魔法使いの婚礼




「ついにね、わたしも結婚するんだ」
 ケーキを食べながら少し照れた顔をして少女は言った。
「わ……、おめでとうございます、ジーナさま……っ」
 硝子の東屋の中は陽の光が差し込んで冬だというのにあたたかい。寒がりのエリスでもショールを羽織っていればどうということはない。
「リドがあんまりしつこいので根負けしたんだけど。あと、悪魔っ子があなたを大事にしてるの見て、まぁいいかなと」
 エリスは首をちょこんとかしげた。
 ジーナはヘルムートをいつも「悪魔っ子」と呼ぶのだ。天使さまなのに。「だって性格歪みまくってるでしょ。外見は天使だけどさ」というが、エリスには信じられない。たしかにちょっぴり意地悪ではあるが。
 その「悪魔っ子」は脇で憮然として紅茶を一口飲むと口を開いた。
「僕たちに関係なく、とっとと結婚すればいいじゃないか」
「あなたに性格がそっくりなリドと結婚するんだから、ある程度の見極めはつけたいじゃない」
「王子サマがきみに片思いしてたのは、それこそ昔からで、それを一方的にふっていたくせに」
 ヘルムートがどことなく機嫌が悪いのはどうしてだろう?
 考え込んではっとした。
 今日の茶菓子のケーキはエリスが焼いたものだ。オレンジ色のきれいな甘いキャロットオレンジケーキ。
(お、美味しくないのかな……)
 さっき一口食べた時は美味しいと思ったのだが。そういえばヘルムートはケーキを一口食べたきりで手を付けようとしない。
(ヘルムートさま、嫌いな味だったのかな……)
 悄気返るエリスを見て、少女が肩をすくめる。
「ほら、あなたがむっつり顔だから、奥さん怯えてるじゃないの」
 びっくりして顔を上げると、ヘルムートが心配そうな表情で覗き込んできた。
「エリス?」
「あ、平気です……」
 膝の上に置いた手を、テーブルの下でそっと握られて顔を赤くする。
「それでね。式と、そのあとの披露の舞踏会にもヘルムートに奥さん連れてきてもらおうかなと思って」
 ケーキを美味しそうに食べながらジーナがけろりと言った。
「えっ」
 びっくりしてジーナを見ると、うん、と頷いてきた。
「ほら、エリスはわたしの友達だからさ。友達には結婚式に出てもらいたいと思って」
 嬉しくなった。自分の結婚式にはコレットも参加してくれた。あの時の自分は心が痛くてたまらなかったけれど、実に盛大な結婚式だった。
「僕は反対」
 ヘルムートが異議を唱えた。
「どうしてこの子をあんなところに連れてかなくちゃならないんだ。熱でも出したら大変だし、意地の悪い連中しか出てこないだろう」
「あんなとこ、だからこそだよ」
 ヘルムートに反対されてちょっとがっかりしたエリスを脇に置いて、二人は言い合いを始める。
「あなたがあんな噂を放置してたから、まだ女の子たちが騒いでるじゃないか。それならちゃんとした場所で仲のいいところを見せて、誰にも何も言わせないようにしたほうが早いよ」
「僕が相手にしなければいいだろう」
「無理無理。気の弱いエリスが、この家まで押しかけてきちゃうような女の子たちを追っ払えると思う? それなら公式の場で堂々と見せつけてやればいい。なんだったら、あなたの大事な奥さんはわたしの仲良しの友達だってちゃんと見せつけてしまえば、女の子たちは黙るよ。わたしも協力するし、リドにも手伝わせる」
 エリスがわたしやリドの友達だってわかれば、どんな噂だって消えちゃうよね、とジーナは自信たっぷりに言い放った。
 よくわからないエリスは首をかしげたままだ。
「えと、ヘルムートさま……?」
 ヘルムートは眉をひそめて黙り込んだ。ジーナがにっこり笑う。
「あのね、ティアーズ伯爵は今度、国の要職につくんだよ。ヘルムートが大事にしてる奥さんのお父上が国の偉い人になればそれだけで女の子の親たちが女の子たちをけしかけるのを止めるからね。しかもわたしがエリスの仲良しの友達だって知れば、社交界にいるどんな女の子たちも大人しくなる。それでヘルムートととっても仲のいいところを社交界で見せつけちゃえば、離縁とか仲が悪いなんて噂、完全に消えちゃうよ」
 びっくりした。
 たしかにあの豊穣祭の時ヘルムートがとても怒って離縁の話を出したのは事実だ。だけど仲直りしたからエリスは忘れていたのだ。
「なにしろヘルムートは顔は無駄に派手だし、普段は猫をかぶって外ヅラもいいからねえ。女の子たちがまだお熱で大変だよ。こんなにあなたを大事にしてるんだけど、大事にしすぎて外に出さないから、みんな大事にしてるってことを知らないんだよね」
「リカルドにも協力させるって言うけどさ」
 憮然としたままでヘルムートが口を開く。
「彼に何をさせるわけ」
「リド、エリスに会ってみたいって」
「会ってじかに毒を吐くのか」
「毒を吐くつもりは無さそうだよ。昔からあなたが惚気てる『お姫様』にちゃんと会ってみたいだけじゃないかな」
「リカルドは素で毒を吐くから会わせたくない」
「大丈夫だよ、エリスにちゃんと会って苛めるほど、リドは不感症じゃないから」
 褒めているのか貶しているのかよくわからない言い回しで表現した後、ジーナは「じゃあ、あとで招待状をラングレー公爵夫妻宛に送るね。お茶とお菓子ごちそうさま、美味しかったよ」と言い残して帰っていった。

* * * * * * * * * *

 その夜、数日ぶりにヘルムートはエリスの部屋を訪れた。
 無論、彼としてはエリスとベッドを共にするつもりで、だから腕の中に抱きしめてキスをしたのだが、そこでどことなく妻がしょんぼりしているのに気がついた。
「どうしたの、エリス?」
 白い寝巻き姿のエリスは、ヘルムートから見ればそれこそ天使のようだった。羽を隠して地上を歩く、たおやかでやさしい天使。
「ヘルムートさま……」
 腕の中でエリスはおずおずとヘルムートを見上げた。
「ん?」
「他のひとたちから言われてるの……?」
「なんのこと?」
「ヘルムートさまとわたしが、ケンカしてるって……」
 ため息をつきながら、ヘルムートはエリスを掻き抱いた。
「……ごめんよ。心配させて」
 ジーナが昼間に語ったことは事実だった。
 社交界に流れる、ヘルムートとエリスの不仲の噂。それは社交の場にヘルムートがエリスを伴わないこともあって、いっこうに消えない噂だった。
「きみのご両親にも聞かれたんだ。だから正直に話した。豊穣祭のときにきみが具合が悪くなってオルスコットが治療のために連れ帰ったのを僕が誤解したと。だけど今はちゃんと元気になってこの家で暮らしてるってご両親もわかってるだろう?」
 レスター・オルスコットとヘルムートの、幼い時からのエリスを挟んでの仲の悪さをティアーズ家の人たちがわかっていることも幸いだった。エリスの両親は「やれやれいくつになってもこの男の子たちの仲の悪さときたら」という顔で納得し、そのあと病弱な娘が幸せそうなのを見て安心して帰ったのだ。
「ただ、社交界の噂になってるのは本当なんだ」
 ヘルムートが妻と不仲ではないというのは第一王子の〔途中で中止になった)婚約式以来、社交界でも知られつつあるが、それでも彼に群がる女性たちにとっては歯牙にかける価値もない噂だった。エリスが知らされていないだけで、不仲や離縁の噂を確認し、あわよくば懇ろな仲になりたいとまだ屋敷に女性たちが押しかけているのは事実だった。執事のセドリックが門番を立てて警備を厳しくするように手配をしたが、いつなんどきエリスの前に現れないとも限らない。
「ジーナが言うように、社交界のそれなりの集まりにしょっちゅうきみとふたりで出て行けば噂は消えるだろうけれど、でもきみを怖がらせたくないんだよ。豊穣祭の時も怯えてただろう? 意地悪な連中が多いからね」
 エリスが社交界にほとんど顔を知られてないことも噂の一因だった。エリスが顔を出したのは、結婚の一年前の夏の夜会のときだけ。コレット・バーンズ男爵令嬢が何人かの男性に紹介し、どこぞの侯爵家の息子が求婚したところでヘルムートが横からさらって表にも出さないのでは、いくら盛大な婚礼をしたとはいえ、ラングレー公爵夫人は存在すら無いに等しい。
「ヘルムートさま……」
「ん?」
「わたし、公爵夫人として社交界に出なくてもいいの……?」
「きみは身体が弱いんだから、無理しなくていいんだよ。社交させるためにお嫁さんにしたわけじゃないんだから」
 僕はきみにそばにいてほしかったから結婚したんだよ。
 そう囁くとエリスは頬を染めながらこっくりと頷いた。
「でも……ジーナさまの結婚式には、出たいです」
 そうだなあ、とヘルムートは考え込んだ。
 ジーナとリカルドの結婚式とは、つまり王家の第一王子の婚礼である。たしかにそこにヘルムートがエリスをともなって出るのは、元学友で側近で妻帯者の立場としてはごくごく自然ななりゆきではある。そのあとの披露の舞踏会にも当然参加となって、そこでもエリスと一緒にいれば一挙に不仲説は消えるだろう。
 エリスの父親のティアーズ伯爵が政府の要職につくのは既定の路線だったが、このタイミングについてリカルドの意向が働いたのは事実だった。リカルドはあれで親友のことが心配なのだが、リカルドにもヘルムートにも別の思惑もあるにはあった。
「きみの体調しだいだね。結婚式に出てまた寝込んだりしたらたいへんだよ」
 キスをしながら囁くと、エリスはこっくりと頷いた。
「ジーナさまの結婚式っていつなんですか……?」
「たしか春になってからだから、もうちょっと先だね」
 じゃあ暖かくなってるから大丈夫、という言うエリスにさらにキスをする。
「まぁ体調管理はしっかりして、最後になったらオルスコットの魔法薬でも使うしかないかな。腹が立つけど、あいつの薬はたしかに効くからね」
 ヘルムートさまが珍しくレスターを褒めた、と目を丸くするエリスに苦笑いしながら、ヘルムートはひょいと横抱きに抱き上げた。
「朝まできみと一緒にいたいな」
 甘く囁くと首に細い腕が巻き付いて、ぎゅっと抱きついてくる。
「ヘルムートさま……」
「今夜はきみだけ見て、きみが欲しいよ、エリス」
 ベッドに横たわらせると綺麗な緑の大きな瞳を覗き込み、微笑んだ。頬を撫で、そのまま覆いかぶさるようにのしかかる。
「僕の可愛い奥さん、愛してる」

**********

 エリスは厚い胸のなかにすっぽりと抱き込まれていた。愛された余韻のまま、優しい指が髪を撫でてくれるのにうっとりと甘える。
「きみはやっと甘えてくれるようになったね」
 くすくす笑いながらヘルムートが囁いてきた。
「恥ずかしがるきみも可愛いけど、僕は甘えてくれるきみはもっと可愛いくてもっと愛おしいよ」
「ヘルムートさま、わたし、奥さんらしくなってきたの……?」
「うん」
「でも、わたし、ままごとじゃなくヘルムートさまにお茶も淹れてあげられないくらい、のろまだから……」
 ぐすんとべそをかくのに、ヘルムートはキスをする。
「そんな事で泣かなくたっていいと思うけどなあ。伯爵令嬢で公爵夫人なんだから、使用人にまかせておけばいいのに。きみは椅子に座って言いつけて待ってればいいんだよ?」
「小さい頃、レスターの家にいくと、アレイスターおじいさまがいつもお茶を淹れてくださったの。それがとっても嬉しくて、だからヘルムートさまにもお茶を淹れてあげられたらって思ってて……」
 額にキスをする。
「やたらとお茶を淹れたがってたのはそういうことだったの? どうして使用人の真似をするのかなって思ってたけど。そういえば、きみは小さい時からやたらと侍女の役とか好きだったよね」
「あのね……小さい頃にレスターに言われたの。自分のことは自分で出来るようにならないと、駄目な大人になるって」
 まじめな表情でエリスはヘルムートを見つめた。
「お人形じゃないんだからって。わたし、自分で何にも出来ないのに我が侭言って泣いてばかりなんて駄目な大人なんていやだから……」
 へえ、とヘルムートは片眉を上げた。あのきつい物言いしかしない意地の悪い魔法使いにしては、ずいぶんまともな事を言ったものだ。しかし。
「きみが駄目な大人になるなんて、ちょっと信じられないな」
「レスターに叱られて、ちゃんとした大人にならなくちゃって思ったから……。おじいさまに頼まれたから、レスターはわたしの悪いところを叱って注意してくれてたの」
「僕はあいつはいつもきみをいじめてるのかと思ってたよ。いつもきみを泣かせていたから」
 ちゅ、と唇にキスをすると、エリスは顔を赤らめた。
「僕はきみがいつも僕のそばで幸せで笑ってくれてると嬉しいな。きみの笑顔って花が咲いたみたいに可愛いからね」
 もう一度、優しくキスをする。
「大好きだよ、エリス」
「わ、わたしも、ヘルムートさま、だいすき……」
 恥ずかしそうに答えるエリスをみていると、あまりに可愛すぎてクラッとしてムラムラとしてきたヘルムートだった。

* * * * * * * * * *


「あら、素敵なドレスねえ」
 ある日、エリスがドレスの仮縫いをしているところを訪れたコレットが目を丸くした。
「なぁに、あなたの旦那さま、ついにあなたを本格的に社交界に連れ出す気になったの?」
「コレット、いらっしゃい! あのね王子様の結婚式に招待されたの。ヘルムートさまが正式の盛装しなさいって言うから、その準備なの」
 淡い薄荷色の薄絹とレースで飾られたドレスを纏ったエリスはほにゃりとまわりを和ませる笑顔になった。
「式の後の披露の舞踏会にも出るから、ヘルムートさまとダンスの練習もしてるの」
「あらあら。じゃあ、今日は公爵は?」
 ニマニマと笑いながら尋ねると、「今日は王宮にお仕事だよ。王子様の結婚式の準備でたいへんなんだって」と答えた。
 へえそうなの、と言いながらエリスの仮縫いの様子を見ていたコレットは傍の椅子に腰掛けた。
「エリス、そのドレスを着る時は、ちゃんと背筋伸ばして。肩をすくめてちゃ駄目よ。せっかくのドレスが素敵に見えないわ」
「そ、そう? でもなんだか恥ずかしい……」
「そうねえ。まぁ公爵はあなたを見せびらかしたいのかもねえ。せっかくの機会だもの」
 運ばれてきた紅茶のカップを口に運びながら、侍女たちがエリスのたっぷりとした髪を結い上げて宝飾品をいろいろとつけて矯めつ眇めつするのを椅子にふんぞり返るような姿勢で見ていたが、侍女の一人を捕まえて尋ねた。
「公爵のお帰りは遅いのかしら?」
「たぶんお茶の時間にはお戻りになると思いますが」
 何かご用事が?と訊かれると「エリスとのダンスの練習って見てみたくって」と返事をした。
「夜会で公爵が踊ってるの何度か見たことあるけど、そりゃあ何時も華麗で、あの派手な雰囲気の公爵らしいと思ってたし。それがエリスとだったらどんなふうになるのかなって」
「わたし、ヘルムートさまとだと緊張してしまって」
 恥ずかしそうにエリスが言う。
「お嫁に来る前、家で練習してた時はそんなことなかったんだけど」
「あらそうよね。エリスはダンスは楽しそうだったし」
 その時、扉がノックされた。ドアの傍の侍女が一礼すると、ヘルムートが入ってきた。
「あら、公爵。いいところに」
「ヘルムートさま……! おかえりなさい」
「ただいま、エリス。――それにしても、またきみか」
 ヘルムートは片眉を上げてコレットを眺め、それから怪訝な顔をした、
「なにがいいところに、なのかな?」
「いろいろ。ところで素敵なドレスになりそうじゃない?」
 コレットがエリスを示すと、ヘルムートは振り向いた。顔は見えないながらも、纏う空気が柔らかくなるのがわかる。
「――そうだね。うん、エリス、きれいでかわいいよ」
「ヘ、ヘルムートさま……」
 ぽっと顔を赤らめたエリスは、たしかに可愛らしいとコレットも思った。
「あなたとエリスのダンスの練習っていうのも見てみたいんだけど」
 ニマニマと笑いながら言うと、向き直ったヘルムートはため息をついた。
「きみは冷やかしにきたのか?」
「あら違うわよ? 前にあなたがよその女性と踊ってるの見たことあるけど、あんなけばけばしい女性じゃなく、エリスと踊ったらどんなふうにエリスが可愛く見えるかなって興味があって」
 やれやれと肩をすくめかけたが、ふと表情を変える。
「そういえば、きみはダンスは得意?」
「まぁ普通じゃないかしら。どうして?」
「エリスに手本を見せて欲しいからだよ」
 きょとんとして、ぷっと噴き出す。
「もしかして、あなたと踊ってみるって事?」
「ぞっとしないけどね」
 うなずくのに、うなずき返す。「たしかに気色悪いわね。つきあってもいいけど」
「じゃあ、僕とバーンズ嬢は応接間で待ってるから、きみは着替えておいで、エリス。ちょっと休んだらダンスを練習しよう」
「は、はい……」
 ちょっぴり嬉しそうで、ちょっぴり不安そうなエリスの顔を眺め、コレットも頷いた。
「そうね、せっかくの舞踏会なら、練習は大事よね。早く着替えてきてね」

 応接間に移ると、コレットは座るまもなく、口を開いた。
「それで王宮付魔法使いがどうしてエリスの実家の養女になるわけ?」
 侍女が前に置いた紅茶のカップを持ち上げてヘルムートは肩をすくめた。
「しょうがないだろ。ジーナは平民だし後ろ盾になりそうな魔法使いの師匠も死んでるそうだし。公爵の僕が後ろ盾になるにしたって、ティアーズ伯爵のほうが世間じゃ人望あるしね。」
「しかも、エリスはそのこと知らないじゃないの」
「あくまでも小五月蝿い年寄り連中を黙らせるためだ。でなきゃティアーズ伯爵に大臣の椅子をこの時期に回さない」
「そんなことして、あとからエリスが王宮に出入りしてる女の子たちからどれだけ苛められるか、わかってるの?」
「基本的に、エリスを王宮に連れ出す気はないよ。あの子があんな思惑だらけの場所向きじゃないのは、きみだって知ってるだろ?」
 コレットはため息をついた。
「……まぁね。夜会とかはキラキラしてて興味はあったみたいよ。あの子、綺麗なものが好きじゃない? 以前あなたがあの子に気付きもしないでよその女と踊ってたのを見てショックを受けてただけで…………、あら、もしかして気がついていたの?」
「気がつかないわけないだろう。あんなに可愛かったのに。ただ、僕の周りにたかってる女達がエリスを傷つけると大変だからあえて知らんぷりしてただけだよ」
「ふうん」
 半眼になってコレットはヘルムートを眺めやった。
「そういえば、ウィルがね。ほら、あの夜会を主宰した」
「ああ、彼」
「あなたたちの結婚式の後、わたしに言ってたわ。エリスとかわたしみたいなのがあなたのそばにいて、あんなお馬鹿さんたちが傍に寄らなければ、あなたもずいぶん社交界嫌いにならなくて済むのにって、あの夜会の時に思ってたって。だからあなたたちが結婚したのはとっても良かったって。ところがあなたはあの噂だったでしょ。ウィルが後で『僕は間違ってたのかなあ』って悄気てたわよ」
 ヘルムートは舌打ちをした。
「僕にも似たようなことを言ってきたよ、直接にね。てっきり僕がエリスのことを好きなんだと思ってたんだけど違ったのか、ってね。無視したけど」
「あらあらかわいそうに」
 実際にはかわいそうとは微塵も思ってない口調で言う。
「それで、ご婚礼に連れ出して舞踏会でも踊って、それから?」
「それだけだよ。エリスは身体が弱いんだから、無理に社交に連れ出すことはないし。僕が必要最低限の社交をやってればいいのさ」
「それはどうかしらねえ」
 コレットは足を組んで椅子の上でふんぞり返った。
「わたしが思うに、エリスを連れて夫婦で出歩くほうがいいわよ。留守番してるエリスがいろいろ悩んで可哀相じゃない。あの子は思い詰める性格たちなんだから。もちろん」
 にやりと笑う。
「あなたが旦那さまとして外であの子を守れる自信がない、っていうのなら、そりゃ家の中で大事に箱に入れて仕舞っておくのもありでしょうけどね」
 ヘルムートがむっとしたところに、着替えたエリスが戻ってきた。
「お待たせしました……ヘルムートさま……? コレット? どうしたの?」
 ヘルムートの不機嫌そうな顔と、コレットの面白がっている顔を見回して、エリスはおずおずと尋ねた。
「ああ、どうってことないのよ。あなたの旦那さまに、ひとりで夜遊びするくらいならあなたも連れていって退屈しのぎさせてやんなさいって言ってたところ」
「え……」
「ほら、エリスはこっちにおいで」
 面食らっているらしいエリスにすかさずヘルムートが手招きすると、エリスは素直にそばによってヘルムートの隣にちょこんと座る。それだけでヘルムートの機嫌が良くなるのを見てニマニマとコレットが笑うが、ヘルムートは無視した。むろんエリスは気がつかない。
 しばらく、お茶とお菓子をつまんでの軽いおしゃべりのあと、コレットはにやっと笑うと、立ち上がった。
「それで、ダンスよ、ダンス。いつもどこで練習してるの?」
「舞踏室が向こうにあって、そこで……」
「ふうん。ほら公爵。わたしとも踊ってみるんでしょ?」
 ひらひらと手招きすると、ヘルムートは肩をすくめて立ち上がった。そのまま、エリスの前に立つと、恭しく会釈する。
「公爵夫人、お手をどうぞ。エスコートの名誉を僕にいただけますか?」
「えっ、あっ、は、はい……」
 差し出された左手を取って指先に軽くくちづけると、やわらかく優雅に笑いかけ、エリスを舞踏室までエスコートする。その後ろについていきながら、コレットは「あらあらあてつけてくれるわねえ」と笑った。


* * * * * * * * * *


 ゆったりとしたワルツがオルゴールから流れる。
 ヘルムートがコレットと踊るのを、椅子に座ってエリスはうっとりと眺めた。
(ヘルムートさま、すてき……)
 硬質の無表情ではあるが、踊る姿は優雅で、その腕に抱かれているコレットも優雅に舞う。
(わたしも、あんなふうに踊れるかなあ……)
 なんとなく恥ずかしくて、ヘルムートの顔をまともに見上げられない。それが悪い癖だとわかってはいて、余計に緊張してしまって、ヘルムートの足を踏んでしまいそうだ。
「……リス。エリス?」
 はっと顔を上げると、ヘルムートの腕から出たコレットが顔を覗き込んでいた。
「どうしたの? 考え込んじゃって。ほら、交代よ」
「え、あ、うん」
 オルゴールはまだ優雅に曲を奏でている。そばに立つヘルムートが微笑みながらエリスの手を取り、舞踏室の真ん中に立つ。
「じゃあ、始めるよ、エリス」
「はい」
 抱かれて踊り始める。ヘルムートの胸元を見つめながら踊っていたが、ふと顔をあげると優しいまなざしが見つめていた。
「あ、きゃ……っ」
「おっと」
 顔に血が上り、足許が覚束なくなったのをヘルムートが支える。
「ご、ごめんなさい、ヘルムートさま」
「僕はいいけど、どうしちゃったのエリス。顔が真っ赤だよ」
 思わず俯いてしまう肩を抱いて、ヘルムートがたずねる。
「エーリースー、いいかげん、旦那さまの美人顔に慣れなさいよ」
 コレットの呆れたような声がかかる。
「子どもの頃から見慣れてる癖に、ダンスで旦那さまの顔も見れないくらいに照れちゃって。どれだけ旦那さまのことが大好きなのよあなた」
「だ、だって……」
 眩しいくらいに麗しい人なのだから。そんな人の腕に抱かれて踊っているだけでも心臓がドキドキしてたまらないのに、やさしく見つめられたら、その瞳を見たら、魂が飛んでしまいそうになる。
「そうなの? エリス」
 見上げると、見たこともないほど嬉しそうな笑みを浮かべてヘルムートが尋ねてくる。
「僕のことをそんなに大好きでいてくれるんだね」
「ヘ、ヘルムートさま……」
「それじゃあ、なおさらよその男どもの視線に晒したくないね。こんなに可愛いきみを大事に箱にしまっておきたくなるじゃないか」
「え……」
「それじゃ本末転倒でしょ、公爵」
 コレットが突っ込む。
「そういう熱烈な相思相愛ぶりを舞踏会とかで世間に見せれば、不仲なんて噂は雲散霧消するんじゃないの」
 ぎゅっとエリスを抱きしめるヘルムートを呆れたように眺める。
「わたしとエリスとで、むける顔つきから違うんだから。あなたにたかってるハエたちを追っ払いたいんでしょ? どのみち男性陣はエリスにはちょっかい出さないわよ、あなたが怖くて」
「馬鹿なハエがスズメバチに化けてエリスを襲いそうだから、余計に連れていきたくない」
「エリスが出たがってるんでしょ。ちゃんとスズメバチと闘って守りなさいよ、旦那さま」
 会話についていけず呆然としているエリスに、コレットは「まずは公爵の顔を見ないで踊ってみたら?」と助言してくれた。一曲全部を踊るのに、エリスはけっこう体力が必要だったが、ヘルムートがやさしくリードしてくれるのもあってなんとか踊りきった。
「うん、舞踏会で踊るっていいかもしれないわね」
 息が切れて椅子に座り込んだエリスを見ながらコレットがヘルムートに言う。
「エリスは想像以上に可憐に踊ってるし、あなたもものすごーくやさしい紳士に見えたわよ公爵」
「僕はいつも紳士のつもりなんだけどね」
 諦めたように返事をするヘルムートを見返す。
「わかってないわね。よその女性たちとだと、あなたもっと冷たくてどことなく機嫌悪い雰囲気だわよ。エリスとだと甘ったるいほど甘い顔をしてるんだもの。――エリス、あなた毎日旦那さまとダンスを家で踊ってたら、体力つくわよ。ついでに至近距離で見る美人顔にも慣れるんじゃない?」
「そ、そう?」
 体力がつく、のほうに心惹かれて返事をすると、逆にヘルムートが心配顔になる。
「ワルツ一曲でこんなに息を切らしてたら、熱を出すんじゃないかな」
「毎日、いろんな曲を一つか二つのんびり踊っていたら、舞踏会までに体力つくわよ。ご婚礼の披露の舞踏会なんて曲はだいたい決まりきってるし。それに本番で息が切れたら、かよわい可憐な奥方を甲斐甲斐しく介抱する美人な旦那さま、という図も相思相愛ぶりを世間に見せつけていいんじゃない?」
 面白がっている口調で言うと、コレットは「じゃあエリス、ダンスがんばってね。ドレスでき上がったら教えてね」と告げて帰って行った。


* * * * * * * * * *


 その日は朝から王都じゅうがざわめいていた。
 エリスも起きて朝から湯浴みをし、ヘルムートと遅めの朝食をゆっくりと取る。
「具合は悪くない?」
 食後の珈琲を飲みながらヘルムートが心配げに尋ねるのにこっくりとうなずいた。
「はい、大丈夫です」
「一応、神殿にも披露の場所にも控室は用意したし、侍女にオルスコットの薬も持たせて待たせるからね。夜まで掛かるから途中で休憩していいよ」
「昨日レスターが様子を見に来てくれて、明日から寝込んでも今日はもつだろうって言ってくれました」
「なに、あいつ、きみに魔法でもかけたの?」
 驚いて尋ねるのに、首を横に振った。
「しゃんとしてないとヘルムートさまに恥をかかせるから頑張れって」
 ヘルムートは何とも言えない顔をした。昨日ヘルムートの部屋を唐突に訪れた魔法使いは「お姫には適度に緊張するように脅かしておいたからな」と嘲笑気味に言い置いて帰ったのだ。
あのクサレ魔法使いは何を考えているんだ、とうんざりしたように呟くと、気を取り直してエリスに微笑みかけた。
「じゃあ奥さん、今日は一日僕がしっかり側に居るからね」
「はい、一緒にお出かけできて嬉しいです。ジーナさまに会えるのも楽しみです」
 ほにゃりと微笑むエリスにヘルムートも笑顔を返す。部屋まで送り届けてくれる間大きな手が小さな手をちゃんと握ってくれて、エリスはうれしくてドキドキしていた。
別れ際、頬にちゅっとキスをする。
「へ、ヘルムートさま……!」
「僕からのおまじないだよ。今日一日、きみが元気に楽しくいられるように」
 
 ******
 
 式は昼からだというので、エリスは立ち襟にはレースが、スカートは幾重にも重なり繊細な刺繍がほどこされた淡いヘリオトロープ色の薄絹のドレスにリボン飾りのついた帽子と手袋、ヘルムートは燕尾服に勲章を付け、紋章入りの壮麗な装飾を施された四頭立ての馬車に乗り込んだ。いつもついてくる従僕のロビンの他に侍女のフィオがエリスの付添としてついてくる。
「今日は、街がとっても楽しそう。お祭りでもあるんですか?」
 窓から聞こえる街のざわめきに、エリスは楽しそうに旦那さまを見上げた。
「今日の婚礼は大きなものだからね。街も浮かれてるのさ」
 ヘルムートはくすっと笑った。
「なんだかどきどきしてきました」
 エリスはぽっと顔を赤らめた。
「お呼ばれも初めてだし、そんな立派な結婚式だなんて」
「大丈夫。時間はちょっとかかるのが面倒なだけで、基本は僕らの時と変わらないよ」
 優しく手を握る。
「花嫁も花婿もそういうところには無頓着なんだけど、周りがしきたりにやかましいんでね。二人とも面倒だとぼやいていたよ」
 神殿の前の広場は壮麗な馬車で埋め尽くされていた。ロビンが「順番を見て参ります」と馬車から降りて駆けていくのを待っていると、やがてうまく割り込んだのか、馬車は馬車寄せに滑り込んだ。
「エリス、ゆっくりでいいからね」
 ヘルムートに手を取られてエリスは下りる。
「あ」
 つま先がふらついたのを、ヘルムートがやさしく抱き留める。
「大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、まずは控室に入ろう。きみのご両親も式に来られるから、ついたら部屋に来られるだろう」
 控室は以前エリスが使った花嫁用の控室とは反対側だったが柔らかな日差しが差し込んでいた。
「ちょっと外は冷えているがいい天気だから寒くはないね」
 エリスを長椅子に座らせてヘルムートが中庭に面している窓から外を見ていると、ドアがノックされた。ロビンが開けると、慌てて脇による。
「来たかヘルムート」
「なんだリカルド。こんな時にうろちょろして」
 長い金髪を後ろで縛った青い瞳の美丈夫がのんびり入ってきた。
「いや、面倒な作業が始まる前に、おまえが来たって聞いたから。うわさの『エリスちゃん』の顔をちゃんと見に」
「僕の妻だぞ、なれなれしい。とっとと部屋に帰れ」
 ヘルムートは冷たく返事をした。
「いいじゃないか。減るもんじゃ無し」
「きみなんかに見せたら、エリスが減る」
 これだ、と青年は肩をすくめて、ぽかんとしているエリスに笑いかけた。
「ごきげんよう、ラングレー公爵夫人」
「あ、はい……あの……?」
「俺が今日の花婿なんだ。リカルドって呼んでくれていいよ」
 うやうやしく会釈した。手を伸ばしかけたが、ヘルムートの視線に肩をすくめる。
「あ、は、はじめましてエリス・ラングレーです……え、と、ご結婚おめでとうございます……」
「ありがとう。うん、まぁ俺の好みとはかなり違うけど、たしかに可愛いね。ヘルムートが子どもの頃からノロケてくれるはずだ」
 くすくす笑う。
「こいつときたら、最初はきみのことを俺にも内緒にしてたんだけどね。そのうち『エリスからなにをもらった』とか『エリスが笑ってくれた』とか『エリスに贈り物をしたらすごく喜んでくれた』とか、いやもうすごくってね」
 ますます憮然とするヘルムートを横目で見て笑う。
「俺はジーナにつれなくされっぱなしだったから、コンチクショウと思ってたんだよね。そのくせ自分がきみにめろめろぞっこんだっていう自覚はぜんぜん無くて溺愛しまくってたからねえ。やっと結婚するって決めるまで、なんて鈍いんだろうと思ってたよ」
「リカルド」
 ヘルムートが低い声を出し、エリスは思わず身震いをした。なんだか部屋が急に寒くなったような気がするのはどうしてだろう。
「わかったわかった、怒るなよヘルムート。奥方が怯えてるじゃないか」
 軽く両手をあげて花婿は澄まし顔でヘルムートを牽制した。
「エリス、僕コノヒトを支度部屋に押し込んでくるから、ちょっと待ってて」
 ヘルムートはため息をついた。
「そうだな。じゃあ舞踏会の時にでも、またゆっくりとね、『エリスちゃん』」
「だからなれなれしく呼ぶなって言ってるだろう」
 面食らっているエリスに花婿は機嫌よく手を振り、ヘルムートに引きずられるように部屋を出ていった。


「前言撤回するぞ、ヘルムート。なかなか可憐で可愛い奥方だな」
 廊下を歩きながらリカルドはくすくす笑い続けた。
「人の妻を捕まえて、ちゃん付けで呼ぶな」
「お前もそうだが、ジーナが気に入るわけだ。保護したくなる可愛さだな」
 ヘルムートはじろりと元学友を睨んだ。
「僕の妻だからな」
「わかってるさ。俺はジーナにぞっこんだから、お前の奥方までどうこうしようってわけじゃない。一応ジーナの妹になる子だしな」
 リカルドは頷いた。
 ヘルムートに先んじてエリスに求婚した侯爵家は跡取り息子のやらかしたことがきっかけとなって、ヘルムートとリカルドにあることないことをほじくられつつかれ、取り潰しとまではいかなくても領地を削られ爵位を落とされていた。その禄をティアーズ家に養女として入れさせたジーナの嫁入り財産として王家が吸収する。さらにジーナの後ろ盾を強化するためにエリスの父に大臣の椅子を用意した。むろん、その後ろにはヘルムートと、ヘルムートの父親が後見人として控えている。ジーナの王宮での政治的基盤を強化することが、魔法使いとしての実力のほかにも必要だというのがヘルムートの意見であり、リカルドもジーナもそれは受け入れた。……ジーナはかなり渋々だったが。
「大丈夫、お前のお株まで取ろうって訳じゃない。お前がやりたいように女どもをおっぱらっても、ラングレー公爵夫妻には非難が及ばないようにするだけだからな」
 神殿中を走り回って花婿を探していた侍従たちに王子を引き渡すとヘルムートは肩をすくめて控室に戻っていった。

 控室には、エリスの両親もすでに到着していた。
「エリスがこのあいだ会った時より元気そうでよかったよ」
 ティアーズ伯爵は娘婿と握手をしながら穏やかに笑った。
「今日のために侍女たちに体調に気をつけさせましたし、オルスコットの薬も効いているんでしょう」
 妻を見おろしながら、やさしく微笑む。見上げたエリスはぽっと頬を赤らめる。
「これからもエリスを頼むよ、ヘルムートくん。わたしはこれからは王家と国に今以上に仕えるので、あまりこの子のことまで心配してやれないだろう」
「ああ、そういえば国土大臣就任おめでとうございます」
「まぁ、治山治水というのは国の根幹だからね」
 その分、国全体を見回らなければならないから屋敷にはなかなか帰れないがね、とティアーズ伯爵は苦笑した。
 やがて下級神官が呼びに来たので、ヘルムートとエリスはティアーズ伯爵夫妻と神殿の大聖堂に向かう。
「ヘルムートさま……」
 だんだん不安を覚えてきたエリスが縋るように見上げると、ヘルムートは「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「きみは誰とでもふつうに初対面の挨拶してくれればいいよ。僕がちゃんとついているからね」
 大きな手が腕に掛けたエリスの小さな手をしっかりと握ってくれ、頬を赤らめてこっくりと頷く。
 すでに集まり出していた上位の貴族たちはティアーズ伯爵夫妻とラングレー公爵夫妻が一緒にいるのを見て驚いたようで、何組かの貴族たちが挨拶にやってくる。エリスと初対面の挨拶を交わし、ティアーズ伯爵の令嬢とわかると、何人かは「ああ、あの身体のお弱い……」と、細い身体のエリスを気づかうように微笑み、何人かは「これはまた可憐な奥方でラングレー公爵とはお似合いですな」と世辞を言い、その他の貴族たちは曖昧な笑みを浮かべてみせた。
 両親は政府の一員として決められた席に向かい、エリスたちは上位貴族たちの席次に案内される。
 ヘルムートがエリスをエスコートしながら公爵位の席に向かっていると、騒めきの中からひそやかな話し声が漏れてくる。「離縁……」「不仲……」「浮気……」という単語が耳を掠め、エリスは俯いてしまう。
「大丈夫だよ」
 微かに呟くようにヘルムートが囁くのに、はっとする。
(いけない、しゃんとしなきゃ)
 レスターの「旦那に恥をかかせるなよ」という言葉が耳奥から蘇り、見上げるとアメジストの瞳が優しく見おろしていた。微笑み返すと微かに頷いてくれる。
 エリスを着席させると、ヘルムートはちらりと周囲に視線を走らせて席に着いた。冷たいアメジストの視線に撫でられてなのか、ひそやかな単語は止んだ。騒めきはしばらく流れていたが、新郎新婦の入場が告げられると大聖堂は静まりかえり、やがて先ほどの美丈夫が小柄な花嫁を伴って通路を進み、大神官の前に立つ。
(ジーナさま、おきれい……)
 元々存在感のある少女は、エリスとさほど変わらない体格であるはずなのに、美丈夫と並んでも輝いているようで見劣りしない。
 エリスは誓いの言葉を交わして夫婦となった新郎新婦が参列者総立ちの拍手の中、大聖堂を後にするのをうっとりと見送った。まわりの参列者たちも興奮して会話も弾んでいる。
「妃殿下もようやく……」「王子殿下もこれで一安心……」「国王陛下が……」「あとは王太子として……」
 騒めきの中、ヘルムートがふっと笑う。
「なかなか見ごたえのある婚礼だったけど、僕としてはきみの方がきれいだったよ、エリス」
 びっくりして見上げると、ヘルムートは静かに笑っていた。
「あの時、きみはぼうっとしてたけど、とってもきれいだった。今になってみれば、傷ついて泣きそうだったろうにね。だけど、僕はきみがやっと僕の花嫁になってくれたと有頂天だったよ」
 手袋をはめた小さな手をとって、そっとくちづける。
「ヘルムートさま……」
「愛しいエリス。愛しいきみ。僕らも幸せになろうね」
「は、はい……」
 嬉しくて涙ぐんでしまう。
 エリスがヘルムートの腕に手を掛けて歩き出すと、若い貴族たちがヘルムートに声を掛けてきた。そのうちの何人かは女性連れで、妻であったり婚約者であったり恋人であったりした。聞けば王宮でのヘルムートの同僚だったり屋敷が近かったりする人たちだった。そして。
「やぁヘルムート」
「ああ、ウィル、きみか」
 快活な笑みを浮かべて一人の青年が近寄ってきた。見覚えがあるような気がしてエリスが見上げると、青年は「おひさしぶり」と笑いかけてきた。
「えと……」
 どきまぎして赤くなると、「もしかして覚えてもらってないのかなあ」と残念そうに言った。
「ほら、夏の夜会でコレットに紹介してもらったんだけど。お父上と一緒に、僕の主催の夜会にいらしたでしょう?」
「あ」
 思い出す。ダンスをするヘルムートを遠くから見つめるしかなかった夜会。
「幸せそうでよかった」
 爽やかに笑うと、ヘルムートにも笑う。
「きみも幸せそうでよかったよ、ヘルムート。きっとお似合いだろうと思ってたからね」
「……ありがとう」
 半ば目を伏せ、口許に微かな笑みを刷いてヘルムートも返事をした。忙しいだろうけど、気が向いたらまた遊びにきてくれたまえ、と青年はまた笑って離れていった。
 堂の中はまだ騒めいていた。こんな場所でゆっくりするのも珍しくて、エリスは天井や壁の装飾を見上げたりしていたが、ふと気がつくと、女性たちがこちらを伺うように見ている。何人かは女性だけで数人がかたまり、何人かは男性と一緒だったりしているが、どことなく敵意じみたものを感じて身が竦んだ。
「エリス?」
 ヘルムートが声を掛け、腕にかかった手が震えているのに気がついたようだった。
「……」
 周囲の視線に微かに眉をひそめると「一度控室にもどって、ちょっと休もう」と優しく言った。
 控室に戻るとヘルムートはお茶を淹れるように侍女に言いつけ、長椅子に並んで座ったエリスの顔を覗き込んで手を握った。
「大丈夫?」
「は、はい……」
「ちょっと疲れた顔をしているね。どのみち一度は屋敷に戻って着替えてから舞踏会だから、まぁのんびりしていよう」
「ヘルムートさま……」
「ん?」
「わたし……ヘルムートさまの奥さんとして、ちゃんとできましたか?」
「もちろん、ちゃんと出来ていたよ」
 ヘルムートは優しくエリスの小さい手を撫でた。
「たった一度、ウィルの夜会に出たきりなんて思えないほど、優雅な公爵夫人だったよ。式の前や後で挨拶した人たちはみな、僕やきみのご両親の知り合いばかりだったから、わりとくつろげただろう?」
「はい……」
 こっくりとうなずく。
「舞踏会はそんなに遅くまで居なくても大丈夫だろうからね。疲れる前にほどほどのところで家に帰ろう。――ああ、そうだ。ちょっと早めにここを出て、今からどこかでお茶して帰ろうか? 街もお祭り騒ぎだからね。きっと楽しいだろう」
 小首を傾げて考えてみる。
「街のお祭りって、今日だけなんですか?」
「うーん、どうだろう。二、三日は続くんじゃないかな」
 エリスはそれならと首を横に振った。
「今日は行かなくていいです。舞踏会でジーナさまとお会いするのに、先に疲れちゃうとこわいですから」
「そう? まぁあの二人はお祭り騒ぎを見物しながら帰ったんだろうけどね。じゃあ、ちょっと遠回りして街中を見物しながら帰ろう。それなら疲れないだろうしね」
 昨日もなかなか賑やかだったからきみに見せてあげたいな、と微笑みながら言うのに、嬉しくなった。

 控室を出ると、神殿のあちこちでまだ騒めいているのがわかる。豪華な衣装をまとった人々が回廊にも群れ集っていて自分たちの話に夢中になっていたり、こちらを伺ったり、会釈してきたりと様々だった。
 ヘルムートはエリスをエスコートしながら、口許には微笑を浮かべていたがあたりからの挨拶はまったく無視していた。なんだかご機嫌悪そうだなあだとエリスがそれを見上げて不安をおぼえていると、こちらには柔らかく微笑んでくる。
「ヘルムートさま?」
「ん?」
「あの……なにか……?」
 なにをどう尋ねたらいいのかわからずに、いいかけて止まると、クスっと笑った。
「気にしなくていいんだよ。僕は仏頂面で通ってるんだからね」
 馬車寄せに停まっている馬車にエリスを乗せながらやさしいまなざしを送る。続いて乗り込み、侍女とロビンが乗り込むと、馬車の扉は閉まって御者が手綱を緩める。
 神殿を出た馬車は市街地のあちこちをゆっくりと闊歩する。時々広場などで停まると、ロビンやフィオが窓の外を見て、ヘルムートとエリスに教えてくれるので二人で窓越しに眺める。宙返りする軽業師、大きな風船細工を売る道化師、空中に火を吹く手品師、綺麗な花を売る大きな露店。
「ロビン、停めさせろ」
「あ、はい」
 馬車が止まるとヘルムートが身軽に下りて花売りの露店に行き、小さな花束を買い求めて戻ってくる。
「エリス、ほら、これがヘリオトロープの花だよ」
 やさしく香る小さなブーケを差し出されて、エリスは頬を染める。
「ヘルムートさま……うれしいです、ありがとうございます」
「うん」
 屋敷の温室にもいろいろな花は咲いているが、彼自ら小さくても花束を買ってくれたのが嬉しい。しかもドレスの色の由来になった花は香水よりもやさしい香りがしている。
 遠回りをしてあちこちのにぎわいを見物して屋敷に戻ると、お茶の支度が待っていた。
「本日のご婚礼のお二人から、奥さま宛にお裾分けとしてお菓子が届いております」
 一度着替えてから二人で居間に座ると、なぜか執事のセドリックがお茶の支度の脇に立ってヘルムートに告げる。それからエリスに「花嫁さまのお使いの方よりお預かりいたしました」と未封の封筒を差し出した。怪訝に思いながら開くと、甘いバニラの香りのカードには「いつもエリスの作ってくれるお茶菓子は美味しいけど、わたしは自分では作れないから、わたしたち二人から、今日の祝いのケーキのお裾分けだよ」と走り書きがあった。
「僕にも宛じゃなく、エリスだけ宛だけなのか」
 椅子に片肘をついて顎を載せ、不機嫌そうにヘルムートが呟く。
「ヘルムートさま、こんな素敵なお菓子、わたし初めて見ました」
 セドリックが持ってこさせた「お裾分け」のケーキは、小振りな婚礼ケーキだった。果物がたっぷりと入って雪のように白い砂糖衣で覆われて、シュガーペーストの繊細な細工物が豪華に飾り付けられている。
「リカルドのところには、たしか腕のいい菓子職人が入ったって話だったからね」
 うっとりとお菓子を眺めるエリスの肩を引き寄せると、髪に口づける。
「でも、僕はきみが僕のために作ってくれるお菓子が一番好きだよ」
 目の前で侍女にケーキを切り分けてもらいながら囁かれて、エリスは真っ赤になる。
「そういえば、旦那さまはお小さい時に奥さまからクッキーをいただいて帰ってこられて、そりゃあお幸せそうでしたね」
 別の侍女が茶碗を置きながら、上品に思い出し笑いをする。
「あれはたしか、『バラの日』でしたか」
「そうだったね。あれ以来、エリスはいつもあの日にはお菓子を作って贈ってくれていたね」
 そんなこんなで、エリスはせっかくのお裾分けも胸がいっぱいになって味わうどころではなかった。たしかに美味しかったのではあるけれど。


* * * * * * * * * *


 そして、夕暮れの始まるより、すこし前の時間。
 淡い薄荷色のローブデコルテで正装し、毛皮の縁取りをした外套クロークを羽織ったエリスが馬車から降りるのに、宮廷服のヘルムートが手を差し出す。
「ジーナさまと王子さまの披露の舞踏会にもお呼ばれなんて、今日は夢みたいです、ヘルムートさま」
「うん、そんなきみはとっても綺麗だよ、エリス」
 エスコートされてゆっくりと歩くエリスにヘルムートがやさしく微笑む。お仕着せの侍従が案内する控室に侍女とロビンとともに入ると、そこはエリス好みの柔らかい色彩のやさしい雰囲気の部屋だった。
「今日は、まず国王陛下ご夫妻にお目にかかってご挨拶するからね。僕のそばから離れちゃ駄目だよ、エリス。迷子になるからね」
「は、はい……」
 外套を脱ぎ扇を持つと、侍女がドレスの裾を捌きやすいように直してくれる。舞踏会の会場とは別の部屋なのか、ヘルムートに連れられて人々の騒めきから離れていく。幅広で優美な曲線の装飾の段差の低い長い階段をゆっくりとあがると、明るく鏡張りされた天井と壁にシャンデリアの炎が揺れる豪華な廊下が長く続く。時折、静かにすれ違う人々の優雅な物腰にもヘルムートは慣れた様子だが、エリスは緊張し始めた。
「……ヘ、ヘルムートさま……」
 か細い囁きに立ち止まり、ヘルムートは柱の影でそっとエリスの肩を抱くと目許にキスをする。
「大丈夫だよ。陛下も王妃陛下もこわい御方じゃないからね」
「は、はい……」
 王宮の中をかなり歩いたような気がするが、やがて黄金で縁取りされた大きな両開きの扉の前に立つ。大扉の前の従僕が扉を開き、「ラングレー公爵ご夫妻、ヘルムート様とエリス様」と呼ばわるとヘルムートに手を取られてエリスは歩を進めた。
 赤い絨毯の最奥には高い台座に玉座が並び、やや老年に入ったように見える威厳ある男性と中年のおっとりとした雰囲気の女性が座っていた。玉座に続く階段の真下でヘルムートに導かれてエリスは深く膝を折って一礼した。
「ひさしぶりだの、ヘルムート」
「御意」
 一礼するとヘルムートは口許に淡い笑みを浮かべた。
「ご無沙汰しておりました」
「リカルドとジーナから聞いていたが、奥方がながく臥せっていたそうだな。今日の婚礼と披露に来てくれたようだが、無理をさせるでないぞ」
「ありがとうございます。エリス、ご挨拶を」
「は、はい……」
 伏せていた顔を上げる。
「エ、エリス・ラングレーでございます……国王陛下、王妃陛下に拝謁させていただき……光栄に、ぞ、存じます……」
「ティアーズ伯の息女だそうですね。病弱だと聞いていましたがジーナが懐いているようで、これからも友として仲良くしておくれ」
 やさしい女性の声に涙ぐむ。
「は、はい。ジーナさまは素敵なかたで、わたしには眩しいです」
「ほほ。ラングレー公、可憐な奥方ですね。仕事ばかりに躍起にならず、やさしくしてお遣りなさい」
「御意」
「離縁などという噂がたってはお気の毒なように可愛らしい奥方ではありませんか、ねえ、陛下」
「まったくだな。リカルドから聞いているが、幼馴染だそうだな。たしかにそちたちの父親も古い友人だし、夫婦仲睦まじくするようにな、ヘルムート。そちはリカルドと並んで性格が悪いからの」
「痛み入ります」
「ではエリス殿、今夜はゆっくり楽しんでおくれ」
 謁見はそれで終わりのようで、頭を下げる二人の前から、国王夫妻は退席した。そのあとゆっくりと謁見の間を下がると、ヘルムートは廊下の低い長椅子にエリスを座らせた。
「よくがんばったね、エリス」
 隣に座って胸元に抱き寄せる。
「わ、わたし、夢中で……」
「可愛いと褒めてもらったし、公爵夫人としてきみはりっぱにご挨拶できたよ」
 長手袋に包まれた小さな手を握る。
「よかった……」
「ほら、泣かない」
 ぽろりと落ちた涙をハンカチでおさえてやる。
「さあ、舞踏会に行こう。これからはずっと僕以外の男とは踊っちゃ駄目だよ」
 耳許で囁かれ、ヘルムートさまとずっと踊れるなんて、とぼうっとなる。その顔を見つめて、ヘルムートがやさしく微笑む。
「可愛いよ、エリス。そんな顔は僕にだけ見せて、他の男には見せちゃ駄目だよ。僕が嫉妬するからね」
「は、はい、ヘルムートさま……」
 
 ヘルムートにしっかりと手を握ってもらい、また長い廊下と階段を導かれ、どこをどう歩いているのかさっぱりわからないままに、とある扉をくぐると、大きなざわめきがこぼれ聞こえる輝く廊下に出た。ちょっと離れたところにもっと明るく輝く場所が見える。
「エリス」
 立ち止まると、ヘルムートは手を離してやさしく微笑んで会釈した。
「ラングレー公爵夫人、それではお手をどうぞ」
「は、はい……」
 差し出された腕にそっと小さな手をのせると、ヘルムートは「じゃあ行くよ」と囁いて歩き出した。
 廊下を出るとそこは大きなシャンデリアがいくつも天井から下がる燦然と輝くロビーで、きらきらと着飾った人たちで溢れていた。何人かがこちらを振り返り、ラングレー公爵、という単語があちこちでひそやかにあがるのが聞こえる。
「あ……」
「……大丈夫、僕がついてるよ」
 思わずたじろぐエリスにそっとヘルムートが囁く。見上げるとやさしい微笑。
「はい」
(しゃんとしなきゃ、エリス)
 レスターの励ましを思い出す。
 ロビーの奥に進むと、赤い絨毯が次の広間に続いている。そこはさらに大きな舞踏の間。
「ヘルムート様」
「公爵様」
 あちこちから若い女性の声が聞こえる。エリスはぎくりとするがヘルムートは歩みを止めることなく、ゆっくりとエリスと歩調を合わせて舞踏の間に入る。ゆるやかに演奏が流れている中を、そのまま奥に進んで適当な場所で立ち止まる。
「疲れてない?」
 見つめてくる。
「は、はい、大丈夫です……」
 アメジストの双眸がやさしく微笑むのに魅入られる。
「……あのさ」
「……はい?」
「きっと女の子たちが僕を目当てに寄ってくると思うけど」
 ちょっとうんざりしたように苦笑する顔も魅力的すぎてうっとりしてしまう。
「ちゃんと追っ払うし、きみに意地悪するようなら、もっとちゃんと追っ払うからね。きみは安心して楽しんでて?」
 エリスの手を取って指先に軽くキスをした。
「バーンズ嬢が言ってたけど、きみはこういうところも好きなのかなぁ」
「とってもきれいなものがたくさんで、見ていて楽しいです、ヘルムート様」
 天井画や壁にかけられた大きな絵画や彫刻をうっとりと眺める。
「それに舞踏会ってきれいなお姫様や王子様もたくさんいて、とっても楽しそう……。ほら、お隣の国から舞踏会の絵葉書くださったでしょう?」
「……うん、そのなかできみが一番可愛いお姫様だね」
 耳許で囁かれて、顔が赤く火照るのがわかってしまう。
「へ、ヘルムートさま……」
「なに?」
 ちょっと意地悪そうに微笑まれて、恥ずかしくて俯いてしまう。
「こんな場所でなければ、きみを抱きしめてうんとキスしたいところ」
 卒倒しそうなせりふがさらに囁かれて、手袋ごしに指を絡められる。
「あらあら、公爵、新婚ほやほやみたいだわね」
 聞きなれた声に顔を上げると、コレットが見知らぬ男性にエスコートされて立っていた。
「コレット、あなたも招待されてたの?」
 予想もしない親友の登場に驚いて尋ねると、「あら違うわよ」と手を振った。
「彼に頼んで連れてきてもらったのよ。でないと王宮での舞踏会なんてなかなか来れないじゃない?」
 男友達の一人らしい青年に笑いかけると青年もにっこり笑い返す。
 親友に会えてほっとしたエリスをにっこりと眺めやり、コレットはヘルムートにふふんと笑ってみせた。
「さっきから、あなたが奥さんを連れてきたっていうので女の子たちが大騒ぎしてるわよ」
「へえ。そう?」
「昼の結婚式も早くも噂になったようね。あなたがどのくらい騎士っぷりを発揮するか、わたしは見物してるから」
「コ、コレット、噂って……?」
「ああ、エリス心配しないで。公爵があなた相手に夏場のアイスクリームみたいにとろけてるって噂になってるだけだから。今までそんなこと無いので有名だった人だから、みんなあっけにとられてるのよ」
 びっくりしているエリスの腰をヘルムートが落ち着き払って抱き寄せる。
「当然だろう? 僕が結婚したいと思って求婚したのはエリスだけなんだから」
「あなたがやにさがってるのも気色悪いけど、真顔でノロケられてもね」
 じゃあね、お邪魔さま、と手を振って離れていくコレットと連れを見送り、訳のわからないエリスは困り果てて旦那さまを見上げた。
「ヘルムートさま……」
「ん?」
「コレットは何が言いたかったんですか……?」
「さあねえ。きみが僕と結婚して幸せそうなのが、ちょっぴり羨ましいんじゃないかな」
 コレットが聞いたら激怒しそうなことをさらりと言ってのけると、ちらりと部屋の向こうに目をやり、ため息をついた。
「さて、僕はこれからうんざりすることをしなけりゃならなそうだ」
 そちらを向くと、着飾った若い女性たちがぞろぞろとやって来るのがエリスにもわかった。笑顔のはずだがどことなく怖い雰囲気なのはなぜだろう。
「こんばんは、公爵様」「こんばんはヘルムート様」「ごきげんいかが? 公爵さま」「お久しぶりですわ、ヘルムート様」
 囀るように挨拶してくる女性たちは完全にエリスを無視していた。
「やあ、お嬢さんたち。僕は奥さんをエスコートしているからきみたちのお相手はしないよ。他の男性とおしゃべりするほうがいいだろうね」
 丁寧だがどことなく冷たい声でヘルムートが突き放してみせるが、女性たちは歯牙にもかけない。
「ええー、そんな公爵様冷たいですわ」「そうですわ! ヘルムート様にお会いしたくてたまりませんでしたのに」「ねえ」
 囀る女性たちは皆、エリスよりも女らしい体つきで、甘い香りを漂わせている。
「エリス」
 だんだん俯き出したエリスの細い肩を、ヘルムートがそっと抱き寄せた。
「あ、は、はい……」
「紹介するよ。僕の奥さん。身体が弱いのでなかなか出てこれなかったんだけどね」
「こ、こんばんは。エリス、です……」
 ためらいながら名乗ると、女性たちはつまらなそうな笑みを浮かべて御座なりの挨拶を返してきた。
「そういえば、ご結婚されるまで、どこかで一度くらいお会いしてなかったかしら?」
「あら、あたくしはお会いしたことなくってよ。伯爵家のご令嬢ってお聞きしたことあるけど、ご実家はどちら?」
 エリスが返事をするより早く、他の女性が口を開く。
「ティアーズ家っておききしたわよ」
「あら、あそこにご令嬢がいらしたの?」
「ティアーズ伯爵様ってたしかセロンにお住まいで、王都にはいらっしゃらなかったのよね」
「王都のお屋敷って聞いたことないわねえ」
 女性たちはくすくす笑うが、なぜ笑われるのか、エリスにはわからない。
「あ、あの、わたしが身体が弱いので、生まれた時からずっとセロンに住んでいて……」
「でも、夜会にお出かけとかされていたでしょう?」
「あの、いいえ、いちどきり……」
「あらあら」
 その嘲るような声音に怯えてしまう。
「そういえば、豊穣祭のときにヘルムート様と喧嘩されてたって、あなたのことよね」
 女性の一人が思い出したように訊いた。途端にエリスの身体はこわばってしまう。
「ああ、たしかお店の床に座り込んだとかなんとか」
 他の女性も言い出す。
「あらいやだ。そんなこと伯爵家のご令嬢がするはずないじゃない」
 嘲るような口調で誰かが言う。
「そんなのは、卑しい身分の」

「黙れ」

 冷たい声でヘルムートが遮った。
「僕の大切な妻を侮辱する気か」
「そ、そんなこと……」
 口ごもる女性たちを冷たい光を湛えたアメジストの瞳がじろりと睨め回した。
「エリスは生まれた時から身体が弱かったんだ。僕が子どもの頃からずっと見守ってきたこの子を傷つけたり侮辱するのは許さない。それがどれほどの身分の人間だろうとね」
 頭上から凍りつくような空気が下りてきてその場を満たす。取り巻きの令嬢たちは青ざめ、一歩下がる。エリスは鳥肌のたった肩を抱くヘルムートの手に力が篭もるのを感じた。
「僕の妻を侮辱するなら、二度と近寄るな」
「……し、失礼いたしますわ」
 一人が一歩下がって踵を返すと、他の女性たちも挨拶を口にして去っていく。
「……ヘルムートさま……」
「……ごめん。もっと前に止めさせたかったんだけどね」
 ヘルムートは軽く目を閉じると、息を一つ吐いた。エリスを見つめる瞳はやさしく、切なそうだった。
「舞踏会が始まる前から、不愉快な思いをさせたね。ごめん」
「そんなこと、ありません……」
 首を振る。肩を抱く手がそっと抱き寄せてくれた。その腕に寄り添うと、やさしく微笑んで髪にくちづけてくれる。
 そのとき音楽が変わり、ファンファーレが鳴る。大広間に入った人々が部屋の奥に一斉に視線を動かすと、奥の扉から中肉中背の姿勢のいい老人が出てきた。ちらりとヘルムートたちのほうに視線を投げたようだったが、そのまま、最奥の台座に向かう。気がつくと、台座の上にはどっしりとした椅子が四脚並んでいる。
 老人が台座の脇に立つと、再びファンファーレが鳴らされ、昼間に婚礼を行った新郎新婦――リカルドとジーナが扉の奥に立っていた。濃紺と金の太綬を着装し、金色のボタンがずらりとついた宮廷服を身に付けたリカルドと、濃い紅薔薇色のドレスを纏い宝冠を戴いたジーナは、エリスにはお伽話に出てくる王子と王女のようだった。
「ジーナさま、おきれい……」
 思わず呟いたエリスに気がついたのか、ジーナが視線をよこしてニコリと笑った。そのままリカルドにエスコートされて台座の椅子の前に立つ。
 みたび、ファンファーレが吹き鳴らされ舞踏の間の全ての人間が深く一礼する中を、衣擦れの音とともに国王夫妻が現れ、台座の上の椅子に腰掛けた。シンと静まったなかに、国王は寛いだ様子で広間を見渡した。
「此度、我が第一王子リカルドはティアーズ伯爵家のジーナ嬢と婚儀した。余はまだ退位のつもりはないが、リカルドは今年の豊穣祭のときに正式に王太子とする。臣下たるそちたちが、次代の王たるリカルドにも重ねて忠誠を誓ってくれることを望むぞ。今夜は婚儀の披露ゆえ、皆、楽しむが良い」
 緩やかな音楽がエリスにも耳慣れたワルツに変わり、リカルドがジーナの手を取って台座から下りて踊り出す。ヘルムートよりも華麗に踊る姿に、エリスの目も釘付けになった。ジーナがさらに華やかにステップを踏む。
「エリス……僕らも踊ろうか」
「――え……?」
 囁かれてびっくりしてヘルムートを見上げると、やさしい微笑が浮かんでいた。
「大丈夫、練習の通り、僕に身体を預けてくれればいいんだから」
「は、はい……」
 手を取られ、ヘルムートに抱かれて踊りに加わる。やがて、二組、三組、と踊りに加わる男女が増えて、舞踏会が始まった。


* * * * * * * * * *


「やれやれ、しきたりは面倒くさい」
 ひとしきり踊った後に、リカルドは踊りの輪から外れてシャンパングラスを片手にため息をついた。
「だから婚礼なんて面倒だと言ったじゃないか、リド」
 その隣でやはりシャンパングラスを片手にジーナが言うが、続けて気の毒そうにエリスを見る。
「もしかして、とってもエリスをびっくりさせちゃった?」
「は、はい……」
 きみはお酒ダメだから、と果実シロップを炭酸水で割った飲み物を注がれたシャンパングラスをヘルムートから渡されたエリスは困り果てていた。
「ジーナさま、セロンのおうちの子どもになったんですか……?」
「うんまぁ、いろいろ都合があってね。いちおう、形の上ではエリスのお姉さんてことになったんだよ。エリスがびっくりするといけないからって内緒にしてたのは、わたしたちもヘルムートも同じなんだけどね」
 そういいつつも、ジーナはエリスを見てニコリと笑う。
「エリス、今日もとっても可愛い。薄荷色の可愛い小さな薔薇が咲いたみたいだよ」
「え……っ」
 みるみる赤くなる頬をつつきたい、というように人さし指を差し出すジーナを見つめて、エリスは悄気返る。
「ジーナさまのほうが、いつもとってもおきれいなのに……」
「わたしとエリスじゃタイプが違うよ。ヘルムートはエリスみたいなのが好みなんだ?」
「違うな、ジーナ。ヘルムートはエリスちゃんみたいなのが好みなんじゃなく、エリスちゃんでなくちゃ駄目なのさ。だから無表情で怒るなよヘルムート」
 リカルドは無表情のヘルムートににやりと笑いかける。
「リカルド。僕のエリスを気安く名前で呼ぶなって何遍言えばわかるんだ」
「ラングレー公爵夫人なんて、こんなカワイイ女の子に似合わないような堅苦しい肩書きだろう。名前で呼ぶのが気にくわないなら、そうだなあ、お花ちゃんとでも呼ぼうか?」
(に、似合わないんだ……やっぱり……)
 萎れるようにうなだれたエリスの腰をヘルムートが抱きよせて王子を睨みつける。
「エリスを傷つけるなって言っただろう、リカルド。……エリス、きみは可愛い公爵夫人でいいんだからね? きみは僕のだいじな奥さんなんだから」
「だってお姫様じゃないだろう、お前と結婚したんだから。昔はきみのことを『田舎のお姫様』って俺は呼んでたんだよ。セロンはのんびりした町だからね」
「あ、あの王子さま、わたし本当に神殿ではご無礼を……」
 半ばべそをかきながらエリスは俯いた。
「大丈夫だよエリス。リカルドはあのくらいじゃどうってことないくらい図々しくて図太いんだから。ああほら、泣かない」
 やさしく髪を撫でながらヘルムートが慰める。
「おまえも大概、図太いけどな」
「誰彼かまわず毒を吐くきみほど、僕は無神経じゃない」
 リカルドは肩をすくめたが、思い出したように「それで」と言った。
「女の子たちはどうした」
 ヘルムートは眉をひそめた。
「さしあたり追い払った。エリスをいじめたんでね。だけどまだしつこいのが残っている」
「自業自得だな。まぁエリスちゃんは最後になったら俺とジーナが預かるから」
 リカルドは優雅にエリスに向かって一礼した。
「なんだったら、のんびりここに滞在してくれていいよ? 歓待するから」
「え、あの……」
 心細くなってヘルムートとリカルドの顔を交互に見る。
「だめ。エリスは僕とずっと一緒にいて、僕と一緒に家に帰るんだよ」
「ヘルムート、そんなに抱きしめてたら、エリスのせっかくのドレスが台無しだよ」
 ため息をつきながらジーナがさりげなく割り込む。
「ついでにいうと、後ろで宰相殿が待ってるよ」
 びっくりしたエリスの後ろから咳払いがした。振り返るとファンファーレの時に出てきた老人が立っていた。
「どうした宰相。俺に何か用事か」
「いえ、殿下ではなく」
 鋭い眼光に射すくめられてエリスは血の気が引いた。が、ふっと眼差しが優しくなる。
「これはまた、お懐かしい方にお目にかかった気がいたしますな……ラングレー公爵夫人?」
 老人は一礼すると、エリスの手を取って指先に恭しくくちづけした。
「宰相殿。僕の妻になにか」
 ヘルムートの声が低くなる。
「ラングレー公爵。奥方はたしかティアーズ伯爵のご令嬢でしたな」
「そうですが」
「貴公の奥方は、先代のティアーズ伯爵の奥方に瓜二つでいらっしゃる。聡明で麗しい、社交界の白百合とまで讃えられた貴婦人でした」
「リ……リリアナおばあさま……ですか?」
 おずおずとエリスが尋ねると宰相は頷いた。
「左様。リリアナ殿はその名の通り、白百合の花の精とまで言われた方でしてな。孫娘殿がこれほどそっくりとは思いませなんだ。あの方は亡くなるまではお元気でしたが……」
 昔を懐かしむようにエリスを眺めやる。
「いやいや、この齢になって若い頃の思い出に浸れるとは、老体も長生きした甲斐があったというものです。では、失礼」
 老人はくるりと背を向けると、何事もなかったかのように歩み去った。
「……ヘルムート。おまえの奥方は、魔法使いか何かか」
 ややあってリカルドが呆れたような口調で言った。
「あのやかましやの爺さんがあれほど機嫌がいいのを見るのは初めてだぞ?」
「僕も初めてだな。――エリス、きみのおばあさまってどんなかただっけ?」
 腕の中のエリスに尋ねるが、エリスも困惑しただけだった。
「おばあさまの肖像画って、見たこと無いような気がします。おじいさまのお部屋にあったかしら……?」
「エリスは性格の悪い人と仲良しになるのがうまいんだねえ」
 のんびりとジーナが言う。
「あなたたちもそうだし、宰相殿もそうだし」
 あの魔法使いもそうだ、とヘルムートは内心で頷く。
「そういえば、親父とお袋もエリスちゃんを可愛いと褒めちぎってたな。ジーナ、おまえなにか言われていたろう」
「うん、エリスみたいな子は大事にしなくちゃいけない友達だって言われた」
 にこりとする。
「エリスは損得とか考えない、ほんとに純粋に友達付き合い出来る子だからって。リドとヘルムートもそうだけど、そういう人間はたしかに王宮には少ないからね」
 リカルドがグラスの端でにやりと口許をあげた。
「たしかにな。ほら、俺たちのまわりはそろそろ損得勘定したがる連中がうろつき始めたぞ」
 いわれてみると、こちらをちらちらと見ている人間がたくさんいるのにエリスは気がついた。
「じゃあまたあとでな、エリスちゃん? あとヘルムートもな」
 にこやかにリカルドが手を振り、ヘルムートはエリスの手を握った。
「疲れてない? ちょっと座ったらいいよ」
 リカルドたちから離れた途端、わらわらと客たちが新郎新婦に群がって挨拶を始める。ヘルムートはエリスに微笑みかけながら、壁際の長椅子に導いて座らせてやる。
「ちょっと顔が赤いけど、熱は出てないかな」
 手袋を外してそっと額に手を当てる。
「わたし大丈夫です、疲れてません。ヘルムートさま」
「そうだね。汗もかいてないし。具合が悪くなったらすぐ言って?」
「は、はい」
 ヘルムートさまやっぱりやさしくて嬉しい、と見上げてうっとりと見つめていると、微笑み返してくる。
「ラングレー公爵?」
 誰かが声を掛けてくるのを、ヘルムートがちらりと視線を投げ、とたんに無表情になった。
「ええとご挨拶を……そちらが奥方ですか?」
 ヘルムートよりは年嵩の男性が、どことなくためらいながら立っている。
「貴卿は?」
「○○伯爵と申します。あの、実はお願いがありまして……」
 エリスには聞こえない小声で男性は話し始めたが、ヘルムートはみるみるうちに眉を寄せた。
「そういうことはお断りしているので」
「そこをなんとか……奥方はティアーズ伯爵のご令嬢とお聞きしました。できればご紹介を……」
「お断りする」
 冷たく言い放つと、男性はうなだれて立ち去っていった。
「……ヘルムートさま……?」
 おずおずと話しかけると、ヘルムートは「予想してたことなんだけどね」とためいきをついた。
「僕はリカルドの元学友だし、きみの父上は今度政府の要職につくし、しかもさっきは宰相とも話してただろう? だから便宜を図ってもらいたがる人間が寄ってきやすいんだよ。僕は実力もないのに美味しいところを欲しがる人間が嫌いなんだけどね。社交の場に出てくるとそういうことに巻き込まれやすいので面倒なんだ」
「ヘルムートさま……あの」
「ん?」
「わたしはまだ疲れてませんけど、ヘルムートさまがお疲れなら、帰ってもいいです」
 アメジストの瞳がびっくりしたようにまばたきし、ヘルムートはくすくす笑い出した。
「うれしいよ。きみにそんなふうに労ってもらえるなんて」
「だ、だって……」
 ヘルムートさまにはためいきなんて似あわない、とエリスは思ったが、ヘルムートはまた流れ出した音楽に振り返った。
「エリス、もう一曲くらいは踊れる?」
 やさしく囁かれて頬を染めた。
「え、えっと、はい……」
 差し出された手に小さな手を重ねる。
「疲れたら、途中でも抜けるからね、そう言って?」
「は、はい……」
 踊りの輪に加わってやさしく肩を抱かれ、軽やかな音楽とヘルムートのリードで踊り出したが、足許がふわふわしているような気がする。ゆったりとしたテンポのワルツのせいか、息も切れずに踊り終わり、ふと見上げるとヘルムートの、息も止まるほどの笑顔が見おろしていた。
「……!」
 思わず俯いた顔が熱い。
「――ちょっと外の風にあたったほうがよさそうだね。熱気も凄いし」
 エリスの手を取り、ヘルムートが空いた手で緞帳の陰のフランス窓を押して、バルコンに連れ出す。まだ日は沈みきらず、夕暮れが薄紫に空に残っている。庭の木立からは新緑の香りが漂ってくる。
「きれい……」
 ゆっくりと歩み寄った手すりの際で空を見上げ、ほうっとエリスは息をついた。
「ヘルムートさまの目の色みたいです……」
 大きくて温かい手がそっと肩にのせられる。
 振り返ると、そのまま肩を抱き寄せられ、頬を包まれる。唇を塞がれた。甘いくちづけに震えてしまう。唇が離れ、そっと胸の中に抱き込まれた。見上げると、熱の篭もった瞳が見つめている。大きくて温かい手が頬を包み込み、また唇を塞がれる。永遠に続くかと思うほどのキスに身体の力がぬけてしまい、そのまま身体をあずけてしまう。
「今夜のきみは、いつも以上にきれいで可愛いよ、エリス」
 甘くヘルムートが囁く。
「ウィルの夜会で見た時もきれいだったけど。そんなきみとこうして舞踏会で踊れるなんて、夢みたいだ」
「わたしも……夢みたいです、ヘルムートさま」
 やさしい唇が潤む翡翠の瞳の眦にくちづける。
「このままずっと二人きりでいたいくらいだよ? 踊ってる間も抱きしめたくてしょうがなかった」
「わたし……とっても幸せです」
「うん」
 ヘルムートはふわりとやさしい笑みを浮かべたが、ふるりと震えたエリスの肩を抱きなおした。
「風が冷たいね。部屋に入ろうか。風邪をひくといけないからね」
 大広間に戻って給仕からグラスを受け取ると、エリスに「身体があたたまるように、一口だけだよ」と白ワインを飲ませてくれた。
「ヘルムートさま」
「ん?」
「どうしてみんなお酒を美味しそうに飲むの? そんなに美味しいとも思えないのに……」
 グラスを傾けかけて、ヘルムートはくすっと笑った。
「エリスには美味しいと思えなくても、美味しいと思う人間は多いんだよ。酔っぱらいたい気分ていうのもあるだろうけどね」
 首をひねる。エリスにしてみたら、酔っぱらったら目は回るし気持ちは悪いしでいいことはなさそうだが。
「エ、リ、ス」
 声を掛けられて振り向くと、コレットがいた。ワインでも飲んだのか、ほのかに頬が赤い。
「楽しんでるみたいね?」
「うん。コレットは?」
「楽しんでるわよ。さっき踊ってるの見たけど、だいぶ進歩したわねえ。ほっぺた赤くして旦那さまと踊ってるのなんか可愛かったわよ。――ところで公爵」
 ちらっと目配せしてそばに寄る。声をひそめた。
「もしかして、一番面倒くさそうな人と揉めてる?」
「べつに」
 そっけないヘルムートの返事に眉をひそめる。
「それならいいけど。女の嫉妬って、わたしが言うのもなんだけど、けっこう面倒よ。エリスに気をつけてあげて。――ああ、ライオネルが呼んでるから。じゃあね」
 手を振ると、エスコート役の男性のところに戻っていく。
「ヘルムートさま?」
 給仕に空いたグラスを戻すヘルムートにエリスはおずおずと尋ねた。
「どうかしたんですか?」
「ん? いや、なんでもないよ」
 安心させるように微笑んだ。
「ダンスしないと退屈?」
「そんなこと、ないです……。ヘルムートさまのおそばにいるだけでわたしは楽しいです。でも……」
「僕も、きみと一緒にいるだけで楽しいよ」
「は、はい……」
 小さな手をそっと握り指を絡めると、恥ずかしそうに絡め返してくる。そのとき、きょろきょろしながらやってきた若い給仕役が、「失礼します」と声を掛けてきた。
「ラングレー公爵閣下でいらっしゃいますか」
「そうだけど」
「申し訳ございません、こちらをお渡しするようにと言伝かりまして」
 四つ折りにした紙を手渡され、開いたヘルムートが眉を寄せた。
「――今日、この時間にか?」
「は、急いでお渡しするように、とのことでございました」
 ヘルムートは微かに口許をゆがめると、「わかった。ご苦労」と給仕に言い捨てた。下がった給仕には一顧だにせず、ちらりとあたりに目を配ると、ヘルムートは深いため息をついた。
「……ヘルムートさま?」
「困ったな……」
 心底困った顔でヘルムートはエリスを見おろした。
「ごめんよエリス。仕事のことで急に呼び出しが来たんだ。どうする、まだここにいる? それとも控室に下がって休憩する?」
「お時間、かかりそうなんですか……?」
「かからないと思うんだけどね。ただ、バーンズ嬢もきみのご両親も姿が見えないし、リカルドもジーナもあの状態だからね」
 見れば、第一王子夫妻はあいかわらず山のように取り巻きに囲まれていた。
「ここからお出かけになるの……?」
「いや、王宮の中のちょっと遠くの部屋なんだ。ただきみをこんなところでひとりにしたくない。控室に戻ろう」
 エリスはちょっと考えた。
「わたし、隅っこの椅子に座ってヘルムートさまを待っていては駄目ですか?」
「ひとりで不安じゃない?」
「大丈夫です。他の人も大勢いますから、こわくないです」
 ヘルムートは眉をひそめたが、渋々頷いた。見渡すと、玉座の近くの壁際の目立たない長椅子にそっと座らせる。
「じゃあ、大急ぎで帰ってくるからね。誰がなんといってもここを離れちゃ駄目だよ? 王宮で迷子になったら大変だよ」
「はい」
 こっくりとうなずくエリスのこめかみにやさしくキスをすると、足早にヘルムートは去っていった。

* * * * * * * * * *


 ひとりきりになって、エリスはのんびりとあたりを見渡した。
 座っている椅子と玉座の間には、たくさんの花を生けた巨大な一角獣の姿をした雪花石膏の花瓶がある。そばの壁際には窪みが作られて優雅に微笑む貴婦人の大理石像が立っている。どちらもスケッチしたいな、と思ったが、レスターに「人間とか動物モドキは絵に描くな」と言われたのを思い出して、はふ、とためいきをつく。
 音楽はさっきからまた流れていて、色とりどりの豪華な衣装をまとった女性たちが貴公子たちに抱かれて踊っている。ひらりひらり、ふわふわ、まるで花びらがたっぷりある色とりどりの花が花壇で風に舞うようにも見える。
(きれい……)
 うっとりと眺めていると、「こんばんは」と声を掛けられた。振り向くと、艶やかな黒髪を優雅に結い上げ、豪華なドレスをまとった若い女性が立っていた。
(きれいなかた……)
「こ、こんばんは……」
 目があうとにっこりと笑いかけてきたが、なんとなく寒気がした。
「……?」
 不思議に思いながら見上げていると、「こちらのお椅子、ご一緒してもよろしくて?」と尋ねられた。
「あ、はい、どうぞ」
 優雅に座ると、「わたくし、ラヴィニアと申しますの」と名乗る。
「あ、の、エリス、です……」
 ちょっと緊張しながらこたえると、「ヘルムート・ラングレー公爵様の奥さまでしょう?」と尋ねられた。
「あ、はい」
「やっぱり……。公爵様とずっとご一緒だったし、奥さまをつれてらしたってお聞きしたからもしかしたらと思って」
 にっこりと微笑む姿は大輪の薔薇のように華やかだった。
「そういえば、公爵様は?」
 不思議そうに尋ねるのに
「あの、急なお仕事で別のお部屋にいってらして」
「あら、つれない方ですのね。こんな日にまでお仕事なんておっしゃって、奥さまをこんなところにひとりきりに放り出すなんて」
 扇を広げて、その陰でくすっと笑う。
「あの、いいえ、わたしがここでお待ちしますって……」
 慌てて言い訳をしながらふと不安を覚える。もしかして礼儀知らずだったのだろうか。ヘルムートの言う通り、控室に下がるべきだったのだろうか。
「でも、ヘルムート様がつれない方なのは、いつものことですものね。あのかたは、いろんな女性と一緒に過ごされてもいつもつれなくて」
(もしかしてヘルムート様社交の場に出るのお嫌いなのかな。人嫌いっぽいし)
 ふと考え込んだエリスの脇でラヴィニア嬢が優雅に笑いながらふわりと扇を動かすと、甘い香りが漂う。その香しさにうっとりしてしまう。
「すてきな香り……」
「ああ、この香水? この国で一番腕のいい調香師に命じて特別に作らせたんですのよ。わたくしのお気に入りですの」
 そういうお仕事の人がいるんだなあとエリスは感心する。
 ふと人の気配がして振り向く。
「あ、ヘルムー……」
 大好きな旦那さまではなく、見知らぬ若い男性が数人立っていた。
「ラヴィニア嬢、こんなところにいらしたのですか」
「お探ししたんですよ」
「いかがですか、一曲」
 口々に言いながら手を差し出す。
「そうですわねえ……でも、今はこちらの奥方様とおしゃべりしていて」
 にっこりと優雅に笑いながらラヴィニア嬢は青年たちをあしらう。
「こちらのご令嬢……奥方?」
 青年の一人が、エリスを見て、怪訝そうな顔をする。
「ラングレー公爵様の奥方様だそうですわ」
 唐突に紹介されて、エリスはびっくりした。
「あ、あの……はじめ……まして……」
 腰の引けた挨拶をしてしまう。
「は、あなたがラングレー公爵夫人で……?」
 一瞬青年たちは絶句し、やがて慌ててまわりを見渡す。
「ですが公爵の姿が……?」
「あのかたは目立つから、居ればすぐにわかるのに」
 青年たちはあちこちみやりながら不思議そうな顔をする。
「ほほ、ヘルムート様は奥さまを放り出してどこぞにいかれたようですわ。ほんとうにしようのない方だこと」
 ラヴィニア嬢がにこやかに言う。
「まぁ、すぐに……お戻りになられるでしょう。いくらなんでも奥方を放り出してそのままということは……ないでしょうし」
 ひとりが口ごもりながら言う。そうだよなあ、と他の青年たちも相づちを打つ。
「そうですわねえ。いくらヘルムート様が浮き名を流す方でも、せっかく連れていらした奥さまですもの。奥さまをないがしろにして他の女性と、なんてないでしょうし」
 エリスは思わず俯いた。
「でも、ヘルムート様の奥さまがこんな可愛らしい方だとは思っていませんでしたわ。あのかた、いつももっと女っぽいかたと浮き名を流していらしてましたものね」
 胸が苦しくなってきた。目が熱い。
(泣いちゃ駄目。ヘルムートさまに恥をかかせちゃ駄目)
 必死にまばたきをして涙を押し戻す。
「ラヴィニア様も公爵と仲がおよろしいですから、僕の胸は張り裂けそうです」
 青年の一人が言い出すのを聞いて、エリスは思わずぎょっとして顔を上げた。
「僕の胸の裡はお分かりのはずですのに、いつもつれない方でいらっしゃる」
「あら、べつに仲なんてよろしくなくてよ? そりゃ一応遠縁ですもの、話くらいはいたしますけれど」
 優雅に笑うのに、思わずエリスは見つめてしまう。
「あ、あの……」
「まぁなにかしら、エリス様?」
「ラ、ラヴィニアさま、ヘルムートさまとご親類……?」
「ええ。親類といってもほとんど他人の遠縁ですけれど。だからエリス様とお目にかかるのは初めてなんですの。ご婚礼で呼ばれませんでしたもの」
「ラヴィニア様はてっきり公爵のところに輿入れなさるものと思ってましたから、私は公爵が別の方と結婚されたと聞いて驚きました」
 別の男性が安堵の息をつきながら言う。
「私にも一縷の希望が残っていると思っておりますよ?」
「たしかに、ぼくもそうですね」
 口々に青年たちが言う。
「そういえば、失礼ながら公爵とはどういうご縁でご結婚されたんですか?」
 青年の一人がエリスに尋ねる。
「あ、あの……小さい時から、時々家に遊びに来て下さっていて……」
「あら。あのかた意地悪だから、さんざん泣かされたでしょう?」
 ラヴィニア嬢がやさしく尋ねるのにかぶりを振る。
「いいえ、いつもやさしくして下さって……」
「へえ、あの公爵が……意外だなあ」
「そうだなあ。いつもそっけないので有名なかたなのに」
「わ、わたし、体が弱くていつも寝ついていたせいかも……しれませんけれど」
「あら、そうでしたの? ヘルムート様がそんな騎士道精神豊かな方だとは思いませんでしたわ」
 にこやかな笑みのはずが、どことなく冷たく感じてしまう。
 なんとなく俯いてしまったエリスを眺め、ラヴィニア嬢はそっと手を握ってきた。
「あまり、こういう場に慣れてらっしゃらないようね?」
「は、はい……」
「公爵家に嫁がれたからには、慣れないといけませんわ。そういえば、喉が渇きませんこと?」
「じゃあ、僕が探してきましょう。ワインでよろしいですか」
 青年の一人が慌てて給仕を探しに行く。程なく白ワインが配られた。しかし酒が飲めないエリスは途方にくれてしまう。
「おや、あまりお酒はお得意ではないのですか?」
 青年のひとりが尋ねる。
「あ、はい……」
「これは甘口でよく冷えてますから美味しいですよ。弱い方でもちょっぴりずつ飲んでいけます」
 すすめられて口をつけるが、やはり飲めない。
「それにしても、公爵はお戻りになりませんね」
 他の青年が遠くをすがめるように眺める。
「ラヴィニア様、もしよろしければ次の曲で踊っていただけますか?」
「あら、そうですわね……ええ、よろしくってよ」
 抜け駆けだぞ、と青年たちが笑いあい、別の数人がエリスに手を差し出す。
「公爵夫人、僕にダンスの栄誉を」
「いや、私にこそ」
「あ、あの……」
 驚きと困惑で狼狽える。ヘルムートに「僕以外の男と踊っちゃ駄目だよ」と言われたのを思い出して困っていると、ラヴィニア嬢がやさしく諭すように言う。
「まあエリス様。そこは踊ってさしあげなくちゃ」
「そ、そうなんですか……?」
 心臓がどきどきして苦しいほどなのだが、どう言って断っていいのかすらわからない。
(ヘルムートさま、帰ってきてくださらない……)


 そのヘルムートは、舌打ちをして目的の部屋を出たところだった。
 呼び出したのは、財務大臣の片腕と言われている人物で、ヘルムートの仕事にも関係している人物でもある。仕事といっても元学友の王子が押し付けてきた仕事なので、なにも今日の呼び出しを無視しても問題はなかったのだろうが、小煩い人物だったのでしょうがなかったのだ。
 しかし、その人物がいつもいるはずの部屋は真っ暗で、念のために自分がいつも詰めている部屋も覗いたのだが、やはり人気どころかネズミ一匹いない。なんだったんだ、と手の中の紙片を広げなおして見る。

 貴公の扱っている内容につき、至急お尋ねしたきことあり。申し訳ないが小生の部屋まで来られたし。

 先方の筆跡を見慣れているわけではないが、署名はたしかに本人の名前だった。そもそも呼び出しが偽物だとしても、なんのためにこんな凝ったことをするのか。ふと鼻先に近づけて眉をひそめる。脂粉が微かに薫る。記憶を刺激する香りだが、どの女の香水だったかを思い出せない。しかし、これは自分をエリスから引き離すつもりだったのではないのか。
 それに思い至った時、ヘルムートはきり、と唇を噛みしめた。
 迂闊だった。
 一人きりにするのではなかった。せめてちゃんと言い聞かせて控室まで送り届けておけば。
 足早に廊下を、階段を歩いて舞踏会の大広間を目指す。不幸なことに、ここは王宮のまるきり反対側なのだ。胸の内ポケットに書きつけを入れると、階段の窓越しに中庭を見る。中庭を突っ切れば、廊下で迂回するよりは早く着ける。幼い時から王宮は遊び場だったのだ。あらゆる通路を知り尽くしている。
 ヘルムートは階段を下りると、中庭に出るガラス戸を開いて、一歩を踏み出した。


* * * * * * * * * *


 騒めきのなか、エリスは差し出されたいくつもの手を、そして差し出した青年たちを見上げた。
 不安に満ちた瞳で見上げられて、青年たちはちょっと気の毒げな顔をする。
「あー……、そんなに困らないで下さい」
 一人が慌てたように言う。「気楽に考えて下さっていいんですよ。僕たち、誰が一番でも恨みっこなしですから」
「あ……の……」
 口ごもった時、くらりとめまいがした。続いて激しい頭痛に襲われて思わず椅子に手を突いて額を押さえると、青年たちはぎょっとして身を屈めてくる。
「公爵夫人?!」
「あ、お顔が真っ青だぞ」
「いかん、水をお持ちしよう」
 だれかがグラスに注がれた水を差し出してくれるのを、震える手で受け取ってゆっくりと口を付ける。
「エリス様、まぁどうなさったの」
 ラヴィニア嬢が背後から声を掛けてくる。
「あ、ありがとう、ございます……」
 飲み終わったグラスを受け取ってくれた誰かに礼を言う。
「ご気分がすぐれないの?」
「え、と、た、たぶん、平気、です……」
 ラヴィニア嬢に応えを返しながら、頭上で青年たちが、「どうしよう」「公爵はまだ?」「公爵を探したほうが……」「医者じゃないか?」「でも舞踏会の最中に医者じゃ、殿下が……」と相談しているのが遠くのように聞こえる。
(だめ、エリス、がんばらないとヘルムートさまに恥を……)
「おや、エリスちゃん、具合悪いのかな?」
 のんびりとした声が遠くに聞こえて、その場の全員が息を飲む気配がする。
「エリス、また熱を出しちゃったんじゃないの?」
 あたたかい手が額に当てられ、うっすらと目を開くと、ジーナが覗き込んでいた。
「ご、ごめんなさい……、ジーナ、さ、ま……」
「いいよ、エリスの具合のほうが大事。ヘルムートは?」
「あの、お仕事……で、お部屋に……」
「仕事? 今日のこのありさまで?」
 リカルドが呆れたように呟いた。
「あいつそんなに勤勉だったか? そんな勤勉なヤツがこの王宮に詰めてるなんて、料理人くらいなもんだろうに」
「エリス、ヘルムートが戻ってきたよ」
 ジーナに言われてようよう顔を上げると、青年たちの後ろにヘルムートが無表情に立ち尽くしていた。
「こ、公爵……」
「よかった、お戻りになられて」
「申し訳ありません、わたしたちがおそばについていながら」
 アメジストの瞳が青年たちを一撫ですると、彼らは口を噤んでうなだれた。
「エリス」
 ジーナと入れ替わる形でヘルムートが片膝を付き、頬に手を当てて顔を覗き込む。
「具合悪い? ……少し貧血っぽいね」
「ご、ごめんなさい……、ヘルムート、さ、ま……」
 我慢できずに涙がこぼれるのを、やさしい指が受け止めてくれる。やさしい手がヘルムートの肩口に抱き寄せてくれる。
「謝るのは僕のほうだよ。きみを慣れない場所に一人きりにしちゃったんだからね。……ラヴィニア、きみか」
 エリスにむけたのとは打って変わった冷たい声と剣呑な視線でヘルムートは隣に座る女性を見た。
「お久しぶり、ヘルムート。可愛いだいじな奥さまを放り出してしまうからよ」
 朗らかな声が返ってくる。
「この子になにをした」
「あら、お一人だったからおしゃべりしてただけよ。ねえ、そうよね、あなたたち?」
「え、ええ」
 青年たちは曖昧に頷いた。
「おおかた、毒気を吹きかけたんだろう」
「あら失礼ね。あまりあなたが戻ってこないから、わたしのお友だちが皆さんで無聊をお慰めするためにダンスにお誘いはしましたけどね」
 ヘルムートの目の前で、ラヴィニアは妖艶に微笑んだ。
「お誘いしたところでこんな状態になられて……それを苛めたように言われたのでは、心外だわ」
「では、僕に渡された書きつけから、お前の香水が匂うのはどういうわけかな」
 胸の内ポケットから紙片を出し、リカルドへ振り向きもせずに差し出す。受け取ったリカルドはちらりと目を落とし、鼻に当てると、そのままジーナに渡し、ジーナは香りを嗅ぐと呆れたようにラヴィニアを見ながらリカルドに返す。
「ほう。あの男はきみの愛人かなにかだったのか、マインツ伯爵令嬢?」
 リカルドは片眉を上げてみせた。
「残念だなあ。あれは優秀な男だったんだが、俺も父上も宰相も財務大臣も、大事な人材を手放すことになるな。まぁあの男の言い訳くらいは聞いてやるが」
「いやですわ殿下、なにをおっしゃってますの?」
「俺の補佐役への個人的な嫌がらせに政務をダシに使うようなヤツは、宮廷には不要って事だよ。むろん、場合によっては王家に対する反逆にもなるわけで?」
 人さし指と中指に挟んだ紙片を振ってみせる。
「反逆罪ともなれば、連座する人間も出てくるだろうなあ。妻子も愛人も友人も場合によっては、な」
 くすくすと楽しそうに笑う。
「いやぁ、久しぶりに絞首刑とかな。恩赦なんて面倒なことは俺はやる趣味はないし?」
「な……っ」
 妖艶な笑顔が見る見るうちに青ざめる。
「まぁ、つまらん嫉妬に巻き込まれただけかもしれんがね、あの男は。しかし俺の婚礼披露をぶち壊しかけてくれたお礼はしたいところだなあ」 
 ラヴィニア嬢の視線が慌ただしく二人の男性の間を行き来する。片方は凍りつくような無表情であり、片方は実に楽しそうに微笑んでいる。
「……お前には、二度とエリスに近寄ってもらいたくないね、ラヴィニア・マインツ」
 ヘルムートの声がぞっとするほど低くなり、アメジストの瞳が凄みを帯びて光る。ラヴィニア嬢はひるんだように顔を引きつらせ、ゆっくりと立ち上がった。
「――それは残念だわ、ヘルムート・ジェノ・ラングレー。こんな可愛い子、妹みたいに可愛がってみたかったけれど」
「お前のことだ。踏みにじるように嬲ってみせるの間違いだろう」
「箱入り娘の新妻を放り出してよその女と遊び回ってたあなたに言われたくないわね」
 傲然と顎を上げて言う。
「不愉快だわ。王子殿下、王子妃殿下、失礼いたします。みなさん、あちらにまいりましょ」
 ドレスの裾を翻した。その後を、リカルド、ジーナ、それにヘルムートに向けて一礼した青年たちが慌てて追う。
「……さて、これはどうしたもんかな」
 紙片をひらひらさせながらリカルドが呟く。
「おまえがやるか、俺がやるか」
「きみにまかせるよ、リカルド」
 長椅子のひじ掛けに腰掛け、エリスを抱き寄せながらヘルムートが返事をする。
「なんでもいいが、おまえ、公衆の面前で大胆だな」
 呆れた口調でリカルドが言う。
「俺とジーナの舞踏会で主役よりいちゃいちゃしまくってるじゃないか」
「エリスの具合が良くないんだから、文句言うなリカルド。……エリス、気分はどう?」
 胸の中でエリスは微かに頷いた。
「だいじょうぶ……です、……ヘルムート、さま……」
「大丈夫には見えないよ。控室で休んで薬を飲もう。リカルド、僕らはそこのバルコンから庭に降りるから」
「まぁ空気も澱んでるし、ラヴィニア嬢の瘴気に当てられたんだろうよ。なんだったら客用寝室も用意するぞ、ヘルムート」
 最後のからかいに、エリスを軽々と横抱きに抱き上げると肩越しに振り返る。
「じゃあそのお言葉に甘えるとするかな」
「ヘルムート、あとでお医者をそちらに向かわせるから」
 ジーナが言うのにヘルムートはうなずいて歩き出した。周囲で固唾を呑んで見ていた客たちが二手に分かれる真ん中を突っ切ってバルコンに出ると外は闇に包まれており、春の冷気にエリスは震えた。
「ごめんよエリス。ちょっと寒いけど我慢して」
 やはり大広間は人いきれで空気が澱んでいたのか、大きく息を一つ吐くと、エリスは旦那さまを見上げた。
「……すこし、楽になりました……」
「そう? でも無理しなくていいからね」
 ヘルムートはバルコンの階段を降りて闇の中の庭に降りる。人々の騒めきが遠のき、どこか馴染のある空気に包まれるのをエリスは感じた。
「あ……」
「ん?」
「なんだか……不思議……。懐かしい感じがします」
 しばらく沈黙していたが、ヘルムートが口を開く。
「きっとうちの庭とか、セロンの家のきみの部屋の前に似てるんだよ。この庭は緑がたくさんあって木立とかあったりするからね」
 閉じていた目を開くと、あたたかい色の点がぽつりぽつりふわふわと庭のあちこちに見える。
「不思議な色の蛍……」
「うん?」
「ヘルムートさま、あちこちで蛍がもう……ほら」
 細い指が指さすのを見て、くすっとヘルムートが笑うのをエリスは腕の中で感じた。
「あれはね、宵の庭で二人きりになりたがってる人たちのランタンだよ。僕は道を知ってるからランタン無しでも歩けるけどね」
 建物のガラス戸を開くと、ヘルムートはひと気の無い廊下に入った。
「ヘルムートさま……」
「駄目。僕がきみを抱いていたいんだから」
 やさしく却下すると、一つのドアを軽くノックする。
 ドアを開けたロビンが、目を丸くして主夫妻を迎え入れた。
「奥さま、お具合が?」
「ああ、薬を飲ませようと思ってね。人いきれに酔ったのと、むりやり酒を飲まされたらしい」
 長椅子にそっと抱き下ろしたのに、エリスは首を振る。
「無理やりじゃありません。あの人たち、親切でした。具合悪くなったらお水も飲ませてくれましたし」
「そう? じゃあ気が利かなかったってことにしておこうか」
 侍女が水薬を飲ませるのを見守り、そばの椅子に座る。
「紅茶でもお淹れしましょうか」
「そうだね。ああ、ロビン、それから女官をつかまえて、部屋を用意するように言ってくれ。具合次第ではエリスを寝かすから」
「かしこまりました」
 紅茶を注いだカップを脇テーブルに置きながら囁いた。
「……奥さま、大丈夫ですか?」
「たぶんね。だが一晩ここで休んだほうがいいだろう」
「では、お屋敷に走ってお召し替えのものを用意させましょうか」
「フィオを馬車に乗せて送っておくほうがいいね。王宮慣れしてるおまえにここに残ってもらうほうがいい」
 ひとつ頷くと、ロビンは侍女に囁き、頷いた侍女は外套をエリスに掛けた。
「奥さま、寒気とかなさいませんか?」
「平気……。ありがとう、フィオ……」
「わたくし、お屋敷に戻ってお召し替えのものを取ってまいります。旦那さまがいらっしゃいますし、なにかあったらロビンにおっしゃってください」
「外は寒いけど、大丈夫?」
「はい、ショールをもっておりますし馬車ですから大丈夫ですわ」
 一礼すると、侍女とロビンは馬車溜まりに向かうために、部屋を出ていった。
 ヘルムートは椅子から立ち上がると、エリスの頭の載っているクッションをどけて膝枕をした。そっと頬を撫でて顔を覗き込む。
「具合、どう?」
「ヘルムートさまのお顔を見て、良くなったみたい……」
 小さな手がヘルムートの手を握る。
「ほんとにごめんよ。よりによって、あんな意地悪な女につかまって」
「……ラヴィニアさま……?」
 不思議に思ってエリスは見上げた。
「いじわるな方なの……?」
「うん、小さい頃、親類で集まって子どもだけで遊んだんだけどね。僕の顔を見て女の子だと思ったらしくてね。それで男の子の格好だろう? それでさんざんからかわれて、猛烈に腹が立ったことがある。それ以来、仲が悪いんだよ」
 ちょっと考えて、エリスはくすっと笑った。
「なに?」
「ううん……。ヘルムートさま、小さい時から天使さまみたいだったから、きっととっても可愛かったんだろうなって」
「僕は、もうちょっと男っぽい顔に生まれたかったな」
 苦笑しながら言う。「いっつも可愛いって言われると、やっぱりね」
 エリスがしょんぼりするのを見て、さらに苦笑する。
「でも、エリスに褒めてもらうのはいいんだ。エリスに天使みたいって言われるのは好き」
「……ほんと?」
「うん」
「小さい時、ヘルムートさまのこと美人さん、って言ったら、ヘルムートさまなんだか怒ってた……」
「そうだっけ?」
 覚えていない。
「エリスも小さい時から可愛いよね」
 囁くと真っ赤になる
「そんなこと……ありません」
 小さな声が囁くように返事をする。「わたし、やせっぽちで青白くて……」
「それは体が弱いからだよ。元気になったら可愛い美人になれる素質はあるよ。ほら、宰相も言ってたじゃない。きみにそっくりなおばあさまは美人だったって」
 緑の瞳が困ったように見上げる。
「元気になれる……?」
「なれるさ。昔より、今のほうがもうちょっと元気じゃない? 今日だって今までに比べたら元気だったじゃないか。でも、きみは外見もそうだけど、心がとってもきれいで可愛いから僕は好き」
 細い指に口づける。
「きみはやさしくてきれいで可愛い心を持った女の子だからね」
「……ヘルムートさま……」
「ん?」
「……ラヴィニアさま、ヘルムートさまのお嫁さんになるはずだったの……?」
 ヘルムートはそっとエリスの髪を撫でた。
「以前にね、彼女の家からそういう事は言われたよ。でも僕はエリスだけが大好きで他の女性との結婚なんて全然考えられなくて、断ったよ」
 何処か安心した表情に微笑む。
「もしかして妬いてくれてた?」
「ううん……。あのね、わたし、ヘルムートさまって、天使さまだからだれにも独り占めできない人なんだ、って思ってたの。だからわたしをお嫁さんにしてくれるって言われて、とってもびっくりしたの……」
「僕はきみを独り占めして、きみに独り占めされたかったよ?」
「わたしもなの……。できないけど独り占めしたかったの……」
 しなやかな指がそっとエリスの頬に触れ、アメジストの瞳が下りてくる。思わず目を閉じると、あたたかく柔らかいものがそっと唇に触れる。
「きみに独り占めされて、僕はとっても幸せだよ」
 耳許での囁きにうっとりと微笑む。
「ヘルムートさまが幸せでよかった……。大好き……ヘルムートさま」
 安心した表情で眠りに落ちていくエリスを見つめ、ヘルムートは小さな左手をそっと包み込んだ。

 
 エリスを置いてきた場所に数人の男女を見た時、ヘルムートは無表情の下で血の気が引く思いをした。
 椅子を囲む見知らぬ若い男たち。リカルドとジーナ。その奥で苦しそうに身を屈めているエリス。脇卓にならんだ酒杯。振り返ったリカルドが眉をしかめつつ頷いたので安心したが、エリスの隣に座っている女を見て臓腑が煮えくり返りそうになった。

 ラヴィニア・マインツ。

 コレット・バーンズ男爵令嬢の警告が脳裏をかすめた。彼女のいう「一番面倒くさそうな相手」とは、まさしくラヴィニア・マインツにぴったりの表現だった。
 マインツ家から婚姻の申し込みが来たのは、爵位を継いでまもなくのこと。しかしヘルムートはせせら笑ってその申し出を拒絶した。
「僕とおまえとか、ありえないね」
 王宮の廊下ですれ違った時に、ヘルムートはラヴィニアに言い放った。
「僕はおまえへの興味はこれっぽっちも無い。そもそも自分よりきれいな女を苛め抜くような性悪女なんて真っ平だね」
「いつ、そんなことをわたくしがやったのかしら?」
「僕が十二の時」
 絶句したラヴィニアに向かってヘルムートは冷たい視線を投げた。
「あのとき、自分より可愛いからと男の格好をした女の子と勘違いして僕を侮辱したって事は、つまりおまえがそういう性分だってことだろ。たかが皮膚一枚でそういうことをする女はお断りだ」
 柳眉を逆立てつつ黙って立ち尽くすラヴィニアに振り返ることもなく立ち去る。
 そして、そんな女に無論ヘルムートはエリスとの結婚式の招待状など送るはずもなかった。
 それきり忘れていた女が、なによりも大切な掌中の玉のそばで蛇蝎のようにニンマリと笑っていたのだ。
 なにも知らないエリスがどんな辱めを受けたのかと拳を握りしめた。ただ、彼女のおっとりとした無邪気さが、さすがのラヴィニアの嗜虐心を煽らなかったのが幸運だった。

 エリスの寝顔を眺めていると、微かに扉をノックされる。
「誰だ?」
「ロビンです。お部屋の準備が出来ました。あと、妃殿下から侍医のかたを呼んでいただいたそうです。――いかがなさいますか」
「じゃあ、そっちに移ろう。ロビン、おまえたちは今夜はこっちで 宿直とのいしているように。僕の着替えは明日の朝でいい」
「わかりました」
 外套に包んだまま、エリスを抱き上げる。水薬を持ったロビンが先導する。

 今様式の上品な装飾を施された寝室のベッドにエリスをそっと横たえると戻ってきた侍女と王宮の侍女たちと年とった侍医に任せる。続きの居間のソファに腰掛けるとロビンが紅茶を煎れて差し出した。
「王子殿下と王子妃殿下から軽食が届いてますけど、いかがしますか」
 黄金細工のワゴンに載せられた食事を示す。
「夜食はおまえにやってもいいけど」
 言うと、ロビンは苦笑した。
「旦那さまはそういわれるだろうけれど、奥さまがなにか欲しがるかもしれない、とのことです。軽食って、ビスケットと果物とかスープです。あと水と熱い紅茶もあります」
 そうこうしていると、侍女と一緒に侍医が下がってきた。エリスの体調に問題はなくよく眠っていると言われてヘルムートは頷いた。気にくわないがあの魔法使いの調合した薬はじっさいに王宮での薬よりよっぽどエリスに効くのである。
 
「じゃあ、あとは下がっていていい」
「はい、では失礼します。明朝、いつものお時間に伺います」
 燭台のあかりを落として侍女とロビンが退室すると、グラスに水を注いで一口飲む。上着を脱ぎ、襟元をくつろげると、エリスの元へ戻った。夜着になって安らかに眠っているエリスの頭をやさしく撫でる。
 社交場に出るたびにごてごてと着飾った女達にまとわりつかれるのにうんざりしていた。けれど、エリスが着飾って自分のそばにいてくれたのだ、と思うと愛しさが改めて胸の奥から湧いてくる。自分も服を脱いでそばにすべりこみ、抱き寄せた。
「ゆっくりおやすみ」
 やさしく囁いて額にキスをする。朝になったらびっくりするだろうけれど、二人で朝露に濡れた庭を散歩し木陰でキスを交わそう。家に帰る道すがら、街のお祭り騒ぎに紛れ込もう。子どものようにふたりではしゃごう。そしてふたりの家に帰って彼女の部屋でお茶を飲みながら、子どもの頃と同じように彼女の描いた絵を見て彼女の部屋から庭を眺めて、ふたりきりの甘い時間を過ごそう。ふたりが夢見ていた通りに。



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