廃棄物処理の歴史・技術史(焼却技術)
1.焼却施設の沿革
日本で最初の焼却炉といわれるのは、明治30年に福井県敦賀で建設されたものである。当時の敦賀は日本海側第一の都市として発展していたという背景がある。煙突、炉体は煉瓦造りで煙突は四角、3つの炉体があり、1日の焼却量は3000貫(11.5トン)(1891年(明治24)に15キログラムを四貫(一貫=3.75キログラム)と定め、尺貫法の基本単位の一つとした。一〇〇〇匁(もんめ)。貫目。)、煙突高さは6尺(1.8メートル)であった。
焼却炉は固定バッチ式と呼ばれるもので、一日ごとに燃焼を終えて灰を掻き出す方式の炉である。ただ、当時のごみは水分が多くて燃えにくく苦労が多かった。
大正時代には大阪市を中心にごみの焼却技術の研究開発が活発に行われており、固形燃料化や発電なども研究されていたというから、かなり高度な研究開発が行われていた。
大阪は前に述べたように、海洋投棄をしていた。この方法はアメリカなどでも行われていたというから、特別な方法ではない。しかしか海洋投棄かがいい処理法とは言えないのは当然であるから、汚物掃除法の施行とともに大阪市では焼却炉の整備に取り組んだ。
本格的な焼却炉は明治36年に1日26トンの処理能力を持つものがつくられた。京都でもやや遅れて民間の焼却炉に処理委託がはじまり、神戸市では民間から焼却施設の建設を願い出る請願が出されて否決され、直営でやることになったという経緯がある。
このあたりの技術がどこからきたものかは定かではないが、19世紀半ば過ぎから産業革命後の都市問題に対処するために、イギリスでごみの焼却が始まったといわれている。植民地の広がりによって世界中にごみ焼却という考え方が広まったのではないかという説もある。
当時のイギリスの焼却炉はかなり高度な技術をもっていた。単なる焼却だけでなく、炭化炉とか熱分解炉のような技術も開発されて実用化されていたということである。焼却灰や炭化したものは肥料やセメント原料として使われていたという。
日本のごみは水分が多くごみ質が悪いという問題がある。イギリスでは石炭の燃えがらがごみに含まれていたので燃えやすかった。いずれにしても19世紀の半ばから世界的にごみの焼却の技術開発が始まったというこである。日本は技術的に後れをとったが、その理由は開国が遅いということだけでなく、ごみ焼却のような非生産的な技術に対するプライオリティが社会全的に低かったということも指摘できるのではないか。
日本は焼却中心のごみ処理で、最近はこのことについての批判が多いが、近代清掃行政の出発の時点では、世界中が焼却を目指して進んでいたわけで、日本はその路線を進み続けてきたということがいえる。
2.焼却技術の発展
ごみの焼却は、ただ燃料を燃やすボイラーのようなものとは大きな違いがある。第一にごみはそのままでは燃えにくいということである。燃えている火の上にごみをかぶせても、くすぶったり消えてしまうだろう。これをどううまく燃やすかということが技術上のポイントの一つである。
第二に、効率良く燃焼させるためには空気の供給方法が問題である。煙突を高くして、燃焼ガスの上昇気流で空気を引き込むのが自然通風であるが、効率良く燃やすためには空気の供給量をできるだけ多くする必要がある。
第三に、ごみにはいろいろなものが混じっているために、これを攪拌しながら燃やさなければならない。これは人手で火掻き棒のようなものでもって攪拌する以外に、当時は方法がなかった。
イギリスのノッチンガムに1874年(明治7年)に建設された焼却炉が、世界最初のごみ焼却炉と言われている。この炉はフライヤーという人が設計したので、フライヤー式焼却炉と呼ばれる。この炉はろが斜めに傾斜しており、下の方が火格子になっている。上からごみを投入して上段でごみは乾燥されて火格子の上に滑り落ちる。火格子の上では空気を供給されて勢いよく燃える、という仕組みである。
この炉の特徴はごみを徐々に乾燥しながら燃焼させるようにしたことである。火格子の上でごみを攪拌する作業は人手で行わざるを得ないために、炉の大きさには限度がある。そのために大量に処理するためには炉をいくつも並べる必要があった。
その後、この技術に改良が加えられて、火格子の下強制的に空気を吹き込む方法が考えられた。ボイラーで蒸気を発生させてスチームジェットを吹き込む方法が発明され、さらにモーターで送風する方法も開発された。
こうした技術は日本で言えば明治20年代にすでに開発されていたわけであるから、彼我の技術の差は大きかった。現在の日本の焼却炉の技術も当初はほとんどヨーロッパから輸入されたものであるが、故なることである。
日本では大阪市が大正初期に近代的な焼却工場を建設し、その炉を使って様々な実験や研究を行った。
高温焼却、発電、乾留などいろいろな実験が行われてたが、戦争によって中断する。ごみ焼却の科学的研究、焼却炉の開発は廃掃法の制定を機にようやく本格化する。
当時の焼却炉はバッチ炉と呼ばれる固定式の火格子の炉で、ごみを投入して燃焼が終わると灰をかき出し、また次のごみを投入するという方式である。これに対して、ごみを流れ作業のように次々と燃やしていくやり方を連続燃焼式という。
バッチ炉の灰出しとか、ごみの投入をクレーンで行うとか、通風を機械的に行うとか、炉の周辺部分を改良して機械化された。これを機械式バッチ炉と呼ぶ。
バッチ式の炉は処理能力が小さいことや運転面でもいろいろな問題があったため、外国の技術による連続燃焼炉が取り入れられ、現在に至っている。
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