一刻堂草子

    四の巻「泗水酩酊」


「三鷹殿、昨晩の小隈屋の一件、聞きましたか」
「はい、先程与力殿より伺い候。乱闘首尾有りとのこと」
「有無、乱闘の最中に洋式拳銃が使われたとも聞いている。
 これからは町奉行の手に負えなくなるやもしれぬ。
 昨今、志士を標榜する輩と浪士達の狼藉が江戸にも及び、人誅と称する人切り、押し込み、火付けが
後を絶たぬ」
 実際、尊皇攘夷を唱える外様藩の浪士と思しき連中が江戸の治安を悪化させており、
「もしや、闇夜の銀の所行に絡んでいるのではありませうか」
「狙われた店子を吟味せねば為らぬな、商いの中身もな」
「はい、無為とは思えぬ故、慎重に吟味致し候」
 早速、今までの調書を最初から読み直し、日時や場所、店子の位置関係を洗い直す三鷹であった。

 大川界隈両国橋近くの広小路。
 肉体労働者達がちょいと腹の足しに喰らう様々な屋台が引も切らずに立ち並んでいる。
 威勢のいい声が闊歩し、揚げ立ての魚の香ばしい匂いや醤油だれの焦げる匂いが食欲をそそる。
 床を橋の袂まで並べて職人達が整髪や研ぎ、草履の修理や煙草を商んでいる。
 残暑を惜しむように桶に水撒きの穴を開けて二つ、竿に通して担ぎ、路地を濡らす半裸の男。
 団扇で焜炉を仰ぎながら鉢巻きを汗びっしょりにしている売り子。
 総菜に切り野菜に江戸前魚にえびのむき身の棒手振りが往来を絶え間なく行き交っている。
 幕末間近と云えども大江戸八百八町、賑わう様に変わりはない。

「で、どうだった」
 背中合わせに座った五代が坂本に小声で問いかける。
「奇怪なる黒男が最近、江戸に跋扈しているのは間違いなさそうだ。
 だがよ、足取りを追っていたら子飼いの輩がもう三人やられた」
「三人もか、で、場所は?」
 声が大きくなるのを抑え、周囲を注意深く伺い、
「神奈川近くまで痕を附けれたのがせめてもの救いよ」
「やはりな、亜米利加の大店が夜な夜な人入りが多いらしい」
 目元は二人とも笑いながら団子を頬張っているが、
「気を付けろよ、近くには佐賀藩の定宿もある。面倒なことに巻き込まれるなよ」
「ああ、解っているさ」
「それと、今朝聞いた内々の情報だ」
「どういう話だ」
「京都の志士と浪士の抗争がまた火を吹き返しそうだ、人死にも連夜よ」
「そうか」
 
 日は遡り、シェン・ヅー邸訪問(神奈川行)から六日目。
 処暑の頃、大川沿い、両国橋近くの縁日や出店、屋台や床で賑わう中を歩く五代と梢。
 将軍上洛のため、政治の表舞台が京都と二分、いやむしろ京都が権謀術数の中心になりつつある昨今、
駆け引きの掃き溜めに江戸の町が使われているのかもしれない。
 人々の喧噪が溢れ、庶民の活気だけは変わらない町の様子を眺めながら梢が呟いた。
 少し離れた寺社の境内。
「五代さん、大切な話なの」
 いつになく神妙な面もちで話す梢。
「実はね、縁談話があるの。それで、前々から聞きたいことがあって、この際、はっきりと
 五代さんから聞いたら踏ん切りが着くと思うの」
「…」
「縁談って、もう決まっているの」
「相手の人がね、京都に行くことになったの。それで、日取りを早めようって」
「そう…」
「五代さん、好きな人、居るの?」
 家の都合もあり、内々で話は進められていたらしい。
 今まで黙っていたことに責任を感じているのか、それとも別れの辞世なのか。
「…、うん、居るよ」
「その人と、その人と祝言、上げるの?」
「上げたいと思っている…」
「そう、じゃあ、やっぱり五代さんの好きな人って――」
 ごぉおおおおおん、と時を告げる鐘の音が響き渡る。
 晩夏の夕時雨が今にも来そうな空模様の下で蝉の啼き声だけが染み渡っていく。
「じゃあ、さよなら、五代さん」
 過ぎ去りし日、京都に行った梢は無事なのであろうか、そう思わずにはいられない五代だった。

 陰暦八月節、白露の頃(陽暦九月八日頃)。
 神奈川に入港する貿易船から独逸の医薬品が届くと三友屋から報せを受けた響子は翌日、五代を伴って
神奈川に出向いた。そして、いつものようにシェン・ヅー邸を訪れていた。
 現在の一〇時過ぎ、停泊する蒸気船の間を進む手漕ぎ船が一艘。
 午後、入港した大型船の手前で櫓を止めて静かに投錨された傍まで惰性で近づいていく。
「では、お気を付けて」
 黒装束の男に背中で頷き、錨を降ろした太い鎖伝いに船首へと登る闇夜の銀。
 泳いで船に忍び込んだとしても、濡れた服では夏と云えど体温を奪い、重くなり動きに制約を付ける。
侵入前には服を濡らすわけにはいかないのだ。
 甲板に辿り着くと油紙に包んだ革袋を4つ取り出し、匕首(あいくち)で斜めに刺し振る。
 頃合いを見計らい、甲板を船尾方向に足音を起てずにすすすっ、と進ませる。
 上陸したとはいえ、船乗りが何人かは残っている。
 船室の扉を空かして革袋をそれぞれの扉の向こうに投げ入れる。
 待つこと数分。
 眠り薬が気化し、充満しているはずだ。
 洩れてきていた音が静かになった。寝入ったようである。
 注意深く船室に忍び込むと幸いにも船乗りは夜警の数人だけらしい。
 船腹の貨物室に入り、積み荷を丹念に調べ出す。
 幾重にも重ねられた麻袋の一つに匕首を差し込み、中身を吟味する。更に小袋が中に詰められている。
 その一つを取り出し、封を切り、中身を見てみると
「やはり、これもその一つなのね」
 不意に人の近づく気配がする。
 天井の荷出し口めがけて駆け上がり、マストの一つに身を隠そうとした瞬間、闇夜の銀が光に包まれた。

「茶番はこれまでだ」
 天狗の面を着けた、幅広い黒マントの巨漢が探照灯の奧に聳えるように立っている。
 その周囲に闇夜の銀を捕縛しようと群がる者共もベネチアの仮面を着けているものばかりだ。
 麻縄を鞭のように揮い、仮面の手下共を寄せ付けないように船首へと向かう闇夜の銀。
 ビシッ、としばかれた男に蹴りを入れ、肘打ち、掌底突きを喰らわせて次第に船首に近づいていく。
「ふんっ」
 ジャンプした天狗男がドスドスと甲板に音を打ち付けながら青龍刀を振りかざし、斬りつけてくる。
 くるりと身を翻し宙返りをして切っ先を避け、回し蹴りを入れる。
 天狗男もすんでの所で身をかわし、ぶんぶんと青龍刀を振り回してくる。
 匕首だけでは重い青龍刀を受け流すのは難しい。
 間合いを詰められ、踏み込まれる寸前、パン、パン、パン、と銃声が轟き、二人の間の甲板に穴を穿つ。
「何奴!?」
 マストから帆を止めるロープを切り放してぶら下がり、勢いに任せて突っ込んでくる影が一つ。
「邪魔だっ」
 全体重を乗せて天狗男に蹴り込み、吹っ飛ばし、余勢で仮面男を数人、薙ぎ倒していく。
 返す勢いで闇夜の銀の腰を脇に抱え、船首に飛び移ろうとする。
 意外に華奢な腰回りに柔らかい肉付き。
 船首に足が届こうかとした時、バンッ、と銃声が轟き、闇夜の銀と風祭の狐は手前に落っこちてしまう。
「痛ててててって、どこ触ってんだい」
 崩れた体勢で胸を掴んでいた風祭の狐の手を闇夜の銀が払いのける。
 さらしを巻いているが柔らかな感触、女の乳房である。
「まったく無茶が過ぎますよ」
「貴方にそんな風に言われたくありませんわわ、ねえや」
 聞き流しながら天狗男を狙いピースメーカーを続けて連射する。
 天狗男の銃を弾き飛ばし、仮面の男の顔面を射抜く。
 咄嗟に予備の弾を二発足し込む。
 シングルアクションのピースメーカーではシリンダーバレルが固定なので全弾の一斉交換は出来ない。
 ハンマーをコックし、ノッチを回して構え直し、慎重に天狗男に狙いを着ける。
 ドン、ドン、と撃たれた銃弾が天狗男の右胸と額に命中した。
 ゆっくりと倒れる天狗男。
「さあ、ひとまず退こう」
 鎮圧したとはいえこの騒動である、周囲に停泊する船から夜警が来るかもしれない。
 船首脇に止めた小舟に飛び降りようと立ち上がり、下を覗き込んだ時、闇夜の銀は後ろを振り返った。
 その眼に映った物、それはむくりと人形のように立ち上がる天狗男の姿である。
 おもむろに左腕を右手で引き千切り、五連装の銃口を覗かせる。
 撃たれる!
「除けてっ! 五代さん!」
 闇夜の銀が庇うように風祭の狐の背中を塞ごうと動いたと同時に奇妙な破裂が轟いた。
 全ての動きが緩慢になったように思われた。
 闇夜の銀の身体を銃弾が貫き、布切れと血潮が飛び散っていく。
 頬を掠めた銃弾で狐の面が割れて落ちていく、ゆっくりと。
 ゆっくりと闇夜の銀の頬被りが破け、長い髪が広がって、倒れていく闇夜の銀、いや、響子の身体。
「響子さんっ!」
 みるみる血が流れ広がっていく。
「−っ、ご、ごっだ、さっ」
 激痛と薄れゆく意識の中で呼び掛ける声の向こうに五代の顔が見えたかもしれない、きっとそうだ。
 その思いを最後に響子の世界は暗闇に閉ざされた。

 壊れた人形のようにぎごちない動きでガサガサと近付いてくる天狗男。
 残弾は無く、入替える時間も無い。
 一人ならば脱出できようが、重症の響子を残しては行けない。
「万事休す、か…」
 ポツリと呟く間もなく、ギュィ―――――ッン、と音が近付いてきた瞬間、ババババッババ、と
炸裂音と白い闇が周囲を包み込んでいく。
 鈍い衝撃と宙に浮く感触、不安定な足場に落ちたような平衡感覚、潮の匂い…。
 瞼を開けてみると響子と五代はシェン・ヅーの両脇に抱えられていた。
 二人とも海上を疾走する快速艇の船上に居るのだ。
 操舵するのはミレイ、脇には黒装束の例の男が居る。
 天狗男達は全て身体を折られていたが、そこからはカラクリ仕掛けが露出していた。
 助け出す瞬間、全てシェン・ヅーが破壊したのだ。
 壊れた天狗男の口許がカタカタと動き、
「やはりニアブとマーリンは呱々にも居たか、クカカカカカカァ」

 伍の巻「屠蘇と茜の婆娑」に続く


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