甚兵衛渡し
(千葉県成田市)

運営事業者 千葉交通、成田営業所
運行区間 成田山門前・京成成田駅−甚兵衛渡し
(公津の杜駅・宗吾霊堂経由 一部公津の杜駅回避)
運行本数 1日15本、休日8本、内訳は下記の通り。
成田山門前行(公津の杜駅回避)3本、休日1本
成田山門前行(公津の杜駅経由)4本、休日3本
京成成田駅行(公津の杜駅回避)1本、休日運休
京成成田駅行(公津の杜駅経由)7本、休日4本
その他スクールバスの発着あり。
元旦周辺は成田山門前行は京成成田駅行に変更
備 考  

 成田市の観光名所成田山門と交通の要所である京成成田駅(JR成田駅も近い)を起点とし、発展している新しい街・公津の杜や成田市南部の観光名所・宗吾霊堂を経由し印旛沼のほとりにある甚兵衛渡しバス停を結ぶローカル路線。
 1時間に1本の割合の本数だが、地元住民の生活路線の要素と成田山・宗吾霊堂と甚兵衛渡しを結ぶ観光路線の要素も含んでいる。
 停留所の位置は降車専用が国道464号線側、乗車専用が脇道に入って間もないところに位置していて、その先には折り返し所が存在している典型的な終点バス停の風景だ。
 かつては甚兵衛渡しより先の安食駅まで路線は存在したが現在は廃止されている。
  この「甚兵衛渡し」というバス停名、矢切の渡しのように渡し舟があるのかと思いきや、現在の場所には甚兵衛渡しと言う渡し舟は存在しない。
 甚兵衛渡しは成田市北須賀から印旛村吉高まで結ぶ印旛沼を渡る渡し舟の事を言うが昭和43年に渡し舟が廃止されて甚兵衛大橋に使命を譲り現在に至っている。
 しかし「甚兵衛渡し」というバス停名が現在でも残っているのはそれなりの理由がある。

 この甚兵衛渡しは「佐倉惣五郎の物語」に出てくる渡し舟である。


宗吾霊堂から甚兵衛渡しまでの国道464号宗吾街道は、直訴に向かった惣五郎と渡し守甚兵衛の物語の事から、直訴道と呼ばれている。

 台方村の名主惣五郎が凶作と重税に苦しむ農民を救おうと、当時重罪であった“直訴”をするため雪の降りしきる夜、江戸に向かう際、対岸の吉高(現在の千葉県印旛郡印旛村吉高)の渡し守甚兵衛が禁制の鎖を切って惣五郎を江戸に向かわせた後、「捕われの身になって生きる事よりは」と言う思いの結果、寒い夜の印旛沼に身を投じた。
 それ以降この渡し舟の事を甚兵衛渡しと呼ぶようになったと言われている。
 一方江戸に向かった惣五郎も願いは聞き入れられたもの、直訴は重罪だったため、4人の子供と共に処刑され宗吾霊堂に葬られている。

甚兵衛渡しバス停周辺風景
甚兵衛大橋・印旛沼風景
宗吾霊堂カレーの石碑又兵衛の佃煮

 先にも述べたが、現在“甚兵衛渡し”と言う名の渡し舟は無いが、“甚兵衛渡し”と言うバス停名が残っている。
 それは遠い昔に起こった惣五郎と甚兵衛の悲しい物語や、近代まで存在した渡し舟の記録を語り継ぐ意味でバス停名が残ると言う貴重なバスの終点なのだ。

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