやつだなぁ。ほら、もう一杯飲め」
「も、もういいよ・・・・」
「おうっ、てめえ。このオレ様の杯を受け取れねぇって言うのか」
 まるで宴会で部下に絡む上司のようだ。真っ赤な顔をしてるナインテールを、ナユタはまるで鬼のように思った。
「僕は喉渇いてないから・・・・」
「つきあいの悪いやつだなぁ。もっと人付き合いってもんを大切にしろよ」
「僕お酒飲めないし・・・・」
「酒の一つも飲めないようでどうする。これも社会に出るための勉強だ」
「本当にいいって・・・・」
「つべこべ言わないで飲め。ほら、イッキ! イッキ! イッキ! イッキ! イッキ!」
「僕はもういいよ。ナインテールにあげるって」
 何という愚かな言葉であろうか。
「お〜し、妖怪の生き様を見ておけ!」
 ナインテールは残った酒を一気に飲み干し、「ぶはぁ〜」と息を吐いてそのままうつむいて黙ってしまった。
「はぁ〜、良かった。ナインテールって酒癖が悪かったんだなぁ」
 しょせんナインテールは子狐。飲み続ければ潰れるだろうとナユタは思ったようである。しかしナユタは自分の行為が、火に油を注ぎ、キムチ鍋にタバスコを入れるようなものであることを知る由もなかった。
「ナユタよ・・・・」
 さっきまでのきんぴら、いや、チンピラのような口調から一転、ナインテールはまるで語りかけるようにナユタの名を呼んだ。
「な、なんだい?」
 ナインテールは相変わらずうつむいている。真っ赤だった顔も元に戻り、何やら真剣な顔つきをしていた。
「いままでお前のことを馬鹿にして悪かったな」
「はあ?」
 ナユタは自分でも呆れるぐらい間抜けな声を上げた。
「心から反省している」
「急に何を言い出すんだよ」
 この時のナユタの表情は、まるで亀が甲羅を脱いだ瞬間を見たときのようであった。それほどナインテールの口から漏れた言葉は、ナユタにとって衝撃的であったのである。
「本当にすまなかったな・・・・ぐすん」
 一気にナユタの表情は、まるでドラキュラがニンニクをバリバリと旨そうに食べているのを見たときのようになった。あのナインテールが涙を流していたのである。まさに鬼の目にも涙、ナインテールの目にも涙である。ナインテールの眼は、まるで少女漫画のようにキラキラと輝いていた。
「けどよ、これだけは分かってくれ・・・・ぐすん。別にオレ様はお前のことが嫌いな訳じゃないんだ・・・・ぐすん」
「ナインテール・・・・」
「オレ様はただ、読者の皆様に少しでも面白いネタをと・・・・ぐすん」
「分かってるよ、ナインテール」
 ナユタは穏やかな笑みを浮かべて、ナインテールの足をしっかりと握った。
「ナユタぁ〜」
 とうとうナインテールは、ナユタの胸に飛び込んで「おいおい」と号泣を始めてしまった。どうやら怒り上戸の次は、泣き上戸のようである。 
「ナユタよ、思えばお前に会えてよかった。守り神であるオレ様は、100年間ず〜とひとりぼっち。誰にも話しかけられない、誰にも気付いてもらえない。オレ様が神棚から出られたのも、住処を守ろうと思う気持ちだけじゃなくて、きっと”友”が欲しかったんだろうな。お前の力になってやることで。ナユタ、お前のことを”親友”と呼んでいいか?」
「何をいまさらなんだよ。ナインテールは僕の大切な友達さ」
「ほ、本当か?」
「当たり前じゃないか」
 ナインテールを力づけるように、ナユタは大きく頷いた。
「ナユタ・・・・」
「ナインテール・・・・」
 見つめ合う二人。なんと美しい姿だろうか。その姿はキラキラと光り輝いていた。
「な〜んてね」
「へっ?」
 あれ?



「だははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははなははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」



 数万羽の小鳥が一斉に鳴き始めたかのような笑い声をあげながら、ナインテールは腹を抱えて転げた。怒り上戸、泣き上戸ときて、お次は笑い上戸のようだ。
「んなわけないだろうが、このヘボナスが。あ〜はははははは」
「なっ、なんだそりゃ〜!」
「つまり・・・・」
「つまり?」
「ぜ〜んぶ、うそ。ぎゃ〜はははははは」
「ガクッ・・・・」
「馬鹿にしてるのはお前がマヌケだからに決まってるじゃないか。神棚から出てきたのもオレ様の住処を守るためだけ。ドジなお前に手を貸してやろうなんて思うわけないだろうが、ボケ」
「人がせっかく友情のシーンを美しく演出してあげようとしたのに〜」
「お前に美しいシーンなんて無理無理。お笑いコントが一番にあってるよ。ひゃ〜はははははは・・・・はがっ!」
 あまりに笑いすぎたせいか、アゴが外れたようだ。
「ははっ、人を騙した罰だよ」
「ひゃ、ひゃひゅひゃ・・・・。ひゃひゅひぇひぇひゅひぇ」
 通訳するとこうだ。「ナ、ナユタ・・・・。助けてくれ」
「助けてあげてもいいけど、ちゃんと僕に謝るかい?」
 ナユタの言葉に、ナインテールは激しく首を縦に振った。
「しょうがないなぁ〜。ほら、アゴをかして」
「うう〜、ひゅひゃひゃいひゃ〜・・・・な〜んちゃって」
「はれっ?」
 ナユタの眼が黒ゴマのように点になる。
「バ〜カ、バ〜カッ! また引っかかってやんの。アゴが外れたなんてうそだよ〜ん」
「・・・・・・」
 ナユタはカバのように口を開けて茫然としている。そして・・・・
「ぎゃあっ、アゴがひゃひゅひぇひゃ・・・・」
 ナユタの方がアゴが外れたらしい。
「は〜ははははっ。なにやってんだ。よし、このオレ様が直してやろう」
 ナインテールは前足に「はぁ〜」と息をかけると、ブンブンと振り回し始めた。
「ひょっ、ひょっひょひゃっひゃ!」
 「ちょっと待った」と言いたいらしく、身の危険をナユタは両手を前につきだしてヒラヒラとさせながら後ずさりした。
「ス〜パ〜バイオレンス〜ウルトラ〜レインボ〜セクシ〜ダイナマイト〜」



 バコッ!



 強烈な右アッパーを食らうナユタ。アゴがはまったはいいが、あえなくマットに沈んでしまった。
「ピヨピヨ〜。通算5回目のきぜ〜つぅ〜」
 例によって”スリー・チキンズ”がナユタの頭の上を飛び回る。
「はっはっはっ! お笑いにありがちな長ったらしい名前の必殺技と思わせておいて、すかさずパンチを食らわせる。名付けて”ナインテール・アッパー”だ」
 要は敵を油断させておいて攻撃するヒキョ〜な技である。ス〜パ〜バイオレンスなんちゃらとかいう名前は、どこにいってしまったのであろうか。
「ひっひっひっひっひっ。あ〜はっはっはっはっはっ!」
 高笑いをあげながら、ナインテールはそのまま後ろに倒れてしまった。そしてわずか数秒後には、恐竜を思わせるような大いびきをかき始める。怒って、泣いて、笑って、最後は寝てしまったようだ。






 ヒラヒラと舞い降りた黄色い蝶が、スヤスヤと寝ているサヤカの肩に留まった。
「・・・・ちゃん。ねぇ、サヤカ姉ちゃんったら・・・・」
「んん・・・・」
 妙に艶めかしい声を漏らしながら、サヤカはうっすらと目を開けた。
「起きてったら、サヤカ姉ちゃん」
「はっ、わたし寝ちゃってたのね」
 サヤカが肩をピクッとさせた拍子に、蝶は再びヒラヒラと飛んでいった。
「そろそろ帰ろうよ、遅くなっちゃうよ」
「そうね」
 さっきまで真上にあった太陽は、幾分傾いていた。もう数刻すれば、青い空は紅に染まるであろう。
「ナユタは?」
「ほら、あそこ。ナユタ兄ちゃんも寝てたみたいだよ」
 エディンの指さす方には、ナユタがうつ伏せ横になっていた。
「ナユタ〜。ねぇ、ナユタったら。そろそろ帰りましょ」
 サヤカは肩を揺すってみるが、ナユタは一向に目覚めなかった。
「まあ・・・・。寝坊しておいてしょうがないわね」
「ホントだね」
 サヤカは気付くはずもないだろう。ナユタは寝ているのではなく、気絶していることに。そして自分が寝ている間に、どんな不幸をナユタが襲ったのかも。
「ナユタ、起きなさいよ」
 サヤカには見えないナユタの顔は、潰れた人形焼きのようになっていた。





 夕焼けに染まる森の中。「カァ〜カァ〜」というのんびりとしたカラスの鳴き声が、夕日に溶け込んで降り注いでいる。
 この森は、見上げるほど背の高い木々が多い。日光を求めて広がる枝達が、地面に網の目のような格子模様を描いていた。まるで、”森”という籠の中に入っているような錯覚さえ覚える。
 森は、それだけで一つの世界を創っていた。足を踏み込むものを、別の小宇宙へと誘(いざな)う。
 そして燃えるような夕焼けにくすんだ色になった葉は、あたたかさと、そして哀愁を感じさせた。昼の森の生き生きとした緑は賑やかに、日暮れの深い緑はやさしく、訪れるものを包み込む。
 ルザイアの西に広がるこの森は、”妖精の森”と呼ばれている。エルドランに唯一存在する妖精の住む森だ。
 妖精だけではない、小人や幻獣といった珍しい生き物たちも、この森の住人である。
 妖精達は、その姿を滅多に人間に見せることはない。この森の奥深くに集落をつくって、ひっそりと暮らしている。人間達もできるだけ森を切り開くことなく、数少ない彼等の生活領域を守ってやっていた。
「妖精達には会えないようだね、サヤカ」
「はぁ〜、そうみたいね・・・・」
 ナユタの言葉に、サヤカは深いため息をついた。
 サヤカが一番楽しみにしていたのが、この森で妖精を見ることだった。顔を合わせれば決まって「森で妖精を見れるかなぁ〜」と、恋する乙女のように眼をキラキラとさせてナユタに聞いてきたほどだ。
 妖精を見ることができたら幸せになれるという噂がある。いかにも女の子が好みそうな話しだ。
「そう簡単に見られないから、珍しい生き物なんだろ」
「そうなんだけどねぇ・・・・。やっぱり一度は見てみたいじゃない」
 やっぱり眼をキラキラさせるサヤカ。彼女の頭の中では、人形のように小さな女の子達が背中の透明な翼をはためかせていた。物語で読んだ、森で迷って妖精達に出会った少女が見た光景のように。
「そりゃ僕も見てみたいけどね」
 カラスの鳴き声が聞こえる以外、森の中はひっそりとしていた。妖精どころか、ウサギの一匹も茂みから出てきそうにない。
「そうだね。サヤカ姉ちゃんより、ナユタ兄ちゃんに見せてあげたかったよね。ははっ」
「どういう意味だよ、エディン?」
「だってナユタ兄ちゃん”不運”じゃん」
「あのねぇ・・・・」
 そこまでストレートに言われてしまっては返す言葉がない。
「ほらっ、ナユタ兄ちゃん。靴紐がほどけてるよ」
「えっ?」
 ナユタが下を向いた瞬間、額にエディンの投げたゴムボールが「パコッ」と当たった。
「あははははっ。やっぱり運がないや」
「・・・・・・」
 どう考えても、不運にさせられているとしか思えない。
「ああっ! 妖精だ」
 大声を上げて、エディンが近くの草むらを指さした。
「もう騙されないぞ。どうせ嘘だろ」
「嘘じゃないよ。いまあそこの草むらで」
 エディンは目をいっぱいに開いて必死に訴える。端から見ればとても嘘をついているようには見えないが、いつもこれにナユタは騙されていた。
「そんな芝居をしたってダメだよ。また何か企んでるんだろ」
「本当に見たんだ。絶対に妖精だよ」
 エディンは草むらに向かって駆けだす。草むらに飛び込むと、エディンの小さな身体がすっぽり隠れてしまった。そしてすぐに・・・・
「うわぁ〜、助けて〜!」
 紅の日差しを切り裂くように、エディンの悲鳴がこだました。
「エディン!」
 真っ先にサヤカが走り出した。ナユタもサヤカのあとに続くが、まだ半信半疑といった様子で決して全速力とは言えない。ナユタの頭には、草むらに飛び込んだ瞬間に、エディンがヘビでも持って待ちかまえている場面が浮かんでいた。
 ナユタの視線の先で、サヤカが草むらの中に消える。そして・・・・
「きゃぁ〜!」
 草むらの向こうでサヤカの悲鳴が響いた。
(まさか、予想が当たっていたり・・・・)
 朝の騒動でもそうだったが、サヤカは爬虫類が嫌いである。特にヘビは、見ただけで気絶するほどだ。
「え〜い、ヘビでも何でも出てこい。ここはお兄さんらしく叱ってやらなくちゃ」
 意を決してナユタは草むらの中に足を踏み入れた。そこには・・・・
「ぎゃあ〜!」
 急な斜面があった。ナユタは慌てて近くにあった木にしがみつく。
 何かが転がり落ちたように、斜面には土がめくりあがった二本の線があった。その線は、下にある藪の中に続いている。 
「お〜い、サヤカ〜、エディ〜ン」
 ナユタの声が木霊のように辺りに響くが、二人の返事はなかった。
「どうしよう・・・・」
 二人を探しに行きたいのやまやまだが、藪の向こうには深い森が続いていた。あんな森をさまよっていたら、サヤカ達を探すどころか自分自身が迷子になってしまう。
 助けを呼びにいっても、戻ってくる頃には日が沈んでいるだろう。夜の森の中を捜索するなど、例え専門家であっても自殺行為だ。
(方法は一つだな。連れてくる時間がなければ、自分がなればいい)
 森の専門家と言えば狩人(レンジャー)だ。ナユタは狩人の変身することに決めた。
「ナインテール、僕を狩人に変身させてくれ。サヤカ達を助けに行くんだ」
「おう、任せろ。サヤカがいなくなると旨いメシが食えなくなるからな」
 助ける理由が少しおかしくなっているような気がするが、この際どうでもいいだろう。ナインテールの瞳が紅く光り、ナユタは煙に包まれる。そして煙の中から現れたのは・・・・
「・・・・・・。なんだい、これ?」
 なぜかナユタは、魔導師のようなローブを着たいかにも頭の切れそうな青年になっていた。
 切れの長いその眼はすべてを見通し、吸い込まれそうな蒼い瞳の奥には無限の知識が眠っているようであった。まるで霧のような、つかみどころの無い存在感を漂わせている。
「いや、だから・・・・。レンジャー、ケンジャー、賢者・・・・なんちゃって」



 アホ〜、アホ〜



 一羽のカラスが飛んでいく。
「ダジャレをやっている場合か〜! サヤカ達が死んだらどうするんだ〜!」
 ナユタはナインテールの首根っこを掴み、激しく前後に振り回した。
「グヘッ! ゲホッ、ゲホッ。オ、オレ様が先に死ぬ〜」
「だったら早く狩人に変身させろ〜!」
「わ、分かった。分かったら手を放せ〜」
「は〜や〜く〜し〜ろ〜!」
 ナユタはさらに激しくナインテールの頭をシャッフルした。
 ナインテールは目を回しながら、瞳を紅く光らせる。いつものようにナユタは煙に包まれ、今度は狩人の姿になって現れた。が・・・・。
 羽根のついた帽子と、いかにも狩人らしい身軽な服装かと思いきや、例のごとく服の色が”ナインテール・ブラウン”とかいう趣味の悪い茶色だった。
 狩人の服装といえば、深い緑と相場が決まっている。その色とて、別に伊達や酔狂でつけているわけではない。獲物を狙うときに、森の中に自分の姿を隠すためだ。これでは、「自分はここにいます」と言いふらしているようなものだ。
「この色、どうにかならないわけ・・・・?」
「始めは何だって違和感があるもんだ。絶対に”ナインテール・ブラウン”はくるっ!」
 ナインテールはそう豪語するが、ナユタにはその自信がどこから来るのかまったく分からなかった。
 別に狩りをするわけではないので、ナユタもいちいち細かいことにこだわることはしない。
「よしっ、待ってろよサヤカ、エディン!」
 勢いよく飛び出すナユタ。
「うわあっ、坂だったんだ!」
 ナユタは斜面の転がるように、というか猛スピードで転がりながら、藪の中に消えていった・・・・



つづく・・・・

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