読前読後2001年7月


■2001/07/01 堀江ぐるい序曲

ちょうど一ヶ月前に堀江敏幸さんの新刊エッセイ集『回送電車』(中央公論新社)を買い求め、読み終えて以来、堀江敏幸という新芥川賞作家の感性にすっかり魅せられ、他の作品も気になるようになった。

実はそれ以前に、デビュー作品集『郊外へ』(白水uブックス)も買っているのだが、横文字アレルギーのためというもっともらしい理由を付けて読まないままであった。

『回送電車』で堀江さんの文章に慣れたことと、その舞台が外国(パリ)とは関係ないという二つの単純な理由から大きな期待を寄せていた、新作長編『いつか王子駅で』(新潮社)は見事に素晴らしく、未読の作品がまだまだあるかと思うと、ここまで読まないできたことが良かったことのように思えたのである。

文章のリズムがとても気に入ったので、『いつか王子駅で』読了後間もなく、芥川賞受賞作品を含む小説集である『熊の敷石』(講談社)を購入した。
受賞作たる中編「熊の敷石」に、「砂売りが通る」「城址にて」の二短篇が収録された本だ。ただやはり舞台がフランスであるらしいことが、すんなり読み始めることを躊躇させ、買ってすぐ読み始めたわけではなかった。

ところが昨日、鹿島茂さんの講演会を聴いて、その話のなかで触れられた、堀江さんの小説のタイトルとなった“熊の敷石”の寓話のフランス的教訓や、話そのものの面白さが脳裏に焼きついて離れなかった。
帰宅後さっそく書棚から『熊の敷石』を取り出し、読み始める。

心地よいリズムは相変わらずで、この独特の文体に酔いながら寓話へと辿り着く小説を読み終え、そのまま第二、第三の収録作も止まらずに読み進めてしまう。
これといってインパクトのある内容ではないのだけれど、惹かれるのはなぜだろう。
堀江さんの実体験がもとになった小説に違いない各作品、出てくる人間たちと主人公との間の距離感が絶妙なのだ。まったくのドライではなく、しかしウェットで絡みつくものでもない。

友人にせよ、初対面の人びとにせよ、主人公との間に微妙に保たれる関係のあり方に、強い憧れを感じてしまうのである。
これは堀江さんの人を惹きつける魅力と、人との関係を保つためのバランス感覚、人間観察の鋭さゆえなのだろう。
舞台がパリであれ、東京の下町であれ、芯のしっかりした人間のものの見方で物語を紡げば、横文字アレルギーもへったくれもない、そう反省したのである。

ということで、買ってから書棚に放り込んだままであった『郊外へ』を取り出し、今度は休む間もなく読み継ぐことに決めた。

■2001/07/04 古典の魅力、あるいは地図を片手に

古典とは、読み重ねていくうちに、いつしか自分の血肉となり、その後の人生における様々な局面で「効いてくる」ものである。また、どの年齢において読んでも、それぞれの年齢に応じた感興をもたらすものである。
先日の鹿島茂さんの講演会で、鹿島さんからこんな「古典論」を聴くことができた。

その意味では、ちょうど読み終えた永井荷風の『つゆのあとさき』(岩波文庫)も、まさに「古典」と呼んで差し支えない名作であった。
荷風ファンを標榜しておきながら、この名作をこれまで読んでいなかったのは恥ずかしいかぎりであるが、一読、すっかり魅了されてしまったのである。

いまさら説明するまでもないが、本作品は、銀座のカフェー(作品中ではカッフェー)の女給君江の淫蕩な生活と、それを取り巻く男女を中心に描いた小説である。関東大震災から復興して賑やかさを取り戻していた昭和初年の東京が舞台となっている(発表は昭和6年)。

荷風の『断腸亭日乗』や、その他いわゆる「モダン都市文学」と呼ばれるような作品群が好きなのにもかかわらず、カフェとか、そこで働く女給というもののイメージをつかみきれていない。
女給と芸者はどう違って、どちらが格上なのか、芸者遊びのシステムはどのようなものなのか、いわゆる「三業地」と呼ばれる料理屋・待合・芸者置屋のあり方もいまひとつピンとこないのである。

『つゆのあとさき』では、まさにそうした職業に身をおいている女性が主人公だから、カフェや待合などが主要な舞台となっているわけであるが、読み終えたいま、以前よりは具体像をつかめたような気はするものの、他人に「これは、これこれこういうものだ」と説明できるほど理解できていない。

だからといって、私が本作品をたんに昭和初期の風俗小説と受けとめたというわけではない。
古びていて、現代の感覚にどっぷりつかった人間では理解困難であり、たんに昭和初期の風俗を描いたというその一点のみの歴史的価値しかないというのではなく、あるいは、懐かしさを感じるのでもない。
古びている、懐かしいという評価は、ある意味対象に意図的に距離をおいた見方であろうが、そうではなく、正反対に、対象にもっともっと近づいていきたい、そう思わせるような牽引力をもった作品なのである。

荷風文学最高の注釈書(というとその価値を矮小化しているように思われるが、その意図はない)である川本三郎さんの『荷風と東京』(都市出版)の第二十三章「「つゆのあとさき」のころ」を拾い読みしてみる。

『つゆのあとさき』が書かれた昭和6年(1931)は、震災後松屋・松坂屋・三越が銀座に進出し、資生堂や伊東屋の新しいビルが建てられた直後であり、銀座がほぼ現在の町並みを決定した年だという。
そして川本さんは本作品を「君江という都市の単身生活者を通して変りつつあるモダン都市東京を描いた都市小説」と規定する。そう、『つゆのあとさき』は「都市小説」として絶品なのだ。

出だしはこうだ。

女給の君江は午後三時からその日は銀座通のカッフェーへ出ればよいので、市ヶ谷本村町の貸間からぶらぶら堀端を歩み見附外から乗った乗合自動車を日比谷で下りた。

この二行を読むだけで、目の前に都市空間が広がってくるのである。
これはこの部分だけでなく、いたるところでこのような仕掛けがほどこされ、そのたびに頭の中には東京の地図が立ちのぼり、ついには本物の地図を片手にしながら、登場人物たちが住んだ町や歩いたルートを追いかけてみたくなってしまうのである。
荷風の小説は、こうした〝空間喚起力〟ともいうべきものが絶大で、この力は70年の時を隔たったいまでも、いささかも衰えることなく作品に備わっているのであった。
これこそが「古典」なのだろう。

■2001/07/05 十人並考

昨日触れた『つゆのあとさき』の主人公君江は、彼女に一種複雑な気持ちで付き合っている作家清岡進の印象を介して、次のように表現されている。

容貌はまず十人並で、これと目に立つ処はない。額は円く、眉も薄く眼も細く、横から見ると随分しゃくれた中低の顔であるが、富士額の生際が鬘をつけたように鮮かで、下唇の出た口元に言われぬ愛嬌があって、物言う時歯並の良い、瓢の種のような歯の間から、舌の先を動かすのが一際愛くるしく見られた。

この「十人並」という表現に引っかかった。
『広辞苑』には、「容色または才能が、ひとなみであること」とある。
絶世の美人というほどではないにしても、だからといって醜女ではもちろんない。
そういう女性に対して使うのがこの言葉なのだろう。

もっとも、美人であるにもかかわらず、それを謙遜して使う場合もあるのではないか。また逆に、醜女なのだけれど、さりとて美女とまでは言いすぎだから、少しでも良さげな表現ということで使われることもあろうか。
いずれの立場からしても、微妙に揺れがあって、かなり繊細な心配りをして使わねばならないような表現である。語源的には、「ひとなみ」とあるからは、十人並べての平均といったことなのだろう。

私は『つゆのあとさき』でこの言葉に接したことによって、上に書いたように深く考えいたるまで、十人並とはもっといい意味合いで使われている言葉だとばかり思っていた。
つまり、“ランダムに十人と比較して、それらよりも優れた”といった意味合いだと思っていたのである。美しさ比べの十人抜きチャンピオン。
こうした褒め言葉の意味で使っている場面に出くわしたことがあるような気がしないでもない。

しかしやはりこの本義は「ひとなみ」なのだから、面と向かって女性を評する言葉としてはたいへん失礼なのだ。
容貌の美醜(とくに女性の)を表す言葉というのは、難しいものである。

■2001/07/06 超芸術の素

赤瀬川原平さんの『純文学の素』(ちくま文庫)を読み終えた。

本書はけっこう古い。1982年刊行である(文庫に入ったのは90年)。
赤瀬川さんは37年生まれだから、刊行時45歳、連載時は四十代の前半ということになる。
読んでいて感じたのは、“ハイレッドセンター”や千円札事件で名を轟かせた前衛芸術家としての過激さから、現在の「老人力」で有名になった飄逸な雰囲気に変化する過渡期が、ちょうどこの作品の頃なのではあるまいか、ということ。両者の面が本書に見え隠れしているのである。
もっとも、「過渡期」として前者から後者へ変化したというのは当たらないのかもしれない。今でも赤瀬川さんにはある種の「過激さ」は失われていないと思うから。

さて、いま「連載」と書いたが、本書はセルフ出版という出版社の『ウィークエンド・スーパー』という雑誌に連載されていた。末井昭氏を編集長として、「大股ヘアー深剃り的誌面」で名を馳せた「エロ専門誌」(以上本書の表現)なのである。
ここまで来てピンときた方もいるかもしれない。
そう、セルフ出版はのち白夜書房と名を変え、いまや伝説となっている雑誌『写真時代』を出していたのである。
本書の単行本も白夜書房であり、のち、「トマソン物件」で有名になった路上観察の名著『超芸術トマソン』はこの『写真時代』に連載されることになる。

『ウィークエンド・スーパー』が『写真時代』の前身なのかどうか不明だが、少なくとも、本書『純文学の素』と『超芸術トマソン』は兄弟分の関係にあるといっていいだろう。白夜書房から刊行され、のちちくま文庫に入るというルートまで同じだ。
内容的にも、「超芸術を探る」という章には、のち「トマソン」と名付けられる町中の「超芸術」のルポがなされており、『超芸術トマソン』で紹介される物件が登場する。
だから、本書を「トマソン誕生前夜の本」と位置づけることができる。

とここまで書いて、本書全体の内容を紹介するのを忘れていた。
本書は「自宅でできるルポ」をメインテーマとして、自宅およびその周囲にあるモノ、本人が出かけたイベントなどをことごとくルポしようという試みである。

最初のほうは、性具の実用新案出願公告を図解して説明する、爆笑物のルポがある。
名前だけあげると、「夜光コンドーム容器」「サック容器」「性力強化具」など。
その他、一本は予備用という、最初から三本足の「パンティストッキング」も笑える。
また、以下は名称から想像していただきたいのだが、「風呂場温泉用きんかくし」「脚合せ目すき隠し付スカート」「睡眠時用口覆ヒマスク」なども、電車で読んでいて思わず笑みがこぼれるし、掲載されている図が露骨なので、まわりを気にしてしまうほど。これらの爆笑物の面白さを紹介する術も、たんに紹介すればいいわけではないと思う。
『外骨という人がいた!』へ受け継がれるこれらの技術も、赤瀬川さんは優れているのであった。

途中、よほど執筆が苦しかったのかと思わせるような、電話での会話のやりとりを延々と文章化するだけのダレた章(意図的なのかもしれないが、個人的にはつまらなかった)が続いて、一時は本書を投げ出そうかとも考えたほど。
しかし、連載の途中で赤瀬川さんが芥川賞を受賞し、その顛末をルポし始めたあたりから(「もらった日」)、ふたたび面白さを取り戻すのである。日常のルポが非日常のルポに変わったというべきか。
芥川賞を受賞して、赤瀬川(ご夫妻)さんが巻き込まれるさまざまなイベントが増え、それらが一々愉快なのだ。いろいろな人を惹き寄せる力というものが、赤瀬川さんには備わっているのだろう。

■2001/07/07 二つの衝撃

ここに行き着いたのは必然なのかもしれない。ネットで知り合った書友の方々からの推薦が直接的なきっかけだったにしても、それはそこに行き着くまでの時間を短縮させただけであって、いずれは辿り着いたに違いないのだ。

沢木耕太郎さんの『勉強はそれからだ 象が空を3』(文春文庫)を読んでいて、そう思わずにはおれなかった。
このなかに「私だけの教科書」というエッセイが収められていて、次のような衝撃的な挿話で始まっている。

飛行機事故で急逝した向田邦子は、山口瞳が書いたものの中では『世相講談』しか認めない、と当の山口瞳に向かって何度も揚言したという。私には向田邦子のように「しか」といいきる自信はないが、山口瞳の作品から一作選ぶとすれば、やはり『世相講談』になるような気がする。

この冒頭部分の何が私に衝撃を与えたかといえば、向田―山口―沢木ラインが一つ、それと山口瞳さんの『世相講談』という著書の存在が一つである。

向田さんも山口さんも、そしてもちろん沢木さんも、今年に入ってから初めて読んで、一挙にファンになってしまった書き手である。
山口さんは何をきっかけにはまり込んだのか、はっきりと憶えていない。
向田さんの場合は、重金敦之さんの『食の名文家たち』(文藝春秋)で『父の詫び状』に言及されていたことが直接の契機だったと思う。さっそく古本屋で購入して、その美しい文章と内容に一発で惚れ込んでしまったのであった。このとき私が購入した文春文庫版『父の詫び状』の解説が沢木さんである。

『深夜特急』でハードな旅の過程を綴ったという印象しか持っていなかった当時(といっても三月頃のことだが)、なぜ向田さんの解説が沢木さんなのだという疑問が湧き上がってきた。ところがそれぞれの作品を読んでゆくうちに、山口さんも含めて、このつながりに得心がいったのである。

もうひとつの衝撃『世相講談』だが、沢木さんが何度も読み返してルポルタージュの教科書としたというほど名著であろうと思われるのに、これまでその存在をまったく知らなかったことにショックだったのである。
沢木さんの紹介を読むとすこぶる刺激的な書物であるらしく、いま、この本を猛烈に欲している自分がいる。

■2001/07/09 郊外観のズレ

堀江敏幸さんの最初の散文集にあたる『郊外へ』(白水uブックス)を読み終えた。
パリへの留学体験を土台にした、パリの郊外をめぐる「完全な虚構」(「あとがき」)の物語がつむがれている。
最新の小説である『いつか王子駅で』と比べると、文章の雰囲気やリズムは心地のいい堀江調であるものの、パリ周辺の地名や、登場する文学作品、固有名詞がわからないものがほとんどで、大きな浸透圧を感じないわけにはいかなかった。したがって、読みながら、わが想いは内容とは離れがちな、彼我の「郊外」のあり方などへと自然向かざるをえない。

パリは、本書を読むかぎり、環状道路などによって明確に都会と田舎が区別され、都市の周縁部に都会とも田舎とも区別しがたい「郊外地」が存在するようである。
この曖昧な存在に堀江氏は惹かれ、電車やバスでときおり足を伸ばしては様々な出来事に出くわすのである。

ひるがえって日本の首都東京に郊外はあるのか。
行政区画の線引きを別にしては、明確に都市区域という境界線がない以上、首都東京においては都会と田舎という区別は生じがたく、したがって「郊外」という概念もパリ以上に曖昧にならざるを得ないのではあるまいか。

たとえば私が生まれ育った山形では、江戸時代の城下町の範囲であった「旧市街」という概念があって、その外は「郊外」と見なされる。
もちろん江戸にも城下町の範囲というものは存在しよう。たとえば小塚原・鈴ヶ森といった刑場を城下町の縁と見なすとすれば、そこが城下町の極限の地となる。

しかし、その極限地の歴史性は、パリと異なり現代に継承されない。極限を超えて都市化の波が押し寄せ、都会と田舎の境界線の歴史を無化してしまった。
東京に住んで「郊外」を感じないのもそのせいなのかもしれない。

もっともまったく郊外がないと言ってしまえば、反論が出るに違いない。第一私は城東地域にしか住んだことがなく、郊外とおぼしき武蔵野地域の土地鑑がまったくないのだから。
堀江さんは『回送電車』を読むと現在は武蔵野地域に住んでいるらしい。
やはりここが堀江さんにとっての、都市東京の郊外なのかもしれない。

■2001/07/10 大手の底力

大学院修士課程修了後出版社就職を目論んだ。そのときかろうじて筆記試験を突破して面接まで進んだ出版社の一つに、中央公論社(現中央公論新社)があった。
なぜ入ろうと思ったのか。おおかた中公文庫の編集に携わりたいなどと甘い考えを抱いていたのだろう。自己表現が苦手で愚鈍な私のこと、その夢は当然叶うはずもなく、いまも相変わらず書物に対して読む立場で関わってきている。

東京に出てきて、東京駅から歩いて行ける京橋の本社に入った。ひんやりとした雰囲気のビルディングだった。
面接の部屋に入ると、天井が高いうえにホールのように広く、私の座る椅子の向かいには、いかめしい雰囲気のお偉方が6~7人ずらっと並んでいて、それですっかり圧倒されてしまった。
あとから聞くところによると、面接官は同社の編集長クラスが担当するとのこと。いまでは有名になった方も混ざっていたのかもしれない。

このときはすでにお辞めになったあとだが、『東京人』の編集長・発行人である粕谷一希さんが中央公論社出身であることは、その著書『中央公論社と私』(文藝春秋)を目にするまでまったく知らなかった。

それにしても『中央公論社と私』と題する書物を文藝春秋が出すのには、深いわけがあるに違いない。たぶん。読んでみてのお楽しみか。
山本夏彦さんの『私の岩波物語』(文春文庫)といい、文春はこのような文壇史物に強いということを思い知らされる。

ところで、自分の購入本や読了本のリストを眺めていると、帰着するのは文春・新潮(一段下がって講談社、さらに下がって集英社)といった、いわゆる「老舗」であることがわかる。
もっとも、現在でこそ文庫シリーズが百種類を数えるほどになったとはいえ、古本で購入することになる十年前、二十年前の当時は、老舗出版社以外に文庫を出しているところは少なかったということに過ぎないともいえるのだが。

ただそれにしても、「ああ、こういう本が文庫になっていんだ」と感動するのは、やはり文春文庫や新潮文庫の場合が多いのは、疑うべくもない事実だ。これは大手出版社の底力、老舗としての仕事の蓄積によるものなのだろう。

■2001/07/11 慣れというものは

慣れというものは恐ろしいもので、いまや、一昔前まで主流であった小さい活字の文庫本など、よほど読みたいものでないかぎり、とても読む気が起こらない。別に私はまだ老眼になる年齢でもないのである。

小さい活字が主流であった頃、どの社の文庫かは忘れたが、字が大きくて読みやすいのをセールス・ポイントにして売り出したことがあった。
書店でそれを立ち読みした私は、「ふん、活字を大きくして紙数を増やして。それと何か子供っぽいや」と理不尽ないちゃもんをつけ、敬遠を決め込んだ。
活字を大きくしたからといって、たいした紙数が増えるわけでもなし、まして活字が大きい=子供の本という短絡的な認識も稚気はなはだしい。
当時の私は、小さい字でびっしりと詰め込まれた書物こそが知の宝庫であると思い込んでいたらしい。

しかしながら人も変わるもの。大き目の活字でゆったりと組んだ文庫本のスタイルが主流を占めるようになって、次第に自分の眼もそれに慣れ、逆に小さな活字、たとえば昔の新潮文庫などを一目見ると、その本はもう読まなくていいやと早めに諦めてしまうのであった。

だから、幸田文さんの遅いデビュー作『父・こんなこと』(新潮文庫)も同様の理由で、古本で購入しておきながら読まないままであったのだ。
幸田さんの文章の静かさに惹かれ、露伴晩年のエピソードに対する興味がありながらもこの本を読まなかったのは、ひとえに活字の小ささが原因であると告白しておこう。

しかし『父・こんなこと』を読まないままという事態も、どうやら回避できそうである。今月から岩波書店で『幸田文全集』の第二次刊行が始まったからだ。
第一巻にそれらは収録されている。函のデザインも瀟洒で、本を持った感じの手触りもいい、精興社の活字も落ち着いていて、旧かなづかいの文章も素敵である。
読もう読もう。

■2001/07/12 絶妙なる対談集

威張る話ではないけれども、私は吉行淳之介を読んだことがない。しかし本を持っていないわけでもない。
文春文庫に入った2冊のエッセイ集、『私の東京物語』『やややのはなし』を持っている。前者はタイトルから、東京本好きとして放っておけなかったし、後者は戦後まもないころに雑誌編集部で澁澤龍彦と同僚だったという昔話を読みたさに買い求めたようなものである。

したがって小説作品はまったく読んだことがない。高名な小説家であり、吉行エイスケ・あぐり夫妻の長男、女優吉行和子・作家吉行理恵の兄という程度しか知らなかったのである。

ただ最近丸谷才一さんや山口瞳さんの本を読むようになって、この名前を目にする機会が増え、さらに山口さんが吉行さんを兄のように慕っている(麻布中学の先輩後輩の仲)のを知って、気にはなっていたのである。
そこに今回読み終えた丸谷さん編にかかる対談集『やわらかい話』(講談社文芸文庫)が刊行されたものだから、釣り餌に引っかかった魚のようにパクッと飛びついた。

吉行さんは「対談の名手」だったのだという。今回セレクトされた対談の相手も錚々たるメンバーである。
冒頭の金子光晴との対談は噛みあわないというか、二人ともぶっ飛んでいて、内容も性的にあけすけでたまらなくおかしい。このあけすけさは、画家の加山又造や開高健を相手にしてもいかんなく発揮されている。淀川長治と恐い映画について語り合い、寺山修司とは女性のタイプについて倦むことなく語りつづける。山口瞳との自分がいかに耄碌しているかという競い合いも微笑ましいし、丸谷さんとはパウル・クレーの絵をめぐって知的談義を繰り広げる。

対談相手によって柔軟に話を合わせるというか、対談相手の興が向くように話を展開させていく。このへんの手練が対談の名手といわれるゆえんなのだろう。
読後はあくの強さのせいもあろうか、対談相手の話の印象度が高いきらいはあるが、だからといってホストが吉行淳之介でなければこのような話にはならないのだろうとも思う。

和田誠さんによる対談相手の似顔絵カット、丸谷・和田両人による「あとがき対談」も付いて、たいへん心憎い編集の対談集であった。

■2001/07/13 近代文化史・技術史の結節点

浅草十二階は憧れである。乱歩の「押絵と旅する男」を読むたびに、今もあったらなあという思いにかられる。その混沌とした雰囲気がとても好きなので、浅草という場所には時々足を運ぶことがある。もっとも目指すはJRAの場外馬券売場なのだが。

現在そのJRAの場外馬券売場があるあたりは、かつて「ひょうたん池」と呼ばれた大池があった場所だ。そこから指呼の距離、方向で言えば北西の方角に十二階はそびえ立っていた。
観音堂から東へ抜ける。花屋敷の側の立ち飲み屋が並ぶ猥雑な界隈には、通り抜けるたびに、一度でいいからここに腰を落ち着けてみたいという衝動をおぼえる。もつ煮込みの大鍋から立ちのぼる匂いと、昼間から酒を飲んで好きな競馬に耽るという、背徳めいた行為の誘惑を、これまで何度振り切ってきたことか。

この場がもつ誘惑に負けて、一度そこに小屋掛けされていた見世物小屋につい入ってしまったことがある。
中味は他愛もないもので「騙される快感」のために小銭を投げ出すようなものであったが、これが浅草以外の場所であったら、入る気がしたであろうか。
見世物小屋から外に出たとき、場外馬券売場の場所には池が開け、その先に浅草十二階があったら素敵だろうなあ、そんな感懐にとらわれるのである。

細馬宏通さんの『浅草十二階』(青土社)は、そんな“浅草十二階好き”にはたまらない本である。
著者の細馬さんは、コミュニケーション論が専門の、どちらかといえば理系研究者である(大学院は理学系)。その細馬さんがなぜ浅草十二階なのか。

「あとがき」によれば、エレベーターのなかでの人間行動を研究しているうちに、日本初のエレベーターが設置された十二階にたどりつき、そこでの振る舞いを調べていたら、十二階そのものに興味を持ったのだという。

ことほどさように、浅草十二階という建物は、日本初のエレベーターが設置された塔であるとともに、それを動かすために、これまで街灯にしか供給されていなかった電力が供給されるなど、技術史的に重要な位置づけを与えられている。
さらに、エレベーターがその危険性により稼働中止の憂き目にあった後、足で塔の上まで上っていかなければならない観光客のために、内部で美人写真やパノラマ写真の展示がなされるなど、写真史的にも見世物史的にも、一つの重要な結節点となっているのである。

個人的な嗜好として、十二階にこうした歴史的意義づけがなされてゆく叙述はたいへん面白かった。
ところが後半の三分の一になって「まなざし」「眺める」という視角からの感覚的な議論になり、花袋・啄木の文章が次々と引用される段になって、ついていけなくなった。
周辺の六区も含めて、都市論的な視角からの位置づけや、耐震という視角からの建築史的位置づけをさらに掘り下げてもらえれば、知的興奮が増しただろうにと思うと、惜しい気がする。

しかしこのさい、浅草十二階の専論であるということで、それらのマイナス面(といっても私の個人的なものだが)は目をつぶってしまおう。
対象になぞらえて、全十二章を「第1階」「第2階」と名付けるセンスは好きだし、カバーをとった表紙の装幀(高麗隆彦氏)が、いかにもモダン都市の象徴としての浅草を論じた本を読んでいるという感じがして、いいのである。

■2001/07/14 古本病患者の独り言

古本のこと、わかってねえなあと一発でわかるリトマス試験紙のようなせりふがある。それは「買った本、全部読むんですか?」というものだ。これまで何十回、この言葉を浴びせられてきたか。

思わず深くうなずいてしまうこの文章からはじまるのは、文庫書き下ろしでちくま文庫から出た岡崎武志さんの『古本でお散歩』である。
帯には「古本病が流行しています。あなたも、かかって下さい!」とある。さしづめ私も「古本病」患者なのに違いない。冒頭の愚問に対して、岡崎さんはこう言う。

少しでも古本の泥沼に足を濡らした者なら、ぜったい吐けっこないのが、この「買った本は全部読むのか」というせりふだ。(…)読むわけないだろう、全部なんて。

と開き直っている。そうだそうだ、と私も思う。
しかしそのいっぽうで、相変わらず愚直に「本は読むもの」「買った本は読むべき」と、買っても読まない本の多さに後ろめたさを感じていないわけではない(本当です)ので、完全なる「古本病患者」ではないのかもしれない。

それはともかく、本書『古本でお散歩』は、古本好きから古本病患者まで、さまざまなレベルの読書好きにとって、かなり面白いと感ぜられる本には違いないのだ。

二部構成をとっており、第1部では古本に関する雑学というべきか、古本屋における古本病患者の生態や、古本について書かれた本から素敵なフレーズを抜き出したアンソロジー(植草甚一・池谷伊佐夫・横田順彌・鹿島茂・種村季弘・唐沢俊一・高橋徹などなど)、古本の裏表紙に貼付されているシールについて、壊れた古本の補修方法、掘出本報告など、古本好きであれば楽しんで読むことができる文章が満載されている。
第1部の最後の「古本は中央線に乗って」では、中野から高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・西荻窪・吉祥寺まで、地図入りで中央線各駅周辺の古本屋さんが紹介されている。これなどは、私にとって未開の沃野たる中央線沿線の古本行脚の夢を膨らませるのに十分な内容であった。

第2部では、第1部に対して「各論」ともいうべき、そうして得た古本の内容を深く掘り下げたテーマ随筆がたくさん並べられている。たとえば、早起について、大家のなり方、1932年の伊東家の食卓、婦人誌付録考、洋行論、変な本など。

このなかで興味をそそられたのは、関西モダニズム論。岡崎さんは現在でこそ東京住まいらしいが、もともと大阪出身で京都に暮らしたことがあるらしく、エッセイ中に京都の古本屋さんの名前が頻出する。
川本三郎さんや海野弘さんに私淑しているようであり、とくに海野さんが展開されているモダン都市東京論を敷衍させて、「モダン都市大阪」「モダン都市神戸」に関する文献を手広く蒐集されているのである。
この関西モダニズムについて書いた「君知るや関西モダニズム」は教えられる点が多々あった。
また、購入した本の著者の経歴がわからず、「無名」と思われていた地点から、古書目録の注視と山口昌男さん的方法論で隠れた関西の古本人脈を明らかにした「神戸にもあった知のネットワーク―神戸「陳書会」について」なども知的刺激にあふれている。

本書全体の最後の章たる「全国異色古本屋さん」では、これまで名前だけは聞いたことがあるような、私にとって「一度は行ってみたい」憧れの古本屋さんが多く紹介されている。
たとえば京都のアスタルテ書房がこのなかにあるが、澁澤龍彦が自分の家より自分の本が揃っているのを見て、売らないでくれと言ったという逸話が紹介されている。
東京住まいとしては、夜に恵比寿ガーデンプレイス前の公園で開業する露店の古本屋に惹かれるものを感じた。「植草甚一・吉田健一・小林信彦・高橋義孝」の本が並んでいるなんて聞くと、我慢できないではないか。

文庫好きで『文庫本雑学ノート』という本まで出した岡崎さんは、ちくま文庫の編集部から執筆の依頼が来たとき、敬愛するちくま文庫に自分の本が入るということで、もう何も思い残すことはないというほど感激したという。そして「ちくま文庫らしい本」を出すために書き下ろしで、力を入れて書いたのが本書である。
この著者の意図はかなりの程度成功しているのではあるまいか。

■2001/07/15 リンボウ先生謎の本

本読みを長く続けていると、一時期好きで熱中していた書き手やその作品に対して、突如として興味が薄れてしまうという経験をすることがあるに違いない。ところが、興味が薄れるどころか、肌が合わなくなって読む気が起こらなくなる地点にまで至るという経験は、滅多にないのではあるまいか。

私にとってリンボウ先生こと林望さんの著作がまさにそのようなものにあたる。
『イギリスはおいしい』をはじめとするイギリスについて書かれたエッセイ集が次々に大きな賞を受賞し、エッセイストとしての名声を獲得したあと、それらの著作が文庫に入るようになってからのファンだから、たいして早くからのファンというわけではない。

その『イギリスはおいしい』などのエッセイは、日本文化に対する深い知識を土台に、イギリス文化の特質を自身の体験に基づいて面白く紹介するといった体のものであり、林さんが論じる文化の落差に目を見開かされ、知ることに対する一種の快感を味わったのであった。
考えてみれば、林さんの本業は日本書誌学・近世国文学であり、日本文化に対する深い知識といったものは、当たり前に持っているのである。その面の知識は、『書藪巡歴』(新潮文庫)、『リンボウ先生の書物探偵帖』(講談社文庫、原題は『書誌学の回廊』)の二著が余すところなく伝えていて、たいへん面白い本となっている。

ところが、『リンボウ先生のへそまがりなる生活』(PHP文庫)や『書斎談義』(カッパブックス)を読んでいるうちに、どうも林さんの生活スタイルやそれに対する考え方と自分のそれに大きな隔たりを感じ、それが次第に嫌悪感へと変わってしまった。
ただ、それならば著作を買わなければいいものを、エッセイの面白さの記憶が嫌悪感に勝って、文庫に次々と入る著作購入へと突き動かすのであった。

そうして購入したのが、先ごろ文春文庫に入った『リンボウ先生遠めがね』である。
たまたま本書を購入した日、朝の通勤時電車のなかで読んでいた本を読み終えてしまったので、ひとまず帰りの電車から読み始める本に定めたのであった。

本書は「イギリス」「旅」「思う」「見つめる」「極める」の五つの大きなテーマのもとにエッセイがまとめられている。冒頭の「イギリス」に収められているイギリス関係のエッセイは、相変わらず知的刺激があって楽しい。肌が合わなくなったという心配は杞憂と思われた。

しかし、次の「旅」に収録されている台湾の紀行エッセイあたりから、感覚のズレを感じはじめる。と同時に、かつても同じような内容のエッセイを読んでズレを感じたのではなかったかという記憶がかすかに甦ってきた。
一度読んだことがある? そのときは一瞬そう考えただけで、さらに深く考えもせずにそのまま流した。

読み進めてゆくと、最後の「極める」で語られている風邪予防や薪能、うまい寿司屋の話も、どうもかつて読んだことがあるような気がして仕方がない。
あとがきを見ると、本書の元版は1998年に刊行されている。私が東京に移り住んだ年だ。すでに手もとにはないので、もし元版を買って読んでいたとすれば、売り払ったことになるのだろう。
一度元版を購入して読み、読後にそれを売り払ったことをすっかり忘れてしまって、文庫化の後また同じ本を購読し、最後のほうになるまで気づかなかったとすれば、自分の記憶力のなさに呆れ果てるとともに、奇妙な事実も浮かんでくる。

つまり、面白い面白いと思いながら、知的刺激を与えられながら読んだはずのイギリス関係のエッセイはまったく憶えていないのにもかかわらず、自らの感覚とのズレを感じて遠ざかる原因となったその他のエッセイの記憶は残っているという逆転現象。
まあこれは、悪いことは憶えているのに、良いことはすっかり忘れてしまうという一般的な記憶のいたずらというべき現象に還元されるのかもしれないが、それにしても情けないことには違いない。もっとも、この記憶すら曖昧で確言できるものではないので、あるいは他に同じことを書いたエッセイを読んでそれと混同しているかもしれないのだ。
いずれにせよイギリス関係のエッセイを読んだのか、読んでいないのかという記憶が定かでないことには変わりはない。

こういうことが時おりあるから、ホームページで公開している「購入した本・読んだ本」のリストは、少なくとも自分のためには役立つ情報なのだという、変な納得をするのであった。

■2001/07/16 昆虫を知らずに彼らは育った

泉麻人さんが『東京少年昆虫図鑑』(新潮OH!文庫)という本を出されたので、“東京本”という関心から購入した。とくに私自身は「昆虫少年」ではないという意味である。

本書は、泉さんが自宅のなかや東京の各所で発見した昆虫についてのルポに、イラストレーター安永一正さんの細密な昆虫画を付した構成をとっている。
昆虫といってもカマキリとかテントウムシからカマドウマまで、珍しい昆虫ではなく、ごく普通の昆虫が取り上げられている。帯にある泉さんご本人の言葉によれば、あくまで「町並や生活風景のなかにいる虫」が「回想的」に語られているのである。

いま、何気なく「ごく普通の昆虫」と書いてしまったが、よく考えると、東京に来てからというもの、このような「ごく普通の昆虫」にめぐりあう機会がめっきり少なくなった。
だからこそ本書のような本が成立するのだろうし、「回想的」に語られなければならないのだろう。寂しい話である。

東北の田舎育ちゆえ、昆虫好きでなくとも、子供の頃は昆虫と戯れるなど日常茶飯事であった。蝉の幼虫を見つけて部屋のカーテンにくっつけておいたら、翌朝成虫になっていたとか、茶色の泡のようなカマキリの卵を、それが産み付けられた草もろとも家に持ち帰ったら、翌朝子カマキリがウジャウジャ生まれていたことなどを懐かしく思い出せる。
朝早く起きてカブトムシやクワガタを探しに行ったり、学校の帰りなどにトンボを何匹捕まえられるか競争しながら帰ったり。
トンボなどは指をかざしていればそこに止まってくれたし、群れめがけて帽子を一振りして胸に押し当てれば、そのなかに数匹入っていた。

仙台の大学へ進んでも、大学が半分山の中にあったので、夏の暑い夜研究室にいると部屋の電燈めがけてコクワガタなどが飛んでくるのである(研究室には網戸がなかった)。ああ、懐かしい。

私自身はこのような経験があるからいいものの、心配なのは東京で生まれ、育つことになるであろう子供のこと。このままでは昆虫に触れる機会がほとんどないまま大人になってしまう。
人間の「知」の重要な一部分を欠かしたまま大人になってしまっていいのだろうか。大都市東京に住むことの苦悩ここにあり。

■2001/07/17 同じ土に眠る

「銭形平次」のファンどころか、原作を読んだこともないし、大川橋蔵主演のテレビシリーズを見ていたわけでもない。ただ、野村胡堂という人への関心が皆無というわけでも、またない。「銭形平次」という名時代小説を書いていたという一点において、この作家の持っていた知のありように興味があるのである。

その意味で、中公文庫に入っている『胡堂百話』というエッセイ集は、持っていて損をしないものだと思われる。
先日多磨墓地散策を果たしたさい、野村胡堂がそこに眠っていることがわかり、詣でた。大通りに面した広い墓域に葬られていた。
そのようなきっかけもあって、買ってから書棚に放りこんだままになっていた『胡堂百話』を取り出し、拾い読むことにした。

面白いことに、というより、たんなる偶然なのかもしれないけれども、胡堂と同じく多磨墓地に葬られている人に関するエッセイが散見される。
たとえば新渡戸稲造・与謝野晶子・内村鑑三・巌谷小波など。
とりわけ新渡戸稲造は胡堂の一高時代の恩師ということで、新渡戸と芸妓の都都逸をめぐるエピソードが敬愛を込めて語られている。
またいっぽう「知的な与謝野晶子」と題するエッセイでは、与謝野晶子に関する話ではなく、脱線の部分が面白い。

九代目團十郎と五代目菊五郎を見たときの感激、とくに五代目菊五郎の印象の強烈さに触れ、二人が相次いで亡くなったときの歌舞伎界の衝撃に言及している。
このとき、「あとに残ったのは、ロクなのは、いやしない」ということで、劇評家たちが模範を見せようとしたのが、後の文士劇に発展したという指摘は興味深い。

おりしも今年に入って、九代目宗十郎・六代目歌右衛門が亡くなり、また先日は十七代目市村羽左衛門丈の訃報が歌舞伎界に衝撃を与えた。
彼ら存在感のある、また故実をよく知った役者を失った今、歌舞伎界の危機が叫ばれている。いまや模範を見せようとする人にも事欠いているのではあるまいか。

歌舞伎役者といえば、胡堂が贔屓だったとおぼしい、五代目・六代目の音羽屋ゆかりの大川橋蔵(彼は六代目の養子)が銭形平次を演じたのは、偶然なのだろうか。

■2001/07/18 山口瞳追悼文アンソロジー

山口瞳さんの『年金老人 奮戦日記』(新潮社)をようやく読み終えた。
「ようやく」の含意するところなどは明日に譲るとして、今日は、以前『還暦老人 極楽蜻蛉』読了のときにも試みた(6/1条参照)追悼文の紹介をしたい。

ロアルド・ダール死去の報あり。七十四歳。ナイーブな感じのする作家だった。彼が勇敢な飛行機乗りだったことが信じられないような気がした。(p9)
●昨夜、井上靖先生が死去された。急性肺炎。八十三歳。僕は井上さんは百歳ぐらいまで生きると思っていたのでショックを受けた。…義理を重んじ、会社の大小わけへだてをするような方ではなかった。一市民としても立派な方だったと思っている。(p40)
賀原夏子さん死去。七十歳。卵巣癌。少年時代から文学座を見ていた僕は賀原夏子が岩田豊雄の愛人だと知ってひどく驚いた記憶がある。(p47)
青木雨彦氏死去。胃癌。五十八歳。ずいぶん元気そうな方で精力的に仕事をされていたので驚いた。青木さんのような仕事は齢を取ると楽になる(多くの人に会ったのが財産になる)ので、その点が残念であり気の毒にも思った。(p51)
百目鬼恭三郎氏死去。肝硬変。六十六歳。大変な勉強家で読書家だった。(p62)
升田幸三氏死去。心不全。七十三歳。…升田さんは大天才であって升田将棋に魅かれて将棋界に入ったプロ棋士も多い。目から鱗が落ちるという言葉があるが、それを最初に実感したのが升田幸三の棋譜を並べた時だった。(p64)
●吉本興業の林正之助氏死去。心不全。九十二歳。僕は株に興味がないが、吉本の株を買ってみたいと思うことがあった。それは林さんの事業に対する考え方が確りしていると思ったからだ。(p72)

●午前三時五十分、虫明亜呂無氏死去。肺炎。六十七歳。…うまく言えないが、誰にも換え難い作家が消えてしまったという思いがした。新聞に雑学博士と紹介されたのが腹立たしかった。そんな人じゃないという思いが強い。(p92)
扇谷正造氏死去。心筋梗塞。七十九歳。…扇谷さんは超一流のジャーナリストで一世を風靡したと言っていい。刻苦勉励の人だった。(p216)
いずみたく氏死去。肝不全。六十二歳。鎌倉アカデミアの今泉は風采のあがらない気の弱そうな青年だった。…今泉が前田武彦なんかと一緒にリッチになり細君を五人も取り替えるような男になろうとは全く想像することも出来なかった。(p227)
●昨日藤村富美男氏死去。腎不全。七十五歳。…藤村はスタンドプレイ型の選手で、そういう所は好まないが一種の風格があった。そういうばスタンドプレイの選手がいなくなったなあ。泥臭いけれど懐かしい感じがする。(p234)
井上光晴氏死去。癌性腹膜炎。六十六歳。僕と同じ大正十五年の生れ。悪いと聞いていたが、気力でもって頑張っておられた。(p234)
長谷川町子さん死去の報。冠動脈硬化症。七十二歳。…僕は、長谷川町子が、内田百閒ばりに、国民栄誉賞を蹴っ飛ばすという最後の意地悪が見られなかったのが残念でならない。(p249)
●午後十時四十五分に大山康晴十五世名人が死去されたという連絡があった。肝不全。六十九歳。電話口で声が出なかった。「言葉がない」とはこのことか。…かねがね、昭和期を代表する巨人だと思っていたが、同時に不思議な人でもあった。(p260)
松本清張氏死去。八十二歳。肝臓癌。大きな方の亡くなる年だ。サラリーマンとしての下積み生活があったせいか、僕の書くものに好意的だった。類型的だった犯罪者や警察官に人間の息を吹きこんだ功績は計りしれないものがあると思っている。平易な文章を書くという点にも敬服していた。(p265)

●朝七時五十八分、中上健次氏死去。腎臓癌。四十六歳。…中上さんのいい読者ではなかったが、稀に短文に接して良い文章を書く人だなと思ったことがある。体型に反して鋭い艶っぽい文章を書く。(p267)
干刈あがたさん死去。胃癌。四十九歳。肌理の細い観察で社会問題の書ける女流作家の一人で期待していたのだが、残念。(p278)
太地喜和子さん事故死。四十八歳。…いい役者だと思っていたのに残念だ。ただし、あのオーバーな演技に異論がないわげてもない。(p291)
安部公房氏死去。急性心不全。六十八歳。一昨年のパーティで僕の隣の椅子に腰をおろして、およそ四十年ぶりぐらいで話をした。…ただし、彼は非常に懐かしそうな優しい笑顔で僕の隣に坐ったのだ。(p330)
●夕刊で戸板康二先生死去を知る。脳血栓。七十七歳。戸板先生とは、すぐに気脈が通じて、十歳ばかり年長であるのに友達のような感じでお目にかかっていた。…戸板康二先生は「見る人」だったと思っている。「見る達人」である。戦後の六大学野球早慶戦は全試合を見ているなんてのはちょっといい話ではないか。(p330)
笠智衆さん死去。膀胱癌。八十八歳。…笠さんの場合、役者が亡くなったというより親戚の誰かが死んだような感じだ。(p351)
武田百合子さん死去。六十七歳。肝臓癌。終戦直後、神保町の喫茶店ランボオでお見うけした(百合子さんはそこで働いていた)とき、大輪の白い花が笑っているような印象を受けた。残念ながら僕等の手の届かない女性だと思った。高嶺の花というのがこれだろう。後に武田泰淳さんと結婚したと聞き、なんだか安心したような気分になった。(p376)
吉田善哉さん死去。心不全。七十二歳。元気のいい方だったのでビックリする。中村勝五郎さんに続いて競馬界は二人の巨人を失った。(p410)

白取晋さん死去。平滑筋肉腫。五十三歳。アンチ巨人軍としては巨人軍の負けた翌日の彼(報知新聞・激ペン記者)の原稿を読むのが楽しみだった。勝ったときも負けたときも彼の原稿は光彩を放っていた。とにかくナミの野球記者ではなかったと思う。(p411)
ハナ肇さん死去。肝細胞癌。六十三歳。…「馬鹿まるだし」なんだけれど同時に誠心誠意が感じられた。もしかしたら、この人は、とてつもなくスケールの大きい人かもしれないと思ったものだ。(p418)
野口冨士男さん死去。呼吸不全。八十二歳。昔から何度もお目にかかっていたが親しくお話を伺う機会に恵まれなかった。以前は地味な文学史研究家という印象があったが、『かくてありけり』(昭和五十四年刊)あたりから僕に近いところにある方だと知ったのだが、残念なことをしてしまった。…こういう方は仕事をされてなくても長く生きていていただきたいと、いつでも思う。(p444)
田中角栄死去。甲状腺機能高進症に肺炎を併発したため。七十五歳。僕は田中角栄が首相ではなくて県会議員であったらよかったと思っている。彼に言いたいのは「ルールを守ってくれ」ということだけだ。こういう男を美化するのは御免だ。(p456)
逸見政孝さん死去。癌性悪液質。四十八歳。逸見さんの死は(癌でも脳内出血でも運だと思っているが)多忙への逃避という気味がありはしなかったか。(p458)

『還暦老人 極楽蜻蛉』に比してページ数の割に少ないかと思っていたけれど、こうして主要な人を抜き書きしただけでも、相当の量にのぼる。
このなかで比較的長編なのが、虫明亜呂無さん、戸板康二さん、大山康晴十五世名人あたりだろうか。戸板さんは以前書いたからここでは触れないが、虫明さんに対する回想的エピソードが面白い。
また、田中角栄と呼び捨てにして捨て台詞を吐いているのは、よほど腹に据えかねた部分があるのだろう。そこには亡くなった人に対するいつもの暖かいまなざしが微塵もうかがえない。

■2001/07/19 幸福な読書

山口瞳さんの『年金老人 奮戦日記』(新潮社)は、ホームページを見ると六月下旬に購入して即読み始めているから、実にひと月近く読みつづけていたわけである。
この間、堀江敏幸さんの本や平出隆さんの本など、その時々に猛烈に読みたい本が割り込んできて、その都度読みかけの本書を脇に置いてしまった結果がこれである。
しかしこれは、本書が面白くないからでは決してない。むしろその逆なのだ。

A5判二段組460頁の大冊、しかも内容的には、交友・酒・旅行・競馬・野球など、すべてにわたって私にとって興味を惹かない記述がなく、流し読みをさせない面白さ。
そのうえ体裁が日記であるから、息を入れたいときにすぐ本を閉じることができ、ちょっとした時間を見つけてはちびちびと読み進められる。
だから、間をおいてもすぐにその世界に没入することができる。換言すれば途中に別の本を挟んでも、なお通読に耐えられるのである。

読んでも読んでも読み終えた分のページのかさがなかなか増えない。
読み始めのうちは、栞を挟んだページより後ろの厚みを既読分の厚みと比べながら、「まだまだこんなに読めるぞ」と、未読の沃野が広がっていることへの期待感をおぼえずにはいられなかった。
これこそが幸福なる読書である。

それがようやく半分程度に到達して、先が見えてくるようになると、もったいないという気持ちとこのまま一気に読みたいという気持ちのせめぎあいが巻き起こってくる。
だいたいそのようなときには、一気に読みたいという気持ちがまさるものである。
本書も例外ではなく、半分からは読み終えるまで早かった。ああ、でももったいなかったかな。

■2001/07/21 平成日和下駄(22)―モダンな江東

東京都現代美術館で開催中の「水辺のモダン―江東・墨田の美術」展に行くことを思いたった。偶然の経緯から犬太郎さんを誘い出し、ご一緒していただけることになった。東西線木場駅で待ち合わせをする。

《洲崎パラダイスの巻》

以前江東区砂町を歩いた。そのときのレポートは以前の平成日和下駄をご参照いただきたい。
実は、江東区のなかでもう一箇所歩いてみたい場所があったのだが、疲れて足を伸ばすことはかなわなかった。それを今回実現しようと目論む。

その場所とは洲崎。戦後昭和三十年代まで繁栄した「赤線地帯」、遊廓である。
もちろん赤線廃止以後は普通の住宅地に変貌したけれど、地図のうえから見ても当時の区画をはっきりと見て取ることができる。

まずは洲崎地区の東隣にある洲崎弁天に詣でる。建物自体は新しい。脇に碑面を読みとることができないほど摩滅が甚だしい石碑が木組に囲われている。謎なり。
洲崎弁天を出て東に進むと、そこはかつて「洲崎パラダイス」のアーチが架けられていた洲崎橋である。かつては四面すべてが堀割で囲まれていた洲崎遊廓であるが、現在は西面と南面を残すのみで、洲崎橋下は遊歩道となっている。
もっとも四方を囲む堀割を失っても、コンクリートの堤防が四面を囲んでいるので、いまだに独特の空間になっていることには変わりはない。

アーチがあった洲崎橋たもとから南に広がる遊廓があった区域は、一段低く、橋から見下ろすかっこうになる。そして中央を貫通する「大門通」は無駄にだだっ広い。
川本三郎さんの『銀幕の東京』(中公新書)によると、かつてからこの広さは変わっていないようだ。大門通には行列ができたラーメン屋を発見。
帰宅後『散歩の達人』2000年8月号(門前仲町・深川・木場特集)を見ると、タンメンと餃子がおいしいらしい。タンメンの写真に食欲をそそられる。が、すでに遅し。

さて、過去にここで遊廓跡を探し続け三時間も彷徨ったという犬太郎さんは、さすがに嗅覚が鋭い。
遊廓の建物こそ姿を消したが、かつてカフェーだったとおぼしき円柱に細かなタイルを貼りつけたモダンな外観を持つ建物を数棟発見し、写真に収める。怪しげな飲み屋、もんじゃ焼き屋など、地元の人以外は入ることができそうもない小さな店が路地にひしめく。

二人で写真を撮りまくったモダンなカフェ跡は現役民家であって、余所者が好奇心半分に土足で踏み込むことをはねつけるようなオーラを発している。
二階の窓から顔をのぞかせる老婆。写真が撮れない。暑い夏。気だるそうな洲崎。

《東京都現代美術館の巻》

洲崎から一路北をめざす。
「東陽商店街」というこれもうら寂れた商店街を抜けると、緑の濃い豊住公園・木場公園の開放的な空間に出る。
緑のなかには、佃島と新川を結ぶ中央大橋のようなX字型の大きな橋が架かる。木場公園大橋である。これを渡って北に行けば現代美術館に至る。木場公園大橋は広大な木場公園の上に架かっているだけあって、眺望が素晴らしい。東を見るといかにも夏らしい入道雲がもくもくと。

さて本日のメイン東京都現代美術館。
「水辺のモダン」と銘打たれた江東区・墨田区界隈を対象にしたあらゆる芸術作品が集められ、展示されている。結論から先にいえば、期待以上の面白さ、満足度200%であった。

まずは「明治のおもかげ」。江戸から東京へと移り変わった明治の街並みを描いた版画を中心に展示されている。ここでは何といっても小林清親が素晴らしい。夜の曳舟、雨の梅若神社に見惚れる。
さらに井上安治、川瀬巴水。わけても川瀬巴水の版画は小林清親に劣らぬほどいい。最近この名前をどこかで見たおぼえがある。そうぼんやりと考えていたが、あとでミュージアムショップに立ち寄ったところ判然とした。
林望さんが川瀬巴水の絵に文を付けた「大人の絵本」を出しているのだ。何だかんだいってもリンボウ先生侮りがたし。

第二室は「関東大震災」。震災直後の街並みや焼け出された人々を描いた悲愴な絵が続く。
河野通勢の版画「此度震災所見」のシリーズが圧巻だが、記録映像も上映されていて、その実写を見ると、絵に写し取られた悲惨さをはるかに超える惨状に言葉も出ない。上野から遙か見渡す街並みはすべて焼け落ち、吾妻橋下に流れ着いた遺体の山。

第三室「復興・大東京」では、清洲橋をはじめとする橋梁を描いたもの多し。復興の象徴なのである。また、木村伊兵衛・桑原甲子雄の写真。たまたま前日恵比寿の東京都写真美術館の桑原甲子雄展で目にした同じ写真がここにも。何度見ても、この時代を写した写真には好感を持てる。
第四室「生活を彩るもの」では、ライオン歯磨の箱、ポスター、花王石鹸の包装紙デザイン応募案など。杉浦非水や村山知義の作品も並ぶ。その他煙草の箱、そして服部精工舎の工場写真。漫然と流して見ていた私に対して、犬太郎さんが重要な発見をした。
これについては現代美術館を出たあとに。

小津安二郎の映画作品のスチール写真を経て、地下の第五室は「路地裏の勇者たち」
木村伊兵衛・土門拳らによって活写された子どもたちの遊び姿、滝田ゆうさんの「寺島町奇譚」の原画、「のらくろ」の画稿など。ジャンルを超えた展示品の配置が嬉しい。
第六室「戦争の時代」、第七室「日常の風景」。第七室には、同潤会清砂通アパートの写真。第八室「水辺の異郷」では、木村荘八による荷風「墨東綺譚」(墨はさんずいあり)の挿絵に再会。かつて江戸東京博物館における「永井荷風と東京」展でお目にかかって以来。「墨東綺譚」をまた読みたいという気持ちを昂進させる。

第九室「墨東に生きた人々」(墨はさんずいあり)で珍しかったのは、淡島寒月による戯画やスケッチ帖。
さらにさらにかの「二笑亭」の写真、縮小模型、二笑亭主の旅行日記や遺品までもが展示されている。模型を丹念に眺める。江戸東京博物館あたりで原寸大の二笑亭を再現してくれないものだろうか。たてもの園でもいい。

最後の第十室では、アラーキーの「さっちん」から数葉の巨大なパネル写真、石内都さんによる洲崎の写真が目を惹く。
このように、列挙するだけでもその内容の充実度がわかろうというものだ。一つ一つの作品がまだ脳裏にこびりついている。

《精工舎工場の巻》

さて犬太郎さんの発見とはこういうものだ。
第四室で展示されていた精工舎関係の展示物のキャプションに、錦糸町にある精工舎の旧工場は地下鉄工事にともなう再開発のため近く取り壊されるとあった。その工場とおぼしきポスターが展示されていた。
犬太郎さんに呼び戻されてこのキャプションを見た私の脳裏に一瞬である記憶が甦ってきた。

話は三週間前に遡る。
鹿島茂さんの講演会を錦糸町駅ビル内にある読売文化センターに聴きにいった帰り、私は錦糸町駅から浅草に出るバスに乗った。錦糸町から北に伸びる四つ目通に入ってすぐ、錦糸公園の北隣に、モダンなデザインの学校建築風の建物が目に入ったのである。
「何だこの建物は?」と不思議に思ったのもつかの間、バスは一瞬で脇を通り過ぎてしまった。
もちろん帰宅後愛用の地図(昭文社の『東京山手・下町散歩』)でその場所を確認することを忘れなかった。
ところが、地図の該当する区画を見ると、学校などであれば建物の形などが載せられているはずなのに、全くの空白となっているのである。まるで軍事的機密のように、あるはずの建物が地図上では消されている。

そのときはそこで追究をストップしてしまい、以来そのままになっていたところに、犬太郎さんの指摘があった。
錦糸町の古い工場、私のなかでたちどころに精工舎の工場と、三週間前に見た学校建築風建物が結びついたのであった。

現代美術館は木場にある。錦糸町には行けないこともない。
だいいち近いうちに取り壊されて、この機会を逃すと二度と見られないかもしれないのだ。
現代美術館を出た私たちはそのまま東に向かって歩き、錦糸町駅へのバスが走っていると目星をつけた四ツ目通へと出た。予想どおり、錦糸町駅行きのバスが近くのバス停に停まったので、慌てて乗り込む。

現代美術館から四ツ目通へ出るまでに通った、江東区石島・千田という地域がまた風情のある街並みで、こんなところにこういう暖かみを感じさせる商店街がひっそりと息づいていると喜びたくなるような、典型的な下町の空間であった。
東京にはまだまだ自分の知らない素敵な街並みがたくさんあるのだろう、そんな期待を抱かずにはおれない。

さて錦糸町駅でバスを降り、べつに急ぐ必要もないのに自然と足早に総武線のガードをくぐって精工舎工場があるとおぼしき場所をめざす。
めざす建物はかろうじて残っていた。しかしすでにまわりには地下鉄工事に関係する囲いが設けられており、この建物が近く取り壊されることを暗示している。

犬太郎さんが感動の声をあげた。
モダンで窓の広いコンクリート建築、いかにも工場らしい鉄パイプが走る。精工舎工場を象徴していたのだろう時計塔からはすでに時計は取り払われ、丸くて白い跡が生々しく残る。
四ツ目通沿いの、私が学校建築風と直感した建物は、この工場とは別棟で、中古OA機器販売会社の所有になっているらしく、建物のモダンさとはミスマッチな、中古OA機器売買の看板が入り口に設置されていた。
建物の色はピンクがかって、ここからも時計塔の時計はすでに取り払われていた。精工舎のオフィス・ビル的な建物だったのだろうか。

それにしても奇跡である。
現代美術館に行かなければ、そして犬太郎さんの指摘を受けなければ、気づかぬうちにこの工場は取り壊されてしまって、見ることがかなわなかったであろう。
一人の気ままな散策もいいが、こうした深い知識をもった友人との散策で得るものの大きさを実感する。

帰宅後、精工舎工場について触れた文献を探したところ、次の二つが見つかった。

『建築グルメマップ1 東京を歩こう!』(エクスナレッジ)p249

建築年代1928~37年。設計阿部美樹志、施工竹中・大倉JV。
「日本を東洋のスイスに…」といった服部セイコーの創業者・服部金太郎がここに小さな工場を建てたのが始まり。設計者の阿部美樹志は戦後復興院総裁を務めた建築界の巨匠。現在、精工舎は移転。建物の存続は?

三週間前にこの本を見ていればわかったのである。でも今回の感動はなかったわけであるが。
キャプションには「建物の存続は?」とあるが、絶望的状況なのが寂しい。なお本書に掲載されている写真には時計台にまだ時計がある。

石田波郷『江東歳時記/清瀬村(抄)』(講談社文芸文庫)

波郷は、「太平町精工舎で」という小見出しを付した短文にて、「時計工いつせいに退けて梅雨あがる」という句を詠んでいる。
また「精工舎は服部時計店の工場で、明治二十五年服部金太郎の創設、七馬力の蒸汽動力を用い、掛時計と懐中時計側を製造したという。江東地区の工場としても草分け的である。(…)時計塔の針が正確に四時をさすと、守衛所の門を男女二千七百人の工員がいっせいに出てくる。その三分の二が江東地区、明治からの工場らしいデータだ」と書いている。
本書は読んだのだが、やはり現実にその工場を見ていないから、頭のなかを右から左に抜けていって記憶としてとどまっていなかった。

■2001/07/22 甘味悪食

嵐山光三郎さんの『文人悪食』(新潮文庫)で紹介され、仲間内で話題にのぼっていたことが、あれよあれよという間に実食する機会まで持つに至ってしまった。鴎外のいわゆる「饅頭茶漬」である。
それ以来、茶漬けの種類や、一般的にこんな食べ方はしないだろうと思われる甘味の食べ方に興味を持ったので、少し調べてみた。以下はその中間レポートである。

まず、鴎外の「饅頭茶漬」とはどういうものなのか、説明をしたい。もっとも詳しい文献は長女森茉莉さんのエッセイ「鴎外の味覚」(ちくま文庫『記憶の絵』所収)である。

私の父親は変った舌を持っていたようで、誰がきいても驚くようなものをおかずにして御飯をたべた。どこかで葬式があると昔はものすごく大きな饅頭が来た。葬式饅頭といっていたもので、ふつうのお饅頭の五倍はある平たい饅頭で、表面は、釣り忍に使うあの、忍草を白く抜いて焦がしてある。
(…)その饅頭を父は象牙色で爪の白い、綺麗な掌で二つに割り、それを又四つ位に割って御飯の上にのせ、煎茶をかけて美味しそうにたべた。饅頭の茶漬の時には煎茶を母に注文した。子供たちは争って父にならって、同じようにしてたべた。薄紫色の品のいい甘みの餡と、香いのいい青い茶とが溶け合う中の、一等米の白い飯はさらさらとして、美味しかった。

茉莉さんはこのように書いているが、子供たち全員が好きだとは必ずしも言えなかったようである。次女小堀杏奴さんの証言(岩波文庫『晩年の父』)。

甘い物を御飯と一緒に食べるのが好きで、私などどう考えてもそんな事は出来ないが、お饅頭をご飯の上に乗せてお茶をかけて食べたりする。
(…)私はまた甘い物と御飯とは到底一致出来ないものだと思っていたから、そういう物が出ると一番後まで残しておいてお茶を飲みながら食べた。
父はそれを嫌って、そんな事をすると他処ではもう済んだと思って、まだ食べない中に持って行ってしまうぞなどといった。

茶漬に関してもっとも詳しく語っているのは、やはり嵐山光三郎さんの『ごはん通』(平凡社ライブラリー)であろう。「茶漬」の章で、魯山人の好んだ茶漬や、ご自分の常食している茶漬を紹介されている。

たとえば鯛・梅わさび・マグロ中落ち・鰯煮・くさや・キムチなど。多少茶漬に合うのかと疑問なしとしない具もあるけれど、甘味は入っていない。
「茶漬の具」という短文によれば、関西では、お正月の鏡餅を火であぶって焼き、ごはんにのせる焼餅茶漬があるという。甘味ではないが、餅にご飯、不思議な取り合わせである。

辻嘉一や獅子文六などの正統的食味エッセイにも、こうした一種「邪道」な茶漬けに関する記載はない。

茶漬から離れて、餡子と常食的な組み合わせで探せば、池田彌三郎さんが『私の食物誌』(岩波同時代ライブラリー)で書いている「そばのしるこ」がある。更科で出すのだという。
汁粉のなかに、餅の代わりにそば切りかそばがきを入れたもので、折口信夫が歌にまで詠んでいる。

また、重金敦之さんの『気分はいつも食前酒』(朝日新聞社)では「あずきがゆ」が紹介されている。
もっともこの場合たんなる小豆だから、赤飯と同じく甘味とは限らないわけである。

こう見てくると、鴎外の饅頭茶漬はその組み合わせが当たり前同士の組み合わせという意味でも、群を抜いて突飛だということができようか。
さらなる課題として調査を進めたいと思う。

■2001/07/23 ほとんど自伝

赤瀬川原平さんの『全面自供!』(晶文社)を読み終えた。すこぶる愉快かつ刺激に満ちた本であった。

本書は親友であり路上観察学会の仲間でもある筑摩書房専務取締役松田哲夫さんのインタビューというスタイルをとる(松田さんの質問部分の活字はポイントを落としてある)。
生い立ち・少年時代から、武蔵美の学生時代、ハイレッド・センターを結成したり、千円札摸造事件で裁判になったりした「前衛芸術家」の時代、外骨再評価、「尾辻克彦」名での芥川賞受賞、路上観察学会結成、中古カメラ蒐集、そして最近の「老人力」の爆発的ブームまで、赤瀬川さんの半生が余すことなく語り尽くされている。
松田さんの「あとがき」によれば、赤瀬川さんがインタビュー原稿に「書き下ろしに近いぐらいの書き込みを加えてくれた」というほどの充実ぶりで、ほとんど自伝といってよい内容となっている。今後赤瀬川原平を語るうえで、本書の存在は無視できないものとなるだろう。

ひとつひとつのエピソードについては、挙げてしまうと、もうきりがなくなるので触れない。

赤瀬川さんのまわりには、不思議とグループが形づくられる。高松次郎・中西夏之との前衛芸術家集団ハイレッド・センターをはじめ、櫻画報社、ロイヤル天文同好会、トマソン観測センター、路上観察学会、ライカ同盟、日本美術応援団などなど。
意外なのは、そのいずれのグループにおいても赤瀬川さんは「長」ではないこと。
しかしながらインタビュアーの松田さんは、赤瀬川さんを「思想的な凝集力となっていることはたしか」と言って、なぜ「長」になろうとしないのか、質問を向けている。
答えはこうだ。

上に立ってもしょうがないもの(笑)。好みじゃないんだよね。むしろ会社の頂点にいる人って、嫌な人が多いでしょう(笑)。ぼくは本格的な会社勤めはしてないけれど、若いころにちょっとだけやって、ちらちらっと感じていた。(…)でもそれは大した理由じゃなくて、やっぱり自然の成りゆき。人のタチですよ。

かつて複数の方から、種村季弘さんの泉鏡花賞受賞パーティに出席されたおりに撮影した写真を見せていただいたことがある。二次会のときの写真だったと記憶しているが、テーブルの中央に赤瀬川さんが位置して微笑み、そのまわりに女性十人近くが囲んでいる一葉があった。
これを見たとき、赤瀬川原平という人の人気の秘密というか、「凝集力」といったものを一瞬にして悟ったような気がする。言葉でうまく説明できないのだが、この光景こそが赤瀬川さんの周りに人が集まるという意味なのだろう、そんな曖昧な悟り。
いまだにこの写真が脳裏に強く刻まれている。

エピソードは触れないといいながら、本当は紹介したくてたまらないのだ。二つほど紹介しよう。

美学校における「絵・文字工房」の講義について語った章(「7 優柔不断の教師として」)にて、宿題をしてこなかった学生に対する罰として、一円玉で買い物をして、その領収書をもらい、その間のやりとりを簡潔にレポートせよというものがあったということが振り返られている。

この企画聞いたことがあるなあと思ったら、それも道理、現在雑誌『散歩の達人』で「一円玉大王」という同じ企画が連載されていて、それを書いている谷口英久さんは、このときの赤瀬川さんの教え子なのだという。

もう一つは「ホモ疑惑」。
中公新人賞を獲得した「肌ざわり」について、審査委員だった河野多恵子さんが「もしかして、これを書いた人はホモじゃないか」と発言したら、「一理ある」と他の委員から納得されたらしい。
同じく委員だった丸谷さんはいまだにそう思っているらしいと、冗談めかして報告されている。

いまでも南伸坊くんが丸谷さんと会うと、「ところで」と身を乗り出してきて、「尾辻さんは、普通なんですか?」って聞くんだって(笑)。参っちゃうよね、ホモ疑惑がよほど焼きついてたんだね。

相手が丸谷才一さんだということに何ともいえないおかしさがあるし、それを淡々と語るご本人を想像しても笑いがこみ上げてくる。
こうした赤瀬川さんの語りのセンスがたまらないのだ。
千円札裁判のときの報道で「自称前衛芸術家」と肩書を付けられたことを逆手にとって、自ら「自称前衛芸術家だからね」ととぼけてみたりする場面など、やはり笑いがこみ上げてくると同時に、「前衛芸術家」時代の自分を相対化して眺めるまなざしが感じられて、すごい人だとあらためて感じさせられる。

本書には、巻末に「自筆年譜」(かつて書かれたものに加筆)と著作目録が付されている。
著作目録を見ると、まだまだ買っていない本が多い。出ていたことすら知らなかった本もある。
さらに「自筆年譜」を見ると、単行本化されていない連載物もけっこうありそうだ。ますます赤瀬川原平という人物から目が離せなくなってしまった。

南伸坊さんによるブックデザインも秀逸。
前後左右から撮った赤瀬川さんの写真がカバーの表裏、見返しの表裏に使われている。表が背後から撮ったもの、裏を見ると満面の笑顔の赤瀬川さんがいる。これを見ると、こちらもつられて笑ってしまうような素敵な笑顔である。
カバーを取ると、表紙の表裏には、タイトルの『全面自供!』にちなんで、よく刑事ドラマの取調室の机の上にあるような白熱灯の卓上スタンドを前後から写した写真が使われている。
表の写真は、ギラギラした白熱灯がこちらを向いているもの。「吐け!」と詰め寄られているような感じだ。
カバーを外して本書を読んでいたら、子供がなぜかこの卓上スタンドの写真に反応して、自分の本だと主張して私から本書を何度も取り上げようと襲ってきた。
なぜ卓上スタンドの写真から自分の本だと判断したのか、私にもわからない。

■2001/07/24 ビールが飲みたい

食に関するエッセイを読んでいるうちに、そこで取り上げられている食べ物の描写があまりに美味しそうで、無性にそれを食べたくなる。よくあることだ。

それとは別に、無性にお酒を飲みたくさせるようなエッセイもある。
現在活躍中の書き手のなかで、もっともビールのうまさを感じさせるのは川本三郎さんである。紀行・町歩きエッセイ集の『ちょっとそこまで』(講談社文庫)を読んでいて、そう確信した。

川本さんの旅のスタイルは一人旅で、ジーンズにスニーカーという軽装で平日にふらりと温泉宿に投宿する。温泉には何度も入り、湯上りにビールを飲みながら携えてきた時代小説などのページを繰り、それに飽きるとぼんやりと外を眺める。

町歩きのときには常に替えの下着とタオル・石鹸を携行し、立ち寄った町に風情のある銭湯を見つけたら飛び込み、散策で流した汗を洗い落として、ゆっくり湯につかる。
銭湯を出て、近くの何の変哲もない商店街に店を構えている居酒屋やラーメン屋に入って、餃子などをつまみにビール一本をあけ、軽い酔い心地でふたたび町に繰り出す。

こんなのんびりとしたスタイルはかなり理想的なのだが、私は小心者ゆえに、はじめて立ち寄った町の銭湯や居酒屋などにはなかなか入り込めない。
川本的町歩き・旅行ができるようになるのはいつの日か。

ただ、川本さんに言わせれば、東京にある中規模の町(たとえば中野・阿佐ヶ谷・高円寺・都立家政・祐天寺・小岩・平井・亀有・常盤台・戸越など)こそ、どこにでもある匿名性をもった町であり、充実した孤独を楽しむことができるのだという。怖気づくべからず。
「おいしいものが食べたくて」というタイトルの連作エッセイの一節を借りれば、そうした商店街にある「いい意味でお客を放っておいてくれる」店で飲むビールが格別なのだ。

「おいしいものが食べたくて」は豆腐好き・粟島のタイ・赤城しぐれ・小諸そば・駅弁という短章が続いて、最後に「その、ビール一本」という短章で締めくくられている。

夕暮れ時のビール一本……私はそんな時はよくラーメン屋に入る。(…)そしてビールで喉をうるおしながらいま見てきたばかりの映画のパンフレットを見たり買ってきたばかりの本をぱらぱら眺めたりする。一日のうちでいちばん楽しい時間のような気がする。ビールの最初の一杯はあらゆる酒のなかでいちばんおいしい。

最後の一文など、名言といわずして何といおう。

■2001/07/25 夢のお告げ

夢の上での話だから脈絡がついていないし、分析的に説明しようとも思わない。こんな夢を見たのである。

とある方(名前は伏せる)が私の仕事場にやってきて、私とこんなやりとりをした。

――ねえねえ、「生家」に関するデータベースを作らない?
――「生家」って、たしかに作家とかの生家なら少しは知ってますけど…。
――うん、それもなんだけど、それだけじゃなくて、新聞(持ってきているものを開いて)のここに「生家」って出てるでしょ。そういうのも拾い集めてもらいたいのよ。9月くらいまでに。
――えっ? 9月なんて、あまり時間がないじゃないですか。

その後私は引き受けたのか、断ったのかわからない。夢はここで途切れて目覚めた。

ちょうど電車で読んでいる本を読み終えたので、次に何を読もうか、書棚の「読もうと思っている本」コーナーに並んでいる文庫本を漫然と眺めていた。すると、ある一冊の本のタイトルが目に飛び込んできた。
色川武大『生家へ』(講談社文芸文庫)。
買ったときから読もうと思って果たせていなかった本だ。ちょうどいい機会、これを読もう。書棚から取り出して保護カバーをかける。

先日購入した山口瞳さんの『還暦老人憂愁日記』(新潮社)をパラパラ見ていたら、色川武大さんの追悼記が収められていた。本書のなかでの白眉といってもいいのかもしれない。
これについては同書を読んでから書くとして、そういうことからも色川さんの名前は頭の隅にひっかかってはいたのである。

『生家へ』を数ページかじってみたら、その味わいがいかにも色川さんの小説という感じがして、すっかり頭の中は色川色に染まってしまう。
別の書棚の「色川コーナー」にある『怪しい来客簿』の角川文庫版・文春文庫版を取り出して、めくる。猛烈に読みたくなってきた。
このうだるような暑さのなかにおいては、『怪しい来客簿』のような本こそうってつけなのかもしれない。この夏の課題図書に指定する。

■2001/07/26 雷嫌い、東京に住む

私は雷が大嫌いだ。
これは子供の頃からそうで、雷が鳴り出すと家の中の電気を消して、祖母に言って蚊帳を吊ってもらい、そのなかで線香を焚いていた。
まだ私の子供の頃は、こんな「雷除け」の俗習が残っていたのだ。

今から思うと、こんな笑える話もある。

高校生の夏、高校野球の県予選で自分の高校を応援するため、住んでいた市の隣町にある県営球場に自転車で駆けつけた。その帰りに天気が怪しくなってきて、とうとう雷がひどく鳴り出したのである。
もう、いてもたってもいられない。しかも田舎だから、帰り道は田んぼのど真ん中で、雷に落ちてくださいと言っているようなもの。
私は時計などをすぐさま腕から取り去り、しかも愚かしいことに自転車のハンドルの金属部分を両腕で隠しながら、つまり頭を前に乗り出して身を伏せながら、猛スピードで自転車をこいで、ほうほうの体で逃げ帰り、命拾いをした。
いまでもそのときの情景は鮮明に憶えている。

先日も物凄い雷雨だった。
東京に移り住んで思ったのは、東京の雷雨は凄くないか? ということ。
雷もバリバリと強烈だし、雨も「バケツをひっくり返したような」という形容そのままのどしゃ降りとなるようなにわか雨の多いこと。遠雷などという情緒が微塵も感ぜられない。
スコール、亜熱帯。

もっとも逆に、東京のような高層ビルばかりの都市では、雷の的がたくさんあるので、われわれを目がけて落ちるという可能性は少ないのかもしれない。
それにしても、以前住んでいた東北地方では、こんなひどい雷雨は、時々ある雷雨のなかの、ほんの一握りにしかすぎなかったような気がする。

本日付『朝日新聞』夕刊の一面記事によれば、このようなひどい(1時間100ミリ級)雷雨(新聞では「ゲリラ雷雨」と名づける)は、都市中心部の気温が周辺より高くなる「ヒートアップ」現象と海風の影響で、90年代後半から急増しているらしいのだ。
やっぱりなあ。東京周辺のまさに都市的な、現代的な現象だったわけである。

このような雨がやってきそうなときは、雷が落ちてもびくともしないような建物のなかで、通り過ぎるのをのんびりと待つにしくはない。
やむなく外出しなければならない、そんなときは時計や眼鏡、ベルトを外し、一目散に駆け出すのである。

■2001/07/28 わかったつもりで

探偵小説好きではあるが、最近の作品はほとんど読まない。乱歩や正史が好きでも、その名を冠した江戸川乱歩賞や横溝正史賞受賞作品などに心が動かされたことがない。
ただ今度ばかりはちょっと違った。長坂秀佳さんの乱歩賞受賞作品『浅草エノケン一座の嵐』(角川文庫)である。

本作品が乱歩賞を受賞した時のことは、かすかに記憶にあるような気がする。92年に講談社文庫に入ったそうだが、それもまた何となく憶えている。しかしその当時はあまり心が動かれされなかった。
その後の様々な読書体験・実体験を経て、ようやく本書がアンテナに引っかかってきたというべきだろうか。

昭和12年、浅草松竹座で興行中の人気絶頂の頃のエノケンを主人公に、日中戦争による時局の変化によって、大衆芸能にも徐々に官憲による検閲の魔の手が伸び、自由なパフォーマンスが規制されつつあった世相を深い背景とした探偵小説である。
容疑者とされたエノケンを救おうと探偵役を買ってでるロッパ(古川緑波)や、それを助けるシミキン(清水金一)も活躍する。

こう書くと、たんに当時人気の喜劇役者を駒として登場させただけの小説と思われかねないが、実はそうではない。
この時期の浅草、丸の内などにおける大衆芸能の隆盛が巧みに描かれ、とりわけ浅草の描写は、当時の浅草の賑わいはかくやと思わせられるようなリアルさを持っている。
登場人物も、エノケン・ロッパ・シミキン以外の喜劇役者をはじめ、実在の芝居作者に至るまで手広く、この時期の大衆芸能史に対する深い理解がないと書けないような詳細さ。
恥ずかしながら私は、本書のなかで重要な役割を与えられる、エノケン一座の芝居作者菊谷栄が、本書読了後小林信彦さんの『日本の喜劇人』(新潮文庫)を拾い読みしてはじめて実在の人だとわかったほど。しかも彼が戦死する前後が本書の時間的経過と一致するのだ。
読後にそのリアリティを実感し、唸った。

探偵役として活躍するロッパの描写も雰囲気が出ている。
ロッパに関しては、探偵作家浜尾四郎の弟だったり、その健啖家ぶりへの興味という側面から『ロッパの悲食記』(ちくま文庫)などを読んでいたので、多少の知識がないでもなかった。彼は得意芸中の得意芸たる声帯模写や駄洒落を本書の中でもいかんなく発揮している。
前掲『日本の喜劇人』を見ると、この昭和12年という時期はロッパにとって、「ロッパさえかければ満員になったという有楽座時代」(p14)の真っ只中で、エノケンを凌ぐ人気を誇っていた時期であったのだ。エノケンの兄貴分的な余裕が、本書の人物造型からもうかがうことができる。

いっぽうで、主人公たるエノケンに関しては、私はほとんど知識がない。映画もまったく見たことがなく、型どおりの「喜劇王」というイメージしかない。
だから、本書で描写されているような、酒飲みで暴れ者、子煩悩で人情が厚く涙もろい、しかも臆病者という人となりや、浅草松竹座時代のエノケンの芝居がはたして真を写したものなのか、判断はできかねる。
でも、大きく外れたものなのではないのだろうという予感はある。
その意味では、下手な評伝を読むよりも、本書を読んだことによってエノケンという喜劇王の実像をつかむことができたのではないか、そう思っている。それは、エノケンとロッパの間の友情という面でも同じなのではあるまいか。

戦後直後に屋台で撮影された、エノケンとロッパが笑顔で酒を酌み交わしている「珍しい写真」(『日本の喜劇人』p27)を見ると、本書で描かれている二人の友情そのままではないかと、何とはなしに胸が熱くなるのである。

■2001/07/29 目から鱗の鼎談集

都市出版の新刊『丸谷才一と22人の千年紀ジャーナリズム大合評』を読み終えた。
丸谷さんがメンバーに加わる対談・鼎談・座談はいつもながら知的刺激が大きく、目から鱗が何枚も落ちるものばかりだ。

鹿島茂さんが参加した鼎談が二本。「『筑摩世界文学大系』は最後の世界文学全集か」(ほか沼野充義氏)と、「似顔絵は一国のジャーナリズムの成熟度と洗練度を示す」(ほか東海林さだお氏)である。
全12本の鼎談のなかにおいてしまうと、目立たなくなってしまうほどであるが、前者でいえば、こんな楽しいやりとりが。

鹿島さんが、バルザックのなかで傑作なのは「従妹ベット」と「ゴリオ爺さん」なのだが、それらが『筑摩世界文学大系』に入ってしまうと、いかにもつまらなそうなニュアンスで受け止められてしまうという嘆きを受けての丸谷発言。

一体に筑摩の本はそうなんだよ。なにか面白くなさそうに思わせるわけ。本当は面白いものがずいぶんあるのにな。

大笑いである。

その他の目から鱗発言としては、猪口邦子・黒岩徹氏とのタイムリーな鼎談「選挙報道はテレビと新聞のお祭り」のなかにもある。
選挙報道から選挙の立候補者に話が移り、さらに二世議員に話が及ぶと、日本の伝統芸能における芸の継承がアナロジーとして登場する。
これだけでも面白いのだが、そればかりでない。丸谷さんは日本の芝居は博物館型だとして、歌舞伎狂言の新演出なんてほとんどあり得ず、イギリスとは芸能の型が違うから、日本では父子相伝で継承しなければならないという指摘。
二世議員続出の秘密ここにありか。

また、高島俊男・張競氏との鼎談「東アジアの漢字事情」もとても勉強になる。
中国の繁体字・簡体字、日本の正字・新字から、パソコン時代における漢字使用制限の撤廃に論じ及び、丸谷さんの日本語観もそこから透けて見える。
目から鱗なのは、繁体字から簡体字へとすぐ適応できる中国人の秘密は、日本人と違って画数にこだわらないという張さんの指摘。画数占いなどは存在しないのだという。
日本人の画数へのこだわりは、何に由来しているのだろう。疑問がふくらむ。

とさまざまな目から鱗発言を引いてきたが、全体を通して面白かったものをあげるとすれば、上に引用した鼎談ではなく、実はスポーツメディアを論じた2本なのであった。
井上ひさし・豊田泰光両氏との「野球映画の名作を選び野球小説についてひとこと」と、海老沢泰久・轡田隆史両氏との「テレビのサッカー中継を往年の名選手、元オウナーと語る」である。

前者では、豊田泰光さんの博識に目を驚かされた。野球映画や野球小説への理解は深く、そのうえで実体験を踏まえて適確な批評を行なう。丸谷・井上両氏と対等に渡り合えるような野球言論人が存在したとは。もともと豊田さんは好きな解説者であったが、今後さらに注目だ。

後者では、野球と比較して(丸谷さんは大の横浜ファン)知識が少ない(丸谷さん曰く「まったく縁がなかった」)ためか、海老沢・轡田両氏の奔流のごとく飛び出す興味深いサッカー・メディアに関する話に受身になっているが、それでも、「サッカー選手はなぜ禿げないのか」という重大な疑問をぶつけて、話を面白い方向に展開させるセンスは抜群だなあと感じ入る。でもジダンは禿げているけどなあ。

丸谷さんの本を読むと、何もかも引用したくなって、感想に締まりがなくなってしまうのが難点なのである。

■2001/07/30 『靖国』再読へ

坪内祐三さんの『靖国』が新潮文庫に入ったので購入する。
本書元版が刊行されたのは一昨年一月のことだから、二年半での文庫化。これはかなり早いほうに属するのではあるまいか。
帯には「小泉さん、あなたの知らない靖国がここにあります」というコピーが刷り込まれていることから推せば、いま問題となっている小泉純一郎首相の靖国参拝問題に当てこんだ新潮文庫編集部の思惑が、このような早期文庫化につながったものだろうか。
ただ、文庫化するにしても一定の準備期間が必要だろうから、小泉内閣が成立してたった三ヶ月、偶然にもタイムリーな書になってしまっただけなのかもしれない。

さて、元版刊行時、私はかなりの期待をもって本書を購入した。期待の高さについては、閉鎖してしまった前の読書漫筆“Pre-review of Books”に書いている。表面的には閉鎖したものの、サーバーには残したままなので、興味のある方はご参照いただきたい。
この当時、といってもたかだか二年半前に過ぎぬのだけれど、まだ私は坪内道初心者だったことがわかって、初々しいというか懐かしいというか。

では読後感はいかなるものであったのか。
正直にいえば、期待が大きさが逆効果だった。期待ほど知的好奇心を満足させるものではなかったという意味である。
もちろん「東京本」として、これまであまりスポットライトが当たらなかった靖国神社を取り上げたことは大きく、水準以上のものであったことは認めるのだが、引用記事が多すぎそれが災いしてか、論旨がうまく読み取れなかった、そんな印象だったと記憶している。

むろんこのとき受けた印象は、私の知識不足ゆえのものであり、この二年半の間に得たさまざまな情報を念頭に置いたうえで再読すれば、引用記事もすんなり呑み込め、文脈の理解も容易なものとなるのかもしれない。近いうちに再読したい。

なお、6/22条「文庫解説輪舞」では、惜しくも坪内さんで途絶えてしまった「解説つながり」だが、本書のおかげでまた一つつながったわけである。
そして本書の解説は野坂昭如さん。野坂さんの文庫は『骨餓身峠死人葛』(中公文庫)を持っているはずであるが、いま見当たらない。だからとりあえず一冊分だけ、記録が伸びたことになる。

■2001/07/31 二重構造の快感

花の都に住む異邦人たる「私」の一人称で語られる、ひとつひとつが十数頁ほどの短い短篇群を次から次へと休む間もなく読み継ぎながら、これらの物語がほぼ共通して持つ構造を自分なりの言葉で説明できそうだ、そう思った瞬間、作者自身による自解ともいうべき一節に突き当たってしばし本を手に持ったまま茫然としてしまった。

それはこんな文章である。

私にはそんなぐあいに、書物の中身と実生活の敷居がとつぜん消え失せて相互に浸透し、紙の上で生起した出来事と平板な日常がすっと入れ替わることがしばしばある。(p152)

この文章を目にして、この本を表現するのにこれ以上の言葉はないではないか、そう気づいたのである。

この本とはほかでもない堀江敏幸さんの『おぱらばん』(青土社)。
芥川賞受賞後に新しくかけられた帯の惹句には「新芥川賞作家の最高傑作!!」とある。実際読んでみて、それが偽りのないものであったことを確認した。

私が本書を読みながら考えていたこととは、以下のようなものである。

異国に住む「私」の日常的光景に、スッとナイフで切り込みを入れてできたような裂け目から、とある書物のなかで繰り広げられる別の物語が立ちあらわれて日常の物語を覆ってしまう。

15の物語は、いずれもそのような構造をとっているのである。

日常を覆いつくす書物のなかの物語とは、書物そのもののストーリーであったり、書物で取り上げられている人物の人生であったり、いろいろだ。
しかもそれらの物語は、主人公の日常的な物語に違和感なくとけこんでいて、その世界をまったく知らなくともなぜか柔らかに没入できてしまう。

さて日常を覆っていた別の物語が、流れる雲のようにサァーッと引いてしまったあと、澄んだ青空のようにふたたび目に飛び込んできた「私」の日常の物語はどうなるのか。
ある種の謎めいた道具立てを残したまま、「敷居」なく別の物語に移り変わってしまい、その別の物語が閉じられたあと、ようやくその謎が明かされるという段になって、見事に宙吊りのまま大枠としての物語も幕を閉ざしてしまう。

この手法も実に水際立ったもので、つい先ほどまで謎の解決を求めていたはずなのに、これでいいかと納得してしまう自分がいる。
本書の端々から顔をのぞかせているように、著者の堀江さんは大の推理小説好きらしい。この性向が逆に作用した結果、落ち着く方向で物語が閉じられるのが拒否されたものと考えたい。