他人(ひと)の雲古(UNKO)は何故臭い? (その2)
(その1)のつづきです
それから歳月は流れ、数十年・・・
つい先日のこと、職場のトイレで雲古をしようと個室のドアを開けたら、なにやらぷ〜〜んと臭いが漂ってきたのです。ついさっきまで誰かがしゃがんでいたに違いない。私はそのまま引き返しました。臭いが消えた頃もう一回来よう・・・・。だって他人(ひと)の雲古の臭いっていやだもんね。それから研究室に戻りひとりぼーっと考えたのです。
「何故、他人の雲古は臭いのだろう・・・・」
そうです。自分のだったらそんなに厭じゃない。しているうちに徐々に立ち上る芳しき薫りにうっとり・・・とまでは行かないけど、何だか懐かしいような芳しいような不思議な安心感がありますよね。でも、ふと出会う他人の臭い、。これはけっして「薫り」では有りえない。あくまで「クサイ」のであります。
しからば、貴方は他人の雲古と自分の雲古の臭いの区別がつくか?
まあ、これはNOでしょう。じゃあ、何故、区別の付かない他人の雲古の臭いがそんなに厭なのでしょう?
私はこんなどうでもいー事を考えているうちに重大な事に気がついたのです。
「なわばりだ!」
つまりこういうことです。
犬や猫は電信柱など決まったところにおしっこやうんこをして縄張りを示しますね。マーキングといいます。人間にもこの本能があるのではないか?とすれば、他人の縄張りには雲古はしたくない筈。また、他人の雲古の臭いを嗅いだとき反射的に「他人の縄張りだ!」と感じれば、そこにいることが不快になり、この臭いを嫌う筈です。
この事まで思い至ったとき、私は小学校三年生のときの自分の行動の「正当性」に気がつきました。
「あれは単に『もらした』のではない!自分の縄張りまで必死になって大事なものを持ち帰った必然の行為だったのだ」と。
つまり小学生が学校で雲古をしたくないのは単にトイレが臭くて厭なのではなく、他人の縄張りの印がいっぱいあるところに、自分の縄張りのマークをつけたくないという本能によるものではないでしょうか?そして、臭くないトイレで比較的しやすいのは他人の縄張りの印がないためでしょう。
そう考えてみると、外出先などで雲古をするのが何となくはばかられる事や、特に臭いトイレで厭な感じがすること、説明がつきますね。また、職場などでもいつも「する」場所決まっていませんか?これは無意識に縄張りを定めた行為ですね。
自分のと他人のと臭いの区別がつかないのは、人間は臭いで縄張りを区別する習慣がなくなったために嗅覚が退化したためでしょう。その基盤になる本能はまだ残っていると思われるのであります。
というわけで、
学校で雲古が出来ないのはちっとも恥ずかしいことではな〜〜い!!
子供が家に帰る途中で漏らしても怒ってはいけません。よ〜やった!とほめてください。