2004年10月
10月1日(金)  生きている音

生きている音とは、どういうことだろう?
なんとなくもやもやしていて、頭で考えたりしてきたことが、なんとなく少しずつ、身体がわかり始めているような感覚。


10月3日(日)  演奏する姿

久しぶりに、普通のクラシック音楽を聞きに行く。ネルロ・サンティ指揮、NHK交響楽団が演奏した前半のプログラムはロッシーニ作曲の序曲を3曲、後半はブラームス作曲・交響曲第四番。アンコールはブラームス作曲・ハンガリー舞曲第五番。実にポピュラーな選曲だ。

聴き手として、目の前で生まれている音を感じる時、もっとも気にかかったのが、演奏者の姿だった。

恥ずかしながら、「ウィリアムテル序曲」の出だしが、あのようなチェロの演奏によることを初めて知ったのだが、そのチェロ・ソロ奏者やコンマスの演奏は、弓をボディに当てたりしながらも、少なくとも私にはなにがしかのものが強く伝わってきた。音を出しているという行為そのもののエネルギーを感じさせる「身体」があった。

全演奏者を見ることができる席ではなかったので、よくはわからないが、演奏中あるいは終了後立って挨拶をしている時、その立ち姿や顔がまるで生き生きとしていない演奏者がいることに、かなり失望をおぼえた。あんた〜、音楽、やってんでしょー、と叫びたくなる。最後にサンティがコンマスと腕組みをして聴衆に頭を下げ、団員たちが拍手を送り、笑っていたのが少しだけ救いだった。

はて、では自分は?
私は音楽を聞いていても身体が自然に動いてしまう。演奏中は無意識にうなったりしているようだし、何が正しい姿勢で悪い姿勢なのか、という問題もあるけれど、おそらくピアノの先生からは褒められるような姿勢ではないのだろうなあと思ったりする。重要なのは自分と楽器の距離、か。物理的な意味のみならず、抽象的な意味においても。


10月4日(月)  子供たちとの楽しみ

小学校の先生をやっている高校時代の友人のクラスで、朗読と音楽のひとときを持つことになった。小学生たちが読みたいと思っているものは種々様々だったが、いろんなアイディアを互いに出し合うこと、そのプロセスを大事にしようということで、ちょっと楽しみになった。行き掛かり上ボランティアで引き受けたので、謝礼は給食だそうだ。実は私は給食という経験がないので、これまたちょいと楽しみ。


10月6日(水)  自分の演奏を聞く

昨日、7月に演奏したブラームス作曲『ピアノ三重奏曲第一番』の記録録音CD-Rを受け取り、朝の6時頃聞いた。最初は笑いながら聞いていたが、そのうちだんだん自分の表情が暗くなっていくのがわかる。最後には完全に首(こうべ)がもたれた。ひどい、とつぶやく。

ライヴの現場での感覚や印象と、こうして記録として残った音源を聞くこと。また、ライヴとCD作品は、まったく別のものであること。は、わかっているつもりだが、さらに、「出した音に間違いなど何ひとつない」ということも真なり、と思っており、良いところもいっぱいあるとも感じているのだが。

よっぽど自分で”投稿”しようかと思ったが、やめた。


10月8日(金)  あやうさへの冒険

この前の6日の雑感の続き。

5日から7日の三日間、大泉学園にあるライヴハウス・inFがらみで、朝の4時頃まで、果ては6時j頃まで、ああだこうだと話し込む時間を持ち、超〜乱れた生活になった。

現在、ブラームス・プロジェクト(黒田京子トリオ)のCD制作に向けた話し合いもされているのだが、話している中で、このブラ・プロの方向性や音楽性、あるいは問題点などについても言葉が交わされ、貴重な時間を持ったように思う。

ものすごく厳しい言い方をすれば、7月の演奏が記録された音源を聞く限りにおいては、私たちがやったブラームス作曲『ピアノ三重奏曲第一番』は、私は音楽以前だと感じている。

それでもなお、それでもなお、だ。
私はこの3人がやった(やっている)音楽は、この3人だからこそ創れる音楽の喜びと、これからへの可能性を感じさせるものとして、おそらく私の音楽人生の中で間違いなく大きな意味を持っているものになっていると思う。

ブラームスの作品をやってよかった、と心底思う。
そして私の耳と指と心が学んだことは、たった一点、ひとつの音を出す、ということがどういうことなのかということに、自分がはっきりと気づいたことだ。そしてその点においては、即興演奏だろうが、譜面に書かれた音楽をやろうが、私の中では等価になってしまった。

即興演奏には出会い頭の新鮮さや思いがけなさが伴った喜びがあることもある。逆に、全然コミュニケーションが取れないまま終わり、音楽にならない場合もある。
これまでも書いてきたように、そういう意味では、それを仕掛けた人、演奏者にとっては、”賭け”に似ているところがないとも言えず、要するに、出たとこ勝負、好き勝手にやることは、一歩間違えれば、聴衆に対しては甚だ無責任な状態を生むことにもなる。これは、あやうい。それに、クリシェに陥ることもしばしばあるから、それもあやうい。
さらに聴衆にとっても、もしかしたらくだらない演奏内容や、悲惨な音楽状態を享受しなければならない可能性もあるわけで、あやうい。あるいは、命を賭けて音を出している演奏者を目の前にして、ひょっとしたら不安にかられたり、自分を脅かされる心持ちになるかもしれない。これもまた別な意味であやうい、かもしれない。

そして、ブラ・プロのことを考えてみると、定期的に、同じ人たちと、即興演奏をやり続ける、ということは、そうしたあやうさを常に内包しているとも言えるだろう。
が、振り返れば私にとってはこういうことは初めてのことで、ならば、やれるところまで徹底的にやったほうがいいと、強く思うようになった。仮に、同じことの繰り返しになり、いつか行き詰まる時期が来たとしても、その途中の試行錯誤するプロセスも含めて、さらに企画者や聴衆も含めて、文字通り”プロジェクト”ではないかと思うに至った。
こんなことはそうそう起きるできごとではないだろうと思う。実に有り難く、なんと幸福であることか。
そして、ブラームス作品を演奏するまでが第一楽章だったとすると、inFのマスターが言っていたように、現在は第二楽章という風にも言うことができ、おそらくこの第二楽章は少し長くなるだろうと思う。

ちなみに、この場合の即興演奏とは、すべてが、その時その場で選択されるものとしてある、ことを指している。具体的に言えば、仮にテーマなりメロディーなりが書かれた譜面があったとしても、現時点では、私たちは概ね事前に何ひとつ決めない方法を取っている。

さらに、このブラ・プロは現在黒田京子トリオと命名されているが、特に私がリーダーというわけではない。立場は3人それぞれ、まったくイーヴン、というのが、最初からの認識だ。その在り様も、なかなかあるものではなく、もしかしたらとてもあやうい。

なんだかあやうい菌がいっぱいいるような気もするけれど、ブラ・プロは新しい海に航海を始めたばかりだ。私たちがやっている音楽は、もしかしたらとてもオーソドックスなものかもしれないとも思う。ほんでも、「古い船を動かせるのは古い水夫じゃないだろう。なぜなら古い船も新しい海に出る」のも、ひとつの考え方だろう。ああ〜ん、拓ちゃ〜ん。(最後のフレーズは、日本のフォークソング通にはわかるささやき、というところでしょうか。)


10月10日(日)  アフリカ人の太鼓

ものすごい台風が去った翌日。

アフリカ人が叩く太鼓はそれだけで充分。その演奏には踊りと声が似合う。ピアノは聞こえてこない。ので、私もちょっと踊った。


10月12日(火)  何の意味がある?

曲を演奏する。クラシック音楽の曲を。ジャズの曲を。ロックの曲を。生まれた国の曲を・・・等々。
それだけのことに、何の意味があるというのか。個人の内実のうまっていない演奏、自分と向き合き合わず対象化されていない音からは、何も伝わってこない。そして、さらに自分を捨てるところまでいかなければ、おそらく音は誰の心にも響かない。プロ、ならば、なおさらのことだ。


10月13日(水)  名もなき命の尊さを思ふ

昭和15年、一家の大黒柱を突然失った家族がひとつ。
母はまだ41歳。子供は5人。一番上と一番下とは16歳の年齢差がある。
大阪から上京してきた、死んだ父の弟は葬儀にと200円を家族に渡し、
息子二人を関西へ丁稚奉公に出すことを提案する。
ひと晩たった翌日、その時、21歳だった一番上の姉は、決然と言ったという。
姉弟は離れ離れになってはいけません。
みんな、いっしょにいなければいけません。
私が働きます。私が働いて、母と弟妹たちを食べさせていきます。

ちょっとばかり下町弁で、とてもユーモアがあって、芯が強く、思いやりの深い、いかにもお姉さんだった伯母が他界した。この7月に天国に逝った娘のあとを追うように。

つくづく思う。
大統領や博士になったわけでもない。社会のために多大なる貢献をしたわけでもない。別に有名でもなんでもない。
名もない命の、いや、名のある、ものすごく尊い命。
人が抱えていることの重み。
ひとつひとつの人生。

夜、花巻に向かう新幹線の車窓に映る自分自身をみつめながら、ずっとそのことを思っていた。


10月14日(木)  自称、ミュージシャン

いっしょによく演奏している某サックス奏者が言っている言葉。
ミュージシャンなどというものは、社会の何の役にも立たない存在で、楽器を持っていなければ、ただの人、以下。粗大ごみに等しい。
自分でミュージシャンだと言っているから、ミュージシャンなだけであって、潜在的失業者なのだ。
これは肝に銘じる必要がある。

それにしても、いわゆるアマチュアのジャムセッションや演奏を聞く機会があると、今、彼らを遠い目で見ている自分に気づく。そして、自分がどういうところに立っているのか、と自問してしまう。

人前でピアノを弾くということだけをやり始めてから、たかだか約17年。始めた頃はバブリン絶頂期。地下で演奏していると、地上にあがる階段には毎晩行列ができ、私たちは座る所もなく、厨房の外のゴミ捨て場で、ビール瓶を詰める箱を椅子にして、休憩時間を過ごしたりしたこともあった。こんな私でも、クリスマスの時期ともなると、トラ(エキストラの略:自分の替わりに仕事をしてくれる人)の電話が何本もかかってきて、おかげさまで、ホテルのラウンジにある白いピアノを、赤いドレスを着て映画音楽などを演奏したこともあったし、会員制のクラブでミニ・スカートをはかされて、先生などと呼ばれて、客の歌謡曲の伴奏などをしたこともある。その先生が休憩時間にいる場所は、配管が立ち並ぶ暗い地下倉庫だったり、寒々とした階段の踊り場だったり、化粧と香水の匂いしかしない狭い更衣室だったりした。

ああ、自称ミュージシャンは荒野を目指す。志を高く持てよ。


10月16日(土)  丘の上のヴァイオリン弾き

府中市美術館で行われた、野外パフォーマンスを観に行く。秋の夕焼け空が殊のほか美しいと感じる時間から始まった。赤いドレスと青いドレスの二人のダンサー。子供が一人。そしてヴァイオリニストが一人。

まずは美術館の中から、二人のダンサーをガラス越しに眺める。それから子供が「こっちだよ」と案内してくれた先で目にしたのは、丘の上に一人立つヴァイオリン弾き。その後、彼は手押し車を引いて登場。中から「チャン」と呼びしは骨だけのヴァイオリン。はたまた、彼は自らが着ていた白いシャツに五線譜や音符を描いたりする絵描きにもなる。(私ならジョン・ケージのような譜面も描いただろう。)最後には丘を走りまくる風の青年となっていた。船にも乗っていたっけ。

途中、青いドレスのダンサーとヴァイオリニストとの即興。ヴァイオリニストの目の前にいた、お客さんとして観ていた子供が実によく反応していたのに、思わず笑い、なんだかうれしくなる。前に出そうになるとお母さんが静止していたが、私はあのまま出てしまえばいいのにと、少し意地悪に思う。あの子は将来舞踏家か音楽家か?

自分も踊り出そうか、歌おうか、はたまた叫ぼうかとか、あれこれ思えど、あまりの寒さに友人と分け合っていた膝掛けを離せず。マフラー、コート、ももひきまで穿いて行った私。

『パラダイス』と名付けられているこの2時間余の作品。これは何だったのだろう?
サウンド・デザインは陳腐。ヴァイオリニストが全部作ったらどんな風になっただろう。


10月17日(日)  フォーム

昨晩、NHKスペシャルで放映された「イチロー」の特集を見た。

もっとも印象に残ったのは、常に”背筋”を意識しているということだった。やはり背筋は大事だ。イチローはバッター・ボックスに立ってから、必ず一息吐くが、それはその後新しく息を吸うことを意識する表れだと思われ、その息を吸う時に、きっと背筋を意識しているような気がする。

そして、以前とまったく違っている今年のバッティングフォーム。足のスタンスを変えたら、自然にバットは寝た、のだと言う。

今、またピアノに向かう時の椅子の高さをあれこれ変えている自分。どの高さが自分にあっているのか。椅子の高さを変えると、手首の位置が変わり、鍵盤に落ちる指の角度が自然に変わっている。ということは、音色が変わっているということか。


10月18日(月)  ピアノの内部奏法

NPO・グローヴィルが企画した講演『ピアノ表現の可能性〜内部奏法の新たな思索〜』を、日比谷スタインウェイサロン・松尾ホール(近年まで日本のスタインウェイの販売を独占していた松尾楽器商会の小さな音楽サロン)へ聞きに行く。講師は松尾楽器商会のピアノ調律師さん。
無料。えらいっ。そして、企画そのものの意義、及びこうして場所を提供したメーカー、その調律に携わる人自らが、こうした企画に積極的に力を貸すという姿勢は、私は画期的で喜ばしいことだと思い、参加を申し込んだ。

調律師さんは非常に丁寧に話をしてくださった。前半はピアノという楽器の基礎知識や、借り物(つまり他人の財産)である楽器に対して、内部奏法という特殊な奏法を演奏者が行うことで生じる問題(内部に触るということが前提として作られていないピアノを”壊す”可能性があるなど)、特に管理者側と利用者側の認識の違いなどについて、さらにピアノの構造的な面から内部奏法の実例が検証された。後半はもっと具体的に、すなわちこうした道具を用いることは危険性が少ないとか、ピアノのこの部分にだけは触れて欲しくないといった、かなり実践的な奏法についてのレクチャーが行われた。

グローヴィルのwebを見る限り、グローヴィルという団体自体がクラシック音楽の”現代音楽”を支援するNPOと理解されるので、自ずとその話はクラシック音楽関係者への呼びかけになっていた。例えば、前提として、内部奏法を用いることは、作曲家にとって手法あるいは技法としてとらえられており、演奏者にとってはその作曲家の意図した楽曲を忠実に表現する、再現音楽として位置付けられている。

この辺から、私の頭の中には?マークが出没し始める。内部奏法を用いることは単なる方法ではなく、「音楽」に関わることであること。誤解を招くかもしれないが、仮に譜面のある音楽であっても、それが作曲家の意図を忠実に表現することではないと考えていること。といったことが、ぐるぐるし始める。

うーむ、どうも「音楽」が真ん中にあって話が進行していない、と直感的に思う。もっとも大切なことが欠落している感じがする。そして、また、だ。会場全体を包んでいる雰囲気が、クラシック音楽の優越感、平たく言えば、クラシック音楽こそ世界中でもっとも素晴らしい音楽であるというような音楽観で満たされているような気がしてきたのだった。

そして前半のレクチャーの最後に、少しだけ付け加えられた以下のような調律師さんの発言に、私は完全にキレた。
「世の中にはフリー・ジャズという言われている分野があって、その”一派”の人たちには・・・云々」

いわゆるフリー・ジャズの分野で、確かにピアノを壊す人はいる。それは内部奏法を用いるというよりも、鍵盤を指以外の動作で弾くこと、すなわちゲンコツで叩いたり、エルボー!をかましたり、腕全体を激しく押し付けたり、力まかせにダンパー・ペダルを踏み込むためペダルを壊したり等々、といった行為によることが主だろうと思われる。

実際、そうした演奏方法をとるために、いまだにスタインウェイのピアノを弾かせてもらえないジャズ・ピアニストがいるという、厳然たる事実を知っている。あるいは某調律師がいよいよ我慢できず、そういう演奏方法はやめてくれ、と某ピアニストに言ったことがあることも聞いている。

それで最後の方の質問コーナーで、「私はフリー・ジャズをやっているわけではありませんが、その”一派”の者の一人です」と、口火を切ってしまった。やめときゃいいいのに。

私がした質問は二つ。一つは、今から4年前、私が某ホールで演奏した時(それはコンサートではなく、一人芝居のために奏でた音楽)、マレットでピアノの金属フレームの部分を叩いた瞬間に起こった”20万円事件”。GP(本番通りに行うリハーサル)でそれをやったら、そのホールのいわゆる小屋付きのスタッフが数人駆け込んできて、「今、すぐ、やめろっ!ピアノの中を触るようなことをしたら20万円支払ってもらう」と言われた事件だ。

これまでも書いてきたが、私は調律師さんの仕事には最大の敬意を払っているつもりだ。ピアニストは調律師がいなければ存在できない。時間をかけて調律、整調、整音された状態のピアノを無碍に壊すような行為は、私にはできかねた。ピアノの弦に直接手で触れることや煙草のヤニが、弦にとってどれほど良くないことかも知っている。それに、その時は内部奏法をやった後に、美しい歌の伴奏をしなくてはならなかったから、そうそう派手に弦を叩いたりするようなことはあまりしたくなかった。

内部奏法をする予定になっていたのはわずか1分にも満たず、その間にマレットで叩くのは数回だったと思う。私にはピアノを著しく壊すようなことには絶対ならない演奏だという確信があったし、ましてや20万円も支払わなければならないような事態では決してないと思った。が、結果、間に入っていた事務所が演出家の思いも汲んで、支払うことを決断したのだが。

この事件についてどう考えるか?ということを尋ねたのだが、調律師の方はとにかく事前にホール側と打ち合わせをしっかりすることが第一だ、と話されていた。それももっともだと思ったので、それ以上言及することはやめた。

そのホールでは”内部奏法は禁止”されていたのかもしれず、もしそういうことをしたら20万円支払うことが契約書に書かれていたのかもしれない。そうしたことについては私は何も知らないのだが。

が、どう考えてもピアノを損なうようなことにはならないと考えていた私は、つまり次回の調律は普通の代金で済むはずだと判断していた私は、ではいったいその20万円はどこにいくのだろう?と想像せざるを得なかった。その時はいきなりのことだったので、私はただめちゃくちゃな暴利だとしか思わなかったし、このようなおどしをかけるのか、と思ったりもした。

そしてかくの如く、仮に事後のことであっても、調律師さんや楽器メーカーと直接話をさせてもらえるような道があってもしかるべきだろうとも思う。GPから本番まで、時間はまだたっぷりあったのだし。

そしてここには「音楽」よりも、ピアノという楽器が大事、という現実が見える。あるいは、ピアノという楽器についておそらく無知であるホール施設者に対して、楽器メーカーなり調律師なりがほとんど一方的、画一的に、こうした規制を強要しているような構造が見え隠れしなくもない。

質問の二つ目は、公共ホールに限らず、そのホールではそのピアノを入れたメーカー、またそのメーカーの調律師が管理を任されていることが多々あり、自分が信頼する調律師さんと仕事を共にできない、ということ(私にとっては不満)がある現実について、調律師の立場からどのように考えるかを尋ねた。

調律師さんは「責任」ということを言っていた。結局、ピアノに何か起きた場合、誰がどう責任をとるかという、責任の所在を明らかにしておく必要がある、ということらしい。

音楽家が一人一人違うのと同じように、調律師もそれぞれ異なる。それでなくても弾き手は毎日違うのだ。例えて言えば、自分の病気を治して健康にしてくれる医者が毎日違って、それぞれに違ったことを言ったら、おそらく混乱するであろうことを想像してみれば、ピアノにとって、その健康状態を良好に長く維持するためには、同じ調律師が面倒を見てくれた方がいいのかもしれない。

としても、仮にピアノに何か問題が起きても、その演奏者が依頼した調律師と演奏者がピアノに対して責任を持つ、といった方向に、もう少し流れが向いてもいいのではないかと思ったりする。(多分、非常に有名な演奏家はそういうこともできるのだろうとは想像するのだが。)

音楽家にとって調律師は単にピアノを調律するという以外に、その人の音楽を実現するための良き理解者あるいはパートナーといってよい側面もあると考えている私にとって、調律師を選べないという現実は、結局「音楽」に関わる大きな問題だと思っている。

ついでに言えば、私のようなピアニストはピアノを運ぶことはおろか、都内近郊以外の場所ではなかなか調律師さんさえも呼ぶことができない。地方での仕事などでは、非常に短い時間で調律師の方とコミュニケーションをとらなければならない。互いに理解し合えて、楽しく話しがはずむ調律師さんもいれば、クラシック音楽ではないというだけで、最初からハナにもかけてもらえないような態度で接してくる方がいるのも、私が直面した現実だ。

ほかに、ホール管理者の方も質問し、具体的な内部奏法の”線引き”を示して欲しいと話していた。ピアノという楽器をよく知らない人にとって、線引きが書かれているマニュアルのようなものがあれば、だいぶ助けになるであろうことは容易に想像できる。が、「音楽」はマクドナルドやファミレスではないのだから、絶対にマニュアル化などするべきではないと私は思う。仮に「この紋所が目に入らぬか」的なマニュアルができてしまったら、「音楽」は死ぬ。

また、その線引きの話の中で、調律師さんが「演奏者は手首から先を使って打鍵する」(他の方法で鍵盤を演奏するのは、ほとんどご法度といった雰囲気)と言ったことについて、某演奏者が「それでは、手首から5cmはみ出した所を使って演奏したら、すぐにクレームが付くわけですか?そんなことは非常に瑣末でくだらないことであって、「音楽」の本質とはかけ離れたことだと思います。ヘンリー・カウエルやジョン・ケージが内部奏法を作曲に採り入れたのはもう何十年も前のことだというのに、この国ではいつまでもベートーベンやショパンを弾いていればいいわけですか・・・云々」と話されていたことも印象的だった。「その通り」と密かに言ったのは私。

とどのつまり、ホール管理者、楽器メーカー、調律師といった管理側、そして演奏者やマネージメント会社といった利用者側との間に、ピアノという楽器への理解と愛情を前提に、あくまでも「音楽」を真ん中に置いた、もっとよりよきコミュニケーションが在ることが、一番大事なことではないかと痛切に感じた講演会だった。

そのためには、ピアノという楽器についてもっとも熟知しているメーカーや調律師さんこそが、営利や技術だけを追い求めるのではなく、ホール側と演奏者側の理解(すなわち「音楽」への理解)の橋渡しをするという重要な役割を担っていると言うことができると思う。

今回講演された調律師さんのみならず、おそらく調律師の方は100%、内部奏法はして欲しくないと思っており、乱暴な演奏はやめて欲しいと思っているに違いない。自分が精魂込めて整えたピアノの状態を明らかに悪くする行為に対して、苦々しい思いを抱かない方がおかしい。自分が一所懸命作ったものが他人によって壊されるのだから、それは人間として自然の思いだ。

(私とて、私宅でのレッスンでは、申し訳けないけれど、内部奏法のレッスンだけはできない、と言っている。ちなみに、常々、内部奏法と同じような効果が期待できる、何か新しい楽器を作れないものかと思っている。)

それでもなお「音楽」のために、今回のような企画が実現したということは、そういう意味でも、最初に戻るが、それなりに意義のある講演会だったと思う。

かくて、終了予定の5時が大幅に延長。質問をしてしまった手前出るに出られず、急いで駆けつけたライヴハウスでの演奏は妙に燃えて、まんまと”一派”と化してしまった。かつてピアノを燃やしたり、ピアノを使わせてもらえない目に遭っているピアニストがリーダーだったトリオ、日本のジャズ史上にその名を残すトリオで活動を共にしていたサックス奏者との演奏だったのだ。


10月22日〜11月1日  東北ツアー(坂田明mii)

坂田明(as.cl)さんのユニット、mii(みい)でのツアーも、今回で9回目。バカボン鈴木(b)さんが運転するバカボン号は、実によく走っている。「無敵のバカボン号」とは、ボスが名付け親。このmiiで作った初めてのCDを車に積んでの、言ってみれば行商の旅でもある。

このツアーでも、まず東京から秋田・八森までいっきに北上。朝の8時半頃こちらを発って、八森に到着したのは夜7時半頃。八森での演奏を終えた翌日は海岸線を走って、五所川原を抜けて青森へ。途中に見た”不老不死温泉”は、なんでも「死ぬまで生きる」と看板に書いてあるらしい。アタリマエダノクラッカー、と書けば、歳がばれるか。それから盛岡、一関と南下。一関街道を走って、日本の秋の風景を堪能し、奥松島で夕焼けを見ながら塩釜へ。最後は山形道を使って横へ走り、再び日本海側にある新潟・村上へ。23日の夕方に起きた新潟県中越地震のため、帰りは磐越道から東北道を使って帰京。

途中の盛岡、一関では、ドラマーである坂田さんのご子息が加わっての演奏となる。盛岡から一関までの移動では、彼が替わりにバカボン号に乗車。私は新幹線で一人寂しく、楽しく移動。

紅葉を満喫できるかと思っていたが、今年の紅葉はにぶい色で、目にも鮮やかとは言えず、ちょっと残念。村上ではけやきに新芽が出て、桜も咲いていると聞いた。帰宅したら、庭ではたんぽぽとつつじが咲いていて驚く。狂い咲きの日本列島か。

やはり北は寒い。東京では日中はまだTシャツ一枚でもだいじょうぶな陽気であっても、俄然寒い。八森は海が近く、風と共に海鳴りが聞こえてくる所で、ストーブを出していただいた。でも地元の人の中には夏のシャツ一枚で過ごしている人もいるのだから、そもそもの体感温度というものが違うらしい。ということで、到着した翌日、全員、温かい衣服を求めて能代まで買出しに行った。

秋田では生まれて初めてきりたんぽ鍋とはたはたをいただく。6合もうるち米をたいて、朝から作ったというきりたんぽは、おつゆがしみて美味。はたはたは漢字で書くと、魚へんに神と書くという魚。油がのっていてこれまたおいしかった。そのほか各地で、きのこがたくさんの郷土料理や、手打ち蕎麦、カレー、新鮮な刺身、寿司などなど、およそ東京では食べられないものをたくさんいただいた。すこぶる美味なり。

そして各地で様々なピアノ、調律師さんに出会う。
一年のうちピアノが使われるのはピアノの発表会の時くらいで、ピアノの稼働率はきわめてわずかという会場。弦が一本なくて出ない音がある楽器。やはり稼働率が低いピアノ。ハンマーを全部交換してから約2週間しか経っていないピアノ。会場にピアノが入ったのは約半年前で、今回が2度目の調律になるもの。維持管理にまったく気を配られていなくて、もこもこの音しか出ないピアノ。
いろんな状況、状態の中で、誠意を尽くしてピアノに向かってくださった調律師さんには、ほんとうにお礼の申し上げようもない。

さらに、現地でコンサートを企画してくださった主催者の方々、スタッフのみなさんにも、心から感謝する。

今回は、ジャズが好きだったり、ジャズのことを知っている人たちが集まるようなジャズ・クラブでも演奏したが、いわゆる生演奏をほとんど聞くチャンスがないような所でも演奏する機会に恵まれた。音楽を享受した後の感想が良かれ悪しかれ、来てくださった方たちの心に何かが残れば、音を放った私はうれしく思う。各会場に足を運んでくださったみなさまにも、深く感謝する。

こうして、毎日胃薬とビタミンCとEを摂取し、日を追うごとに、チタンテープが増えていった私だった。




『洗面器』2004年のインデックスに戻る

トップページに戻る