3月 |
3月1日(火) 初宝塚 大学を卒業して、アルバイトの延長で就職した出版社時代の友人、お茶の水女子大を出た才女に誘われて、初めて”宝塚歌劇”に足を運んでみた。 ほぼ満席。観客のほとんどは女性だった。当然のことながら、休憩時間のトイレは行列。 観たのは『ロミオとジュリエット』。通常、前半は芝居、後半はレビューといった形式で上演されるらしいが、今回は二幕物のミュージカル劇になっていて、アンコール的に、ラインダンスや、大きな羽を付けた主役などがダンスを披露するというものになっていた。 その第一印象。宝塚ファンからは包丁持って追っかけられそうだけれど、正直、豪華な学芸会という感じ。特に最低レベルの歌唱力があると感じられた人は2〜3人だったように思う。 それでも、ともあれほんとに華やかだ。今どき、あれだけの舞台を造れるのは、宝塚か北島三郎か、というところだろう。 なお、全編を通して、「愛」と「死」という、無言でダンスを踊る二人が登場していた。これは、いわば、物語全体を客観的に視る「シンボル」を組み入れた演劇的構造、演出として、全体を引き締めていたと思う。日本の能楽などにおいても、古くから使われている手法ではあるが。 そして、さすがに主役のロミオはすてきだ。文句なく格好良い。オケピの外側に、つまり客席側に半円形にセリ出た花道のような所に、颯爽と歩いて近づいて来て、目の前で微笑まれたら、そりゃ、毎回1万円近く出費しても、何回も観に来るであろうことは想像にかたくない。 中高と女子高だった私には、女性がそうした男役に惚れ込むという雰囲気や気持ちはわからないでもない。下駄箱にラブレター、交換日記をしてください、女性同士の嫉妬など。ま、髪はショートカットでスポーツ万能の憧れの先輩をハートの目でみつめる、なんてことは、よくあったと思う。 老いも若きも、“束の間の夢”を見にやってくるのだろう。また、地に落ちた日本の国技、相撲の世界のように、どうやら宝塚にも“タニマチ”があるらしい。若い彼女たちの将来をいっしょに夢見る、というところだろうか。 深夜の電車の中で、ネクタイをだらしなくゆるめ、平然と鼻くそをほじくる、いかにも足が臭そうな酔っ払ったオヤジより、宝塚の男役をやっている人を頭に描いたほうが、百倍、いい夢を見られるわ、と言われれば、それはそうに違いないと思う。 3月2日(水) エアコン 去年の夏、エアコンが全滅したために、死にそうな思いをしたので、ヘンな時期ではあるけれど、エアコンを一台新設することにした。その工事に電気屋さんが来たのだが、電源をどこから取るか、に約2時間も費やされた。 電気屋さん曰く、この家は実に頑丈に真面目に造られているのだそうだ。その分、あとから何か施そうとする時、非常にたいへんらしい。そういえば、光ケーブルを通す時も、同じようなことを業者に言われたことを思い出す。 家の床下収納はひっくり返されるは、押し入れのものは全部出されるは。簡単に考えていたのだが、ほとんど大掃除状態になり、えらいこっちゃの半日になってしまった。 3月3日(木) 首 午後、太極拳の教室。 首を左右にまわす。これが思いの外ちゃんとできない。ともあれ、一週間に一度、自分の身体の内側を強く意識する大切な時間。 3月4日(金) ドミニク・ヴィス ドミニク・ヴィス(カウンターテナー)&カフェ・ツィマーマン公演『フレンチ・コミック・カンタータの夕べ』に行く。 最初の楽器演奏曲は、ミシェル・コレット作曲『コミック協奏曲 第24番 ユロンの行進』(1773年)。音が出た途端、とてつもなくピッチが低く感じられる。そしてなんとな〜くゆる〜い感じで始まる。このままの感じで全部いかれたら、ちょっときついかもしれないと思ったのは杞憂に終わった。 2曲目のカンタータ『ドン・キホーテ』(作曲 フィリップ・クルボワ/1710年)で、ヴィスは赤い木馬の三輪車に乗って下手から登場。イカしてる。会場内に笑いが起こる。もしフランス語が理解できれば、もっと面白かったと思うが、ヴィスは三輪車で走りまわり、自身も舞台を飛び回って、歌い、演じていた。なんとまあ、楽しい。 前半の最後はマラン・マレ作曲『パリ、サント・ジュヌヴィエーヴ・デュ・モンの鐘の音』(1723年)。細かいメモを取らなかったのだが、この曲、なんだかよかったような記憶がある。(webで検索してみると、この曲は、日本に古楽が伝わった頃は頻繁に演奏されていたらしい。だから、懐かしかった、と書いている人もいた。へえ〜。) 休憩後、後半はラモーの曲(1741年)が演奏された後、衣装を身にまとったヴィスが登場。先の赤い木馬の三輪車や、階段にもなる木の椅子や、このよくできた衣装など、“小道具”が実にすぐれていて、拍手を送ってしまう。 演奏されたのは、ニコラ・ラコ・ド・クランヴァル作曲、カンタータ『エフェソスの貴婦人』(1755年)。この作曲家は、フランス座のための喜劇を数多く出版し、歌ではなく台詞で進行してゆく劇がアリエット(小さなアリア)と入り混じる「オペラ・コミーク」という、フランス特有のスタイルに手腕を発揮した人だそうだ。 その内容は、夫に先立たれた貴婦人が、縛り首になった死体を見張る兵士にコロッと慰められ、その後死体のすり替えをするという、ややグロテスク(さらに風刺になっているらしい)な恋のオハナシ。 ヴィスはこの曲で、4人の登場人物、未亡人、メイド、死んだ夫、兵士、さらに語り手も担って、そのすべてを一人で演じ、そのすべての声を変える。カウンターテナーからバリトンの音域までを、縦横無尽に泳ぎ回るのを見せて聴かせてくれた感じだ。その音域はおそらく3オクターヴ(近く?)はあると思う。 その後、再びミシェル・コレットの『コミック協奏曲 第5番 女は大いに面倒の種だ』。フルート中心の器楽演奏で、私はここで少し眠ってしまう。古楽の倍音は、いつも私を心地よい眠りへと導く。うーん、なぜだろう? 最後はピエール・ド・ラ・ガルド作曲『ラ・ソナート(ソナタ)』(1757年)。ヴィスは歌の入らない純粋な器楽のソナタを演奏しようとするマエストロとして登場。が、無論、ヴィスは歌う。 冒頭のピッチを合わせる場面。ビミョーなピッチの探り合いをして、その音程は実に正確にほんのちょっと高かったり低かったりする。ヴィスの耳、さすがだと感じる。 そして、ヴィスは身体全体で音楽を表現するかのように大奮闘。指揮棒を投げ飛ばしたり。指揮棒を失くすたびに、指揮台から新しい指揮棒を取り出すのだが、それがだんだん太く長くなっていく演出。最後は麺棒のような巨大指揮棒を振り回していたっけ。 それに、楽器演奏者たちも、ちょっとした演劇的身ぶりをいとわない。「なんなの?あの指揮者」みたいなおしゃべりや演技っぽいふるまいをしたりしているのも、なんだか楽しい。 ドミニク・ヴィス。私は彼の武満徹の作品集CDしか知らなかったのだけれど、いやあ、面白かった。 最後の曲の光景を眺めながら、私自身がミュージシャンをたくさん集めて行った、2000年にYJPで行った音楽劇のことを思い出した。そして、自分には“音楽劇”への志向があることを、いまさらのようにはっきりと自覚した。オペラでもなく、オペレッタでもなく、ミュージカルでもなく。さてさて、ではでは。時間はないぞ。 3月5日(土) 古語 夜、丸野廣(vo)先生の会で、再び、坪井美香(女優/朗読)さんと共演。 前回もやった、原文の古語で読まれる『竹取物語』を再び。やはり日本語の古語が美しい。情景や臭いなども鮮やかに立ち上ってくる感じがしてくるから不思議だ。まるで身体や記憶の遠いところを呼び覚まされながらやっているような心持になる。 ほかに、“月”にちなんだ新しい民話を2話。ほかに、草野心平さんの詩を、新しいものも含めていくつか。 お客様が超少なかったのは残念だが、やることには手抜きをしていないから、今宵も楽しくできたように思う。 日本語の古語による語り。これに邦楽器で音楽を付けることは、想像しやすい部分があるとは思うが、そうではないやり方で世界を創ることに、なんとなく何か可能性があるような気がする。 3月6日(日) Agent orange 朝7時に起きて、午前中からホーム・コンサートで演奏。朝からヴァイオリン奏者は身を振り絞るようにして演奏するので、こちらも負けてはいられない。遅いランチを食べてから、帰宅。やっぱりちょっと疲れた。小1時間くらい爆睡してしまう。 夜、NHK教育で放映されたドキュメンタリー『枯葉剤の傷痕を見つめて 〜アメリカ・ベトナム 次世代からの問いかけ〜』を観る。 この番組は、映画『花はどこへいった』を監督した坂田雅子さんが語り部となって進められていた。ベトナム戦争で、アメリカ軍が散布した枯葉剤。その影響は枯葉剤を実際に浴びたアメリカの兵士やベトナムの人々のみならず、その帰還兵と現地ベトナムの子供たちに、世代を越えて現れているという。 その生々しく痛々しい現実と、運命を引き受けて生きていかなければならない人々の苦悩や生活がくっきりと映像に映し出されていた。 泣いた。 3月7日(月) 日本酒捨てる 床下収納庫を大掃除する。15年以上前の日本酒の一升瓶が数本あって、すべて捨てることにした。ほかにもワイン、ウイスキー、焼酎などなど。 それで、小瓶の白ワインを開けて、ワイングラス半分くらいを2杯ほど飲んでみる。私宅ではめったに飲まないのだが。って、もともと飲めない体質なのだけれど。おかげで、夜は猛烈に頭が痛くなって、そのまま寝てしまった。やっぱり私にはアルコール分解酵素がないのだろう。 |
3月10日(木) 渋谷な日 夜、渋谷・公園通りクラシックスで、坂田明(as,cl)トリオで演奏。学校の卒業式とか企業の送別会とか、いろいろ重なっているのだろうか。お客様より演奏者の数のほうが多かったのは残念。もちろん演奏に手加減は一切ない。 その後、渋谷・dressに行って、来月のダンスとの公演の打ち合わせ。やはり直接会って話してよかった。 3月11日(金) 大地震・1 午後2時46分。家に活けている花の水を取り替えている時だった。 家が、地面が、揺れた。 こんなのは初めてだ。こわい。庭に面しているはきだし窓を開けて、窓枠にしがみつく。玄関の屋根の雨どいから、多量の水がザバッザバッと波のように溢れ出しているのを目の前に見て驚く。 揺れがおさまってから、テレビをつけてみる。大きな地震だったらしいことを知る。 それからしばらく眺めていると、どこかの東北の沿岸地方の映像。あっという間に水が押し寄せ、町を飲み込み、車を、大きな船を、建物を、すべてを暴力的に流し去っていく。そのあまりにも速く、恐ろしい光景をまのあたりにして、震える。 家の中を点検。本やCD、棚の上に載せておいた写真立てなどが、ほんの少しだけ落ちていた。が、友人たちがwebにアップしているような、モノが散乱した状態にはならなかった。 それでも、まだ少し軽い気持ちでいた私は、余震が続いてはいたものの、夜のライヴで演奏する支度をした。でも、と思い直し、今夜の共演者・水谷浩章(b)さんに電話してみるものの、全然つながらない。ちなみに、この時間帯は、ケータイのメールはとりあえず送信できる状態だったが、どうやらずいぶん遅れて届いたようだ。 夕方、家の固定電話同士で、横浜・ドルフィーのマスターと連絡がとれる。もう少し様子を見ましょうということになる。 が、事態はどんどん深刻化していることを知る。都内の交通機関はほとんどとまっているという情報も入ってくる。 そして、夜6時少し前に、やっと水谷浩章(b)さんとも連絡が取れて、今晩のライヴは中止することに決めた。(急なことで、もしお店に足を運ばれた方がいらっしゃいましたら、この場を借りてお詫び申し上げます。) 同じ頃、外出していた母(公衆電話)から固定電話に連絡が入る。電話の向こうの母の声が震えている。デパートの中にいることはわかっていたので、多分大丈夫だろうとは思っていたけれど、声を聞いて安堵する。 公衆電話も、タクシーを待つ人も、バスを待つ人も、ものすごい行列だけれど、これからバスで帰宅する、という。車で迎えに行くと強く言ったが、バスで帰るからと母は固辞して、電話が切れてしまう。あとで、妹からは車で母を迎えに行かなかったことをひどくしかられる。 やはり外出していた小学生の甥っ子は、電車が停まってしまったので、途中の駅から歩いて帰って来たと連絡が入る。多分3時間くらいは歩いたのではないだろうか。 母がいっこうに帰って来ない。心配になるが、どうしようもない。 以降、テレビをずっと注視する。あまりの状況に言葉も出ない。 夜11時半過ぎ、母からやっと電話が入る。普段なら、特急電車で5分くらいで帰って来ることができるのに、なんと2時間余りかかったとのこと。その間、ぎゅうぎゅう詰めのバスの中で、ずっと立ちっぱなしだったというから、体調を心配するも、本人は割合に元気な様子でちょっと安心する。 3月12日(土) 大地震・2 終日、テレビを観ていた感じ。 途中で、福島原発のことが報道される。福島第一原子力発電所の一号機から白い煙が出ているという。 東北地方、特に岩手県、宮城県は、坂田明(as)さんのツアーで、もう何度も車で走って、コンサートを行っている。ほかに、親戚もいるし、大学時代の先輩や後輩もいる。安否が気づかわれ、電話も全然つながらず、心配でならない。 岩手県大槌町は、町長をはじめまったく連絡が取れないという報道。同じく岩手県陸前高田、大船渡、宮古、宮城県石巻、気仙沼、南三陸町といった、沿岸地方の映像は凄惨をきわめている。あの国道も、あの景色も、・・・跡形もない。 夜、盛岡市内は通電され、PCを起ち上げられる環境になったことを、盛岡在住の友人がmixiに書き込んでいるのを見て、友人たちなどに安否のメールを送ってみる。 3月13日(日) 大地震・3 正午頃、岩手県大槌町の現状が初めてテレビで映し出される。ある程度想像はしていたけれど、あまりにも悲惨な状態で絶句。生きていて欲しいと、涙ながらにテレビ画面に向かって祈るのみ。その場ですぐに坂田明(as)さんに電話する。テレビのレポーターがあんぽんたんなり。 午後、盛岡、花巻、一ノ関といった内陸のほうの方たちとは連絡が取れたと、坂田さんから連絡が入る。 夜になって、さらに、大槌町のケンちゃんがラジオに出演していたという知らせが入る。生きててよかった。少し安堵して涙する。でも、まだ大槌町の会長や大船渡の様子はまったくわからない。 福島原発の状況についての報道も、時間とともに変わっていく。ネット上には、チェーンメールも含めて、様々な情報やデマなども飛び回っている感じ。 夜8時をまわってから、東電が「輪番停電」をすると発表。そのやり方や地域などの詳細がおおむねわかったのは、夜も10時をまわったころではなかったかと思う。これで、明日の朝6時過ぎから順番に停電を開始する、と言われても・・・。遅い。あまりにも発表が遅い。 東電も混乱しているようで、NHKも東電のwebを見ろと繰り返している。みんながそのwebにアクセスするに決まっているから、見られない。 さらにNHK。グループ名の時間制限を言うにとどまり、どの地域が何グループなのかを言わない。東電からの情報が整理されていなかったのかもしれないけれど。 ともあれ、これでは耳の聞こえない人にはわからない。夜、地元の小学校のスピーカーからも、市の災害対策本部による停電時間の報道があったけれど、それだって聞こえないだろう。(政府は今日になってから、首相会見や官房長官の会見などに、手話の人を付けるようになった。) それに、ここのところの風潮をいかがなものかとずっと思っていたけれど、誰もがPCを持っていて、そこから情報が得られるわけではない。ということに、みんな配慮しないようになっている。 75歳を過ぎている母は、携帯はおろか、PC言わんをや、だ。それにこんなに夜遅くに停電が実施されることがわかっても、既に寝ているお年寄りもたくさんいるだろう。 かくて、街灯や道路の信号機は止まるらしい。普段使っている電車(京王線/新宿と東京の西にある八王子や高尾、橋本方面を結ぶ電車)は?と調べてみれば、通常運転の5割。さらに、午前中4時間半、夜6時から4時間、私が利用する駅までは電車がやってこないという。新宿と調布の間だけ走るらしい。 政府は「通勤通学を見合わせて欲しい」と言っているらしい。が、このように急に決まった停電に、社会は混乱するに決まっている。そして、この国の経済はどうなってしまうのだろう? 天にためされている気がする。この国。そして、私自身が。 3月15日(火) 買い占めトウキョー 輪番停電、言い替えられて、計画停電が実施されるということで、実家に行って、あれこれ準備する。懐中電燈、電池、ろうそく、一応カセットコンロ、カセットボンベ、水、暖房が止とまって寒いと困るので毛布、などを確認する。 町には、ろうそくも電池も、既に売っていない。スーパーに行けば、なぜだかお米もない。保存食系のカップラーメンなどの棚もからっぽ。牛乳も卵もない。トイレットペーパーもないという。甲州街道沿いのガソリンスタンドには長蛇の車の列。唖然とする。 夜、オーケストラの団員である友人からメールが届く。来週に予定されていた「創立100周年記念特別演奏会シリーズ」の公演などの中止が決まり、自宅待機になっているという。 ほか、多くのコンサートやライヴが中止になっている。後日、母が楽しみにしていて、いっしょに行く予定になっていた『北島三郎 芸能50周年記念公演』(日生劇場)も、千穐楽まですべて中止になった。 さて、では、私はどうしよう。判断を迫られている。 ネット上では、原発問題について、実に様々な意見や発言、議論が沸騰している。 その中で、友人がweb上の日記にリンクしていた以下のサイトを読み、原発で働く人の実情を知る。これが事実なのかそうではないのか、についても、もちろん多くの意見があるようだが、ともあれ、知る。ちなみに、私にはこの問題を煽るとか、そうした意図はまったくありません。 平井憲夫さんの「原発がどんなものか知ってほしい」 3月16日(水) ろうそく 今日は夕刻から夜にかけて、輪番停電。 市の災害対策本部の放送が流れる。信号機も停電することを伝えた後、「できるだけ外出は控えてください」と言っている。「控えましょう」でもなく、「よく注意しましょう」でもない。 この表現をどう受け止めるかにもよるが、私にはちょっといかがなものかと思えた。市が率先して市民の自由を制限し、さらに不安を煽っているように感じられたからだ。みんなが精神的にまいっているところに、放射能物質が空中に舞っているかの如く(3月16日時点、です)、半分強制的にひきこもれと言っているように感じられ、危機感に拍車をかけるようなものではないかと思ったのだ。 そして、少し薄暗い中、実家に行く。事実、行くまでの間に通る道路では、信号機が点滅していない。車は何を基準にどう判断しているのかわからないけれど(こういう時のことを、教習所って教えてくれたっけ?)、それぞれ顔を見合せながら、はい、行きますよ、という感じで動いている。・・・実に、怖い。 実家に着くと、母はろうそく1本の灯りで料理を作っている。そしてもう1本ろうそくをつけて、食事。 幼い頃、台風が来ると、そのたびに停電していたことを思い出す。ちなみに、台風といえば、もう一つやることがあった。屋根の雨漏りのために洗面器やバケツを、その漏っている所に置く作業。 母曰く、「戦時中のことを思えば、なんてことはない」のだそうだ。戦時中、母は10歳の時に、家族から遠く離れて、独りぼっちで野沢温泉に疎開した経験がある世代だ。 やがて通電。なんて明るい。 そして、信号機が止まることも含めて、停電してわかったことがいっぱい。今や、電気が通っていないと、想像以上に生活が不便になることがよくわかった。いかに電気に頼る生活をしていたことか。 ファックス付きの電話は親器も子器も通じない。拙宅には昔の黒電話のような状態にある家電話があり、それは通じる。電気によって点火されるガスストーブやガスコンロは使えない。インタフォンも使えない。時間表示や温度設定しているものは、すべて初期化される。マンションなどは、断水する場合もある。 先日、太陽光発電とオール電化の見積もりを、たまたまとってみたところだったのだが、こういう事態になるとオール電化はきついだろう。太陽光発電とカップリングされているのだが、太陽光発電のみ、なんとかもう少し新しいエネルギーとして考える方法はないのかしら、と素人は思う。ちなみに、これらの見積もりお値段、約300万円。無論、今の私には逆立ちしても無理。 そして、母は物置から火鉢と炭を出して来ていた。 3月17日(木) 確定申告提出 午後の太極拳の教室がお休みになったので、確定申告の準備をして、夕刻、税務署に提出に行く。やっと荷物を1つ降ろしたような気分になる。 3月18日(金) 新宿は普通に街 地震から一週間。 福島第一原発の問題。こうしている間にも放射性物質が風に乗って飛んでいると思われ、深刻さを増している。 その原発自体の状況は刻々と変わるし、それに伴う東京の停電状況も変わるし、web上のものも含めて情報は錯綜している。それぞれがそれぞれの立場で、いろんな意見を言っている。 心は常にざわついていて、まったく落ち着かず、不安定で、おまけにものすごく不安。思ってもみなかった事態に対応していくのがたいへんで、そのうち、なんとなく食欲もなくて、少し疲れている自分に気づいて・・・。音楽のことなど一切考えられず、やや鬱っぽくなっている自分をたしなめたりして。 で、今日は、今月28日のライヴのためのリハーサルがあり、震災後、初めて都内に出た。 気分を晴らすために、ピンクの桜のはなびらがあしらわれている抹茶羊羹を買って行く。いつものように、春は近づいていることを、お菓子から教えてもらう。 私が20歳代前半に子供を産んでいたら、これくらいの歳になっている若者たちとの一夜のためのリハーサル。いろいろ話しながら、曲をつめていく。 某ライヴハウスをお借りしてリハを行ったのだけれど、このお店でも中止になるライヴが相次ぎ、停電(電車などの交通事情を含む)の影響もあって客足が薄いそうだ。どこのお店も今月は大赤字になることは想像にかたくない。 終わって地上にあがれば、外は夜。停電していない。「新宿は普通に街、じゃん」と思わずつぶやいてしまった。都内に住んでいる人は意識が薄いよ、と妹からは聞いていたけれど。 夜は節電で半分くらいのネオンや音になっている感じの靖国通り、歌舞伎町辺りを歩いて、東京も、この国も、そしてほかならぬ私自身も、もう一度生きることを問い直されていると、確実に思った。 3月19日(土) リヴ 夜、渋谷・dressで、喜多直毅(vn)さんとデュオで演奏。 渋谷も節電の街になっていた。ハチ公前交差点も、いつもよりとても静かだ。3つある大きなスクリーンも、すべて消えていた。 こういう時に、音楽をやるべきじゃない、いや、だからこそ、やるべきだ、などなど、実に様々な意見はある。そして、私たちは判断と選択を迫られる。結論、 私たちはライヴをやった。 Live。ライヴ。リヴ。 被災地のためとか誰々のためとか、そういうことを思っていても、何の役にも立たない。それよりも、大事なのは、こういう時は、自分の意見を持つこと、自分をみつけることではないか、と書いていた友人の言葉にうなづく。 今、必要なことは、日本の希望といった大きなことより、まずは、私が、あなたが、ひとりひとりが「希望」を失わずに、しっかり生きていくことを胸にとどめることではないかと。 そして、坂田明さんから届いた言葉でもあるけれど、私たちができることは、みんなが生きていく力が湧くような音楽ができるように、しっかり準備をして、来たるべき時にちゃんと演奏することではないかと。 生きる、あるいは生きているよろこびを、さらに、命の尊厳、死者へのレクイエムをうたうことが、私たちにできることではないかと。 そして、経済、だ。 今、かつて昭和天皇が逝去した前後の、自主規制のような状態、社会的雰囲気が蔓延している。 でも、この国の経済を萎縮させてはいけないと思う。音楽、映画、旅行、外食、ひいては笑ってはいけないのではないか、といったことまで、すべてが縮こまっている。人もテレビやPCの前で前かがみになって身体を丸めている。 けれど、こんな風に閉塞していたのでは、東北や北関東を応援することも、被災地の人たちを支えることもできない。しっかりと経済活動をすること、経済をまわすことが大事だと思う。 だから、やっぱり、うつむいていちゃいけない。 ライヴをやる理由。私はこんな風に思った。 で、今宵。喜多さん、思いっ切りハイテンションで登場。新曲をたくさん持って来てくださった。私は何の用意もできなかった。のみならず、演奏ではポカもたくさん。 この日の最後の曲はR・スチュワートの歌で有名な「セイリング」。喜多さんとこのような曲をやるとは想像もしていなかった。 そして演奏中、背後でブチッ、と音が聞こえた。あ、ヴァイオリンの弦が切れたんだろうな、と思う。そのうち、「We are sailing」と叫び始めた自分がいた。それから、歌っている私がいた。 終演後、聴きに来てくれていた北村聡(bandoneon)さんたちと談笑。北村君の話によれば、初台・オペラシティで予定されていた小松亮太(bandoneon)さんのコンサートが中止になったとのこと。その理由は、なんと、海外のミュージシャンが主催者に無断で、勝手に帰国してしまったから、だそうだ。 (このことについてはこちらで知ることができます) 帰りの電車、なぜかずっと涙。疲れている、ストレスを抱えていることに気づく。そして、私はそんな自分を放っておくことにした。 3月20日(日) ご先祖様 午前中、お墓参り。黒田家のお墓は代々小さな丘の上にあるのだけれど、この地震で2〜3のお墓が倒れていた。倒れた土台には十円玉。なんでも、昔から十円玉を敷いて、上に載せる石の平衡を保ったのだそうだ。 ここには、私の祖父の祖父のお父さん(もちろん江戸時代生まれ)のご先祖様のお墓がある。そこまでは確実にわかっている。が、ほかの江戸期のお墓もたくさんあって、どういうつながりなのかはよくわかっていない。 ともあれ、墓前で手をあわせる。 そして、母、妹家族、弟家族とランチ。年に二回の行事。 夜、震災後、初めて音楽を聴く。これまで、CDを聴く気持ちになど、とてもなれなかった。その一週間後に演奏はしたけれど、聴く気持ちになるまでには十日間かかったことになる。 ルイ・アームストロングが歌う 「Nobody knows the trouble I've seen」 に、静かに耳を傾ける。私にはJesusはいないけれど、サッチモの声に心が震える。 3月21日(月・祝) オレサマと 午前中、喜多直毅(vn)さんとのデュオ・コンサートでお世話になった、宮城県石巻市に住む方の無事を知る。その方の家は川沿いにあり、毎日、跡形もない光景だけがテレビで映し出されていたので、とても心配していた。 その方も、その方の妹さん(大学の後輩)の旦那様も、開業医なので、今頃はとても忙しくされていることだろう。 夜、雨が降る中、大泉学園・inFで、早川岳晴(b)さんとデュオで演奏。これまで何度か共演したことはあったけれど、サシで勝負するのは初めて。少しドキドキ。 今晩、ライヴをやるかどうか、は早川さんと話をして決めた。ただ、ガソリン不足で、早川さんは車で移動できないとのこと。ゆえ、店主・佐藤さんのコントラバスをお借りして、演奏することに。 そして、ピアノ。おそらく、地震の揺れに相当耐えたのだろう。ピアノの鍵盤が波うっている。鍵盤に段差があるところが数か所あった。実際、これほどの地震の時、ピアノは家の壁を突き破るような凶器にだってなりかねない。ともあれ、調律師さんは作業が増えて大変だろうと思う。 ライヴでは、互いのオリジナル曲を演奏したり、とても久しぶりにジャズの曲を2曲ばかり演奏したり。 そして後半。それぞれのソロを演奏。早川さんはコントラバスを弾きながら、英語の歌をうたう、弾き語り。格好良いぞー。 次に、私がソロで演奏。この時、あろうことか、初めて人前で泣きながら演奏してしまった。不覚。修行が足りん。 自分の演奏が津波に聞こえてきた。 やばい、と思ったけれど、もはや自分の指と涙をこらえることができなかった。 今日の午後、岩手県大槌町の知り合いはもう絶望的だ、と電話で聞いた。あの小さな町で、坂田明(as)さんのコンサートを開催するにあたって、そのド真ん中でがんばってくれていた方だ。町議をやっていた方で、みんなからも「会長」と呼ばれ、慕われていた。 大槌町の町長さんの訃報は昨日知ったが、地震直後、対策本部の集まりがあり、この方は避難する車の誘導、道路の交通整理にあたっていたらしい。が、それから何分後かに、まさか、あの高い(4m)防波堤を越えて大津波が襲ってくるとは思ってもいなかっただろう。無念だったと思う。 最後に「ホルトノキ」を演奏し、祈りをこめる。アンコールで店主リクエストにより「Silence」を演奏して終了。 自分もまた相当なストレスを抱えていることを思い知った。それでも演奏して、それを命を落とした人に捧げることができて、さらに泣くことができるのだから、私は幸せだと思う。 3月22日(火) 消耗 ベッドから起き上がれない。ひどく消耗している自分を感じる。やはり異常なテンションの中で演奏している気がする。 それでも、停電時刻が近付いて来たので、仕方なく食事の支度をする。したらば、市の災害対策本部も「これから実施されます」と市内放送しているにもかかわらず、今日はなぜかこの辺りは停電しない。 どこが「計画」なのだろう?と少し腹も立ったが、ラッキーと思うことにする。 そして、この市内放送。信号機の点滅が消えることに伴い、午前中は「外出は控えてください」と放送していたが、午後は表現が変わっていた。「交通事故に気を付けましょう」というような内容になっていた。私はこれでいいと思う。 夜は母と食事。アジの塩焼きと具たくさんの汁物と白いお米、を食べることのできる幸せよ。 3月23日(水) 次は、水 午後、生徒のレッスンを見る。 夕方、テレビを見ると、放射性物質の付着により、福島や茨城産のほうれん草などの出荷制限、摂取制限の報道。 さらに、次は、水。東京都23区と多摩地域の5つの市に水を供給している上水道から、暫定基準値より高い放射性物質が検出されたとのことで、乳幼児にはできるだけ飲ませないように、と東京都は保育園などに通達。 いずれは、とは想像していたけれど。もう今頃はどこにも水は売っていないだろうなあと思いながら、空を見上げる。家から一歩も出る気持ちになれず。 3月24日(木) 地震酔い 実際に揺れていなくても、なんだか揺れている感じがする、と口にする人がとても多い。友人の中には、嘔吐してしまう人もいるようで、体重が4kgも減ったとブログに書いている友人もいた。 私の場合、耳を患っていることもあって、例えば春一番のような強い風が吹くと、なんとなくくらくらふらふらすることがよくある。 さらに、「災害鬱」というものもあることを知る。 普段の日常と違う何かが起きると、75歳を過ぎている母は少しだけ不安定になる感じがするので、私なりにケアしているつもりだ。そういう時間の中で、逆に、自分は鬱状態にはあまりならず、救われているようにも思える。 そして、鬱ということではなく、なんとなくもやっとした真綿のような厭世感っぽいものが、自分の中に生まれているような気がする。って、「方丈記」か? 思えば、福島原発の問題で、私はおそらく生まれて初めて、外からの力によって「死ぬかもしれない」と思っている。 それは私のみならず、東京をはじめとする近隣県に住む多くの人が、緊張を強いられる日々を送り、「死」ということを皮膚感覚で感じているようにも思われる。 さらに、放射性物質や計画停電の影響で、モノを作れない、モノが売れない、客が来ない、となれば、これからの生活はどうなる?と、先が見えないことに不安は増大する。 どう死ぬか。どう生きるか。ふと気がつくと、そんなことを漠然と考えている自分がいる。 なんて気分を少しでも晴らすべく、午後、太極拳の教室に行って、身体を動かす。いやあ、足腰がつらい。地震酔いに効果があるという「虚歩椿(きょほとう)」もやる。やはり身体を動かして正解。空を見上げる心持ちになる。 3月25日(金) 首 夕方、いつもの整体に行く。今日はどこが?と尋ねられ、首と肩と答える。実際、今、みんなストレスを抱えていて、そういう時は、おおむね首が縮んでいるのだそうだ。 それに明らかにリンパの流れが悪い。揉んでもらうと、痛くて仕方ない。ともあれ、揉んでもらって、ちょっと元気になった。 先生曰く、海底がずれたことで、自転している地球の磁力が変わったので、“地震酔い”のような状態がひどい人は、しばらく続くかもしれない、とのこと。 で、今日は夜に停電する予定。夕方、子供を2人連れて整体に来ていたお母さんは、これから急いで子供たちをお風呂に入れて、急いで夕飯の支度をして、だそうだ。みんな大変なのだ。 したらば、こちらは準備万端だったのに、なぜか、今夜は停電しなかった。この間は電気が止まったのに。朝からずっと「夜は実施されます」とテレビでは報道され、市内放送ももちろんそのように流れたのに。 こういう状態。とてもよくない。人々の生活を、そしてなにより人の気持ちをひどく不安定にさせる。 そして、こうした電気の供給の仕方に振り回される、お店や工場に、薄氷を踏む思いで診療や手術にあたっている病院に、学校に、この国の経済に、思いを馳せる。 私が住む町には、サントリービール工場、、東芝の工場、NECといった企業もあるし、伊勢丹デパートもある。東京都立・多摩総合医療センターもある。どこも対応に四苦八苦している。 この間は停電して、今日は停電しない。なにゆえ、こういうことが起きるのか、東電も政府も、誰もきちんと説明しない。いったいどういう仕組みになっているのだろう? 3月26日(土) mixi 現在実施されている計画停電について。 たとえばmixi内のコミュでは、私の所は停電した、いや、私の所は停電しない、といった情報が入り乱れてアップされている。停電しないのは、その地域内に、下水処理場があるからだ、自衛隊基地があるからだ、はたまた菅総理の選挙区だから、みんな勝手に憶測している。さらには、この際、自分たちで情報を集めて分析しようじゃないの、と呼びかけている人も出てきている。 昨日、午後に、この停電グループをさらに細かく分けると、東電から発表があった。が、おそらく、それだけではこうした事態は解決されない。なぜなら同じ町名、同じ番地内で、停電する所とそうでない所がある、という現実が起きているからだ。 ついでに言えば、今回の地震による、地域の情報を得ている1つに、確かにmixiの存在はある。 たとえば、この市で販売されている有料ゴミ袋は、宮城県で作られていて、その工場が操業できず、これから約1ヶ月間は、普通のスーパーで配られているビニール袋でゴミを出してもかまわないことになった。 という情報を、私の場合、一番早く知るのは、mixi上だ。それから、市のwebへ飛ぶ。三鷹市などは市が公式twitterを始めたようだが、私が住む市はまず当分しないだろうなあ。市民サービスに関わる、インターネット導入もものすごく遅かったし。 そして、mixiの書き込みには質の良し悪しが明らかにある。きちんとした文章を書いている人は、だいたい決まっている。問題点や論点を全然把握せずに、他人の揚げ足をとるようなことばかりを書いている人もいる。 ごまんとある情報を、どう判断し、どう選択するか、という自身の目を養う良い機会だと思うことにする。無論、これはmixiに限られたことではなく、twitter、blog、webなど、すべてに対して。 夜は母ととても久しぶりに外食。停電を気にすることなく、ゆっくり時間をかけておいしいお料理をいただき、深呼吸したような心持ちになる。 |
3月27日(日) ピアノ作品 夜、初台・オペラシティ・リサイタルホールで行われた、井上郷子(pf)さんのリサイタルに行く。 先月に続き、「Satoko Plays Japan 20年の軌跡」と題されたもので、今晩は“近藤譲ピアノ作品集1990〜2011”。すべて、近藤さんのピアノ作品でプログラムが組まれている。 素人の感想になるが、その作品は全体に短9度が多用されているように思われ、音色や色彩感がやや乏しいように感じられた。そういう意味では、すなわち作品そのもののバラエティという点においては、私は先月のプログラムのほうが好みだ。 ともあれ、全部が譜面に書かれている、さらにそれを弾く、ということが、私の能力の範囲をはるかに超えている。音符を想像しただけで、めまいがしそうだ。 そして、こうした邦人の現代音楽作品を、地道に演奏し続けている井上さんのご努力はすばらしいと思う。音楽の分野は異なるけれど、たいへん尊敬している。 (このたび、井上さんは佐治敬三賞を受賞されました) おめでとうございます! 3月28日(月) 若者たち 夜、新宿・Jで、門馬瑠衣(vo)さん、和田俊昭(g)さんと演奏。 門馬さんは今日がお誕生日で28歳になられるとのこと。聞けば、Jの社長も同じお誕生日だそうだ。おめでとうございます。 28歳、かあ。私の28歳といえば、世の中はバブルの真っ只中で、私はまだ出版社に勤めていて、少しずつ夜に演奏する仕事をしていた頃だ。働きながら、新宿・ピットインの朝の部をやり始めたのが、28歳と2ヶ月。うーん・・・遠い目。 気持ちがまっすぐな若者たちと、楽しく演奏。それぞれが内側に持っているものを、もう少し引き出すことができたような気もする。が、ともあれ、彼らにはいい体験になったようで、共演してよかったなと思う。 なお、関東圏の東電による計画停電。 さらに細かいグループ分けがなされ、さらに、同じ○○町1丁目でも、たとえば1〜13番地は計画停電の実施地域にあたり、14番地以降は入らない、ということがはっきりした。つまり、同じ町名地番にもかかわらず、道路を隔てた向こうが停電、こちら側が停電していない、という区分が、ある程度(理由はわからない)明らかになった。 拙宅は実施地域からかろうじてはずれた。停電にあたっている方たちには申し訳ないが、少しだけ気持ちが落ち着く。 3月29日(火) 痛み 朝、目覚める時、ここのところ、どうも胸が痛い。いろんな不安が渦巻いている気がする。 ネットで検索してみたら、私が住む町は、福島第一原発から238.69km、福島第二原発から228.94kmの距離にあるらしい。案外、近い。というのが実感。 各放射線物質の半減期が何時間、何日、といった単位で報じられているが、人類が作ってしまった最悪の物質、プルトニウム(239)の半減期は2万4千年だそうだ。 夜、NHKテレビで、岩手県大槌町、赤浜小学校のアップライト・ピアノが残っていて、それを卒業式で弾いている少女の姿を見た。やっと少しずつ音楽、と思う。 一方、同じ大槌町の公民館にあったピアノに思いを馳せる。2年に一度、私以外の人にほとんど演奏されることがなかったあのアップライト・ピアノは、きっと津波に流されて粉々になってしまっただろうと思うと、涙があふれる。 2009年、宮城県登米市の調律師さんが、自身の工房にあるグランド・ピアノを軽トラに積んで、今回大きな津波に襲われた大船渡、大槌に運んでくださった、あの田や畑、山の道、津波に飲み込まれた道を思い出す。 そして、もちろん、一人ではとても搬入搬出はできないわけで、その作業に協力した地元の人たちの笑顔と汗も思い出す。今となっては、ほんとうに夢のようだ。あのような光景が見られることは、もう二度とないだろう。少なくとも、あの時いた人はもういないのだ。 夜、テレビでサッカー観戦。ものすごく豪華なメンバーだ。後半、カズがゴールを決めるとは想像もしていなかったけど。久しぶりに普通にちょっと笑ったような気がする。開幕でモメた野球より、サッカーのほうがすっきりした開催になったと思う。 日本中の人が「自分ができること」と口にしている。本多圭佑が言っていたように、「今、こうしたことをやることがいいのか悪いのか、正直わからないけど」という言葉に、妙に共感してしまった。 3月31日(木) 地震酔い対策 午後、太極拳の教室。 今日も地震酔いの克服も兼ねた練習を教えてもらう。地震酔いは、三半規管、精神的なもの、それに身体の柔軟性に関連しているらしい。 で、今日は特に首のストレッチもする。首を伸ばす、なんて、普段あまり意識しない。この間、整体の先生からは言われたばかりだったけれど。 身体を動かすと、やはり精神的にも少し元気になる。 |