9月
9月3日(月)  キレる大人

NHK番組「クローズアップ現代」を観る。採り上げられていた問題は「“キレる大人”出現の謎」。

例えば、電車の中で携帯電話で話している女子高生に注意したおじさんが、その子が電車を降りる際に、後ろから突き飛ばした、というような事例。病院で待たされて、医者や看護婦を怒鳴りつけるおじさんの話などが語られていた。自分の感情を押さえることができず、突然、暴力をふるったりする人が増えていて、それはストレスに起因しているらしい。

なんでもストレスにしてしまうのは簡単だが、とにかく、何故そういうことが起きるのだろう?

現代、特に都市社会において、人と人とのコミュニケーションを考えた時、いわゆる“日本的”な曖昧な領域が崩れてきているのではないかと思う。何も言わなくても、なんとなく了解できている部分がどんどん希薄になっている。だからといって、欧米社会のように自分の言葉ではっきり意思を伝える訓練をしてきたわけでもなく、自己主張を貫けるわけでもない。本も読まなくなって、漢字は読めない書けない、挨拶もろくにできない、という状態では、どうやってコミュニケーションを築けるだろう?

さらに、どうも「理解できない」という感じ。パソコンやケータイといった新しい機器が、ファッション(流行)と同じように、めまぐるしく変わっていく世の中にあって、いろんなことに自分の感覚も身体もついていけないという感覚に近い。単に私も歳をとったというだけの話かもしれないが、私なんぞは電車の中で念入りにお化粧をしている女性や、ずーっとケータイをいじくっている人のことが、未だにわからない。ケータイをマナーモードにしていないのは、たいていいい歳をした大人の男女なのも、よくわからない。

この「理解し難い」という感覚は、もっとエスカレートすると生理的な嫌悪感に似ているところがあって、それが直接的な暴力や怒声につながっているように感じる。

そんなことを思いながら銭湯に行ったら、鏡の前で少なくとも30分以上身体を洗ったり自分の顔を見ていたりする人がいた。そんなに丁寧に身体を洗ってどうするのだ?潔癖症なのか?あるいは、ずーーーっとシャワーを出しっぱなしにしている人がいる。滝のそばで身体を洗っている気持ちにでもなりたいのだろうか?お湯がもったいないだろうに。

と、やっぱりまったく理解できない光景を目の前にして、くらくらしてしまった。


9月7日(金)〜9日(日)  深山幽谷

台風の雨と風が強い中、とりあえず東海道新幹線は朝8時過ぎに動き出したので、予定通り東京駅へ向かう。駅は大混雑。かくて約30分遅れで、新幹線は西へ向かう。

新大阪から地下鉄で難波に出て、そこから南海鉄道で高野山へ向かう。橋本という駅から電車はスピードがかなりダウンし、周りの景色も変わってくる。山また山、谷また谷。ほとんど「山姥」のような気分になってくる。深山幽谷といった趣。

こんな山奥深い所へ、お坊さんか仏師になるために、若干15歳のバカボン鈴木(b)さんが東京から一人で来たのかと想像すると、ひえ〜、という言葉しか口から出ない。(この辺りのお話は、バカボンさんの公式webの“コラム”に詳しく書かれています。)

電車は極楽橋という名の駅に到着。そこからさらにケーブルカーで高野山駅へ。かなり急な坂道をゆっくりと登っていく。なんだかすごい所に来た気がして、気分が高揚してくる。

かくて、駅から山を下った所に、じゃーんとあったのが、高野山。(ちなみに、高野山という山は存在しない。)大きな門、そこを過ぎるとたくさんのお寺が立ち並んでいる。

坂田明(as,cl)さんと私はバカボン君の同級生が住職さんをやっているお寺へ。そう、私たちは明日行われる高野山高校の文化祭で演奏するために、ここにはるばるやってきた。そして、その高校はバカボン君の母校なのだ。(そのバカボン君は一人で車を運転して来ることになっている。が、台風の影響もあって大渋滞だったそうで、結局、到着したのは午後11時頃だったと思う。)

宿坊に着いて、ゆっくりお風呂に入り、夜は精進料理をいただく。土瓶むしなどの松茸もいただく。うーん、すこぶる美味。実に精進料理はすばらしいと感じる。とても工夫が凝らされている。例えば、アボガドのフライ。アボガドの上にパン粉を揚げたものが載っているのだが、まるでコロッケを食べているような感じ。あるいは、いかそうめんに見立てたナタデココ。これは言われなければ、もしかしたらわからないかもしれない。

翌日、8日(土)は、朝6時半のおつとめに誘われたものの、参加せず。遅い時間に朝食をいただき、高野山高校へ。現在約200名の生徒がいるとのこと。男子だけではなく、わずかではあるが女子もいる。私の高校時代は文化祭と体育祭はほとんど命がけでやっていたようなところがあったが、校内の雰囲気は文化祭をやっている感じがほとんどしない。

会場は講堂で畳が敷かれており、生徒さんたちはみんな畳の上に座ったり、足を投げ出したりしながら演奏を聴いている。クーラーなどなく、演奏中はめいっぱい汗をかいた。

私は普段しないようなエルボー奏法をしている。と、客観的に眺めている自分がいた。ピアノの状態も起因していたかもしれないが、何故こんな演奏方法をとっているのか、よくわからない。後から考えれば、なんとなく何かにとりつかれていたような気もしないでもない。うんむう。

終演後、バカボンさんに“壇上伽藍”を案内してもらう。詳しい説明付きだ。それから宿坊に戻り、夕飯には不精進料理をいただく。不、というのは、なんと大きなステーキがお皿の上で自己主張していたからだ。特別に配慮してくださったことは言うまでもないが、全体の精進料理の中で、非常に異様で違和感があり、否応なしに“西洋”を感じてしまう。ほんとに、食べものは文化だ。

それからまだまだ夜は更けていく。このお寺の住職さん、バカボンさんの同級生で町長さんをやっている方や、バカボンさんのファンだという若い住職さんたちと、やんやの宴会。私は早々にリタイアしたが、みなさんは夜中3時頃まで盛り上がっていたらしい。

明けて日曜日。大型観光バスは行き交い、人が多い。そんな中、午前中、若い住職さんに“奥の院”まで案内していただく。これまた詳しい説明付きで、うれしい。一の橋から奥の院まで、約2kmの道のりをゆっくり歩く。錚々たる歴史上の人物たちのお墓や供養塔がたくさんある。明智光秀のお墓は、何故か、何度取り替えても石にひびが入るそうだ。無念を表している?そして、あらゆる時代の。あらゆる階層の人々のお墓の全体の数は、20万基を超えるとも言われているらしい。ひえ〜っ。

途中、有名な“姿見の井戸”を覗く。全員、自分の顔を見ることができた。もし自分の顔が水に映らなければ、3年以内に死ぬんだそうだ。あひゃあ〜。

奥の院まで行った所で、住職さんとバカボンさんは般若心経を唱えている。私は手を合わせる。帰りは“御供所”から新しい道の方へ出る。あまり風情はない。そちらには企業の供養塔などがある。しろありの供養塔もあった。ロケットの形をしたものもあった。外の道路から、「昔、ここは処刑場だった」という所も教えてもらった。うぎゃあああ〜。

なんというか、よくわからないが、なんだか、すごいところだ。
が、とにかく第一印象。

バカボンさんが高校生で寺に住み込んで修行をしていた頃、真夜中に一人でこの一の橋から奥の院までを歩き、そこでお経を唱え、座禅を組んで、また戻って来るということをしていた時の話。夏目漱石の「夢十夜」の中の話ではないが、何者かが肩に乗っかり、それがどんどん重くなってくるということに、何度も遭ったそうだ。で、はいつくばって一の橋を渡り切ると、すっと軽くなったとのこと。橋は境界なのだろう。

そして食堂でお昼を食べて、午後、それぞれ帰途に着く。帰りのケーブルカーは朝のラッシュ並みの混雑だった。人でごったがえす難波駅辺りを歩いていると、高野山での時間が嘘のように感じられる。

およそ1200年前、空海(弘法大師)によって開かれた、真言密教の修行道場。平成16年に世界遺産に登録。私は初めて足を踏み入れた和歌山県だが、やっぱり、吉野から天の川、そして熊野に行ってみたい。って、なんだか呼ばれているような気がする。って、気のせいか。ともあれ、これで日本で行ったことがないのは沖縄県を残すのみとなった。



(この日々雑感の文章、申し訳ありませんが、おそらくこれから約一ヶ月間は更新されないと思います。あしからず。なお、その間、e-mailのやりとりもできなくなります。ご了承くださいませ。)


9月13日(木)  音彩に溢れた一夜

会場となる門仲天井ホールと共同企画で行っているコンサート、『くりくら音楽会 ピアノ大作戦 平成十九年秋の陣』のコンサートの第一回目。

出演をお願いしたのは、青木菜穂子(p)さんと会田桃子(vn、viola)さん。そして、近藤達郎(p)さんと梅津和時(b-cl)さん。

青木さんのペアはタンゴ。若い二人の演奏に未来を感じる。これから二人ともどんどん伸びていくだろう。敢えてオバサンの欲を言えば、青木さんは右手のタッチがもう少し強くなると、フレーズを弾いていてももっとリズムが立ってくるように感じられた。また、今回はかねてからリクエストしていたヴィオラによるタンゴ曲の演奏があり、それもとってもよかったと思う。ヴィオラによるタンゴ、いいなあ。

対する近藤さんペアは、近藤さんが作った簡単なモティーフを元にした即興演奏を主体にしたもの。これまで近藤さんの演奏は芝居の劇伴やロックの歌伴でしか聴いたことがなかった私には、その即興演奏は新鮮に聞こえた。くっきりとしたタッチで、音色や奏法に配慮した演奏をされていたと思う。さらに、潔いことに、梅津さんはバスクラリネットのみで演奏。それがまた音色の多様性に富んだ世界を生んでいた。

という感じで、二組のデュオの演奏は楽器の組み合わせも音楽内容も対照的で、私はとても面白かった。空気が震えている響き、音色、色彩感、まったく異なる内容、音楽だった。それに両ペアとも、この日のために作曲してきてくださったことが、とってもうれしかった。4人のみなさんに心から感謝!


9月14日(金)から10月4日(木)  北の大地は暑かった・その1


坂田明(as,cl)mii(みい/ユニット名)で9月14日から約三週間、青森で1つコンサートを行った後、北海道に渡り、函館からほぼ時計回りに、バカボン鈴木(b)さんが全行程を運転する車“バカボン号”で、道内をツアーをしました。2000年に結成以来、4度目の北海道ツアーです。その様子を簡単に。ご用とお急ぎのない方はどうぞ〜。


14日(金)

40歳代後半に眼と耳を患った私は、今回のツアーでは往復を飛行機にさせてもらう。車でも大丈夫かなとも思ったが、大事をとって自腹を切ることにした。

かくて午後の便でゆっくり羽田を発ち、青森空港からバスで市内へ。途中、田んぼは金色に美しく輝いている。午後6時頃ホテルに着き、主催者の方たちなどと食事をしていた8時半頃、坂田さんとバカボン君が到着。彼らは東京から陸路をひた走って青森まで。多分、バカボン君は自宅を出てから約11時間強のドライヴになったと思う。

深夜0時、明日のコンサートの会場となるホテルの最上階の営業が終わった後、東北地方でお世話になっている調律師さんがピアノの調律を始める。今日は既に午後の営業時間外にも作業をして下さっているのだが、本番当日の調律ができないとのことで、このように真夜中に努力して下さることに。普通はあり得ないことだろう。ほんとうに感謝。


15日(土)

暑い。午後、半袖Tシャツ1枚でウォーキングがてら、“棟方志功記念館”を訪れてみる。想像していたよりもかなり小さな建物で、これが完成する直前に本人は亡くなっている。

「版画」を「板画」と書き表すことを宣言し、途中で片目の視力を失い、「わだばゴッホになる」と言った一人の作家は強烈な個性の持ち主。晩年、草野心平とインドを旅行したそうだが、その草野心平が棟方志功のことをうたった詩は胸を打つ。棟方志功もすごいが、草野心平の言葉もすごい。この2人が旅行する背中姿を想像しただけでも、なにやら“濃い”ものを感じる。

夜はホテルの最上階で演奏。その後関係者のみなさんと打ち上げ。


16日(日)

朝、早起きをしてNHK『新日曜美術館』を観る。画家・堀文子さんの特集で、最後の方に、お宅にお邪魔してミジンコの話をしている坂田さんなども映る。ついでに顕微鏡を覗いている私も一瞬だけ。番組の中では何故か「ミジンコ好きの仲間」として紹介されていたのには少々憤慨。私が好きなのは堀さんだ。メディアというものはいつだって実にテキトーなものだと思う。

さて、午前中の青函フェリーで函館へ。乗船手続きももう手馴れたものだ。今年から高速船“なっちゃん”が就航したのだが、うまく時間などが合わず。結局これまでと同様、約4時間かけて津軽海峡を渡る。

函館港には迎えの方たちが来て下さっていて、船から手を振る。今回は顕微鏡を2台積んで来ている他に、バカボン君は双眼鏡を持って来ている。ん?このバンドは何なんだ?

ちなみに、この旅中、坂田さんはアナログ・カメラ、デジカメ、ケータイ・カメラと3台であれこれ撮影。バンド結成時は絶対ケータイなんか持たないと言っていたバカボン君も、今はさすがに頻繁に使用。この約7年の間に、それぞれけっこう大きな病気をし、白髪も目立つようになり・・・と思うと、なんだか感慨深い。

で、フェリーから出たバカボン号は、そのまま会場となる函館山のてっぺんにあるホールへ。すぐリハーサル。次第に暮れていく景色がとっても美しい。やがて百万ドルの夜景と呼ばれている宝石を散りばめたような世界が、窓の外いっぱいに広がる。演奏中も思わず時々左を向いて眺めてしまう。その心持がそのままスタインウェイの鍵盤を駆ける指に反映される感じ。

函館山は中国系や韓国系のアジア人の観光客がいっぱい。2年前にもそう感じたが、さらに増えている気がした。終演後、函館市内の居酒屋で、やんやの打ち上げ。


17日(火)

今日は楽しいオフ。ランランラン。

午前中、牧場見学。牛乳がコクがあって甘く、実に美味。その後、八雲で豪華な昼食をいただく。気持ちのきれいな三姉妹のみなさんに感謝。

かくて、函館の主催者の方たちのはからいで、車はニセコへ。夕方、“五色温泉”でゆったりと身体を休める。旧い木の建物の方に行ったのだが、昔の裸電球が薄暗い雰囲気を出している趣がなんとも言えない。露天風呂も気持ちよい。あ〜、極楽。

夜、小雨が降る中、外でBBQ。みんなでわいわいがやがやと、ジンギスカンなどをたらふくいただく。その後、家の中でいろんな話をして楽しく過ごす。私はめったに歌わないが、都はるみ「好きになった人」と謡曲「高砂」を絶唱。バカボン君には「そういう人だったとは」と私の人格を見直される。

関係者の中にはとある能力を持っている方がいて、その方たちにこのツアー中に3kgは痩せるという魔法をかけてもらったが、さて、いかに?!ちなみに、昨年耳の病気をして煙草もやめて以来、すごく太ってしまった私の内臓脂肪は、その方によると「すごい、ひどい」そうだ。み、み、見えるのね・・・。他に口角を上げてもらったり、たれているお尻を上げてもらったり。って、実際、みるみるうちにほんとうに上がるのだから不思議。うーん、できることならその術を自分も身に付けたい。


18日(火)

朝食後、再び温泉へ。“雪秩父温泉”といって、ものすごい硫黄臭が強く、灰色の泥の温泉。湯船の足元はその泥でぬるっとしている。こういう温泉は初めて。お肌はつるつるになる。そしてずっとその臭いが続いている。

そこでみなさんと別れ、倶知安(くっちゃん)、小樽経由で札幌へ向かう。倶知安ではライヴハウスもやっているというお蕎麦屋さんにたまたま入り、遅い昼食をとる。この町では小さなジャズフェスが行われているそうだが、過疎化が進んでいて、年々その規模は縮小し、集客も減っていると聞いた。

その後、私とバカボン君は小樽を初めて訪れる。大観光地だった。いわゆるレトロな街並みを散策。きれいなガラス細工の店などがあるが、男子2人は店内に一歩も足を踏み入れないので、・・・仕方ない。二人がソフトクリームを食べている間に、ちょこっとだけ見学。

札樽道を使って、札幌入り。主催して下さっている“焼き鳥ジャンボ”に行き、2年ぶりの再会を祝う。痩せるのよ、私、と思いながらも、夜10時にラーメン。けれど、油っぽくて半分以上残してしまう。


19日(水)

午後、北海道立近代美術館へ。企画展は「大倉集古館の名宝」と題されたもので、平安、鎌倉時代のものから、横山大観の夜桜などの近代日本画を観る。ちっとも近代美術じゃないじゃん、と思ったが、館内のグッズ売り場で深井克美という夭折(自殺)した画家の存在を知る。非常にグロテスクな絵を描く人だが、妙にひっかかってしまったので、本を購入。

その後、歩きに歩き回って、札幌市資料館に立ち寄る。そこで乾千恵さんの『七つのピアソラ展』が市内のギャラリーで開かれていることを偶然知る。見れば、今日が初日だ。ということで、思い切って訪ねてみたら、なんと、ご本人とお母様がいらっしゃった。斎藤徹(b)さんが小松亮太(バンドネオン)さんをメンバーとしてやっていた短期ピアソラ・ユニットでのコンサートの時に初めてお会いして以来のことかもしれず。だとすると、約10年振りの再会ということになる。

夜はライヴハウス「くう」で演奏。いつもお世話になっている調律師さんが丁寧に作業して下さって感謝。体調が良ければ行きます、ということで話をしていた乾さんたちが演奏を聴きに来て下さる。うれしいかぎり。ピアノ・ソロで始まる曲を、心密かに千恵さんに捧げる。


20日(木)

従業員の対応がひどい店でランチを食べ、いかにもという女性ばかりの店はやめて、小さな店でコーヒーを飲むも、外を行き交う車の騒音が激しく。昼からついていない、店を見る眼がないと思う。その後、北海道大学植物園を散歩。昨日、今日と、よく歩いている。東京にいる時の百倍は歩いている。痩せなきゃ。

夜は再び「くう」で演奏。打ち上げでは昨日に引き続き、マッサージを仕事にしている人に肩などを揉んでもらう。極楽〜。ツアーに調律師さんとマッサージさんが同行してくれればいいなあと思えども、そんなことは将来に渡ってあり得ない夢のまた夢。


21日(金)

札幌から当別へ移動。正午過ぎに、高円寺・次郎吉のマスターのお宅に到着。マスターは一家揃って今春にこの地へ移住してきたばかりという。広い土地に7LDKの一軒家、家賃2万円と聞いた。廃屋のようだった家を、自ら手をかけて改築されたとのこと。

昼食は外でBBQ。美味。自家製の燻製もいただく。少し休んでから、演奏会場となる「紙ひこうき」へ。このお店の柿落としでの演奏らしい。コーヒーや自家製パン、ピザがとてもおいしい。

夕方から雨がざあああっと振ったり、ちょっと小降りになったりという天気で、湿度は120%。当然楽器は鳴らないし、あまりの蒸し暑さに身体がまいる。この季節の北海道としては異常な暑さだ。地球が狂っていると感じる。

コンサートの後半にはディジュリドゥを演奏する次郎吉のマスターや関(g)さんも加わって演奏。終演後、一つ隣の駅にある居酒屋で打ち上がり、夜はマスターお手製のベッドで就寝。


22日(土)

手を振りながら元気に車を追っかけてくる子供たちとも別れて、バカボン号はひたすら北上。前回と同じルートで稚内に向かう。途中、音威子府(おといねっぷ)にある“おさしまセンター(砂澤ビッキ アトリエ3モア)”に再び立ち寄る。

夕方、美しい風景をずっと眺めながらひたすら北へ。時の移り行く様がほんとうに美しい。利尻富士の稜線が鮮やかに目に入る。

辺りがすっかり暗くなった頃、ようやく稚内に到着。途中で寄り道をしているが、やはり6〜7時間以上かかる。遠いぞ〜、最北端。そして主催者の方たちと夕飯。これまでの人生では見たこともないような大きい蟹に遭遇。甘いこと、このうえなし。足を2本食べただけでもう大満足。その蟹の卸しをやっておられる方のお話は痛快。いい意味でのハッタリが決まっている。

ホテルの部屋には何故かマッサージ器が置いてあり、何回でも無料で使える。無論、15分×3回もお世話になる。部屋は角部屋だったが、空気が淀んでいて、非常に寝苦しい。私には霊感はないと思っているが、こんな私でもなんだか少し気味悪く感じたので、少しだけ窓を開けて眠る。


23日(日)

海沿いにある全日空ホテルでものすごくゆっくりランチをとってから、再びひたすら歩く。港町の方からは山の上に見える“稚内市 開基百年記念塔・北方記念館”まで、登りの山道を意を決して歩くことにする。晴れ晴れとした天気の中、半袖Tシャツ1枚で汗をかきながら約1時間歩く。

記念塔の最上階からは全360度見渡せる。稚内の街並み、海、港、宗谷岬、遠い北の方向にサハリンの島影、ノシャップ岬より西方向には自衛隊基地といくつものレーダー、利尻島、礼文島、南にはサロベツ原野など、すべての光景が青い空の下に広がっている。

で、リハーサルまでに時間もなくなり、帰りはタクシーを呼んでもらう。運転手さんが親切な方で、途中にある“氷雪の門”や“九人の乙女の碑”で車を停めて写真を撮ってくれる。

氷雪の門は樺太への望郷の念と、樺太で亡くなった人たちの慰霊のために建立されたそうだ。ここはそういう地なのだ、と思い知る。

また、この乙女の碑は終戦5日後に樺太で最後の業務を終えた後、自ら命を絶った女性電話交換手九人の霊を慰めるために建てられたものだ。記念館にもこの女性たち全員の顔写真が展示されている。

「皆さん これが最後です さようなら さようなら」

と碑には刻んである。

このことが深く印象に残っていたためか、今夜の演奏中、何故か突然この言葉を声に出して語りながら演奏している自分がいた。

打ち上げでは陸自、海自の方たちもいて、話を伺ったりする。夜はさすがに少し冷えてきた。メンバー全員、軽く風邪をひいた感じ。持参した葛根湯がなくなる。再びマッサージ器にお世話になって就寝。


24日(月)

例によって宗谷岬で帆立ラーメンなどをいただく。今日もよく晴れていて、展望台からはサハリンの島影がよく見える。

そしてオホーツク海を左に見ながら、バカボン号はひたすら走り続けて、どんどん南下する。おそらく魚の内臓を積んでいるトラックだろう。その車からは水がしたたり落ちているのだが、これがなかなか強烈に臭い。そのしぶきを浴びるとバカボン号も影響を受ける。

かくて、北見に着いた頃はすっかり暗い夜。連夜、私やバカボン君はあまりお酒を飲まないし、お先に失礼したりするのだが、最後まで、しかもけっこう遅くまで“宴会部長”も勤めている坂田さんは、この日はお酒を抜かれ、食事をして各自早々に引き上げる。

かくの如く、坂田さんはバンドのリーダー以外の職務を何役も勤めている。まずは、このツアーのすべてをご自分で仕切っているので、坂田旅行社社長&ツアーコンダクター。そして、助手席にて、カーナビ代行・地図めくり道案内。(注:バカボン号にはカーナビもETCも、CDを聴く機械も付いていない。)

さらに、地元のFM局に出演して、CDをかけてもらったり、当夜のコンサートの宣伝をする宣伝部長。にとどまらず、終演後、主催者の方たちと飲みまくり話しまくる宴会部長という肩書きも持っている。とにかく、これらをすべてお一人でこなしておられる。ちなみに、ツアー中、バカボン君はひたすら運転手、私は会計、という役割分担になっている。


25日(火)

午前中はゆっくり過ごし、昼過ぎに町中に出てみた。うーん、全体にさびれている感じがする。これまで道内を廻ってきたわけだが、どうもなんだか北海道は2年前よりさらに元気がないように思われてならない。漂っている“気”のようなものが良くない感じだろうか。

今夜は9時から演奏。ほぼ満席。夜空には時折雲に隠れる中秋の名月が、それは美しく輝いていた。


26日(水)

北見をあとにして、まず網走へ向かう。網走湖はけっこう大きな湖で、それを見下ろす遊歩道を少し歩いたりする。その後、道立の“北方民族博物館”を見学。これがなかなか充実した紹介をしていて、映像資料もあり、けっこう時間を費やす。普段の自分の生活の中で、厳寒の環境で暮らす人たちに思いを馳せるなどという機会はそうは持てない。

そしてバカボン号は荒れるオホーツク海を左に見ながら、知床半島へ向かう。途中、“オシンコシンの滝”に立ち寄り、ツアーでは初めての地、知床・ウトロへ急ぐ。

ホテルの広い部屋からは海の向こうに沈んでいく夕陽を眺めることができる。それは見事に美しかった。うっとりしながらずっと見ていた。

ウトロではホテルのロビーでの無料コンサートだったので、浴衣を着た団体バスツアーの人たちが行き交う所での演奏になるのかと想像したりもしていた。が、いやいや、みなさん、椅子に座ってじっくり静かに耳を傾けてくださっていた。うれしかった。「こんな所でこんなものをおみやげに買うとは想像もしていなかったわ」と言っている方もいたが、「奥さん、これが一期一会というものです」ということで、CDもたくさん売れていた。

遅い食事の後、予約していた足裏マッサージをしてから、温泉につかる。もはや誰も入っておらず、ゆったり過ごす。露天風呂から見た月は美しく光っていた。やっぱり温泉は疲れがとれる。


27日(木)

3人とも朝食などは食べておらず、昼頃、“酋長の家”にほとんど強盗のような感じで押しかけて、それはおいしい手料理をいただく。鹿肉をとろとろになるまで煮込んだというシチューは絶品。もともと阿寒出身のアイヌの方がやっているお店で、この料理は先祖代々伝わっているものだと伺う。ツアー中はどうしても外食が多くなって野菜が減るから、こうした料理には心底ほっとする。

今日、明日とオフで、本日の午後はちょいと知床観光。強く冷たい風が吹く中、“知床五湖巡り”をする。海が荒れて観光船が出航していない関係だろう、団体客のほとんどがここに来ている感じで、人がたくさんいた。が、彼らはたいてい1つ目か2つ目の湖を見てUターンしてしまうので、それから辺りは静かになる。

かくて約1時間半歩いて、それぞれ少しずつ趣が異なる湖を見て廻る。白樺はほんの少しだけ黄色くなってきていたが、残念ながら紅葉にはまだ早い状態。そして、すかさず、湖を覗き込み、水を汲んでいる2人の怪しげな男たちが出現。

雨が降り始めた中、すっかり暗くなってしまった夕方頃、バカボン号はせっかくなので知床半島の真中を縦断して、羅臼(らうす)の方へ出る。それから標津(しべつ)を経て、計根別(けねべつ)のルートを取る。

約30年前、大学生の時に北海道の牧場にアルバイトに来たことがあるのだが、それがこの計根別という所。とても懐かしい。この地を再び、しかもバカボン号で訪れる日が来るとは夢にだに思っていなかった。

その時はいろいろ忘れることのできない日々を送った。いい経験をしたと思っている。部落差別について本当に考えさせられた所でもあるが、生まれて初めてパチンコをやったのもここだ。ちなみに、この時のことがきっかけで、もし私が首を縦に振っていたら、私は牧場のお嫁さんになっていたかもしれないのだった。だとしたら、今の自分とえらい違いやないの〜。

かくて、弟子屈に到着。ここでは釣りのガイドもやっておられる方が経営しているペンションにお世話になる。ウェットフィッシングというのもやっておられるそうで、その擬似餌の作りは芸術品のようだった。私たち以外にも釣りのお客様が宿泊していて、昼間採集したミジンコをみんなで顕微鏡で観たりする。2年前にはなかったが、温泉を引かれたということで、夜は温泉につかってから就寝。あな、うれしやな〜、温泉。


28日(金)

午前中、主催者の方が屈斜路湖、藻琴山の峠、川湯駅などを案内してくださる。川湯駅は無人駅だが、昔の駅舎はそのまま利用されて喫茶店になっている。その雰囲気はとてもすてきで、手作りケーキもおいしかった。

ペンションに戻り、坂田さんは片道1時間かかる釧路へ。宣伝部長として釧路FMの番組に出るためだ。バカボン君は主催者の方が車関係の仕事をされていることから、愛車の洗車・ワックスがけとオイル交換へ飛んでいった。

で、私は散歩に出る。JR摩周駅に行って、足湯につかっていると、無料で自転車を貸してくれるという町のキャンペーン開催中であることを知る。そりゃ、当然、自転車ゲットだ。釧路川沿いにずっと走る。とても気持ちがいい。町中もあちこち走り回って、3回目の訪問にして、初めてこの町の輪郭がわかった。スタンプラリーにも参加して、景品の絵葉書もゲット。アンケートにも答えて、町おこしに少しだけ協力する。

夕方になると風は冷たく、ペンションに戻ってからすぐお風呂に入る。夕飯には赤く輝く花咲蟹を奮発してくださる。そして今日はバカボン君の誕生日だったので、ケーキを用意していただき、みんなでお祝いをする。

夜遅くには、屈斜路湖で“丸木舟”という旅館兼ライブハウスを経営され、ご自身も歌をうたったりされているアイヌの方がいらっしゃり、話がはずむ。坂田さん、そのアイヌの方、主催者、3人とも自称“ペテン師”と言って笑っておられたのが印象的。


29日(土)

午前中、再び自転車を走らせて、まずは陣中見舞いのために会場へ。かくて、前回もお世話になった調律師さんは、上着を脱いでピアノの黴取り作業中。ほぼ黴は取れたけれど、今、消臭スプレーを買いに行ってもらっているとおっしゃる。どうやら私が2年前に弾いて以来誰も弾いていないらしいのだが、とにかくその尽力に頭が下がる。まったく調律師さんあってのピアニストである。

サイクリング中、天気雨がざあっと降ったり止んだりの天気だったので、少々難儀したけれど、自然の風は爽快。

夕刻からサウンドチェック、リハーサル。ペンションの釣りのお客様も聴きに来てくださっていた。ピアノはなんとか甦っていて、とにかく少しずつでも楽器に起きてもらうことを念じながら演奏する。

終演後はスタッフのみなさんと打ち上げ。今時珍しく、全15人中10人煙草を吸っていた。部屋の中がまたたくまに真っ白になったので、思わず吸っている人の数を数えてしまった。で、途中で一度外へ避難する。どうにも煙草がまったくダメになってしまった自分を確認する。

それから家が傾いている店へ。ここのマスターはかつてジャズのコンサートなどを企画されていた方だと聞いた。今の私の耳には大音量はちょっときつく、煙草もきつく、先にペンションに戻らせていただき、就寝。


30日(日)

我儘を聞いて頂いて遅い朝食をいただき、“ログキャビン・さかい”でコーヒーをいただいて、釧路へ向かう。

演奏会場は港の倉庫街にある、元々倉庫だった所で、天井が高く、サックスの音はよく響く。ピアノはどこかの小学校にあったものらしく、何故かハンマーの奥にバネが付いているものだった。調律師さんはたいへん努力して下さっていたが、弾かれていないから鳴らない。それに、通常より力が必要なピアノだと言われる。

本番。少し強く当たる照明と、響き過ぎる音に神経がやられてしまったようで、後半のセットでは止むを得ず耳栓をする。演奏後、首と肩はバリバリになって動かなくなってしまった。

打ち上げはそのまま会場でスタッフのみなさんと。手作りのお料理がとってもおいしかった。この倉庫はNPOが運営しているということで、音楽のコンサートや美術のギャラリーなどに開放して、みんなで文化的なことをやっていこうとしていると聞いた。でも、釧路という町はなかなか難しい、とも聞いた。へこたれないでふんばって欲しいと思う。

その後、町中にある“スイング・マリ”というお店に行き、坂田さんもバカボン君もピアノ演奏を披露する。が、ほどなくホテルに戻って就寝。




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