4月
4月2日(日)  町おこし

岡山空港から車で約1時間走った所にある、備中高梁(たかはし)。そこからさらに車で約30分走った山の中にある、有漢(うかん)町。その地の芳烈酒造の酒蔵で、坂田明(as,cl)miiで午後1時から演奏。なんでも入場料の他に千円払えば日本酒が飲み放題とのことで、大勢の人が訪れていた。

折りしも、昼からけっこう激しい雨が降り出し、春雷も鳴り響く天候で、演奏会場である酒蔵はかなり寒い。一昨日は雪が降ったということで、この週末は花見で賑わうであろう東京とは対照的。ストーブをたいてもらって暖を取る。あれだけ寒いと、木管楽器は音が下がりまくっているので、驚き桃の木山椒の木。

これは備北商工会青年部の人たちが中心になって行っている町おこしの一環の企画だそうだ。といっても、青年部は7人しかいないそうで、田や畑を作っている人たちはもうほとんどお年寄りしかいないとのこと。田んぼを一所懸命作っても、お米の値段が安過ぎて、その労力に見合わないとも聞いた。

夜は以前この地でコンサートを主催してくださった方たちの宴会に呼ばれる。大きな鯛のお刺身と合鴨の鍋がすこぶる美味。この方たちもやはり町おこしを楽しくやっていこうということで集まった人たちだそうで、大学の先生、畳屋さん、車屋さん、花屋さん、お寺のお坊さんなどなど、いろんな職業の人たちとわいわいと楽しく過ごす。

以前から岡山という所は文化度が高いと感じているのだけれど、こうした過疎化していく町や村で得た交流は大切にしたいと思っている。東京のみならず、いろんな地を訪れると、現在の日本の歪みを感じることが多いのだが、ともあれ自分が生まれた故郷をなんとか活性化していこうとしている人たちの気持ちは痛いほど感じられる。こういう時、自分がやっている仕事がどのように外につながっているのかを、しっかり意識しなければと思う。


4月4日(火)  10点

急遽、黒田京子トリオのリハーサル。丸3日間練習しておらず、空港で1時間半余り譜面とにらめっこしたくらいでは到底追いつかない。のはわかっていて、とにかく出かける。

結果、弾けねえ〜っっっし、惨敗。練習量が足りないことは重々わかっていたが、力が入り過ぎて余裕がなく、弾けていたはずの箇所も弾けず、某氏からは「10点だっ、さらえ!」と厳しく言われる。おっしゃる通り。まるで音楽になっていない。まるっきり表現になっていない。これではこのトリオのメンバーでどういう作品にしたいか、などというところまでとても行き着いていない。

このトリオでクラシック曲に挑戦するのは二回目だから、前回と同じようなことは絶対したくないという気持ちも強い。それに、なんでもメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第一番は大学生が必ず弾くような曲で、ピアノトリオの作品の中でも名曲中の名曲らしいから、ヘンなプレッシャーがある。やたらピアノが派手で、なんだか私にはあまり似合わないような気もしないでもないが、やると決めたからにはなにがなんでもやらねば女がすたる。

痛い眼と頭痛と手首の痛みと肩凝りと闘いながら、ええ〜ん、春の楽しいお誘いも二つ断って、ピアノに向かう時間が延々と続く。気分は凍てつく冬なり。されど、こういう時間を持つことができているのは、畢竟贅沢なことなのだろうと思う。眼が見えなくなった、身内が入院した云々、本番までに何事もなければ、日本が平和であればと願うのみ。


4月9日(日)  眉間の皺

深夜、NHK・ETV特集の再放送を見る。”夜回り先生”こと、水谷修さんのドキュメンタリーだった。定時制高校の教諭をやめ、現在49歳。ほぼ同世代だ。

周知のことだと思うので詳細は省くが、実に考えさせられた。一年に400本近い講演を引き受けているそうだが、決して声高ではなく、いい声で静かに語りかけていた。かつ、深夜、自宅では子供たちからの夥しい数のメールや電話の応対をしている姿を見て、この人が自分に引き受けようとしている生き方に圧倒された。自身に病気を抱えている様子だったが、あそこまでふんばるのは相当強靭な精神がなくてはできないことだろうと思う。

そして、彼をここまで駆り立て、自分に抱えようとしてることの答えが、彼の眉間に深く刻まれていた一本の皺にあるように思えた。そこには今の大人たちができないことや社会の歪みも集まっている気がする。


4月11日(火)  指の運動

夕飯をとりながら、「スーパー・ピアノレッスン」なる番組を見て、ますます暗澹たる気分になってきた。レッスンしていた曲はラヴェルの「水の戯れ」・・・思わず、自分の弱い指を眺める。

重音運動。
例えば、右手で「ミとソ」の音を中指と小指でいっぺんに弾いて、次に「ド」の音を親指で弾く、というような指の運動。を、速いテンポで繰り返し続けてみると感覚がわかると思う。当然のことながら、音の組み合わせはこれだけではないし、違う指もたくさん使う。のが、音が揃わず、全然ダメ。指の弱さがもろに出る。

跳躍運動。
右手と左手が交差しているのをみかけることがあると思う。こうした行為の連続は、まず暗譜しなくては弾けない。ピアノの低音域から高音域まで駆け抜けるように弾く練習をしていると、桜の花も見に行けず、一人ぼっちでさみしい春の運動会に参加しているみたいだ。

独立運動。
それぞれの指がきちんと独立していれば問題はないのだろうが、例えば、16分音符で「ドソミド」というオクターヴ音域の音列を繰り返し弾いてみるとわかる。「ドソミソ」または同じオクターヴでも「ドミソド」、あるいは右手だったらまだ続けられる。が、この音列が左手になると、途端にぎこちなくなってしまう。

10度音程運動。
私の手の大きさで押さえられる範囲内は9度(「ド」から「レ」まで)。指をうんと広げれば白鍵なら10度はぎりぎり届くが、普段の指の感覚に10度が希薄だから、音をはずす。

左手運動。
まったく左手がアホ。多分基礎からやり直さないとダメだろうと思う。今回の練習では左手首が悲鳴をあげている。手首を上げ過ぎ、硬くして演奏しているためだと思う。
2004年の晩秋に大幅に演奏フォームを変えたことと、右手の手首の使い方のコツは掴んだので、今回は右手や両肘にはほとんど負担はかかっていないようなのだけれど。

意識運動。
大バッハの曲を弾く時、いつも感じること。右手と左手の意識をパラレルに持たないと、大バッハの曲は弾けない。これに指使いというものが伴うと、頭と指の感覚が一致せず、時折バラバラ事件が発生する。
にしても、チェンバロ奏者と知り合ったからだろうか。果たして、現代のピアノで、淀みなく演奏するのが良いのだろうか?という疑問はどうしても頭に残る。

そして、表現。音楽の表現。表情。呼吸。歌い方。強弱。タッチ。ペダルの踏み方。などなど、「こうしたい」に至るまでに、まだまだやることはたくさんある。

何の因果か、一昨年7月に継いで再びクラシック曲に無謀なる挑戦をするため、練習の日々が続いているわけだが、フェリックス・メンデルスゾーンという作曲家、わずか38歳(1809年〜1847年)で亡くなっている。いやあ、なんというか、練習していると強迫観念に包まれてくる。おいおい、そんなに死に急ぐなよ〜、少しは休ませてよ〜、みたいな。友人も言っていたが、この曲は”流れ”が命のように思えるが、私の好みや音楽的感覚からすると、ちとしんどい。

ブラームスを演奏した時もそれはそれはたいへんだったが、好みで言えば、私は断然ブラームスの方だろうと思う。何か、どこかが、深い、のだ。ピアノのダイナミズムもケタが違うと感じている。

ともあれ、今回のプログラムの中で一番好きなのは、チェロとデュオで演奏するヒンデミットの曲かもしれない。
自分たちなりに工夫できる余地があって面白いと思って提案してみたものの、ドボルジャークの三重奏曲は今回のプログラムからはずれるかもしれない?って、すべては私のせいで、メンデルスゾーンも楽章が省かれたりして〜?って、クラシック曲をやること自体が延期になるかもおおお?さ〜て、どうなりますか。

って、何故クラシック曲なんか演奏するんだあ?
それは、何故山に登るのか?−そこに山があるから、というようなもののような気がする。

実際、こんなに弾けない私ながらも、人と合わせると楽しいのだから困ったものだ。それに、こういうことをやっていると、トリオとしてのアンサンブルは断然良くなると思っている。その分破綻の要素(少々古いが、寺山修司流に言えば、ハプニング)は薄くなっていくかもしれないけれど、ま、それに甘んじるような人たちではないし、それぞれが変化、また場合によっては破壊への意思を秘めて即興演奏に関わっているユニットだと思っている。

(来週19日、inFでのライヴで、クラシック曲を演奏することになっています。ゲストに喜多直毅(vl)さん、予告乱入ということでおおたか静流(vo)さんが参加してくださる予定になっています。興味のある方は事前にご予約くださいませ。)


4月13日(木)  初心者

毎日練習中。されど・・・。

力が入り過ぎている。余裕がない。
譜面を読むのに追われて、他の人の演奏を聞いているどころじゃない。
で、良い演奏ができるわけがない。

実際、深夜、練習していて、両手と左右の肩甲骨の辺りまでバリバリになっていて、そうなるともう指は全然思い通りに動いてくれない。という経験を、初めてした。

一つ一つの音符を追い過ぎている。
で、思い出したのは、ジャズのジャム・セッションに初めて行った時のことだった。

それはジャズ・ピアノを習っている頃。「ヘ長調のブルーズ」と「枯葉」くらいはなんとか弾けるようになったかなあ、くらいの時期で、胸をどきどきさせながら、煙草の煙りでもうもうとなっている店に、初めて一人で行ってみた時のことだ。

「今、私にはこの二曲しかできません」と言ったのに、当時、ジャコ・パストリアス(el-b)が弾く「ドナ・リー」が大流行りしていて、常連のベーシストに押し切られ、この曲を弾くハメになってしまった。

当然、なにがなんだかわからない。テンポは速いし、ただコード進行を追って、コード・トーンを弾いただけだったような気がする。アドリブの歌も、流れるフレーズもクソもあったもんじゃない。

現在、メンデルスゾーンの曲に挑戦している私の状態は、ほとんどそんな状態だということに気づいた。


4月16日(日)  しゅう

藤野町にある「shu」というレストランで、坂田明(as,cl)さん、水谷浩章(b)さんと演奏。坂田さんの”mii”というユニットでは、通常ベーシストはバカボン鈴木(b)さんなのだが、彼の都合がつかず、水谷君と3人での演奏となり、このメンバーでの演奏は今回で2回目になる。

一人、ベーシストが変わっただけで、その音楽の内容は大きく異なり、それはそれでとても面白かった。売れっ子、水谷君のプレイは素晴らしい。坂田さんの音も堂々と放たれている。ついでに私もストレスから解放されてか、飛びまくる。

昼過ぎに中央道を飛ばして、夜中まで藤野町にいたのだけれど、深夜なら自宅まで車で約30分くらいで戻れる。ほんのそれくらいの時間で、この辺りとはまったく空気が違う所へ行ける。

「shu」というレストランの開店一周年記念のライヴだったのだが、このお店のお料理は抜群に美味。素材が生かされている。そこで獲れた山菜や野菜なども使われていて、食べ物の有り難さが身に沁みた。藤野町には温泉もあるそうだし、そのうちぶらりとでかけてみようと思う。


4月25日(火)  麺鳥の復讐

19日(水)、大泉学園・inFで、黒田京子トリオ(翠川敬基(cello)、太田惠資(vl))はクラシック曲のみのプログラムで演奏。後半のステージで演奏したメイン・プログラムは、メンデルスゾーン作曲「ピアノ三重奏曲第一番」。

メンデルスゾーンに復讐された、と思う。

おそらくもっとも練習したと思われる第一楽章が始まってすぐに、緊張していたのか、身体に力が入っていたのか、急に指が動かなくなり、動揺し、躓いて、音をはずしまくった。練習やリハーサルではまず落としたことはなかったような流れのところで、まるで呪いにかけられているような気分になった。

最終楽章、転調して、ヴァイオリンとチェロが美しいメロディーをユニゾンで奏でる、もっとも好きだった場面で、譜めくりに失敗し、目の前にはピアノの黒い譜面台が立ち塞がった。文字通り、目の前は真っ暗。床に落ちてしまった譜面を拾っている間、4小節くらいは飛んでしまった。

自分自身の練習不足は否めない。3月に少し体調を崩したのが痛かった。さらに、3人でいっしょに合わせる時間もあまりに少な過ぎたと思う。実際、バラバラで、一昨年にブラームスに挑戦した時よりひどかったと思う。もっといっしょに練習したかった。

顔を上げることができない。しばらく立ち直れそうにない、これじゃ金返せだろう、などなど、肉体的にも精神的にも疲労困憊になった自分は感じる。

そして思った。ブラームスの時はほんとにブラームスが私に語りかけてきたと感じたのだけれど、今回のメンデルスゾーンの曲には結局最後まであまり愛情を持てずにいた私に対して、メンデルスゾーンが「えへへ」としっぺ返しをしたのだと。

けれど、はっきりわかったこと、学んだことはものすごくある。

このメンデルスゾーンの曲を完璧に弾きこなすだけの演奏技術は、私にはない。これはもう生涯かけても無理だろうと思う。何日か経って、友人から聞いたことだが、この曲は「私はこれだけ完璧に演奏する技術を持っています」ということを、世の中にしらしめる登竜門のような位置にあるらしい。だから、私は当然失格者だ。

それに、私はクラシック音楽及びその演奏法のことをほとんど知らない超初心者であることを自覚した。これまでいったい何を聞いてきたのか。そして、もっと知りたいと思うようになった。

それは主として前半のステージで、翠川さん、そしてゲストで参加してくれた喜多直毅(vl)さんとのデュエットで演奏した、小品を創っていくプロセスで学んだことの多くが、それまでよく知らなかったことであったり、小さな喜びであったことによる。

冒頭にはメンデルスゾーンの「無言歌」、それからラフマニノフの「ヴォーカリーズ」、さらに(太田さんのソロと2人で演奏した「ジェラシー」、喜多君の演奏を挟んで)、ヒンデミットの「3つの小品」を翠川さんと演奏したのだが、やっとほんの少しだけ、チェロの音を聞き、呼吸を感じることができるようになった気がする。

そして、譜面に書かれていない歌い方や呼吸、間といったようなものは、演奏者が創り出して行くことを学んだ。つまり、クラシック音楽には譜面に書かれていないことが山ほどあることに、今更ながら気づいたのだと思う。無論、例えばグレン・グールドの演奏は好きで聞いているわけだけれど、実際自分が演奏する段になって、実感としてわかった部分が多々あったということだと思う。それは譜面の解釈というよりも、何かもっと即興的な精神の在り様が反映されていることのように感じられた。

冷静に考えれば、こうしたこと(音をためるとか、揺れるとか、少し間をあける等々)は非常に初歩的なことなのかもしれない。あるいは、クラシック曲を演奏するにおいては常套句やお決まりだったりすることも多々あったりして、それは既に形式化しているところもあるのかもしれないとも思う。例えばジャズのある部分がそうであるように。この辺りのことはまだよくわからないのだけれど。

また、プロセスにおいて、どれくらい創り込んでいくか、創り過ぎてもあざとくなるし云々、といったあたりが難しいらしいこともわかった。そう考えると、クラシック音楽の演奏家、特に指揮者という職業はやはりたいへんなものなんだなあと思う。

そして、翠川さんの奏でるピアニッシモ。それに拮抗するだけのピアニッシモを、自分はまったく演奏できていない。それにはいわゆるタッチに対する繊細な配慮がもっともっと必要なのだ。さらに今回大いに悩んだのがペダルの使い方だったのだが、多分、これまでの生涯で、私はもっとも弱音ペダルを多く使った演奏をしたと思う。としても、その踏み方はまだまだ雑で話にならないが。

喜多君との曲の仕上げ方にも発見がいっぱいあった。彼とはチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」を演奏したのだが、彼からもたくさんのアドヴァイスをもらい、心から感謝している。

例えば、左手が同じような音型をスタッカートで奏でるように譜面に書かれている部分で、自分が思うスタッカートで弾いていたら、「弦楽器のピッチカートのようなニュアンスで」と言われる。この曲はもともと弦楽四重奏曲なので、そうかあ、と思う。そのためには、私の指にはなんとも微妙なタッチが要求されていることがわかった。鍵盤に触れる瞬間と離す瞬間に神経を集中させる時間が続き、緊張で指が震える。

以前、斎藤徹(b)さんとよく演奏していた頃に、「もっと弦楽器のように」と言われたことを思い出したが、その時はどう感じ、どう弾いたらよいのか、さっぱりわからず、ただ、困った、という状態の私だった。コントラバスという楽器はジャズの4ビートを奏でる楽器という程度の認識しかなかったためだろう。弦楽器のことをよく知らず、うまく想像できなかったのだと思う。それは音質や音色、ニュアンス、あるいはメロディーを歌うことに対して、いかに意識が深くなかったかという証だと思う。

また、両手が和音でやはり同じような音型を奏でる部分で、「そこは弱音ペダルを踏んで、淡い雪をつかむような、あるいは雲か綿飴をふわっと柔らかくつかむような感じで」と喜多君から言われた時も、そういう音に対する意識やイメージ、さらに演奏法が自分には欠如していることに気づいた。

普段の演奏、例えばジャズ・バラードなどでは、イメージが自然に膨らむような曲が好きで、どうやら私はちょっと一風変わった演奏をするらしいのだけれど、なにゆえクラシック音楽でそうしたことができていないのか。それは圧倒的に聞いている量が少ないか、片寄っているためだろうと思う。

また、音が出る前及び後の腕や手のひらの動作、つまり”空気”の押し方や掴み方、開放の仕方にも、もっと神経を払う必要があることがわかった。

これもまた以前、斎藤さんのピアソラのユニットのメンバーだった時、いわゆる「ジュンバ」を弾く時に、空気をためたり、押す、ということを学んだつもりだったが、この辺のこともまだまだである自分を知った。

前半の最後には4人でJSバッハの曲を演奏したのだが、その曲でもいろいろ思うところがあった。例えば、チェロと私の左手はユニゾンになっているわけだけれど、譜面上は同じ八分音符であっても、翠川さんと私が演奏する八分音符は音価が違っている。というより、バッハの曲はよどみなくただ弾けばいいという風には、私にはどうしても思えない。何かが心に引っかかっている。

いずれも社会や他人にはどーでもよい、非常に細か〜いことなのだが、奏でる音に対する意識が、どれほど薄っぺらなものであったかを、私は思い知った。

それに、音を出すことが怖い、とこんなに感じたことはなかったかもしれない。それは「無言歌」の最初の単純なフレーズでも、ラフマニノフの内声をきれいに奏でながら、かつメロディーも歌う時でも。シンプルであればあるほど、緊張で心と指は震えた。

余談になるが、一般的に、こうしたヴァイオリンやチェロとのデュエット曲では、ピアノはいわゆる”伴奏”として認識されているらしいし、事実、音大には”伴奏法”という授業もあるらしい。

が、例えば歌手と演奏していても、誰と演奏していても、伴奏という意識が、何故か昔から私には希薄だと思う。それは私の音楽の考え方や、常に他者との距離や関係性をはかりながら、全体のサウンドや流れを志向している音楽のとらえ方などによるものだと思う。

もう少し言えば、伴奏という言葉自体が主従関係のようなものを含んでいるように思え、音楽における個の在り様や自由というものを疎外するように感じるのだろう。いっしょに演奏している、ただそれだけが大切なことだろう。それに、音楽を奏でるのに、また享受するのに、上も下もない。

従って、仮に聞いている側からすれば、ピアノは明らかに伴奏のように感じられたとしても、私の意識は常にその関係を自ら選択している(その時、私は誰にも何ものにも束縛されない”自由”のもとにある。つまり、自由とは何か?と問われた時、選択の自由こそがそこにある、という感じ)という在り様を主張し、堕落した音を奏でることを決してよしとしないだろう。それは普段の即興演奏においても無論働いていることだが。

ともあれ、この日、太田さんのMC(おしゃべり)は即興的で絶妙。現場に強い彼にはこうした特別な才能があると思う。のっけからメガホンだ。こんな風にもっと気軽にクラシック音楽を聞ける場所や時間があっていいのではないか、と思える場創りだったと思う。

また、アンコールでは、乱入予告をしていたおおたか静流(vo)さんが「聞いていればわかるから」と歌い出した「野ばら」。最後は店主も加わって、店主自らのリクエストだった、カザルスが演奏している有名な曲「鳥のうた」を演奏。

こうしてお店の誕生日のめでたい夜は更けて、気がついたら、なんとヴァイオリニストが4人もいた。やんややんや。太田さんはピアノを弾くわ、喜多さんも見事なタンゴ・ピアノを弾くわ、会田桃子さんは跳ねて踊りながらヴィオリンを弾くわ、いや〜、みなさん芸達者なり。

午前4時過ぎに帰宅。されど心は晴れず。翌日目覚めて涙ぐんだ自分に、これは相当重症かもしれないと思う時間が過ぎる。何も考えたくなく、ジャニス・ジョップリンを大音量でかけながら、おおいに身体を使って家中を掃除しまくる。

んで、21日(金)には、何を思ってか、こんな娘の演奏を聞きに来た母を誘って、藤野の温泉に行く。やっぱり何も考えたくなかった。実際、腕や背中はパンパンだったから、とにかくぼうっとすることにして、山の空気を吸う。

22日(土)。気持ちをまだひきずっている。だんだん自分の人生すら全否定する方向へ思考が働いている。このままではヤバイと思いながら、喜多さんとクリストファー・ハーディ(per)さんとの演奏に臨んだが、2人の素晴らしい演奏に助けられる。喜多君はどんどんしっかり自分自身と向き合い始めていることを強く感じる。弓の先にたくさんの素麺をぶる下げながら(弓がどんどん切れている状態)演奏する姿に励まされる。

23日(日)。秋のコンサートの打ち合わせにでかける。夕方、銀座に出て、譜面とCDを買い求める。という気になったということは、少しは復活したのだろうか?ITO-YAでは”「線」による鉄筋彫刻”展と、てぬぐい展を見たり、色やデザインがすてきな文具を見て、気晴らしをする。
http://www.hal.ne.jp/saurs/・・・ジャズ・メンがいっぱい!)

私は無論クラシック演奏家になろうなどとは微塵も思っていない。なれるはずもない。そして、あまりにも技術がなく、下手糞であることには間違いない。今回のトライで、私は演奏家としての自分が立っている所を自覚し、確認したように思う。

ジャズだ、ロックだ、クラシックだ、民族音楽だ・・・とジャンルや形式等々で音楽を聞く耳は私にはない。が、演奏者として、ただのピアノ弾きとして、様々な音楽から学ぶ”表現”は、死んでもなお学び切れないほどあるだろう。特にピアノはどうあがいてもヨーロッパで生まれた西洋楽器である以上、それを使って作曲されたものから学ぶことは、一つの方法としては間違っていないだろうと思う。

あとは、音楽家としての自分が、このような演奏家としての自分をどう鍛え、育てていくかが、私に問われていると思う。私にできる音楽のヴィジョンをきちんと持ちながら、自分の演奏能力と折り合いを付けつつ、どんなに歳をとっても、みっともなく、たくさん迷いながら、えっちらおっちらとやっていくのだろうと思う。

私の願いは、このつたない指が奏でる音が、ただ、あなたへ届くこと。のために、私は新たなステップを踏み出さなければならないのだと、やっと少し思えるようになってきた。なんちゃって〜。まとめ過ぎだわねえ〜。

(長文、お許しください。考えて言葉にまとめないと、どうも次に動けないタイプみたいです、私。)


4月28日(金)  較べる心

「水清ければ魚住まず」
自分を戒めるために、時々思い出す言葉だが、どうもいかん。トリオを組んで演奏している2人や、長年共演しているハナモゲラ様などの振る舞いを見習わなければ。

と書いたにもかかわらず、いかに自分が間違っていたか、がやっとわかった。

クラシック曲に挑戦してから一週間は過ぎたというのに、反省をまとめても、なお、何かが引っかかっていた。何故か急に小田和正の歌を聞いて、妙に涙ぐんだりしていたから、よっぽど弱っていると自覚する。(だいたい「君を抱いていいの 好きになってもいいの」なんて、やめて欲しいわけよ。雄雄しくガバッと抱けばいいじゃないの。と、昔から思っていたのに、彼のCDを初めて買ってしまった。ま、そういう男性の気持ちもよくわかるのだけれど。)

そして、10年前くらいに言われたことが、今、やっと少しわかったような気がする、と書き送った兄貴から、「較べないこと」を提案する、と短いメッセージが届いて、目が醒めた。

私はとても大切なことを見失っていたと思う。つまり、自分自身というものを。な〜んて書くと、まるで小学生のようで、これまた気恥ずかしい限り。常日頃、生徒や人に、そういうことをよく言っているにもかかわらず。さらに、夏目漱石が若き芥川竜之介に宛てた書簡を、ほとんど座右の銘のように唱えていたくせに。

実際、巨匠たちが演奏するCDを聞きまくり、溜息ばかりついていた。あるいは、秋のコンサートのために若いピアニストたちの演奏を聞きに行き、みんな嬉々として様々な変拍子の曲を演奏しているのを見て、へえ〜っ、すげえ〜と感じたり。普段共演している人が別のピアニストと演奏し、それが素晴らしかったと耳に入ったり・・・云々。

いろんな”他者”が私をかき回していたように思う。そのことで、明らかに焦っていた。さらに、麺鳥の第三楽章をどれくらい速いテンポで弾けるかという、別の焦りも加わって、自分は焦燥の渦の中にいたように思う。だから、奏でられた音楽もそんな内容にしかならなかったと思う。

ちゃんと自分がないところには音楽は成立しない。そこからしか音楽は始まらないことを、私はジャズに出会って学んだのではなかったのか。相手にするべきは、メンデルスゾーンだろうが誰だろうが、作曲者でもなく、曲でもなく、誰かの演奏でもなく、他ならぬ下手糞で指が動かない自分自身であったことに、今更ながら気づいた。ブラームスに挑戦した時は、その結果は惨憺たるものではあったが、おそらく、それだけは、つまりブラームスと対峙した自分だけはあったと思う。

そんなことを思いながら、ブラームス作曲、ヴァイオリン・ソナタ第一番「雨の歌」のピアノを弾く高橋悠治の孤高さに胸をつかれる。

躓き、は大事だ。




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