ニワトコ


 ある日のこと。
 レスターが午後のお茶の時間にエリスの部屋にやってきた。
「お姫、これはのどの薬だ。痛いときに飲め」
 示されたそれは、コルクで栓をした小さなガラス瓶に入れられていて、とろりとした琥珀色をしていた――まるでレスターの瞳の色のように。
「うん」
 こっくりとうなずいたエリスが手を伸ばしたのには渡さず、お茶とおやつを持ってきた侍女のメアリにレスターは差し出す。
「用法は貼ってある」
「あらまあ。……苦いんじゃないでしょうね?」
 受け取ったメアリがじろりと見ると、少年から青年になりつつある黒髪の魔法使いもじろりと見返した。
「苦かろうが甘かろうが、薬はおとなしく飲ませろ」
「どうせなら、飲みやすい味の方がいいでしょうが」
「飲みやすいからって必要以上に飲んだら逆効果だけどな」
 嫌みを言うとレスターはさっさとお茶を飲み出した。メアリはため息をついて部屋から下がって行った。エリスもゆっくりとお茶を飲む。
「ね、レスター」
「……なんだ」
「あのお薬、とってもきれいな色だね」
「……間違っても絵の具に使うんじゃねぇぞ、お姫」
「……レスターのお薬、そんなことに使わないもん……!」
 ぷう、とふくれるエリスをちらりと見やり、魔法使いは鼻を鳴らした。
「色がおまえの好みだからって、処方より多く飲むんじゃねぇぞ」
「魔法薬はそんなことしちゃダメってことくらい、わたしだって知ってるもん……!」
 ふくれっつらで言い返すエリスをレスターは小馬鹿にしたような目で見やった。
「魔法薬であろうが何だろうが、薬は指示通りに飲むもんだ」
「そうしてるもん……! れすたーのばかぁ……っ、いじわる……っ」
 まったく。これでもう十五というのだからお姫はまったく成長していない、とレスターは思った。

******

 初夏のある日、エリスが目を覚ますと、珍しく外がざわめいていた。なにやら男女の声が窓の外から聞こえてくる。
「……庭でなにかあったの……?」
 着替えながら侍女たちにたずねると、フィオがにっこり笑っておっとりと答えた。
「ニワトコの花が満開なんです」
「ニワトコの花……?」
「飲み物を作るんです」
 サシャがうきうきとした口調で言葉を添えた。
「これから仕込んで夏至の頃に飲めるようになるんです。去年、奥さまもお飲みになって美味しいって言ってくださったので、皆はりきってるんですよ」
 エリスはきょとんとした。
 去年というと、まだめそめそしながら暮らしていた頃だった。
 毎日しょんぼり暮らしていたので、そんな楽しそうなことがあっただなんて気がつかなかったのだ。
「わたしも、飲んだの……?」
「はい、暑い日にお出ししたら喜んでいただけたんですよ」
 ええと。
 どうしよう、全然覚えてない。
「そ、そうなんだ……」
 着替え終わってレティーに手をとられて鏡台の前に座りながらうなずくと、化粧ケープをエリスの肩に掛けながらレティーが口を開く。
「ニワトコの花の塊をレモンと砂糖水に漬け込むんですが、そのうち発泡酒になるんです。お酒になると奥さまにはなかなかお出しにくいですから、今年はシロップをたくさん作るようですわ」
 そのまま髪を梳かして結ってもらうと、朝ご飯のために食堂へと降りる。
 その時、声のする庭を窓越しに見ると、使用人たちが白い花をたっぷりとつけた木の下にわいわいと集まっているのが見えた。
「あれが、ニワトコの木……?」
「はい。大奥さまがお好きだったので庭のあちこちに植わってますの。花の季節は下を通るといい匂いがするんです」
「いいにおい……」
 あとでお散歩してみようかな、とエリスは思いながら食堂の扉を開けてもらった。

*****

 やがて、ある暑い日の午後のお茶の時間。
「サクランボのタルトに、今日は暑いのでお茶のかわりに冷たいものをお持ちしました」
 居間の大きな窓を開けてさわやかな風が吹いてくる長椅子で待っていると、レティーが細長いグラスとケーキの皿を、二人の前にそれぞれ置いた。
 グラスに入っているのは、薄い琥珀色の飲み物だった。ゆっくりと小さな泡がグラスの底から上がってきている。
「……これなぁに?」
「庭のニワトコの花の飲み物です。ちょうど飲み頃になりました」
 奥さまの大きな緑の瞳が丸くなり、わぁ、という笑顔になる。
「お花は白かったのに……きれいな琥珀色……」
 コク、と口を付けると細かい泡がはじけるのがわかる。甘いのかと思ったが甘味はそれほど強くなくてさわやかな口当たり。
「……これ、ちょっと酒になってない?」
 やはり一口飲んだヘルムートが尋ねた。
「旦那さまにお出ししたのと奥さまにお出ししたのでは、瓶を変えたと厨房が申しておりました。旦那さまにお出ししたほうがお酒になりかかっているのかもしれません」
 ふうん、と言うと、ヘルムートはくい、とグラスを呷る。
「もう一杯もらおうかな」
「かしこまりました」
 ヘルムートさま、咽喉乾いてたのかな、と思いながらエリスはちょっとずつ飲む。
 なんだろう。この味、どこかで飲んだことがあるような。
「どうしたの?」
 耳元で声がして、我に返る。
「……あ」
「もしかして、お酒っぽくなってた?」
 心配そうな、困ったような顔になっている旦那さまに、エリスはふるふると首を横に振った。
「あの、なんだか飲んだことある味だなあって」
「……去年も飲んだからじゃない?」
「えっと、そうじゃなくて、知ってる味……って思ったんだけど、どうしてかわからなくて」
 どれどれ、とヘルムートがエリスのグラスを借りて一口飲む。
「……うーん。これ、ふつうに発泡してるジュースみたいだよね」
 きみの家で作ってた? と訊いてくるのに、エリスは首をかしげた。
「お庭にニワトコの木はなかったです、たしか……あ」
 真っ白な花をつけた木を脳裏に描いたエリスは唐突に思い出した。
「ん?」
「そういえば……」
「うん」
 たしかあれと同じ木が、レスターの家の近くに生えていた。
 リンゴの花より早い季節に白い細かな花をつける樹があって、こどもの頃にレスターのおじいさまに「あれはニワトコの樹だよ」とお散歩しながら教えてもらったのだ。その後おじいさまに淹れていただいたお茶が「これはさっきの花のお茶だよ」と言われて。
 そのずっとあとにレスターが作ってくれた、咽喉の痛みを取る飲み薬が、なじんだニワトコのお茶と同じ味だったのだ。
「へえ……。その薬って今も使ってた?」
「はい。冬に風邪で咽喉が痛くなったとき、ちょっとずつ飲んでました」
 だってちょっぴりずつ飲むように、という用法だったのだ。
 ヘルムートは苦笑いになった。
「まさかニワトコの花そのものが魔法薬ってことじゃないよね?」
 エリスも小首をかしげる。いやまさかそんなこと。
「甘くて飲みやすいお薬だから、味とか香り付けだったのかも……」
「そうだろうね。……そうだ。エリス、ぼくのグラスのも味見してみる?」
 差し出されたグラスをびっくりして見て、旦那さまを見上げる。
「これ、お酒じゃ……?」
「ワインみたいにちゃんとしたお酒じゃないよ。まだジュースと変わんないよ。林檎酒より弱いから飲んでごらん」
 勧められて、おずおずとグラスに口を付ける。ぷちぷちとした発泡と、エリスのグラスよりも甘い味。
「わたしのより、甘いです……」
「だね。……夕食のときに飲んでみる?」
 びっくりした。
「わたし、お酒、弱いです……」
「うん、知ってる。でも、僕がお酒飲んでるとき、きみってしょんぼりしてるよ?」
 エリスは思わず赤くなった。
 だってヘルムートさまと同じものが味わえないのがやっぱりさみしいから。
 シローニャ産の林檎酒を飲ませてもらったら、やっぱり変に酔ってしまってあのあとたいへんだったのだ。ヘルムートも「ごめんよ。お酒は体質的に無理なのかな」と謝ってくれたけれど。
「これならまだお酒って言うよりジュースみたいなものだからね。なんだったら、ジュースで割ってみてもいいかもしれないね。もともと同じものだし」
 そんな話をしながら食べたケーキも美味しくて。

 でも、夕食のあと、エリスはやっぱりお酒に酔って具合が悪くなってしまった。

*****

「おまえ、やっぱり馬鹿だな」
 翌日の昼過ぎに呼ばれてやってきたレスターはベッドで寝込んでいるエリスを見下ろして冷たく言い放った。
「オルスコット、僕の妻に対して失礼なことを言うな」
 枕元に座っているヘルムートがムッとしながら言うと、凍りつくように冷たい視線はそちらに移動した。
「あんたもいいかげんにしろよ、公爵。お姫が虚弱体質なのは、あんただって昔から承知してるだろうが。虚弱で酒にまるきり抵抗力のない生き物に、酒なんて飲ますんじゃねぇよ」
「ニワトコの発泡酒なんて、まだぜんぜん酒っ気なんてないぞ」
「知ってるか。ウサギってのはな、水をのませると体調崩して死ぬんだぜ。お姫も同じだ。要らんものを飲ますな食わすな与えるな。お姫を寝込ませたくないなら、ちゃんと気をつけろ」
 それがウサギの飼い主の勤めだろう、とはさすがにレスターも口には出さなかった。

「れすたー……」
 枕の上からエリスが息も絶え絶えに呼ぶ。
「あたまいたいの……。目がまわってて、きもちわるい……」
「あたりまえだ。それは二日酔いだ。一滴も酒の飲めないヤツがいい気になってグラスを空けるからだ。自業自得って知ってるか」
 そういえば、レスターの家のお台所でお酒の匂いで酔いそうになった……とエリスが呟くと、魔法使いは呆れ顔になった。
「おまえ、あの瓶の蓋を開けたのか。あれはじいさんの晩酌用の特別製だ。今じゃ魔法薬作るのに使うだけのものだぞ」
 酔いざましの白湯でも飲んでおとなしく寝ていろ、と言い捨てると、レスターはさっさと帰っていってしまった。
 ベッドの上でしょんぼりしてると、大きな手がやさしく頭を撫でてくれた。
「僕がそばにいるからさ、今日はゆっくり寝ておいで」
「はい……」
 せっかくヘルムートさまがお休みの日なのに、台無しになってしまった。わざわざ具合を悪くするようなことになってエリスはがっかりした。

 それからしばらくすると、ノックの音がして奥さま付きのサシャがワゴンを押して入ってきた。
「なに」
「はい、さきほどオルスコットさまが厨房にいらして――」
 奥さまのためのお薬代わりのスープの材料を持ってこられて厨房で調理されてお帰りになられました、と言われてヘルムートは呆気にとられた。
「なにそれ。へんな材料じゃないだろうな」
 そんなことはないようです、と侍女は苦笑気味に返答した。
「今日はこちらのスープだけおとりになるように、とのことです」
「ふうん……。ああ、じゃああとは僕がやるから」
 良からぬことを思いついたのか、旦那さまが悪魔のようにニンマリ笑うのを見た侍女は、「旦那さまがこっち向いてて良かった。奥さまおかわいそう……」と思いながら下がっていった。

******

 数日後、美形の公爵さまを執務室に呼びつけた第一王子さまは、「それでエリスに僕がスプーンでスープ飲ませたんだけど、もうものすごく可愛くってさ。あの子が体調不良でなかったらそのまま押し倒したいくらいだった」と惚気られたので、「おまえ、悪魔の癖に妙に理性で自制するとか変態過ぎだ。そこは押し倒すのが普通だろう」とソッコーで切り返して、その場に居合わせた王室魔法使い兼王子妃にその後一週間口をきいてもらえなかったのだった。


 

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