リカ IV

歩多 著

1、教室

 
ユタが私に向かって頭を下げるのは、とても珍しいことだ。というか、今までそんな事は一度も無かった。きっと明日は大雪が降る……大雪ならもうすでに降って外に積もっていたが……。
「頼む! あゆみしか頼める奴はいねー! これを今夜だけ預かってくれよ!」
 ユタはそう言って大きなスポーツバッグを私に渡す。かなり重い。
「何が中に入っているの?」
「聞くなよ! それから、絶対に開けるなよ!」
 かなり自分勝手な頼み方で腹が立った。
しかし、バッグの中身はだいたいの予想がついていたので、渋々と、
「いいよ。その代わり『お礼』を払ってね」と言ってやった。
「わかったよ。何で払えばいい?」
「ぶつぶつ苺ポッキーを三箱」
「三つも?! お前、そんなに食ったら太るぞ!」
「うるさいな! 預からないよ」
「わかったよ……その代わり、バックの中は絶対に見るなよ!」
 怖い顔をしてユタが言う。私は「わかった、わかった」と気の無い返事をした。
 

2、部屋点検

 
 男子寮では、時々抜き打ちで「部屋点検」が行われる。女子寮は点検されない。これは、女子よりも男子の方が酒、タバコなどの未成年者に不釣合いなものを所持している確立が高いという事実に基づく差別だった。「抜き打ち」で行われるはずの点検も、必ず何処からか情報が漏れてくる。
 今夜、点検が行われるらしいという確かな情報を得た男子達は「お宝」の隠し場所として女子寮に眼をつける。男子と女子の連携プレイによって、校則と法律はいとも簡単に破られる。
 

3、女子寮では、

 
 私はユタから渡されたスポーツバックを肩にかけて自習室へと向かう。
 それにしてもこのバックは重い。まあ、中に入っているものを考えたら、それは当然なのだけれども……。
 自習室の扉を開けると、珍しく全員がそろっていた。期末テストが近いので、当然なのだけれども、あまり集中して勉強しているようには見えない。
 私の抱えた大きなスポーツバックを見ると、千絵はわかりきった顔をして、
「誰から?」と聞いてきた。
「ユタ」
「開けた?」
「まだ」 
「さやかは武からバッグを預かって来るし、男子が考える事は皆同じなんだね」静香が笑いながら言う。
 さやかは机の下の紙袋をつま先で軽く蹴った。
「まったく、彼女にこんなものを預けるなんて……、恥知らずなんだから!」と言いつつも、さやかの顔は怒ってはいなかった。
 早苗の机の下にも同じように、怪しげな男物のバッグが置いてある。
一体、誰から預かったものだろう……。
「それ、早く開けてみようよぉ」と早苗が言う。
「『開けるな』って、言われたけど?」私が一応注意すると、
「まあ、いいじゃない。どうせ中身はわかっているんだし」とさやかが言った。
 酒、タバコ、そして男子のお宝と言えば……、
「エロ本でしょ? どうせ」
 バックのチャックを開ける。ご名答。安っぽいピンクがかかった本、雑誌、漫画、VHS、DVDが、大判小判のようにザクザクと出てきた。
「しかし、たくさん持っているな……、あゆみ、このバッグは何時ユタに返すの?」と千絵。
「明日には返すよ」
「全部は見られないよ。どれにする?」静香はDVDを一つ一つ丁寧に出していた。
 早苗が「面白いの、発見!」と言って一枚のDVDを私に見せた。
「『貧乳美女勢ぞろい』だってぇ。男って絶対に巨乳が好きなのかと思っていたけど、そうでもないんだねぇ。あゆみ、良かったねぇ」とニヤニヤ笑いながら言う。
「貧乳で悪かったね! でも、私は美女じゃないよ!」と、ふてくされる。
「待った! あゆみ、そんなに落ち込むな! 『ブス専用更衣室、覗きまくり』だってさ」
「静香! 今の発言はちょっと惨い! 取り消せ!」
「解った。ごめん」
「あ、私、これを見たい」とリカがバッグから取り出したのは、
「『もっと、絡み付いて! ―ロングヘアプレイ―』……へえ、リカは実践できそうだね」千絵が感心する。
「エロ業界の市場は広いな」私は呆れながら言った。
 それにしても、ユタのエロコレクションには統一性が全く無い。普通はもっと趣向が似たものを集めるはずなのだが……。
「あ、このエロ漫画、貸し出しカードが付いているぞ」と千絵が言った。
 見ると手作りのカードが漫画の最後のページに貼られている。
「ユタの奴、エロ本を男子寮内で貸し出して『お礼』を稼いでいるんだよ、きっと」と静香は言った。
 だから、ジャンルを超えた様々なエロを持っているのか……。
「せこい奴!」千絵が笑って言った。
 

4、学校の怪談

 
「やめてぇ! そういう話は嫌い!」早苗が怯え声で弥生に言った。
 耳を両手でシッカリと塞ぎ、「あ〜!」と大声を発して何も聞くまいと努力している。
「煩い! 聞きたくないなら自習室から出ていきなよ」と、静香が好奇心をむき出して弥生と真美を見つめている。
「私は怪談話って、結構好きだよ」
 早苗は諦めたようだ。耳から手を離し、黙り込んだ。部屋を出て行く気はないようだ。
 夕食後、スタディメイト全員が集まって期末テストに向けて、勉強をしていたところ……いや、本当は、皆でユタのエロ本を読んでいたところ、弥生と真美が訪ねに来た。ドアをノックする音に、皆、素早い反応を見せる。私は漫画を引き出しの中に投げ込み、歴史の教科書を読み始めた。二秒も立たぬ間に客を招きいれる体勢が整う。
彼女達が持ち込んだ「特種」とは、男子寮に毎夜の如く現れる髪の長い女の幽霊のことだった。
「もう何人も目撃者がいるんだって!」
弥生はオーディエンスの反応が良いので、機嫌が良いらしい。嬉々としてしゃべりだす。
「でも、どうして男子寮にだけ現れるの? この学校の土地、全てが昔は神社の土地だったのでしょう? だったら、女子寮や教室にも現れてもおかしくは無いのに……」リカは少し不満げな反応を見せた。きっと、「髪が長い」ということで、噂の幽霊に親近感が湧くのかもしれない。それに、無理矢理髪を切られた女達にも同情しているのかもしれない。自分の髪に手をあて、愛しそうに梳く。
 真美がリカの質問に「待っていました!」とばかりに答える。
「それはね、男子寮の建物があった場所が、神社の倉庫があった場所だからだよ。供養の儀式は一年のうち数回しかしないから、倉庫に供養の為に預かったハサミをまとめて置いておいた。供養前のハサミから女の怨念が漏れて、倉庫内に充満したんだよ。だから、男子寮にだけ、幽霊が出るの」
 リカの顔はまだ納得していないように見えた。
「武は白い着物を着た身の丈ロングヘアの幽霊を見たと言っていたけど?」と、さやかが言う。
「赤いチェックのスカートを履いた幽霊を見た男の子もいるんだよね?」と、私は確認の為に弥生たちに聞いた。
 不思議なのは、どの幽霊も身の丈ほどのロングヘアを持つという共通点がありながら、ファッションだけが毎回変わるのだ。白い着物、赤いプリーツスカート、時にはジーンズを履いていて表れたこともあるという。
「着物を着ていた幽霊は、きっと神社が昔ここにあったころの幽霊だと思えるけど、現代風の服を着た幽霊達は、どう考えても神社が無くなった後の時代の幽霊だよ」と千絵が言った。
 弥生はそれに反応した。
「そうなの! 私も変だなって、思ったの! で、考えたんだ。もしかしたら、神社が無くなった今でも、ハサミの供養をこの場所でやっているんじゃないのかな?」
「まさか!」
静香が叫ぶ。
「きっと弥生の言うとおりだよ! 今でも男子寮の何処かに供養を待つハサミが保管されているんだよ!」
真美が弥生と顔を合わせ、お互いに大きく頷いた。
「まさか……ねぇ?」
私は自分のスタディメイトたちの顔を見回した。皆、半信半疑の様子だ。リカだけは凍りついたような表情で、自分達の話に興奮するパパラッチたちを見つめている。
 今でもハサミの供養を行っている? だから幽霊が出る? 
もし、それが真実なら幽霊の数と同じだけ、無理矢理髪を切られて悲しい思いをした女性達が何処かにいるという事だ……。
私は貞子先輩が更衣室の中で、リカの髪を切ろうとして振り上げたハサミのことを思い出した。もし、あの時、リカの髪があのハサミで切られていたら、リカの悲しみの魂が、ハサミに宿ったのだろうか……?
 

5、落書き

 
次の日の放課後、ユタに彼の「お宝」を返す為、私は自習室に戻った。
自習室にはリカだけがいた。ヘッドホンを付け、手でドラムを叩く振りをしている。机の上には古典のプリントが広げられてはいたが、勉強しているようには見えなかった。
私はユタのスポーツバッグの中身が揃っているのを確認して、チャックを閉めようとした。中を見てしまったことをユタには隠し通さなければならない。
ふと、一番上に詰まれたエロ漫画に目が留まる。
白い羽を持つ天使の女の子。彼女は長い黒髪を持っていた。リカと、同じ長さ、ヒップラインまで届くロングヘア。漫画の顔とはいえ、顔の造形も何処と無くリカに似ているように思えた。天使は男のエスコートを待つように左手を前に差し伸べている。
その左手に落書きがしてあった。黒いサインペンで描かれた手首は掌を天に向け、中指を立てている。
昨日の放課後、この漫画を見たときはこんな落書きはされていなかった。
私が見ていないうちに、スタディメイトの誰かが落書きをしたのだ。
誰がこんなことを……?
私はリカの視線を背中に感じた。振り向くと、リカは目を合わせまいと視線を机の上のプリントに戻す。
昨晩、リカはこの漫画を読んでいた。
私は、リカが犯人だと直感した。
何故、こんなことをした? 私はユタに「絶対見るな」と言われているのだ。落書きされて戻ってくれば、ユタが私に対して怒り出すだろうということは容易に想像がつくだろうに! 
私は体内から怒りの塊がだんだんと湧き上がってくるのを感じた。
「リカ! ちょっとこれを見て!」
私はリカに漫画を突きつけた。
「この漫画がどうかしたの?」
ヘッドホンを外しながら、リカは白々しく聞く。
「リカが悪戯描きをしたんでしょう?!」
 リカはおおげさに驚いて、
「ひどい! 私は読んでいただけよ! それで私が落書きした証拠にはならないわ!」
「証拠? 証拠がなければ、犯人はわからないとでも思っているの? 直感でわかるよ。リカしかこんなことをする奴はこの自習室にはいない!」
「何故?」
リカは椅子から勢いよく立ち上がる。焦りの為か、怒りの為か、リカは食って掛かる態度に出た。
 私は漫画の後ろの方のページをパラパラと捲ってリカに見せた。わざと優しい声で言う。
「この漫画のラストで、主人公の男がヒロインの天使の長い髪を無理矢理切っているでしょう? リカはこれに怒りを感じたんじゃない?」
 漫画の内容は、Mの気が無い女の子が読めば、ムカムカするようなものだった。男の身勝手な行動で、天使は堕天使になり、天国に戻れなくなる。主人公に従順な元天使はわがままな男の要求を何でも聞いた。最後に自分の自慢の髪をも男に切らせる。それでも天使は笑顔で主人公を受け入れる。Happy Endと書かれたラストのコマ。
 リカが返答に困る様子を見せた。
 間違いない。リカが落書きをした。私の言った事がどうやら的を得ていたようだ。リカは曇るような声で私に聞いてくる。
「あゆみちゃんはこの漫画を読んで怒りを感じないの? ムカつかないの?」
「どうして?」
 リカは少し考えている様子だった。一気に吐き出すように言う。
「男の子達って、身勝手よ! 実際の女の子がこんなに従順になれるわけが無いじゃない! 女の子は物じゃないのよ! 皆、自分の意思があるのに、男の子って自分の理想ばかりを女の子に押し付けるじゃない? 理想と違うと思うと『俺のことを愛してない』って急に冷たくなるの! いつもそうなの! 告白されて付き合い始めても、私のことを理解しようとはしてくれないの! 誰も私の事なんて好きになってくれない! 私から生まれる『幻想』ばかりを愛しているの。男の子達って馬鹿よ!」
 私はかなり面食らっていた。まさかリカが激情に駆られて、こんなにもあっさりと自白するとは思わなかった。
「……だから、落書きをしたの?」
呆気に取られて聞く私に、
「そうよ!」リカは堂々と答えた。
 悪気など微塵も無い様子だ。私はまた腹が立ってきた。私が話し合いたい問題点は、男がどれだけ阿呆な生き物か否かではなく、リカが私の預かり物に勝手に落書きをしたという事実だ。
「身勝手なのはリカだよ! リカは私の事は考えなかったの? リカが落書きを漫画にしたら、困るのは私なのに!」
 リカは黙った。言い返す言葉を捜しているのだ。そして、ボソボソと低い声で言った。
「それ、あゆみちゃんの物じゃないでしょう? ユタ君のでしょう? 問題ないじゃない」
 私の物では無いから困るのだ。もし私の所有物にリカが落書きをしたならば、私がリカに文句を言うだけで事は終わる。しかし、これは私に対する信用問題に繋がるのだ。(まあ、最初からユタの信用をバッサリと裏切った私ではあったが……。)私がユタを裏切ったことが解れば、男子全員の私に対する評価は愕然と落ちるだろう。「南あゆみは、顔だけではなく、性格も『下の下』だ」と言われてしまうだろう。
 リカは私に対して軽蔑的なまなざしを向けた。私は何故彼女がそんな目を私に向けるのかがわからない。リカは静かに言い放った。
「あゆみちゃんは男の子達に媚びているよ!」
 軽く頭をバッドで殴られたかのような衝撃を感じた。
 私が男に媚びている……? そんなわけない! 媚びてなんていない! 
「あゆみちゃんは、悔しくなかったの? 罰ゲームに使われた時にあゆみちゃんは傷ついたはずよ! なのに、何故男子の言うことを聞いてあげちゃうの? あゆみちゃんは今でも武君に優しいし、ユタ君の頼みを聞いてあげるし、それに……どうして健太郎君を赦せるの?!」
 リカの言葉は嫌なことを私に思い出させた。罰ゲーム……、傷ついた。本当に。馬鹿で子供っぽい男子を呪いたくなった。けど、実は女子だって似たような事はやっているのだ。  
よく夜中に集まってはくだらない話で盛り上がる。話題は十中八九、男の子の事だ。正直であることは残酷であることと、イコールで結ばれる。「絶対に付き合いたくない男の子」「気持ち悪い男の子」……男子の買い手市場とはいえ、それでも女の子から全く相手にされない男の子達はたくさんいた。彼らを一人一人話題に取り上げては血祭りにあげて行く……女の子達の神聖な夜はこうして更けてゆく。
「まあ、成り行きというか……、深く考えなかっただけかも……」燃えるように怒るリカに対して、私は曖昧に答えた。どんな返答もリカを納得させる事はできないと感じた。
 リカはまた突き刺すような目をして私を見た。
「あゆみちゃんにはプライドがないの? 自尊心や、自意識がないの?」
 これには私も腹が立った。
「私にだってプライドはあるよ! リカのプライドほど『お高く』は無いけどね! リカは我儘だ!」
「我儘じゃないわ! 私は自分に正直なだけよ! いつも周りに従うか流されるかしかできない人にそんなことを言われたくないわ!」
「私はそんな人間じゃない!」
「そんな人間よ! 自分の髪型だって自分で決められないじゃない!」
「髪は関係ないでしょ!」
「あるわよ! 髪だって自分の一部でしょう? 自分自身のことすら自分で決められないということが問題なの!」
 私は早くもリカのペースに流されている自分を感じて焦った。
 自分のことを自分で決める? 私はできる限りそうしてきたつもりだ。しかし、時には自分を抑えなければならない事もある。リカは自己顕示欲が強すぎるのではないか?
「リカの頭には『協調性』という言葉が無いの? 周りが自分にいつも合わせてくれると思っているんじゃないの? 自惚れ屋!」
「周りに合わせてもらった覚えなんて無いわよ!」
「それはリカが鈍感だからだ! 私達がどれだけリカの髪を守るために努力したかも知らないで!」
 リカは一瞬戸惑いを見せた。しかし、後にはもう引けないと感じたらしい。震える声で言い放った。
「助けてくれなんて……言った覚えはないわよ。あゆみちゃんたちが勝手にやったことじゃない!」
 私はリカを見つめた。リカの顔には「後悔」の色が直ぐに見て取れた。が、もう遅かった。私は自分の怒りを、マグマのように押し寄せる怒りを鎮めることはできなかった。
 机の引き出しを開け、素早くハサミを手に握った。
 リカは髪を背に隠し、壁に背を付けた。目は私の手のハサミに釘付けだ。
「何をする気? まさか……」
 リカは私を強く睨むと、壁伝いに部屋のドアへ近付き、逃げ出した。
 バタンッ!
 リカが渾身の力を込めてドアを閉める。私はハサミを持ったまま立ち尽くしていた。
 

6、夕食

 
 夕食時、リカは食堂に来ていなかった。食堂近くの音楽室からリズム良いドラム音が聞こえる。きっとリカが叩いているのに違いない。
「で、昨日の夜にも幽霊は出たの?」
さやかがタラコスパゲッティに刻み海苔を振りかけながら、正面に座っている武に聞いた。
「いや……昨晩は表れてはいないと思うぞ。……おい、ユタ、そういう噂は聞いてはいないよな?」
武はパンにバターを塗りながら肘で隣のユタをつつく。
 スパゲッティを口いっぱいに入れていたユタは黙って頷いた。
 「期末テストさえなければ、楽しいことばかりなのにぃ……」早苗がヨーグルトに苺を混ぜながらつぶやいた。
 そうなのだ。テストさえなければ、私達はクリスマス会と冬休みのことだけをゆっくりと考えることができるのだ。
 健太郎に告白されてから、まだ一度も彼とゆっくり話しをしていない。生徒会の仕事と期末テスト準備が忙しく、それどころではないのだ。健太郎はそのことで私に文句を言ったりしなかった。それは、私にとってありがたい事であると同時に、少し寂しいことでもあった。会えないことが私にとってはストレスにもなるというのに、健太郎は私と会わなくても別に平気なのだろうか?
 

7、それから……、

 
 一週間が瞬く間に過ぎていった。
期末テスト前。勉強が忙しいせいか、最近では新しいカップル誕生の噂も、幽霊の噂も聞かなくなった。リカのバンド練習も夕食後の一時間のみとなった。
私は自習室での喧嘩以来、リカとは話をしていない。
リカは私を見ると視線をそらす。同じ部屋にいても、私から一番離れた場所に移動する。私を恐れているからか、それとも当てつけのつもりか、とにかくリカは私を極端なほどに避けている。
私は既にユタにスポーツバッグを返していた。落書きについては何も言わず、もしユタが私を責めてきたら「知らなかった」と言い通してやろうと思った。その代わり、「お礼」の「ぶつぶつ苺ポッキー」は貰わなかった。
今のところ、ユタから何も言われてはいない。それは、彼が気付いていないからなのか、理由はよくわからなかった。私はホッとしていた。しかし、同時に不安でもあった。もしかして男子達は影で私の悪口を言っているかもしれない。……食堂で、私の外見を「下の下」を評したように、私が聞いていないはずのところで、私をけなしているかもしれない。そう思うとたまらなかった。
 

8、期末テスト

 
 私は解答用紙を見直して、答えにミスが無いかどうかを確認した。
 ……大丈夫。少なくとも九十点以上は取れる自信がある。
 期末試験も残り二分で終わる。それとともに一時フリーズされた学園生活がまた動き出すのだ。勉強の忙しさにかまけて、最近は目立った事件は何もなかったが、今夜から続々とスキャンダルが学校のあちらこちらで起こるに違いない。
 今学期もあと残り三日だけ。明日は一日中お休み。明後日の昼間に採点された答案と成績表が生徒達に渡される。夜にはクリスマス会がある。そして明々後日の朝に、生徒達は寮を出て実家に帰る。
 テストが終われば、皆の意識は「クリスマス会」へ誰と一緒に行くかという問題にだけ集中する。私は今日の夜にも生徒会があり、明日もきっと準備で忙しくなるだろうと覚悟した。
 ふと、腕時計から目を離し、前の席に座るリカを見る。リカは焦るように消しゴムで答案用紙をこすっている。彼女の手が揺れるたび、長い髪もかすかに揺れた。蛍光灯の光を鋭く打ち返す艶。まるでよく磨かれた日本刀の刃。
 私はこの髪を一度、激情に駆られたとは言え、切ろうとしたのだ。
 リカが扉を閉め、一人取り残された自習室で、私はハサミを呆然と見つめていた。すぐに軽率な行動をとったことを後悔した。しかし、リカの言ったことに心底怒りを感じていたのも事実だ。私はリカが私に謝りに来るのを待った。私から謝るつもりは毛頭なかった。
 リカがあの時私に言っていた事は、恐らく日ごろから抱え込んでいたリカの悩みだろう。
「誰も私の事なんて好きになってくれない! 私から生まれる『幻想』ばかりを愛しているの。男の子達って馬鹿よ!」
 私から言わせれば、これは贅沢な悩みだ。私とリカは違いすぎる。リカは綺麗だ。私は醜い。たかがそれだけのことだ。しかし、きっと私はリカの悩みを理解する事はこれからもできないと思う。そして、リカも私の悩みや卑屈になる心を絶対に理解してくれることは無いだろう。美しい者には美しい者の考え方があり、醜い者には醜い者の考え方がある。
 しかし、それでも私はリカと仲直りをしたかった。
 私は自惚れていたかもしれない。リカは、新入生で、先輩達からの評判も良くなく、多くの女子の嫉妬を一身に受けてきた。リカはこの学校で孤独なはずだった。私やスタディメイトたちが彼女の唯一の「味方」だったはずだ。そのなかでも、私はリカに対してずいぶんと便宜を図ってあげたつもりだったし、リカから信頼されていると思っていた。私はリカに感謝され、必要とされたかったのかもしれない。
 
「終了! 解答用紙を集めます」先生が言ったとたん、教室が騒がしくなった。
 テストが終わったという安堵感と共に、私はわずかな緊張も感じた。ドラマでも映画でも、ラストは物語が劇的に変化するものだ。私の「高校一年生・二学期」という劇も、クライマックスを迎えようとしている。
 

9、クリスマス会準備

 
 クリスマス会は体育館で行われる。
 体育館には備え付けの舞台があるが、(当然のことながら、)花道が付いていない。文化祭で野外ステージとして使われた組み立て式の舞台で長い道を作らなくてはならない。この作業は多くの労働力を必要とする。
 暇な男子生徒たちを総動員するべく、私はオダセンと共に男子寮に向かっていた。
「しかし……誰か手伝ってくれる奴がいるかな……」
オダセンは自信なさ気に言った。
 私は彼の言葉に相槌を打った。
 そうなのだ。テストが終わった今、生徒達の多くは町に遊びにでかけるか、退寮準備をするかして忙しいはずだ。皆、何だかんだと理由をつけて手伝おうとはしてくれない。
 男子寮の近くに来た時、寮から健太郎が出てきた。
 健太郎は私に気が付いて手を振る。私も振り返した。
 寮から続々と男子達が出てくる。
 健太郎は私達に走りよると、オダセンに向かって、
「俺達に、手伝わせてください」と小さな声で言った。
 私はびっくりした。次から次へと寮から出てくる男の子達。中学生男子のほとんど全員と数人の高校生男子達が集まって来たのだ!
 
 体育館に戻ると照明のチェックをしていた朝子先輩が驚いたように言う。
「よくこれだけ助っ人を集められたね。どうせ二人か三人くらいしか来てくれないと思っていたのに……」
 花道を作る作業は順調に進んだ。男の子とは言え、多くの子は中学生だ。舞台の部品一つを数人で力を合わせて運んだ。
「あのう……」
 組み立てた舞台が崩れないように、金具でとめる作業にかかっている最中、私と同じ作業をしていた俊介君が、遠慮がちに声をかけてきた。
「健太郎先輩のことなんですけど……」
 興味を引かれた私はネジを回す手を止めた。
「どうしたの?」
「健太郎先輩がゲームに負けたのはワザとなんです」と俊介君は言った。
 ゲーム? 何のこと? ……あ、罰ゲームのことか!
「先輩は、本当は将棋がすごく強いんです。多分、この学校で一番強いですよ。だから、あの時負けたのは、ワザとなんです。僕にはわかります」
「なんで? なんで健太郎はワザと将棋で負けたの?」
「それは……」と言いながら俊介君は顔を赤くした。そして、
「それは、南先輩に告白する良いチャンスだったからです!」と言い切った。
 私は恥ずかしくなって、大げさに笑いながら、
「まさか! そんなわけないじゃん! 私に告白するのは『罰』にあたるような嫌な事だったはずだよ。……私は今でも健太郎が私のことを本当に好きになってくれたとは思っていないよ。罰ゲームの後に、私に同情したか、もしくは自分が仕出かしたことに対する事後処理のつもりで私と付き合うなんて言い出したんだと思う」と言った。
 その証拠に、停電のあった教室内での告白の後、健太郎から「会おう」と言ってきたことは無かった。
「それは違います!」俊介君が強い調子で言う。
「健太郎先輩はそんな無責任な理由で南先輩と付き合っているわけではないです。先輩は無口だし、普段は他の先輩達のせいであまり目立たないから、勘違いをされやすいんですよ。でも、ああ見えて、周りに流されない人です。だから、自分が嫌だと思ったことは絶対にしません!」
 そうかな……? でも……、
「何で私なの? 私は多分、この学校で一番のブス女だよ」
 俊介君はキョトンとした表情で私を見つめた。
「さあ……? 先輩は変わり者ですから……」
 私は少しがっかりした。俊介君が「そんなことないですよ。南先輩だって『キレイ』ですよ」とフォローしてくれることを少し期待していたのだ。
正直者め……。
「南先輩は健太郎先輩のことをどう思いますか?」
 突然、予期せぬことを聞かれて私は焦った。
 そう言えば、私って、健太郎のことを好きなのだろうか? 健太郎に二度目に告白された時、自分の意思とは無関係に健太郎に流されるように付き合いを承諾してしまったのではないか? その後、私は健太郎を妙に意識するようになった。が、その前まではただの友達だったし、一時は心底憎んだ。
 リカの言葉を私は思い出した。
「いつも周りに従うか流されるかしかできない人」「自分自身のことすら自分で決められないということが問題なの!」
 私は……私自身は本当に健太郎が好きなのだろうか……、こんな気持ちのまま彼と付き合ってしまって良いのだろうか……。決めるのは私だ。
 返答に困っている私を見た俊介君は言った。
「今日、これだけの助っ人が集まったのは健太郎先輩が男子寮で暇人を募って生徒会を助けようとしたからですよ」
 私は体育館中を見渡して健太郎を探した。彼は倉庫から舞台備品を運び出している途中だった。
 

10、点呼時間

 
 夕食後の生徒会が終了したのは九時五分前だった。
 九時には男子は男子寮へ、女子は女子寮へ戻らなければならないという「ルール」がある。各寮の代表生徒が「点呼」を行い、全員寮内に戻ってきているか確認する。
 高校一二年生女子寮の代表は朝子先輩なので、私と先輩は余裕をもって生徒会室を出たが、男子寮の代表は島先輩だったのでオダセンは部屋を飛び出すなり走って寮へ戻った。
 朝子先輩と一緒に学校の廊下を歩きながら、私はつぶやいた。
「小田先輩は島先輩と仲が悪いんですか? 島先輩を言いくるめて『点呼』を見逃してもらえばいいのに……」
「どうもあの二人はそりが合わないようだよ。小田は生徒会長をやっていて先生受けも良いから、学校内ではリーダーシップを発揮できるけど、男子寮では目立たない奴らしいよ。男子全員の本物のリーダーは島だろうね」朝子先輩は淡々としゃべる。
「学校内と男子寮内で男子生徒の勢力図が変わるんですね? 複雑だな……」
「私達、女子だって学校にいるときと女子寮内とでは、皆、微妙に態度が違うと思わない?」
「……わかりません」
 今まで意識したことが無かった。学校にいるときの私と寮内にいる私は違うのだろうか? でも、もし態度が違うとしたらそれはリカが言うように「男子に媚びている」ことになるのではないか?
 校舎の玄関まで来ると、扉の前に一つの影が立っていた。
 健太郎だった。
 朝子先輩は私の肩に手を置き、
「十五分以内の遅刻なら許す」と言い、にんまり笑いながら出て行った。
 私は健太郎に近寄ると、
「ここで何してるの? 『点呼』は?」と言った。
 もう、とっくに九時になっている。
 健太郎が島先輩と仲良しとは思えない。
「ユタがなんとかしてくれる」と独り言のように彼は答えた。
 そうか、ユタなら島先輩からいろいろ特権を貰っていそうだ。友人の点呼をごまかしてもらうくらい簡単なのだろう……友人?
 私は日ごろ、食堂や学校で見るユタと健太郎を思い出した。
 二人の仲は「友達」と言うよりも「主人と下僕」のような関係に見える。
「本当にユタが何とかしてくれるの?」
私は疑い深げに聞いた。
「するよ。前にもごまかしてもらった事があるし」
当然の事を説明するように健太郎は言った。
 私は、ついさっき朝子先輩と話していたことを思い出した。
 健太郎とユタも、学校にいるときと男子寮にいるときでは微妙に違うのだろうか?
「お疲れ様」
ボソボソと聞き取りにくい声で健太郎は言った。
「え? あ、ありがとう」
「じゃあ」と言って、健太郎は校舎の扉に手をかけた。
 どうやら寮に帰るらしい。
「え? じゃ、じゃあね。おやすみ……」
 健太郎は一人で出て行ってしまった。
 ん? あいつはここで何をしていたんだ?
 私は気になったので、すぐに扉を開けると、建物の影に沿って歩く健太郎に向かって叫んだ。
「ちょっと待ってよ! 何でこんな所にいたの?」
 健太郎は驚いた顔をして、
「……待っていたんだけど」と言った。
「私を?」
 健太郎は頷いた。
「なんで?」私は彼の側まで歩み寄った。
「えーと……、」
健太郎は曖昧に言った後、派手なくしゃみをした。しかし、かなりわざとらしい。これはきっと、「それ以上は質問しないで!」というサインだろう。
私は黙った。
ふと、昼間に俊介君から聞いたことを思い出した。
「ねえ、健太郎は何で私と付き合うことにしたの?」
 大きなくしゃみを立て続けに三回した健太郎は、
「……風邪、ひいたかも……」とつぶやいた。
 女の子なら誰でも持っている「体内嘘発見器」、別名「女の直感」は私に警告サインを送った。気をつけろ! 目の前の男はお前に嘘をついている!
「風邪なんて嘘でしょ? 何で嘘つくの?! 言いにくいことなの?」
「……うん、ちょっと言いにくいかも……」
 やはり、私に後ろめたい気持ちがあったから付き合うなんて言いだしたのだ! 最低!
 私は健太郎を睨み付けると女子寮に向かって駆け出した。
 

11、仲直り

 
 やはり、ブスの私を本気で好きになる男の子なんていないんだ!
 何で、私は美人に生まれなかったのかな……? リカみたいに綺麗だったら、人生もっと楽しいだろうに……。一度でよいから悩みのない外見を持ってみたい。
 頭の中でネガティブな独り言をつぶやきながら、私は自習室に戻った。
 リカが机の上にあるものをダンボールに詰めている。他のスタディメイトはいなかった。
 私はリカの存在を無視して、生徒会のノートを机の上に置いて、部屋を出ようとした。
「待って!」
 背後でリカが私を呼び止める声がした。
 私はドアを開けながら振り向いた。
「あの……この前のことなのだけど……?」
 リカは私の反応を見ながら恐る恐る聞いた。
 この前の事と言ったら、私がリカの髪を切ろうとした事を言っているのに違いない。
 リカはうなだれて、言いにくいことを言わなければならないという様子で上目遣いに私を見た。
 私はリカのしおらしい態度を見て、怒りのままにハサミを握った自分の残虐性を素直に恥じた。そして、言った。
「髪を切ろうとしてごめんね。もう、絶対にしない」
 リカの表情はすぐに晴れた。
「いいの。気にしないで。あゆみちゃんが本気じゃなかったって、私はわかっていたから」
 ニコニコとリカは私に向かって無邪気な微笑みを向ける。
 仲直りできて良かった! ……ん? あれ? 私はリカが謝るまで絶対にリカを許さないはずではなかったか……? リカだって私に謝るべきだ!
「リカ、何か私に言うことない?」
私は笑顔で聞いた。
「え? あ、ごめんね」
リカは謝った。
 何だか釈然としないものを感じながら私は退寮準備に取り掛かった。
 家に持って帰る本と寮に置いていく本を分ける。
「あゆみちゃん、あのね」リカが遠慮がちに話しかけた。
「あゆみちゃんは私の髪の事をどう思う?」
「え?」
 全く予期せぬ質問をされて答えに詰まった。
「何でそんなことを聞くの?」
 リカは背に手を回し、髪の感触を確かめるように梳く。
「私の髪のせいで、皆に迷惑をかけているんじゃないかと思ったの……」
「迷惑って?」
 リカは黙り込んだ。しばらく自分の髪を見つめた後、ゆっくりとしゃべり始めた。
「貞子先輩たちから私の髪を守ろうとしてくれたじゃない? もし、私の髪が短かったらあんな騒ぎは起きなかったし、あゆみちゃんたちが私の事をいろいろと心配してくれる必要もなかったはず……」
「それは違うと思うよ」
私はすかさず言った。
「リカの髪が短くても、誰かがリカを別の形で陥れようとしたと思うよ」
 私は正直に言ってから、しまった!と思った。
 これでは「何が何でもリカは同性から好かれない」と宣言しているのと同じだ。
 私はリカの反応が怖かった。激しく落ち込むのではないかと心配した。
 が、リカは突然笑顔になると、
「良かった! それを聞いて安心した!」と言い出した。
 リカは唖然としている私に向かって嬉々としてしゃべる。
「だって、もし髪のせいでトラブルが起こるなら、私は髪を切るべきかどうかを悩まなくてはならないじゃない? でも、髪のせいではなくて、私自身のせいでトラブルが起こるというのなら、髪のことを心配しなくて済むんだもん」
 私にはリカの思考パターンがわからなかった。
 リカは私に向き合うと、
「ねえ、私の欠点を全部言ってくれる? なおすように努力するから!」と言ってきた。
「え?」
 日ごろから、リカの欠点を探し出してきたが、面と向かって本人に懇願されると言いにくい。リカの目は私が何か言うことを期待していた。
「えーと、……『協調性』が足りないと思う」
「例えば?」
 例えば……、そういえばリカに協調性が足りないと感じた理由は何だったのだろう? 皆が集まっている時にリカは居なかった。前は夕食にすら一緒に食べなかった。でも、それは皆がリカを避けていたからだし、リカも居づらさを感じていたからであって、リカに協調性が欠けていたからとは言えないのではないか?
「待った。今私が言ったことは忘れて!」と、私は無責任なことを言った。
 私がリカに対して「協調性がない」と感じた理由はリカの髪にも原因があったのではないか? あまりにも目立ちすぎる髪。リカを陥れようとする人ならば、真っ先にその髪に目を付けるだろう。そしてこの二学期間、リカの髪に振り回されるような事件が起きた。でも……、私はそれを迷惑だと感じたことはないと思う。
 悔しいけれど、リカが言った「あゆみちゃんたちが勝手にやったことじゃない!」という言葉は当たっていた。
 リカの欠点……、リカに「協調性」が欠けていると思わせる一番の理由……、それはとても単純なことだが、どうしようもないことだ。
 リカは美しすぎる。
 リカは目立ちすぎる。
 リカはモテすぎる。
 よって、女の子達がリカに敵意を持つのだ。
 しかし、こればかりはどうしようもない。これらは欠点ではなく、誰もが羨むリカの長所なのだ。
 私はため息を付いた。そして、リカの目を見据えて言った。
「一つだけ言わせて……。人の物に落書きをするな!」
 リカはうなだれた。
「ごめんなさい」
 今度こそ、リカは真剣な表情で私に謝った。
 
 次の日の午前中、期末テストの返却と、成績表が生徒に渡された。
 教室を出てから、私は寮に帰り手早く退寮準備を始めた。クリスマス会は夕食後だ。それまでには全て片付けておかないと明日の朝、実家に帰るためのバスを逃してしまう。
 

12、クリスマス会のごちそう

 
「明日には退寮か……、今学期も早く終わってしまったね」
 静香がローストビーフを一口サイズに切りながら言った。少し寂しそうだ。
「今学期も短く感じたけど、冬休みが過ぎ去るのはもっと早いよ」
 千絵がアップルソーダのグラスに口をつけながら言う。
「俺にとって、今学期は長かったぞ」
 武がフライドチキンにかじりついたまましゃべった。
 隣の健太郎はマッシュポテトにフォークを突っ込んで、口に運んでいる。
「さやかと武はいろいろとあったからねぇ」
 早苗は早くもジンジャークッキーにかじりついていた。
 その隣のリカはニンジンケーキにたっぷりと生クリームをスプーンで撫で付けていた。
「なかなか刺激的な学期だったな」
 ユタがパンをちぎって、言った。
 私は会話には参加せず、黙々とチキンを食べていた。イベントの準備のため、皆より早めに体育館へ行かなくてはならない。
喉に残るチキンを飲み干そうとコップを持った時、千絵が甲高い悲鳴をあげた。
「いやー!」
 千絵の側に虫がいるのだと私にはわかった。
 目を凝らすと千絵のトレイの横に小さなハチが止まっていた。
 私は一気に水を飲み干し、グラスを空けると、それを素早くハチの上に被せた。
 透明な檻の中でハチは脱出しようと暴れ、小さな体をグラスに叩きつけるように飛びまわっている。
「このハチ、どうする?」
 私は千絵の目を見て聞いた。
 ここは食堂。全校生徒の目がある場所。
 答えはわかっていた。
「お願い! 助けてあげて!」
 私は近くの小窓を小さく開け、白い空気の外にハチを逃がしてやった。
 暖房のきいた室内で、季節外れにも生き延びたこのハチも、すぐに外で凍え死んでしまうだろう。しかし、そんなことはどうでも良いのだ。肝心なのは、千絵や、私達女の子達が虫も殺せぬ優しい心を持っているように振舞うことだ。
 私は笑顔でテーブルに戻ると、食事の続きをした。
 

13、クリスマス会

 
 クリスマス会は、文化祭の後夜祭同様、代表者の短い挨拶で始まる。
 オダセンがマイクを持って舞台に立ったとき、男子生徒がそんなに盛り上がっていないことに私は気が付いた。後夜祭で島先輩が立ったときと比べると、とても白けている。
 もしかしたらオダセンは、男子たちから嫌われているのかもしれない。
 でも、オダセンの何が悪いのだろう……?
 私は女子寮の前で和美さんの安否を気にして泣き始めたオダセンを思い出した。
 良い人だし、恋人のことも気使えるし、時々恥ずかしいけれど正直な気持ちを素直に言える人なのに……。女子達からの評判は悪くないのだ。
 きっと、男子が「同性として気に入る男」に必要な要素は、女子が「異性として気に入る男」の要素と全く別なのだろう。
 私は少し複雑な気持ちで、舞台袖から観客達の顔を見ていた。
 気合の入らないオープニングではあったが、とにかく今学期最後のイベントは始まった。
 ファッションショーに出る早苗とユタは既に舞台袖に控えていた。静香が早苗の髪を束ねて整えている。
 早苗は灰色の男物の浴衣を着込み、脚には下駄を履いていた。
 ユタは艶やかな色の長い着物を何枚も着込み、足元が見えない。着物を引きずるようにして歩いている。
「あれ? これって、十二単?」と、私は早苗に聞いた。
「うん、そうだよ。近所の写真屋さんから借りてきたんだぁ! 本当は私が着たかったのに……」
早苗は不満顔だ。
「はい。ちょんまげの完成!」
静香は得意そうに言う。スプレーをかけて小さく結った髷を固定した。
「ああ〜! 何で私はバカ殿みたいな格好をして、ユタがお姫様の格好をしているんだぁ? 不公平だぁ!」と、早苗はぼやく。
 ユタは既に顔に化粧を施してあったが、髪はいつものままだ。
ユタの髪は男子にしては長い方だが、十二単には全く似合わない。
「ねえ、髪はそのままなの?」
 私が聞くと、ユタは得意そうにすぐ側の床に置いてある紙袋を指差した。
「その中にカツラが入っているんだ。取ってくれよ」
 私は袋から黒々とした大きな塊を取り出した。
「長い!」
 カツラを持った手を高々と上げて、やっと毛先が床の紙袋から離れた。そのままユタの頭の上にカツラをのせる。黒髪は艶やかな薄緑色の着物の上をすべるように落ち、先が床にわずかに着地した。
「……身の丈のロングヘア」と、隣で静香がつぶやいた。
 ん? そう言えば、期末テスト前まで話題になっていた男子寮の幽霊も身の丈ロングヘアだった……。
 私は静香のほうを見た。静香も私を見た。そして、二人でユタの腕を左右から掴んだ。
「あんたが、幽霊の犯人だったんだ!」
 私たちの怒り声にユタはニヤニヤと笑い返す。
「今頃気が付いたのかよ?」
「説明してよ!」と、静香が詰め寄る。
 その時、舞台の上の司会者がファッションショーの始まりを宣言した。
 最初の一組は早苗とユタだ。
 ユタは慌てて私と静香の手を振り払うと、早苗と一緒に舞台の中央までシズシズとそれらしく歩き始めた。
 拍手と野次を飛ばす声で体育館中が盛り上がる。
 早苗はゆっくりとした大股で堂々と歩く。
 ユタはナヨナヨと身をよじりながら歩く。
「嫌々女装したくせに、結局役にはまりきってるじゃん」
ユタを見ながら私は言った。
「ノリが軽いからね、ユタは。……武が見た白い着物の幽霊は、着物の襦袢を着たユタだったんだろうね。ショーの為に女装の練習をしていて、ちょっと廊下を歩いてみたくなったんじゃない?」
 静香は花道を歩く二人に目をやりながらしゃべった。
「で、武がそれを見て、思いのほか怖がったから、ユタは面白くなったんだ。他の男子も脅かしてやろうと、それからも女装してカツラをつけては男子寮を夜な夜な歩き回ったんだ! でも、カツラなんて持っていたら、『部屋点検』の時に見つかって、幽霊の正体もバレるはずなのに、何で見つからなかったんだろう?」と、私は静香に聞いた。
 花道の先端にたどり着いた二人は、そこでポーズを決め、生徒達のカメラのフラッシュを一身に浴びていた。きっと今頃、健太郎は誰にも撮れないような良い写真を、誰にも気が付かれること無しに撮っていることだろう。来年の文化祭の展示にはユタの女装写真を是非展示してやろうと私は密かに考えていた。
「『部屋点検』で、見つかると拙いものはだいたい女子寮に来るものなのだけど……」と、静香は考え深げに言った。
 あの日、私はユタからバッグを預かった。けれど、中にはエロコレクションばかりで、カツラははいってはいなかった。ユタは他の女子に預けたのかもしれない。
「早苗だ! 早苗も誰かからバックを預かってきたんだ」と、静香は言った。
 私は思い出した。早苗の机の下に、男物のバッグが一つ置かれていたことを。
 部屋点検の日には、カツラは早苗が持っていた。だからあの夜には幽霊が現れなかった。
「じゃあ、早苗も幽霊の正体をとっくに知っていたんだね?」
 私は静香の横顔を見ながら言った。
「そうだろうね。幽霊が着ていた、赤いチェックのプリーツスカートは、早苗のお気に入りの洋服だし……」
「何だ……。じゃあ、ハサミの供養も神社の話も結局、幽霊には関係ないじゃん!」
 私はため息を付いた。
 
 プログラムは順調に進み、島先輩達のバンド演奏が始まった。
 軽快なリズムでリカのドラムは音楽を引き立てている。
 華奢な腕が振り上げられる振動と共に、髪にさざ波が起こり、勢いよく叩く時には津波のように揺れた。寄せて返す、漆黒の海。
 ふいに私は肩を誰かに掴まれた。振り向くと背後に健太郎が立っていた。予想通り、手には重たいカメラを持っている。
 健太郎は私に何かを言った。しかし、大音量で奏でられる音楽に彼の声はかき消される。
 私は両腕を広げて「わからない」という身振りを、外国人がするようにして見せた。
 健太郎は口をパクパクさせながら、観客席を指差す。どうやら、「正面から見ようよ」と言っているらしい。
 私もリカの演奏をもっと良く見えるところから聞きたかった。けれど、いいのだろうか? オダセンと朝子先輩を舞台裏に残して、私だけ他の生徒たちのようにこのイベントを楽しむのは悪い気がした。
 私はオダセンの方を見た。彼は既に健太郎と私の会話を見ていたようで、すぐに笑顔で「OK」サインを出してくれた。
 私と健太郎はこっそりと、舞台袖から体育館の床に降りた。
 ちょうどその時、一曲目の演奏が終わった。
 舞台ではキーボードが用意され、ユタが舞台に上がった。そして、島先輩からマイクを受け取った。そして、私達を見つめながら言った。
「これから演奏する曲は、俺の親友が大好きな曲です! 皆も楽しんでください!」
 隣で健太郎が「まさか……アレ?」とつぶやく。
 マイクは再び島先輩の手に握られた。ユタはゆっくりとキーボードに手をのせる。リカも椅子に座りなおした。
 会場の明かりが徐々に薄くなっていった。生徒達は静まり返る。
 優しいメロディがキーボードから流れ始めた。島先輩の低い声が、気持ち良い発音を奏でる。外国語の歌だった。
 私は隣の健太郎を見た。
「どういう意味の歌詞なの?」と、聞いた。
 健太郎は私の方をチラリと見てから口ごもり、うろたえ、自分の掌を見つめ、視線を舞台に戻した。暗くてよくわからないが、もしかしたら赤い顔をしているのかもしれない。
 何? 何なの?
 しかし、意味が解らなくても、心地の良い旋律から、それが、もしかしたらラブソングなのかもしれないと私は思った。
 あ、そうか。だから健太郎は隣でテレているんだ。男の子にとって、面と向かって、愛だの、好きだのと話すのは気まずいことなのだろう。
 私は島先輩の歌う声にうっとりとした。
 突然、ギターとベースが激しく鳴り、リカのドラムが加わった。
先ほどのメロディのテンポが速くなる。会場が明るくなったような気がした。
ノリの良い曲だ。島先輩は歌いながら手や足で踊るようにリズムをとっている。
舞台近くに座っていた女の子の一群がそわそわと揺れ始めた。手拍子を始める先生達もいる。
元気が良い曲だ。ラブソングじゃないのかもしれない……。
私は少しがっかりしたが、この曲をとても好きになった。
床に座っていた女の子のグループが突然立ち上がり、音楽に合わせて好き好きに体を動かして踊り始めた。
高校一年生女子達の一群が立ち上がり、腕を振り、腰を振り、手を叩いてリズムの波に乗った。
静香はヘアスプレーをマラカス代わりにして振っている。
千絵は大きく体をよじりながら暴れるように踊っている。
早苗は小さく脚を動かしながら上品に揺れている。
さやかは立ち上がってはいなかった。武の横に座り、一緒に手拍子している。踊るのが大好きなさやかのことだ。本当は友達の中に混じりこんで一緒に踊りたいのかもしれない。しかし、武を一人、床に置いてゆくわけにはいかない。
私は体育館中を見渡した。男の子は誰一人として立ち上がっていなかった。盛り上がっているのは女の子達だけ。でも、男の子達の表情も楽しそうだ。手を叩いたり、そわそわと揺れている子もいる。
隣の健太郎を見ると、手を膝の上にのせ、指を膝に叩きつけてリズムを刻んでいた。
男って、こういう時のノリが悪いんだよな……。
格好つけているのか、大人ぶっているのか、男子達は何処か一歩引いた場所からこの体育館の盛り上がりを眺めているように見えた。
気のせいだろうか、何人かの男子が、私達の方をチラチラと見ている気がする。
 健太郎の足首が揺れ、床の上でリズムを取り始めた。
男の子のプライドって、変な時に垣間見られるものだ。楽しい時に、その楽しさを全身で表現してみたっていいのに、そういうことは男子達の間では「格好悪い」となされているようだ。
「先輩!」
 俊介君が健太郎の隣にやって来て座った。
「先輩、お願いしますよ。アレ、やってください。じゃないと、男子全員楽しめません」
「……嫌だ」
 健太郎は膝を抱え込んでしまった。
 アレって何だ? 
  舞台の上で、突然、ユタが島先輩のマイクを奪った。
「ケン! やれ!」
 弾けるように健太郎は立ち上がった。まるで、今まで溜め込んできたエネルギーが爆発を起こしたかのように健太郎は動きまくった。踊り始めたのだ。
 男子の野次を飛ばす声が響く。そして、今まで石像のように動かなかった男の子達が歓声を上げながら次々に立ち上がり、踊りだした。
 私はただ唖然と健太郎を見つめていた。
彼は手足をめちゃくちゃに動かして、踊っているというよりは、カカシが暴れているように見えた。
かなり、格好悪い!!
でも、健太郎はとても楽しそうだ。他の男子達も健太郎のように、冗談のようなダンスをして笑い合っている。
見栄っ張りな男の子達は自分一人では恥ずかしいことができない。誰かが最初に恥をかいてくれるのを待っていたのだ。で、それは男子寮における、健太郎の役割だったのだ。
私は「恥ずかしいなー! もう!」と、口の中で言い、それでも立ち上がって健太郎の側へ走った。このヒステリックなほどに楽しいダンスに参加するために。
 

14、退寮日

 
 退寮日の朝は慌しかった。
 私はお昼出発のバスに乗るのだが、ほとんどの生徒は午前中の早いバスか電車に乗って帰ってしまう。友達がバスやタクシーに乗り込むごとに見送りに出るので、忙しい。さやかも静香も千絵も早苗も帰ってしまった。
 ついさっき、私は健太郎を見送った。彼の実家は私の家から遠く離れている。冬休みに会おうと思っても、簡単に会える距離ではない。
 私がそのことで嘆いていると、健太郎はのんびりと、「冬休みは短いし……」とつぶやいた。
 そういう問題じゃないのだよ! わかってない! クリスマスは? お正月は?
 私が不満顔でいると、彼はまた呑気に「来年もそれなりに長いだろうし……」と独り言のように、わけのわからないことを言った。
 まあ、いいか。大衆のイベント熱に巻き込まれたカップル達が長続きしないことは知っている。世の流れに追いつこうとするよりも、自分達のペースを乱さないことが大切なのかもしれない。
 そんなことを考えながら、私は健太郎を乗せたバスが見えなくなった校門を引き返し、女子寮へ戻るため、裏庭をぶらぶらと歩いていた。
 何だか、ちょっと寂しいし、せつない。
 ふと、気が付くと、ドラムを叩く音が聞こえてくる。
 変だ! ドラムがある音楽室は食堂のある建物の中で、裏庭からは遠く離れている。音が聞こえてくるはずが無い。
 しかし、今私の耳に聞こえるリズムは、かなりはっきりと聞こえるのだ。まるで近くで叩いているような……。
 私は裏庭にある唯一の建物、物置小屋へと走った。
 板を貼り付けただけの簡単なドアを開けると、そこにはリカがいた。
 暗い小屋に、太陽の光が天井の隙間から差し込み、リカの髪に反射する。
 リカは私に気が付いて、叩くのを止めた。
「ここにドラムがあることを知っていたの?」と、私は聞いた。
 リカは頷く。
 シンバルの欠けた部分を指でなぞりながら、
「この学校に来てからすぐに、このドラムの存在を知ったの」と、言った。
「すぐって、いつ頃?」
「この学校に来て、二週間目くらい」
 ちょうど、武とリカが付き合い始めた頃だ。その頃からリカを妬んだり、憎んだりする女子達が現れた。さやかもその一人で、それが今学期の騒動の発端だった。
「ここへはよく来ていたの?」と、私は尋ねた。
「マラソン大会の前くらいまでは、ほぼ毎日来ていたよ。だって、……私、あの頃、とても嫌われていて、皆と一緒にいるのが辛かったから……」
 リカはうつむいた。髪がサラサラと流れ、リカの顔を隠す。
「もしかして、リカは夕食に私たちと一緒に行かなかった時、ここへ一人で来て、ドラムを叩いていたの?」
 リカは頷いた。
 食堂の建物は裏庭からは離れている。全校生徒が食堂に集中する夕食の時間、裏庭で叩くドラムの音を聞きつけた人はいなかった。
 リカはきっと、とても寂しい思いをしていたに違いない。
 私は胸が痛んだ。そして、何の気なしに、
「私も、伸ばそうかなー、髪を」と、つぶやいた。
 リカの目が輝いた。
「似合うよ。絶対に」
 やっと私にはわかった。リカの髪が長い理由が。
「私も、長い髪が好きなんだ」と、私は本心から言った。
 長い髪にする理由も、しない理由も、たくさんあるだろう。しかし、感性はシンプルに本当に欲しいものを主張する。
「来学期が楽しみだね」とリカが言った。
「楽しみだね。来学期には、リカの髪ももっと伸びて、膝に着いちゃうかもよ」
 リカは嬉しそうに「そんなに早くは伸びないよ」と笑って言った。
 そして、彼女は白い息を吐くと、ブーツの足音と床板の軋みを響かせながら、ゆっくりと小屋から出て行った。
 明るい日の下に出た彼女を白い光が包んだ。黒い髪は今、プラチナのような輝きを放ち、「天使の輪」を映した。
 
「リカ・IV」終了


物語を読んでくださった方々へ  歩多

感想


ロングヘアマガジン