園遊会



 ヘルムートは、目の前に置かれた封筒と招待状をじっと見おろしていた。
 しばし招待状の字面を眺め、ため息をつく。
 立ち上がった彼の行き先は、エリスの部屋だった。

 エリスは珍しく、刺繍をしているところだった。
「ヘルムートさま」
 ほわんと笑って針を持つ手を止める。奥さんらしくハンカチにヘルムートの頭文字を入れたいと取り掛かっているのだった。
 どれどれと手元を覗き込んでみると、丁寧な針遣いで飾り文字ができ上がりつつある。きっとでき上がっても勿体なくて使えないなあと思うけれど、でもその心が嬉しい。
「あのねエリス」
 そばの椅子に腰掛けると、ヘルムートはやさしく微笑みながら口を開く。
「実は相談なんだけどね。遠縁の伯爵が再来週に園遊会を開くので、僕たちに招待状を送ってきたんだよ」
 大きな緑の瞳がびっくりして丸くなる。
「園遊会、ですか?」
「うん。ただ、いろんな客が来るだろうから、きみに意地悪する奴がいるかもしれなくてね。僕としてはあまり気が進まないんだ」
 小さな手を握る。ほんのりとあたたかい。エリスはほっぺたを可愛らしく赤らめた。
「……行かなきゃいけないお家のかたなんですか?」
「うん、まあ、ちょっとね」
 実のところ、断ると面倒くさい相手なのだが、それでもエリスを泣かせたり怯えさせるよりはいいとヘルムートは思っていた。
「大事な親戚の方なら、わたし奥さんとしてがんばります」
 エリスは緊張した顔で見上げてきた。
「そう? じゃあいちおう伺う予定だけど仕事の都合やらきみの体調で土壇場で断るかもしれないよって返事しておこう」
 頬にキスすると立ち上がる。
「はい」
 にっこり笑って返事をしたエリスをやっぱりカワイイなあと見つめてヘルムートは微笑んだ。

*****

 園遊会の日。
 穏やかに晴れあがり、エリスは花模様のレースをあしらった青色のドレスに、つばがふんわりと大きな帽子をかぶった。帽子のピンも刺したけれど、上からシルクシフォンをふわりとかける。
 ヘルムートはグレーのフロックコートをぴしりと決めていた。旦那さまがとても素敵で、そんな人と一緒にお出かけできるなんて、とエリスはちょっとドキドキする。
「具合、大丈夫?」
 馬車の隣で頬を赤らめているとヘルムートが心配げに覗き込んでくるが、微笑んでこくんとうなずいた。
 着いた伯爵邸ではそのまま奥の庭園に通された。広い芝生で大きな花壇があちこちに配され、バラの香りがかぐわしい。噴水のなかに女性像が立ち、低木も庭の遠くあちこちに配されている。芝生の上にはテーブルや椅子やテントが並んでいる。
「ヘルムート、よく来てくれたな」
 太った中年の紳士が迎えてくれた。となりに立つ奥方も太めの中年の貴婦人だった。
「お招きありがとうございます、伯爵」
 ヘルムートはやわらかい表情でついでに口調も声も物静かな雰囲気で、続けてエリスを引き合わせた。
「おお、可愛らしい奥方も元気そうだな。結婚式以来かな?」
 にこやかに声を掛けてくれるのに、エリスは微笑んでスカートをつまんで挨拶する。
「お招きいただいて、ありがとうございます。……エリスと申します」
「うんうん、ご両親ともよくお会いしてるよ。今日は天気もいいから、楽しんでもらえると嬉しいよ」
「はい」
 ほんわり笑うと、伯爵夫妻も笑み返してきた。
 庭を連れ立って散策する。ヘルムートはエリスが伯爵夫妻にすんなり受け入れられてほっとしていた。ティアーズ伯爵の交友にもよるだろうが、やはり自分が女遊びをしていたという評判でエリスに同情が集まっていたのかなあともこっそり考える。自分の不名誉な噂とか「天使の皮を被った悪魔」評はともかく、内気な彼女が口うるさい招待主に気に入られるかちょっと心配だったのだ。
「すてきなお庭……」
 うっとりとエリスは見渡した。セロンの実家の庭は周囲の森や湖や地形をそのまま活かすような林のような庭だったし、公爵家の庭はもっと里山めいた造りになっている。ここの庭はいかにも庭師が造園の腕を振るったような幾何学的な造りなのだが、エリスにとっては珍しいのだろう。
 招待客もだんだんと増えてきていた。
 何人かはエリスと以前に挨拶をかわしたことのある人たちで、その人たちは「公爵夫人、だいぶお元気になられたようですね」とか「奥さまお幸せそうですね」と声をかけてくれた。知っている人たちと会えて嬉しく思っていたが、ヘルムートはエリスが疲れないかと気にしているようだった。
 木陰にしつらえてあるテーブルの一つにつかせると、「冷たい飲み物貰ってくるからね、ちょっと待ってて」と告げて、ヘルムートはエリスから離れた。返事をして椅子にちんまりと腰掛けていると、若い女性たちが何人かそろそろと近寄ってきた。
「ごきげんよう」
 一人が声を掛けてくるのに、ちょっと緊張しながら微笑んだ。
「こ、こんにちは」
「はじめてお目にかかりますわね」
「あ……、はい。あの、エリス・ラングレーです」
 女性たちは一瞬黙り込み、目配せを交わしたようだったが、別の一人が口を開く。
「ヘルムートさまの奥さまって、あなた?」
「は、はい……そうです……けど」
 ちょこんと首をかしげると、女性たちはじろじろとエリスを眺めだした。
「……とってもほそくて、うらやましいですわ」
「ほんと。色白でうらやましいし」
「でもちょっと痩せすぎじゃありません?」
「そうね。胸もあまりおありじゃないし」
 え、と思わず俯いてしまう。
「結婚なさった方にしては、ずいぶん可愛らしいドレスをお召しなのね」
「でもお似合いじゃない?」
「そうね、こどもこどもしてらして、可愛らしいですものね」
 あう……、とさらに俯いてしまう。そういえばこの女性たちは華やかなドレスで胸を強調しているし、スタイルも年頃の女性らしく出るところは出て細いところは細い。胸も小さくて腰も細いだけでこどもみたいな自分とは雲泥の差。
「でも、ヘルムートさまにはあまりお似合いじゃないと思うわ」
「そうよね。あのかたみたいに素敵な男性には、こんなこどもっぽい方はちょっと背伸びしすぎだと思うわ」
 くすくす笑う女性たちの言葉に、エリスは心がすくみ上がる。俯いたまま、涙がじんわりと滲みだす。
「あら、泣いてらっしゃるの?」
 意地悪な言葉とともに、顔を覗き込まれて、手袋をはめた指で慌てて涙をぬぐう。
「な、泣いてなんかいません」
 小さな声はそれでも震えてしまう。
「そうよね。こんなところで泣いてしまうような小さな子のはずがないですわよね、公爵夫人ともなれば」
 その言葉と一緒に、顔に冷たいものがかかる。
 びっくりして顔を上げると、女性の一人が空のグラスを握っているのに気がついた。
「あらごめんなさいね。レモネードをうっかりこぼしてしまって」
 顔から甘い汁を滴らせたまま、エリスは呆然としてしまう。そのまま汁はドレスの胸元まで垂れていくのがわかる。あらあら、と女性たちがくすくす笑っていたが、悲鳴が上がる。
「――なにをしている」
 低い冷たい声が聞こえて、そちらに目を向けると、無表情のヘルムートが立っていた。グラスを持っている女性の手をねじり上げている。
「こ、公爵さま、痛いですわ」
 しおらしい声で痛がる女性の手にあるグラスとエリスの顔をちらっと見ると、ヘルムートは手にしていたグラスの中身をふたつともその女性の顔にぶちまけた。片方は赤ワインだったらしく、滴った汁でドレスが赤く染まっていく。
「え……っ」
「おや。パネーゼ伯爵令嬢、気をつけないと。グラスの中身をこぼされましたね」
 平然と言うと、振り向いて近くにいたメイドを呼ぶ。
「こちらの令嬢が、飲み物をこぼされた。手当てして差し上げるように」
 冷たい声でそう告げると、とん、とメイドのほうに女性を押しやる。つまずくようにメイドの腕に転がり込む女性には、ヘルムートはもう振り向きもしなかった。
「へ、ヘルムート様……」
「公爵、さま……」
 震え上がる彼女たちを無視して、ヘルムートは給仕を呼んで空いたグラスと交換で水のグラスを2つ受け取る。
「あなたがたもこの天気で暑そうですね。噴水のそばでしぶきでも浴びていらっしゃったらどうかな?」
 笑みも無くじろりと見られて、女性たちはすくみ上がった。
「あ、あたくし、あちらにご挨拶に行かないと」
「わ、わたくしも」
「ああそう」
 ヘルムートはそこでにっこりと笑った。
「僕の大切な妻との挨拶は済まされましたか。それは結構なことです。ではごきげんよう」
 女性たちを追い払うと、ヘルムートはそばの椅子に腰掛けて、やおらハンカチを取りだした。グラスの水で湿すと、そっとエリスの顔を拭く。
「……」
 呆然として旦那さまの顔を見ると、やさしく微笑んでくる。せっせと顔を拭き、首や襟元やべたべたになった胸元も拭いてくれてため息をついた。
「ごめん」
「……え」
「うっかりそばを離れるとすぐこれだ。人目につかないところだったら安全かと思ったんだけど」
 ショックから緊張が解けて、エリスはぽろぽろと涙を零した。
「――エリス」
 慌てたようにまたハンカチで涙を拭いてくれるヘルムートに「ごめんなさい」と繰り返す。
「どうしてあやまるの、エリス?」
「だって……わたし、子どもみたいなからだつきで、泣き虫で……」
「僕はきみの泣き虫なところも大切に思ってるよ。気が強いばっかりの、きみに意地悪な女の子なんて大嫌いだよ。それに胸が小さかろうが大きかろうが、きみがきみであればいいんだし」
 もう一つのグラスを握らせてくる。
「ほら、水飲んで。落ち着くからね」
 こくんとひとつ頷いて、冷たい水を飲む。旦那さまを見上げた。
「ヘルムートさま……」
「ん?」
「あのかたに、あんなことして大丈夫ですか?」
「どんなこと? 彼女が自分でグラスの中身をこぼしただけだよ」
 ちょっと意地悪そうに微笑むと、ヘルムートはきっぱりと言った。
「きみは彼女のこぼしたグラスでちょっとしずくが掛かっただけ。でも拭いたから大丈夫。レモネードだったみたいだからね」
 そうなのかなあ、と不安に思いながら見つめていると、旦那さまは困ったような顔をして覗き込んできた。
「エリス。僕はね、きみをいじめる奴は、男でも女でも断固戦うって決めたんだからね」
 やさしく手を握ってくる。
「だれがなんと言ったって、僕はきみの夫として、大切なきみを守るよ。だからこわがらないで」
「は、はい……」
 しばらくそうやって、エリスが落ち着いたところで、ヘルムートは微笑んで立ち上がった。
「さあ、この庭を散歩しよう。ここの庭はね、伯爵の自慢のタネなんだよ」
 二人で手を繋いで笑みを交わしあいながら、バラで作った迷路を歩いたり、噴水を取り囲む流れに沿った道を歩いたり、涼しい木陰のベンチで一休みしたり。広い庭のせいか、招かれた人たちはたくさんいるはずなのに、広い芝生に戻らない限りはそんなにほかの招待客とすれ違うこともない。
「ちょっと一休みしようか」
 芝生に出ているテーブルから軽食を取り分けると、ヘルムートは天幕の下の空いているテーブルにエリスを座らせた。
「疲れてない?」
「はい」
 にっこり笑う。今日は天気がいいわりに風もあってそれほど暑くはない。相席しているのは老夫妻で、ヘルムートを見ると「おや公爵家の坊ちゃんじゃないですか」と声を掛けてきた。聞けば子爵家の隠居夫婦で、伯爵の死んだ父親の友人だった縁で招かれたという。
 あの小さかった坊ちゃんがこんなに立派になってご結婚されたんですなあ、と笑顔で言われて、エリスも笑顔になる。セロンのティアーズ家の娘だとわかると、「まあ、どうりでリリアナ様にそっくりのお孫さんだこと」とも言われる。老夫妻によると、エリスの祖母は美人で気立てが良くて社交界では賢夫人として慕われていたということだった。
「わたくしたちが新婚だったころに、お屋敷に呼んでいただいたり、それはいろいろとご親切にしていただいたんですよ」
 老貴婦人がにこやかに言ってくれて、エリスは胸がほんわりとあたたかくなった。ヘルムートと笑みを交わし、老夫妻が他の友人たちと出会って席を立つまで和やかに雑談をしていた。
 暑くて具合が悪くならないかな、とエリスも自信がなかったのだけれど、思ったよりも涼しくて、人が多い集まりでものんびりとした雰囲気のせいか緊張もしないで体調はいい。
「楽しい?」
「はい……っ」
 ヘルムートにやさしく聞かれて笑みがこぼれる。母屋に近いところで演奏している楽団の音楽が風に乗って聞こえてくる。人々の楽しそうなざわめきも心地よい。
「よかった。でもちょっとここは暑いね。もうちょっと風が吹いてる木陰で場所が空いてないかな」
 場所を見てくるついでに冷たいものを取ってくるよ、とヘルムートは立ち上がる。あ、と見上げると、身を屈めて頬にやさしくキスをされた。
「すぐ戻るから、心配しないで」
 心細さがわかったのか、甘く囁くと立ち去る。人前でキスされた恥ずかしさに真っ赤になった。
 周囲はヘルムートの溺愛ぶりに引いていたようだったが、ひとりになったエリスにやさしく話しかけてくる。おずおずと笑み返しながら話をしていると、ヘルムートが戻ってきた。
「さっきとはべつの奥庭もあるみたいだね」
 よく冷えたレモネードを差し出しながらヘルムートが告げる。
「僕が思っていた以上に、こちらの庭園は趣向が凝らしてあるよ。外のほうが日差しはあるけど風吹いて涼しいしね」
 そうやってもうばらく休憩を取ると、また散策しようと立ち上がる。片方の手をヘルムートに握られて、彼の思う方向に歩いていく。
 人工的な庭園を外れると木立に続く散歩道がある。そこをしばらく歩くと、四阿があった。
「一休みしようか」
 ヘルムートが中のベンチの埃を払ってエリスを座らせてくれる。木立の中は静かで風が心地よくて、時々小鳥のさえずりと葉擦れの音が聞こえるだけ。
「――静かだね」
 隣のヘルムートがそっと肩を抱き寄せてくる。見上げると、アメジストの瞳がやさしく微笑んでくる。
「……ヘルムートさま……疲れてない?」
「ん?」
「わたしのためにあちこち……」
「そんなことないよ。きみこそ疲れてない? 僕がさんざん引っ張り回してるから」
「ううん……」
 厚い胸の中に抱き込まれて、エリスはどきどきした。やさしい指がそっと頬を撫でてくる。やさしい唇がエリスの唇を甘く塞ぐ。うっとりと抱かれていると、キスを終えたヘルムートが「あ」とつぶやくのがわかった。
「……?」
 見上げると、ヘルムートは空を眺めていた。
「雨が降ってきたなあ。……まぁ、ここは屋根があるからいいかな」
 たしかにぱらぱらと木の葉に雨音が響いている。ちょっと不安になって旦那さまを見ると、優雅ににっこりと笑っている。
「大丈夫。この季節はにわか雨だろうし、夕立だとしてもすぐ止むからね」
 こくんとうなずいたが、ふと不思議に思う。
「園遊会って、雨が降ったらどうなるんですか?」
「そうだね。さっきいたような天幕で雨宿りするか、母屋のサロンに入っちゃうかだね。あまり止まないようならそこでお開きになって終わっちゃう」
「え」
 なんだか不安が大きくなってどきどきしてきた。
 もし、雨で園遊会が終わったとして、ここの家の人たちが二人も帰っちゃったと思ってたら……。
「だいじょうぶ」
 エリスの心を読んだように、ヘルムートはやさしく囁いた。
「僕がいっしょだよ。それに馬車も残ってるからね」
 ぽっと頬を染めて頷いた。エリスの強くて聡明でやさしい天使さまがいっしょなら、こわくない。
 そうやって抱きしめていてくれる腕の中で甘えていると、雨はしばらく激しく降った後にあがっていった。
 それじゃあ戻ろうか、と言って立ち上がったヘルムートは、エリスを腕の中に軽々と抱き上げた。
「へ、ヘルムートさま……?」
「ほら、水たまりもあるし道もぬかるんでるからね。きみのせっかくのドレスが汚れちゃうからさ」
 エリスは腕の中から空を見上げて微笑んだ。
「わあ……虹です、ヘルムートさま」
 その言葉に振り向いたヘルムートも空を見て微笑む。
「王都で虹を見るの、はじめて……っ」
「僕もいままで虹を見たことってなかったよ」
 しばらくふたりで虹を眺め、そしてふたりは招待客が集まっている場所へ戻っていった。


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