半生・反省・繁盛記
(6号)
自転車
中学校は自転車通学だった。昭和34年はまだ自転車は高価なもの。サドルの下にオイルを染み込ませたボロ布をはさみ、いつもピカピカに磨いて大事に乗った。自分の自転車で行動半径が広がり一皮剥けた歳である。大人になった自覚のようなものが芽生えた。
雪の日は7キロの道のりを歩いた。帰りには雪が緩んで自転車が通行可能のこともある、この推測が難しい。雪解けに歩いて帰るのを残念がったものだ。時には雪のため早退があり学校につくと即下校ということもしばしばあった。
弁論大会
中学一年の弁論大会で「原子力」の話をした。核分裂により大きな力を発揮するのが原子力であるとの内容である。一応勉強して臨み、中学校の講堂に全校生徒150人を前にはじめて発表した。話を始めると会場が大爆笑である。うけねらいで芸をした訳ではない。もちろん子供のこと箸がこけたこともおかしい歳ではある。後で分かったことだが話の初めに一礼するところ、これを忘れていきなり話し出したことがおかしかったようである。
以後人前で話す都度これを思い出す。生徒に順番に弁論大会に出席させたのはよい。
助動詞の変遷 だ⇒じゃ⇒や
故郷、高橋村は兵庫県の北東部に位置し、北西から南東に細長い谷あいが続く村で、南東の山越えで遠くは京都へと続く街道の一部である。
高橋村の北西の端に私の生まれた集落、正法寺があり、端から正法寺・平田・栗尾の三集落が、平田小学校区で、ガキ大将の私もこの平田幼稚園・小学校へ通学した。当時、
「アレ何ダ、山ダ、ホウダ・ホウダ」などと「ダ」を使って叫び走りまわっていた。
その後、佐田・久畑・大河内集落の久畑小学校区にある高橋中学校に進学したところ、久畑小学校から入ってきた悪ガキどもが、
「アレ何ジャ、山ジャ、ホウジャ・ホウジャ」などと「ジャ」を使って暴れまわっていた。私は「ジャ」という助動詞に、初めて蒸気機関車を見たショックに近いものを感じた。しばらくは彼等を遠巻きに眺めていた。女の子は垢抜けて見えた。
そして、出石高校に進学した。ここでは出石中学校の出身者が、
「アレ何ヤ、山ヤ、ホウヤ・ホウヤ」と言葉を発している・・・・・。
私のカルチャーショック史の一部だが、小さな村でも文化に違いがある。