空を見上げてみれば −夕陽の詩−

――ちょと、やばいかな。
 霞む視界の中で重過ぎる頭の感覚が酷くなっていく。
 ゆっくりと鼻腔を通して息を吸っても肺は満たされていかない。
 現在地、ボリビア共和国のとある地方の山腹、標高5500メートル弱。
 葵は切羽詰った事態にも関らず気懸かりな約束を思い出していた。

   葵、睦月、阿厨紗

 その10日ほど前。
「なんて無茶なことするんですか!?」
 ほぼ叱責に近い言葉にも関らず馬耳東風の表情をする葵。
「あそこの菓子は手作りだからすぐ売り切れちゃうんですよ。
 急ぐ必要がありましたから、どいて貰うのが一番ですからね」
 何事も無かったような返事に「相手は錯乱した通り魔ですよ、怪我でもしたらどうするんですか」と
抗議を上げる女性は葵の知り合いである。
 ネットで知り合った者同士がオフ会を開いた帰りに馴染みの洋菓子店を紹介すると葵が案内していた
矢先にサバイバルナイフを振り回している現場に出くわしたのだ。
店のそばで「困ったなぁ〜」と頭を掻いて通り魔に一気に詰め寄り脚を払ってバランスを崩して体落と
しを掛けたのだ。受身を取らせずに昏倒させた手際よりも目の前で突然そんな事をした事に抗議をして
いるのだ。
「だって、マーリンさん食べたいって云っていたじゃないですか」
 質問を見事に外された会話に不機嫌さを募らせながら「家族の方が心配するじゃあありませんか」と
詰め寄る。
「私は独身だから、悲しむ人間が少ない、単純な算数ですよ」
 その自身を突き放すような返事に言葉が詰まるマーリン。
「そ、そういう問題じゃなくて…」
「そうですよ、私は男であなたは女性、私じゃあ子供は生めませんからあなたを怪我させる訳にはいき
ませんからね」
「え?」
「おっと、すみません、セクハラ発言でした」
 結局、会話をはぐらせ続けられたまま洋菓子をプレゼントされて葵は帰っていった。
「結婚しているってきいていたけど…」と呟くマーリンに手を振りながら。


 ――いくら何でも今回は割に合わないよ。
 現在の境遇に愚痴る葵。
 仕事が国際何でも屋、という技術人材請負という便利屋なので1年の半分は海外だ。
 世界中には技術的にコンサルタンティングと修理が必要なものが数多とある。
 特に地球規模の気候変動で世界が混乱した後は尚更だった。
 今回も延々乗り継ぎをして高地にまでやってきたのに手配が悪くて、現地に出向くのに苦労した上に
更にまた天候と諸々も情勢で仕事場に足止めを食らっているのだ。しかも依頼された量の倍はある。
「こりゃあ器用貧乏だよなぁ、帰ったら絶対必要経費の上乗せさせてやる」
 燃料切れ、部品切れ、工具不足、寸法違いetc。
 いつまで経っても問題は山積みしたままで済みそうに無かった。
 ――それにしても電話が使えねえとは。
 仕事で必要なので全地球用携帯電話を支給されているが、バッテリー切れ。
 ――メールが送れないじゃん。
 あの後、ちょっとマーリンとケンカしてしまったのだがバースデーメールを送るとその前に約束して
いる以上、「やっぱり送らないとダメだよな」とぼやく葵。
「なんか魔法でも使えればいいけれど…、マーリンかぁ」
 ハンドルネームしか知らない相手との関係に苦笑する葵。
「マーリン、魔法でも使えそうだね、ほんと」
 薄い酸素で鈍くなる意識の中で壊れた発電機の事を思い出してにやり、と笑った。


「あはははぁっはっは」
「そんなに笑うことないじゃない!」
 カカオパウダーをふんだんにまぶしたミルフィーユをスプーンに刺したまま笑う友人の態度に形の
良い眉を顰めて抗議する睦月。
 怒る度に長い髪の毛が心の動揺を表すように流れる。
「だって、それはその人が優しい為人だからよ」
 ショートカットに大きな瞳が愉快そうに揺らしながら話す阿厨紗。
「だけど、"話をするのは貴方の事が好きだからですよ"とあからさまに言われてどう返せばいいのよ」
 ガツガツ、とフォークでチョコムースを突き刺して口の中に一杯頬張る睦月。
「照れること無いじゃない、それがお世辞かどうかぐらいは分かるでしょう」
 阿厨紗の指摘に葵の言葉を思い出す睦月。
『とてもその服が似合っていますよ、マーリンさん。
 素敵ですよ、思わず抱き締めたいくらいに、かわいいですよ』
 葵の裏の無い表情に気恥ずかしく、言葉を詰まらせてしまったのだ。
「大体、そうそう会った事の無い相手にハッキリ云う台詞じゃないでしょう」
「そうねえ、今時、結婚詐欺師でも言わないわね」
 シナモンを利かせたコーヒーを2口ほど啜ると真顔になった阿厨紗が頬杖を付きながら言った。
「でも、ある意味嫌な男かもね、相手が自分とどんな風に接するのかを見定めている訳だから」
 言い終えて再びコーヒーを口にする阿厨紗。
 返事をせずに睦月が黙ったまま時間が過ぎていく。
 睦月の視線が盛んに泳いだ後、冷えてしまったアールグレイで止まってしまった。
「嫌いだって言えばよかったのね、ハッキリと。
 メールでケンカなんて高校生でも今時しないわよ」
 思わず顔を上げ、阿厨紗の目を見てしまう睦月。
「付き合って欲しいとか言われたの? そうじゃないのでしょう?
 多分、その人は敢えて自分から線引きをして踏み込まないようにしているのじゃなくて」
 コーヒーカップを口元に持ってくるが空になっていることに気付き、2杯目を注文する阿厨紗。
「どうして、そんな風に思うの?」
 5歳年上の阿厨紗が睦月と知り合ったのもネット上だったが同じ市内だったことから実際に会う事も
多く一緒に買い物をしたり、茶飲みの時間を潰すことも増えていった。
 決まって話し事は他愛もないことだったが、今日はほぼ睦月が一方的に話し出し、相談に乗る形に
なってしまっていた。2杯目のコーヒーを飲み干す頃にようやく睦月の話が終わった。
「迷っているのかしらね、貴方は?
 伊達に亭主持ちじゃないのよ、これでもね。大学生までのようには行かないわよ、社会人になったら
 でも、私に相談したって事は嫌いじゃないって訳だよね?」
 悪戯っぽくウィンクした阿厨紗が伝票を持って席を立った。
「遅番が入っているから、私はここでね、払っとくから」
 ――頑張ってね、と言い残していった阿厨紗の影を追いながら「何を頑張るのよ」と呟く睦月。

 次に続く。


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