一刻堂草子
完結、廿の巻「画竜点睛、天高く詠う日」
「“ディオスの花嫁”の呪縛から自分を解き放ちなさい」
毅然とし、凛々しく柔らかい表情のミレイ。
全てを慈しむ眼差しだが、それは優しくもあり厳しくもあった。
左手を横に伸ばし、手首を振ると袖口から棍棒に似た長さの筒が出てきたを掴んだ。
くるり、とバトンを廻すようにその筒を廻すとするする、と延伸して薙刀か錫杖かに似た形状に変形し
先端は三日月の鉤爪となった。
「自分は不幸だ、満たされない、と止まっている限り同化から抜け出られはしないのよ」
パンッ、といぶきの頬を平手打ちするミレイ。
「胸も色気も悔しかったら襟首を掴まえてでも自分のものにしなさい。
男を手玉に獲るぐらいのしたたかさが無いのに悲劇のヒロインには役不足よ」
三日月の錫杖をくるりと回し、太刀を弾いて放り投げる。
弾かれた勢いで五代の部屋を掠めてぐしゃりと砕いてしまう。
「ああ、俺の部屋がぁあ」
落胆する暇も無く、
「これから響子の部屋に住めばいいでしょう」
とにべも無いミレイ。
「人は一人で生きているのではないのです」
いぶきの目に映るもの。
五代に響子、一ノ瀬に朱美、四谷に子供達、近隣の店子の娘達、敦子、麻美、悦子。
茶の師匠、母、父、奉公人、三鷹に梢。
打沈んでいた瞳に輝きが戻り出していく。
「わたし、わたし…」
愉しかった日々や響子と張り合った日々が想起されていく。
「いぶきさん!!」
響子の叫び声が身体を、心を、奮わせていく。
『そう、きっと私達、いい友達になれるかもしれないわ』
ふっ、と微笑むミレイ。
同時にドームになっていた六耀の翼が解かれ、あっという間に“ディオスの花嫁”の五肢に巻付き、
動きを封じる。
「今よ、思いを飛ばして!」
右掌をいぶきの小さな左乳房に押し当て気合を込めるミレイ。
輝きがミレイの掌から放たれ、発光を始めるいぶき。
纏わり着いた器官が苦しむように暴れ出し、ディオスの花嫁自体も悶え出す。
「いぶきさん!」
立ち上がり、手を伸ばして寄って行く響子。
「まだ、まだ、終わりなんかじゃないわっ!」
ディオスの花嫁の胴が割れていく。
次々と引き千切られていく器官。
異物が吐き出されるようにいぶきが飛び出していく。
受け止めるが重みでへたり込んでしまう響子。
「いぶきさん、もう大丈夫よ、もう、大丈夫……よ」
あやすように抱締め、頭を撫でる。
嗚咽を始めてぼろぼろ泪を流し出すいぶき。
ディオスの花嫁を輪切りにするような光が走った。
真っ二つに割れた先に姿を現わしたのはシェン・ヅー。
「あ〜あ、美味しいところ皆ミレイが持っていくのだね」
皮肉を込めながらもいぶきを助け出したことには触れない。
「あら、私はちゃんと考えていたわよ」
既にカラクリ仮面の手下は全て破壊されていた。
操られていた浪士達や店子たちも呪縛から解き放たれ、何が起きていたのか不思議がっていた。
粘液に濡れたいぶきの身体を拭く響子。
響子自身もいぶきの粘液まみれになるが気にはしていない。むしろ、汚れたのを喜んでいるようだ。
この女性(ひと)には敵わないわね、そう思いながらも
「きょ、響子さん、かならず、いい、いい男をたあぁくさん見つけて羨ましがしてみるわ」
「ええ、待っていますわ」
「ふふふ」
「ふっっふふ、ふ」
笑い出すいぶきと響子。
「はははは」
「ははははは」
再び翼を纏って威圧するほどの輝きを燦然と放ち出すミレイ。
空に浮かぶ一点を凝視し、居合の構えを執るシェン・ヅー。
錫杖を頭上に掲げ、円を画く。
と、同時に両手で二本の剣を入抜く。
地震のような衝撃で大地が縦に揺れ、数十の雷鳴が轟き、光の柱が立ち昇った。
ばらばらになり、灰燼に帰していくカラクリ仮面の男。
圧倒的な、余りに圧倒的な人知を凌駕した出来事に吾を忘れた住人達。
江戸の町の隅々でも何が起きたのか誰も判らなかった。
そして、誰も何も覚えてもいなかった、誰一人として。
「響子さん、五代さん、この夜の出来事は忘れるのがいいですか」
「それとも二人にとっては忘れないほうがいいですか」
白い久遠の空間で二人に語り掛けるミレイとシェン・ヅー。
浮遊する感覚に戸惑いながらも、
「いえ、私は、忘れはしません。
私達にとっては辛いことも糧になると思えるんです」
「ええ、この先、時代はいっそう辛くなってもこの時を二人で居る限り」
光が消えたとき、普段着を着ているミレイとシェン・ヅーが居た。
住人達は気を失っているようだ。
いぶきも同じように響子の胸元で気持ち良さそうに寝入っている。
ガチャリ、と蹄鉄を踏むような音が砂塵の向こうから聞えてくる。
半身を黒闇に包んだ長身の男が数間先で歩みを止める。
灰色の長い髪に切れ長の剃刀のような眼差し。
「天上の巫女に天駆の騎士、今回はここまでにしておこう。
だが、人が愚かで在り続ける限り吾はいつの時代にでも現れるからな」
「ああ、いつでも相手になるさ」
「今度は手加減、しないわよ」
悪態とも冗談ともつかない顔で見送る二人。
翳みの中に消えた男の名は彌娑笥というかどうかは知らない。
「う、うぅぅぅん」
再び目を覚ますいぶき。
「あれ、もう終わったの?」
「そう、終わったのよ」
傍らにしゃがみこむミレイ。
「ああぁ、あんたさっきのおっぱいお化け!!」
「おっぱいお化け?」
「そうよ、そんな膨れ上がった風船みたいなでっかい胸だから、おっぱいお化けよ。
人が動けないと思っておもいっきり引っ叩くなんて酷いじゃない」
苦笑する響子。
「あぁ〜ら、悔しかったらあなたも胸を大きくしてこうしてみなさい」
と逆に反撃し、シェン・ヅーの顔を自分の胸の谷間に挟み込む。
「好きな男を胸に埋めている瞬間は心地良いわよ。
まあ、カマボコみたいな寸胴の胸じゃ無理ね」
「なんですって、わぁぁあ悔しいわねぇ、ぜったい見返してやるわ。
響子さんも笑ってないで! 五代先生に私の裸、ずっと見せておいて好いんですか?」
「あっ、あなた、後ろ向いて、いつまでも見ていないで、着るものでも持ってきて」
「は、はいっ」
いそいそと駆け出し、響子の服を取りに行く五代。
「もう大丈夫ね、いぶきさん」
「響子さんもね」
笑ういぶきの表情は何の屈託のない、愛くるしく健やかだった。
月日は流れ、それから数ヶ月後、江戸の町に春が訪れ、桜が満開になっていた。
そして。
職責を認められ与力役に昇進した三鷹が飯処の茶々丸を訪れていた。
一刻堂の面々も集い、いつものように宴会を開いている。
「昨年の大捕物以来、闇夜の銀と風祭の狐が忽然と姿を消した。
平穏になったのはいいが京都はいよいよ危ないらしい。
江戸が戦禍に巻き込まれかもしれぬぞ」
「まあ、そんときはそんときよ、わはははは、ちゃかぽこ、ちゃかぽこ」
「そうそう、先の事を嘆いても仕方がありませんな、わははは、若い子は若い子は肌が違う!」
苦笑する三鷹。
「ところで、五代君と音無さんは?」
「惣一郎さんの墓参りと祝言を一緒に挙げて来るって云っていたから遅れるんじゃない」
「ささ、三鷹さんもぐぐぅーと一杯」
御銚子を勧める朱美が山ほどの料理を抱えてくる。
「健太郎、しっかり食うんだよ」
泉岳寺の周囲は満開となった桜の花弁が舞い、まるで花弁の海に浮かぶようにも見れる。
その桜並木の下、手を繋ぎ歩く五代と響子。
「今年も綺麗ですね、満開で」
「そうね。
裕作さん、わたしね、子供を沢山産みたいわ」
「沢山?」
「ええ、これから大変な時代になるかもしれないけれど、だからこそ、強く生きていく子達を
生んで育てていきたいの、そして、新しい時代に、生きてきた人のことを語り継いでいって
貰いたいの」
「はっははは、じゃあ、頑張らなくっちゃ。稼ぐのも大変だなあ」
「期待していますわ、あなた」
その後、日本の歴史は討幕運動を経て大政奉還、戊辰戦争、江戸城無血開城、会津の闘い、
榎本艦隊の函館、五稜郭の闘いを経て時代は明治へと変わっていく。
その中で、与力・三鷹や一刻堂がどうなったかを遺した文献は無い。
勿論、闇夜の銀と風祭の狐の消息も知れずである。
「響子先生、急患です、急いでくだせい」
「はあい、今。春香、お留守番、頼んだわよ」「はあい」
一刻堂草子、終わり。