ああ、ブラームス
〜「自立せよ」とブラームスは言った〜
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譜面を手に取って (2004年7月25日 記) |
この情景は、去年(2003年)11月17日、久しぶりに銀座・YAMAHAの地下にある譜面売り場へ足を運んだ時のことです。これまで音楽関係の書籍を買い求めることはあったものの、こんなに音符が書き込まれている、いわゆるクラシック音楽の譜面を手にするのは何年ぶりのことだったでしょう。結局、いくつかのヴァージョンの中から、どうせだからと第一番から第三番までが収められている分厚い譜面を買い求めました。消費税込み8610円なり。 この年の秋、東京・大泉学園にある“ジャズ地酒とおでん(お料理)”のおいしいお店“inF”の店主である佐藤浩秋さんが「ブラームスのピアノ三重奏 第一番」を演奏してみませんか?と私に尋ねました。佐藤さんは聞かれている音楽の幅がたいへん広い方で、殊の外、この第一番が好きなのだそうです。 私はけっこう重厚なブラームスが好きで、武満徹の作品(今のところ、私は自分の葬式には「弦楽のレクイエム」を流して欲しいと思っている)やドイツのアンサンブル・モデルンが演奏する21世紀に作曲された現代曲などに次いで、割合に愛聴していたのがブラームスの交響曲でした。 そもそもは、この年の4月、その佐藤さんのプロデュースによる、翠川敬基(cello)さん、太田惠資(vl)さんと私との3人のセッションが組まれたことがきっかけでした。その日の演奏はすべて即興演奏でしたが、「これはいわゆるピアノ・トリオではないですか」という話になったのでした。 私は太田さんとはこれまでもデュオで、あるいは酒井俊(vo)さんの“四丁目ばんど”などでいっしょに演奏してきています。太田さんは日本のヴァイオリニストの中でも稀有な存在として輝いている人で、幅広い音楽性と対応力を持っている、才能と力のある演奏者です。が、この日の太田さんは「いつにない感じのヴァイオリン奏者になっている」ように感じられ、「今晩のように様々なヴァイオリンの奏法を駆使していた太田さんを初めて聞いたように思う。」と、私は先の日記に記しています。 翠川さんとは比較的大人数のセッションで過去1、2度共演したことがあったと思います。私にとっては、いわゆる日本のフリージャズ界の第一世代にあたる第一人者で、自分などまだまだ共演することなどできない大先輩という認識がありました。この日、翠川さんは生音で演奏され、「ピアニッシモから強い音まで、表情豊かに演奏される。チェロという楽器のなんとも言えない中低音域の深く柔らかい響きに魅了される。」と私は書いています。 私はといえば、いつものように他人の音を聞き過ぎる自分を反省しています。さらに2本の弦楽器の美しい響きに魅せられ、諸所自分は演奏しなかった状態の中で、ピアノという楽器の権威的・支配的な性質を少々疎ましく思いながら、自分のピアノの表現力のあまりのなさに嘆いています。 そしてその後、佐藤さんと太田さんの間で、クラシック音楽をやってみようという話が盛り上がったとのことでした。それはお酒がしこたままわっていた時の話だったらしいのですが。 また、私もこの年、このお店で毎月一回行ってきたデュオ・シリーズで、クラシック音楽畑にいる人たち、例えば平野公崇(sax)さん、村田厚生(tb)さん、松永敦(tuba)さん、神田佳子(per)さんといった人たちと演奏する機会を得ていたことも、今回のことにつながっていると言えるかもしれません。暮れ頃に、来年は何をやろうかと佐藤さんと話をした時の“来年の展開”がこれになりました。 こうして最後に、それまでもクラシック音楽を演奏されてきている翠川さんの参加の承諾が得られて、この3人のメンバーが決まりました。 これが、今回のこと、すなわち“ブラームス・プロジェクト”と名付けられた、公然の秘密のプロジェクトの始まりです。目的はブラームスの「ピアノ三重奏曲 第一番」を演奏すること。約半年後に。ほんまかいな〜。 |
第一章 なんと、人間的な |
揺らいでいる (2004年7月29日 記) |
かくて、自分の誕生日の三日前に手にした譜面により、それからの私が約半年間にたどるであろう、あるいはたどるべき道ができたのでした。この歳になって、このような状況に立つことになろうとは思ってもいませんでした。なにせ人前でクラシック音楽を演奏するなどということは、高校二年生の時のピアノの発表会以来のことで、約30年ぶりということになります。私の頭の中は、もう???でいっぱいでした。 でも、いつまでも???としていても仕方ないので、まずは資料。どんな曲なのかを、ブラームスという作曲家のことも適度にちゃんと知っておかなければなりません。足を運んだ先は図書館やCD屋さん。ジャズ講座(東京・府中市で’97年から5年間に渡って行った講座)を担当した時にお世話になった職員が図書館に移動になっていて、「ブラームスですかあ?」と言われます。CD屋さんのお姉さんにはあれこれ質問しまくって、「こんにちわ、今日は何をお探しですか?」と、笑顔で尋ねられるようになってしまいました。 最初に手にしたCDはジュリアス・カッチェン(p)、ヨーゼフ・スーク(vl)、ヤーノシュ・シュタルケル(cello)の3人が演奏する音源でした。これを聞いてすぐに口に出たのが「だめだ、絶対できない」とため息でした。譜面を机の上に投げ出し、私の目は虚ろに空中を泳いでいました。 次に入手したのがデイム・マイラ・ヘス(p)、アイザック・スターン(vl)、パブロ・カザルス(cello)の3人が演奏しているものです。1952年にモノラル録音されたもので、ライナーブックには「正規録音盤からCD化していますが、古い録音につきお聴き苦しい箇所がございます」などと書いてあります。 ところが私には全然聴き苦しいところなどありませんでした。私の耳はSP盤もしくはLP盤の音を愛する耳になっているらしく、心はすっかりふるえてしまいました。カッチェン・トリオのCDの録音は1978年になっていますから、これも無論LP盤から音源を取ったものですが、ま〜るで空気が違って感じられました。 そしてこの際にと、ブラームスの他の曲、例えば「ドイツ・レクイエム」やピアノ曲、また様々な演奏家が演奏している、他の作曲家の三重奏や四重奏などのCDを買い求めました。が、その中でも、やはりカザルス、アルフレッド・コルトー(p)、ジャック・ティボー(vl)の3人による演奏は、ダントツに揺れまくっていて、「すご〜い」と言ったまま、口が開いている状態になってしまいました。 しかし、これを自分がやるのかと思うと、心の中には薄暗く重たい雲がもくもくと湧いてくるのでした。
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(2004年7月31日 記)) |
私のクラシック音楽上のピアノ歴は幼稚園の時のオルガン教室に始まってはいますが、先生に就いて習ったのは小学校一年生の時から高校二年生の時まで。いわゆるピアノのお稽古を普通にやっていただけです。それもけっこうさぼりながら。というより、クラブ活動(ハンドボール部)と生徒会活動にいそしんでいて、ピアノの練習はそんなに熱心にやっていなかったように記憶しています。 その技術の程度と言えば、赤と黄のバイエルに始まって、ツェルニーの40番を終えた程度。ソナチネを卒業してベートーベンあるいはモーツアルトのソナタ、せいぜいショパンのほんの初めくらいのまでのものでしかありません。バッハのインベンションは小学校六年生の時に途中までやって、中学生になって先生が変わって以来やっていません。 小学校まで習っていた先生はそのまま音高、音大へ、と考えていたことを4〜5年前に知りましたが、中学生になってから就いた先生はそれまでの先生と音楽性が180度異なっていました。振り返れば、技術的な部分は小学校の時の先生に、メロディーを歌うことについては中学校以来の先生に学んだと言えるかもしれません。もし先生が変わっていなければ、私は単純にもっと技術を身に付けていただろうと思います。そして、私の道は大きく変わっていたかもしれません。 でも音高、音大へ進学することは、おそらく自分で選ばなかったように思います。私が学んでいた女子校は同じキャンパスに有名な音大がある学校で、理科の実験をしている時に、パッパラパッパッパー、ブヲーッブヲーッ、とトランペットやチューバの音が聞こえてきたりする環境にありました。 小学校の時には「子供のための音楽教室」に通っている友人がいたり、中学校の時には私たちといっしょに授業を受けずに、当時としても目玉が飛び出しそうなレッスン料を払って、有名な先生に就いている友人が何人もいました。また、珍しい男子生徒が青白い顔をして、決して痛めてはならないであろう指をかばいながら、バレーボールのような体育の授業をしている光景を見ていました。 そうした彼らの姿は、私にはなんだかちっとも楽しそうには見えませんでした。そして子供心に、音楽のことだけ一所懸命勉強していて、ほんとうに音楽のことがわかるのだろうか?と強く思ったことを、今でもはっきり憶えています。良くも悪くも、こうした青春期・反抗期に感じたことは、現在もなお私の中に生きているように思います。 ちなみに、私は大学は文学部に籍を置き、国文学を専攻しました。翠川さんは経済学部、太田さんは医学部出身です。うーん、こう書いただけでも、なんだかどこかあやしげな雰囲気が漂ってきます。 どうも世間の一部の方たちの中には、私にはクラシック音楽の素養があり、バリバリにピアノを弾ける人だと思われている方もいるようなのですが、全然そんなことはないのです。これは別に言い訳をしているわけではなく、事実を言っているまでのことです。ともあれ、そんな私ですので、具体的な作業として「譜面を読む」ということが、まずやらなければならない大きな課題になりました。 にもかかわらず、昨年の晩秋から冬にかけては長いツアーの仕事などもあり、譜面を紐解く時間をほとんど持つことができませんでした。こういう時、ピアニストは実に不利で悲しい状況に陥ります。そりゃ、ホロビッツなどのように飛行機に自分のピアノを2台積んで来れるとか、セシル・テイラーのように有名なピアノ楽器メーカーがスポンサーで付いてくれるとか、世界のトップに立っているような人たちは別ですが。 とにかく、持って歩ける楽器を演奏する人たちは、オフの日でもあれば、ホテルの一室でも川っぺりでも練習することができますが、ピアニストはそうはいきません。譜面を眺めたりCDを聞くことくらいはできますが、まずほとんど実際に練習できる場所に恵まれることはありません。練習するという行為はスポーツ選手のそれと同じで、非常にフィジカルなものですから、実際に指を動かし、繰り返し繰り返し練習すること以外に習得する道はないのです。 ‘97年秋、斎藤徹(b)さんの小松亮太(バンドネオン)さんを加えたピアソラ・ユニットで演奏していた時、1曲だけ作曲家が編曲した譜面の作品がありました。その時は私は非常に忙しく、その曲をまったく満足に練習できずにいて、他のメンバーみんなに迷惑をかけていました。ヨーロッパでの演奏を終えて帰国した翌日からこのユニットのツアーがあり、私は疲れきった身体を横たえながら、ほんとにホテルの部屋で涙をこぼしたことを憶えています。 そんなこんなで、物理的な時間もなく、譜面を積極的にめくる気もあまり湧かず、総譜(ヴァオリン、チェロ、ピアノの音符が全部書かれている譜面)をコピーしたいと言った太田さんに譜面を預けてツアーに出て、年末に譜面は手元に戻ってきました。そうして譜面は机の上に置かれたまま、新しい年を迎えたのでした。 でも、1月のリハーサルまで約3週間。ぼけっとしているわけにはいきません。正月明けから譜面を読み始めたのはいいのですが、これが遅々として全然進みません。この譜読みの作業のあまりの遅さには、翠川さんなどはきっと飽きれ果てていたことだろうと思っています。この場を借りて、あらためて、すべてにおいて忍耐強く支えてくださった翠川さんには心から感謝申し上げます。 こうして、佐藤さんにはめげそうだ、弾けそうにない、などといった泣きのe-mailを入れながら、最初のリハーサル、ライヴに臨んだのでした。その時かろうじて読めていたのは第一楽章のせいぜい3ページ程度だったと思います。やれやれ〜。
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なぜ が (2004年8月2日 記) |
1月23日、最初のリハーサルとライヴがある日。幼少の頃より父から約束の時間の5分前にはその場所に行っていなければいけないと刷り込まれている、ただでさえ律儀過ぎるかもしれない私は、とにかく家を出て大泉学園に向かいました。譜読みができておらず、この曲を演奏できる自信など皆目持てず、重い気分で店の扉を開き、「全然弾けていませ〜ん」と机にうっぷしてしまいます。我ながらいい度胸をしているものだと思いますが。 それでもやれるところまでやってみようということで、第一楽章の最初の方だけ何回か繰り返して練習しました。ちょっと練習させてくださいと一人で弾いている間に、翠川さんは度数付きの水を身体に注入されています。過去にもこの曲を演奏されたことがあるという翠川さんは、私たちの中でももっとも余裕を持って臨んでいます。その様子を横目で見ながら、わ、わ、悪いなあと、気持ちは焦ります。 でも、私にはこれから毎月続いた2人だけの1〜2時間、このチェロとピアノが響いている時間はとても貴重なものになりました。自宅で一人で練習していては決して見えない、聞こえない、感じられないことがたくさんありました。 そしてこの日、何回も弾いたピアノの独奏4小節から始まり、5小節目からチェロが入ってくる、あの美しい冒頭の部分で、たった1回だけ、「ああ、この感じなんだろうなあ」という感触を、このリハーサルで得ることができました。同じ音符を繰り返し弾いているのに、その1回だけでしたが。それは初めて味わう、とてもおいしい果物のような、なんとも言えない香りのような感じがしました。 リハーサルを終えると、なんだかもうすっかりぐったりしています。頭の中が飽和状態になっているのがわかったので、一人で外へ出て食事にでかけました。夜はブラームスとは関係ない、3人での演奏があります。きちんと切り替えなければなりません。 「待てど暮らせど来ぬ人を〜」は、竹久夢二作詞の「宵待草」。宵待草は待宵草というのが本当で、一般的には黄色い花を咲かせる大宵待草(オオマツヨイグサ)が知られています。この大宵待草の花は宵闇迫る頃から咲き始め、翌朝、太陽が完全に昇る頃には萎んでしまい、しかもその色が赤っぽく変色するという特徴があるのだそうです。 ということで、「1セット目はデュオでやって、2セット目は太田のソロにしようか」と言ったのは翠川さん。「それじゃ、あと3分だけ待って」と店主。かくて、ライヴの開演予定時間の夜8時もすっかりまわった頃に登場したのがヴァイオリニスト。なんでも太田さんは某店で朝の7時まで語らっていたそうです。某店とはこのブラームス・プロジェクトのプロデューサーの店ですが。「んなら、幽閉しておけばよかったのに」という大方の意見の一致を見たところで、今晩はすべて即興演奏でライヴをやりました。 案の定、私のライヴでの演奏は最後までいつものような感覚を取り戻すことができませんでした。頭の中が違和感に満たされていて、神経細胞がスムーズに動いていないという感覚でしょうか。
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(2004年8月4日 記) |
自分の中に相変わらず?を貯金しながらも、とにかくみんなに迷惑をかけてはいけない、やれば必ず何かを学べるはずだ、などと思い込みながら、譜面を読む作業が続きます。ここから譜面へのおびただしい書き込みが始まりました。実際にどんどん黒くなって行ったのは4月を過ぎてからになりますが。もし普段クラシック音楽をやっている人がこの譜面を見たら、嘲笑するか、わからない、と言われそうな状態になっています。 五線をはみ出した棒線の下には堂々とドとかレといったカタカナが書かれています。2とか3といった数字もあります。これは指使い。ほとんど幼稚園生のようです。 問題があると思うのは、例えば、嬰ハ長調(C♯メジャー)と変ニ長調(D♭メジャー)は同じことではあるのですが、全然違う、という禅問答のような状況のことを指しています。シャープかフラットか、これは演奏する者にとっては感覚的にまったく異なることで、その意味まで、つまり譜面が伝えようとしている中味や、何よりもなんというか肌触りが違う、ということに関わる重大なことだと思っています。私にはC♯だったら少し尖がった感じ、D♭だったらとても柔らかい感じという風に、どうしても感じられてしまうのです。 余談になりますが、小学校の音楽の時間で、ト長調とヘ長調の曲の感想を書かされた時、私はト長調の曲は光がいっぱい射し込んでいる明るい緑の野原にいるようだ、ヘ長調の曲はとてものどかで穏やかな風が吹く田園にいるようだ、といったようなことを書いたことがあります。無論何の曲かにもよりますが、こう書いたところに、赤いボールペンで先生が?を書いて返してきた時、何故“?”と赤く書かれなくてはならないのだろうと思ったことを、今でもはっきり憶えています。こんな風に感じたりするのは間違っているのだろうか、と。 とにかく、私はあらためて自分が如何にジャズに犯されているかを思い知りました。コード・ネームを付ける、フラットの調に書き換えるなどという暴挙はもとより、少々愕然としたのは、譜面表記上ではG♯mになるものがA♭mに、D♯7がE♭7に、どうしても聞こえてきてしまっている自分を見た時でした。この部分については、練習を積んでいくうちにだいぶ薄まりましたが、それでも自分の中で咄嗟に読み替えたりといったことは残っています。 ジャズという音楽は20世紀にトランペットやサックスといった楽器と共に発展してきたという経緯が強く、そのためジャズを学ぶ過程では、そのほとんどがフラットの調で占められているといっても過言ではありません。デューク・エリントン楽団の演奏などを聞けば感じることができますが、管楽器がもっとも美しく響き合うのは、やはりフラットの調ゆえというところがあります。ですから、エリントンの曲にはフラットが4つ、5つ付く曲がたくさんあります。結局、私もいつのまにかそれに毒されていたことに気づいたわけです。 それに比べて、弦楽器、例えばギターなどをかき鳴らすロックなどの音楽は圧倒的にシャープの調が多いです。そしてヴァイオリンやチェロといった楽器も、開放弦が使えるかどうかでその響きや指の運動が変わってくるようです。ただし、今回のブラームスの作品のようにシャープが5つもあると、その開放弦はほとんど使えなくて、演奏するのがとてもたいへんらしいのですが。 ああ、♭♭♭たちよ・・・ ことのついでに言えば、例えば有名な「枯葉」という曲がありますが、ジャズを知っている人間同士で楽器だけで演奏する場合は、普通は何も言わなくても暗黙のうちにGm、と相場は決まっています。フラットが2つ付くト短調です。でも仮にヴォーカリストの伴奏をやることになって、その人がAmで歌うとします。シャープもフラットも何も付いていないイ短調です。たった一音しか違わないのですが、私にはもうまるで世界が違うように感じられます。 また、例えばピアノの調律の際に「ピッチは442でいいですか?」と聞かれたりする“ピッチ”というものがあります。442というのは、ピアノで言えば真ん中のドの音(一点ハ)からドレミファソラと上がっていったところにある、ラの音の高さを指します。NHKの時報などで聞く音です。 (今回はちょっと専門的な話になってしまいました。よくわからない方はどうぞご質問ください。)
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第五章 「自立せよ」とブラームスは言った |
(2004年8月6日 記) |
2月、家のことでがたがたしていて、家族会議はしなくてはならないし、なんだかんだとあまりに私事がいろいろあって、私はなかなかまとまった練習をする時間が持てないでいました。それは普段の練習や、作曲や編曲のために集中的な時間を作ったりすることとは、少し質が異なっているように感じられました。 実際、こうした練習というものは、生活によっぽどの余裕がなければ、あるいは環境に恵まれないと、とてもできないことを悟りました。お母さんが病気になった、子供の成績が悪い、洗濯だ、掃除だ、夕飯の支度をしなければならない、ローンのお金の工面はどうする、天井から雨漏りがする等々といった、いわゆる普通の日常生活に起こることから完全に切り離された時間を持たないと、とても集中して練習などできないという感じでしょうか。 そんな身体をひきずって2月20日の2回目のリハーサルに向かいました。「とてもこの曲をできそうにないので、降りたい」と言ったのはこの時だったと思います。 そしてさらに課題は増えたのでした。翠川さんから渡された新たな譜面は、ヘンデルの「チェロ・ソナタ」でした。さっと手渡されて、ブラームスの作品よりは初見である程度は弾けたものの、書かれている音符を弾く作業には変わりはありません。 これは、ブラームスの「ピアノ三重奏曲 第一番」を演奏する当日のプログラムは、前半・後半ともクラシック音楽だけを演奏する日にすることが決まったためです。考え方として、半分はブラームス、半分はいつものライヴのように即興演奏、あるいは何らかの曲があっても自分たちで自由に演奏できるものを、といった話もないわけではなかったのですが、いわゆるフリーで演奏すると、もう指が譜面通り弾くクラシック音楽には決して戻らないということから、すべて譜面のある音楽をやる、ということになったものです。 こうして、私も太田さんも、それぞれ他に1曲何かを持ってくる、ということになりました。あ、あ、あと3曲も譜面を弾かなければならないのかと思うと、私の憂鬱の霧はますます濃くなっていくのでした。 ところが、リハーサルをしている途中で、何故だか今でもまったくわかりませんが、一瞬、私の周辺が真っ白になりました。そして声が聞こえたのでした。 「自立しなさい」 瞬間、あっ、譜面の向こうからブラームスが言っている、と感じてしまったのです。それはこの曲を弾くには私の演奏技術が追いついていないというという現実に対する叱責というのではなく、何かもっと別の私に対する呼びかけのように思えました。この話、決して作っていません。ほんとうのことなのです。そしてこれ以降、これはいったい何なのだろう?ということが、私を突き動かしていきます。 この不思議な感覚は、私に「挑戦する」という気持ちを少し起こさせるものになりました。 この日の夜のライヴは完全な即興演奏だけではなく、少し曲もやろうということでその練習をしたりしたので、結局ライヴが始まる20分くらい前までリハーサルをしていたのではなかったかと記憶しています。当然疲れていましたが、前回感じたような違和感が多少あったものの、なんだかだいぶ違った感覚で演奏することができたように思います。 さらに、人にはわからなかったとは思いますが、この頃、ブラームスの曲を練習することで、どうも自分の演奏が少し変わってきているような感触を受けていたのも事実です。特に誰かとデュオで演奏する機会を得て即興演奏をしている時に、その影響が出始めていることを、演奏しながら自分で気づくことがしばしばありました。かつて自分はこのような左手の使い方をしていなかったのではないか、こんな音の立ち方をしていただろうか、それに構成力の変化、すなわち場面を展開する際の持って行き方などにおいてです。 |
(つづき) 帰宅して、買っておいたブラームスの伝記(『大作曲家 ブラームス』/ハンス・A・ノインツィヒ 著、山地良造 訳 音楽之友社)を読み始めました。少々読みづらいなあと感じながらもページをめくると、最初の“ブラームスの世紀”というところには以下のようなことが書かれていました。 「1833年に生まれ、1897年に世を去ったヨハネス・ブラームスは、あらゆる面から見て19世紀という時代の子であった。彼の生涯における最も重要な成長期と創作期は、19世紀の後半に相当しているが、それは市民的個人主義の時代であり、その頂点は<会社設立ブーム時代(Gruender Zeit)>にあった。」 (中略) 「ブラームスが絶えず直面しなくてはならなかったのは、<業績>に対する自分自身の要求から生じてくる、何とも鎮め難い不安であった。彼はその意味でまさしく彼の世紀−個人主義の世紀−の生き写しであり、この時代に特徴的だった、市民としての安穏な生活を送りたいという気持ちと、一つの地に定住しない自由な生活への彼の逃避本能との矛盾を内面に抱えていた。彼の友人でヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムが作った<F・A・E>(自由に、しかし孤独に)というモットーや、ブラームスがその順序を入れ替えて作った<E・A・F>(Einsam aber frei/孤独に、しかし自由に)は、個人主義に基づく葛藤を表現したものである。」 とりあえずこれらの文章を鵜呑みにして読んだ私は、そっかあ、ブラームスは個人として自立しろと、ピアニストとして自立しろ、と私に言っているのだと、まったく勝手に納得したのでした。 (話は少し横にずれますが、上記の文章を読んで思い浮かんだのが、二葉亭四迷の未刊の作品「浮雲」の文三、あるいは夏目漱石の作品「それから」の代助、のことでした。それまでの日本にはなかった、いわゆる近代的自我あるいは個人主義といった概念に向き合って闘った、明治時代(1868年〜1912年)の作家たちのことでした。ちなみに、私の卒業論文は夏目漱石の作品を扱ったものです。) かつて私は小室等さんから「君は出自がわからない」と言われたことがあります。たいていの人は、例えばハンコック風とか、ドビュッシー弾きとか、なんらかの影響なり、誰それ風というのを感じるものだけれど、私にはそれがないと言うのです。 私が問題にしてきたのは、常に他ならぬやっかいな「自分」というものでした。平たく言えば、自分らしく在るにはどうしたらいいのだろう?では、自分らしくと言った時の、自分とはいったい何なのだろう?といったようなことです。言い換えれば、自己実現への希求、自分が存在することの意味を探る、といったことになるかもしれません。ちなみに、私はまず自分を問題にしていない人、自分にきちんと向き合っていない人は、音楽家としてはだめだと思っています。 とはいえ、優れた芸能論である「花伝書」の中に書かれているように、畢竟「花とて別になきものなり」という考えがあるのも事実です。若い時は、自己表現とか自己実現といったことに非常にこだわっていましたが、ある時から音楽は自己表現の道具ではない、と強く思うようになり、私にとって音楽はもっともっと大きいものになりました。 そんな風に考えるからでしょうか、その考え方、感じ方の出発に、エリック・ドルフィーの音の在り様、その音楽との出会いが、私には決定的な意味を持っていたと思っています。私にとってジャズという音楽はジャンルやスタイル、フレーズといったものでは決してなく、どうしようもない人間の存在や、まったくの個人が発するぎりぎりの声のようなものが聞こえてくる音楽としてあります。別にジャズに限ったことではないのですが。 そして、譜面に書かれていない音楽をやること、何も約束事がなくて自分が真っ裸になるような状況に立たされて音楽をやること、すなわち、即興演奏は「自立(あるいは自律)」していることが前提として出発すると思っていますが、ブラームスはこの根本的な「自立」の部分に問いかけてきたのだと思います。 ここに書いていることは相当な理屈です。きわめて一人合点、甚だ自分勝手だと思います。でも、私にとってはこれは大きな収穫でした。 順序が逆じゃないの?と思われる方もいると思いますが、仕方ありません。これが事実で、私がたどったプロセスでした。うーっし。
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第六章 とのまくんになりたい |
(2004年8月7日 記) |
3月になっても、私の譜読み作業は遅々として進んでいませんでした。リハーサル&ライヴがある前の週は比較的時間が取れて、ほぼ毎日5〜6時間は譜面に向かいました。が、それでも第四楽章にはまったく手が届かず、それまでの楽章さえも虫食いだらけながら、なんとかさらっているのが実情でした。 練習しているうちに、ほんとに自分は下手くそだと嘆き、そのうち自分の調性感が狂ってくるわ(♭への読み替えのためです)、椅子から立ち上がってわめくわ、家の中を歩き回るわ。左手の指は動かず、昔から不得意なアルペジオは弾けず、跳躍する音に頭と手が追いつかず。ダブルシャープを読解し、ちょっとトリッキーなリズムの部分で興奮し、十度の音程をどう弾くか考え。挙句の果てに、“とのまくん”(漫画「ドカベン」)のように指と指の間を切ることを想像したり。細かい譜面を読んで頭痛に悩まされ、いやあああ、ほんとにどうにかなりそうな様子でした。 そしてこの段階で、これ以上二人に迷惑をかけるようだったら、ほんとに降りたほうがいいのではないかと再び思い悩みました。 では、それでは自分はどうなのだ?と我が身を振り返りました。他人のことをとやかく言っている場合ではない、最後まで努力をするべきだ、いや、今あきらめればみんなに迷惑をかけなくても済むかもしれない、という両方の気持ちが葛藤していました。どちらかというと、ここで降りてしまうのは悔しいという思いと、一度引き受けたものを撤回するような無責任なことをしてはいけないという意識が非常に強かったのは確かですが。でも、それくらい私は情けない自分と、その技術の限界をひしひしと感じていました。 相変わらずそんな自分をうだうだとひきずりながらも、ともあれもう1曲ということで、私はシューベルトの「ピアノ三重奏曲 第一番」の第二楽章だけを抜き出して演奏してみたいのだけれど、と提案しました。当初、こういう曲は全楽章やって成り立つものだから却下、という意見があったのですが、結局翠川さんが折れてくださり、本番で演奏することになりました。
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第七章 関係は進化する |
(2004年8月8日 記) |
3月23日、リハーサルの後に行われたライヴは、私にはたいへん印象深いものになりました。 この日は何も決め事がない即興演奏の他に、曲を4曲程取り上げて演奏しましたが、例えば太田さんが提示した、3人で初めて演奏した、チャーリー・ヘイデン作曲の「ラ・パッショナリア」という曲。譜面はといえば、一応二段譜になっていてコード進行も書かれているのですが、それは演奏してもいいし、しなくてもいい、というスタンスです。で、通常ジャズをやっている人たちとだと、アドリブはどういうコード進行にしようかとか、リズムはこうしようとか、事前に話したりすることがほとんどです。 正直に言えば、すべて即興演奏で行った1月のライヴを終えた後、このまま毎月“即興”を続けていたら、早晩息詰まるのではないだろうかと、私は思っていました。クリシェやパターンに陥るのではないかと。 一人の人間ができることは、また音楽的に一人の人間が持っているもの、箪笥の引出しのようなものは、そうそう多くはなく、何も決め事のない即興演奏は、すぐに実は何もない自分に直面することになると私は考えています。別の言い方をすれば、即興演奏はすべてが許され、すべてを選択できる自由があるわけですが、すぐに不自由の壁につきあたると思っています。そういう意味では、翠川さんもよく言っておられるということでしたが、即興演奏に幻想は抱いていません。 そしてとどのつまり、その人の“人間”の大きさや深さ、考えていることといったものに、その音楽の内容は比例するように感じています。あるいは、どれくらい自分の耳を、自分自身を鍛えているか、ということに。 そういう意味では、こうした文脈で考えられる即興演奏というものは、出会いの新鮮さや面白さと同時に、その関係性という問題も含めて、常に馴れ合いや息詰まる道への危険も孕んでいるのだろうと思います。なにせナマモノですから、その日の天気、体調、気分、お客様の様子、またお客様自身(聞き手)の状態など、前回とは違う様々な因子が変化をもたらすことも多々ありますが。 そして2月のライヴでは確か即興演奏の他に、曲を2曲くらいやったのではなかったかと思います。あるテーマなりメロディーのある曲をやることが、即興演奏のための素材あるいは道具になることが良いことか悪いことかは別として、道標のような役割を果たすことにはなっていると思います。演奏の動機付け、きっかけのようなものでしょうか。 とにかく、もともと太田さんも翠川さんもたいへん力のある演奏家ですが、3月のライヴでこの3人が創り出した音楽の世界は、今、この日本にはないのではないだろうか、と本気で思ってしまうほどでした。決して狭隘な自己表現などに陥っていない、そこにはただ豊穣な音楽があった、という感じでしょうか。出会いから、こうしたプロセスを経てやってきているトリオで、ちょうど“旬”だったのかもしれませんが。いえ、まだまだ慢心してはいけませんね。 ということを確実に感じられるものがあって、この日、依頼が入っていた8月の四国・愛媛県城辺町で毎年行われているジャズ・フェスティバルに、このトリオで参加することを決めたのでした。いえ〜い!
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第八章 ためされる指 |
(2004年8月9日 記) |
3月のライヴを終えた頃、私はブラームスの譜面をコピーして、どこに行くにも肌身離さず持ち歩くようになりました。これは覚えなくては弾けない、と判断したためです。電車に乗って窓越しに外を眺めながら、頭の中で音符と架空の指の動きを描き、それが途中で止まるたびに、実際の譜面を見て確認する、といったことが始まります。こういうことをしていると、すぐに降りる駅を逃してしまいます。 譜読みは第四楽章に突入していましたが、これがまた弾けません。たった4小節を弾くのに2時間もかかったりしています。もう自分でバカヤローなどと叫びながらの作業です。一度ピアノの前に座って、5分くらいの休憩を少しずつ入れながら集中力を保てるのは4時間がぎりぎりという感じでした。その後はしばらく放心状態になります。 4月上旬、イラクで邦人が拉致される事件が発生しました。テレビを見ていて、なんだか遠い世界のことのように感じている自分がいました。普段は決してこんなことはないのですが。普通の練習や作曲・編曲作業をやっている時は、いわゆる社会や世界で起こったできごとは、自分の音や考えになんらかの影響を与えたり、それが反映されたりすることもあります。が、この既に他人の手によって書かれている譜面を弾くという作業は、なんだかおそろしく社会から隔離されている時間を持つことのように感じられました。無論私がこういう作業に慣れていないということもあると思いますが。 そして4月半ば頃、私はたまたま約100年前(1989年製)のスタインウェイを初めて弾く機会に恵まれました。スタインウェイは現在世界一と言われているピアノ・メーカーで、このピアノの型はもっとも小さいものですが、その姿はこのうえなく美しいものでした。ピアノの譜面台、脚、金属フレームの部分などには装飾が施されています。 ついでに言えば、’90年代初め、初めてドイツのフェスティバルで演奏した時、私はベーゼンドルファーのインペリアル・コンサートグランドピアノを初めて弾きました。ベーゼンドルファーはスタインウェイと並ぶ世界のブランドです。インペリアルというのは通常のピアノは88鍵ですが、さらに低音に黒い鍵盤が付いている、ばかでかいピアノです。この時は確か92鍵だったと思います。 私はその約100年前のピアノの前に座ります。小1時間くらい弾いてみたでしょうか。前もって聞いていたように、鍵盤の深さは少し浅く感じられます。もともとスタインウェイはヤマハなどのピアノに比べると浅いのですが、かなり浅く感じられました。 結果を先に言ってしまうと、この時、私は調律師の方にためされました。これはあとの打ち上げの際にご本人から知らされました。びっくりすると共に、一瞬呆然としました。幸いその日の演奏は多くの方から喜ばれたものになりましたが、もし自分の指と耳が調律師の方がわざとそうしていた部分を感じていなかったとしたら、そう思うと、ぞっとしました。もし私が感じたことを告げていなかったら、おそらく演奏をする前に私はダメなピアニストとしての烙印を押され、仮にそのことを知った人たちは、そんな私が奏でる音楽を聞く気にもならなかっただろうと思います。 このできごとはそれから約一週間、私の頭から離れませんでした。愉快なのか不愉快なのか判然とせず、どうももやもやとしています。自分が調律師の方に故意にされた行為はいったい何だったのだろう? その調律師の方は調律する前に、これから演奏するグループがどんな音楽をやり、ピアニストがどんな演奏をするのかを知りたいとおっしゃったと聞いています。それでCDを聞いたりされたそうなのですが、あいにく私が参加しているものではありませんでした。 もし私が普段から非常に粗野な演奏をしている者だったら、あるいは通常あまりピアニッシモなどに気を遣うことがないジャズだけをやっていたら、さらに後日別の章で書くことになると思いますが、某調律師の方に出会っていなければ、私の指は何も感じなかっただろうと思います。そしてブラームスの練習をしていなければ。しっかし、人生、実にいろんなことがあるもんじゃ〜。
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ぼくはほとんど天然素材でできている (2004年8月10日 記) |
4月15日、inFでのリハーサルとライヴがありました。この日のライヴもまた印象深いものでした。1セット目に先月やった「ラ・パッショナリア」を演奏したのですが、演奏内容はその時の演奏とは見事にまったく違ったものになりました。同じメンバーと演奏していて、なかなかこんな風にはいきません。 そして、この日の深夜、いつものように残ったお客様たちと談笑する中で、このトリオは四国のジャズ・フェスティバルにも出演するし、“ブラ・プロ”では一般には通らないのではないかということで、その名称をどうするかが話題になりました。 また、あと2回の練習だけではとても無理だろうということで、7月17日(土)にお披露目会をすることが決まりました。この日はちょうどこのお店が10周年目に突入する誕生日で、それを祝福する喜ばしい日にもあたっています。 でも、約100年前のピアノを弾いて以来の私は、今度はピアノという楽器に直面していました。そもそも、では100年前のピアニストはいったいどういう弾き方をしていたのだろう?という単純な疑問が生じました。さらに、それでは、ブラームスが生きていた時代のピアノはどんなピアノだったのだろう?ブラームスはどんな弾き方をしていたのだろう?と疑問はどんどん膨らんでいきました。 そういえば、あのピアノを持っている方は「このピアノは指を平らにして弾くことができる」と言っていました。おそらく、例えばセロニアス・モンクのように、指を平らにして演奏する弾き方だと思われます。私は幼稚園の時にピアノを習い始めたわけですが、当時はいわゆるおむすびが入るような感じで指を曲げて、鍵盤に対して指は垂直にしなさい、云々と習いました。 また、あのピアノの弦はすべて張り替えたけれど、ハンマーなどはそのままだと聞いていました。当然フェルトなどは消耗していると思われますが、フォルテが出ない、弱音ペダルがあまり機能しないという状態は、当時のピアノが置かれていた環境や、必要とされた音量などに見合っているのではないかとも思われてきました。そのピアノを現代の奏法に合うように整調するのが、果たしてあのピアノに合っていることなのだろうか?とも。とはいえ、今、生きている音楽を奏でてこそ、音楽だとも思え。 あ、‘98年3月、ドイツ国内での公演を終えて、ウィーンへ渡った時、古楽器集庫館(Sammlung Alter Musikinstrumente)を訪れたことを思い出しました。そこにはものすごい数の楽器があって、確かベートーヴェンが弾いたというピアノや、ブラームスが弾いたものも展示されていたように記憶しています。閉館時刻まであまり時間がなかったので、ゆっくり見ることができなかったのですが、今の意識で見ていたら、もっと楽しかっただろうなあとつくづく思います。 それで、『ピアノの誕生〜楽器の向こうに「近代」が見える〜』(西原 稔 著/講談社選書メチエ)を再び読み返したりしました。この本は単にピアノの製造の歴史をたどっているだけではなく、 「ピアノは技術革新と市場開拓が連動して普及していった楽器である。このことがピアノに比類ない“社会性”をもたせることになったのである。(中略)つまり“商品”として登場してきた最初の楽器だったのである。自動車が出現する以前の社会においては、ピアノこそがステイタスと富を、人々に直接実感させる品物であった。」 「19世紀において、ピアノはなんといっても富める者の象徴であった。ピアノの普及といわゆる“中産階級”の台頭とは軌を一にする。しばしば定義のあいまいな、この階層こそがピアノ文化の担い手であった。」 といった風に、ピアノは近代化(文明化)と富裕の象徴という視点から、ピアノの歴史を振り返ることは、今日に連なる近代の縮図を見ることにもつながることになる、さらにそれは自分たちの問題でもある、という考え方で、論考が進められています。無論、日本でのピアノの受容、浸透についても書かれています。 振り返れば、私が小学生の頃、ピアノを習っている子は1クラスに2〜3人程度しかいなかったと思います。今から10年前くらいのことだったでしょうか、薄茶けた月賦表がひょっこり出てきたことがありました。私が幼稚園の頃に、両親が買ってくれたアップライト・ピアノの月賦表でした。私の父はごく普通の会社勤めをしていた人で、その月賦を毎月払うのはとてもたいへんだったことを初めて聞きました。で、何故ピアノなんか買ったのかと尋ねると、「あなたは音感が良かったから」などと言われたのですが、それがよもやこんな私につながるとは誰も思っていなかったと思います。だからこんなになっちゃったんじゃないの〜。 さらに、たまたま4月下旬、NHKでアンコール放送された『プロジェクトX〜ピアノへの執念〜』という番組を見ました。これはとっても面白く、私はすぐさま以前買っておいた本のことを思い出し、そこに出演していた調律師さんが書いた本『いい音ってなんだろう』(村上輝久 著/ショパン)を夢中になって読んでしまいました。これもまた実に面白く、いろんなことに驚き、刺激を受けました。そしていかに自分がピアノという楽器に対して無知であったかを痛感し、自分はまるで赤ん坊か幼稚園生のようであったことをしみじみ反省しました。 ここでその内容を語っていると長くなるので、多くのことは書きませんが、巨匠と言われるピアニストたちがいかに繊細な指と耳を持っているかを知るに及び、自分を振り返った私は、もう自分の足元から煙が出て燃やされるような気分になりました。 ある時、リヒテルから「このピアノは弾き易すぎる」と言われた調律師は鍵盤の下の紙パンチングを抜きました。そして、思い切ってタッチを微調整し、「弾きにくく」することを決意して作業に入ったそうです。「鍵盤の深さを紙1枚ほど(0.2ミリ)深くし、打弦距離(ハンマーと弦の間隔)を1ミリ広げた。」と本には書いてあります。 また、ミケランジェリの調律をした際の記述の中には、「まず鍵盤の深さの精度。一般的には白鍵の深さすべてを10ミリに調整するが、ミケランジェリの要求は、次高音部から高音部にかけて、やや浅めを希望。(約0.1ミリのペーパーパンチングを鍵盤の下に入れる程度。)これに伴ってハンマーの弦への接近、打弦距離も0.5ミリほど縮める。他にグランドピアノ整調基本は24工程あり、音色・音量を聴きながらこれらの工程を必要に応じてチェックし、手直しをしなければならない。」 この本には、そうした実に繊細な指と耳を持った、妥協を許さない我儘なピアニストたちのこと、それに対応するこれまたものすごく繊細な耳と非常に細かな技術を必要とする調律師という仕事のことが、様々なエピソードが交えられながら書かれていました。 恥ずかしながら、今頃になってこうしたピアノの構造のことなどを知り、巨匠たちの指の感覚がいかにすさまじいものであるかを知りました。そして、この私の指はそうしたことを感じることができるほど成熟していないであろうことを思うと、ほとんど絶望的な気分にさえなりました。ピアノは猫が鍵盤の上を歩いても音は鳴りますが。にゃーん、ぽろ。 そして4月末日、現在私がもっとも信頼している調律師である辻秀夫さんに、本番当日の調律をお願いしたいとプロデューサーの佐藤さんに頼み、辻さんに引き受けていただくことになりました。んー、頼んますっ。
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これはちがう (2004年8月11日 記) |
5月の初め、あろうことか掃除をしていて右手中指を突き指したか、筋を違えてしまったようでした。こころなしか第二関節のあたりが少しふくらんでいるような気がします。ふとした時にずきっと痛み、普通にしていても少し違和感があります。突き指なんかしてる場合じゃないだろっ、と自分に言い聞かせます。 そんなこともありながら、なんとかブラームスが譜面に書いた音を拾い、読めてきたかなと思っていたら、次に待っていたのは、どんな表現をすればよいのかわからない、という迷路でした。 ピアノに向かえば向かうほど、わからないことが次々に出てくるような感じでした。自分が椅子に座っている姿勢までわからなくなってきました。そのたびに椅子の高さを調節したり、位置を少し前にしてみたり。まるで混迷の暗闇にいるようでした。 こうじゃない、ああじゃない。何回やってもちゃんと弾けない箇所には、大きくバッテンが付けられています。そこだけを繰り返して練習します。それでも弾けません。 また、音を確かめながら両手でゆっくりとしたテンポで復習し、そのたびに間違って弾いていた音を見つけ、やり直し、覚え直します。運指(指をくぐらせたり、広げたりすることで決まってくる指の動き)や手の形を、身体に覚えこませます。 第一楽章の出だしの4小節などは、いったい何回弾いたことかわかりません。100回以上はゆうに弾いていると思います。それでも「ああ、これだ」と思えたのはほんの数えるほどです。 そうやって時間さえあればピアノに向かっている毎日を送っていました。昼夜を問わず、少ない時は2〜3時間、多い時で8〜9時間くらいは練習していたと思います。無論、ブラームスなどの練習だけしていればいいような状況にはありませんでしたが。 私の場合、夜な夜なジャズ・クラブに行って演奏して帰ってくればいい、そのための練習だけしていればいいという仕事だけしているわけではなく、前もって調べたり考えたり、作曲・編曲をしたりといった作業を伴う仕事も多々引き受けています。3月末の子供ミュージカルでの稽古指導や本番での演奏、5月初めの栃木県立美術館の企画展(エミール・ノルデ展)での演奏、6月初めにはドイツ文化会館での無声映画を上映しながらの生演奏など、即興演奏という方法を取ったとしても、前準備はしっかりしておかなくてはならない仕事がけっこうあります。 そして5月17日夜、仕事をしている最中に、猛烈な坐骨神経痛に見舞われ、歩行も困難なくらいの痛みが腰から、お尻、足先まで走るような状態になってしまいました。こんなことは初めてでした。 それから二日間、終日寝込むはめに陥ってしまいました。これは尋常ではないと感じ、西洋医学の医者に行ってレントゲンを撮ってもらったりもして、腰の骨に少し問題があるらしいことはわかりました。が、結局、西洋の医者は何もしてくれませんでした。だいたいそんなものですが。痛み止めの薬も眠くなるということだったので、それでは困るため、一粒も飲まずにこらえました。 そのうち今度は4月半ば頃から少し痛み始めていた左手の薬指と親指の関節が、本格的に痛くなってきました。いずれも中高時代にやっていたハンドボール部にいた時に痛めたものです。なにせこのクラブはいつも人数がぎりぎり、もしくは他の運動部から人を借りて試合に出ていたような弱小クラブだったので、練習を休むことができなかったのです。突き指しようが、脱臼をしようが、捻挫をしようが、グランドに立ってボールを投げては走っていなければなりませんでした。そのおかげか、高校3年生の夏には関東大会には出場したのですが、そのしっぺ返しがこんな時に現れてくるとは思ってもいませんでした。 マッサージの先生に「なんとかしてくださーい」と懇願しても、根本的な治療ではありませんから、「長時間、同じ姿勢を保っているのが非常によくない、運動しなさい。」「とにかく休みなさい」と言われます。 ピアニストの場合、座っているから楽じゃないかと思われる方もいるかと思いますが、人間、なんでも腰は重要なようで、私が考えるに、どうも足でペダルを踏むことと大いに関係があるように思われます。 そして、とにかく同じ姿勢を長時間ずっと取り続けているのが非常によろしくないようです。他の楽器を演奏する人の姿を想像しても、けっこうみんなアンバランスで身体を酷使しているように思います。 さて、5月31日、ともあれブラームスの全楽章を通してやってみたのではなかったかと思います。が、リハーサルを終えて、 「これ、ほんとにできるの?」とは翠川さん。 ということで、7月の本番前に、ゲネプロも兼ねて練習日を別に2日間設けることになりました。奇跡的なことに、太田さんは本番前の前日は仕事が入っていますが、その前の三日間は仕事が入っていないということでした。私にいたっては、なんと7月に入るとこの本番まで1本も仕事が入っていなかったのでした。これはもうブラームスが、あるいは天の声が「練習しなさーい」と言っているとしか思えない状況にありました。 この日のライヴでは1セット目には翠川さんが提案された富樫雅彦さんの曲を演奏しました。富樫さんの曲は独特な雰囲気を持っていて、非常に美しいものでした。2セット目は即興演奏から始まり、私が作った簡単な曲と「ラ・パッショナリア」をやりました。この時も1セット目はよかったように記憶していますが、よく憶えていません。
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第十一章 同時代人としてのブラームス |
恋をすれば (2004年8月11日 記) |
6月に入っても、練習のペース、身体の調子はたいして変わりませんでした。さすがに1日に8時間練習すると身体には相当堪えました。それでもまだ弾けないでいるところがたくさんあります。全部を通してつっかえずに完璧に弾けているとは到底言えない状態です。ともあれ、えっちらおっちら練習していました。 6月のリハーサルの前には、太田さんと連絡を取り合い、お互い、その夜の仕事を終えた後に、真夜中の3時半頃まで練習したりもしました。始める前に、かつてお父さんたちの間で話題になった、ハッチポッチ・ステーションのグッチ裕三がパロディーで歌っている、Deep Purple、EW&F、Queenなどの曲を聞き、大笑いをしてから。 また、調律師の辻さんには私宅のピアノの調律にも来ていただきました。いつものように掃除機から始まり、とても誠意ある仕事をしてくださり、たいへん感謝しています。 現在私のところにあるピアノは、普通に働いていた時(出版関係の仕事をしていました)に一所懸命貯めて自分で買ったグランド・ピアノで、新品で買って今年で15年になるものです。 かつ、私はピアノという楽器について、実に多くのことを、この辻さんから学んでいます。いろんな場所で演奏して、様々なピアノに出会うようになった私ですが、ピアノという楽器への疑問がわくと、辻さんにあれこれ伺って面倒をかけています。ピアノの足の下に敷かれるインシュレーターの質やその有無、その足の先に付いているキャスターの向き、これだけでも音はものすごく変わります。こうしたことは少なくとも十年前の私はまったく意に介していませんでした。 そして、ほんのちょっとだけ、辻さんにブラームスの一節を聞いてもらったところ、「ええっ、ほんとにこれ弾くのお?」とのけぞられてしまいました。’90年代初めに辻さんと出会って以来、コンサートやレコーディングなどの時には、可能な限り(大きなホールだと、決まった業者や調律師が付いていることも多いのです)、私はすべて辻さんにお願いしてきているのですが、そのたびに非常にご苦労をかけています。すみませんが、なんとかひとつ、と私ができることは頭を下げること以外にはありませんでした。心からの信頼とともに。 付け加えれば、ピアニストにとって、調律師さんは“命”だ、と私は思っています。ピアノは自分で調律できない唯一の楽器と考えられますが、それゆえに、ピアニストと調律師のコミュニケーションはとても大切だと思っています。 “鉄腕アトム“という手塚治虫の漫画がありましたが、アトムが壊れて帰って来たら修理をしたり、エネルギーを充填してあげるお茶ノ水博士が調律師とすれば、そのお茶の水博士の力で、元気に空を飛び、活躍するアトムがピアニスト、といったイメージでしょうか。アトムはお茶の水博士がいなければ、決して世のため人のために働けないのです。 さらに、そこにある、そのピアノがどれくらい愛情を注がれていて、そこに在るか、ということも、私は大事に思っています。ピアノを持っている人、管理しているお店やホール、調律師さんの努力、コンサートを企画したスタッフなどなど、一つのコンサートを実現するのには、それこそたくさんの人の手と膨大な時間がかかっています。その愛情やエネルギーの大きさや重さを感じると、私の心はその愛情に応える演奏をしようと奮えます。演奏者は常に表の舞台に立つことになるわけですが、その背後に、如何に多くの人の支えがあるかについて、常に謙虚であるべきだと思っています。 6月25日、リハーサルが終わると、否が応でもなんだか緊張感が漂っていたような気がします。本番まであと約3週間。そしてこの日のライヴでは1曲だけ即興演奏はしましたが、あとは全部曲を演奏しました。ヒンデミットの曲の一部分をモティーフにして作られた曲はなんだか面白かった気がします。このように新曲もいくつかあって、演奏内容の感じもこれまでとまたちょっと違った局面があったような印象が残っています。 6月末、私は四国・香川県は丸亀にある“丸亀市猪熊弦一郎現代美術館”で演奏しました。 ああ、4日間もブラームスが弾けないと思いながらの旅でした。が、演奏は楽しく終えることができました。丸亀駅に降り立つと、いきなりユニークなオブジェが目に入ってくるこの美術館は、建物の造りがゆったりしていて、どこかにユーモアのようなものも感じられる、とてもすてきな美術館でした。そして、猪熊弦一郎さんの作品もたくさん見ることができました。非常に自由な発想を持った作家であったことは、その作品を見るとすぐに感じることができました。 その美術館で、私は3冊ほど本を買い求めました。その中の1冊に、『カメラの前のモノローグ 埴谷雄高・猪熊弦一郎・武満徹』(マリオ・A 著/集英社新書)があります。これは外国人写真家がこの3人に試みたロング・インタビュー集です。 猪熊さんはその冒頭の「骨董的世界にいる日本画」というところで、「日本人が描けば日本人の絵でいい。」と言っています。これは日本人が描くのに日本画というのはおかしい、また日本人が描くのに洋画というのもおかしい、西洋のスタイルで描いているから洋画というのもおかしい。ドイツにはドイツ画なんてない、イタリア画もない。「絵」でいいじゃないか。その手法を用いて、膠画をやっているとか版画をやっているとかいうならまだしも、というものでした。考えてみれば非常にあたりまえのことだと思うわけですが。これは絵画に限らず、音楽やその他の芸術にもあてはまるようなところがあるように思われます。 そして武満徹さんはこんなことを言っていました。このインタビューは’92年9月に行われていますから、武満さんが亡くなる’96年の約3年半くらい前ということになります。 「最近、ブラームスに夢中になっちゃってて、皆に笑われてますけれども。今頃、ブラームスがいい、って言うのか、って言われて。」 「なんていうんだろう、あれだけの音楽としての骨格というか、構築力っていうの、作り上げる力、論理っていうのかな、とてもわれわれにはないもんだし。それは、もしかしたらなくてもしょうがないことなんだけど。でも今頃になって、僕はベートーヴェンとかバッハとかブラームスとか、そういう人たちの音楽の力っていうか、芸術としての力、決して古くなくって・・・それこそ、ブラームスは同時代人だ(笑)、とつくづくとそう思っていますね。」 それを読んだ私は、私の周りがぱあっと明るく開けたような気持ちになりました。これは別にとても有名な人が言っていることを引用して、自分がやっていることを偉そうに正当化する気になったなどという愚鈍な話ではありません。私はこの言葉からとても勇気をもらった気がしたのです。自分は間違ったことはしていなかったのかもしれない、というほのかな希望のようなものを感じたのです。 実は、練習を積んでいくうちに、私はこのブラームスの曲がとても好きになっていました。この「ピアノ三重奏曲 第一番」は1854年、ブラームスがなんと21歳の若さで作曲しています。その後、亡くなる6年前にあたる1891年、58歳の時に改訂され、現在ではこの改訂されたものが演奏されることがほとんどになっています。 だからでしょうか、例えばここはピッコロが聞こえてくるとか、弦楽器が束になって響いているところだとか、金管楽器が高らかに歌っているところだとか、ピアノを弾きながら、私にはそんな風に感じられるところがたくさんあります。そしてつくづくピアノはオーケストラのようだと思わずにはいられませんでした。 また、ブラームスは20歳の時に、リストやロベルト&クララ・シューマン夫妻に出会っています。そしてその年にシューマンは論説「新しい道」を書いて、ブラームスを新世界の巨匠として世の中に紹介しています。その翌年、シューマンはライン川に身を投じて一命はとりとめたものの精神病院に送り込まれますが、この頃からブラームスのクララ・シューマンへの想いは恋の情熱へと高まっていきます。 そんなことを思い浮かべると、この曲の各楽章の流れ、全体を通して見た時の流れは、なんだかもう溢れ出るロマンティシズムと、期待、不安、喜び、失望などが交錯する色彩をにわかにおびてくるように感じます。揺れ動いている気持ちがそのまま音になっているような気さえしてきます。 そしてその時の自分自身を、37年後のブラームスが力強い筆で再構築している姿が見えてきます。作品全体を通した曲の流れ、揺るがない骨組み・構造力の強さ。メロディーの美しさ。ヴァイオリン、チェロ、ピアノの拍がずれながら屹立し、交錯する緊張感。ここのところでグッときちゃうのよと感じざるを得ないような持っていき方など、感嘆するところがたくさんあります。 それは細かく譜面をなめるように見ていけば見ていくほど感じたことでもあります。そういう意味では、私はまだ満足に弾けない箇所を残しながらも、音を拾う作業から、やっと少しずつ本当の譜読みの段階に入っていたのだと思います。なんとかここまできたぞ〜。って、遅過ぎる、か。
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(2004年8月12日 記) |
旅の仕事から戻ってきたら、親戚の急逝のしらせを受けました。その葬儀は教会で行われ、弔問客が引けた後、私は心をこめて「アメイジング・グレース」を従姉妹に捧げました。亡くなる数年前に、キリスト教の神に自分の苦しい気持ちを救われ、生きることへの希望を見出した彼女のことを想いながら。そして、この曲は彼女が一番好きだったことを、あとから知りました。 7月、ともあれ本番を目前に控え、従姉妹にはまことにすまないと思いながら、葬祭のため2日間も練習できなかったとか、この日はこれをしないとならないから何時からだったら練習できるかとかとか、と私は練習できない日を数え始め、だんだんせっぱつまってきました。かなりせっぱつまってきました。 そんな折、なんとまあ、ピアノ室のエアコンが壊れてしまいました。この家に越して来て以来、窓を開け放してピアノを弾くことはできない環境にある私です。すぐに業者に連絡を取りましたが、繁忙期ということもあってか、なかなか来てくれません。さらに悪いことに、私宅の空調機器が普通の一般家庭のものとは異なるためか、もう部品がないかもしれないなどと言われて、ほとんど絶望の淵に落とされたような気分になりました。 壊れてから丸2週間、結局直ったのはもう本番2日前のことでした。オソカリシ、クラノスケ。今年の夏は猛烈な暑さに見舞われているので、これはつらかったです。 仕事が入っておらず、これは練習せよという神の啓示だと思っていたこの期間中、私はますますこれは天が私に与えた苦行だ、人生は修行だと思い込まなくては、とってもやってられない気分になりました。実際、タンクトップに短パン姿、腰ベルトをしめ、首からはタオルを下げ、汗をぬぐってひいふう言いながら、たまらなくなるとシャワーを浴びたりした様子は、ほとんど修行僧の様相を呈していたかもしれません。 おおよその暗譜は終えていた私ですが、まだ憶え切れていないところはあったし、細かいところに不安はあり、またまだ指が追いついていないところも多々あったので、こうなったらひたすら繰り返して練習する以外にすることはありませんでした。 そして譜読みを続けていくうちに、私は武満さんが言っていた表現とは別のブラームスの力をものすごく感じるようになっていました。単刀直入に言うと、ブラームスの即興の力、です。ブラームスは即興能力が非常にあったに違いないと感じたのです。あ、あ、暑さで気が狂ったか?>狂子ちゃん。 (割合に多くの作曲家がそうであるように、ブラームス自身もまたピアノを弾いた人で、ピアノ教師の仕事や合唱の指導といったことも数多くやっていたそうです。) 振り返れば、バッハの時代だって、ベートーヴェンだって、モーツアルトだって、みんな即興演奏をしていたと聞いています。『コルトー ティボー カザルス 〜夢のトリオの軌跡〜』(ジャン・リュック・タンゴー 著、伊藤制子 訳/ヤマハ)の中にも、パトロンのサロンではしょっちゅう即興的に演奏していたと書かれています。どんな音楽だったのかはわかりませんが。 つまり、私が感じたのは、ものすごく即興能力があったということは、ものすごく作曲能力(及び編曲能力)があった、ということにつながるということです。結論を先に言ってしまえば、一般的に、作曲されたものを演奏することと、即興で演奏することは、別のように思われていることが多々あると思われますが、優れた作曲家には即興演奏の能力があり、優れた即興演奏家には作曲能力がある、場合がある、と思ったのです。 そんな視点からこの曲を見てみると、実にブラームスは同じことを繰り返していない、ということに気づきます。この同じことをしない、同じようにならないようにする、というのは、私はきわめて即興的な精神だという気がします。 第二楽章ではリピート記号によって反復される部分がありますが、それはとりあえず構造的なことから来る選択と考えると、例えば第一楽章で同じメロディーが転調して再び出てくる時、強弱記号も左手の旋律も、次に展開するところの小節数も、すべて異なっています。転調してるだけなんだから、前と同じにしてよ〜、と何回叫んだかわかりません。同じだったらまだ楽だったとも思います。でもブラームスはしていません。 それに別の見方をすれば、ブラームスはよく遊んでいる、とさえも感じられてきます。最初のこのパターンの時は4回だったのに、今度は3回しかない、といったこともあります。意地悪う〜、と叫びました。 また、1853年(「ピアノ三重奏曲 第一番」が作曲された前の年)、20歳のブラームスは、エードゥアルト・レメーニというヴァイオリニストと出会い、演奏旅行をしています。ブラームスにとって、このレメーニはまったく異質な音楽世界から出てきた人間との出会いであり、このことは、まずブラームスを語る時に必ず採り上げられることらしいです。マックス・カルベックの文章を引用すれば、「私が1953年に2人を身近に見た際に、彼らは一緒にハンガリーの音楽(それに、ありとあらゆる民謡)に夢中になっていた」とあります。 一般的に、かの「ハンガリー舞曲集」(1868年作曲)によって、ブラームスの名は広く人に知られるようになりましたが、再びその文章を引用すれば、「ジプシー楽団の第一ヴァイオリン奏者なら誰もが、「ハンガリー舞曲集」を創作した者はこの自分であって、しかるにその権利を侵害されてしまったと、後になってから主張したというのは驚くにあたらない。」とカルベックは書いています。この時、レメーニは盗作されたような思いで、公然と申し立て、その激昂ぶりは常軌を逸していたと言われています。 ブラームスはこの曲の表題に“編曲”と明記していたそうですが、B・バルトークを持ち出すまでもなく、ブラームスもまた音楽の収集にきわめて熱心であったことは想像にかたくありません。ハンブルク出身のブラームスが初めてウィーンを訪れた時も、「ブラームスがウィーンですぐ見つけ出してたちまち気に入り、生涯変わらぬ気持ちを持ち続けたのは、ウィーンの民俗音楽であった。居酒屋を流して歩く楽団が当時はいくつもあって、ブーラムスは、プラーター公園内でハンガリー女流バンドの演奏によく聴き入ったように、そうした楽団の演奏にも耳を傾けるのをことのほか好んだ。」(前出「大作曲家 ブラームス/ハンス・A・ノインツィヒ」) つまり、ブラームスの周辺には、ブラームスの耳には、そうした生きた即興音楽がいつも聞こえていたのではないかと思うのです。うーん、こんな風にたどってみると、太田さんが演奏するブラームス、というのは、自然のあるいは必然の成り行きだったようにも感じられてきて、なんだか感慨深いものがあります。 (さらに、ここでは書きませんが、「子守唄」を引用するまでもなく、ブラームスは夥しい数の合唱曲、声楽曲、独唱曲を書いています。) ともあれ、私はこの“即興の精神”ということが、きわめて大切なように思います。 例えばバッハが作曲した何かの譜面があったとします。きっとバッハは日常的に即興演奏をたくさんしていて、たまたまその時のものが記譜されて、今日譜面として残っているという考え方をしたとします。(’97年にライプチヒ・ジャズフェスティバルに参加した時、バッハが「マタイ受難曲」を作曲したと言われている小さな教会を訪れ、その教会の前にあるバッハ・ミュージアムも駆け足で見たことがあります。そこにはバッハの自筆の譜面が展示されていましたが、現在の記譜法とはかなり異なっており、私にはとても読めませんでした。)記譜法が生まれて、写譜屋という職業ができて、印刷技術が発展して、音楽は“再現”が可能になります。 こう考えると、現在でもなお演奏され続ける作曲家の曲は、何回でも再現可能な力を持っているということにもなると思います。では、それは何なのだろう?私はこんな風にも考えられるのではないかと思います。まさに譜面に定着された瞬間の音のエネルギーの分量のようなものが多ければ多いほど、その曲は力を持っているのではないか、と。 名の残っている作曲家の曲には残るだけの力があるのであり、その力は例えば美しいメロディーや複雑なリズムや込み入ったハーモニーを書けるとか、管弦楽法に長けているといった、作曲技術では決してない音楽の力なのではないかと思います。それは演奏者にとって指がものすごく早く動くとか、一音も間違えずに完璧に演奏することができる、といったような演奏技術がすべてではないのと同じように。 これは作曲(及び編曲)ということをしてみると実感としてわかることですが、最初はなーんにもないところから始まります。様々な条件、例えば演劇のために書く、この人とこの人と演奏するために書く、報酬はいくらだ、等々といった条件はあらかじめありますが、それを踏まえた上で、基本的にはどんな素材で何をどう料理しようが、何を選ぼうが捨てようが、その人の自由です。問題は選び取っていくセンス及びそのプロセスにあるように思われます。 さらに作曲している行為の、まさにその時に、作曲している人が何を聞いているか、あるいは何が聞こえていたか、何をどれくらい深く感じ、考えていたかに。そこに力の差が出るように思います。 そして、譜面に書かれた曲を奏でる指揮者あるいは演奏者は、どれくらい作曲家が意図したことを汲み取り、譜面に書かれていることを解釈する能力があるかによって決まるのではなく、その作曲家がその音を譜面に定着させた瞬間を感じ取り、その声を“聴く”力があるか、あるいは作曲家を超えて、そこに在る“聞こえてきた”音楽そのものを受け止められる感性をどれくらい持っているかによって、その力は量られるような気がします。さらに、作曲家あるいはその音楽と、どれくらい対話できて、それを表現できる力があるか、に。 思うに、初めてグレン・グールドの演奏を聞いて非常に驚いたことや、コルトー・ティボー・カザルスのトリオを聞いて感じたことは、この部分にも関係するように思います。つまり、今度は演奏者の即興能力、のようなものでしょうか。たとえ、演奏する曲が既に書かれて在る譜面だとしても、です。 そして、聞こえてくるものを感じる力。聴く力。鍛えられた耳。これは何も指揮者や演奏者などの音楽家に限られたことではないと思います。普通に音楽を楽しんで聞く人にとっても、同じことだろうと思います。 例えば「おかあさん」と自由に歌ってみてください、と言われたとします。一流のオペラ歌手が自身の内実を埋めずに、訓練された発声法で、技術の限りを尽くして、それは美しく歌ったとします。かたや、生まれてこのかた歌の練習などしたこともない老人が、天にいる母を心から想いながら、しわがれた声で実に下手くそに歌ったとします。どちらに感動するかは、その人の好みもあると思いますし、実際おそらく意見は分かれると思います。こういうことを書くと、私はすぐにロッテ・レーニャの歌声が自分の音楽にとってとても大切だったと言っているクルト・ワイルのことを思い出してしまいますが。 そしてこれには言葉が付いていて具体的な意味が生じていますが、そうでない場合、すなわち音符だけの場合、表われは一気に抽象的になります。その時、どれくらい、何を、聴き取れるか。どういうところに、音楽を聞く喜びを抱くのか。 また、かつて冬季オリンピックのスケート競技で、ジャネット・リンという選手が金メダルを獲得したことがありました。その時の光景を私は今でもはっきりと憶えています。フィニッシュの笑顔のなんと可愛らしかったことか。その選手は競技中に大きな尻餅を着きました。けれど、一等賞を取りました。何回転ジャンプが成功したといったことが大問題になっているらしい現代では、おそらくもうあり得ないことだろうと思われますが。これは何を意味しているのでしょうか。 真っ白な五線譜に音が書かれようとして、書かれたその瞬間に、何か即興の精神のようなものを感じる・・・これはおそらく私は即興の精神というものが、きわめて初源的な音のありかを携えているからのように思います。単純に言うと、生まれた瞬間の音こそがもっとも生き生きとしているのであり、例えば、私はどうしてもこうしたいのよという意思とか、溢れ出てくる思いを伴っているとか、この音をなんとか伝えたいとか、そうした内実の声が音楽の力、音楽を聞く喜びに、そのまま直結する部分を持っているように思います。 さらに、その根源的な声のようなものを聴き取り、対話する能力があるかどうかは、この即興の精神が演奏者にあるかないか、に関わることのようにも思われます。 うーん、即興の精神という言い方が、甚だ曖昧な部分を内包しているとは思っているのですが。また、そうした考えから脱却するために、後世の作曲家の中には闘っている人もいると思っていますが。 視点を変えます。そもそも“即興”の考え方、在り方、方法、中味などは、言うまでもなく多種多様です。こうしたクラシック音楽の文脈で語られる即興(といってもバロック音楽から現代音楽に至るまで、それこそまた多様)、ジャズのアドリブ、インド音楽やジプシー音楽等々の民族音楽(とりあえずひとくくりにします)で言われるところの即興、デレク・ベイリー(g)が言う即興、ジョン・ゾーン(as)のゲーム・ピースにおける即興・・・等々。それこそ世界中に“即興演奏”はあるのであって、それらはすべて異なります。 先に、私が、場合がある、と書いたのは、私がフリー・ジャズを聞いている体験から出ている言葉だと思われます。ジャズはもともとはアメリカの民族音楽だと私は思っていますが、主として’60年代、アメリカで人種差別を受けていた黒人たちが自らの自由を叫んだものがフリー・ジャズの始まりだったと、とりいそぎそうしておくとします。その場合の即興演奏は自由を叫びながらも自己に執着するという自己撞着の中で閉じている部分もあるように思います。きわめて個人的な(あるいは集団的であったりもしましたが)悲鳴に似た声は聞こえてきます。私もそれに心を深く揺さぶられたこともあります。それは重要な音楽の出発だと思います。 ただ、平たく言えば、彼らには自分の言いたいことを言う即興演奏能力はあるとは思いますが、きわめて客観的な力を必要とする作曲能力には欠けている場合もあるように思います。客観的な、というのは文字通り自分を客観的に見る視点とか、常に全体のバランスを考えるとか、その時の音楽の流れの中で自分の位相をとらえるとか、他者(共演者)との関係を図るとか、場面を展開するとか、音色や音の強弱といった細かな表現を忘れないとか、お客様のことを考えるとかとか、といったことでしょうか。 例えば、Aさんがあと一ヶ月しか生きられないと宣告された自分の命と死について、そのAさんとは全然知り合いでないあなたが、Aさんがとくとくと自分の心中を吐露するのを聞き続けなければならなかったとします。Aさんの気持ちは嫌になるほどわかったとしても、それがあなたに何らかの感動を引き起こすかどうかは、別の問題だと思われます。 そしてこのいわば自己主張の部分が、日本にもヨーロッパにも多大な影響を与えたことも確かだろうと思っています。ただし、ヨーロッパにはかたやクラシック音楽という伝統があって、ヨーロッパの先進諸国ではそれぞれ独自のフリー・インプロヴィゼイションが生まれたと考えています。ここに書いたように、私はフリー・ジャズとフリー・インプロヴィゼイションを明確に分けて考えていますが。 付け加えれば、私がデューク・エリントン、ビリー・ストレイホーン、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス、エリック・ドルフィー、カーラ・ブレイ、ジョン・ゾーン、ハイナー・ゲッペルスといった、自身の音楽に、作曲する行為と演奏する行為が不可分であるように感じられる音楽家たちを好むのは、おそらく、この辺りのことに由来しているように思われます。 あるいは、コンプロヴィゼイション、ということを言う人もいます。これはコンポジションとインプロヴィゼイションを足して2で割った造語的表現です。多くの場合、即興演奏をすることはその場で作曲していることと同じことだ、といったような考え方でしょうか。 それにしても、いったいいつからクラシック音楽は完璧に演奏できていないと、いい音楽ではない、という風になったのでしょうか。「間違ったっていいじゃない」という翠川さんの言葉。かつて灰野敬二さん(g,vo)が言っていた「出した音に、間違いは一個もない」という言葉。これらは深い、と思います。 それに、いわゆる現代音楽と呼ばれる分野のクラシック音楽の閉鎖性は、もう少しなんとかならないものなのだろうかと思うことがしばしばあります。6月末、とある現代音楽サークルのコンサートを聞きに行ったのですが、全体としておそろしく閉じているように感じました。面白い曲、演奏もあったのですが、コンサートを開く姿勢や意識自体が、既に広く一般聴衆を相手にしていなかったのです。決して多くの人は足を運ばない現代音楽のコンサートであることを前提とした主催者の姿勢、言葉遣いには、ではあなたは何のために、誰のために、音楽をやっているのですか?と疑問を投げつけて帰ってきてしまいました。 そして現代音楽の作曲家が書く作品は、どうもあまりにもディテールやトリヴィアルなこと、あるいはその楽器の可能性を探求するといった技術的なことにこだわり過ぎていて、私には本来の音楽の楽しさや喜びを感じられないものが多々あるように思われます。この陥っている穴は何なのでしょうか。 クラシック音楽だ、ジャズだ、即興だ、これらは確かにその表われは違うと思います。で、何故か、クラシック音楽をやっている人は譜面を離れて自分の好き勝手にアドリブしたりするジャズ・ミュージシャンに対して、その逆で、ジャズをやっている人はおそろしく正確に速く動く指に対して、互いになんとなくコンプレックスのようなものを抱いている気がします。私だって、もっと指が動けばなあと、そりゃ思ったりします。 が、気を付けなければいけないのは、問題はそれぞれが羨んでいるような部分が、優越意識や特権意識を帯びた時に生じるように思われます。コンプレックスの裏返しとして。同じように、即興演奏ができるということはすごいことだ、というのも、なんだかちょっとへんなことのように思われます。 誤解を恐れずに言えば、私は人に教える(レッスンする)時、誰にでも即興演奏はできる、というところから出発します。無論、ジャズの初歩的なコードのこととか、モードのことなどを、学びたい人には教えますが。コード・パターンだとか、それにのっとったアドリブ・パターン、フレーズ・パターンなどは、あまり好んでやりません。自分の好きなように歌ってごらんなさい、と言います。 そして、ここが分かれ道になります。ビル・エヴァンスのコピー譜を間違うことなく弾けても、そこから一歩も出ることができない人。ひとつ習ったことを自分でどんどん応用したり、広げたりできる人、あるいは自分で音を作り出すことを喜びと感じることができる人は、もう勝手にアドリブしたり、即興演奏ができるようになります。 私が“即興精神”と言ったことは、おそらく、この音を奏でる、その瞬間の喜び、のことかもしれません。 ああ、即興よ〜、あなたは何?
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第十三章 じたばた |
(2004年8月12日 記) |
7月13日、私たちは午後3時頃に集まって、リハーサル、ゲネプロをしました。太田さんは本番当日の前半に演奏する曲として、フォーレ作曲「夢のあとに」とドルドラ作曲「思い出」、さらにドルドラの曲に関連付けて、ちょっと約束違反かなと言いながら、ステファン・グラッペリ作曲「フィリンゲンの思い出」という曲を提案しました。グラッペリの曲だけ、私たちが通常演奏する譜面になっていて、メロディーとコードだけが書かれているものですから、ピアノの伴奏は適当に私が付けるようになっています。 なんでもドルドラの曲は亡きお父様が大好きだった曲だそうで、彼は生前お父様に聞いてもらえなかったことを、少しだけ寂しそうに話していました。また、太田さんはグラッペリのことを非常に良く研究されていますから、これはもう掌中の曲です。実に太田さんらしい選曲だと思います。 でも、この本番4日前に渡された譜面は、私にとっては譜面にほかならず、正直言って少し不安でした。太田さんとリハーサルをしてみて、今からやってもこれは音楽にならないのではないかしら?とちょっと洩らしたりもしましたが、「いや、だいじょうぶ」と翠川さんからは確信を持って言われました。私はそれは翠川さんの太田さんへの信頼と、私への叱咤激励と受け止めました。私は、そっか、だいじょうぶにしなくてはいけないのだと思い、帰宅してから深夜ピアノに向かいました。 荘厳な感じで始まるヘンデルの曲、フランスへ飛んで思い出をメドレーで、フォーレをやって、最後はシューベルト、ということで、前半のプログラムもなんだかとてもいい感じに組まれました。 ブラームスの方もなんとか通しました。でも、ころんだり、交通事故を起こしたり。これは完璧だ、とはとても言えない感じだったと思います。やっと譜読みができてきたと言っていた太田さんですが、「とにかく、ヴァイオリンが引っぱるところは、もっとぐんぐん引っぱってくれ」これはこれまでの練習の中でも、翠川さんが何回か太田さんに言っていたことでした。 7月15日、同じように私たちは集まって練習しました。そこに登場したのは、弦をすべて張り替え、弓も新品のものに取り替え、ヴァイオリンをぴっかぴかに磨いてきた太田さんでした。弓の毛がいっぱいあるのが確かに見えます。それにヴァイオリンを支える顎の下にハンカチを当てています。そんな太田さんの姿を初めて見ました。やるじゃ〜ん。 そして本番当日は「僕は全身黒でいくから、ま、シャレ、ね」と翠川さんは言います。かくて、Tシャツ、短パン姿ではなく、いわゆるちょっとクラシック風にキメることも合意され、なんだかもう否が応でも緊張感が盛り上がる、ってなもんです。 また、万が一アンコールが来たらどうしよう、ということで、翠川さんがピアソラ作曲「忘却」を提示されました。「ま、すべて忘れよう、ってことで」・・・をを、なんとすばらしいプログラムになったことでしょうや。ピアソラの曲はそれぞれのパートがきちんと書き込まれているものでしたが、これまでこの曲を散々やってきている私は、譜面通りではなく好き勝手に弾かさせてもらうことにしました。これもちょっぴり約束違反になるでしょうか。 少し心配だった「思い出」メドレーも、さすがに太田さんです。その一昨日とはうってかわってメロディーを歌っていて、音が出ています。それで私もこの曲が少し見えました。また、ヘンデルの出だしの部分も、翠川さんがちょっと歌ってくださったことで、はっきり見えました。それまでの自分の演奏の歌い方が間違っていたことに、この期に及んで気づいたのでした。 リハーサルが終わると、もうぐったりという感じです。非常にエネルギーを消耗している感じです。そしてこのリハーサルの両日とも、プロデューサーである佐藤さんのご好意に甘えて、終演後、私たちはおいしいお酒とお料理をご馳走になりながら、ああだこうだとゆったりと話す時間を持つことができました。大感謝です。 こうして夜も更けていったのでした。が、私にはまだ上手く弾けないところが何ヶ所か残っていました。ここの1小節、ここの4小節等々。特に第一楽章の最後の方、Tranquillo以降の14小節は大問題でした。とても大事なところです。ここが弾けるようになるには、私の力では一日は必要だと想像していました。あと一日。そんな状況の中、帰宅した深夜、とても大切な友人のお母様が重篤だとしらせが入ります。一人でもなんとかだいじょうぶそうだという友人を信じて、当然翌日お見舞いに行きました。 そしてその日の、すなわち本番当日前の真夜中、エアコンも直ったし、静かな気持ちで、私は一人ゲネプロをやってみました。ところが、これがまったく弾けません。自分で呆然としてしまいました。これまで弾けていたところ(おそらく無意識に弾いていたような部分)ですら、指が間違った音を奏でます。これはいくらやってもダメでした。これは無駄なことなのだと途中で気づき、もう寝ることにしました。 そういえば、どちらかのゲネプロの時に、これまで決して間違ったことがない箇所を、翠川さんが落としたことを思い出しました。なんでもなかったところが、本番直前になると、何故かとち狂った感じになってしまうこともあるのだと思われます。 弾けるという自信は本番2日前までにつけて、本番間際は弾かないで、野原にでも散歩に行くというのが、おそらくもっとも適切な方法なのだろうと悟りました。○△コンクールなどに出る人たちはたいへんなんだろうなあ、としみじみ思いました。その一回限りにかけるオリンピック選手の胸中も察することができました。もうじたばたしても仕方ないのよ〜。
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第十四章 ああ、ブラームス |
終わるとき (2004年8月13日) |
7月17日。とうとうこの日がやってきてしまいました。寝る前の一人ゲネプロがあまりに悲惨だったので、でかける前は第四楽章のTranquilloからの14小節だけ30回くらい弾いて、気を休めました。 夕方5時半頃、inFに着くと、調律師の辻さんがまだ作業をされています。聞くと1時頃からとりかかっているということですから、既に4時間半は経過していることになります。結局、翠川さんと太田さんを待っている間も調律は続けられ、辻さんはなんと5時間半近くピアノの整調、調律をしてくださいました。それでもこのピアノに対してやれることの50%しかできていないと、悔しそうな顔をされています。ものすごいプロの仕事です。私は深々と頭を下げることしかできませんでした。 そして、ピアノはもうまるで“別人28号”になっていました。タッチも、音の粒(芯)とその立ち方も、音色も、響きも、音量も、なにもかもが、一昨日ここでリハーサルをした時とはまったく違っていました。弱音ペダルもしっかり機能しています。音量はこれまで弾いていた感じの10倍くらいあるような気がします。 先のリハーサルで、最初のチェロ・ソナタは私の右横前に翠川さんが座って演奏することにしたのですが、ピアノの音を聞いた途端、翠川さんは3人で演奏する時の位置、すなわちピアノの蓋の右前方へ変更されました。 演奏は音響器材を使わず、生音でやるのですが、バランスとしてピアノの蓋はハーフにしても大き過ぎるということになり、ボディと蓋の間に鉛筆けずりを挟んで、ほんの少しだけ開けることになりました。 3人の音量のバランス。ここinFでずっと練習やライヴを続けてきていた私は、この生まれ変わったピアノにとまどっていました。正直に言えば、ここにもつらつら書いてきましたが、私は自分のことであっぷあっぷ状態だったのです。自宅で練習していた時のフォルティッシモ、それにこれまでここで練習してきたフォルティシモは、この音が甦ったピアノによって、別のフォルティッシモで奏でられなければならない状況になったことを、私は咄嗟に理解しました。全体の音量のバランスが取れるように配慮し、調節しなければならならなくなったことを。それはピアニストの重要な役目でもあるわけですが。でも、それには私の技量が足りない、もはや余裕がない、と感じて、私は自分の力のなさを思い知り、泣きそうな気分になりました。 『オケのなかの蛙、大海に挑む』(茂木大輔 著/中央公論社)。茂木さんはオーボエ奏者ですが、この本の中で、確かシャルル・デュトワ指揮でN響がヨーロッパ・ツアーに出た時の記述だったでしょうか、フォルティシモにも10段階くらいあって、それを細かく要求してくる指揮者のことを書いていたと思います。 もし私がフォルティッシモを10段階に分けて演奏しなさいと言われても、今の私は弾くことができません。無論曲の流れによる前後の関係が作用するとは思いますが、情けないことに、私にはその力はないと思っており、これはこれからの課題だと思っています。 さらに、この余裕がない、というのは、要するに、他人の出す音を聞いている余裕がない、3人の音があやなす関係を余裕を持って図ることができない、ということを露骨に示しているわけです。常日頃、聞くことがすべてだ、などと言っている私としては、もう入る穴もない、という心持ちで、自分が置かれている情況を、自ら厳しく批判しなければなりませんでした。 私がやっとほんの少し二人の音を聞けるようになったかもしれないと感じたのは、せっぱつまったゲネプロを兼ねた何日か前のリハーサルの頃のことだったと思います。ほんとうはこれでは遅過ぎることも重々わかっているつもりでしたが、時間をどうすることもできませんでした。 そういう意味では、ほんとうの音楽はこれから、なのだということもわかっていました。今晩来ていただくお客様には申し訳ないとさえ思いましたが、でも良い方向へ考えるならば、これは帰結点ではなく、出発点なのだと気持ちを切り替えることで、とにかくやってきたことを自然体で演奏しようと思うのでした。 本番前は前半にやる予定の曲をさっとさらっただけで、ブラームスは一切演奏しませんでした。逆転満塁ホームランを狙っていた太田さんは、少しやばいところをやりたがっている様子でしたが、やらない、と言った翠川さんの決意は固いものでした。私も事前にブラームスをやることはなんだか危険な感じがしていました。なにせ深夜の一人ゲネプロがあまりにひどかったですし。 翠川さんは店に着いてすぐに持参したビールを飲んでおられました。こういう時の恒例行事なのだそうです。私はパンを買っておきましたが、なんだか全然喉を通らない気分です。太田さんはほぼ直前まで一人で譜面をさらっていました。 お客様が次第に集まってきて、椅子席で20席余の小さな店は、今夜は立ち見を余儀なくされている方もいます。「ブラームスをやるからって、こんなに大勢の人に来てもらってとってもうれしいけれど、普段はこんなにはならないわけだし、これでええんかいなあ」と言っていたのは太田さんです。そういえばそうだなあと感じながら、3人とも着替えを済ませました。太田さんの白いシャツにはパリッと糊が効いています。 私も珍しく黒いワンピースを着て、人前では初めて裸足で演奏することにしました。裸足の方がペダルの感触をじかに感じ取ることができ、より繊細な対応ができるためです。ふええええ、緊張する〜。 今晩の司会は企画者である佐藤さんです。始まる前に、その佐藤さんからひとことがありました。録音等を禁じるといった話から始まり、今晩はクラシック音楽を演奏すること、堅苦しくなく、もっと身近にクラシック音楽を聞ける機会はあっていいはずだということ、この時、この場で、音が立ち上がってくる一回限りの瞬間に立ち会える喜びのことなどが話され、プログラムが紹介されました。 1曲目、ヘンデルのチェロ・ソナタ。なんだか翠川さんがいつもと違って感じられます。そして練習していた時よりもはるかに小さいピアニッシモ、そしてフレーズの大きな揺れが聞こえてきます。演奏前に「今日は揺れるよ」と言われてはいましたが、ち、ち、違ううう。さすがです。 2曲目、「思い出」のメドレーでは、太田さんはこよなく歌っています。その揺れを感じながら、私も演奏します。ドルドラの曲では1小節飛ばされたり、私がritを充分に弾き切れなかったり、ほんの少しアキシデントはありましたが、なんとか無事終了。 3曲目のフォーレ「夢のあと」の出だしのチェロが奏でるメロディーの美しかったこと。が、この曲はピアノから始まるので、そのテンポ感は私が決めることになるのですが、ちょっと急いでしまって不安定だったかなと反省。これはひとえに、弾き始める前に自分の中でメロディーを反芻せず、深い呼吸をしなかった私の責任です。それくらい、ほんとに全員が合意して自然に生まれてくる“テンポ感”というのは重要なことであることを学びました。 前半の最後はシューベルトのピアノ三重奏曲。クレッシェンドしてフォルテになったかと思うと、すぐに次の小節の頭でピアノ・ピアニッシモ(pp)になったりする箇所もある、とにかく旋律をひたすら歌うことが真情のような曲の難しさを感じながら、これまで練習してきた曲です。この曲ではピアノはけっこう音色的なことにも気を遣ったつもりですが、さてはてどうだったでしょうか。 後半はいよいよブラームス作曲の「ピアノ三重奏曲・第一番」です。正直に言うと、私はもうなんか無我夢中という感じでした。こんなに自分がわああああっという気分になったのは珍しいです。多分相当力が入っていたと思います。要するにリキみ過ぎです。焦りまくりです。音ははずすは、間違えるは。また第四楽章ではヴァイオリンが途中でずれて、どうしてもつられてしまうので、思わずヴァイオリンのパートを口ずさんでしまったり。これは太田さんにたいへん申し訳なかったと思っています。 冷めた目で言えば、仮に単にこのブラームスの曲を聞きに来たクラシック音楽好きの人だったら、こんなひどいブラームスは聞いたことがない、と言うかもしれません。それくらい間違えはたくさんあり、破綻寸前だった気がします。辻さんからは「よくぞ挑戦しました」と言われました。いえ、もう演奏した当事者がこれ以上書くのはやめましょう。あとは聞いてくださったみなさんの心の中、ということで。ご感想、ご意見、ご批判、すべてを受け止めます。 そして最後にピアソラの「忘却」を演奏しました。冒頭は私がイントロを出すことになっていたので、なんだかもう少し好き勝手に弾かせてもらってしまいました。アドリブはありません。1曲を静かに弾き終えて、この日の演奏は終わったのでした。 終わった〜。 終演後、佐藤さんたちからは私たちに花束をいただきました。また、お店の九周年記念日でもありましたから、私たちから佐藤さん、いつも厨房でおいしいお料理を作ってくださっているゆかさんにプレゼントを手渡しました。また、この約半年間、毎月、ブラ・プロのライヴに来てくださった、いわば皆勤賞だったお客様、あるいはほとんど足を運んでくださっていたお客様にも、心ばかりのお礼の品を差し上げました。お客様の中にはほぼ毎回、仙台から来てくださっていた方もおられました。 さらに、今晩来てくださった方たち全員にも配りました。言い出しっぺは私でしたが、これはプレゼントを買いに行った時、来てくださっていた人たちの顔を思い出しているうちに、その数が何がなんだかよくわからなくなってしまい、えい、面倒だ、ほんなら全員に、という結果です。翠川さんと太田さんには、私たちを追っかけて聞いてくださった人たちへのお礼のことまでは合意を得られていましたが、全員に配るということについてはきちんと了解を得ずに私がしてしまったので、ちょっと申し訳なく思っています。後半の演奏から聞きに来てくださっていた辻さんからは、ミュージシャンがお客さんにプレゼントするなんて初めて見た、と言われてしまいました。ちょっとやり過ぎだったかもしれません。が、ま、お店の誕生日、ということで、ひとつお許しください。 その後は言うまでもありません。朝までコースです。太田さんは自ら玉砕だ、“リベンジ”だ、と声を大にして言い、もう遅刻はしませんと誓っています。翠川さんは仮にまたやるとしてもブラームスのこの曲は当分やらないと言っています。私にはこの本番及びその直前のゲネプロで、やっと他の2人がやっていることが少し聞けるようになった感触を掴んでいたので、音楽になるのはほんとうにこれからなのだ、という思いが強く残りました。その意味で私の中にもリベンジの声がありました。 少し人も減った頃、翠川さんと太田さんが弦楽器のボウイングについて話をしているのを聞いて、なるほど、弦楽器というのも難しい、奥の深い楽器なんだなあと思いました。なんだか世の中にはまだまだ知らないことがいっぱいあると感じました。 ああだこうだ、なんじゃかんじゃ、と時は過ぎ、始発電車も走り始めた頃、朝の光がまぶしい中、私たちはそれぞれの帰途に着いたのでした。 ああ、ブラームス。
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