11月
11月1日(木)から9日(金)  旅ゆけば〜

再び、旅。

今年はよく旅にでかけています。実は耳(もう完治しません)のことを含めて自分の体調が不安だったのですが、セルフコントロールしながら(例えば、終演後の打ち上げは、自らも宴会部長と称しているボスだけ残して、お先に失礼させていただくなど)、なんとか過ごせたことを幸いに思っています。

今回は、1日から7日まで、『 坂田明mii 丹波〜京都ツアー2007 ヤッホー!』と題されたツアーと、中一日おいて9日には大阪で鎌田實さんと坂田さんの講演&コンサートという企画で演奏しました。そのえっちらおっちら道中の模様を少しだけ。って、長い・・・でせうね。

なお、上記のツアーは単なるコンサートやライヴではありませんでした。「石見銀山生活文化研究所」というところが主催したコンサート・ツアーです。そこには「We are here ! 」という主張が込められています。興味のある方はこちらのwebへどうぞ。(なお、左記のweb内で、このツアーの様子を撮った写真が、近々アップされるようです。)

では、はじまり、はじまり〜。



■ 1日(木)  西へ、西へ

午前11時半頃、まず坂田号が拙宅に到着。しばらくしてからバカボン号が到着し、西へ、西へとひた走る。京都を越え、中国自動車道に入り、兵庫県・東条湖に着いたのは、もう夜もとっぷりと暮れた9時近かった。

夕飯を食べていなかった私たちは、なんとかまだ間に合うというホテルのバーで料理を注文しまくる。近くには“おもちゃ天国”という遊園地のような施設があるためか、ホテルの内装もなんとなく夢見る乙女チック風。でも部屋は広く、大浴場もあり、ゆっくり身体を休める。



■ 2日(金)  東条湖、美しい日本家屋

朝食を食べ損ね、ランチバイキング後、ウォーキング。ふらふらと歩いていると、この辺りは別荘地だったことがわかる。が、もう見るも無残な様子。バブリンの名残よろしく、建物は朽ち果て、景観は荒れている。

という状況の中にある、やはりもう何年も使っていないという山中荘という所が、今夜の演奏会場だ。なんでも、この建物は大阪で料亭を経営している方が、当時相当なお金をかけて、古い民家を移築したものだそうだ。だから家屋は昔の太い梁があったり、土間があったり。それは立派な造りの日本家屋だ。欄間などに至る細かな細工もすばらしい。

で、その別荘と同じく、ずっと放置されていたのが、今晩のピアノ。調律師さんがどれほど苦労して下さったかがよくわかる。心から感謝。それでもなお、ピアノは黴まみれで、ほとんどの弦は錆びており、鍵盤のリアクションは決して良くはなく、なかなかの状態だった。

でも、弾く。そこにピアノがあるから。って、登山家ではないけれど、そんな心境。調律師さんを含め、懸命に準備をしたスタッフの方たち、この山の方へ足を運んでくださったお客様たちのために。

実際、この日を迎えるために、多くの人が関わっている。前日から家の掃除をして雑巾がけをした人、朝から料理を仕込んでいる人などなど、みんなが努力をしている。手作りの料理は抜群においしく、それらは聴きに来た人たち全員にふるまわれる。また、ステージとなる場所はスタッフの人たちによって、美しくインスタレーションが施されている。

で、もっと地元の方が聴きに来るかと思っていたのだけれど、あまりそうでもない様子。このツアーの主旨はどこにいったのだろう?とふと思ったりもする。

打ち上げではスタッフの方たちやお客様たちと、自己紹介などをしながら楽しく過ごす。丹波のふくふくとした豆がすこぶるおいしかった。



■ 3日(土)  青垣町、丹波の豆は美味

連休ということもあるのだろうか、午前中、近辺を散歩したら、ものすごい人出で、広い駐車場はどこも満杯なので驚く。おもちゃ王国をめざして、たくさんの子供連れの家族が訪れているのだった。けれど、東条湖(ダムのために造られた人造湖)の辺りはレストランは閉まっているし、なんだかさびれている感じだった。

そこを後にして、バカボン号は北上。今日は兵庫県丹波市青垣町で演奏する。JR福知山線・柏原駅(←こう書いて「かいばら」と読む)で降りて、さらにバスで40〜50分くらい走った所にある。

会場は住民センターという公共施設で、比較的新しい建物のようだった。ステージ上には既にインスタレーションが施されている。ススキやもみじなどは現地調達しているらしい。

ピアノはやはり年に1〜2回程度しか使われていないものらしかった。会場は午後4時まで町民バレーボール大会に使われいたとのことで、調律の時間があまりない。という焦りのようなものが、調律師さんの汗から感じ取れた。もこもこと眠っていて鳴らない状態を、なんとかして欲しいとお願いする。

ちなみに、今日から四ヶ所、同じ調律師さんがこのツアーに付いて廻ってくれることになっている。(ということを、実は現地に行ってから初めて知ったのだが。)それで、終演後、くれぐれもよろしくお願いします、いっしょに音楽を創る気持ちで、各地でいいコンサートを残したいと思います、と話しをする。

打ち上げは共催者でもある、青垣町の町おこしに関わっておられる方のお店で。おいしい鍋や蟹、それに再び丹波の豆をいただく。なにゆえ、このように丹波の豆は大きく美味なのだろう。



■ 4日(日)  間人、蟹は食べられず

午後、バカボン号はさらにまた北上。途中、天の橋立を少しだけ右手に見ながら、山道を行く。今晩は、住所としては京都府京丹後市になるが、日本海に面した間人(←これで「たいざ」と読む。誰も読めないに違いない。)にある、すてきな旅館のロビーで演奏する。

ロビーでは既にピアノの調律、インスタレーションの作業が始まっている。ピアノは古い蜀台が付いているアップライトのベヒシュタインだった。鍵盤の数は85鍵。どう見ても普段はいわゆる調度品としてロビーに展示されている感じがした。が、ともかく古い。弾いているうちにどんどん調律が狂っていくような感じだから、調律師さんはたいへんだ。今日も朝から奮闘してくださっていたと聞いた。

演奏位置はピアノが上手(かみて/お客様から見て右側、通常は左側にあることの方が圧倒的に多い)。あれやこれやすったもんだの末、これが今日のベストの配置と相成った。つまり、私の背中にバカボンさんがいて、右斜め後方に坂田さんがいる、という位置取りだ。

私はどうしても必要なところだけ振り向いてアイコンタクトを取り、あとはピアノの板に映る二人の気配をなんとなく感じながら演奏する。お客様の雰囲気も柔らかく、このツアー全体を振り返っても、もっとも三人のコミュニケーションがとれた演奏内容だったように思う。それにはこうした位置関係も影響したとも考えられる。

ピアニストで、共演者に背中を向けて演奏するのは、おそらく秋吉敏子(p)さんくらいだと思う。少なくとも私が見たことがあるのは秋吉さんだけだ。その時は「あんたたち、私に付いてらっしゃい」という音楽のように感じたりしたのだが。

ふんむ〜、この位置も悪くないと思う。が、アップライトだからできたことかもしれない、とも思う。ピアノがグランドだったら、もしかしたらそれぞれの音の分離度は良くなるかもしれないが、身体は近くても、音は遠くなるだろう。モニターを使わないこのトリオでは、演奏する方の状況が少し難しくなるかもしれない。

また、共演者に背中を向けるというのは、どうも孤立感とか独裁感のようなものを感じてならない。それに、“背中”によほどの自信がないとできないだろう。だから、今のところ、やっぱり私はやめておこう。

打ち上げはそのまま旅館の一室で。どこにも移動せず、そのまま食べて、飲んで、お風呂に入って、寝ればいいのだから、ああ、なんたる幸せ。

この旅館のご主人と料理長さんはご兄弟。でもって、お二人とも音楽がとてもお好きだそうだ。松葉ガニが解禁になるには二日早かったのが残念だが、お料理は本当においしかった。それに白飯がすこぶる美味。この辺りで採れるお米だそうだが、おいしかったなあ。

また、日本のサウンド・インスタレーションの第一人者で、この間人に住んで20年になるという鈴木昭男さんが聴きに来てくださっていた。非常に柔和な感じの方だった。そして、みんなでいっしょに楽しく話しをして、夜は更けて行った。



■ 5日(月)  天の橋立、観光

おいしい朝食をいただき、我儘を言ってお風呂もいただき、露天風呂から日本海を眺める。気持ちを少しゆるめる。もちろん、今日はオフ。演奏がある日は演奏前には絶対にお風呂に入らない。

今日は京都へ移動するのみ。途中、せっかくここまで来たのだから、ということで、天の橋立を観光。この三人では松島へは行ったが、坂田さんの地元である宮島はまだ訪れていない。これで日本三景のうち残すは一ヶ所になった。

天の橋立ではレンタサイクルを借りて松並木を走る。バカボン君は向こうまで行ったらしいが、私は途中の「なかよしの松」で折り返す。帰り際には「智恵餅」という、今は亡き“赤福”のようなお菓子をいただく。これは今日の集合時間の約束を守れなかった坂田さんの奢り。

京都に着いて、楽器を置かせていただけるということで、とにかく明日の会場となる、高瀬川沿い、木屋町通りに面している、今は廃校となった立誠小学校へ行く。ついでに、ということで、会場となる講堂の下見をする。そして、そこにあったのがとってもとっても古いピアノだった。

蓋を開けると、鍵盤の木の部分が歪んでいるのだろう。きれいに鍵盤は揃っていない。翼を広げて中を覗いてみると、響板は割れており、さらに浮いた茶色のニスが亀の甲のような模様になっている。弦もほとんど取り替えた跡もなく、錆びまくっている。これはもう相当古い。「ぼろぼろだなあ」と口々に。

それは、これまで見たことがない、弾いたこともない名前が刻まれているピアノだった。で、とにかく、ちょっとだけ弾いてみる。いい音をしている。これが第一印象だった。

ホテルから食事をする所へ移動するタクシーの中で、だっただろうか。主催者から坂田さんの留守電にメッセージが入っていた。「明日はヤマハのG3をレンタルすることに決めました」とのこと。それは、それまでそんなに古いピアノよりもレンタルした方がいい、と坂田さんが言ってくださっていたのを、主催者が配慮してくださってのことだった。

で、どうする?と尋ねられて、少しだけ考えて、「あそこにあるピアノを弾きます」と答えていた自分がいた。ほんとうーーーにあまりに古かったので、ためらった。調律師さんにものすごく苦労をかけることになるのは明らかな状態だった。

でも、何故か、あのピアノを弾かなくちゃいけない、と感じている自分がいた。そのうち、あの廃校になった小学校の講堂で、ぽつねんと置かれているあのピアノが、なんだかなんとなく弾いて欲しいと言っているような気にさえなってきたのだった。もちろん気のせいだ。

明日はあのピアノを弾くと決心して、夜は京都に来るといつもお会いしている方々と楽しく食事をしたり、飲んだり。とても“一見さん”では入れないような所だったが、ともあれ、ああ、今晩もおいしくて、食べ過ぎた気がする。と、思いながら、花見小路から河原町三条辺りまで、夜風にあたりながら戻る。

京都という町の存在を知ったのは、中学生の頃。なんたって『二十歳の原点』だ。黒いカバーをかけて、バイブルのように持ち歩いていた時期があった。懐かしい。

そして、高校三年生の時に修学旅行で来たのが初めての京都体験。高三になってすぐの春に行ったので、高二の時の担任の先生とクラスで行くことになっていた。が、その担任の先生がやめるというので、高二の時に「せめて修学旅行はいっしょに行かせて欲しい」とクラス会議をやって、校長先生に駆け合いに行ったことを思い出す。

先頭を切って校長室の扉を開けさせられたのは、何故か私。昔の金属のドアノブが冷たかったことを今でも思い出す。そして「君たちにそんな風に思われている○○先生は本当に幸せだなあ。・・・。でもね、学校も会社みたいなもんなんだよ。」と言われて、よくはわからなかったが、わかったふりをして校長室を後にしたのだった。みんな泣いていたなあ。

(結局、その先生は一日だけだったか、京都に来てくれたのでした。今思えば、○○先生、新学期が始まったばかりの時に、そのような時間を作るのはさぞかしたいへんだったろうと思う。ああ、青春の一コマであります。)



■ 6日(火)  京都、恐るべし

会場への入り時間まで、ホテルの近くを散策。女性しかいないような、ちょいとしゃれた店でランチにパスタを頼み、なんだかえらく都会にやってきたような気分になる。黒七味なども買い求め、お土産屋さんをひやかす。

果たして、会場では調律師さんが奮闘してくださっていた。朝10時から入って作業してくださっているとのこと。ピアノの状態についてあれこれ話を伺い、動きの不具合がある所などをお願いする。

普通に弾いているとわからないが、サスティーン・ペダルを踏んで弾いて、鍵盤から手を離しても、ある音のハンマーが上がったままになっているところがあった。と、「あ、はい」と言って、調律師さんはすぐに直している。

とにかく非常に職人肌の方のようで、開場してもなお、ほとんど開演間際まで鍵盤を叩いていた。お客さんは耳障りだったかもしれないが、どうも自分が納得がいくまでとことんやる方のようだ。多分途中で調律が狂ってくると思うから、本番の休憩中にも手直しをする、だからなんでも言ってくれ、とおっしゃってくださる。これはもう頭を下げるしかない。

こういう時、ピアニストは調律師さんがいてくれてこそ存在する、とほんとうに思う。いっしょに音楽を創っている、と私は心底思う。

このピアノ、前情報ではロシアのピアノ、ということだった。が、それは明倫小学校(やはり廃校になっている。現、京都芸術センター)の方にある「ペトロフ」のことだったそうで。しかも、ペトロフはロシアではなく、チェコ製だ。(現在、このペトロフは修復中らしい。)

で、この立誠小学校にあるピアノの名は「グロトリアン・シュタインヴェク(GROTRIAN STEINWEG)」。通称、グロトリアンと言うそうだ。

このピアノの創始者はフリードリッヒ・グロトリアン。彼はモスクワでピアノ製造販売を営んだ後に、故国のドイツに戻り、1835年に若い技術者と出会って、ピアノ製造工場を立ち上げた。その会社はグロトリアン・スタインヴェーグと名付けられた。そう、その若い技術者こそがテオドール・スタインヴェーグ。後に、一家でニューヨークに渡り、スタインヴェーグをスタインウェイと英語名に変えて、1853年かのスタインウェイ(STEINWAY&SONS)が生まれたわけだ。

このように、グロトリアンの歴史はスタインウェイよりも古い。クララ・シューマンが愛用していたと聞いた。日本では非常に珍しいらしい。

演奏していると、だんだん楽器が鳴ってくる。スタインウェイでもなく、ベーゼンドルファーでもなく、これまで聴いたことがない、なんとも言えない、実に豊かな響きだ。弾いているうちに感動さえおぼえる。なんと独特な気品にあふれていることか。特に、低音の、決して厚かましくない、それでいて柔らかで温かく重厚な、まるで上質なベルベットで世界をふわ〜っと創るような深い音の肌触りは、生涯忘れることがないだろう。このピアノと出会って、ほんとうによかった。

って、以前体験した約百年前のスタインウェイと出会ったのも、ここ京都。いったいこの町の文化はなんなのだ?と眩暈を起こしそうになる。「伝統」と口にするのは簡単だが、その底と幅は想像以上に深いと感じる。やはり、京都、恐るべし。

打ち上げの時にいろいろ話しを伺ったのだが、このグロトリアンは百年以上前のものらしく、「日露戦争の戦利品」として寄付されたとも聞いた。日露戦争は1904年〜1905年のことだから、そっか、どう考えても100年以上は経っていることになる。ひえ〜っ。

京都という所はいわゆる地元民の力が非常に強い所らしい。そうしたいわば町の有力者のような人たちが、京の文化を支えてきたのだろう。だから、今でもそうした人たちの力は強靭で、京都市などの自治体は簡単に事を進めることができない、とも聞いた。

また、通りが違えば文化が違う、ということもあるらしい。さらに、よそからお嫁さんが、例えば寺町通りとか新京極通りといった、お土産物屋さんが建ち並ぶような通りで、その店の前は修学旅行生などでごった返していたため、空いている通りの真ん中を歩いたら、「あそこの嫁は道の真ん中を歩く」と言われるとか。・・・って、ええっーーー?

ふう、まったく、犬も歩けば棒に当たる。どころじゃない。旅ゆけば〜、実にいろんなピアノに出会うものだ。

みんなと別れてから、以前行ったことがあるジャズ喫茶がまだ存在しているかどうかを確かめに、深夜の町を一人で少々徘徊する。先斗町辺りもずいぶん変わった気がしたが、果たしてその店はまだ在った。うれしかった。



■ 7日(水)  美山町、かやぶきの里

このツアーの最終日。バカボン号は紅葉が始まった高雄を過ぎて、さらに北上。山、また山を廻る感じ。って、まるで山姥のようだ。

今晩は京都府南丹市美山町という、かやぶき屋根の家が残っている集落(日本で三番目くらいの規模らしい)にある神社での演奏だ。そこの神社にある、野外の神楽殿での演奏。・・・寒いぞ〜。

かやぶき屋根が残っている集落は、大型観光バスがやってきたりしていて、けっこうな人出だった。地元の方たちは良いんだか悪いんだか、とちょっとこぼしておられたが。(ちなみに、このツアーを主催している方が住む石見銀山は、世界遺産に指定されて以来、町はたいへんなことになっているらしい。)

でも、この町は例えばこの間訪れた元気がないように感じられた北海道より、ずっと活気にあふれている感じがした。若い人たちが伝統のかやぶきのやり方などをきちんと学んでいると聞いた。つまり、若い人たちがいる、のだ。そしてこの地の特産物の販売や、子供たちの自然留学などの企画を積極的に行っているらしい。その地に住んでいる人たちの温かい思いや、パワーのようなものを感じた。

開演時間も、当初は夜になると寒くなるし、夕暮れの風景の中で、と企画されていたとのこと。が、子供たちの下校時間(学校はバスで約1時間走ったような所にあるらしい)の関係で、夜のコンサートになったと聞いた。

かくて、神社の境内には子供たちの笑顔も含めて、たくさんの人たちが来て下さっていた。みなさんホッカイロを身体にあてながら。温かい豚汁などもふるまわれ、ちょっとしたお祭りのような雰囲気になり、お客様たちの感じも柔らかい。

ピアノは調律師さんが所属する会社からのレンタル。京都市内から約1時間半〜2時間かかる山道をやってきたピアノだ。そして今日もまた調律師さんは開演間際まで鍵盤を叩いておられた。外気がどんどん冷えていくから、野外での演奏は楽器にとってはたいへんなのだ。

このピアノの会社が選ばれたのは、主催者の“カン”という風にも聞いたけれど、京都・大徳寺の西側辺りにある、見逃しそうな一軒家にあるらしい。その扉を開けると、ピアノの部品がそこいらじゅうに散らばっているような工房という感じの所だったという。詳細はわからないが、ピアノを作っている(?)か、修理専門という感じらしい(?)。

今回、いっしょに廻ってくださった調律師さんは、はっきり言って、私がこれまでに出会ったことがない感じの方だった。調律師さんはたいてい背広かジャケットを召されていて、割合に身なりをきちんとされており、革靴を履いている。が、この方はそうではなかった。音楽というより、まさにその“一音”がどう出るか、というようなことに命をかけているような雰囲気さえする、職人肌の方だったように思う。ほんとうに助けられた。心から感謝。

調律師という仕事をされている方は、なかなか癖の強い方が多い。オーディオのこともエンジニアと同じくらいよく知っていたり、プラモデルを組み立てるのが大好きだったり、車の改造マニアだったり、・・・とにかく、ああ、この人なら、と妙に納得Jしてしまうような分野のことに、ものすごく詳しかったりする。

今回の調律師さんも、放っておけばいつまででもピアノをいじっていて、ああだこうだとやっているような方のように感じられた。他のことにはほとんど興味も関心もなく、もしピアノのメカニズムのことでも尋ねようものなら、一晩じゅうでも話していそうな気がする。

終演後、バカボン君はさっさと一人で帰京。打ち上げは囲炉裏のあるかやぶき屋根の家で。ツアー最終日ということもあって、みんなでわいわいと過ごす。私はスタッフの女性とお風呂に入り、深夜2時前には床に着いたが、他のみなさんは4時頃まで飲んでいたらしい。



■ 8日(木)  大阪でんがな

午後、昨晩の町おこしのグループの方がやっているお蕎麦屋さんで、昼食をいただく。美山産の蕎麦粉で打ったという手打ち蕎麦は絶品。その後、若いスタッフの人に無理を言って、車で山道を抜け、大阪へ向かってもらう。

驚いた。新しくできたというバイパスになっているトンネルを抜けたら、のどかな山道を走っていた光景が、いきなりビルがたくさん見える空に変わったからだ。唖然とした。

かくて、なんばにあるホテルに着き、私はちょっと街へでかけてみる。こてこて、でんな〜。初めて走る“グリコ”マークを目の前で見た。歩いているうちに、ものすごく疲れてくる。赤、黄、緑・・・、それに街の音だ。うるさいことこの上ない。間違って、バリバリの大阪弁を話すオバチャンがやっている喫茶店に入ってしまった。アテラレタ。

眩暈がしてきたが、時間をとれるのは今日しかないと、美容院を探す。想像以上に、ない。で、若い子ばっかりとは思ったけれど、結局ホテルの近くに見つけて、そこで髪の毛を切り、生涯三度目の染髪をしてもらう。若い女の子のシャンプーとマッサージがあまりにも下手糞なので、キレそうになったが我慢する。夜はゆっくり中華を食べて、ゆったり眠る。



■ 9日(金)  大阪で

午後、鎌田實(諏訪中央病院名誉医院長/『がんばらない』などの本を著した医者)さんと坂田さんがやっておられる講演会&コンサートで演奏。

たまたまだったのだが、この会場のピアノの調律をしてくださった方は、このツアーの初日、すなわち東条湖のピアノも調律してくださった方だった。途中で、いろいろ話しをする。加古隆(p)さんがベーゼン以外のピアノを弾く時は、この方がいつも頼まれていると聞いた。他に山下洋輔(p)さんの仕事もしたことがあるそうで、クラシック音楽以外の調律の仕事もされている方であることがわかった。ので、なんとなく安心する。とにかく、とても誠意のある方だった。

さらに、この調律師の方は大阪のグロトリアンの代理店もされていると聞いた。もちろん京都で弾いたグロトリアンの話しもして、なんだか近しい気分になってしまう。

会場では乾千恵(画家)さんにも再び会い、終演後、すぐにタクシーに乗り、新幹線で帰京。



チャン、チャン。

という旅でございました。

もっとも印象に残ったのは、やはり日露戦争の戦利品というピアノ、グロトリアンを弾いたことでしょう。生涯忘れないと思います。ああ、レンタルにしなくてほんとによかった。

今回は、平たく言えば「町おこし」に関わるかたちでのコンサート・ツアーだったわけですが、私たちが演奏することで、そこに何が残ったのだろうと考えたりもします。でも、それは主催した人たちが考えるべきことなのかもしれません。なにせ音楽はその場、その時で、すべて消えていくのですから。音を出した途端に、「あっしには関わりがねえことでござんす」という側面があることは否めないと思っています。

とはいえ、グロトリアンを弾いた私は、やはり「文化」って何でしょう?と考えざるを得ません。あるいは、現在、いわゆる「地方格差」というようなことが言われていますが、そうした「社会」に対する視野や思考も、音楽を奏でることを仕事としている以上、きちんとした考えを持たなければいけないなと思っています。って、これらは宿題、かな。今はまだうまく言葉にできません。

ともあれ、ご愛読、感謝。


11月11日(日)  ピアニストが8人

千野秀一(p)さんが主催するコンサート『ピアノ舞踏会』の第二回目が、吉祥寺・武蔵野市の公会堂で行われた。出演者は、千野秀一、パク・チャンス、宝示戸亮二、工藤冬里(以上男性)、三宅榛名、高瀬アキ、新井陽子、私(以上女性)。この計8人は全員ピアニストで、すべて即興演奏による二台ピアノの演奏会。一台はスタインウェイ、もう一台はヤマハで、いずれもフルコン。一組の持ち時間は“10分くらい”という約束。

今年は開演前から本番開始直前まで、内部奏法をめぐってホール側との折衝が続いていた。終演後もその続編が繰り広げられていたことは言うまでもない。大勢であれこれ言うのも、という思いもあったが、千野さんがすべての対応を引き受けておられた。

一千万円以上するフルコンサート・ピアノは、ホールの大切な備品であり、ひいては武蔵野市民の貴重な財産でもある。ということはよく理解できるが、・・・と、ここでまたピアノの内部奏法についての記述を始めると長くなるので、やめておく。

(ピアノの内部奏法については、過去にもこんなことがありました。興味のある方はどうぞ。)

ただ、一つだけ。宝示戸さんが“プロテクト”と称していた、ピアノの内部でここだけは触ってはいけない、と言われている部分をダンボールで囲い、それを金属フレームに直接ガムテームで貼り付けた、という行為については、どうやらホールの方からはクレームがつかなかったらしい。内部に何か物を置くのも同様に。おそらくそのピアノの定期メンテナンスをしている楽器メーカーのマニュアルには書かれていなかったのではないかと想像される。旧い言葉になるが“想定外”だったのかもしれない。とにかく、弦に直接指が触れることが問題だったようだ。

そして、千野さんが考えたという最初の組み合わせが、この宝示戸さんとアキさんだった。で、お二人は直接手で弦を触れるような内部奏法はしないようにしましょう、と話しをされていた。一番最初からホールの人が駆け込んできて、コンサート自体が中止になるようなことになってはいけない、という配慮からだった。

きわめて社会的な判断だ。こういう時のアキさんの態度は実にきっぱりと毅然としている。ドイツ仕込みか?というよりも気質だろう。それは即興演奏の内容を聴いていてもよくわかる。

前回のこの舞踏会の時にも少し感じたことだったが、どうも女性の方が自分のことより全体を見ている気がする。即興演奏の組み立て方も構造的だったりするような。それに比べて、男性の方は、僕はどうしてもこうしたいんだ、という子供のような無邪気さ(我儘)のようなものが、あるいは自分の美学を貫く男のロマンのようなものが内在しているように感じられる。

実際、それで世の中はうまくバランスが取れているのかもしれない。男のロマン、男の勲章、そういうものとは違うところに女性は生きている気がする。それは先の丹波・京都ツアーの時にもちょっと感じたことだけれど。そのツアーを主催して下さった方と奥様のことを思い浮かべると、なんだかそんな風に感じるのだ。

かくて、宝示戸さんはピアニカを用いて踊ったり、おもちゃをピアノ線上で動かしたり。私は思わずとても懐かしくなった。'80年代後半、「機械じかけのブレヒト」で共演していた広瀬淳二さんが、当時“self-made instruments”と言っていたものを思い起こさせたからだ。

ほかにも、あらかじめ仕込んで来ていた人が何人かいた。ピアノをほとんど弾かず、実際のピアノ線を持って詩を朗読して、榛名さん一人を残してステージから去っていった工藤さん。トイ・ピアノを持って来ていて、それも弾いていた新井さん。おそらくパクさんも即興演奏の方向を美学的にある程度決めてきたような気がしている。最初はかなり“間”を意識したもの、後半は鍵盤の“連打”の響きや倍音を中心としたもの、と。

アキさんと千野さんの演奏はそのリハーサルからよく息が合っていたと思う。音の立ち上がりが一番鋭いペアだったように感じる。最後の組み合わせになった榛名さんとパクさんは、一つのモティーフを発展させた、ピアニズム(ピアノの響き)と構造的(作曲的)な内容になっていたように思う。

私は前半は千野さんと、後半は工藤さんとの演奏だった。
千野さんとは比較的よく聴き合った演奏ができたような印象が残っている。強弱、音色にも配慮する余裕があったような。
工藤さんとは初対面だった。私とやった時の彼はピアノを弾き、座るや否や弾き始めた。うまくコミュニケーションがとれたかどうか、あるいはそういうことはどうでもよかったのか、正直、今でもちょっとよくわからないでいる。

前半の最後には女性4人だけの演奏があった。去年の男性4人はあまりにも不評だったのでやめることにしたそうだが、これで来年は女性4人だけの演奏もなくなるだろう。まったく音楽になっていなかったと思う。すべての最後には全員の自主的参加による演奏が20分くらいあった。その音が終わらないうちに、幕は下りた。

終演後、スタッフも含めて全員で打ち上げ。その後も二次会に参加し、千野さん、パクさん、新井さん、アキさん、中野・プランBに携わっている方で、深夜三時過ぎまで。吉祥寺から久しぶりのタクシー帰りになった。

問題点、反省点はいろいろあると思う。

そのうちのいくつかは、初めて参加したアキさんの言葉に集約されると思う。
一つは、「初めて会う人たちのことがよくわからない」という状態が演奏者の間にあったこと。
一つは、ピアノのセッティング。今回も二台のピアノとも蓋をはずし、客席から見て“ハ”の字型になるように位置が決められていた。演奏者は客席に対して半分背中を見せるような格好だ。
そして、もっとも問題なのは、「相手のやっていることがよく聞こえない」ことだ。
この辺りのアキさんの主張もはっきりしていた。ドイツ仕込みか?否、演奏者として当然のことだろう。

例えば、宝示戸さんが片方のピアノに施した、ピアノのある部分をダンボールで覆うということは、あらかじめ共演者の誰にも告げられてはいなかった。初めてその状況を見た人は、そりゃびっくりだ。それに普通にピアノを演奏する場合、その響きが損なわれることは容易に想像できる。

というような、音楽以前に、何か大切に考えられていなければならなかったことが、出演者の間にあったように思う。それは例えば出演者もチラシを配布したりして宣伝に協力するといったことも含めて、このコンサートに参加する者の意識にも関わることだと思う。出演者のことを事前に知りたければ、何か資料を送ってもらうようにするなり、手段はいくらでもあるだろう。今やもうPCの前に座っていれば、音と映像は見られる時代だ。

そして、そこには、では、主催者はこの8人の関係をどれくらい丁寧に考えているか、ということもあると思う。千野さんとデュオで演奏し始める前、「僕と君は、今、ここで初めて会ったのね」と、ステージ上で私は声をかけられた。それはよーくわかる。千野さんが即興演奏をどう考えているかも含めて。けれど、それとコンサートを行うということは、別のことだろう。その辺りのことが、常に自身に矛盾の意識を抱えているようなところが、なんだかとても千野さんらしい?(敢えて書いておきますが、これ、決して批判じゃありません。)

また、ピアノの翼というのはよく考えられているもので、あれがあるから、客席の方へ音は飛んでいく。だからピアノの蓋を取ってしまうと、当然音は上へあがってしまい、お客様の耳にはダイレクトに聞こえなくなる。音の実感が薄くなる。そして、演奏者もまた、あの位置どりは相手の音を聴き取りづらく、互いの音を聴き合えないように思う。

このコンサートは千野さんが主催・企画されていて、実際の事務方のほとんどは新井さんが行ったと聞いている。そして、千野さんはこのコンサートを継続していきたい、ご自身のライフワークとしても考えておられるらしい。

去年、今年と行って、よかったこと、改善すべきことなど、いろんなことがあると思うが、私はこの『ピアノ舞踏会』のことを心から応援したいと思っている。このようなピアノ二台による即興演奏のコンサートは、おそらくこの国にはほとんどないだろう。私が出演するしないに関わらず、このコンサートのこと、千野さんのこと、縁の下でがんばっている新井さんのことを、微力ながら応援していきたい。

あ、ちなみに、千野さんはアキさんに向かって「横綱に稽古をつけてもらったようだ。だって、音、デカイんだもん。」とおっしゃられていた。んで、なんだかよくわからないけれど、「助けられた。あなたはムーミンママだ。」と私は言われた。


11月15日(木)  贅沢な時間

夜、窓に灯りがともるビルの谷間に、美しい三日月がゆっくりと落ちていく。おそらく23〜25年ぶりくらいに生演奏で聴いた曲「Song for che」が、私が過ごしてきた年月を、走馬灯のようにゆらめかせていた。もちろん、目にはうっすらと、海。光景がにじむ。

よく考え抜かれた編曲、構成力のある即興演奏の内容による、オーネット・コールマンやエリック・ドルフィーが作曲した曲が演奏される。そして最後の方、今年亡くなった詩人・評論家の清水俊彦さんに捧げたバラードに続いて、高瀬アキ(p)さんと井野信義(b)さんのお二人が最後に演奏したのが、この曲だった。

1982年4月から丸二年間、私はこの高瀬アキさんにジャズ・ピアノを習った。最初の約半年間でやった曲は多分2曲くらい。4ビートのウラ拍はすぐにひっくり返り、いつでもオンでしか拍子を取れない。パーカーやマイルスが吹いているらしい、いわゆるテンションなどの音がまったく取れない。コードもアドリブも聴き取るのにえらく時間がかかり、とても苦労した。とにかく、彼らがいったい何をやっているのか、さっぱりわからなかった。

先の『ピアノ舞踏会』の時、千野さんから「あなたはアキさんから何を学んだの?」と言われて、咄嗟に「音楽」と私は答えていた。実際、レッスンの時は、私はアキさんからはジャズの方法だけを勉強したと思っているのだが。それ以外の余計な抽象的な理念などは、当時アキさん自身が授業の方針として言っていたように、ほとんど教わった憶えはない。

ただ、友人の助言もあって、当時、私は師匠の演奏をできるだけ聴くようにしていた。この“人”はいったい何をやろうとしているのか?どんなことを音楽で実現しようとしているのか?できるだけ客観的に、きちんと距離をとって、自分の耳でその音楽を理解することに努めた。結果、その女性としての生き方のようなものも、当然視野に入ってくる。そうしたことも含めて、私はおそらく「音楽」と答えたのだと思う。

そして、アキさんは今回の共演者である井野さんとLP『天衣無縫』を録音して、単身、ドイツに行ってしまった。私が習っている頃から、少しずつドイツ語の勉強をされていたが、はっきり言って、当時のドイツのジャズの状況(単に、LPなどを聴いていて、有名なミュージシャンの名前くらいは知っていた程度のことだが)については、アキさんより私のほうがまだ知っていたと思う。現地に頼りにできる人がいて渡独したとはいえ、そうこうするうちに、ドイツのフリージャズの大御所、アレキサンダー・フォン・シュリッペンバッハ(p)と結婚した、という情報が入り、あまりの青天の霹靂に腰を抜かしたのだった。

ま、今、ここにアキさんの思い出話を書くつもりはない。とにかく、そのドイツに渡る前に組んでいたカルテット、メンバーは林栄一(as)さん(←山下さんのグループをやめて、私のグループに加わるの、とうれしそうに話していたことを思い出す)、井野信義(b)さん、楠本卓司(ds)さん、で、頻繁に演奏していたのが、この「Song for che」だった。

アキさんの音の潔さ、強さのようなものは、ドイツに行ってから、私はさらに増したと思っている。そして、その中にも、かつてあったよう表現や響きではないけれど、アキさんらしいリリシズムが残っていることを、今晩の演奏から私は感じた。

これは『くりくら音楽会 ピアノ大作戦 平成十九年秋の陣』の最終回で、前半に演奏されたデュオの様子であり、私の感想だ。

後半は、ウーゴ・ファトルーソ(p,vo,accordion)さんとヤヒロトモヒロ(per)さんのデュオ。ウーゴさんはミルトン・ナシメントなど多くのミュージシャンとの共演歴を持つ、、ブラジル音楽界の重鎮だ。ヤヒロ君が幼少の頃から憧れていた人だそうだ。

どちらのデュオが先にやるかは、いつも事前に決めていない。夕方、全員に来ていただき、それぞれのリハーサルを聴いたりしながら、順番を決めたり、もし合同演奏ができそうなら、どんなことをやるかを話したりするようにしている。

で、今回は両者とも先に演奏したいと言っていたのだが、ウーゴさんの「レディーファースト」のひとことで、アキさんが先にやることに決まった。ピアノの調律はちょっと狂うかもしれないと、ヤヒロ君にウーゴさんに通訳してもらうと、「いやいや、南米で、音の狂っていないピアノなんてないから、だいじょーぶーよー、気にしなーい、気にしなーい」だった。笑った。安堵した。

そして後半が始まる。1曲目の演奏を終えた後だっただろうか、少しおしゃべりが入った。その時、ウーゴさんは静かな調子で話し始めた。その内容は、もう一組のデュオの演奏を、心からのリスペクトを込めてたたえ、温かい拍手を送っているものだった。

私はとても胸が熱くなった。涙が出そうになった。実は、この日は例えば“ゲルマン対ラテンの真っ向対決”みたいなことを冗談めかして言ったりもしていたけれど、両者の来日予定からたまたまこのようなブッキングになっただけで、実際どうなるんだろう?と思っていたのは、これを仕組んだ当人の私だった。

けれど、そんな思いはこのウーゴさんの言葉ですべて吹っとんだ。一晩に、音楽の内容が異なる、ピアノを基本としたデュオ演奏を聴いていただくという、このコンサート。その意味のようなものがわかった気がした。多分、私が求めていたものは、これなのだ。このコンサートをやっていてよかった、と思った瞬間だった。

とにかく、一流はすごい。貫禄があり、堂々としている。なんだかあまりに平べったい言い方で、安っぽく聞こえるかもしれないけれど。アキさんのデュオも、ウーゴさんのデュオも、それぞれの音楽をきちんと実現していて、ほんとうにすばらしかった。ただ、それに尽きる。そういうことなのだ。そして、多分こういうことは若い人にはできない。無論、若い人には若い人なりの良さがあるのだけれど。

ウーゴさんとヤヒロ君のデュオは、かなり複雑なポリリズムを用いたりもしていた。A.C.ジョビンの「デサフィナード」も決して普通ではなかった。他に、カンドンベ、ショーロなど、少し説明をしてくれながら演奏もして下さった。ウーゴさんはピアノ以外にも、歌をうたったり、打楽器を叩いたり、アコーディオンを弾いたり。リズムがグルーヴしていて、思わず踊りたくなる。でも時々どこが一拍目なのか、やっぱり私はわからなくなったりしていた。

笑顔のラテン。とにかく、ウーゴさんとヤヒロ君の笑顔は最高だった。そこには、アキさんと井野さんのデュオの世界にはなかった音楽があった。

けれど、それぞれのデュオは、それぞれの“血”あるいは“地”に、すなわち“自分自身”に、しっかり根ざしている音楽だった。その意味では、同じだ。そこがすばらしい。

そんなことを考えながら、私は来年もこのままの方針でいくことに心を決めた。

実のところ、非常に迷っていた。先月の組み合わせは、普段いわゆる現代音楽を聴いたことがない人や、おおたか静流(vo)さんを目当てに来たと思われる子供たちにとっては、わからないとか苦手だとか、そうした声を多く聞いたからだ。無論、井上郷子(p)さんや木ノ脇道元(fl)さんの演奏はすばらしかった。普段現代音楽を聴くことがない人でも、よくはわからなかったけれど、あの音色は美しかったと言っていた人もいた。

誤解を恐れずに言えば、そこには聴き手の聴き方の問題もあるとは思っている。また、音楽の好き嫌いがあるのは仕方ないだろう。が、それとは別に、このコンサートには音楽的な獲得目標を設定すべきだろうか、と悩んでいた。ブッキングにはこれまで以上に苦労しなければならないけれど、一晩にはできるだけ同じ傾向の音楽をやっている人の組み合わせにした方がいいのだろうか、とかとか。でも、今月のコンサートを聴いて、やめることにした。

敢えて言うなら、このコンサートは、“日々を相当な好奇心を持って過ごしておられる方”向きかもしれない。人間、死ぬまで好奇心を持っていたほうが楽しいかもよ〜。結局、「耳を開く」か。

終演後、そのまま軽く打ち上げ。今回はこれまで出演してくれたミュージシャンなど、音楽関係者がたくさん来て下さっていたことも、ちょっとうれしかった。



ということで、この『くりくら音楽会』、来年も引き続き、やります。春の陣は3、4、5月。秋の陣は9、10、11月。いずれも今年と異なり、第四木曜日に、同じく門仲天井ホールで行う予定です。これからもどうぞよろしくお願いします。


11月17日(土)&18日(日)  収穫祭

今年も足利・ココファームの収穫祭で演奏。坂田明(as,cl)miiプラス坂田学(ds)のユニットで、その名も“ヤッホー!”というユニットでの参加。

前日の16日は夜にちょいと仕事があって、夜11時頃に自宅を出発して、約2時間で現地に着いてしまった。ちょっと飛ばし過ぎか、私?

ステージ上では、最初の弦楽四重奏には今年初めてホルンが加わっていて、これが山にこだまして、なかなかよかったと思う。それから私たちが1時間演奏。その後、サイゲンジ(g,vo)さん、古澤巌(vn)さんのユニット。午後3時から再び30分間だけ演奏して、最後は坂田さんがソロで吹かれる「赤とんぼ」で終わる。

土曜日は大学時代の同級生たちが来てくれていて、山の斜面でいっしょに斜めになりながら音楽を聴いていた。かなり音が硬めで大きく、隣にいる友人と大声をはりあげないと話せなかった。音がつらく、気付いたら首がパンパンになっていた。

実は演奏中もずっと耳栓をしていた。モニターなどもちろん不要。外音用のドでかいスピーカーから聞こえる音で、私には充分だった。この耳、大きい音にはほんとにダメになってしまったと思う。流行りのPAで増幅したような重低音(例えば、運転中の車の中で爆音で聴いているあなた、難聴になりますわよ)は、もう特にダメだ。気が狂いそうになる。

土曜日の演奏が終わった後は、いつも参加者全員で宴会になる。この日、特にバカボン鈴木(b)さんは絶好調。何故バカボンと言うのか?とみんなから尋ねられ、「私があのバカボンのモデルなのです」と言ったりしている。(もちろん、嘘。)また、古澤さんが空海は自分のアイドルだと言うから、バカボン君の話にはさらに勢いがつく。

で、気付くと、まわりはみな帰っていて、坂田さん、バカボン君、私、の三人にそれぞれ2〜3人付いているグループの山ができていた。私はサイゲンジさんと初めていろいろ話す。彼は早稲田大学で言語学を学んだそうだ。が、卒論はなんでも「ホーミー」とのこと。また、古澤さんのユニットで新しく参加したキーボードの女性からも、ヤマハ専属時代のことなどいろいろ話しを聞く。何を思ったか、私に習いたいと直感したそうで、そんな話も少し。

日曜日は昨日よりちょっと寒い感じ。午後3時を過ぎると、ぐっと冷えてきて、風がとても冷たい。やばいかも〜と思っていたら、やっぱり風邪をひいた。

来年でこの収穫祭も25周年を迎えるという。すっかり白髪になり、ちょっと足腰が弱ってきておられるようだった園長先生だが、来年もまたお会いできることを、切に願う。


11月20日(火)  空中独唱

また一つ歳をとった。

大正五年(1916年)十一月二十日に、夏目漱石が書いた漢詩。その後半は、

依稀暮色月離草
錯落秋声風東林
眼耳双忘身亦失
空中独唱白雲吟

だから、なんだっていうの。

んで、黄色い水仙と、「十年連用日記帳」なるものを入手してみる。生きているのか、私?


1月22日(木)  カモシカのようだった

風邪の具合が悪く、昨日も演奏にでかけるまで寝ていたが、今日も太極拳の教室は休み、終日寝ていた。週末の野外での演奏もあったけれど、今年はこれで地方での仕事は終わりだと思った気の緩みのようなものに、風邪につけこまれたような気がしている。

夜、友人の突然の訃報。

彼女は中高時代の同級生で、バスケット部に所属していた。高校三年生の時には、私がやっていたハンドボール部、そしてバトミントン部と共に、関東大会に出場した仲間だった。とても足が早く、体育祭のラストの花形競技であるリレーでは必ずメンバーに選ばれていた。その足はまるでカモシカのようだった。ストライドが大きいのだ。

去年の春のことだっただろうか、彼女がやっているジュエリー販売の展示会で、私は指輪とイヤリングを買った。私にはなかなか高価な買い物だったが、彼女からは「人前に出て演奏するような仕事をしているのだから、もっとオシャレをしなくちゃダメよっ」と本気で怒られた。

そして、去年の秋の『くりくら音楽会』で、私が演奏する時に来てくれたのが、おそらく彼女が私の演奏を聴いた最初で最後のことであり、私が彼女に会ったのもそれが最後になったと思う。私の耳のことを心配して来てくれていた。

約半年間入院していたそうだが、子宮癌の進行が早く、本人の希望で、そのことを友人関係にはほとんど知らせることなく、天国に逝ってしまったそうだ。心から合掌。


11月25日(日)  くるみ割人形

生まれて初めて「バレエ」の舞台を観た。

“キエフ・バレエ”の公演で、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』を、東京国際フォーラムにて。

いわゆるクラシック・バレエと呼ばれるもので、バレエ・シューズとチュチュ(というんでしたっけ?)を身に付けた女性の踊り手が、つま先立ちで、跳んだり、くるくる回ったりするものだ。そして、舞台手前にはオーケストラ・ピットがあり、その音楽はオーケストラによる生演奏だった。

なんたって、これまでのバレエの経験といえば、かわいい姪たちの発表会だけだ。それも狸やチューリップのぬいぐるみなどを着ているから、誰が誰だかよくわからない舞台の上、みたいな感じだった。

で、幕が開いて、どうやって鑑賞したらいいのものなのか、ちょっととまどった。例えばピナ・バウシュなどのいわゆるモダン・ダンスと呼ばれるものは、これまでも何度か観ているけれど、どうもそれともかなり違う感じがして、思わず自分が座っている席の周辺の様子を伺ってしまった。言葉がないことに慣れるのに、少しだけ時間がかかった。

それよりも私の耳を奪ったのは、チャイコフスキーの音楽だった。冒頭から、うわあ、なんてメロディアスなんだろう、と感じる。あの有名なくるみ割り人形のメロディーは前半に出て来たが、後半にもとてもなじみのあるメロディーがたくさんあった。

それに、あらためて驚いたのは、そのオーケストレーションだった。『くるみ割り人形』の初演は1892年3月のことだそうだが、当時、発明されて間もないチェレスタを使い、シンフォニー・オーケストラでこの楽器を使った初めての作曲家は、このチャイコフスキーだそうだ。その色彩感あふれるオーケストレーションは、ラヴェルの音楽を初めて聴いた時以来の感覚に近かった。

同じ人間とは思えないような肉体的な“技”、例えば何度も何度もくるくると回りながら踊ると、会場からは拍手が湧き起こる。それはまるでジャズ・ドラマーがロールを延々と続けたり、手数を多くして続けざまにドシャバシャやると拍手をいただくような感じに、ちょっと似ていた。

ロビーなどには、いかにもバレエをやっていますっ、という風の方たちがたくさん。あ、あ、あのような体型に一度くらいはなってみたい。って、もはやとても無理・・・。


11月27日(火)  ミーオ

午前中、亡くなった同級生の告別式に参列し、たくさんの花に囲まれた彼女にさよならを告げ、出棺を見送る。

その後、同級生たちと軽くお昼を食べながら、あれこれ話しをする。今や、母校の男性の先生は、昼休みには一所懸命歯磨きをしているのだという。そうしないと生徒から総スカンを喰らうんだそうだ。体臭や口臭に気を遣わなければならないのだから、先生もタイヘンだ。缶ケリとか馬乗りとかを、先生といっしょにやっていた私たちの時代は、遥か彼方のことなのだなあと唖然とする。

午後は若き歌姫、松田美緒(vo)さんとリハーサル。あれこれ話をしながら、夕飯も二人でゆっくりと食べて過ごす。彼女が紹介してくれた、A.C.ジョビンの数々の曲はあまりにもすばらしく、自分の不勉強を反省する。おそるべし、ジョビン。


11月30日(金)  11月も終わり

今週やったライヴ、黒田京子トリオ(翠川敬基(cello)、太田惠資(vl))、澄淳子(vo)さんと吉見征樹(tabla)さんと、そして喜多直毅(vl)さんとの演奏は、どれも楽しかった。

トリオは緊張感のある、いい演奏が残せたと思う。
澄さんと吉見さんとの出会いは旧く、おそらくもうすぐ20年になる。この三人の演奏も、今や、どうにでもなる。
久しぶりにいっしょに演奏した喜多さんは元気いっぱい。楽器がよく鳴っていた。彼ともどこへでも行ける。Aというメロディーがあったとしたら、それをいくらでも自由にアレンジして提出して展開できる感じ。

これらの人たちとの演奏は、どれもかなり自由だ。そして、そこには演奏する歓びのようなものがある。(正確に言えば、澄さんが提示する曲は既にアレンジされているから、その後の展開は概ね予想することができ、トリオや喜多さんとやる時の方法とはちょっと性質が違うのだけれど。)

そんなこんなで、11月も終わり。

現在、『くりくら音楽会 ピアノ大作戦 春の陣』のブッキングに頭を悩ませているところ。
(ちなみに、来年の『くりくら』は、3&4&5月、及び9&10&11月、いずれも第四木曜日に行う予定です。“第四”です。)




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