憧れのひと



 彼女にとって、初めて見た時から彼は憧れのひとだった。
 見目麗しく、公爵家の嗣子という立場も、侯爵家令嬢である彼女の相手として申し分ない、と考えていた。
 なにしろ、彼女は親類一同の間でも幼い時から「可愛らしい美少女」として評判で、社交界にデビューした時以来、若い貴公子達にちやほやされてきたのだ。
 もちろん彼は彼女より年上だったけれど、きっと彼女が望めば、物語の王子さまのように彼女を花嫁にしてくれるだろう。彼女はそう信じ込んでいた。

 しかし、彼のまわりはいつもきらびやかな女性たちが取り巻いていた。
 そんな女性たちに負けまいと、彼女も着飾り、自分が目立つように振る舞った。
 むろん、無理やりに他の女性たちを押しのけるなんてはしたないことはできないしやらない。視線とさりげない会話と一族の権力を使うのだ。
 そうやっていつもいつでも彼のそばに居られるように心掛けたが、彼は彼女の望むようにはならなかった。
 「麗しの天使」と呼ばれる彼は、取り巻きの女性たちにいつも等しくやわらかで華やかな微笑みを振りまく。言葉を交わし、時には取り巻きの女性たちとダンスを踊る。さらに、遊び馴れてるらしい女性たちの何人かを一夜の相手として選んだりもするらしい。そのかわり、その女性たちとはそれっきりのようだった。
 自分がそういう相手に選ばれないのは、父や兄たちの爵位のおかげなのか、それともまだ子供だと思われているのか。悔しいような気もするが、一夜の冒険で彼を自分のものに出来るかどうかもあやふやで、しかも父や兄たちには「彼と一夜過ごして捨てられたらおまえは傷物なんだぞ」と言われて、今一歩を踏み出させずにいた。

 そんな時、彼が婚約したと、結婚するのだという噂を耳にした。
 彼を取り巻くライバルたちも一斉に驚き、嘆き、相手は誰でどんな女性なのかと囁きあった。
 取り巻きの女性たちの家にも招待状が届き、父や兄に同伴する形で取り巻きたちは式に集まった。むろん、彼女もそうだ。
「お相手はどなた?」
「ティアーズ伯爵家のご令嬢だそうよ」
 婚約から婚礼までの慌ただしい日程から、もしや一夜を共にした女性なのかと戦々恐々としていた取り巻きたちは、聞きなれない家名に戸惑った。彼女とて、令嬢は言わずもがなティアーズ伯爵の顔すら思い出せなかった。
 婚礼の場で初めて花嫁を見て、女性たちは呆気にとられた。貧相な容姿の令嬢。彼はいつも以上に柔らかな微笑みを浮かべ、花嫁の手を取って嬉しそうにエスコートしていた。
 見たこともない令嬢なのに、と不満を覚える彼女の脇で、父や兄たちは「ああ、彼女がティアーズ伯爵の あの・・令嬢か」と語り合っていた。訊けば、ティアーズ伯爵は一人娘が生まれつき病弱のため、王都から静養地として名高いセロンに移り住んで屋敷を構えているのだという。そんな社交の場に出てきたことも無い女性がどうして彼の妻になどなるのだ。公爵位を継いだ彼には、そんな公爵夫人としてのつとめも果たせないような女性はふさわしくない、と彼女はふくれたが、父たちは彼の隠居した父親とティアーズ伯爵が親友なので彼は花嫁を幼い頃から知っていたのだろうと頷きあっていた。

 その盛大な婚礼からしばらく会うことはなかったが、やがて彼はまれにふらりと王宮での夜会に顔を出すようになった。それもなぜか独りで。
 何かの折りに、「奥さまはどうなさったの?」と尋ねると、彼は微笑みを浮かべて「身体が弱いので」とだけ答えた。その話は彼女の開いたお茶会の話題になり、そしてあっという間に社交界に広まった。
 身体も弱く、社交界に出てくることも無い公爵夫人。
 そうなれば、美貌の彼に愛されることもあるのでは、と若い女性たちはふたたび彼を追いかけ始めた。
 その片方で、彼女は侯爵令嬢として嫁ぐ先を父や兄たちからいろいろと示されていた。彼のことを思い切れない彼女は決めかねていたが、昔からそばにいる乳母や侍女たちは「たしかに公爵さまは天使のようなお姿ですが、でも不誠実な殿方と専らの評判ですわ」と諌めてきた。そもそも彼は妻帯しているのだ。しかも公爵夫人の父親であるティアーズ伯爵は、誠実で穏やかな人物として貴族たちの中では好感を持たれていて、大事な一人娘を嫁がせてあの仕打ちはないだろうともっぱら同情されていたのである。

 それでも彼女も彼を思いきれなかった。
 社交界に出てからのずっと憧れのひと。

 そうこうしているうちに、彼が妻と離婚したという噂が流れだした。なんでも豊穣祭の場で彼が妻に離縁を言い渡したのを見たという人間がいたようなのだ。
 それを聞いて、彼女は居ても立ってもいられず馬車で彼の屋敷に出掛けた。

 しかし。

 彼女の目の前に、どこをどうやっても美少女としか言いようの無い女性が現れ、ヘルムートの妻であると、離婚の事実も予定も無いと言い切って彼女を追い返したのだ。その堂々とした態度と軽蔑したような視線に、彼女はおののき、逃げ帰った。

 それでも。
 あの憧れのひとが。天使の容貌の彼が忘れられなかった。

 冬の初め、彼女は再び彼の屋敷を訪れた。
 玄関のノッカーを叩くことはせずに、こっそりと玄関に忍び込み、ホールを見渡す。その時誰かの足音が聞こえて、思わず物陰に隠れた。
 足音とともに廊下の向こうから現れたのは、紛う事無き彼だった。息をつめた彼女に気がつかないのか、彼はホールから庭に続くテラスへのドアを開けて庭に出て行った。
 どうしようかと思うまもなく、彼女は足音を忍ばせて彼の後をついて庭へ出た。木の幹に隠れて彼を伺う。
 彼は足早に庭を進み、花壇に出ると、手にしていた鋏で咲き乱れているバラを何本か摘みだした。丁寧にトゲを落とし、ためつすがめつしたあと、建物のテラスとは別の方向を見上げて笑顔になった。

 なにか可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえた。

 そう思って彼女もそちらに目をやると、バルコニーに小柄で可憐な女性が立っていた。可愛らしい微笑みを浮かべている。
「エリス」
 彼の声がした。「ほら見て。きれいだろ?」
 摘んだバラを見せるように差し上げている。「いい匂いだよ。きみも降りてこない?」
「はい……っ、ヘルムートさま、待っててくださいね……っ」
 そよ風に乗ってかすかに可愛らしい声がした。
「ゆっくりでいいよ、走っちゃだめだよ」
 女性は頷くとゆっくりと踵を返して部屋に入って行った。

 ……あれはだれ?
 
 以前に出合った妻と名乗った女性では無いのはわかった。
 彼女はまばたきし、それから気がついて彼をそっと伺った。
 彼はまた花壇を眺め、淡い色のバラを何本か切ると、テラスの方に歩き出した。
 テラスの上の椅子に腰掛けて人待ちの風情だったが、さきほどの女性が現れると、蕩けるような笑みを浮かべて立ち上がる。
「きみの部屋に飾らせようね。——花瓶にこれを」
 女性についてきた侍女にバラを渡すと、侍女はかしこまりましたと受け取った。もう一人の侍女が「奥さま、やっぱりショールをお使いくださいませ」と抱えてきた暖かそうなショールを薄い肩に羽織らせる。
「旦那さま、奥さまは病み上がりでいらっしゃいますから……」
「わかっている。じゃあ、エリス、ちょっとだけ散歩しよう」
 彼は女性の小さな手を握ると微笑みかけた。見上げた女性は頬をピンクに染めて頷く。テラスの階段を並んで降りると、二人はゆっくりと歩き出した。木の陰に隠れる彼女の前の小道を歩き、さきほどの花壇の方に進む。

 ——奥さま?

 その人は、見たところ彼女と同い年のようだった。栗色のふわふわとした長い髪をきれいな緑のリボンで結んでゆるやかに背に流し、淡い色の暖かそうな普段着の上からショールを羽織っている。病み上がりと侍女が言うし、思い返せば彼の婚礼の時に見た花嫁と似ているような気がする。

 彼女の目の前で、彼は妻と呼ばれた女性とバラを指さしながら楽しそうに話している。女性は身を屈めて花の匂いを嗅ぎ、ほわんとした笑顔で彼になにかを語りかけた。それに頷きながら彼は女性が立ち上がるのを助け、やさしく抱き寄せてくちづけた。
「……!」
 女性は笑顔から頬を染めて、困ったような表情で何かを言った。それにくすくす笑いながら彼は長い髪を一房手に取り、甘やかすようにそれにキスをする。

 あんな熱の篭もった目で、彼が誰かを見つめているなんて、今まで見たことも無かった。

 なんだか今まで彼の何を見てきたのか、わからなくなってきた。

 隠れたまま混乱し始めた彼女に気がつかないのか、二人はそのまま庭の奥へとゆっくりと歩いて行く。それを見送っていた彼女は、はっと気がついた。
 いったい自分はなぜ他人の屋敷に忍び込んでこんなことをしているのか。
 我に返ると、彼女は辺りを見回し、さっきいた侍女たちも姿を消しているのを確認して、そろそろとテラスから部屋へと移動した。そっと玄関ホールを伺い、誰にも見つからないように、玄関から滑り出て前庭から門の外へと駆け出す。

 待たせていた馬車に戻ると、彼女は激しく動悸を打つ胸を押さえながら座り込んだ。待機を命じられていた侍女はおろおろとしていたが、彼女はそれに対して黙って首を横に振り、屋敷へと馬車を戻すように言いつけただけだった。

 庭に出て直ぐ、ヘルムートは誰かが後ろにいるのを察した。
 使用人では無い。従僕にしろ女中にしろ、今は自分についてくる必要がないからだ。
 ちらりと見ると、どう見ても貴族の女性が木の陰に隠れている。
 舌打ちした。
 どこをどうやって邸内に侵入したのか知れないが、捕まえて王都警備隊にでも突き出すべきか。どうせ自分を目当てに入り込んだか、エリスに害を為そうとして来たかのどちらかである。
 それでもエリスが待っているからひとまずバラの咲く花壇に向かう。彼女の好きな色のバラを摘んで丁寧にトゲを切り落としながら思案していると、彼女の部屋のベランダの窓が開く気配がした。
「ヘルムートさま……!」
 可愛らしい声にヘルムートは見上げてにっこりと笑う。
「エリス、ほら見て。きれいだろ? いい匂いだよ、降りてこない?」
「はい……っ、ヘルムートさま、待っててくださいね……っ」
 エリスは嬉しそうにほにゃりと笑う。可愛いなあと思いながらも念を押す。
「ゆっくりでいいよ。走っちゃ駄目だよ」
 また熱を出して寝込んでいたのだから、無理をさせるわけには行かない。
 エリスはこっくりと頷くと、侍女と一緒に室内に戻った。それを確認してさてと思案しながら数本バラを摘んでテラスに戻る。横目で侵入者を見て、取り巻きのうちの一人なのを確認した——たしかどこぞの侯爵令嬢だった筈だ。
 どれだけ愚かな小娘なのか。公爵家の屋敷に無断で侵入したなど、おおっぴらになったら醜聞以外の何ものでも無い。
 そんなことを考えながら、テラスの椅子に腰掛けてエリスを待っていると、彼女は侍女をふたり連れて降りてきた。一人に摘んだバラを活けるように命じ、もう一人はエリスにショールを着せかける。
「旦那さま、奥さまは病み上がりでいらっしゃいますから……」
 そんなに胡乱そうな目で主を見るとは、とムッとする。侍女たちがエリスを大事するのは結構だが、夫の自分をそんなに信用してないのか。これだけ溺愛してるというのに。寝ついていてせっかく見頃を迎えた庭を見せてやれないのが可哀想で、わざわざバラを摘みにいったくらいなのだ。
「わかっている。じゃあ、エリス、ちょっとだけ散歩しよう」
 小さな手を取るとにこにこと提案する。エリスはぽっと桜色に頬を染めるとおずおずと頷いた。手を握ってエリスの歩調と合わせてゆっくり階段を下りて歩き出す。バラの花壇に行くと、エリスは「きれい……」とうっとりと呟いた。
「園丁たちに言わせるとね、同じ種類でも株によって香りが違うそうでね。たしかに少し違うみたいなんだ」
 ほら、これとこれなんだけどさ、と指さすのに、エリスは目を丸くして顔を近づける。しばらく香りを嗅いでいたが、「ほんとです、ヘルムートさま。お花の匂いが違います……っ」と不思議そうに言った。
「不思議だろ?」
「はい……っ」
「でね、どこがどう違うのかって聞いてみたらさ、こっちの株はどれもそっちの株の枝から増やしたんだって。だからこどもなんだそうだよ。こども同士でも、去年の枝と今年の枝で香りが違っているんだ」
「えっと、きょうだいなんですね……」
「ん?」
「あの株がお父さまとお母さまで、こっちの株がお兄さまとお姉さまと、いもうととおとうとみたいだなって……」
「ふうん、なるほどきょうだいね。うん、そういうことは思いつかなかったなあ」
 屈んでいたエリスが立ち上がるのを支えていると、バランスを崩したのかエリスがよろめく。
「きゃ……」
 そのまま、胸に抱き寄せる形で支えると、ふわりとバラの香りがした。頬にキスをすると、エリスは真っ赤になった。
「……ヘルムートさまぁ……!」
 くすくす笑いながらお気に入りの髪に指を滑らせ、一房を指に絡めるとくちづける。困ったような顔も可愛くてたまらない。そのまましばらく抱きしめていたが、ようやっと腕を緩めてエリスの顔を覗き込む。
「もうちょっと散歩につきあってくれる?」
「あ、と、は、はい……」
 小さな手がそっと腕に回されるのを幸せに思いながら、小道に戻る。
「春になったら、きみの好きな花を庭に入れさせようと思ってるんだよ」
 ヘルムートはゆっくり歩きながら言った。「花壇とか、植木にね。ゆっくりでいいから考えておいてくれる?」
「いいんですか……?」
 不思議そうに見上げてくるのに笑いかける。
「もちろんだよ。きみが絵を描くのに楽しめるといいんだけど」
「でも、いまでもお庭はとってもステキです……」
 うっとりとエリスは庭を見渡した。「まだ描いてない場所がたくさんあるし……」
「そうなんだ? ああ、じゃあきみがスケッチできるように座れる場所を作らせようかな」
「わ……うれしい……」
 嬉しそうに笑うエリスを見て、方針を変えることにする。
「じゃあ、ベンチとか作らせようね」
「はい、ありがとうございます、ヘルムートさま……っ」
 きゅっと腕に絡んだ小さな手に力が入る。
「エリス、ありがとうございます、じゃなくって」
「あ、えと、あ、ありがとう……ヘルムートさま……うれしい」
「うん、じゃ、お礼にキスして」
 エリスは固まった。歩くのが止まってしまった妻をヘルムートはにっこり見おろす。
「エリス?」
 耳まで真っ赤になったエリスは俯いてしまった。それをニコニコと見つめていると、エリスは降参したのか、おずおずと顔を上げた。
「……あ……の……」
「うん」
 エリスに届くように身を屈めると、腕につかまったまま背伸びをして、ヘルムートの頬に唇が触れた。
 ヘルムートはまばたきをしてエリスを見おろしたが、エリスの方はぎゅうっと目をつぶって腕にしがみついているだけだった。
「……そのうち、ちゃんとキスしてね?」
「は……はい……」
 蚊の鳴くような声で返事をすると、エリスはくたくたと腰から崩れ折れそうになる。慌ててヘルムートは抱き支えた。
「どうしたの、具合悪くなった?」
「あ、えと、足が……」
 そのまま横抱きに抱え上げるとエリスは腕の中でもぞもぞと動く。
「ヘ、ヘルムートさま、や、おろして……」
「立ってられないんじゃ無理だよ。ほら、暴れない。大事な奥さんが歩けないなら運ぶのは夫として当然だよ?」
 屋敷へ戻りだす。
「久しぶりに散歩して、疲れちゃったんだよ。もう今日は部屋でおとなしくしてること。いいね?」
 エリスはしょぼんとしながら頷いた。
 足早に戻ってきたヘルムートは、さっき闖入者が潜んでいた木陰をとおりすがりにちらりと見たが、誰もいなかった。ただし慌てていたらしく、庭の泥のついた靴跡がテラスから玄関まで続いている。
「ヘルムートさま……?」
「ん?」
 やさしく返事をしてエリスの顔を覗き込むと、不思議そうに見返してきた。
「どうかしたんですか?」
「どうして?」
「なんだかこわいお顔……」
「うん、どうも野犬かなにかが入り込んだみたいだ。危ないから確認し終わるまできみは部屋から出ちゃ駄目だよ」
 そのまますたすたと階段を上りながら言うと、エリスは怯えた顔になった。
「こわい……」
「うん、お茶の時間までにはなんとかするからね」
 エリスの部屋に戻ると、侍女たちにも同じことを伝えて、必ず誰かはエリスと一緒にいるように言いつけると、ヘルムートはセドリックを自室に呼びつけた。
「どこぞの馬鹿な女が、屋敷に入り込んだ」
 不機嫌な顔で言うと、セドリックは青ざめた。
「ごらんになったのですか」
「ああ、僕の後をつけて庭に入り込んだのは見た。逃げ出した足跡は庭から玄関を出て行ったようだが、屋敷の中と周囲を確認させるように。相手は判っている」
「まさか奥さまを」
「可能性は否定できない。エリスには野犬と言ってあるから。僕はあの子のそばにいる」
 セドリックが急いで出て行ってまもなく、屋敷の中で使用人たちがあちこちを確認する騒めきが聞こえだした。念のため、剣を持ってエリスの部屋に行くと、ベッドに横になったエリスは不安そうな面持ちで侍女たちといた。
「ヘルムートさま……」
 起き上がって手を伸ばしてくるエリスのそばに腰を下ろし、剣をそばにおいて抱き寄せる。
「大丈夫。使用人たちに家の中も庭も確認させてるし、万が一変なのが飛び込んできても、ほら、剣できみを守るからね」
「うん……」
 エリスを抱きしめていると幸せな気分になる。この子を守れる、この子にふさわしい男になるために子どものころからがんばってきたのである。何事も無いのがいいのはわかっているが、ここが腕の見せ所なのである。

 結局ヘルムートの予想通り野犬も闖入者も見つからず、あえて言うのなら見かけない箱馬車がしばらく屋敷の横手に停まっていたようだった、という報告がヘルムートの元に届いただけだった。

 春。
 社交界では第一王子殿下がついに花嫁を迎えられるというので、若い令嬢たちは新しいドレスを作るのにてんてこ舞いだった。
 お相手は元は王宮付魔法使いの身分だったが、幼少のころから王子がたと一緒に育って貴婦人としても教育されていたらしい。ただ宮廷人らしからぬ歯に衣着せぬ物言いと「おとなしやか」という形容とは対極にある行動ぶりから「王宮一の問題児」とも言われているという、専らの噂だった。
 彼女はまだ謁見したことはなかったが、噂によると、どこぞの大臣の養女という身分で輿入れする「令嬢」は気が強く頭の回転の速い方で、令嬢たちが追従を言ったりおもねってもこちらの思惑を見透かして鼻で笑われるし、うかつに陰口などたたいてもあちらの耳にあっという間に届いて自分の立場を悪くする。そういう相手だった。しかも令嬢は魔法使いとしてはもちろん、未来の王妃としても優秀で、国王陛下ご夫妻にはその判断を信頼されているのだという。

 ある日、彼女は父侯爵に連れられて王宮の令嬢にご挨拶に伺った。とは言っても父はどこかの大臣と話があるとかで、別れた後に彼女一人が令嬢の部屋に女官に連れられて行った。
 初めてお目にかかるというので彼女はさすがに緊張し、なかなか面を上げられなかった。令嬢はご機嫌麗しいようで椅子を勧めてくれた。
「そういえばあなたは、ラングレー公爵と親しかったかしら?」
「公爵さまとですか? はい、夜会でお目にかかった時はお話させていただいたりダンスに誘っていただいたりしています」
「そう……。彼が殿下の学友というのはご存知?」
「はい」
 令嬢がいう「殿下」とは第一王子殿下のことで、ヘルムートが若い女性にまとわりつかれるのは、それも原因の一つだった。容姿端麗頭脳明晰な公爵家の若き当主で第一王子の元学友の親友。つまり次期国王の側近中の側近。出世頭なのは火を見るよりも明らかだ。
「公爵の噂を知っていて?」
「噂……でございますか?」
「ええ」
 彼女は目を伏せた。
「それは……公爵さまが公爵夫人と不仲でいらしたというお話でしょうか?」
 しかし、彼は秋の終わりに王宮の大広間で公爵夫人と熱烈な抱擁と接吻を人々の前で交わして、一挙にその噂を吹き飛ばしていた。
「ええ。豊饒祭の頃に公爵家にその噂を聞きつけてあちこちのいいお家の女の子たちがおしかけたそうなの」
 彼女は黙り込んだ。自分もその一人だったわけだ。
 沈黙が広がる。やがてそれに気がついて彼女はまばたきした。
「あの」
「ええ」
「……なにか……ご存知なのですか」
「そうね……。わたくしが知っているのは、公爵家に女の子たちが彼を射止めようと噂に釣られてやってきたことかしら」
 嘲るような響きが声にはあった。顔をあげると、柔らかな微笑みを浮かべた美しい女性が目の前にいた。なぜか既視感がある。
「あの……?」
「なにかしら?」
 笑みが深まったが、彼女を見つめる瞳は冷たい。それを見つめているうちに、彼女は恐ろしくなってきた。
「わたくし……以前どこかでお目にかかりましたでしょうか……?」
 令嬢はちょっと首をかしげた。
「あなた、公爵家に行かれたことはあって?」
 彼女の体は強張った。
「わたくし、数日内緒で公爵家に滞在したことがあって。ちょうどあの噂の頃で、そりゃあたくさんの女の子たちが押しかけていたそうよ。わたくしがたまたま会っただけでも片手はいたんですもの」
 ほほほ、と優雅に令嬢は声を立てて笑われた。全身から血の気が引く。
「皆、それはそれは殺気立っていたわ。彼を射止めるのは自分だと意気込んで、だからわたくしの顔を見ると競争相手にでも遭った気分だったのかしら。食ってかかるような勢いで。なんてはしたないことかと思いましてよ?」
 もう何も言えなかった。穴があったら入りたいほどの恥ずかしさだった。
「あのころ公爵夫人はお熱が高くて何日も臥せてらしてね。もとから身体の弱い方でしょう? 公爵もとても心配してらして。そんな女の子たちが屋敷に入り込んでうっかり大事な奥方になにかあったらと」
 ぎくりとした。
「なにしろ、ここだけの話だけれど」
 ぱらりと扇をひろげた令嬢はそっと身を屈めて、俯いている彼女の耳許に囁いた。
「冬の初めに、本当に屋敷の奥までずうずうしく入り込んだ、どこかのお家の令嬢がいたらしいの……」
「……」
「公爵はそれはもう今まで見たことも無いほど激怒していて。公爵が入り込んだ女の子の家を突き止めて取り潰してくれと陛下に申し上げるのではないかと……殿下は冷や冷やなさっていたわ」
「……」
 彼女は卒倒しそうだった。
「そうそう」
 令嬢は唐突に声の調子を変えた。
「公爵夫人はとても可愛らしいかたなの。何度か公爵家でお会いしたことがあるのだけれど、なかなかおからだの具合が良くならなくて。今度わたくしたちの婚儀と舞踏会にようやっと出てこれそうなのよ」
 面をなんとかあげると、令嬢は扇の陰から微笑んでいた。
「公爵は公爵夫人を小さい頃からとても大切に思っていて、それこそ守護天使みたいに護ってきたのですって。公爵夫人も公爵のことを天使かなにかのように崇拝していて。ああいう相思相愛って物語の中にしかないのかと思っていたのだけれど」
「……そう、なの、ですか……?」
 冬の初めに彼の家に忍び込んで見かけた可憐な女性。もう容貌は覚えていないけれど彼が慈しんでいたのを思い出して胸が痛くなる。
「ええ。わたくしたち、とても仲良しなの。殿下も以前から会いたいとおっしゃっていたので、エリスさまをご紹介できるのが楽しみで」
 エリス。
 その名は彼女を打ちのめした。
 まさしく彼が愛おしそうに呼びかけていた名。
「エリスさまはお小さい時から寝ついてばかりで、お友だちがほとんどいらっしゃらないかたなの。あなたもお友だちになってあげてね?」
「は、はい……」
 令嬢は扇をパチリと閉じると頷いた。謁見の終わりの合図だった。
 彼女はようやっと立ち上がると、なんとかお辞儀をした。
「——お目にかかれ、て、光栄で、ございました……」
「ええ。これからもよろしくね」
 ゆっくりと下がると、部屋に控えていた侍女が扉を開けてくれた。廊下をどう歩いたのか彼女は覚えていなかった。ただ、先導してくれた女官の背中をぼんやりと覚えているだけ。気がつくと控室に通されて目の前には父侯爵がソファに寛いでお茶を飲んでいた。
「どうだった、ご令嬢のご機嫌は」
 侯爵が機嫌よく尋ねた。「おまえのことだから、失礼な事はなかったと思うがね」
「ええ、お父さま」
 彼女はぼんやりしながら向かいあった椅子に腰を下ろし答えた。
「——ねえ、お父さま」
「なにかね」
「殿下のご婚礼、わたしも神殿に連れて行って下さらない?」
「それは無理に決まっている。我が家を代表するのだからね。そのかわり、舞踏会には家族全員で伺うが」
 そう、と呟くと、彼女は部屋付きの侍女が出してくれた紅茶茶碗を持ち上げた。
「……お父さま」
「どうしたのかね」
 彼女は力のない視線を父親に向けた。
「ヘルムート様の……ラングレー公爵さまの奥さまって、どんなかた?」
「私もお会いした事はないからわからないが、ティアーズ伯爵ご夫妻はお二人ともおっとりとしたいい方たちだよ。あそこの令嬢ならきっと気立てのいい、やさしい女性だろうね」
 どうしたのかね、と尋ねられて、彼女は茶碗をテーブルに戻した。
「あのかたから、公爵夫人のお友だちになってさしあげるようにと言われたの」
 それはいいことだ、と侯爵は頷いた。昔から伯爵は病弱な令嬢に友人ができなくて心配していたからね。
「お父さま」
 彼女はため息のように、ずっと思っていたことを吐き出した。

 ——もし公爵さまがお独り身だったら、わたしをあの方に嫁がせてくださった……?

 侯爵は、飲み終えた茶碗をテーブルに戻すと、しばし沈黙してから口を開いた。
「いや、しなかっただろう。普通に政略結婚したなら夫婦の間に跡継ぎさえ生まれれば義務を果たしたと言えるが、公爵は結婚前も結婚した後も放蕩していたのだから。いくら殿下と我々の前であれだけ仲の良いところを見せたとは言え、不誠実だったと言えるからね。伯爵がなぜあの公爵に大事な令嬢を嫁がせたかわからないが、公爵の行状を聞いていてわたしは父親としておまえを嫁がせなくて良かったと思っているよ」
 そうやって二人はしばらく椅子に座っていたが、やがて静かに下城した。

 第一王子の婚礼の日、両親と長兄は婚礼の儀式に出掛けていたが、帰宅すると新郎新婦の美しさを話題にした。
「そうそう、ラングレー公爵夫妻だがいらしていたよ」
 長兄が思い出したように言うのを、彼女は息をつめるように見つめた。
「ご自分の婚礼の時もそうだったが、公爵はずいぶんとご機嫌でね。まぁ殿下が無事に妃殿下をお迎えになるまで、彼もずいぶんと仕事を押し付けられていたようだからねえ」
「公爵夫人も、ほんとうにお可愛らしいかたでしたね」
 侯爵夫人がしみじみと言う。「亡くなられた先代の伯爵夫人とそっくりだと、お歳を召した方々がおっしゃってましたし。あなたもああいう幸せそうなご縁に恵まれればよろしいけれど」
 彼女はそんな言葉に俯いた。

 舞踏会のドレスで着飾った彼女は、家族はもとより、侍女や乳母たちにも「お綺麗でございますよ」と褒められた。
 家族と王宮に着くと、数人の女性たちがさっそく彼女の傍にやってくる。
「ヘルムート様、奥さまを連れていらっしゃるんだそうよ」
「どんな奥さまか間近で見てみたいわ」
 取り巻きとして囀る女性たちに、彼女は首を振った。
「わたくしは結構ですわ」
 あら、と女性たちは目を瞠る。「どうかなさったの?」
「いいえ別に……」
 令嬢たちはさらに怪訝な顔をしたが、そのまま立ち去った。
 やがて会場の入口の方でざわめきが広がり、ラングレー公爵夫妻が到着したとその場の人々が視線を巡らす。
 柔らかく蕩けそうな笑顔を浮かべた彼がエスコートしていたのは、まさしく彼女が公爵邸で見た女性だった。淡い薄荷色の薄絹を重ねたドレス、華奢な首に掛かる繊細な細工の宝石、たっぷりとした栗色の髪には散りばめられた宝石が輝くティアラ。
翡翠色の大きな瞳と透き通るように白い肌、可愛らしく綻んだ蕾のような唇。その容貌は穢れを知らない乙女のように初々しい。自ら光を放つような華やかさはないが、小柄でほっそりとした姿は、まさしく天使に守護された儚き妖精だった。
「驚いただろう」
「あんな可憐な女性だったんだな、ティアーズ伯爵令嬢」
「公爵ってああいうタイプが好みだったんだ……。取り巻きとぜんぜん違うタイプの女性じゃないか」
 兄たちが交わす会話が耳を通り抜けて行く。
「たしか、どこかの侯爵家の跡取りも求婚したらしいが、公爵がもぎ取ったらしいぞ」
「ああ、どう見ても公爵、奥方を溺愛してるだろう」
 目の前を通りすぎる女性は、彼になにか囁かれて可愛らしく微笑みながらエスコートされている。
「おまえも諦めがついただろう」
 長兄がからかうように彼女を見おろした。
「母上が言われるように、いい殿方に見初められるように努力しなさい」
 彼女は無言のまま、幸せそうな彼らを見つめていた。
 やがて国王陛下が玉座につかれ、王子殿下ご夫妻とともに公爵夫妻が優雅に踊って舞踏会は始まった。彼はいつもよりも楽しそうだった。彼の腕の中の女性は頬を染めながら優雅にステップを踏む。その可憐な姿に周囲がため息をつくのがわかる。
「公爵が天使なら、公爵夫人は妖精の姫君ですわね」
「本当ですわねえ」
 周囲の大人たちが会話する。次々と加わる人々とともに、兄の一人が彼女の手を取って踊りの輪に加わる。
 ふと気がつくと、王子殿下夫妻と公爵夫妻は踊りの輪から外れて会話をしていた。王子が軽く片手を上げ、彼は可憐な妻をエスコートして殿下夫妻から離れて行く。そこで貴族たちがわらわらと王子殿下夫妻を取り囲み、彼の姿は見えなくなった。
「おまえはまだ公爵に未練があるのかい」
 呆れたように、一緒に踊る兄が言う。「相手にされてないんだろう?」
「お兄さまには、女の子の初恋の気持ちなんてわからないのよ」
 むくれながら言うと、兄は「恋愛は双方の気持ちが繋がらないと成り立たないからな」と言葉を返した。
 曲が終わって家族のもとに戻ってくると何人かの青年がダンスの申し込みにやって来る。何曲か踊って一休みしようと踊っていた相手とバルコンに近づくと、パートナーの男性が立ち止まった。
「どうかなさいまして?」
「えーと、いや、あちらはお邪魔すると申し訳なさそうで」
 通り過ぎるフランス窓の外に視線をやると、彼が妻と口づけをかわしているのが見えた。そのまま腕の中の華奢な女性を大切そうに抱きしめているのも。どこをどう見ても、熱烈な恋人同士にしか見えない姿に思わず顔を背けた。一緒にいた青年は、彼女が彼の取り巻きの一人なのを知っていたのだろう。彼らの姿が見えない位置のソファに導いてくれた。
「……馬鹿な女と思ってらっしゃるでしょう?」
 ふと言うと、相手の青年は目を丸くした。
「いや、公爵は誰が見ても天使の容貌ですからね。女性なら誰だって夢中になるでしょう。ぼくが知る限り、公爵に点が辛いのはコレット・バーンズ嬢くらいですし」
 彼女は瞬きした。「——それはどなた?」
「バーンズ男爵家の令嬢ですよ。まぁ彼女はちょっと変わっていて……そう、男気があるというか」
 青年は苦笑した。「あそこにいる赤毛の女性です。さっぱりと気持ちのいい人なんですが、話をしていると男性と会話をしてるような気になるんですよ」
 青年の視線の先には、二、三人の男性と立ち話をしている赤毛の女性がいた。少し年上のようだ。会話をしている男性たちが社交界で優秀と評判のいい人物ばかりなのに気がついた。そういう男性たちに媚びるふうでもなく、傅かれるふうでもない。ふと女性の視線が動いてこちらに向いたので、慌てて目をそらした。
 青年は、彼女が侯爵令嬢でむこうが男爵令嬢という家格を考えたのだろう。それ以上赤毛の女性については話さなかった。そのあとも数曲踊ると、家族のもとに彼女を連れ戻してくれた。
 しばらく家族と椅子に腰掛けて休んでいると、会場の隅の方でなにか騒めきが起きた。なんだろうと見やるとマインツ家の令嬢が取り巻きの青年たちのひとりと踊りに加わった。マインツ伯爵家令嬢のラヴィニアは「社交界の花」と呼ばれる令嬢たちのひとりで、年下の令嬢たちからは「憧れのお姉さま」と見られている。
「ラヴィニアさま、どうかされたのかしら……」
 優雅に踊る姿を見ながら首をかしげると、席を外していた兄の一人が戻ってきて「ラヴィニア嬢は殿下と公爵と口論してたぞ」とこっそり囁いてきた。
「え?」
「公爵夫人のご気分が悪くなった時、公爵は席を外されていたらしい。そのことで、なぜか殿下と公爵がそばに居た令嬢を責めていてな」
 なんだかよく判らない。
「それで、公爵さまは?」
「ご気分のすぐれない公爵夫人と一緒にバルコンから出ていかれた。凄かったぞ、大勢の面前で公爵夫人を抱きしめたうえに、最後は抱き上げて退出された。溺愛というんだろうかね。どなたの婚礼披露の舞踏会かわからなくなった」
 そう言いつつも、楽しげに笑いを堪えている。母親が扇の陰で「いくら殿方とは言え、はしたないのではなくて?」とため息をつくと、「ですが殿下も妃殿下もお咎めにはなっていませんでしたよ」と返した。
「公爵夫人はそんなに具合がお悪かったのですか」
「ええ、気を失われる寸前という有り様で、おそばに居たラヴィニア嬢の崇拝者たちがどうしたらいいかと狼狽えてましたよ。病弱な方とはお聞きしていましたがたしかにあれではよほどの事がない限り公の場に出てくるのは難しいかもしれませんね。妃殿下も公爵夫人が病弱なのはご存知らしくてたいそう気づかっておられました。女官に侍医を遣わすように言われていましたし」
 妃殿下直々の指示が出ていては、まわりが公爵夫妻を不敬だというわけにもいかないらしい。
 そんな話も、しかし他の貴族たちの噂話のなかに紛れて、宴たけなわに夜は更けて行った。

 舞踏会からしばらくして、彼女は友人のひとりの開いたお茶会に招かれた。女友達が同じように何人か呼ばれており、だれそれが嫁ぎ先が決まったとか今度流行りそうなドレスのデザインの話とか、近ごろ近衛に配属された若い騎士たちの話で盛り上がった。友人達は彼女のように彼の取り巻きではない。お喋りに興じていると、舞踏会が始まる前に取り巻きの何人かが彼の妻である人に嫌がらせをして彼を怒らせたという話になった。
「公爵さまがお怒りになったの?」
 驚くと、友人達は頷いた。
「ちょっと離れていて声は聞こえなかったのだけれど、お顔がとても怒ってらしたわ」
「特に視線が怖そうでしたものねえ」
「なんだかまわりの空気が凍りついてましたわ」
「公爵夫人も怯えてらして……でも、取り巻きの方がいなくなったら、公爵さま、すごくやさしそうに公爵夫人を慰めてらして」
 公爵さまが結婚されたのはあなたも知っているんだし、むしろあの可愛らしい奥さまとお友だちになったら如何?と友人達は口を揃えて言った。
「両親が殿下のご婚礼の時に挨拶したら、とても可愛らしい貴婦人でいらしたって母が言ってましたわ」
 一人が言う。
「お姿も可愛らしいしご性格もおとなしやかで控えめな感じで、お小さい時から寝込まれていてあまりお友だちもいらっしゃらないんですって」
「わたし、小さい時にエリスさまと遊んだ事があるけれど、とっても内気で大人しくていらしたわ」
 ほかの女性がいうのに、皆が目を丸くする。
「そうなの?」
「ええ。うち、別宅がセロンにあるでしょう。それで伯爵さまに両親が頼まれたのね。でもお身体が弱くて走るどころか歩くのもままならない感じで。それでつまらなくてわたしは他の子と遊んでいたんだけど、そしたらその風景を写生してらしたんですって」
「……そういえば、妃殿下がわたしに、あのかたとお友だちになって欲しいっておっしゃったわ」
 彼女が言うと、皆は頷いた。
「妃殿下は気がお強いけどお優しいもの」
「エリスさま、たぶんお友だちってコレットしかいないわ。いつだったかコレットと一緒に夜会にいらしたのは見たけど、そのあとお見かけしてないし」
「コレット……って、バーンズ家のコレット? あの気の強い?」
 誰かが言うのをびっくりして見る。
「気がお強いかたなの?」
「強いどころか、全然女性らしいしおらしさなんて持ち合わせてないのよ。男爵令嬢なのに何処かの伯爵令嬢を難しい理屈を並べて言い負かしちゃうし」
 呆れて何も言えない、という顔で溜息をつく。
「それって、コレットとお友達の女性って公爵夫人だけってことじゃない? あのひともお友だちって殿方ばかりですもの」
「あら」
「お転婆なコレットと内気な公爵夫人がお友だちっていうのも、ちょっと想像つかないわね」
「でもお転婆のせいか、すてきな殿方ともけっこう親しくお友だち付き合いしてるのよね」
 すてきな殿方、という言葉から会話はお見合いの話になっていった。

 帰宅すると、両親に呼ばれて結婚の話になった。
「おまえには何人かの方からお話が来ているよ」
 殿下の舞踏会でいい印象を持たれた相手から、結婚の打診が来ているという。届けられた釣り書きと肖像画を見ると、何人か一緒に踊った男性がいた。
「お父さまやお母さまは如何なんですか?」
 尋ねると両親は顔を見合わせて苦笑した。
「おまえは末っ子だしたった一人の娘なのだからね。おまえが幸せになれるような相手ならどなたでもいいよ」
 少し考えさせて欲しいというと、両親は「急がなくていいよ、じっくり考えてごらん」と頷いてくれた。

 それから一年後の初夏のころ、彼女は結婚した。
 相手は兄たちが太鼓判を押してくれて彼女もその前では素直になれる男性だった。裕福な伯爵家の跡取りのその男性は陽気で快活でやさしくて、彼女をちゃんと支えてくれる人だった。——癖の無い茶色の髪と茶色の目をしていて、金髪とアメジストの瞳ではなかったけれど、それでもきっとこの人こそが彼女の王子さまなのだと思えたのだ。

 婚礼の時、彼は来なかった。出席の予定で返事を貰っていたのだが直前になって公爵夫人の高熱を理由に断りが来た。夫となる人は偶然にも彼とは遠縁で、公爵夫人がどれほど病弱で彼がその妻をどれだけ溺愛しているか承知していたので、そのことでとやかくは言わなかった。


 それから数年経ち、彼女は娘と息子を一人ずつ授かって幸せだった。
 彼のことを思い出すことは滅多に無くて、王宮の夜会で彼が妻を伴って極々稀に参加しているのを見かけるだけだった。
 そんな時、たまたま親類縁者が集まるというので、公爵家の別邸に呼ばれることになった。

 王都のはずれ、静養地のセロンにある別邸はまわりの風景に溶け込むゆったりとした構えの屋敷だった。
 なんでも元は公爵夫人の生まれ育った館ということで、結婚後に実家のティアーズ伯爵家から譲られたのだそうだ。
 広々とした庭と近くにある湖への小道に、招かれた家の子どもたちは歓声を上げて遊びに駆けていった。
 大人たちはおのおの寛いで軽食やお茶やアルコールを嗜む。
 招待主の彼は、以前と変わらずにすらりとした容姿に相変わらずの天使の美貌で、さらに滴るような男の色気を加えていて、女性たちは見とれていた。
「奥方はどうしたんだい、ヘルムート」
 彼女の夫が尋ねると、彼はちょっと眉をしかめた。
「うん、昨夜からちょっと熱を出してね。具合が良くなったらたぶん顔を見せると思うよ」
「そりゃ悪かったね。子どもたちにあんまり騒がないように言っておこうか」
「いや、彼女は家の中がこどもの声で賑やかなのは好きだから」
 そういえば彼と妻の間にはいまだに子どもがいないのだった。それについて彼は「子どもと妻なら妻の方が大事」と公言していたので跡取りを生まないことで公爵夫人を責める者など居ようがなかった。むしろ「優秀有能な子どもを養子として公爵家を継がせても全然問題はない」という日頃の科白に期待する者がいると言ってもいい。
 そんな彼を久しぶりに眺めていると、娘が戻ってきて彼女にまとわりつく。
「お母さま、妖精のお姫さまに会ったの! とってもきれいな妖精さんよ!」
 娘が言うのを、彼女は目を丸くして見おろした。
「妖精さん?」
「うん、お庭の奥で窓辺に座っていたの。こんにちはって言ったら、こんにちはって言ってもらったの!」
 誰のことだろうと思っていると、侍女の一人が公爵夫人が来たと先触れした。
 現れた公爵夫人は、相変わらずほっそりと華奢で可憐な風情の女性だった。彼は妻の姿を見るやその傍に寄り添い、親類達に挨拶して回るのに付き添っていた。
「妖精のお姫さまは天使さまと仲良しなの?」
 彼女の娘が公爵夫人を見上げて不思議そうに尋ねると、公爵夫人も不思議そうな顔をしたが、彼に「エリス、この子はきみを妖精のお姫さまだと思ってるんだよ」と言われて頬を染めた。
「天使さまはわたしの旦那さまなの」
 公爵夫人はふわりとやさしく微笑んだ。
「えっと、妖精のお姫さまが天使さまの奥さんなの?」
「ええと、わたしは妖精のお姫さまではないけれど、天使さまの奥さんなの」
「——きみは僕の妖精で僕のお姫さまなんだから、妖精のお姫さまであってると思うんだけどね、エリス」
 甘ったるい笑みを浮かべて彼が言うのを聞いて、なぜか彼女のそばにいた夫が硬直した。気がつくと、招待客たちは皆固まっている。公爵夫人は「ヘルムートさま……!」とさらに赤くなり、そして彼女の娘と同じ高さにしゃがみ込んだ。
「今日は楽しんでね? お菓子もいっぱい用意したの」
「うん! お庭もかけっこできて楽しいし、お菓子美味しくてうれしい!」
「まあヘレン、お行儀が悪くてよ!」
 思わず注意すると娘は「えー……」と涙ぐんだ。それを公爵夫人はやさしく抱きしめて頭を撫でる。
「だいじょうぶ。元気なのね。いっぱい遊んでね」
「うん……!」
 にこにこと笑うと、娘は公爵夫人の頬にキスをして部屋の外に駆け出していった。それを見送ってふと気がつくと、彼は無表情な顔でハンカチをとりだして立ち上がった妻の頬を拭いていた。
「ヘルムートさま?」
 こてんと公爵夫人が首をかしげると、彼はにっこりと笑って「疲れるといけないから、お座り」と言った。
 そうやって彼女は公爵夫人と——彼の妻と、初めて対面したのだった。



 その夜、客用寝室に入ると彼女の夫は彼が公爵夫人に甘い夫でいるのを「あの悪魔がまさか本物の天使になるとは思わなかった」という謎の言葉で論評したのだった。


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