一刻堂草子

 伍の巻「屠蘇と茜の婆娑」


 元冶元年、八月、禁門の変後、下関四国艦隊事件発生。
 欧米海軍の上陸占領で終わったこの戦いにより、神奈川元町にある外国人居留地に向けられる目が
畏怖と憎悪から変わっていくことは居留地に住むものなら誰しもが感じ取っていた。

 居留地のとある洋館の寝室。
 秋の蜻蛉が黄金色の羽を舞わせ乱れ飛んでいる午後の静かな、静かな安息日(日曜日)。

 遠い、遠い感触。
 浮遊する感覚、世界の全てが柔らかい午後の陽射しの様に心地良いのに世界は暗い。
 だのに身体は羽のように軽く感じる。
 懐かしく、いとおしく、切ない甘い衝動、全てが融けていきそうで、全てが自分だけのような、
一瞬も無限もどちらでもない世界、昨日の地平、明日の虚空、今日の空隙。
 染み入る鈴の音。
『響子、響子……』
 幸せだった日々の追憶の横顔、それは、惣一郎さん?
『未だ来てはいけないよ、響子、これから始まるんだよ』
 手を伸ばしても掴めない、いや、掴み続けてはいかない向こうへは。
『響子さん、生きてください』
 五代の笑顔、そう、私が見つけた大切なものは…。
「ご、だ、い、さ、ん…」
 瞼を開けた世界には、見覚えの在る天井が広がっていた。
 ベッドに寝かされた、鉛のように重い体。
 右手を握り締めて寝入っている五代の姿がそこにはあった。
「…」
 響子の世界は再び閉じた。

「大家さん、未だ戻ってこられないの?」
「そのようですな」
「四谷さん、なんか知らない?」
「さあ、私には。それよりも五代君も一緒に帰って来ないのが不思議ですなあ」
「そうよねえ、一体どうなっているのやら、三鷹さんもこの間の捕物で怪我したみたいだし」
 それは数日前。
 大規模な火付けが噂され、火付盗賊改が町奉行所の先導として警戒に当たったのである。
 そして目付達が不審な影を捉えたとの報告が入ったのが半刻前。
「通りに周ったぞ、路頭に引き摺りだせい!」
 幾つもの吹子が鳴り響き、捕物達の足音が砂塵を巻き上げる。
 怒号が飛び交い、奇怪な集団を捕らえんと与力、同心の組精鋭が次々と通りを固め、各々の武器を
携え、機会を覗った。
「来たぞっ! ひっ捕らえいっ」
 軒先を突き破り、通りに突き出てきた影、それは身の丈七尺を越える巨躯の甲冑、鬼面に髪を振り
乱す異形の姿だった。
「怯むな、いけいぅやぁ」
 袖搦(そでがらみ)、刺又、突棒を揮い、5人がかり、6人、8人と棒を絡ませ、動きの自由を奪
おうと叩き付け、突きを繰り返し、脚を引っ掛け、鍵縄を甲冑に引っ掛け、縛り上げようと渾身の力
奮い出し捕縛しようとする。
 だが、強力(ごうりき)な鬼男は巨木のような腕でそれらを払い除けようとする。
「開けいっ!」
 四人掛りで角材を振り廻し、昏倒を試みるが鬼男は軽々と払い除けてしまう。
「他の仮面共はどうした!?」
「裏手に廻りました」
「馬鹿者、何故手薄にしたぁっか、ぐぁぁああ」
 鬼男が幾重にも掛けられた捕物縄ごと強引に同心達を豪刀で薙ぎ払った。
 路地や屋根、土塀へと掬い上げられ、叩き付けられる捕物達。
 取り残される采配。
 相撲取りがまるで犬をいなすように圧倒的な力の差で包囲を崩されていく。
「引け、町方!」
 火付け盗賊改組長が同行した三鷹に逃げろと促すが、逆に抜刀し構える同心、三鷹。
「江戸を揺るがす不届き者に見せる背中は無い、てぃやぁぁああああ」
 果敢に斬り込んで行くが、鬼男の張り手の前には無力だった。
 数間も飛ばされ、転がされて行く。
 総勢60人が重軽傷を負い、取り逃がす結果となった。
 1718年、盗賊改、火付改、博打改が火付盗賊改に一本化され先手組先手頭の加役となり、1862年
先手頭兼任から独立した歴史の中で最大の被害であった。

 再び響子が瞼を開け、柔らかな部屋の匂いに気付いたのは、あの晩から一周間が過ぎていた。
「気がついて?」
 まったく困った子ね、と云いたげな表情でミレイが響子を覗き込む。
「助かったの?」
「ええ、危ない一歩手前でね」
 記憶が混乱する中、思い出せるのは悲しそうな五代の顔だった。
「ご、五代さんは!?」
「彼は、無事よ」
 コポコポ、とカップにカモミール茶を注ぎ、響子に勧める。
「後々のこともあるから先に戻ってもらったわ。長屋の方々も心配でしょうから」
「そう、ですか」
「無茶が過ぎますよ、あなたらしくないわ」
「でも、私は」
「あなたが決めたとき、それはあなた一人だけだった。
 だけど、今は、貴方は独りではないでしょう。
 皆を、五代さんを哀しませてしまってもいいの?
 筋肉増強剤まで使って無理までして、それでいいの」
 ミレイの言葉に涕が溢れ出す響子。
「あなたらしいわね、ほんとに」
 響子の涕を拭い、ベッド脇に食膳を置いて、
「食べられるだけ食べて、まずは落ち着きなさい。
 そして、明日、一刻堂に帰れるわね。
 夜になるけれど送るから、それまでに後のことも考えてね。
 そして、私達に任せて頂けないかしら」
 張り詰めていた緊張の糸がほぐれたかのように泣き続ける響子だった。

 一刻堂長屋。
 棟割長屋の一つだが、大火の立替で大きめに作られていた店子を改築したもので大通りから一つ
入った路地に作られている。旧い二階建ての家屋で部屋は八室。
 響子が住む大家の部屋割りは三部屋在り、診療を行う通りに面した部屋と居間、そして寝室。
小さいながら庭もある。その庭の水桶に廿六夜(いざよい)月が映える。
 障子を開けて縁側に座り込み、眼を伏せる響子。
 秋の鈴虫達が鳴いている。
 通り雨で濡れた植木が葉の匂いを夏を惜しむように漂わせている。
「あともう少しなのに…」
 住人達は秋を迎える祭りに出掛けていて未だ帰ってきていなかった。
「まるで今の私みたいね」
 人気の無い長屋に帰ってきた響子。
 ここに来てもう六年が経っていた。
 大病が流行り忙しかった。怪我人を、病に臥せった人を何人診てきただろうか。
 私には遣る事が沢山有って、長屋の住人達は変わり者ばかりだけど愉しい、そして大切な事も
大切な人も数多く出会ってきたと思える。
「だから、私は、護りたいのよ」
 ミレイの前で思いを吐露する響子。
 全てを知っていて且つ見守ってくれていたミレイ達にこれ以上迷惑は懸けたくない、だが
「あなたはあなたが遣るべきことを、あなたにしか出来ないことを、あなたが十分遣ったと思うまで
遣りなさい、でもね、響子、人は全てを背負って生きては行けるものでもないよ。
 闇夜の銀は、もうお止めなさい。
 これからは私達の仕事よ」
「でも、そんな事をしたらシェン・ヅー様ともども御二人は日本に居られなくなりまする」
「響子さん、あなたが遣るべきことを止めなさい、と云ってはいないんだよ、私達はね。
 私達が遣らなければ為らない事をするだけ、と云っているのさ」
 シェン・ヅーが飲んでいた紅茶を皿に置いて言葉を繋いだ。
「あなたはあの町には必要なのですよ」
 ミレイ、シェン・ヅーの言葉を反芻し、逡巡する響子。
「響子さん」
 庭の竹柵の前に五代が立っていた。
「ご、ごだぁい、さ…ん…、わたし、わた…し…」
 唇を噛み、下を向く響子。
 ゆっくりと響子の隣に座り、
「何も云わなくていいですよ。
 傷は未だ痛みますか? 月が綺麗ですね」
 そっと、響子の手の上に自分の手を重ね、
「響子さん、話を聞いてくれませんか、そして、響子さんのこと、話して欲しい」
「……」
「何が響子さんをあそこまで駆り立てるのか、それを知りたいんです。
 僕に出きることは少しかもしれないけれど、このままじゃ駄目ですよ、
 僕にもあなたの苦しみやかなしみを分けて欲しい。
 そして、僕はあなたに幸せを分けたい」

「あの二人、うまくいっているかな?」
「うまくいくのではなくて?!」
 湯奴を頬張りながら、手元に焼き魚の皿を引き寄せるシェン・ヅー。
 机には江戸の料理本の『豆腐百珍余禄』『鯛百珍料理秘密箱『諸国名産大根料理秘伝抄』
『万宝料理秘密箱 前編』、八百善の『江戸流行 料理通』が並べられている。
 箸を手馴れた手付きで豆腐を掬い、薬味の葱と生姜をかけてすくっと口に運ぶ。
 洗いざらしの綿シャツを着ただけで初秋の夜風が心地良い。
「それと、何かしているでしょう」
「何って何? シェン」
「いや、何の仕立てをしているのかなって、ね」
「判る?!」
「判るさ」
「そういうことよ」
「そう、そうゆうことね」
 カチ、カチ、カチ、と機械式置時計が歯車の音を発てながら時を刻んでいく。
 同じように響子の部屋の機械式和時計も針を進ませていた。

 禄の巻「破邪当来」に続く


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