一刻堂草子
クリミア戦争末期:戦場近くの館内。
ガス燈の仄かな揺らめきに伸びる影が三本。
「時は非情、闇は無常、五常の有るところに吾は現れり」
カラクリ人形の面を着けたシルクハットに黒マントの居丈高の男がステッキを揮う。
当て身を食らったシェン・ヅーが壁に叩き付けられる。
「あなた!!」
ミレイがその男の脇腹に廻し蹴りを射そうとするが身を軽やかに翻した後の影につま先が空を切る。
「ふはははははははははははははっ」
ミレイの後を獲り、力一杯蹴り飛ばし、シェン・ヅーの横壁に撃ち付けられる。
「ふははははははははははははは」
激痛を堪えながら立ち上がる二人を後に高笑いを残して、その男は消え去って行った。
「ふはははははははははははははっ」
夕立が神奈川(横浜)の夏の夕暮を洗い流して行く。
洋館の窓辺で外を見下ろす、カラクリ面の男。
背後には般若の面をつけた男達4人が控えている。
「五常の流れるままに、この国にも多くの人死にが巻き起こる、ふはははは」
同刻、邸宅内のミレイとシェン・ヅー。
ガラス窓を流れる雨筋を通して毅然とした表情をしていた。
参の巻「砲雷一閃」
1864年(元冶元年)、禁門の変。
蛤御門の変、元冶の変とも云われる。
前年(文久三年)八月の政変で京都を追われた長州藩は、勢力回復を企図し、三人の家老が兵を率いて
上京し、七月一九日、蛤御門、堺町御門などで、会津、桑名、薩摩の藩兵と戦った。そして、敗北。
この会戦で京都は大火となり二万余の家屋が焼失。
これにより幕府による長州征伐が始まった。第一次長州征伐である。
「はいはいな、号外だよ、号外だよ!
闇夜の銀、昨晩も現れたよ、これで8軒目だ!
詳しくはこいつに載っている、さああ、買っておくれな」
と、瓦版屋がそれぞれの床を出して売り子が声を張上げる。
「ほおお、今回も店子の衆よろず眠らせて大旦那の金子も盗らずに小物を盗んだだけかい」
「攘夷、攘夷と煩い輩の傍若無人が巷で広がっているそうじゃないか、京都は長州と会津の私兵同志が
殺し合っているらしいよ」
「江戸でも徒党を組んだ浪士が攘夷を唱えて闇討ちをしているらしい」
「大家さん、昨日も忙しかったのに今朝も早いねえ」
朱美が2階の自室の障子を開けて井戸から水を汲む響子に挨拶を掛ける。
長屋と聞けば平屋長屋を思い浮かべるであろうが、二階建ても多いのである。
場末の下町でなければ、裏店(うらだな)の長屋に二階建てがあった。
「朱美さん、お早う御座います」
「響子さん、おはようございます」
五代も障子を開けて眠い目のままで挨拶をかける。
「今日も往診はするのかい!?」
一ノ瀬が朝食の準備をしながら台所から話かける。
米代がここ二年で高騰し、白米を炊く割合が減っていたので粟の量が増えてきていた。
「いえ、今日は休みます。
ここ数日、ろくに掃除もしていないので片付けをしようかと。
それに薬の整理も必要ですし、調剤もいたしませんと」
「そうかい、じゃあ、今日は梢ちゃんは来ないのかい、じゃあ静だねえ」
汲んだ水桶で五代が顔を洗い、手拭で顔を拭いていると
「あ、あの、五代さん、昨日頂いた漬物がまだありますので、朝食、一緒に如何ですか」
「あ、いや、そんな気を遣って頂かなくても」
「いえ、そんなことは、ちょっと作り過ぎたので。嫌ですか?」
「嫌だなんて、じゃあ、御相伴に預からせて頂きます」
部屋に入る二人。
入れ違いに井戸前に出てくる一ノ瀬、朱美と四谷。
「なんかさ、わざとらしくない、大家さん」
「そうだねえ、神奈川から帰ってきて以来、二人ともギクシャクしている気がするね」
「何かあったのでしょうかねえ、二人に」
「少なくともぬるま湯のままにいられなくなったんじゃない」
「じゃあ、ケリをつけたのでしょうかねえ、二人(梢といぶき)と」
「さあ、どうかねえ、少なくとも三鷹さんとの決着が先じゃない」
ある夜の丑三の刻。
下弦の月が東の空に昇る頃、屋根伝いに疾駆する影一つ。
黒装束に頬被りをした小柄な影が軽々と軒を越えていく。
僅かな足音のみを残し、軽々と屋根から屋根へと飛び移っていく。
そして、とある大店屋敷の土蔵の前に降り立った。
土蔵横の壁際の隠し扉を開けて大旦那の部屋へと入っていく。
出口は掛け軸の裏だった。
眠り薬が効いているのか、店子の衆は熟睡している。
ゆっくりと襖を開け、隣部屋に向かう。
書斎と思しき部屋、そこの棚に奇妙な置物があった。
一見何の変哲もない小物だが、それこそ、闇夜の銀が狙う獲物である。
慎重に置物を取り、底蓋を開けて摘みを回した。
『これで11個め、残りは4つ』
小物を懐にしまい、障子を開けて縁側から退避しようと縁台に足を延ばした。
その時、ミシッ、カササッ、ギギッ、と人の動く気配がする。
息を殺して周囲を伺うと屋敷内から異様な目つきの店子達がまるで人形のような動きできている。
『眠り薬が効いていない!?』
逡巡の一拍が警戒を鈍らせる。
殺気を感じ、身を捻り横転をかけると鋭利な光が元の場所を通過した。
「これ以上の邪魔だては無用、死んで貰おう」
黒マントに般若の面を着けた痩身の大男がサーベルを正剣に構える。
バサッツ、バサッツ、と空を切る音をたてながら闇夜の銀を追いつめていく。
店子達を眠らせてから進入するために武器は持っていない。土蔵際まで躙り寄られてもう、後が無い。
一寸の隙を衝いて飛び上がるか? 土蔵の屋根が高い、飛べるか?
突きが来た!
僅かな間合いを縫って飛び上がり、屋根の縁を掴んで塀側にジャンプする。
着地の体勢が狙われる!
やられる! そう思った刹那、一発の銃声が轟いた。
振り向くと般若の男のサーベルが柄の先で折られていた。「ちっ!」
その隙に闇夜の銀は夜蔭に乗じて消え去っていった。
「まあ、よい。次の手をもう講じてあるからな。
それに仲間が未だいるのか、興であるな、ふはははは」
船着き場に小舟が一艘。
人が来る気配を察すると筵をとって黒装束の男が姿を現した。
「如何為されましたか、遅かったようですが」
「どうやら黒幕の輩の一人が動き出したらしい、眠り薬でも効かない暗示を与えていたんだ」
「左様で御座りまするか、では、これから本腰を入れてかからねば」
「嗚呼、これまで以上に小心にせねば」
深川方面に消え去った小舟を見送る人影が柳の向こうにあった。
風祭りの狐である。
懐に忍ばせた右手には回転式拳銃、虎瑠斗・比射巣命架(コルト・ピースメーカー)が握られていた。
「もしかしたら、闇夜の銀は…かもな」
いつものように食事処、茶々丸で宴会を開いている一刻堂の面々。
食卓脇には日本酒の「男山」「七つ梅」「花筏」「八重桜」(いずれも伊丹物)が並び、食膳類では
八杯豆腐、こぶあぶらげ、芝えびからいり、はすの木の芽あえ、わかめのぬた、ちらしに、にぎり寿司、
鯵や真鯖の焼きもの、すり身の天麩羅が並べられている。
「どしたのっ? 大家さん、愉しまなきゃあ駄目よん」
「そうそう、若いっ娘は若いっ娘は肌が違う」
「ちゃかぽこ、ちゃかぽこ、わはははっ!」
いつものように勝手に盛り上がる朱美に四谷に一ノ瀬。
半分思いつめたような表情の響子。
物思いに耽っている感もある。
五代が気に留めたように
「どうしたんですか、響子さん。
何だか最近、元気が無いようですが…」
「…ん、ううん、ちょっとだけ、でも、なんでもない、大丈夫ですわ」
「そう、ですか、それなら、いいんですが」
思い当たる節でも在るのか、目を一度瞑り、数秒後にゆっくりと瞼を開けた。
五代の思いを、自らの思いを打ち消すかのように心の奥で反芻する響子。
突然、茶々丸の中に三鷹が駆け込んできた。
「先ほど、風祭の狐が出た。
こちらに向かって消えたそうだが、変わったことは無かったか?」
「六の刻からここで愉しんでいるけれど、知らないわね」
一ノ瀬が真顔で返答する。
ほんの少しの静寂が開けられた障子戸から部屋の中に紛れこむ揚げ物と蒲焼の匂いを強調する。
三鷹の腹の虫が鳴り、沈黙を破った。
「うう、腹が少々、減っては役目に支障が出るからのう、相伴致すぞ」
と、皿に盛られた掻揚げの芝えびをばしっと掴み頬張った。
「あ、ひどおぉぉい」
朱美が笑いながら抗議を上げるが
「美味いもにも武士も町人もないでな、位高き御仁ではこうは参らぬからな」
などと本音を漏らし、「武士は食わねど高楊枝」が上級武士や過去の時勢を自ら示す。
実際、天保以降に江戸庶民の味は豪華に花開き、醤油や砂糖の一般化に伴い、味わいを潤ませて
いたのである。
「それで三鷹ど〜の〜、風祭の狐は如何為されるですかん」
「そう、そうであった」
油で濡れた手を袖口で拭き取り、
「これまでの出くわす目抜きに配下の者を置いて改めておるところの裏をかかれてしまった。
後姿を見かけた棒手振りに訊いたところ、この界隈に忍んだらいしいのでな」
店内を見まわすが、そこにはいつもの一刻堂の面々や近所の店子や丁稚達ばかりである。
『もしかしたら、と思っていたけれど“風祭の狐”って五代さんじゃなかったんだ』
響子の胸中を知らずか、三鷹と呑み比べを始める五代だった。