一刻堂草子
九の巻「姫新讃嘆、思いは届かず」
「擾乱による騒ぎに乗じた占領とな」
「はい。江戸四方での火付け、及び上水への病原菌の混入による被災で町方の機能の錯綜、混乱、避難民
による疫病の蔓延、食糧不足、荷役の不足、そして居留地への暴動鎮圧のための艦隊出動。
そこに至れば江戸湾からの江戸上陸、占拠へと拡大するのは必須。
弱体化した幕府を突き、事実上幕閣は瓦解するでしょう。
同時に傀儡化した店子を通じて貿易の権益独占と阿片による国力の弱体化となり、尊皇派との内戦が長
びき、事実上の占領の口実を与えかねません」
五代の話に事態の正否に判断尽きかねる勝。
「しかし、そう大きく運ぶとは限らぬではないか」
「如何にもですが、この擾乱は成功する必要はないのです」
「つまり、幕府を弱体化する要因を作りさえすればよいという訳か。
確かにな、もう幕府は駄目だ。いずれ遅かれ早かれ徳川は滅ぶ。
解った、出来うる限りの手配を致そう」
「御願いいたします」
深々と頭を下げる五代と響子。
新調された装束に身を包んだ響子の動きは格段に軽やかに縦横無尽に
仮面男と戦っていた。二本の短剣を揮い、次々と撃ち倒していく。
離れた相手に対しては、腰布に仕込まれた棒手裏剣を矢継ぎ早に投げ
付け、動きを止めていく。
「皆さんはこの中に居て下さいね」
六耀の光る翼が大きく展張して長屋の住人達、子供達を囲んでドーム状
に変形していく。両肩と脇、背中のハーネスを外して翼と分離するミレイ。
ツン、とシェン・ヅーの脇に移動し、
「じゃあ、ここは任せて」
「ああ、行って来るよ」
と言い終わらぬ間に軽く地を蹴ったシェン・ヅーは光のように飛び去っていく。
「さて、と。後片付けをしますか」
ショートブーツの縁を持ち上げ、膝上まで伸ばしてロングブーツとして、両袖
口から細身の剣を出す。
「あなたは最後におくわね」
上空に浮遊したまま座視しているカラクリ仮面に言葉を投げ、つむじ風のように
消え去った。
すると、
江戸市中で残存していたベネチア仮面達が次々と破砕されだした。
光が奔った途端、ベネチア仮面達が土人形のように崩れていくのだ。
再び姿を見せるミレイ。
「力を入れすぎているかしら?」
パッとまた消え、残り香だけが漂う。
「中村殿、上水は食い止めましたぞ」
「おお、三鷹殿、ご無事か」
「狼藉者達の捕縛は如何に」
「大方の者共は引っ捕らえたぞ。
鬼や奇怪な仮面をつけた輩は何処からか疾駆する光がすべて片付けていくが、三鷹殿、何か御存じか」
「申し訳ござらぬが、憶え久しからずありまする」
「そうか、」
陣笠を締め直し、捕物達に捕縛した狼藉者を移動させるよう采配を奮う町与力、中村。
「この混乱に乗じる浪士共に目を光らせるぞ、ゆくぞ、三鷹殿」
「はっ、お供致しまする」
二人が騎乗した時、ふっと甘く柔らかな香りが鼻を衝く。
「なんだ、この匂いは?」
「どこかの香でしょう」
手綱を引き、馬を駆け出す。
『この匂い、どこかで嗅いだ覚えがある、しかし、な』
頭に浮かんだのは神奈川の一時であったがすぐに打ち消した。
一刻堂近辺に現れ、遅れながらも火付けを企てようとする浪士達を捕捉する黒炎。
「こちとら大勢だぁ、畳んじまえやぁ」
強面のやくざ紛いの男が気勢を上げる。
次々に抜刀し、黒炎に対して斬り込んでくる。
「はぁあ、たたたぁったぁったぁ」
紙一重で切っ先をかわし、居合い抜きで一人二人三人と確実に体を捉えて刀を当てていく。
呻きながらもんどり打ち地に伏せていく男達。
「峰打ちだが暫くは動けまい」
日本刀の大部分はこの江戸末期では戦国期より刀身は細くなり、反りも緩くなっていた。
また刀身自体は殆どが肩口から指先ぐらいまでの長さでしかない。
時代劇で見受けられるのは長刀であり、殺陣での見栄えの良さのためである。
混み入った白兵・接近戦においては振回し易い短めの刀が実用的なのである。
また、峰打ちといえども鉄パイプで殴られるより細身の分だけ痛さも格別で、肋骨にヒビが入るくらいは
当たり前なのである。古くは「むねうち」とも云う。
背後から斬り掛かる相手に腰を落とし、下がる流れで握り手を替え峰で相手の膝上に一擲を加え、反動で
折れるように下がった相手の胸ぐらに肘打ちを加えた。
「威勢は声だけでは駄目ですよ」
腰を捻り、ハイキックを二発喰らわせ昏倒させる。
「皆さん、お休みなさぁぁい」
放火された火勢も衰え、鎮火の方向までに火消しや町方、火付盗賊改の尽力が効果を現れだしてきていた。
だが、浮遊したままのカラクリ仮面の口元は笑ったままだ。
「くくくくくっ、それではフィナーレへとしますか」
シルクハットを被り直し、胸元から出したハンカチがみるみる大きな風呂敷状に膨張していく。
「それでは、1,2の3!」
落とした風呂敷が更にテント状になり、通りに被さった。
「何?」「何だ」
警戒を怠らず身構える響子。即座に二挺の弾倉から薬莢を排出して銃弾を入れ替える五代。
数瞬の沈黙が辺りを支配していく。
イヤな予感が背中を奔る。
バッとテントが引裂かれ、中から巨大な手が脇の店子の軒先を破壊する。
頭部、左肩と続き、両足が大地を踏み締めると身の丈は二間半(約4m弱)に及ぶ。
「八神、さん?」「八神!?」
漆黒の大鬼の胴には八神いぶきが鋳込まれている事に驚く五代と響子。
両眼は光を失い、茫漠とした表情のいぶき。
「どうやって助け出せばいいんだ」
「八神さん、八神さんっ」
大鉈を振り下ろすように櫂程の太刀が鈍い音を放ち周囲を破壊し出す。
質量の大きさから長屋の細い柱や薄い壁を、バターを熱したナイフで抉るようにボロボロにしてしまう。
勿論、一撃を喰らえばひとたまりもないだろう。
装束の長い振り袖を伸ばして側の木に巻き付け、反動をつけ長屋の屋根に駆け上がる響子。
猛り狂ったように破壊衝動に赴くままに塵芥を巻き上げ、いぶきを鋳込んだ鬼が暴れていく。
「八神さん、やめて、やめて、御願いだから」
ぶんぶんと叩き付けられる太刀を舞うようにかわ避す響子だが、逃げ回っているに等しい。
「八神、目を覚ますんだっ」
元町、外国人居留地への橋手前の番所。
「先程の目も眩むような目映い光は何だったのでしょうか」
「皆目分からねえ、しかしいかれた浪士を捕まえることが出来たんだ、由としようや」
放火が未然に防がれた居留地。
その中は橋を挟んだ番所側とは違い、異様に静かだった。
時を同じく、江戸湾各域の台場でも同様に目映い光に包まれる現象が起こっていたが、誰しもが怪訝に
思いながら何が前後に起きたのか解らず終いであった。
亜米利加総領事ハリス邸。
既に就寝していたハリスも白い闇の中に包まれている夢を見ていた。
誰かが語りかけていても質問することが出来ない。無限に広く、無限に遠い感覚。
目を覚ましてみると一通のカードがはらりと落ちてきた。その文面には、
”All Over.All's right with the world.”(全ては終わり、全て世は事も無き)
一瞥を終え、
「そうか、事も無き、か」
鬼と同化しているいぶきを助け出すのは困難を極めていた。
両手両足が胴に埋込まれており、背中も融着している。
絡むように這い回る器官が五肢に艶めかしく巻き付いており、象形文字らしき言葉がいぶきの裸体に
描かれている。鬼が動く度に苦痛とも快楽ともいえぬ呻き声が洩れている。
右上腕に振り袖を巻き付けて動きを封じようと試みる響子。
ミレイが編んだ布故に切れることも燃えることもないが、押さえているのは人間の響子である。
力負けし、けん玉で遊ぶように屋根に壁に引き戸に障子にとぶつけられていく。
「ぐぅはぅあ」
衝撃の連続で息が途絶え、意識が朦朧としてくる。
全身の筋肉が悲鳴をあげ、骨という骨が軋む感じがする。
時間も空間も感覚が麻痺して次第に世界が途切れがちになっていく。
黒炎も応戦するが間合いに入りきれない。
「御前! 手をお放し下され」
「で、でも、放すと八神さんを、きゃあああああああぁ」
遂に激痛で手を放してしまい、振り袖が腕から抜けてしまう。
一刻堂前の井戸の傍まで飛ばされ転がっていく。
「響子さん!」
五代が助け起こそうとするが、打ち身が烈しいので立てない響子。
「だ、駄目、立てない」
見上げれば向直った鬼が太刀を構え直し、響子目掛けて突きを繰り出そうと構えていた所だ。
ガチャガチャと甲冑が擦れる音が一旦止み、溜めが入る。
ググッー、と突き出した太刀先が急停止する。
響子に覆い被さるように庇う五代の背中、ギリギリで止められ、小さな傷口から血が滲む。
「おわ…せ…て…、お、ね…ぁい…」
光の無いいぶきの両眼から泪が頬に筋を作っている。
「おわ…ら、せ、て…」微かに動かす唇から洩れる言葉。「し…、な…、せ…、て‥」
いぶきの身体中に纏わり絡みつく器官が、あがらう肉体を締め上げて行く。
ぽつりと口の端から血が零れていく。
何をどうすればいいんだ、という表情の五代。逡巡する二人。
「何を甘えたこと、云っているのかしら」
何処からかミレイの叱る声が響く。
瞬きをした次には、鬼の目の前、二人に背を向けて宙に浮かび対峙している。
「“ディオスの花嫁”の呪縛から自分を解き放ちなさい」