6月
6月1日(水) ソレイユ

午後、原宿で行われている、シルク・ド・ソレイユ『クーザ』を観に行く。

究極のエンタテイメント。基本はサーカス、器械体操。造られた空間の中の舞台、装置、照明、そして音楽は生演奏・・・etc。

アクロバット、トランポリン、玉乗り、一輪車、コントーションと呼ばれる、身体が超やわらかく、くねくね曲がる人たちの組み体操、空中ブランコ、綱渡り、しかも自転車でも綱渡り、ホイール・オブ・デスと呼ばれる巨大な車輪乗り、フラフープ、バレエのようなダンス、高く高く積み上げられた椅子の上で様々なバランスをとる人など。

いやあ、すごい。ものすごい身体の鍛え方だ。同じ人間とは到底思えない。こちらは、始終、首を持ち上げ、ハラハラしながら、口に両手をあてる格好で固まりながら(なぜかそういうスタイルになる)、舞台で繰り広げられるパフォーマンスを観る。

通常のサーカスと異なって、動物は出てこない。が、もちろん、ピエロや、ぬいぐるみの犬や、防毒マスクのような顔をしたロボットみたいなものも登場する。なにせアクロバットがものすごいので、こうしたユーモアやほっとした時間が少し休息になり、全体の流れ、緩急のバランスを保っている。

途中で、観客を巻き込むパフォーマンスも何度があった。1人のお客さんがステージに引っ張り出されて、椅子に座って布をかぶせられたら消えていた、という手品のようなものもあった。その人がサクラかどうかは知らない。

また、そのうちの1つに、お客さんが座っていた椅子がいきなり高く上がる、というのもあった。その席にいた人の様子だと、おそらく事前に何も言われていなかったような気がする。心臓の悪い人は鼓動が止まってしまうかもしれない?

全体の構成はすばらしく考え抜かれており、観客を飽きさせることがない。裏で大勢のスタッフが働いていることは容易に想像でき、全員で創っている、という気概は伝わってきた。とにかく、一歩間違えれば、そこにあるのは「死」かもしれないのだから、文字通り、必死、命を賭けていると感じた。

照明も、舞台装置も立派。時折、よく気分が悪くなる人もいるという、フラッシュ効果のある照明が何度か使われる。

音楽は、基本、生演奏。どうも生っぽいなあと思っていたら、カーテンが開いたところに歌手や演奏者がいた。サックス奏者は平凡だったけれど、ほかの奏者はけっこう上手いと思った。パフォーマンスに合わせて演奏するところもあるので、生じゃないと対応できないのだろう。もちろん、音源を流しているところもあったけれど。

それにしても、音量が尋常じゃない。でか過ぎる。特に低音。なぜあんなに低音を増幅するのか、私にはまったくわからない。無論、私の両耳には耳栓、だ。今の人の耳、ってそんな風になっているのだろうか?

夕刻、終了後、明治神宮を散歩しながら、参宮橋のほうへ抜けて、初台・オペラシティまで歩く。居酒屋で軽く一杯とやきとり。

で、帰宅後、ひどい頭痛と、激しい嘔吐に襲われる。久しぶりに胃の中のものを全部吐き出した。

『クーザ』を一所懸命見過ぎたか、その後散歩した明治神宮で何かの霊にとりつかれたか、居酒屋で「あれ?」と感じた、もしかしたらよく火が通っていなかったかも?の焼き鳥のせいか、はたまた放射能のせいか(大震災後、突然激しく降ってきた雨の中を、走って帰宅したことが、いまだに気がかりな私)・・・いやはや〜。

このエンタテイメント、生涯に一度、冥途のお土産に、年老いた母に見せてあげたいと思ったけれど、もしかしたら想像以上に、身体や精神に負担が大きいのかもしれない。ので、母を誘うのはやめることにした。

というか、敷衍すれば、この、これでもか、これでもかと、人間の肉体の限界や、人間ができる運動の極限まで、昇り詰めようとする意思あるいはベクトルは、観客をとても疲れさせるように思う。

それは考え方として、前へ前へと進化することを推し進めてきた人間の文明論につながるかもしれない。

さらに、この日本の現状に照らし合わせると、こうした考えはどうしても福島の原発事故に及んでしまう。明治神宮の森を歩く私に、池に浮かぶカルガモの親子を微笑ましく見る私に、「ああ、放射能はここにも降り注いでいるのね」という現実が、奇妙にシンクロした。って、考え過ぎ・・・か?



6月2日(木) 首

正午のニュース。生放送で、管総理がメドがついた時期で辞任すると発表。

民主党・原口さんが「福島から子供を一刻も早く批難させろ」と主張したところで、NHKテレビはスタジオに切り替えた。・・・なぜあそこで画面が切り替わったのだろう?さすがNHK、か?

午後、太極拳の教室。管総理のクビはともかく、今日は首の伸ばし方、それをきちんと意識することを教えてもらう。



6月3日(金) 繭蟲

夜、渋谷・公園通りクラシックスにて、喜多直毅(vn)さんと続けているライヴ・シリーズ『軋む音』の第4回目。今回とりあげたテーマは、夭折した画家・石田徹也の生涯。題して、『繭蟲 〜絵が絵ではなくなるとき〜』。

今回は、もう鉄条網は張らず、まず、グランド・ピアノを白い模造紙で包む作業から始める。(そこのあなた、なんだそりゃ、と思わないように、ね。そういうことをしているのですううう。)

この包まれたピアノを弾くのは、1997年、ドイツ・ライプチヒで行われた、山下洋輔(p)さんが特集されたジャズ・フェスティバルで演奏した時以来のことになり、実は生涯2回目の経験。

そして、ネット通販で購入した白い蚊帳も。昔はどの家にもあった、帰りの遅いお父さんのために、蠅などから料理を守るためにお膳の上にかぶせられていたものに似ている。(これ、なんて言うんでしたっけ?)

今回の装置は、基本的に、この二つ。つまり、ステージの右と左に、白い繭が二つ。

軽く通しリハをやってから、本番。

水琴窟の音が流れる中、この日のために新しく買ったパジャマを着た喜多さんが、客席から白い毛糸を持って登場。その毛糸が切れると、喜多さんは上手(かみて)にある蚊帳の中に入っていき、白い薄掛け布団を肩にかけ、白いノートパソコンを開く。完璧なひきこもり状態を象徴。私は下手(しもて)にあるマイクの前に立つ。

そして、私は時代背景となる事柄を朗読し、喜多さんは石田徹也の履歴や心情とおぼしき言葉を朗読する。

というような始まり。これがおそらく15分以上続いたと思う。

途中で、役者の如く、喜多さんはスーツに着替えたり、大忙し。二人とも白い半仮面をかぶって、ソロ演奏をしたり。私はピアノの下にもぐって、紙を破いたり。その間、喜多さんはポテトチップスをかじったり。そういえば、「直せるものなら直してみろ」のシーンで、喜多さんも白い紙を破っていたっけ。

あ、もちろん演奏も。それぞれ、新しく曲も作った。新たに作られた詩も読まれ。喜多さんは地べたを這いずり回りながら、ヴァイオリンを弾いたり。

い、い、いつのまに、こんなことになっているのやら・・・。

と思ったりもしたけれど、二人でやってきて、こうなっているのは、とても自然な流れだと思っている。あくまでも音楽家である私たちが、言葉と音楽の狭間に、真摯に身を置くような作業と言ってもいいのかもしれない。

最後は、街の喧騒の音源(いろいろ聴いて、結局、選んだのは新宿歌舞伎町)が流れる中、白い蚊帳の中にいる喜多さんが白い毛糸を差し出す。それを手渡された私が、客席後方に去っていくというエンディング。

 糸は
 空をつきぬけて
 結び合う指先、触れ得る額
 探して彷徨う

 糸を吐く蟲達よ
 繭の中の蟲達よ

さてさて、来てくださった方たちは、どんな風に感じてくださっただろう?

「次は何をやるんですか?」とは、お店のスタッフが笑いながら私たちに投げかけた質問。はい、いい質問ですね。次回は、年内に一回行うことを予定しています。その時は、みなさま、ぜひ。

参考:石田徹也の公式web



6月4日(土) あとは12月のみ

夜、代々木・ナルで演奏。隔月で、3人のヴォーカリストと演奏しているのだが、それなりに学ぶところはいろいろあると思っている。が、今年はこのライヴをできるのが、あとは12月のみになってしまった。



6月5日(日) チャリティーライヴ

午前中、父のお墓参り。命日は6月6日。天国へ逝って、ちょうど10年経った。今でも手術室へ運ばれる直前の父の訴えかけるような目が忘れられない。永遠の記憶。

夜、新宿・Jで、チャリティー・ライヴ。

これは、門馬瑠依(vo)さんが熱い思いを胸に抱いて、しっかり準備されて行われたもので、今宵は彼女とデュオを組んでいる和田俊昭(g)さんと、3人で演奏。

音楽的な細かいことはいろいろあるけれど、とにかく気持ちはまっすぐな若い2人に共感して、いっしょに音楽を創る。この日のために、2人で作った曲も披露される。

お客様もたくさん来てくださり、ともあれよかった。お店、新宿・Jの協力も言うまでもなく、見えないところで力を貸してくださった、調律師・辻さん、音源録音の方、お店のスタッフのみなさんなどに、あらためて御礼申し上げます。

私たちはもちろん無報酬。結局、門馬さんが代々木・ナルの成田さんから預かったという義援金もあわせて、約27万円余りの支援金を、岩手県の民間復興支援団体「ゆいっこ」に送ることができました。

多くの方々のお力に、心から感謝申し上げます。

なお、このライヴ音源の中から選曲されたものが、FM花巻、岩手放送などで放送される予定になっています。



6月6日(月) ちょっとふらふら

今月に入ってから、どうもイマイチ調子が悪い。まだ明治神宮の霊にとりつかれているいるのだろうか?天候のせいだろうか?どうもゆらゆらと世の中が揺れているように感じる。軽い眩暈があり、身体がふらふらしている感じ。でもって、今日は終日なんとなく胃がむかむかして、時々横になってしまった。



6月7日(火) 芝生は

夜、母と友人と外食。ほとんど人がいないお店だったが、一組、脳天気に大きな声を出して話をしている団体があり、あまりにもうるさいので、席を変えてもらう。

その方々、明らかに、どこかでゴルフをやってきた様子。今のところ、私なんぞは、関東圏でゴルフをする気持ちにはまったくならないけれど。私が住む市でも、小学校などの校庭の芝生化が進んでいるが、放射能、大丈夫なのかなあと心配。



6月8日(水) アース

アース、ったって、殺虫剤を販売している会社名でもなく、この地球のことでもなく。人の名前・・・って、すごい名前だと思う。

午後、おおたか静流(vo)さん、Asu君(ご子息/23歳)と、今週末の宮崎でのコンサートのためのリハーサル。

Asu君と会うのは、いったい何年ぶりのことだろう。最後に会ったのは、彼が小学生くらいだったかもしれない。まあ、まあ、こんなに立派な男性になられて・・・みたいな口調に、思わずなってしまった。

2人がデュエットで歌う曲もあり、その声のオーラのようなものに、ちょっと不思議な心持ちになる。共演できることの幸せを思う。

夜は、渋谷・公園通りクラシックスで、坂田明(as,cl)トリオで演奏。後半、古谷暢康(ts,etc)さんが加わり、30分強の即興演奏も。



6月9日(木) ふたたび、首

今日もまたなんだかふらふらしている。午後、太極拳の教室に行ったが、先生からも身体がふらついていると言われる。

でもって、今日も、問題は首。この首だけを動かす、ということが、全然できない。先生曰く「頚をしっかり動かすことは、リンパや神経に多大な影響を与えます」とのこと。よーくわかる。けれど、できない。

現在、右腕をちょっとやられている状態。ピアノの弾き過ぎというよりは、PCのやり過ぎかも。で、右の首筋も超痛い。ピアノのペダルを踏むことが多い、右脚から右の腰にかけても痛い。やれやれ。

でも、身体を動かして、血のめぐりがよくなったのだろう。帰宅してから少し楽になったけれど、それでも身体はふらふらと揺れている感じ。結局、夜の予定をキャンセルさせていただく。申しわけない。



6月10日(金) 宮崎へ

午後のJALで、宮崎へ向かう。空港に着くと、やっぱり、雨、だ。(おおたか静流さんは、強烈な雨女と、もっぱらの評判でごわす。)

夕方、Asu(vo)君が地元のFM局で話をすることになっているというので、どれどれとみんなで見学に行く。その中では、Asu君が今回の大震災後に作詞作曲した曲が放送された。

夜は、主催者の方や明日ごいっしょする方たちなどと会食。なんとなく安心して食事をしている自分をみつける。こりゃ私、相当神経質になっているかも。

それにしても、宮崎の地上放送テレビ、4局しかないとは知らなかった。夜、暑くてあまり眠れず。消防法で規制されているというが、ホテルの窓、少しでいいから開いて欲しい。



6月11日(土) 追悼

午前中から早起き。今日は、宮崎芸術劇場にて、『ありがとうコンサート 〜故春口雅子さんに感謝を込めて〜』で、おおたか静流(vo)さんとAsu(vo)君と演奏。

この春口雅子さんという方は、NHK教育テレビの「ワンツー・どん」の歌のお姉さんとしてデビューし、たくさんの童謡を歌っている方だそうだ。また、今回のコンサートでは、生前、彼女が作った曲(童謡ではない)が集められたCDが、かつての音楽仲間の手によって作られ、販売されている。

私は春口さんを直接存じ上げないのだけれど、2006年6月にお亡くなりになり、おおたかさんをはじめ、おおたかさん一家とは家族ぐるみで深い親交があった方だそうだ。おおたかさん曰く、仕事をしている彼女の姿はほとんど知らず、プライヴェートで、お花見をしたり、お正月を祝ったり、ヴォランティア活動でいっしょだったり、という風に、温かい交流のあった親しい友人、とのこと。

前半は、童謡を歌われるDOYO組の方たちなどが、「はい、みなさん、ごいっしょに!」と、ほがらかに童謡などを歌うステージ。私にはほとんどかかわりのない異次元の世界が繰り広げられていた。

その彼女たちの演奏中、時刻は三ヶ月前のあの時間になる。私は楽屋で黙祷を捧げる。南相馬市では、坂田明(as)さんが、お一人で、鎮魂の演奏を奏でているはずなので、オーラを送る。

後半は、私たちの演奏。おおたかさんとAsu君が共演する、ほぼ初めての大舞台ということらしい。そんな記念すべき日に、さらに彼らの親しい友人の追悼演奏に呼ばれた私は、光栄の至り。

最初はおおたかさんのアカペラから。その声は天を突き抜けるかのように、願いと祈る心をのせて、どこまでも響く。幾分緊張気味かと感じたAsu君も、心をこめて歌う。二人のデュエットもすばらしい。

「“くろりんワールド”全開でお願いね」とおおたかさんに言われていた私だが、正直、自分の演奏には納得がいかないところもあり、少し悔やむ。けれど、共に、ここで音楽を創ることができるよろこびを心底かみしめた。とてもいい時間だった。天国の春口さんもよろこんでくださったのではないかと思う。

終演後、春口さんのお墓参り。ものすごーーーい、どしゃぶりの雨。そのお墓の前で、おおたかさんとAsu君は「Amazing Grace」を歌う。空気が薄紫に変わっていくようだった。

夜は、春口さんのご両親や姉妹家族のみなさん、学生時代のご友人の方たちと会食。その後、東京から来た、春口さんの友人でもあった人たちと、軽く一杯。

ホテルに戻り、急いでテレビを点けてNHK・BSにチャンネルを合わせたが、映像はサイモン・ラトル。念願のベルリン・フィルで指揮棒を振った佐渡裕さんの音楽を聴くことができなかった。残念。



6月12日(日) 帰京

宮崎から帰京。帰宅してからは、事務仕事に追われる。



6月13日(月) ドラマーと二人

昼間、宮城県登米市に住み、東北地方ではとてもお世話になっている調律師さんと会う。こちらに仕事で来られたとのこと。大震災後のお話をいろいろ伺う。

もっとも印象に残ったのは、平成の市町村合併の弊害についてだった。南三陸町は、2つの町が合併しただけだったので、町単位で機敏に動くことができたらしい。それに対して、例えば石巻はいくつもの町が合併したため、市という単位になると、動きがとても悪くなって、復興が遅れているとのこと。

かの合併で、昔からの地名もずいぶん消えてしまった。もともと、沼とか、池とか、あるいは山とか谷とか、みなそれぞれ由来があって付けられていたわけで。

「渋谷」って、ほんとうに“谷”だと思うし。私が住む市にも、分倍河原という駅があるが、その辺りに住む人たちは、今回の地震で、地盤沈下や土壌の液状化現象を心配している。

また、4月7日に起きた大きな余震で、かなり大きな精神的ダメージを受けたと話されていた。webでも知ってはいたけれど、壊れた食器を片づけたり、買い直したりしていた矢先のことだったので、被災地のみなさんは相当気持ちが落ち込んだらしい。

ピアノは、一ヶ月くらい経ってから、少しずつ修理の依頼などが入ってきたそうだ。向こうでは、畳の上にアップライト・ピアノを置いてある所が多いらしく、しかもピアノの背にあるのは襖だったりするので、地震による揺れで、襖もろとも、向こう側へ倒れてしまうとのこと。

また、避難所で、ピアノを弾きたいという子供のために、電子ピアノが寄贈されたりしていると聞いた。生のピアノでは、音がうるさくて人に迷惑がかかるため、という。などなど、話は尽きなかった。

夜は、大泉学園・inFで、池長一美(ds)さんとデュオで演奏。

池長さんの演奏は、かつて『くりくら音楽会』でハクエイ・キム(p)さんと共演された時に聴いていて、きれいな音を出す方だなあと印象に残っており、いつかいっしょに演奏できればと思っていた。

実際、リハーサルで少し音を聴いて、なぜか、富樫雅彦(ds)さんを思い起こしてしまった。ので、急遽、富樫さんの曲を選んでみたり。本番では、ほかに、ジャズの曲、T.モンクやC.ミンガス、A.ワイルダーの曲、さらに自作曲も演奏する。

終演後、いろいろ話もはずんだ。

音色に心を傾ける、こだわる、ということは、全体のサウンドや響きにかかわる、とても大切なことで、私にとってはもはや自明の理になっている。けれど、振り返れば、若い時は、そういうことにはあまり深い関心や自覚はなかったようにも思う。

だいたい、初めて約20年前に作ったCD(ソロ・ピアノ)の録音の時を考えても、ピアノという楽器に対する知識もなかったし、考えも相当浅かった。細かい響きのことなど考えていなかったと思う。

池長さんは大学でも教えているそうだが、学生が楽器のチューニングを全然できない、と話していた。特にジャズ科にいる学生のほとんどは、音質や音色などにまったく意識を持っていないという。

「それじゃダメでしょ」と思わず言ってしまった私だけれど。いったい音大というのは、音楽の何を教えているのだ?

例えば、地方の吹奏楽部やブラスバンドと共演する機会もあるわけだが、子供たちが使っている楽器のチューニングやメンテナンスは、たいていかなりひどい。指導する先生は、打楽器のチューニングなどできないし、考えてもいないようなのだ。うんむう。

などと書いても、お客様は調律師さんとミュージシャン2人。ほんとに集客力がなくて、情けなくなる。演奏内容は決して悪くはないと思うのだけれどなあ・・・。仕方ない、私しゃ人気がない、のだ。え〜ん。



6月14日(火) 無力を知る

気がつくと、目覚めたのは正午頃。眠ったのが朝6時前だったからやむを得ないとはいえ、どうも体調がイマイチでいけない。起きると、完璧なめまい。椅子から立ち上がる時、瞬間、フラッとして倒れそうになる。しばらくすると少し落ち着いてくる感じ。

午後、少し安静にしていようと思い、テレビをつける。役所広司主演のドラマを観る。好きな役者の一人だが、なんとなくもうひとつ何かが足りない。緒形拳のような臭いがない。

それから明後日のソロの内容をつらつら考える。されど、PCの前に座ると、どうしても事務作業になってしまう。

ああ、庭の草が伸び放題。放射能が気にかかって、どうしても刈ることができないでいる。私はもう少し生きていたいと望んでいることを、知る。

夜、7chの『ガイヤの夜明け』を観る。福島第一原発で働いている人たちの様子が映し出されている。いよいよ現場に入らなければならなくなった男性の、涙でふるえる背中姿が目に焼きつく。彼にも人生があり、家族がいるのだ。

最後のほうに、福島市の一軒家で、表面の土壌をすくって地中に埋め、ガイガーカウヌターの数値が大幅に減った様子が放映される。これで子供たちは外で遊ぶことができる、かも、しれない。

けれど、思う。あの地中に埋まった土に含まれている放射能物質は、いったいどうなるのだろう?雨が降ったら、それはやがて地下水にたどり着くだろう。

というか、核燃料がメルトダウンどころではなく、メルトスルーしている原発自体は、これからいったいどんな汚染や被害をもたらすのだろう?

番組の途中では、30億円もかけて開発され造られたという、原発事故対応用ロボットを、「事故など起きない」という理由で、東電や政府は廃棄処分にした、と報告していた。思わず、「ばかやろー」と画面の前で言ってしまったが。

誰もどうすることもできない現実。だめだ、また絶望的な気分になってきた。

なお、今月末、坂田明(as)さんのグループで、演奏箇所は半分以下になりましたが、東北地方で演奏する予定です。場所は、仙台、一関、盛岡、のみですが、お近くにお住まいの方、どうぞ足をお運びくださいますよう。

また、親分からのお達しによれば、途中、一関から花巻への移動で、内陸を北上せずに、沿岸地方、すなわち南三陸町、大船渡、大槌、鵜住居を経て、花巻へ入るルートをとるぞ!とのこと。

友人からは、亡くなった方たちの鎮魂のみならず、「海とか空とか大地とか、プランクトンとか野犬とか、放射能で汚れてしまったいろいろなものにもお願いしたいです。生きているものも、これ以上魂が荒れないよう。今朝の新聞に、酪農家の方が、自殺された記事が載っていましたので。」と。

つくづく、無力だ。私はそこから歩き出すしかない。




6月15日(水) なぜか

明日は久しぶりのソロ。短い時間だけれど。選曲などをつらつら考えたり。で、超〜珍しく、少し緊張している自分を感じる前夜。



6月16日(木) ソロ

門仲天井ホールにて、『くりくら音楽会 vol.8 〜ひとり、ピアノ〜』。三ヶ月に渡るコンサート・シリーズの最終回で、今夜は私も演奏。もう一人のピアニストは、阿部篤志さん。

現場に着いた、本番2時間前くらいに、どちらが先に演奏するかを決める。阿部さんも私も後半に演奏したいという希望を持っていたが、話し合いの末、阿部さんが前半に演奏することになる。

まず、演奏者としての自分。

ダメだ。こんな演奏しちゃ。

自分の演奏にまったく納得がいかない。非常に不本意。久々に、ほんとに自分が心底イヤになった。穴があったら入りたい。最悪の心持ちで帰宅する。

私がもっとも自分に対して腹が立っているのは、前半に演奏した人の質感や会場の空気感、いわば、その人の“気”のようなものを、「自分の一音」、この指、呼吸、で変えることができなかった、ということだ。つくづく、自分の非力さ思い知った。情けない。実に、まだまだ修行が足りない。

ピアノを弾き始めて「これは私の音じゃない」と思う時間が長く続く。音が飛んでいかない。音が自分のまわりにまとわりついて、離れて行ってくれない、これでは他者(ひと)に伝わっていかない、と感じながら、鍵盤の上で指を動かしている感じ。

それは、処女作CD(ソロ)に収められている曲や、若い時に作った曲を選曲したせいだったかもしれない。実際、少しずつ持ち直してきたかもなあと感じられたのは、今の自分が問題にしている領域に踏み込んだ、もう半ばを過ぎた後半の後半くらいだったように思う。やっと、少し、自分の音楽になってきたかも、という感触。

と、これ以上書くのは、愚痴以上の何ものでもないので、やめておきます。

で、企画者として。

「一晩に二人のピアニストの演奏を聴く」という企画は、実は案外あるようでない。同じピアノなのに、なぜこんなに音や音楽が違うんだろう?と肌で感じていただけたり、興味深く思っていただけたり、楽しんでいただければ、企画した方としては万歳と思っている。

実際、聴いている私は、とても楽しかった。特に、5月、第2回目はとても対照的な音楽になり、たいへん興味深いものだったと思う。

林君の音楽は、まるでひまわりのような色を思い起こさせるくらい、まっすぐで明るく、時折彼が見せたあの笑顔は、彼の演奏そのものだったように思う。それに対して、ハクエイ君の音楽は、おそらく、迷うままの指で弾いた最初の即興演奏も含めて、冷ややかな暗い蒼色をした、ちょっとアンニュイな美学を感じさせるものだった。

誤解を恐れずに言えば、一方は無邪気な音の戯れや音創りの中に、一方はどこか少し屈折して、少しだけ傷ついているような世界観の中に、「ああ、明日も生きよう」と人を思わせるような力が、どちらの音楽にもあるように感じられた。

また、今回の中では、音楽というものの幅の広さ、ピアノ・ソロの可能性の豊かさが、もっとも感じられた一夜だったのではないかと思う。

さらに、今回は3回とも調律を辻秀夫さんにお願いすることができた。辻さんは、引き受けてくださった当初から、「ピアノの状態を公平にしたい。だから、時間は限られているとは思うけれど、間の休憩時間に、調律の手直しを絶対にしたい。かつ、可能な限り、手直しの時間は欲しい」と申し出てくださっていた。

はっきり言って、午後2時に調律作業に入ってくださり、間の休憩時間にも手直しをしてくださり、終演後までいてくださるというような調律師さんは、まず、めったにいない。しかも、こんな報酬で。

この点、すなわち、間の休憩で手直しをする、ということについては、企画者である私の認識が大いに欠けていた。実に、私もまだまだピアノという楽器に対して甘い、と思い知った。学ぶことはほんとうに山のようにある。

今回のソロ・ピアノのシリーズの調律は、この方に、という出演者の強いリクエストがあって実現できたことなのだが、辻さんのお力、真のプロの仕事がなければ、成り立たなかったと思っている。この場を借りて、あらためて心から感謝の意を表したいと思います。

そして、出演してくださったピアニストのみなさん、門天ホールの支配人・黒崎さん、お手伝いをしてくださったスタッフの方たちにも、心より御礼申し上げます。もちろん、聴きに来てくださったみなさんにも、ほんとうに、ありがとう!でございます。



6月17日(金) 後半はフリー

夜、坂田明(as,cl)トリオで、横浜・ドルフィーで演奏。後半はほとんどフリー。



6月18日(土) まこくろりんな夜

夜、渋谷・ドレスにて、高瀬“まこりん”麻里子(vo)さんと。

今回は事前にリハーサルができず、本番前の打ち合わせと、ごく軽いリハーサルで臨む。

内容は、前回(ったって、去年の秋、門天ホールでやった『耳を開く 〜いとおしく、カバレット』以来)やったものも含めて、新しい朗読なども。“小カバレット”という趣きかと。

前半は私の詩の朗読にまこりんがヴォイスで音付けをし、次にまこりんは村上春樹の短編を、実に面白い解釈で読み、それに私が音を付ける。ここで聴くことができた、まこりんの言語感覚や読み方はすんばらしいと思う。

そして、“緑色”つながりで、昨秋もやった「メロンちゃん」が登場。いつ観ても、やっても、楽しい。そして、せつない。

後半は、まず「アトム君」が登場。まこりん、今回のアトム君は3月の大震災のことに直球で言及。この「アトム」については、昨秋の時に、そのオプティミズムを感想として書いていた人もいたけれど、まこりん曰く「誰もが暗い影を持つようになった」震災を経て、そのアトム君は大きく変わっていた。

それはまこりんのみならず、私のことであり、あなたのことでもあった。そうしたことを、自身の切実な言葉で吐露し、人に伝えようとするまこりんの意思に、私は胸が震えた。かつ、背中でその言葉を聴きながら、こういうところに“カバレット”の面白さはあると思った。

ちなみに、おおまかなプロットや、これだけは話す言葉、といったものは決まっているとしても、ほかは、基本、即興だ。そうした感覚と身体性を、生来のものとして持っているであろうまこりんのような人は、実はそうはいないのではないかと思う。やはりどう考えても、私にとってのまこりんは、歌うだけ、ではない人として、そこに、いる。

最後は、「マリーさん」が登場。田舎の場末の映画館の映写技師をやっている“虫松”の話も差し挟まれる。

虫松は東北の話(しかも吃音症)、今、ストレートにやることは憚られると事前に話した。ので、そこはマリーさんが聞いた話、というスタンスで組み込まれる。

また、マリーさんは、かたことの日本語を話す、夜のお店で働くお姉さんという設定になっている。実はこの設定も微妙な問題を孕んでいて、一歩間違えると、日本へ出稼ぎに来ているアジア人女性への差別や侮蔑とも受け取られかねない。

ここには、“カバレット”の危険な部分というか、しっかり考えられ、用心されなければならないことが内在している。というようなことは、まこりんは百も承知で、実はけっこうぎりぎりのところに身を置いてやっている。

特にドイツにおける“カバレット”では、こうした時事問題や社会問題を積極的に取り入れて行く手法があるが、ここは日本だ。でもって、こうしたジャンルというか形式というか、そういうものは、この国にはほとんどない。ので、他人に説明するのが非常に難しい。

って、私がやっていることは、いわゆる常識的なカテゴリーや、メジャーな範疇からはみ出していて、どれもかなり説明しにくいようなのだが・・。

ともあれ、そこをきちんと成り立たせるには、私たちの中に、社会に対峙する姿勢と、しっかりとした思考、そして、自分たちが基本的に立っている場所、すなわち、凛とした音楽、がなければならないと思っている。

付け加えれば、これ、少なくとも、まこりんとくろりんでなければできないことをやっていると思っている。かつ、これからまだ可能性もある領域だと思っている。

と、まあ、なんだか、硬い理屈を書いてしまいました。実際、理屈抜きに、面白いです。ちょっぴり考えさせられたりするかもしれませんが、そんなこんなもいろいろあって、とにかく楽しい時間を過ごせると思います。次回は特に決まっていませんが、みなさま、次回はぜひおでかけくださいますよう。



6月19日(日) 休養

なんだかひどく疲れてしまった。毎日毎日どんより曇っていて雨模様だから、というせいにしてみたり。いや、更年期かもしれない?

ともあれ、多分、考え過ぎ。さらに、右腕腱鞘炎は一向に良くならず。コーヒーカップを両手で支えるようになると、事態はちょっとやばい。まだお箸は持てるけれど。とにかく、積極的に休めよう。

目覚めたら、正午を過ぎていた。あらまあ、8時間も眠ったことになり、身体が軽いことに気づく。でも、気力が湧かない。ので、家に花を飾る。




6月20日(月) 啓蒙

時々、思う。朗読とか、童謡を歌うとか、子供たちを対象にした、たとえば読み聞かせとか、いっしょに良いお歌をうたいましょうとか。一種の啓蒙活動のようなものについて。

人を良きところへ導くことを目的とした仕事。こういうことをされている方たちは、神様からそういう役目を負うように言われているのだと思う。そして、世の中では、こういう人たちはおおいに認められている。こういう人たちはいていいし、すべてのことは受け入れる心づもりくらいは、私にだってある。

でも、おそらく私には生涯できない仕事だと思う。何かがとても間違っている、あるいは勘違いされている気がしてならないのだ。そもそも、自分たちはとても良いこと、正しいことをやっていて、かつ社会にとても役に立つことをやっていると思いこむことが、私にはできない。なんとなく偽善と傲慢を感じてしまうのだろう。

そして、たとえば音楽について言えば、音楽に対して、また自分に対して、疑いのないもの、怖れがないこと、すなわち、ひとつの音を出すこと、声を出すこと、その前に、そして、その瞬間に、ふるえる指や喉が感じられないものは、私は信じることができない。

なんちゃって、偉そうでいけません、はい。でも、ま、開き直っているわけではなく、己れは役立たずなのだ、という認識に身を置くことから始めることは、私は大事だと思っている。



6月21日(火) 白狐

午後、第79回 歌舞伎鑑賞教室(於 国立劇場)「義経千本桜」を観に行く。歌舞伎鑑賞教室に行くのは、おそらく中学か高校以来のことになる。若い学生たちが団体でたくさん来ていた。

約30分強、21歳の中村壱太郎(後半の歌舞伎では、静御前をつとめる)が司会役をつとめながら、若い人たちにもわかりやすく、ごく簡単な歌舞伎の説明をする。また、一般のお客さんを花道から登場させ、“見栄”の切り方を真似させたり、最後は役者と共に奈落から消えて行ったり、といろいろ工夫が施されていた。

「義経千本桜」は義太夫狂言の一つで、今回は約1時間強の「河連法眼館の場」が披露される。この場面だけだど、ちょっとわかりにくい。前後のあらすじや状況がわかっていないと、静御前が持っている鼓と白狐の関係もよくわからない。

登場する義経の家来・佐藤忠信と白狐(源九郎狐)は、二役ということで、中村翫雀(かんじゃく)が演じる。坂田藤十郎の長男だ。この白狐、神出鬼没な雰囲気で、舞台のあちこちから出てきたり消えたりする。ので、身体能力と運動量がけっこう要求される。

翫雀さんは昭和34年生まれとのことだから、ちょっとしんどいだろうなと思ったり。階段の向こうから飛び跳ねて降りる時、一瞬、足をくじいたのではないかと思った場面も。でも、最後まで見事に演じていたと思う。

内容の深いところまではわからなくても、観ているだけで面白さは伝わってくるので、初心者向き。いっしょに行った母も「みんな身体を張ってるわねえ」とつぶやきながら、楽しそうにしていたので、よかったなと思う。

夜は友人と会食。生きて、ここにいることの、しあわせを思う。どうも最近、そんな風に思うことが多くなった。歳と放射能のせいだろう。



6月22日(水) 30度

暑い一日になった。家の中で、気温30度。

2〜3日前、6月18日に発表された、群馬大学・早川由紀夫教授(火山、地質学の専門家)が作成した、放射能汚染地図のことを知る。ちなみに、教授は自分の大学生の息子を、海外避難させることにした、とつぶやいている。

http://gunma.zamurai.jp/pub/2011/18juneJG.jpg

データのもとは政府関係、積算はされていないようなのだけれど、とりあえず、しげしげとみつめてしまう。

福島県、茨城県、それに那須の辺りも。東北道は矢板ICを過ぎた頃から、仙台に入る直前くらいまで、放射能の値が高くなっていること、岩手県・一関はいわゆるホットスポットになっていることを知る。そっかあ。うんむう。

ともあれ、今週末から、こちらから車で東北に行く私だが、同行する水谷浩章(b)さんは、既に“N95 マスク”を購入してくれていると連絡があり。さらに、外気遮断モードで車を走らせることもあると思うので、車内冷房用に上着を一枚、という温かい心遣いをいただく。

また、友人からは、沿岸地域の臭い、ハエ、さらに、晴れた日に、車の窓を開けて、特に急ピッチで工事が行われている所を走る時は、有害粉塵が目に入らないよう(口はマスクで防げるが)に気を付けて下さい、とアドヴァイスをもらった。

これまで10年以上に渡って東北ツアーをしてきたけれど、さすがに、今回はこれまでと同じようにはまったくいきそうにない。



6月23日(木) 三節

午後、太極拳の教室。先週、『くりくら音楽会』で、私の演奏を聴いて、観て、くださったので、意見などをうかがう。そして、とても参考になるアドヴァイスをいただく。どれも全然できないけど。

一番指摘されたのは、姿勢、について。前へ押す力ではなく、後ろへ引く力が足りない、つまり背筋を鍛えるといい、ということだった。また、頸、については、今月に入ってからずっと言われ続けている。

「三節」というのがある。つまり、頚(頚椎)、背中(胸椎)、腰(腰椎)。これらを、それぞれ別々に意識して、姿勢の軸を作る、のだそうだ。この別々に意識して働かせる、というのが全然できない。

また、腕についても、手首、肘、肩を、バラバラに意識しなさい、と言う。かつ、押すと同時に引く、うまく言えないのだが、要するに前へ伸ばすベクトルと、後ろへ引くベクトルが、うまくバランスをとっていることが大事、とも。もちろん、これもまったくできない。

実際、もう少し若い時に太極拳に出会っておきたかったとも思う。というか、自分の身体への意識を、もっと早い時期に持つべきだった。と言っても何も始まらないので、せっかくやっているのだから、少しずつでもモノにして、さらには演奏に生かしていきたいと思う。

ところで、放射能汚染問題。

私が住む市では、節電・放射能緊急対策本部が設置され、市民の不安払拭のため、市立小学校22校に放射線量の簡易測定器を配備し、休日を除く毎日測定することを決めた、とのこと。

ただ、測定器の品不足のため、高精度測定機が調達できるのは8月下旬になる見込みだそうだ。なお、全小学校で毎日測定するのは都内で初めてという。(ちなみに、あまり関係ないとも思うが、市内には、東芝の工場がある。)

市では校庭の芝生化が進んでいる。で、拙宅から50mくらい離れたところにある小学校も、昨年、校庭が芝生化された。そこに寝っころがって遊ぶ子供たちの姿を見るたびに、なんとも心配な心持ちになっていた。

なにはともあれ、こういう現状で、測定値が公表されることは、私は望ましいことだと思う。また、そういうわけで、拙宅の放射能汚染状況も、ほぼ知ることができるのかなと思う。

私は『府中 子供たちの未来を考える会』のことを知り、ここが一応、無党派、無派閥のようだったので、20ミリシーベルトの撤回を求め、及び放射能対策に関する陳情について、だいぶ以前に署名をしているのだが、この任意団体のみならず、おそらく多くの市民からの要求があって、市も動いたのだと思う。

なお、ここの掲示板を見てみたら、

「今週木曜日(今日のこと)、小学校四年生の社会科見学で、クリーンセンター多摩川と北多摩水再生センターへ見学に行きます」

という書き込みがあり、それに対して、

「北多摩水再生センターでは、焼却汚泥灰から14000ベクレル/kgという高い放射性物質が検出されています。どこにどのように保管してあるかが問題です。」

という書き込みがあって、ちょっと驚く。

こんな時期に、そうした所へ社会科見学を計画する小学校は問題だと思う。どうやら、文部科学省、教育委員会からのお達しで、どうすることもできないらしい。なんてこった。それほど、危機感がない、ということなのか。また、私が心配性なのか神経質なのか、深刻に考え過ぎているのか悲観的なのか、かもしれないけれど、私が教育者だったら、社会科見学は別の所にするだろう。

夜、日本で一番大きい府中刑務所の内部が映し出されいた、NHKの番組を観る。旧網走監獄は見学できるようになっていて、観光地化しているが、現役の刑務所の内部がこんな風に紹介されることはあまりないことではないかと思う。裏で何かある?とすぐかんぐってみたりする私。




6月24日(金) 準備

明日からの旅の支度を、夜中にやる。昼間、時間はあったのだけれど、どうもなかなか準備する気持ちになれず、美容院に行ったり、図書館に行ったりして過ごす。そのふらふらとした時間の中で、少しずつ覚悟のようなものを、自分の心の内に定めている感じ。

これまで、足かけ10年を越えて、東北ツアーをしているが、今回は、もちろん、その意味も重さも全然違う。私は、立てるだろうか?演奏できるだろうか?



6月25日(土) がんばる、がつらい

今日から30日戻りで、坂田明(as,cl)さんのツアーで、東北地方を三か所ほどまわる。演奏する所は、当初の予定の半分以下になった。

ということで、このツアーには、『3.11から その後の明日に向けて!』というタイトルが付けられていて、“坂田明音楽旅団”として、仙台と一関でのコンサートには、坂田さんの息子さん、学君(ds)も加わることになっている。

午後1時頃、埼玉にある坂田さん宅を、今年のツアーのことも考えてタイヤを新しくしたという、水谷浩章(b)さんの車で出発。車体の右側は負傷していたけれど、とりあえず走りに問題はない。

往きの東北道、言われていたよりも、道路の状態は普通だった。というより、良好に整備が済んでいる感触だった。

栃木県内に入った辺りからだっただろうか、雨が降りだす。漠然と放射能を想いながら、福島県を経て、宮城県仙台へ。午後5時半過ぎにホテルに到着。

夜、主催者の方たちと会食。そのうちのお一人の男性が、会って、いきなり、「がんばる、というのが、もうつらくて、つらくて」とおっしゃる。これ以上、どうやってがんばれというのだ、というお気持ちとのこと。これはよっぽど、心底、まいっておられると思った。

確かに、今回のツアー、車で走っていれば、また、どこを歩いていても、どのお店に入っても、
「がんばろう!宮城」
「がんばろう!岩手」
「がんばろう!東北」
の幕や看板が目に付いた。

今回のたった一週間足らずの滞在の間に、ゆうに200回くらいは見たと思う。そんなわずかな時間しかいなかった私でさえ、途中で、もう、ほんとに、ほとほと嫌になった。

大震災から三ヶ月半くらい経っているが、この「がんばろう」以外に、何か言葉はないものかと、みんなが思っている、と言う。

「くじけない」「負けない」というのも、どうもしっくりこない。「へこたれない」(渋谷・dressのマスターが使っていて、私はちょっと気に入ったのでした)は、私は個人的にいいなと感じているのだけれど、はて、どうでせう?

その他、話す内容は、当然、復興支援の話になる。

主催者の方は独自のネットワークを持っている方で、石巻などの沿岸地域に、既にもう何度も炊き出しに行かれている。とにかく、ものすごく精力的に支援活動をされている様子だった。

地方から送られてくる、トラックに積まれた数々の支援物資を、彼女が受け入れ、被災地に届ける準備や手配のすべてをしているという。その彼女曰く、それらは全部自分の目の前を通って行き、その金額は億単位になるんじゃないかと、笑いながら話しておられた。

女性ならではのすごいパワーだと、しみじみ感じ入った。そのてきぱきとしたオーラのようなものと人望で、男の人たちが彼女に手を貸し、こまめに動いているという印象を受けた。さながら、女王蜂?

ところで、このお店の内装は古民家を再生した仕様で、秋田料理のみならず、ちゃんとした“なまはげ”が出てきたのには、ちょっと驚いた。そのなまはげにお酒をふるまい、ちょいとからかったりして、愉快なひとときも過ごす。

ちなみに、なまはげに会ったのは、高校2年生の時の修学旅行以来のことだ。非常にリベラルだった校長先生は、石巻のご出身だったこともあり、高2の時には東北を一周する修学旅行があったのだ。

土曜日の夜だったが、仙台の繁華街の国分町、一番町界隈(東京で言えば、新宿歌舞伎町、渋谷センター街といった感じだろうか)は、深夜0時近くでも、ものすごくたくさんの人、それにけっこう若い人たちがたくさん酔っ払って歩いていたのには、驚いた。

ここ、仙台は、宮城県の沿岸地域への復興支援団体やボランティアの基点になっているとのことで、被災地に入っている自衛隊の人たちも含め、ガス抜きというか、「飲まなくてはやってられない」という人たちで、夜の街はおおいに賑わっているそうだ。つまり、多くの人が、心の奥底に感じていることや隠していることを発散している、ということなのだろう。

というか、これはこのツアーの先々でも強く感じたことだけれど、内陸の人たちは、とても我慢している。

さらに言えば、我慢することで、強くありたいと願う自分を、かろうじて保っている、とも感じた。「自分に何ができるか?」ということを真面目に考え、その思いが、自身の行動を駆り立てるような人たち、だろうか。誰もいなくなった計画的避難地域に入って、泥棒をするような人たちではなく。

で、何を我慢しているかというと、彼らもまた被災者(その度合いには差があるとしても)であるにもかかわらず、すべてを流された沿岸地域の人たちに比べれば、自分たちが受けた被害や心の傷など、全然たいしたことはない、そんなことは決して口にしてはいけないのだ、というような強い思いが、ほんとうは泣きたい心を封じ込めているように、私には感じられたのだ。

そして、そのほんとうは泣きたい気持ちの質は、東京とはちょっと違っていて、明らかに「ふるさと」への強い思いにつながっている。

さらに、私はちょっと問題だと思ったけれど、内陸部に住む人に、自分の家でも食器が全部壊れたり、壁が落ちたりした、特に二回目の4月7日の余震が起きた時は「ああ、またか」と意気消沈した、というようなことを言う人がいたとする。そうすると、その人を、沿岸地域の人たちのことを思え、そんな弱音など吐くな、という少々威圧的な態度で、あるいは糾弾するかのような口調で言う人がいる、という現実だ。

そんなこんなで、夜になると、避難所ではケンカが絶えないとも聞いた。また、たとえば、同じ仙台市でも、津波の被害に遭った地域と、こうした繁華街とでは、大きな格差が顕著になってきているとも。

ともあれ、何か、そうした、実はとても鬱屈した複雑な感情が堆積していて、その吐け口として、夜の歓楽街が機能している、という印象を受けた。

で、その後、もう一件。主催者の方に連れられて、すてきなバーに水谷君と行き、再びそこで話し込む。

話していて一番感じたことは、上記にも書いたが、私の想像以上に、内陸で被災した人たちには、津波ですべてを流されてしまった沿岸地域の人たちを支援しなければならないという、高い意識と強い意思がある、という現実だった。

つまり、福島原発事故、放射能のことは、まだほとんど意識にのぼっていない、という風にさえ、感じられた。

それよりも、なによりも、小さい頃海水浴に行った、あの沿岸地域の復興はどうするのだ?あそこに住んでいた人たちはどうなるのだ?とても他人事とは思えない、ということが大問題のまま、この約三ヶ月半を過ごしてきているという風に感じた。

そう思うと、、地震と津波と原発事故に遭っている福島県の人たちや茨城県の北に住んでいる人たちが背負っている痛みや悲しみや苦しみは、想像を絶するものだと、つくづく思い知った。

深夜遅く、ホテルに戻る。が、なかなか寝付けない。結局、全然熟睡できないまま朝を迎えた。なんとなく、今回のこの仙台、街の“気”がこれまでと全然違う。おそらく、このホテルにも被災された方たちが泊まっていたと思う。

それに、なんとなくガラが悪い雰囲気も。たとえば、エレベーターの中で、建設関係の仕事をされているであろう男の人たちが「儲かる、儲からない」といった話をしているのを耳にした。

今回の主催者の方ように、自分には収入がなくても、ボランティアとして懸命に活動されている人がいる一方で、既に宮城県の県庁がある仙台では、こうした利権や利益を求める人の“欲”が渦巻いている印象を受けた。



6月26日(日) 空気が・その1

朝食をとりながら、地元の新聞、河北新報を読む。紙面の半分以上が、震災関連、沿岸地域の状態、復興支援に費やされている。ちなみに、原発の問題はほとんど書かれていない。

また、昼のNHKニュースも、朝の連ドラの再放送が始まるまでの約45分間、すべて震災関連のニュースになっている。(東京もしばらくの間はそうだったけれど、今はもうそういう番組編成になっていない。)ここでもまた、放送されているのは、沿岸地域の状態や情報が中心だった。

また、東京の夕方のニュースでは、関東圏内の放射能数値が報告されているが、仙台ではそうしたことは放送されているのだろうか?(夕方から夜にかけては、私は仕事に出ているので、テレビを見ることはまったくできなかった。)

ちなみに、仙台市内の空間放射線量の数値は、私が住む東京都府中市よりはるかに高い。

ということで、地方新聞の朝刊と昼のNHKニュースを見る限り、福島原発事故の状態や放射能汚染についての報道は、ほとんどされていなかった。

報道管制が敷かれているのだろうか?あるいは、沿岸地域の復興のことだけでもたいへんなのに、放射能のことは忘れていたい、考えたくないということなのだろうか?

とにかく、こうした現実があることに、実は正直、私は少し驚いた。

午後1時少し前にロビー集合。ここで坂田学君と合流。

コンサート会場は「Rensa」というクラブのような感じの小ホール。音響さんも照明さんもはりきっておられたようだけれど、最低限の音響と照明にしていただく。ピアノはレンタルしてくださったもので、後で、調律師さんとあれこれお話をする時間を持てた。

また、主催者の人が言う。「震災後、初めて、生の演奏を聴く」と。そういう人も多いのではないか、とのこと。実際、生演奏によるコンサートなどに足を運ぶ余裕など、皆無だったにちがいないことは、容易に想像できる。

午後4時開演。空気が違う。客席の雰囲気が、重い。なんとなく突き刺さってくる感じ。どう言ったらいいだろう。他人に言えない気持ちや事柄、こちらからあなたに尋ねるには憚れるような感じ、泣きたい気持ち、つらい思いが渦を巻いている“磁場”のように感じられた。

私は、私たちは、これを全部受け止めて引き受けて演奏するのか、と思った途端、何かが私の背中を襲った。・・・ちゃんと演奏できるだろうかと思いながら、深く呼吸をして鍵盤に指を降ろす。

今年からもう演奏するのはやめようかと思っていたと、坂田さんが言う曲は「死んだ男の残したものは」や「ひまわり」。でも、この大震災で、やらざるを得なくなった、ということで、今晩ももちろん演奏する。リクエストもあり、「タコのバラード」や「星めぐりのうた」も急遽演奏することに。

「死んだ男の残したものは」では、それぞれのソロがいつも演奏される。水谷君のベースソロを中庸な心持ちで聴いていたら、今日はベートーベンの「歓喜の歌」が空から降ってきた。ので、弾く。途中から学君を眼で誘って、アップテンポの3拍子にして演奏。

合間の坂田さんのお話も長かったこともあり、間に20分間くらいの休憩をはさんで、終わって時計を見てみれば、既に午後7時をまわっていた。約三時間、コンサートをやっていたことになる。ピアノはレンタルだったので、運び出す専門の業者が、ずいぶん待たされた様子だったが、ごめんちゃい。

その後、会場では、長野県のアパレルメーカーから提供された洋服などのオークションが行われた。この売り上げは、石巻市などの被災地で炊き出しを行うNPO法人『ピースプロジェクト』に寄付され、それらは被災した子どもたちのために使われるとのこと。

とにかく、この主催者の方に任せておけば、確実に、必要なところへ、必要とされている人たちの元へ届くことは間違いない。

それから、打ち上げ。上記のピースプロジェクトに関わっている東京や横浜から来た人たちも交えて、わいわいとあれこれ話をする。私と同じ市に住んでいる方もおられたのには、ちょっとびっくりした。また、前回のツアーの時にも来てくださった語り部の方が、気仙町(岩手県)の方言で民話を披露。何度聴いてもすんばらしい。

深夜、ホテルに戻る。やはり眠れない。睡眠をとらないと体力がもたないから、明日がきつくなると思いながら、うとうとする。



6月27日(月) 空気が・その2

仙台を午後1時過ぎに出発して、岩手県一関へ向かう。

午後3時頃、会場である「ベイシー」に着き、マスター・菅原さんと握手とハグ。

店内はきれいに片付いていた。楽屋となる2階は、明け方3時過ぎまでかかって、みんなで掃除したそうだ。実際、4月7日の余震が追い打ちになり、以降、いつまた大きな余震が来るかわからないという状況の中で、片づける気力が一切湧かなかったとも聞いた。

一昨年まで演奏会場になっていた大船渡の旅館のご主人もいらっしゃって、思わず「生きててよかった」と言ってしまった私。その旅館は高台にあるため、幸い、建物は大きな被害には遭われなかったとのこと。なので、避難所として提供したりしているそうだ。

だが、実際のいわゆる営業をいつ再開したらいいものか、地元との折り合いも含めて、非常に微妙な状況にあると聞いた。復興支援の建設業者の受け入れをすれば、確実に収入につながるけれど・・・。

このベイシーで出会った調律師さんが、自身のピアノ工房からグランドピアノを無償で提供してくださり、山道を軽トラでピアノを運んでくださった一昨年。コンサートがあった、大船渡、そして大槌。・・・あのようなことは、もう二度と、私の人生には起こらないだろう。

サウンドチェックを終え、一度ホテルに戻る。開演までにあまり時間がなかったが、ホテルの横にあるお店で、名物のソースかつ丼を食べる。けれど、ごめんなさい、食べきれなかった。なんだかちょっと胸もいっぱいな感じだったかもしれない。

夜7時開演。ベイシーのキャパは、たとえば渋谷・公園通りクラシックスくらいの広さだろうか。その灯りを消された客席は人でびっしり。「岩手ジャズ喫茶連盟」の重鎮の方々、「岩手ジャズ愛好会」の人たちや、釜石や大槌などの沿岸地域の避難所から来た人たち、花巻、北上、水沢、盛岡、さらには山形、石巻、塩竈、東京などから来た方たちも。

また、個人的なことだが、一関に住む大学の後輩が、勇気を出して初めてベイシーに来てくれていた。とてもうれしかった。卒業以来の再会だ。彼女は小学校の特殊学級で先生をしているという。大地震が起きた時は、子供たちを避難させるのに、たいへんだったと話していた。

客席の前のほうには、知っている方々の顔もたくさん。その中に、すべてを津波で流された、大槌でジャズ喫茶クイーンを経営されていたマスターとその娘さん。さらに、同じく大槌で、コンサート開催の折には中心になって動いてくださり、津波に飲まれたまま、行方不明になっているSさんの奥様(息子さんも行方不明)と娘さんのお姿も見えた。

クイーンのマスターは「家も、2万枚のLPもCDも、○万冊の本も、大事なものも、なにもかもすべて、頭も心も流されたままだ」とおっしゃっていたという。一時、名古屋のご親戚のところに避難されていたそうだが、今は花巻に戻ってきておられる。健康状態のこともあり、心配していたけれど、とにかく客席に座っておられたことに、少しだけ安堵する。

まず、坂田さんが話をする。少し感きわまっておられる様子で、言葉をつまらせる。その時点で、もう涙ぐんでしまった。流れそうになる涙を必死にこらえる。

今日の空気は、昨日と質感が異なる。異様に濃い密度。聴いている人たち、全員が被災者だ。しかも、長年音楽に携わったり、ジャズを愛しているような人たちもたくさんいる。今晩もまた、この客席のエネルギーの中で、演奏しなければならない。これは、予想以上に、しんどい。正直、そう感じた。

かくて、私たちの演奏は、最初から、これ以上ないと思えるような、異様な超ハイテンションで始まる。坂田さんのサックスは思いを乗せて炸裂。ベイシーに置いてある、すんばらしいドラムス(グレッチ)を叩く、若い学君がいてくれて助かった。

振り返れば、自分の演奏にはあまり納得がいっていない。坂田さんが咆哮し、ドラムスが入ると、どうしてもピアノに突っ込まれたマイクの音量を上げられるし、ベースアンプの音も大きくなる。自分の指先や音色のコントロールがうまくできなくなって、自分の気持ちにストレスが少したまってしまう感じになるためだ。

でも、全体の演奏は、フォルティッシモからピアニッシモまで、豊かな幅のある、そして力強く、願いと祈りがこもったものになり、遠くから来てくださった方たちの心にも届いたのではないかと思う。もう二度とない演奏。

終演後、焼肉屋さんで打ち上げ。かなり多くの人たちが残られて、部屋は煙でもうもうになる。クイーンのマスターが笑顔でおられたことに、とても安堵する。2ステージ目の前半は、外の車で休まれていたと聞いたからだ。(音楽を聴くにも、体力が要る。)深夜1時過ぎに解散。

ホテルに戻り、窓から外を見ると、深い霧。ここ、一関は放射能汚染のホットスポットであることを思い出しながら、眠る。



6月28日(火) 鎮魂

正午、ベイシーのマスターたちと合流して、“富澤”という魚屋さんのお店で、焼鯖定食をいただく。すこぶる美味。

一関の放射能汚染状態については、少しだけ話題にのぼる。やはり女性のほうが心配しているようだ。みんな、水を煮沸して子供たちに渡しているという。って、煮沸しても、放射性物質はなくならないのだが・・・。

一関市は、放射能汚染地図を発表した、火山研究を専門とする地質学者・早川教授に抗議したということだけれど、市は独自に細かく調査して、きちんと公表したほうがいいと、私は思う。

ちなみに、ここ、一関市も平成の大合併でかなり広くなってしまったという。なので、市の中でも、建物が半壊、あるいは全壊した地域もあれば、食器が割れた程度で済んだ所もあるらしく、被害の程度にはかなり差があるとのことだった。だから、地震による直接の被害とは無関係ではあるが、放射能汚染についても、おそらく同様のことが言えるにちがいない。

今日は移動日でオフ。今晩の宿泊先の花巻まで、一関から高速道路を使えば30分余りで着くが、今回は遠野を抜けて、沿岸地域の釜石、そして大槌をまわり、再び同じルートで戻って、花巻に入ることになった。片道約2時間半くらいかかるだろうか。

遠野の田園地帯を抜けて、バイパスで釜石に入る。先に書いたように、どこを走っていても、「がんばろう」が「!」付きで、これでもかこれでもかと、目に入る。

釜石市役所を過ぎた辺りから、車から見える外の景色が変わっていく。商店街は一階が壊滅。高台にあるお寺の階段の手すりが、途中まで歪んだり落ちたりしている。車内には「わあー」という声しかない。

車は海岸沿いを走る。瓦礫の中で、赤い旗が風で揺れている。橋を渡って大槌に入ると、左側に、焼け焦げた鉄筋コンクリートの建物が目に飛び込んでくる。大槌は火災も発生した所だが、それはまるで戦争で爆撃を受けた跡のようだった。

何も、ない。瓦礫と、ぐちゃぐちゃになった車と、骨のようになった鉄筋の柱と。壊滅的な光景。ただ、そればかり。

午後4時半過ぎに、大槌のジャズ喫茶クイーンがあった所に到着。既に、Sさんの奥様、娘さんたち、そしてIBCの取材スタッフが待っておられた。臭いがすごい。思わず、黙祷する。

周囲を見渡すと、3階建ての町役場の時計が目の前に見える。その時計の半分くらいまで、水がやってきたことがよくわかる。ほぼその隣にある、コンサートを行った会場の建物は、一応、その形をとどめてはいたが、津波の恐ろしさを語っている。

高台にあるお寺の山の斜面には、「自衛隊のみなさん、ありがとう」と書かれた垂れ幕が見える。

言葉が出ない。私は写真を一枚も撮れなかった。

坂田さんはアイヌ式のお祈りを捧げてから、お一人で、アルト・サックスで「浜辺のうた」を演奏される。瓦礫の平原を響き渡る音。

このツアーに、充電式のアンプを用意して、昨晩充電していた水谷君だったが、結局、演奏せず。

行方不明のSさんは「死ぬまでコンサートをやる」と言っていたという。また、生前に、葬式は音楽葬で、と希望しておられたこと、だから昨晩の演奏、そして今の演奏を聴いて、自分もやっと少しふんぎりがついたと、目に涙をいっぱいためて、奥様は話してくださった。

誰もが、自分にできることは何か?と問い続けている時間が続いていると思うが、音楽に携わる私たちにできることは、こういうことなのだろうと再確認したように思う。生き残っている者たちにほんの少しの希望を届ける、否、届けられる、かも、しれない、ということだ。(この、かも、は大事。)

この地に立つことができて、よかった。やはり、行くべき、だったのだと思う。

車は元来た道を戻り、釜石、遠野を抜けて、花巻の大澤温泉へ。夜7時半過ぎに着き、食事をして、温泉につかる。昨晩、バリバリになってしまった腱鞘炎の右腕は、だいぶ楽になった。恐るべし、温泉の効き目。

雨が降り続いているので、川は増水して、茶色く濁っていたが、川沿いにある露天風呂からは男の人たちの声が聞こえる。今回は勇気が出ず、露天風呂には入れなかった私。あ、混浴、っす。



6月29日(水) 空気は・その3

花巻・大澤温泉を正午過ぎに出て、岩手県ジャズ喫茶連盟の代表を務めておられる浅野さんといっしょにお蕎麦を食べてから、盛岡へ向かう。

ホテルで少し休む。今回のツアーでは、全部、喫煙室にあたってしまった。ま、5年前までは1日1箱吸っていた私だが、煙草はすっかりダメになった。ので、毎日、せっせと消臭剤をシュッシュする。布地に付いた臭いはなかなか消えないので、ベッドで眠る時に気になっていけない。

夕方、会場となるライヴハウス、すぺいん倶楽部へ。今晩は坂田学君はいないので、いつものようにトリオでの演奏だ。坂田さんの歌用のマイクと、水谷君がベースアンプを使う以外は、すべて生音。会場の造りの関係で、坂田さんの音がとても大きく聞こえるので、くれぐれもあそこに向かって吹いてくださいと、水谷君と私は懇願する。

サウンドチェックを済ませ、私はベイシーのピアノを調律してくださった調律師さんとお蕎麦をいただく。いろいろお話しができてよかった。

夜7時半開演。ほぼ満席のお客様。花巻の人たちも来てくださっている。大槌・クイーンのマスターも、再び足を運んでくださっている。その笑顔が一関の時よりずっと軽い感じ。よかった。

演奏は2ステージ。店の空気は、一昨晩よりずっと軽い感じ。普通に息ができる心持ち。

店の反響の関係で、アルトサックスの音が少々きつく、私は途中から耳栓をしながらの演奏になってしまった。ごめんなさい。坂田さん、あと30度、向こうを向いていただけると・・・。なんて言ってられないのが、非情なるジャズの世界の掟なのだ。

終演後、そのまま会場で打ち上げ。

花巻に住んでいる友人たちとゆっくり話す。そのうちのお一人は旅館を経営されているのだが、今、朝4時半に朝食を作って出しているという。通常、観光客が早朝に出る時は、そのようなことはしないそうだ。だが、ボランティアで来ている人たちには、それくらいのことはしなくては、と強い使命感を持った言葉で話していた。

先に書いたように、花巻から釜石や大槌といった沿岸地域に出るには、2時間はかかる。朝の4時半に花巻を出て、向こうで炊き出しの準備ができるのは6時半、ということになる。

また、この盛岡でも、宮古などの沿岸地域の支援をしていて、このジャズクラブでも、夜の10時を過ぎた頃から、ご飯が炊ける香りが店内に漂ってくるという。飲食店組合が協力して、各お店では、毎晩、100食分のおむすびを作って、被災地の避難所に届けているのだそうだ。

かくのごとく、内陸に住んでいる人たちは、やはり沿岸地域に住む人たちを、しっかり支えようとしていることが、痛いほどよくわかった。そうしたことは、たとえば東京に暮らす私たちにはなかなか見えない部分だろう。

そして、大震災後、個人的に非常につらい目に遭われて、心に深く傷を負っている方、音楽を聴きにライヴハウスに来れるような状態にはまだまったくなれない方がおられることも知った。仕事が保険業の人も、ものすごくたいへんそうな様子で、倒れそうだと笑いながら話をしておられたけれど。

その後、坂田さんと水谷君と3人だけで打ち上げ。夜のパトロールの経験が豊富で、お店に鼻の効く水谷君が、クンクンと辺りを探す。

で、遅くまで開いている「にっか亭」という、ちゃんとしたバーに入る。全然調律されていないピアノを、一人の男性がソロで弾いている。聞けば、一晩、ヴォーカリストと3ステージ、さらにソロで1時間を2ステージをこなし、終わるのは夜中の2時半だという。い、い、今の私には、とても無理だあ。

その演奏が終わった後、いっしょに飲んで話しているうちに、その彼は新宿ピットインのジャムセッションで私と会っていると言う。どひゃあ、もう25年以上前の話だ。

気付けば、時計は深夜3時をまわっている。さあ、ラーメンなんか食べないで、帰ろう。



6月30日(木) 帰京

午前11時にホテルのロビーに集合し、盛岡のジャズの重鎮、瀬川さんたちとお蕎麦屋で食事をしてから、午後12時半頃に盛岡を出発。

帰りの高速道路は、往きと違って、路面がまだかなりでこぼこな状態だった。途中、福島県に入った辺りで、一車線は工事中で、渋滞にはまる。

水谷号、走っていて、どうも後ろのほうでパタパタ音がしているなあと思っていたら、バンパーが壊れて道路をこすりながら走っていたことが判明。他の車からパッシングされていたらしいけれど。

トラックや県外ナンバーの車も多い。途中で、水谷君が急ブレーキをかけたので、すっかり脱力して眠っていた私は、少し首を振られた。

午後7時頃、埼玉にある坂田宅へ到着。それから、坂田さんが南浦和駅まで車で送ってくださり、府中本町駅からタクシーで自宅まで戻る。

正直、たいへん消耗した感じ。って、全然痩せてないけど・・・。

これまでの生涯で、もっとも重いツアーだった。

でも、天に心から感謝。

東北の地で出会った方々、生きて再会できた方々、コンサートを主催してくださった方たち、調律師さん、そして、坂田さん、水谷さん、みなさんに心から御礼申し上げます。






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