昔は廃棄物問題というのはなかったかというとそうではない。近世の江戸は、生活から発生するありとあらゆる不用物を回収し、再利用していたと言うことはよく知られているが、生ごみのようなものはどうしても処理せざるを得なかった。
当初は、住まいの近くの空き地や堀、川などに捨てていたと思われるが、江戸は多くの水路で結ばれていたため、ごみの投棄が水上交通の妨げになった。空き地は火除け地として設けられているので、ここでもごみが投棄されるとその機能を損なう。
こうしたことから、(1649 慶安2)17世紀半ばには触書が出されて、会所地のごみを周りの4町で片づけて平らにすること、以後ごみの投棄を禁止することとされた。その後もたびたび堀や川への投棄の禁止の触書が出されている。
しかし、ごみの投棄が絶えないために、(明暦元年の触書1655)でごみは川へ捨てずに「永代浦」へ捨てに行くことという触書が出された。永代浦というのは永代島の地先で祭りで有名な江東区の富岡八幡宮あたりである。
それまで手近なところで捨てていたものを遠くの海に捨てに行かなければならなくなったので、必然的にごみの収集、運搬という仕事が生まれた。ごみは長屋の裏に共同のごみ溜め場があって、そこから「大芥留」(おおあくたどめ)が町ごとに設けられて、いったん貯留し、船着き場のごみ溜め場から舟に積んで運んだ。
永代浦まで運ぶものについて当初は特に制限がなかった。そこで町人たちは自分で船を用意したり、雇い船で運んでいたが、寛文2(1662)に講義指定の請負人以外の者がごみ集めをすることを禁じた。河岸に出しておけば船が集めて回るというしくみになった。
この費用は、芥銭、芥取銭、芥捨銭などいろいろな呼称で呼ばれた。町の共益費でまかなわれた。
船着き場のごみ溜め場から舟でごみを運ぶ人は「ごみ取り人(芥取人)」と呼ばれた。享保18(1733)に76人のごみ取り人から組合設立の申請が出された。江戸城の堀に浮かぶごみや下水の落ち口にたまる泥やごみの清掃を毎日するので、組合にごみ収集を独占させてほしいというもので、町々からは反対があったが、町奉行所としてはただで掃除をしてもらえると言うことで「御堀浮芥浚請負」(おほりうきあくたさらいうけおい)を許可し、鑑札を与えた。ここに御堀浮芥浚請負組合が設立され、独占的に仕事をするようになった。基本的にこの制度は明治になるまで続いていく。
一方、明暦の触書以降も不法投棄が減らないので、厳しい監督が行われるようになった。築地のあたりの新田開発がはじめられた。元禄12年(1699)に永代築地芥改役がもうけられた。不法投棄の監視役からその後もごみ処理の監視にあたった。
しかし実は、世界の都市が悩んできたのは、廃棄物の中でもし尿である。日本は、これを肥料として利用し、江戸時代には近郊の農家が有価で汲み取って帰るといったことが行われていたが、同時代のヨーロッパの都市ではし尿があちこちに捨てられるという状態で衛生上きわめて深刻な問題になっていた。
ヨーロッパの都市に比べると中世、近世をとおして日本では廃棄物が深刻な社会問題になるようなことはほとんどなかったといえる。
明治初期も、都市の廃棄物処理は江戸時代とさほで大きな違いはなかった。しかし、明治10年以降たびたび伝染病が流行し、「公衆衛生」が重視されるようになった。便所、下水、ごみ溜めの構造や清掃についての対策がとられるなどしたが、人口が急増して都市がどんどん拡大する東京では、江戸時代さながらのやり方では対応できなくなっていた。
ちなみに明治維新以後、地方制度は大区小区制、郡区町村制と変遷し、明治22(1889)年に市制町村制が敷かれたが、汚物掃除法以前のごみ収集は、自己処理するか民間のごみ処理業者が適宜これを集めて有価物を選別し、その売却で利益を得ていた。
しかし東京では、業者の怠慢によってしばしば路傍や空き地にごみが堆積し、不衛生な状態だったことから、明治20年4月に警察令による塵芥取締規則が発布された。
いずれの都市も、ごみの投棄やごみ収集業者の取り締まりに苦慮していたようで、神戸市では明治14年に塵芥溜塵捨場規則を改正して住居裏にごみ容器の設置を義務づけ、25年には神戸市衛生組合及び町村衛生委員設置法を定めてごみ収集人を管理する方策を講じている。
(18世紀初頭のイギリス、アン女王の時代)はるか頭上で、五階、六階あるいは十階の窓が開き、エディンバラのクロススツールが過去24時間にためた糞尿を街路に放つ。上階から捨てる人はあらかじめ「ガーディ・ロー(そら、水がいくぞ)」と叫ぶのが礼儀だった。
ホガース「夜」1738年 |
ヨーロッパの都市がふん尿の処理に困っていた時代、日本ではふん尿は貴重な肥料として循環利用されていた。しかも有価で!売買されていた。 |
明治になって度々伝染病が流行した。明治32.3年頃には、はじめてペストが阪神地方に流行し、公衆衛生の強化の一環として明治33年(1900)に「汚物掃除法」が公布、施行された。
法律第31号 汚物掃除法(明治33年3月6日) |
第一条
市内ノ土地ノ所有者使用者又ハ占有者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ地域内ノ汚物ヲ掃除シ清潔ノ保持スルノ義務ヲ負フ 第二条
市ハ本法其ノ他ノ法令ニ依リ別段ノ義務者アル場合ヲ除クノ外其ノ区域内ノ汚物ヲ掃除シ清潔を保持スルノ義務ヲ負フ 第三条
市ハ義務者ニ於テ蒐集シタル汚物ヲ処分スルノ義務ヲ負フ但シ命令ヲ以テ別段ノ規定ヲ設クルコトヲ得 第四条
市ニ於テ全條ノ處分ヲ為シタル為生スル収入ハ市ノ所得トス 第五条
地方長官ハ掃除ノ施行及實況ヲ監視セシムル為必要ナル吏員ヲ市ニ置カシムルコトヲ得 第六条
常時吏員ハ掃除ノ實況ヲ監視シ必要ナル事項ヲ施行スル為其ノ事由ヲ告知シテ私人ノ土地ニ立入ルコトヲ得
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全部で本文9条、附則1条の計10条の法律。ちなみにこのとき、「下水道法」「未成年者喫煙禁止法」ができている。
この法律によって、ごみ収集が市町村の事務として位置付けられた。
汚物掃除法の制定によってごみ収集業者は行政の管理下に置かれ、ようやく清掃行政の形ができてくる。
なお、汚物掃除法でいう汚物とは「塵芥汚泥汚水及屎尿」と定めており、法律の施行範囲は原則として市制を施行している都市部となっているが、町村部でも必要に応じて準用された。
汚物掃除法は第1条で土地占有者の清潔の保持義務を定め、第2条で「市ハ本法其ノ他ノ命令ニヨリ別段ノ義務者アル場合ヲ除クノ外其ノ区域内ノ汚物ヲ掃除シ清潔ヲ保持スルノ義務ヲ負フ」と定めている。ここからごみ処理は自治体の固有事務として発展していくのである。
しかし、収集がいきなり直営になったのではなく、これまでやっていた民間請負業者に市が委託し、行政はそれを監督するという形であった。余談ながら、施行規則では蓋つきの容器を備えること、その容器は「厨芥用可燃用雑芥用及不燃雑芥用ニ区分セシムルコトヲ得」とし、すでにこの時代から分別収集が行われていたことを示している。
汚物掃除法は昭和29年に清掃法が施行されるまで適用されていた。
その間、もうひとつ重要なことは、大正半ばには衛生上の理由や化学肥料が生産されるようになってし尿の需要が停滞し、値段が下落して、ついにそれまで有価だったものから汲み取り代を徴収するようになり、行政がし尿収集を行うようになった。
汚物掃除法は公衆衛生対策の必要上制定されたものであるから、その処理については「なるべく焼却するように」規則で定めている。(市は掃除義務者の蒐集したる汚物を一定の場所に運搬し、塵芥はなるべく之を焼却すべし)ここではじめてごみの焼却という言葉が出てくる。
ただし、当時は焼却はまだ一般的ではなかった。焼却炉そのものが存在しなかったといってよい。焼却場の設置場所の選定は当初から大変難しかった。明治時代から迷惑施設であった。
このときのごみの焼却場立地制限を、明治36年の警視庁令(清潔保持に関する取締規則)では、@市街地又は市街地内村落に接近し、人家稀疎の地にして人家及道路を距ること30間(54m)以上飲料井戸を距ること5間(9m)以上、A周囲に高さ9尺(2.7m)以上のかきねを設けること、B焼却竈は高さ50尺(15m)以上の煙突を設け消烟の装置とをなすこと、と定めている。(ごみの百年史p33)
長さの単位。寸の一〇倍、丈の一〇分の一。明治時代に曲尺と鯨尺以外は禁止され、メートル条約加入後、1891年(明治24)曲尺一尺を三三分の10メートル(約30.3センチメートル)と定義し、尺貫法における長さの基本単位とした。1958年(昭和33)まで、これは公認の単位として用いられた。一間は六尺(約1.818メートル)。
焼却が行われる前に排煙のことについて規制しているのは意外に思われるかもしれないが、この頃は足尾銅山、別子銅山の煙害事件すなわち公害が発生し、東京や大阪でも工場の石炭ボイラなどの排煙が問題となりつつあった時期であるため、あらかじめ煙突の高さを決めたものだろう。ただ、その根拠や効果ははなはだ怪しいもので、それ以上に焼却施設そのものの整備というのはほとんど進まなかった。
殖産興業によって重化学工業が発展し、いろいろな炉ができていたが、ごみの焼却炉については技術的蓄積はまったくなかったからである。
そこで手軽な方法としてとられてきたのが野焼きである。ごみを積み上げて火を放ち、その上に又ごみを積み上げる方法で、延々と燃え続ける。東京ではこういう方法で昭和37年まで50年にわたって露天焼却を続けてきたということである。
また金属、紙、繊維などはごみとしてほとんど出ることはなかった。ごみとして出てきた場合は、有価物として回収されていたので、当時のごみ処理の対象は生ごみと行って差し支えないだろう。それ以外は土砂や薪炭の灰、陶磁器くずなどである。
野焼き以外の方法としては、残飯を家畜の飼料にする。生ごみを農地に攪拌して肥料とするとともにその発酵熱で野菜を促成栽培するといったことも行われていたそうである。戦後のある時代までは残飯養豚が正規の処理方法というところもあった。東京でも養豚は一つの処理方法であった。
残飯養豚は現在でも行われている。養豚は都市近郊で行われているが、これは残飯を飼料とするためである。ただ肉の品質が重視されるようになった現在では、残飯だけで養豚しても水豚と呼ばれる脂肪分が多く、ぶよぶよした肉かでできるので、種豚の飼育とか、配合飼料の増量のために使われる程度である。
ただ食品リサイクル法の施行によって残飯というより食品循環資源としての調理くず、食品加工くずを、ボイル、発酵、乾燥などの加工処理をして、飼料として積極的に利用していこうという動きは広がりつつある。
横浜のはまポーク、沖縄のくいまーるなど、我々が関わっているプロジェクトがその好例である。
大阪や神戸では海洋投棄も行われていたようだが、ごみが漂着して港湾機能を損ねるということで問題となり、その結果東京よりも早く焼却炉での焼却が行われるようになった。
戦後のごみ処理は占領軍の要請で再開された。最初の仕事は戦災ごみの処理。爆撃跡を埋めたり、陸上の適当な場所を埋めた。
同時に、新たな焼却施設の建設が進められるとともに、自治体は国に対して廃棄物処理への関与を求め、昭和29年に、「清掃法」が制定された。清掃法は汚物掃除法の考え方を踏襲し、第1条には「この法律は汚物を衛生的に処理し、生活環境を清潔にすることにより、公衆衛生の向上を図ることを目的とする」と定めているほか、ごみ処理は市町村の責務であること、衛生的観点から清掃区域を定めてごみを計画的に収集、処理すべきこと等が定められた。
国に対しても汚物処理の科学技術の向上を図ることが義務づけられて、処理施設への補助が行われるようになった。
昭和30年代には一次ごみ処理の方法として高速堆肥化を取り入れようという動きがあり、施設も各地に作られたが、堆肥の需要や処理の効率という点から結局焼却方式に落ち着いた。
(1)制定の経緯
清掃法の制定後、日本は高度経済成長の時代に入る。昭和40年代には公害が激化、工場から排出される様々な有害物質による環境汚染が深刻化したため、これらのごみの処理に対する規制が急務の課題になった。家庭ごみの質も大きく変化し、ごみ処理施設自体が公害発生源となってきたため、ごみの質に対応した処理の高度化が求められるようになった。
そこで、昭和45年12月のいわゆる「公害国会」で一連の公害関係の法律とともに「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(以下廃棄物処理法と呼ぶ)が制定された。
廃棄物処理法はその第1条に「この法律は、廃棄物を適正に処理し、及び生活環境を清潔にすることにより、生活環境の保全及び公衆衛生の向上を図ることを目的とする」と定め、衛生処理という観点に加えて「生活環境の保全」という考えかたが打ち出されたことが、清掃法との大きな違いである。
40年代の後半以降、廃棄物処理の技術は大きく進展する。40年代始めに福岡大学で埋め立て処分の技術の研究が始まり、焼却炉についても海外からの技術導入を得て、現在のストーカー式の連続焼却炉が普及していく。
しかし、昭和46年には「東京ごみ戦争」が宣言される。杉並工場の建設反対運動。燎原の火のように全国にごみ戦争が広がり、ごみ問題は一躍最大の都市問題の一つとなった。
ごみ量の伸びは著しく、10%を越えた時もあった。最終処分場の不足、焼却施設の建設難、今日につながる課題がこの頃一気に吹き出した。
昭和48年の石油ショックを契機に、日本の経済は高度成長から安定成長へと歩みをゆるめる。その結果、ごみの量の伸びもゆるやかになり、自治体は施設整備を急いだ。
地方都市では資源の分別収集が始まり、リサイクルへの取り組みが広がってきた。その成果によって50年の後半あたりからごみ問題は一次沈静化したかに見えた。しかし60年代のバブル経済によって再びごみ量が増加し、ごみ問題がクローズアップされてくる。
一方では地球環境問題が注目されるようになり、ごみ問題も単に地域の、処理施設不足といったレベルで論じるのではなく、資源問題、地球環境問題の文脈の中でととりあげられるようになる。
廃棄物処理法は清掃事業の近代化に大きな役割を果たしたが、ごみ減量やリサイクルの促進についての規定がほとんどないことや、有害廃棄物や感染性廃棄物に対する規定が整備されていないこと、産業廃棄物について広域処分体制を整備する必要があること等、様々な課題を抱えたままであったため、20年ぶりの92年10月に大幅に改正された。(翌年7月施行)
その後も、バーゼル条約(有害廃棄物が国境を越えて移動することを規制する国際条約)の発効に伴う改正(92年)や、不法投棄規制強化のための改正(97年)など、幾度かの改正を経て現在に至っている。
一方、80年代になってから地球環境問題に焦点が当てられ、国際的な取り組みがはじまり、ごみに関しても先進国では様々な取り組みが行われるようになった。
ヨーロッパでは85年にEC委員会が「人の消費する液体容器」についての指令(Council Directive)を出し、容器の廃棄による環境へのインパクトを低減するために各国にリサイクルや再使用を促進するための対策を講じるよう求めた。この指令に基づいて、各国では使い捨て容器の規制や回収の義務付けなどの対策を講じるようになった。
わが国も、こうした先進諸国と歩調を合わせる形で、ようやくリサイクルに関する法制度整備に乗り出した。
廃棄物処理法の改正に先立って、91年4月に「再生資源の利用の促進に関する法律」(リサイクル法)が制定された。リサイクル法は、再生資源の利用率向上を特定の業種に義務付けたり、分別しやすいようにマークを表示すること、リサイクルしやすいような製品設計をすること等を規定しており、廃棄物処理法とリンクして運用される仕組みになっている。
再生資源利用促進法は、リサイクルに関する初めての法律である。この法律は、文字通り再生資源の利用を促進することによって、廃棄物を抑制することを意図したもので、業種や品目を指定して再生資源の利用目標を設定したり、主務大臣が所管産業に対して必要な措置を講ずることができるといった内容を含む。
しかし目標を達成できない場合のペナルティの規定はなく、廃棄物の発生抑制には実効性に乏しいという批判が少なくなかった。ドイツでは廃棄物処理法は86年に「廃棄物回避と管理法」に改正され、廃棄物の発生抑制に重点を置いて事業者の責任を厳しくとらえる法律が施行されていた。また、容器包装廃棄物に対して「容器包装政令」が定められ、事業者に容器包装廃棄物の回収と再利用を義務づけ、容器包装の削減に大きな効果をあげていた。
事業者の責任を強化する考え方は「拡大生産者責任」と言われるが、廃棄物ま抑制のためにはこうした考え方を取り入れていくべきだという議論が、わが国でも高まっていった。
容器包装対策はヨーロッパ各国が取り組み初めており、わが国でもその必要性が論じられていた。先行するドイツの制度、フランスの制度などを参考にしつつ、わが国で広く普及している「資源分別収集」をベースにした制度設計が行われ、自治体が分別収集し、事業者には回収した容器包装廃棄物の引取と再利用を義務づけるという内容がまとまった。そして、95年(平成7年)6月に、「容器包装の分別収集及び再商品化の促進等に関する法律」(容器包装リサイクル法)が制定されたのである。
さらに、98年6月には「特定家庭用機器再商品化法」(家電リサイクル法)が制定された。この法律は、当初は自治体が処理困難な大型の製品の処理に適用することを目論んで検討されたが、結果的には「家電リサイクル法」と称されているように、大型のテレビ、洗濯機、冷蔵庫、エアコンの4品目に限定されている。
さらに2000年の通常国会には「循環型社会形成推進基本法」、「食品循環資源の再生利用等の促進に関する法律」(食品リサイクル法)「建設工事に係る資材の再資源化等に関する法律」(建設リサイクル法)、「国等による環境物品等の調達の推進等に関する法律」(グリーン購入法)が制定され、再生資源利用促進法が「資源の有効な利用の促進に関する法律」に改正された。また廃棄物処理法も排出者責任の強化などの改正が行われた。
資源有効利用促進法は、事業者による自主回収の義務づけなど、拡大生産者責任の考え方を反映した方向で改正された。循環型社会形成推進基本法では、廃棄物政策に関する優先順位を明記し、後追い処理ではなく発生抑制が優先することが定められた。
個別リサイクル法としては、さらに2002年7月に「使用済み自動車の再資源化等に関する法律」(自動車リサイクル法)が制定された。
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