一刻堂草子

 弐の巻「一朝一夕」


 食事処、茶々丸で宴会を開く一刻堂の住人達。
 江戸は人口もさることながら単身者や商いを営む大店への奉公人や江戸駐在の藩主に仕官する武士などに
より単身者の割合は今以上に高かった。まして貯蔵施設としての冷蔵庫や冷凍庫など存在しない時代では干
物以外に保存できる食物は少なく、いきおい海産物は近海物(つまり、江戸前)や武蔵野の野菜(山手線外
側を武蔵野と考えて差し支えない)を食することになる。
 瓶詰めや缶詰の無い時代である。しかし、瓶詰めが出来上がった歴史から江戸末期に瓶詰めが舶来したと
考えられるが傍証は少ない。保存食といえば薫製や瓶(かめ)に漬け込んだものが一般的であろう。
「あ〜、ちゃかぽこ、ちゃっかぽこ」
「はいはい、みんな呑んで呑んで」
 升酒が次々と注がれ、店屋ものが座敷に所狭しと並べられる。
 簡素とはいえど煮物、焼き物は味付けが工夫されており、醤油は勿論、野田ものである。
 またこの時代、菜種油による揚げ物を庶民が口に出来たか詳細は不明だが、ここでは大政奉還を数年後に
控えた御時世故に高級料理として天麩羅が一般化していたとする。
「ささ、五代殿もぐぐ、ぐぐーっ、と呑んで呑んで」
 四谷がお銚子を銜えた徳利に乗せて踊り出している。
「はいはい、大家さんも今宵は遠慮なさらず開襟よき時をね」
 朱美が丼に大盛りの穴子丼を膳の上にそつなく並べていく。断っておくが朱美は飯盛り女ではない。
「存分に愉しきことですわ、でも明日は朝早いのでお酒はちょっと」
「あらぁ、どこか出かけるのかい」
「はい、メリケンの貿易で薬を扱う店子が神奈川にあるらしいので、調達に出向きたいと」
「大家さん、ひとりで?」
「いえ、五代さんに同行して頂くので」
 皆が僅かの沈黙にすかさず
「はあい、あたいも行きまあす」
 と梢が一ノ瀬達の思惑を余所に無邪気に披露する。
「それに三友屋の八神殿も一緒ですよ」
 と五代が説明する間もなく、
「惜しいねえ、五代君」
「そうは問屋が卸さない、いや、今回は卸すんですかね、はぁーつは、っは、は、っはぁ」
 四谷、朱美、一ノ瀬がまたもや五代をからかう。
「五代先生」
 八神いぶきが不敵な目線を響子に投げつけ、五代にすり寄るので、五代はいぶきと響子に挟まれる
格好となった。
「実は、あたしもお父様に連れ立って神奈川に行くの」
「ぬぁあぅにぃぃ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、年頃の娘を連れ歩くのは危ない」
「あらあ、そこはぬかりないわ、同心の三鷹殿に話したら、異人の風情を是非知りたい機会だから、
 一緒に神奈川まで同行して下さると仰っていましたわ」
 皆の見えぬ陰で響子が五代の脇腹を何を思ったのか、力一杯に抓る。
「あちちちちちっちっちぃ」
 口に含んだ湯豆腐が熱いと素っ頓狂な声を上げたが、五代も響子も内心は別だった。
『仕事がし辛くなった』−と。

 翌朝、今の午前7時過ぎ。
 江戸の町は早い。
 泊まりとはいえ手荷物を風呂敷に包んだだけで二人は一刻堂を後にした。
 途中、梢と落ち合い、ついで八神番頭の計らいで船で田町近くまで距離を稼いだ。
 三鷹が合流したのは品川宿である。
 この時代、船で神奈川まで行こうとも思えば行けるのだが、実際には陸路が中心であった。
 一行は翌日、(川崎)大師に寄ったあとの行程を決め、早めに床に就いた。

 翌午後2時過ぎ、響子達一行は神奈川に到着した。
 そこでまず医薬品を扱う店子に赴き、三友屋番頭である八神の介添えにより買い付けの交渉が行われた。
無論、その中に西洋科学・医学の反映を受けた医薬品が種々合ったが、薬剤の進歩を促すのは環境であり、
東洋医学を中心とする世間故に量も種類もまだ少なかった。
 買い付けた医薬品といっても実際の量自体は手籠に入るぐらいでしかなかった。
 一行は異人達が闊歩する神奈川の物見遊山に繰り出すこととした。

「うわあぁ、おおっきい船ね、五代さん」
 神奈川港沖には何隻もの蒸気帆船が投錨し、帆先を休めていた。
 眺めるだけとはいえ、江戸の船とは比べられない大きさであることには変わりがなかった。
 もっとも、大きいといっても排水量が4千tにも満たない船が中心であったので現在から見れば小さく
感じるかもしれない。
「黒船とはいえ、あのような大きさ、煙を掃き海原を渡るとは侮り難し。
 人足(註:船乗りのこと)達の人相も厳つく荒くれ者の風情じゃ、これは如何ともしがたし」
 三鷹は役人の目で港町の様子を観察し、番頭の八神は
「ふむ、貿易を盛んにするには今の江戸と神奈川では手間が掛かりすぎる。
 大八車では量が少しだけだ。やはり、先ほどの店子から伺った”ろこもしおん”なる役(えき)が所望
されるのう、艘を大きくするのもそうだが、要は一刻の内に運ぶことだな」と商人の目で分析する。
 そんな真顔の二人を別として、梢もいぶきも五代にまとわり付くように無邪気に異国風の白壁の建物や
煉瓦、硝子窓やアールデコ模様の格子、服装に目を見張っていた。
 五代から一歩下がって歩く響子もいつになく心愉しかった。
「ハイハイ、ツメタイ、オイシイ、アイスクリンダヨ、タベテミテオクンナセイ」
 と奇妙な日本語で捲し立てる売り子の声がしてきた。
「五代先生、なにかしら」
「ああ、あれはね、アイスクリンていう氷菓子なんだよ」
「異国の暑気払いの菓子らしくてよ」
 響子の相槌が気にくわないいぶきだが、梢と共に年頃の身故に甘み処と聞いて浮かれ立つようになる。
「ハイハイ、ツメタクテ、アマクテ、オシシイヨ」
「4つばかし、下さいな」
 五代の注文を聞いて一人の女性が奧から出てきた。
「いらっしゃいませ」
 流暢な日本語を話す女性の顔を見た響子は思わず目を丸め、声を上げてしまった。
「ミレイ様!!」

 近くで異国の女性を見るのが始めてなのであろうか、響子以外の5人の視線はミレイに釘付けになった。
 幾重にも折り重なられたドレープのたゆたう絹のウィンブルから覗く髪の毛は金色に光り輝き、緋色の
瞳は深い慎みを湛えていた。首筋に廻されたショールにも幾重ものドレープが附けられており、膨らんだ
両肩にカフス尽きの袖、ふんだんにフリルが装飾されているがアウター自体は薄手の生地でありインナー
にこれでもかとレースが施されて、うっすらと表から透けて見えるようにしている。勿論、タイツも意地で
附けたとしか思えない量のレースがスカート下から覗くが五代達は気づかない。
 三鷹より拳一つ低い背丈であり、エプロンをしていることで身体のラインにフィットし強調されるので
着物主体の生活様式しか知らない五代達には“まほろば”の女人を見ている気すら起こさせた。
 響子とミレイの会話から、亡くなった音無医師(響子の夫)と共に欧式の医学を学んだ時の知り合いと
五代は聞かされた。
 ペリーの来航から既に10年の時が経っていた。
 寒村でしかなかった、だが、決して貧しい村などではなく、川崎の次の宿場であり、船着場でもあった
ことから幕末には現在の横浜の基盤は既に貿易の拠点としての活況を呈し出していた。
 神奈川の状況を見たとき、三鷹は攘夷が無謀であり、徒労に過ぎないことを一目で悟った。
 梢は興味と怯えが合い混じり、いぶきは興味が先行した。

 響子達はミレイの勧めも有って夕食を馳走になることになった。
 別段この頃であれば外国人の住む館に出入りするのは不思議ではなく、職制の区分けが厳しい武家社会
といえど同心でしかない三鷹が神奈川で半ば公務的言質で体面を示すことは出来たのである。
 攘夷論が高まりの後に英吉利海軍との戦争で圧倒的な敗北を喫して以来、武家社会の武威は急速に庶民
層から失われていき、港の控える地域においては進取の気風が次第に育まれてきていた。
 それ故、大目に見てもらいながら、響子達は三鷹が同席することで事無きを得ていたのである。
 座敷とは違い、19世紀後期の調度品に統一され、ランプが煌煌と部屋の中を照らし出す。
 高い天井、華奢でありながら巧みな曲線の彫刻が施されたイギリス調のダイニングテーブルに椅子。
 ウェッジウッドの磁器に銀食器の数々。
 行燈の臭いとは異なる燭台の蝋燭の焼ける臭い。
 ただただ、見知らぬ世界の食卓情景に梢といぶきは嘆息を上げ続けていた。
 対して八神番頭と同心三鷹は、知識として捉え、しきりにミレイとシェン・ヅーに質問を繰返す。
 給仕達が恭しく料理を次々と運び並べる。
 勿論、二人のささやかな邸宅なので三鷹達にとって豪華に思えても、ミレイにすれば自慢の家庭料理を
振舞っているのに過ぎなかった。
「椀の汁は蓮華みたいなので掬うのね」
「でも少ししか掬えないわ」
「珍冒なる風合いであるな」
「響子殿は失礼だが、(料理の)手合いも(医学の)入門時に会得されたのかな」
「住み込みでしたので、習い憶えましたが今ほど幸に恵まれないのでさわり程度ですわ、八神様」
「いやあ、でも響子さんの手料理は美味しいから機会が有れば食べて見たいな」
 ふと漏らした五代の言葉が響子には嬉しい。
「お味は如何為されましたか」
 調理を終え、正装に着替えたミレイとシェン・ヅーがカレーのスパイスを効かせた黒鯛のムニエルを
皆に勧める。貴重な白ワインも高価な仏蘭西物である。
「やはりミレイ様の料理は美味しいですわ」
「有難う、響子さん。仕事も無事息災ですか」
「はい、万事事無きに候」
「一緒の五代さんとは祝言を何時挙げたのですか?」
 響子が未亡人であることはミレイもシェン・ヅーも既知である。二人の仲を察して口を切ったのであろ
うが、返事は梢といぶきと三鷹が同時にフォークを皿にガチャリと打ちつけた事で無くなってしまった。
 テーブル下でミレイのつま先が夫の脹脛を直撃する。
 一転して和やかな雰囲気から異様な場が発ち込めたが、給仕が珈琲とケーキを運んできたので響子と
五代はホントの事を話す状況から脱出することが出来た。
「あ、あのこの飲み物は、な、なな、なんていう飲み物ですか?」
 話題を切り替えようと焦る気持ちで呂律が回らない五代。
「カフィ、という豆を煎じて砕いた殻に湯を通した飲み物です」
「煎茶、と同じような飲み物と考えて頂いて結構ですわ」
 啜りながら苦味に顔を顰める梢といぶき。
 三鷹と八神番頭は気に入ったようだが、逆に洋梨のタルトに顔を顰める。
 開け放たれた窓から涼しげな風が入ってくる。
 居間に飾られた写真盾や調宅品をあれやこれやと聞き入る三鷹と八神。
 二人の旺盛な好奇心に対してはシェン・ヅーが出きるだけ判りやすく解説を行い、梢達は響子を介して
ミレイに様様な異国情緒を質問し、そんな皆を諦観した眼差しで眺める五代であった。

 旧交を温める為であろうかミレイはしきりに響子に泊っていくよう勧め、また五代達も旅篭が近いこと
から遠慮は要らないと促した。
 そして、五代達が旅篭で夜遅くまで宴会を続けていた頃、客間で寝入っていた響子の姿が消え、酒宴に
潰れた三鷹の前からも五代の姿が消えていた。

 参の巻「砲雷一閃」に続く


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