2月
2月1日(火) バー×3

夜、横浜・バーバーバーで、田中淳子(vo)さん、安藤信二(ds)さん、高尾幸宏(b)さんと演奏。

歌っている田中さんの横顔に、なんとなく心の内に何かを抱えているのが感じられて、帰り際に少し話をする。



2月2日(水) ナル

夜、代々木・ナルで、澄淳子(vo)さん、吉見征樹(tabra)さんと演奏。

「ナル」という名の付くお店は、東京・お茶の水と代々木にあるのだけれど、このお店と私のかかわりも、かれこれ25年近くなるだろうか。いつのまにやら、最古参の一人になっている。私にとって、思い入れの深い場所だ。

今晩は、久しぶりに会った友人や、若いミュージシャンや、大学の後輩や、いろんな人が来てくれて、うれしく思う。



2月3日(木) 大粒の涙

午後、太極拳の教室。

この重い頭を支えている「首」について、多くを学ぶ。そういえば、これまでそんなに意識してこなかったと反省。

先生によれば、首の姿勢にもいろいろな要求がある、とのこと。たとえば、首筋の力を抜いて頭の頂を上に上げる、頭をぶら下げるようにする、などなど。

私の場合、右耳を患っているので、多分、無意識に、右耳が大きな音や声を避けるようにしているところがある。そうすると、首や頭も無意識に傾いていたり、姿勢がねじまがっていたりしているように思われる。気を付けよう。

夜、NHK・BS1で放映されたドキュメンタリー番組『シリーズ 明日をひらく女たち 少女の声なき叫び〜南アフリカ レイプ被害の実態〜』を観る。

レイプ被害者は20万人とも言われ、500万人のエイズ患者がいると言われる南アフリカ。この番組では、南アの貧困層が多く住む黒人居住区で起きている、深刻な女性のレイプ問題が特集されていた。

ここに暮らす少女たちは、3分に1人がレイプされ、全体の半数が性的虐待やレイプの被害を受けているという。

父親から「お前の最初の男は俺だ」と言われ、恐怖におびえながら、母親とぼろぼろの小屋に逃げる少女。けれど、父親がいる家からは、歩いて10分程しか離れていない。

加害者からの報復が恐ろしく、警察に被害届けを出すか出さないか迷っている家族。(実際、レイプ被害救援センターを訪れる子供は3割に過ぎないという。)そして父親は加害者の男の子を怪我させて牢屋に入ってしまう・・・などなど。

しかも、最近は加害者の低年齢化が進んでいるという。5歳の子供を、9歳から14歳までの7人の男の子たちがレイプするのだそうだ。

途中で嘔吐しそうな気分になった。番組の内容をここに詳しくは書かないが、少女たちが流していた大粒の涙が脳裏に焼き付いている。



2月4日(金) 立春

夜、杉並公会堂小ホールで行われた、田中信正さん、林正樹さん、お二人による、『二台ピアノによるコンサート2』にでかける。今回はスペシャルゲストとして、二人の師匠にあたる佐藤允彦さんも加わって演奏された。

舞台には、下手にベーゼンドルファー、上手にスタインウェイ。スタインウェイのほうの蓋ははずされていた。

どちらがどう弾いているかをわかりながら聴いてみたかったので、席は最後方下手側に座ってみた。つまり、ベーゼンを弾いている人の手元が見える位置。

前半は田中さんと林さんとのデュオ。後半に佐藤さんも加わられて、それぞれの組み合わせや、三人でのくんずほぐれずの演奏など。

演奏されたのは、ジャズのスタンダード曲のアレンジされたものや、それぞれのオリジナル曲など。

全然性質が異なるピアノ2台なので、楽器そのものの違いもあったと思う。けれど、それ以上に、音色はやはり弾き手によって生まれることがよくわかった。

また、さすがにフルコン2台がパワープレイのフリージャズ状態になると、その楽器の暴力性のようなものが轟音と共に迫ってくるようだった。

そういう意味で、ピアノという楽器を、弦に重きを置いて弦楽器のように考えるか、鍵盤を叩く打楽器として考えるか、で、音楽のあらわれはずいぶん異なるように思われた。などと考えるのは、ピアノは両方の要素を持っているのだから、ナンセンスかもしれないが。

楽しいジャズの一夜だった。って、おそらく、演奏している人たちが一番楽しかったに違いない。それくらいすてきな笑顔で演奏していた。師匠を囲んで、30歳代、40歳代の、ピアニストのホープが演奏している光景は、とても微笑ましいものだった。

私の師匠である高瀬アキさんを囲んで、こういうコンサートはできない?・・・だろうなあ。って、かつて東京でやったことがあったっけ。あ、ついでに、ライプチヒでやったことも思い出した・・・。



2月5日(土) 出自

夜、代々木・ナルで演奏。3人の歌手の方たちと楽しく演奏。

その中に、大阪・八尾、いわゆる河内出身の女性がいて、「Cry me a river」を歌うというので、この歌詞の心境を、河内弁で言うたらどないになるねん?と本番中に尋ねてみた私。

無論、尋ねても対応できそうだったから、ちょっと言ってみたのだけれど。どうもそういうことを問いたくなるから、嫌われるんだろうなあ、私・・・。「口は災いのもと」あるいは「余計なお世話」。



2月6日(日) 新宿二丁目

夜、新宿二丁目で行われた『Living together』のイベントで、金丸正城(vo)さん、古西忠哲(b)さんと演奏する。

これは、コミュニティ・センター“アクタ”が主催しているもので、このアクタを運営しているのは、主にゲイやバイセクシャルの男性のHIV問題に、様々な形で関わりたいと考える人たちからなる「Rainbow Ring」(NPO法人が母体)というネットワークのイベントだ。

普通のライヴやコンサートとは意味合いが異なるので、金丸さんには事前にこのイベントの趣旨などについて伺っていた。以前、坂田明(as)さんのトリオで、“死刑廃止集会”で演奏した時もそうだったように、興味本位で仕事をすることは、私にはできない。

約30分間の短いステージだったが、金丸さんはゲイの作詞家や作曲家が作った歌を集めてうたわれた。コール・ポーター、ビリー・ストレイホン等々。いつものことながら、合間のお話も軽妙でシャレている。

最後の曲「Over the rainbow」をオフ・マイクで歌われた時は、ほんとにすばらしかった。お客様の中には涙していた人もいたと言う。普段はライヴハウスでしかごいっしょする機会がないので、こういう場で力を発揮される金丸さんの歌の力に、あらためて感じ入ってしまった。

こうした問題に興味のある方は以下のwebへどうぞ。

web 「Rainbow Ring」

web 「Living together」

そして、今宵、ほんとうにやさしい目をした方とお会いした。とても久しぶりに、あんな目をした人に会ったように思う。彼の身体はとってもたくましくてマッチョだったけど。

振り返れば、およそ25年前、新宿・ピットイン朝の部で演奏していた駆け出しの頃、私はこの新宿二丁目で毎週1回演奏していた。朝の部での演奏を聴いた“レディー・デイ”のマスターが、私を気に入ってくださったのだ。

「あなたのピアノは男でも女でもないから、いいの」・・・だそうだ。こう言われたことを、今でも妙に憶えている。

それはちょうど“エイズ”という新しい病気が出てきた頃と重なっている。また、金丸さんと初めて会ったのも、このお店のクロージング・パーティーの時だった。感慨深い一日になった。



2月7日(月) 岡部さんと

午後、生徒のレッスンを見てから、夜は大泉学園・inFで、岡部洋一(per)さんと、初めてデュオで演奏。前回共演したのは、上野洋子(vo)さんと3人のセッションだった。

岡部さんとは、早坂紗知(as)さんのバンドで演奏したのが最初の出会いだったと思うが、それももうだいぶ昔のことだ。だから、今晩は、ほんとにサシで勝負という感じで、ちょいと緊張。

岡部さんはこよなく歌う。叩いているというより、吉見征樹さんのタブラ演奏のように弾いていると言ったほうがいいように感じられた。

そして人に合わせるのがとてもうまい。相手の演奏に、ずっと耳を傾け、呼吸や気配をうかがっている。動物的姿勢とでも言おうか。というか、音楽の前提、基本だと思っているが。

さらに、サウンドを持っておられる。私がドラマーよりパーカッショニストを好むのは、おそらくこの“サウンド”、要するに様々な音の響きが私にはどうしても必要であり、私が空間的に音楽をとらえているからだと思う。

楽しい一夜だった。



2月8日(火) 久しぶり

午後、三橋美香子(vo)さんとリハーサル。

彼女と初めて会ったのは、1994年の白州フェスティバルの時(巻上公一さんがヴォーカリストをたくさん集めて、「ヴォイス・サーカス」をやった年/私もなぜか基本は声で参加、シンセサイザーも持って行ったけれど)だったと思うので、15年以上の月日が経っている。

三橋さんの声、さらに発声法が面白いな、と思う。訊けば、民謡や義太夫もずいぶんやってきたとのこと。

私のわがままで英語の歌は今回はなしにしていただき、すべて、日本語の歌、しかも昭和歌謡をやる方向になった。

「長崎は今日も雨だった」「雨の慕情」「君といつまでも」「UFO」「青いサンゴ礁」などなど。こうした曲を、ピアノ1本でどないするねん?それにしても「子連れ狼」のオノマトペには驚いた。

さてさて、どうなりますか?ごろうじろ〜。



2月9日(水) 初会合

午後、古楽のグループ・アントネッロのリーダー、濱田芳通(リコーダー)さんと初めてゆっくりお話をする機会を得る。

普段はバッハすら演奏しない、それよりずっと以前のヨーロッパ中世、ルネッサンスの音楽を演奏されている方だが、ジャズや黒人のリズムのことなどにも、深い知識や造詣を持っておられることがよくわかった。

音楽一家に生まれた濱田さんは、小さい頃から歌謡曲などのポピュラー音楽は一切聴いてはならない、クラシック音楽だけが音楽だ、というような厳粛なご家庭に育ったとのこと。

また、ご自身が身を置かれている世界は、考古学的あるいは歴史学的に実証されたものの上に成り立っていて、そこから逸脱すると大批判を浴びることになるらしい。

モーツアルト、ベートーベンくらいまでは、その音楽は決して一拍目から始まっていない云々、といった音楽の話まで。ふむふむ、なるほど。ともあれ、いろいろな話をした。

そこに、「“ジャズ”に幻想を抱いていはいげません」などと言う私がいたりして。

夕方、少し時間があったので、昭和レトロなお店、近江屋まで行って、アップルパイとボルシチを口にしながら休憩。

その後、なんとなくいいタイミングで、思いがけず親友と会合。夜遅くまでコーヒーだけで話し込む。



2月10日(木) 視界の意識

午後、太極拳の教室。

今日は主として「視界の意識」。八法の開合をした時に、自分の両肩が見えるかどうか。これは見えなくてはいけない、のだ。が、見えない。そして、「下を見るな」とよく注意される私。

腕の動きは“匂玉(まがたま)”を描くように、と言われても、これもまたできない。できないづくしだが、とにかく基礎の基礎をやっている実感。ほんとに学ぶことはたくさんある。



2月11日(金) 雪

雪。ひきこもり。「捨てる」年にすることにしたのはいいのだけれど、これが遅々としてなかなか進まない。思い切りの悪い自分に嫌気がさす。



2月12日(土) バンドネオンな夜

夜、渋谷・dressで、北村聡(バンドネオン)さんとデュオで演奏。思えば、二人だけで演奏するのは初めてのことで、一昨年、喜多直毅(vn)さんがリーダーで活動していたトリオでの演奏以来、ということになる。

リハーサル。北村さんが今朝作ったという新曲を持って来られたのには、ちと驚いた。そのトリオでやっていた時、やっとの思いで1曲作られたきたことを思うと、感慨深い。

といったことも含めて、北村さん、なんだか少し変わられたような感じがした。実際顔つきもやわらかくなられたような。

そんな空気に包まれて、今宵は演奏。適度に力の抜けた、いい響き合いのある音楽だったように思う。

バンドネオンの蛇腹は、ほんとに“呼吸”だ。アコーディオンとは全然違う。音の質感や倍音の出方も異なるとは思うけれど、この空気が震える感じはどう表現したらいいだろう。

かくて、バンドネオンな夜はふけ、珍しくお酒を一杯飲んで帰る。当然、乗るべき電車は既になく、かつての国電に乗って、下車駅からタクシーで帰宅。



2月13日(日) 瞽女さんの唄

午後、門仲天井ホールで一年間に渡って行われてきたシリーズ『瞽女(ごぜ)さんの唄が聞こえる 上映会と座談会』に行く。私は初回とこの最終回に参加することができた。

開演時間を少し回った頃に会場に到着。満員御礼状態なれど、最前列のハコウマ座布団に座って、まず映画を観る。

これは1971年、最後の高田瞽女、杉本キクイさんら3人の日常生活を中心に、瞽女唄の稽古風景や、昔の瞽女宿を訪ねた最後の旅の様子を記録したドキュメンタリー映画だ。

web 映画『瞽女さんの唄が聞こえる』

それから、高田瞽女の文化を保存・発信する会の代表者、市川信夫さんのお話が約1時間。休憩をはさんで、豪雪にもかかわらず上京された、地元で町起こし活動をされている方のお話と質疑応答。

その後、地元の食材が使われたまことにおいしいお料理や地酒がふるまわれ、残った方たちと談笑。私は、来月、この瞽女をテーマに踊る予定だという、小学生以来の先生ともあれこれ話をする。ほかに自己紹介などもあり、8時半過ぎに解散。

瞽女とは、盲目の女性だけで組織を作り、唄をうたい歩いた、いわば芸能集団。中世以来、少なくとも400年以上の伝統を持ち、その唄の数々は、その後のあらゆる日本音楽の源流になったとさえ言われている。現代では、まったくその姿は見られなくなっている。(瞽女唄の継承者は少しだけいる。)

瞽女さんは年間300日、15kgにもなる荷物を背中に背負って、旅をしたという。もちろん、そのほとんどすべては徒歩だ。少しだけ眼の見える人が先導しながら、盲目の女性たちは村々を回る。長旅には草鞋(わらじ)を30足持ったそうだ。

その集落ごとに、地主や裕福な農家が提供している“瞽女宿”があり、瞽女さんは無償で食事と宿を提供された。そして、夜になると、その宿に村人が集まって来て、瞽女さんは「耳承口伝」で習った唄と語りを、三味線の音と共に聞かせたという。

実際、昔、何の娯楽もなかった時代だ。また、その村から一歩も出たことがない村人もいたにちがいない。そうした村の人々にとっては、瞽女さんが来てくれることはとても楽しみなことだったらしい。

また、「門付け(かどづけ)」でもらったお米は、どんどん重くなるので、その宿で金銭に替えてもらって、旅を続けたそうだ。

ただ、地元の高田では(他にも長岡瞽女、浜瞽女、刈羽瞽女などがいた)、「めくら乞食」と言われ、人々からさげすまされていたともいう。

日本において、ARTという英語を芸術と訳したのは森鴎外だったか阿倍能成だったか(?)と聞いたことがあるが、この国では、芸能に携わる人は、たとえば「河原乞食」と言われたりしている。いわんや、ミュージシャンをや、である。

ツアー、どさまわり、地方巡業、呼び方はなんでもいいけれど、私がやっていることはこの瞽女さんたちとなんら変わることはないじゃないの、としみじみ思った。みんなで車に乗って、全国を巡って演奏し、夜はおいしいお酒とご馳走をいただく。・・・決して他人事とは思えない。

そして、こうした瞽女さんたちがいたことをめぐって、地域のつながりやコミュニティ、さらに現代の福祉を見直そうというのが、この門天企画の一つの意図でもあるようだ。

確かに、私たちも町起こしのような活動に加担することもある。過疎化が進み、私が2年前に弾いて以来誰も弾いていないピアノが置かれている地域の公民館で演奏することもしばしばある。

けれど、もはや、私たちは瞽女さんが生きていたような時代からは、はるか遠いところで生きている、というのが正直な気持ちだ。昨晩、NHKではまことしやかな演出よろしく『無縁社会』が放映されていたが、毎晩、PCの画面に向かって100人に「おやすみなさい」を言う若者がいるような時代なのだ。

で、ふと思い出し、帰り、地元の小さな飲み屋に寄った。この店主は、やはり岩手地方(もとは中尊寺の管轄)の、いわゆる口寄せや祈祷、占いをなりわいとしている盲目の女性たちを、ずーっと撮り続けている人だ。

そのライフ・ワークの第一弾としてして、1996年に映画化されたのが『旭巫女縁起』という16mm映画。さらにビデオ化され、昨年末にDVD化されたことを知る。

家に戻り、しばらくぶりにその映画を観た。「こんなことしたっけ?」とひとりごと多々。ピアノ1本で音楽を創ったのは私なのだが、確か、1990年代前半、録音したのは自宅で、ピアノにLRの付いたマイクを立てて、カセットテープに、1人で録音したのではなかったかと思う。

作曲したテーマ曲、さらに内部奏法(といってもごくシンプルなもの)もやっている。この「内部奏法による音楽」は、おそらく、私が生涯に遺す音源としては、唯一のものになると思われる。どことなく武満徹の影響を受けているかも?それにしても、音響さんにかなり助けられていると感じる。なんだか遠い目・・・。

(もしこのDVDを入手されたい方がいらっしゃいましたら、私までご連絡ください。)




2月14日(火) 雪

夕方から雪。ここに引っ越してきたのはちょうど18年前。あの時も雪が降っていた。



2月15日(火) ジュリー

午後、レッスンの後、町に買い物にでかけ、歌手・沢田研二のベスト盤CDを買う。

やはり作詞家・阿久悠はあっぱれだと思う。彼が紡ぐ文章は、その状況を切り取った、鮮やかな写真を思い起こさせる。作曲・大野克夫もロック・テイストなところがありイカしている。作曲・加瀬邦彦の作品のほうが少し甘い感じがする。

それにしても、ジュリー、色っぽい。ついでに、YouTubeも見まくる。若い時のジュリーは異様に格好良い。

タイガースの時代は、どうもちょっとピッチが不安定なところが気になり、イマイチ好きになれなかった。妹のほうが目がハートマークだったし、幼稚園にも行っていない弟は、テレビの前で「君だけーにー」のアクションをするのがめっちゃ可愛いかった時代の話だ。

私は、どちらかというと、テンプターズの後に俳優になったショーケンのほうに魅かれていた。歌はたいしてうまくないし、演技もうまいとはいえないと思ったけれど、あの不良性のようなもの、男のどうしようもなさみたいなものに、なんとなくちょっとだけひっかかった。

もっとも、80年代後半、確かまだ前妻との離婚が成立していない頃、小さな居酒屋で飲んだくれて、田中裕子の膝枕で横になっていたジュリーの姿を見た時は、ああ、この人も男なんだわ、と思ったものだ。

ジュリーも還暦を越えたけれど、歌は以前よりずっといいと思う。特に低音の伸びと太さが違う。身体もかなりふくらんだけれど。



2月16日(水) ジョー

昼間、ジュリーのベスト盤と、イーグルス、さらにアース・ウインド&ファイヤーのベスト盤をかけまくりながら、家の中を掃除する。

夜、食事の後、急に思い立って、映画『あしたのジョー』を観に行った。あっという間の131分だった。まったく飽きな。だれた時間がなく、全編いい緊張感がみなぎっていたと思う。

映画化を許可した漫画家・ちばてつやの言葉通り、役者もスタッフも本気で取り組んでいることが画面から伝わってきた。昭和40年代のセットも、役者の減量を含めた身体作りも。

特に、俳優・伊勢谷友介。私のイメージする力石徹とはちょっと違ったのだけれど、いやあ、美しい。格好良い。

丹下段平役の香川照之は実際も大のボクシング好きだが、映画の中では最初違和感があったものの、次第に丹下段平に見えてくるから不思議だ。

私が小学生の頃は、漫画はおおっぴらに読めるような雰囲気はなかった。漫画は“悪”だった。それでも『少女フレンド』や『マーガレット』といった漫画雑誌は、妹といっしょに買うことは許されていたけれど。

そんな時代(家庭)状況の中、ちばてつやの漫画本は、一人で一所懸命おこづかいを貯めては買い求めた。『1・2・3と4・5・ロク』『ハチのす大将』『ユキの太陽』『島っ子』『アリンコの歌』『みそっかす』『テレビ天使』などなど、自宅の漫画本棚の中で燦然と輝いている。

“炭鉱の暮らし”というのものを、初めて知ったのも、ちばてつやの漫画だった。それは私の知らない世界だった。差別や偏見、いじめがありながらも、次第に仲良くなっていく子供たちの世界、お嬢様が傷つきながらもいろんなことに気づいて成長していく姿などを、夢中になって追った。

手塚治虫が形而上学的あるいは宗教的に、ある世界観や宇宙観を提示してくれたとするなら、ちばてつやは、今、ここに共に生きている市井の人々や、社会の底辺の人々の声や生き様を、丹念に描いているように思われた。振り返れば、こうした社会派の漫画を、私は幼い頃からずっと好きだったのだと思う。

多分、テレビ・アニメ化された『ハリスの旋風』の主題歌は、今でも歌えると思う。無論、『あしたのジョー』も。



2月17日(木) ただ、歩く

午後、太極拳の教室。

ただ、歩く、ということがものすごくたいへん。骨盤の位置をしっかり保って、上半身はよけいな動きをしないように意識してまっすぐ歩けばいいのだが、できない。たいていは傾いていたり、上半身が左右上下に動いている。

また、先生は各関節を、そこだけ動かすことができる。たとえば、肩なら、肩だけ。腕はぶらぶらしている感じ。「みなさんも意識することで次第に動かせるようになりますよ」と言われるのだけれど、できましぇーん。



2月18日(金) 一拍目から始まっていない

ベートーベンのピアノ・ソナタの練習をし始める。譜面を意識してよく見てみると、濱田芳通さんが言っていたように、一拍目からのフレーズよりも、そうではないもののほうが圧倒的に多い。

「このスラーは何だ?」と思うこともしばしば。それで自分なりの解釈で、譜面に書かれているスラーを無視して弾いてみると、なんだか全然別の曲に聞こえてくるから不思議だ。



2月19日(土) 遠い世界に

夜、NHKBS2で放映されていたフォークソングの番組を観る。司会役の南こうせつとイルカはいかにもNHK的とはいえ、どうせなら、同じ司会者ながら異物のように振る舞っていた62歳の泉谷しげるには、もっと暴れて欲しかった。って、もう孫が可愛いくて仕方ないから、しようがない、か。

やはり、歌い続け、どこかに反骨精神のようなものを持って、現役で活躍している人の歌は圧倒的。

64歳の“エンケン”こと遠藤賢司の、かなぐりかきまわすギターと吹き倒すハーモニカ。「ああ、なんかいいことないか」と絶叫する「夜汽車のブルース」。いきなり会場の空気が変わった。

それに、泉谷が「日本の国宝だ」と言っていた57歳の木村充輝の歌。その“天使のダミ声”は、いつ聴いても胸に突き刺さる。

さすがに歳をとったなあとは感じたものの、山崎ハコのどこか痛い声は、以前よりやや細くなったように感じられたものの、まっすぐだった。歌う言葉に、ひとつも流すところがない。歌い終わった時に、ギュッとつぐむ口が、彼女の歌のすべてを語っているようにさえ思えた。

彼女は「望郷」のほかに、阿久悠作詞「ざんげの値打もない」を歌ったのだが、今夜は“まぼろしの4番”を歌っていた。この歌詞はあまりにも暗過ぎて公共性にふさわしくないという理由(?)、あるいは放送時間の制限のためからか、阿久悠没後1年(2008年)に初めてテレビで歌われたものだ。

14歳で処女を捧げ、15歳で安い指輪を贈られ、19歳で男を刺し、問題の4番では、20歳を過ぎた私は、鉄格子から見える月を眺めている、という物語になっている。

あれは何月風の夜
とうに二十歳も過ぎた頃
鉄の格子の空を見て
月の姿がさみしくて
愛というのじゃないけれど
私は誰かがほしかった

“赤い鳥”から“ハイファイセット”の山本潤子の透明な声は、もはや高音に伸びがない。声質はそんなに変わっていないのだから、無理をせず、歌の調を全音下げたほうがいいと思った。なんちゃって、よけいなお世話。好きだから、どうしても言いたくなってしまう。私なら、そうする。

それにしても、一番最後に歌われた“五つの赤い風船”の歌「遠い世界に」。1969年、学生運動が終息に向かっていく頃に生まれた歌だが、その歌詞が時代の流れを象徴しているかのようだ。

雲にかくれた小さな星は
これが日本だ私の国だ
若い力を体に感じて
みんなで歩こう長い道だが
一つの道を力のかぎり
明日の世界をさがしに行こう

1970年、NHKの健全な歌番組『ステージ101』が始まったことも考え併せると、さらに、時代が移り変わっていくことが、「歌」というものから感じられる。もっとも、ステージ101の場合は国営放送的戦略という側面からも考えることができる?




2月20日(日) 和の声

下北沢・レディー・ジェーンにて、三橋美香子(唄)さんと二人でライヴ。「唄」となっているのは、お店のフライヤーの記述にも寄るが、三橋さんの発声法は民謡や義太夫といった日本人の発声方法に依拠しているように、私にも思えるためだ。

今回はすべて昭和の歌謡曲を演奏。たとえば松田聖子が歌った「青い珊瑚礁」も、冒頭の部分「あーーーー」の発声を変えるだけで、目の前に広がる“色”が違って感じられるから面白い。

三橋さんご自身も言っていたが、今宵はだいぶ緊張していた様子。こちらの演奏もまだ工夫の余地がある。これはリベンジか?



2月21日(月) つるつる

門仲天井ホールで行っているコンサートでお世話になっている人たちと、初めての温泉。武蔵五日市から山の奥に入って行ったところにある、その名も『つるつる温泉』へ。

お湯はなかなかのつるつる。お肌すべすべ。湯船に浸かりながら、これからのことをあれこれ話すこと、約2時間。すっかりゆでダコのようになる。



2月22日(火) 八村義夫

作曲家・八村義夫の作品がCDになっていることを、今更のように知るに至り、入手。以前より著書は読んでいたものの、音源を聴く機会がなかった。実際、初めて聴いてみて、若い時に、この作曲家にひっかかった自分を、なんとなく納得する。

それにしても、このCDという、音楽を聴く媒体。実際、もう売れないのだろう、とつくづく思う。今はみんなダウンロードするのだろう。YouTubeだってある。いや、そもそも音楽を聴かない?

私が住む町にデパートの伊勢丹がやってきて、併設されているビルに、当時、紀伊国屋書店が入った時は、この町も少しは文化的になるんだろか、と思ったものだった。けれど、書店はほどなく撤退。その売り場は現在ユニクロになっている。

残ったのは、山野楽器だ。小さい頃から、新星堂だけが頼りで、あとは銀座や渋谷に出なければならなかったから、やってきた当時はそれなりにうれしかった。

したらば、ほどなく山野楽器の売り場は半分に縮小。クラシック音楽に詳しかった店員はいなくなり、どう見ても現代の音楽状況なんかまったくわかっていそうにない、老年の店員だけに。

さらに、ハチムラヨシオと読むことができない若い店員に。ま、知らなくて当然としても、結局ネットで在庫を調べているのだから、「お客様、入荷いたしました」という連絡をする時くらい、ちゃんと作曲者の名前を言ってよ、という気分になる。仕事に不熱心なのか、知らないことを学ぼうとする姿勢がないのか。

アマゾンで買えば、すぐ、なのは分かっているのだけれど、とりあえず山野楽器はこの町に残って欲しいと思っている私としては、心境複雑。せっせと買い物をしてあげているのに・・・。

という前に、伊勢丹が消えてしまうほうが早いかもしれないのだけれど。ああ・・・。



2月23日(水) シュピルマン

午後、アントネッロの濱田芳通(コルネット、リコーダー)さんと練習。

最寄駅から拙宅まで徒歩12分くらいなのだけれど、45分くらいかかった人は濱田さんが初めてだ。ご本人曰く、「ヘンなアラブ音楽を聴きながら歩いていたのがいけなかった」そうで。

おまけに、頭に鳥のフンが降ってきたらしい。「サキイカの臭いがする」そうだ。って、“ウン(チ)”が付いたのかも〜?

(と、書いてもいいですよ、とご本人に言われたので、書いてみたりしている私。)

お互いに作曲したものをアドリブ付きでやってみたり。いろんなことを話したり。16世紀、イタリア音楽のパターンのようなものもいくつか教えていただく。

でもって、こちとら、今日と明日、さっきと今、では違う演奏をするのが信条。あれこれ変化を付けてみる。

リズムももちろんいろいろやってみる。したらば、リズムには自信があったらしい濱田さん曰く、「負けた」。うんむ、実に笛吹き、コルネット吹き、あるいはトランペッターらしい、と思ってしまった。

夜、NHKBSで映画『戦場のピアニスト』(2002年 ロマン・ポランスキー監督)を観る。

ナチス・ドイツのポーランド侵攻により、ユダヤ系ポーランド人であるピアニスト・シュピルマンとその家族はすべての財産を没収される。家族は家畜用列車に乗せられるが、シュピルマンはゲシュタポの友人の機転で、ただ1人ゲットーに残り、強制労働をさせられる日々を送る。

その後、ゲットーを脱出したシュピルマンは、友人の手を借りてなんとか生き延びる。廃墟となったワルシャワで、食べ物を探している時、ドイツ人将校にみつかる。が、そこにあったピアノで何か弾くように言われ、シュピルマンはショパンの曲を奏でる。その演奏に感銘を受けた将校は彼をかくまう。やがて終戦。ラストはショパンのピアノ・コンチェルトを弾いているコンサート風景で終わる。

去年の暮れに行ったコンサート・シリーズ『軋む音vol.3〜希望〜』を思い出す。以前、強制収容所内で生き延びた音楽家のドキュメンタリー番組を観たことも。

「芸は身を助く」とはよく言ったものだが、「シュピルマン」とはふるっている。文字通り、「演奏者」じゃないの。

「イッヒ シュピーレ デン クラヴィーア」
私は自身を、そして、誰かを救っているのだろうか。



2月24日(木) インプロアート

午後、太極拳の教室に行き、夜は渋谷・JZBretへ、Miya(fl)さんの映像とダンスとのコラボレーション企画『初期反射〜「感覚」を開く五感プロジェクト〜』に足を運ぶ。

パンフレットには「インプロアート」とも書いてあり、「即興でしか表現できない世界」をめざしているらしい。現在のMiyaさんが意欲的に取り組んでいる催しの一つだ。

思うところは多々あり。フルート1本で立つMiyaさんの覚悟。コンピュータとピアノを弾かれた高橋英明さんの音楽の作り方。映像の意味や在り方。後半のステージでは、予定になかった外国人男性ダンサーも加わって、JOUさん(女性)と二人のダンスが中心になったが、そのダンサーと演奏者、さらに映像との関係性、などなど。

終演後、ドレスに寄って、おいしいお食事をいただいて帰る。



2月25日(金) 若い二人

夕方、整体に行く。首と肩から来ているのか、少し左手にしびれがあっていけない。のを、みっちり揉んでもらう。いよいよ花粉症デビューかも?で、鼻もちょっとぐしゅぐしゅする。

夜、大泉学園・inFへ、門馬瑠依(vo)さん、和田俊昭(g)さんのデュオを聴きに行く。3月末に、調律師・辻さんの仲人で、この若い2人(27歳)と共演する機会を得たので、まずは聴かねばと。

とにかく、2人ともとても気持ちがきれいだと感じた。門馬さんの声はまっすぐ。和田さんの音は温かく。かつ、音楽に対してとても真摯に向き合っている姿勢に共感する。

音楽についてはいろいろ感じたことはあるけれど、そんなもこんなも、リハーサルで意見を言い合い、アイディアを出し合って、いい音楽創りをしてみたい。年齢は異なっても、ステージに立った時は、同じ地平にいるのだ。



2月26日(土) 眼の検査

約2年ぶりに、視野検査と眼底検査を受ける。両眼の中にはいっぱい蚊が飛んでいるのだけれど、ともあれ網膜に穴が開いていたり、剥離する状態ではないらしい。視野も正常範囲内とのことで、少し安心する。

全然関係ない話になるが、姪っ子が来年1月に成人式を迎える。彼女は私立の女子高に通っていて、なんでも、卒業後の最初の同窓会が、この成人式の日にあるそうだ。

それで、今晩、その成人式のための貸衣装を予約に行った。いい衣装を借りるには、1年以上前から準備しないといけないんだそうだ。

それを聞いてひっくりかえりそうになった私だが、貸衣装一式、美容代、もろもろで25万円もかかることを聞いて、びっくらこいてしまった。



2月27日(日) 生演奏三昧

夜、初台・オペラシティ、リサイタルホールで行われた井上郷子(pf)さんの、20回目になるピアノリサイタルに足を運ぶ。今晩は「20年の軌跡」ということで、邦人の委嘱作品を集めたプログラムが演奏された。

作曲された作品を聴くと、それぞれの明確な方法論が見えてきて、面白いなと思う。ふむふむ、なるほど、とメモしたり。

私の印象に残ったのは、最初と最後。塩見允枝子さんの印象的な音階のヴァリエイションとその響き。そして松平頼暁さんの、いつもながら、声を出したり、手を叩いたり、も混ざったもの。

その足で、今晩はハシゴ。下北沢・レディージェーンへ行き、鈴木広志(sax)さん、東涼太(sax)さん、辻康介(vo)さんのライヴの後半を聴く。

鈴木さんも東さんも、藝大出身。2人ともまっすぐな好青年といった感じ。辻さんはイタリア中世の古楽などに精通している歌手の方だ。

サックス2本と歌という組み合わせだが、合間のおしゃべりも楽しく、満員のお客様の温かいまなざしにも囲まれて、いい雰囲気だった。

辻さんは、前半は中世の宗教音楽などを歌われたとのことだったが、後半は日本語とイタリア語がチャンポンになっている楽しい歌をうたったりされていた。顔の表情や歌い方が、どことなく巻上公一(vo)さんを思い起こさせるところもあるけれど、やっていることは全然違う。

いろんな若者たちが出て来ているんだなあとしみじみ。



2月28日(月) 瀬尾さんと

ライヴの前に、喜多直毅(vn)さんと『軋む音 vol.4』の打ち合わせ。(日にちは6月3日(金) at渋谷・公園通りクラシックスです。)

夜は、大泉学園・inFで、喜多直毅(vn)さん、瀬尾高志(b)さんと演奏。瀬尾さんは以前から札幌で何回かお会いしているものの、共演するのは初めて。

その瀬尾さんの音は柔らかく、多くのことを斎藤徹(b)さんから学んでいることを感じる。

曲を中心に演奏したが、デュオの組み合わせによる即興演奏も。喜多さんとのデュオが妙に新鮮に感じられた。後半から聴きに来られた翠川敬基(vc)さんのせいかしらん?

終演後、翠川さん、瀬尾さんは、超酔っ払い状態。ぐでんぐでんの瀬尾さんをお店に残して、帰宅。その後のことは、私は知らな〜い。






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