一刻堂草子


ペリー来航以来、徳川幕藩体勢は尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、新時代を向かえようと様様な思いのうねりが太平の世に慣れ親しんだ日本を掻き回そうとしていた。
 1854年(安政1年) 日米和親条約
 1857年(安政4年) 下田条約
 1858年(安政5年) 安政の大獄
 1860年(万延1年) 桜田門外の変
 1862年(文久2年) 坂下門外の変。寺田屋事件。生麦事件
 1863年(文久3年) 薩英戦争。
舞台はそんな激動に翻弄された江戸の町のとある長屋から始まる。


壱の巻:快刀乱麻現る

半月の夜、今で云えば午後10時過ぎ。
ピィッー、ピィッー、と笛吹きが乱れ飛び交う、闇夜の町を捕物達が疾駆していた。
「向こうに行ったぞっ!」
「二番体は左から追込め!」
 それらの声をあざ笑うかのように屋根伝いにサササッツ、と走り抜ける影が一つ。
 灯篭が明かりの主体の時代、満月でもなければ黒装束の人影を見上げて追うのは困難だった。
 明かりが無ければ目が慣れるのだが、捕物達が手にする灯り自体が夜を一層、深淵の奥底へと追込んだ。
「ええい、闇夜の銀め、小癪千万。
 それにしても捕物達の不甲斐ないこと、この多勢にて取り逃がすとは」
「三鷹殿、襲われた越前屋は皆、無事でした」
「そうか、この度も眠り薬で事前に眠らせていたか」
 幕末の江戸を騒がす盗人が居た。
 人呼んで「闇夜の銀」。
 既に5つの屋敷に盗み入り、小物を盗んでいたが、盗み入られた者達は誰も何が盗まれたかを明らかには
しなかった。

 翌朝、下町のとある長屋、一刻堂。
 長屋の名の由来は天保年間の頃、南蛮渡来のカラクリ時計がカラクリ職人に持ち込まれたことに始まる。
 時代は移れど、江戸の文化も賑わいも下町が担ってきたことに変わりは無い。
「おはようございます」
「おはよう、響子さん、今日も診療かい?」
「ええ、一ノ瀬さん。
 神奈川の開港以来、貿易が盛んになりましたわ、そして人々の争いも増えました。病も増えました。
 弱き民の力となるには医の道が必要なのです」
「でもさ、近頃のあんたさ、疲れたように見えるよ、大丈夫かい」
 気遣う一ノ瀬に笑顔で返答する響子。
「おはよー」
「あ、おはよう、朱美さん」
「どしたの、大家さん?」
「今日も通いの診療と出向きの準備だよ、なんかわかんないけれど最近、響子さん、気を張り詰めてい
るような感じがするんだよ」
「そうね、夜も遅くまで起きているようだし」
「おはようございます」
「五代君じゃない、今日も寺子屋かい」
 起きてきたばかりの五代が汲んだ桶から水を手桶に移し替えて顔を洗う。
「はい、これからは学問が立身出世の為になります」
「そうだねえ、、異人も増えてきているからねえ、刀だけじゃあ駄目なんだろうね」

 響子が五代に手作りの弁当を渡して見送ったのと入れ違いに同心の三鷹が長屋を訪れた。
「響子殿、近頃巷を騒がしておる“闇夜の銀”を御存知ですかな」
「ええ、捕物達をきりきり舞いさせているとか伺っておりますが」
 大変で御座いますでしょうに、といった素振りで茶を勧める響子。
 響子の皮肉を受け流しながら、
「ところでその“闇夜の銀”なる盗人ですが、盗み入る前に屋敷の者達を眠り薬で動かぬようにして
 気取られる間に盗みを終えておりまする。そこで医の術に学び憶えの有る響子殿に伺いまするが、如何に
して屋敷の者全てに眠り薬を盛ったのか御教授して頂きたい所以、今日、参った次第です」
 三鷹の問いに対し、右人差し指を下唇に当てて考える響子。
「そうですね、汲み置きの水桶に眠り薬を熔けこませておいたのではないでしょうか」
「しかし、それでは宵も耽ぬ間に寝入ってしまうではありませんか」
「そうとは限りませぬ、薄めておけば眠りも浅いでしょうが、夜半に起きることもありますまい」
「そうですか、それは気付きませんでした。
 早速、夕暮時に不審な手合いを見かけなかったか、十手持ちどもに調べさせます」
 云うが早いか、外に待たせておいた岡引を率いて行った。

「しかし、旦那、闇夜の銀もいいですが、風祭の狐は如何なさりますか」
「そうだのお、だが狐の場合には高利貸しの外出時を狙い、昏倒させて奪っておる。
 屋敷ではないので何処に現れるか見当も尽かぬ。狐の面だけではのう」
「わかりやした。早速、手前は奉公人に不審な人相を見かけなかったか訊きこみに周ります」
「頼んだぞ、坂本」

「はい、それでは今日はここまで」
 寺の鐘の音が響き、寺子屋の教えが終了したことを告げる五代。
 障子を開け、次々と習いの子供達が帰って行く。
「五代のあんちゃん、今日も減ったね」
「そうだね、西国(註:この場合、薩摩や長州を指している)で伴天連の黒船にヤラレテ以来、大黒屋
 達(註:ここでは豪商の俗称として用いている)の思案がひっきりなしだ。
 江戸前にも黒船が始終泊っていたのでは神奈川で一儲けぐらい考えるよ」
「あんちゃんは見たこと有るのかい、伴天連は?」
「いやあ、拙者は浪人の身ゆえ、お呼びも掛からんからよく判らん」
「意気地がねえでやんの」
 健太郎が半ば失望の眼差しで乾いた笑いの五代を斜め見た。

 越前屋の旦那の治療から帰り道の響子と手代の梢。
 西の空は茜色に染まり、江戸の町の所々では夕食の準備にとりかかっていた。
 また食事処では香ばしい焼き魚の匂いが暖簾越しに鼻を引き寄せる。
「あ、五代さああぁん」
 診療道具を下げた響子の前を、五代を見つけた梢が手を上げて場所を示す。
「梢ちゃん、帰りかい?」
「ええ、そうなの、五代さんも帰り?」
 響子の手前、梢と親しげに話したがらない五代だが、お構いなしに梢は五代の腕にしがみ付く。
「じゃあ、皆で行きましょう」
 今晩は一刻堂長屋の皆で朱美の働く食事処で宴会を開くのである。
 長屋から二町ばかりの距離なので既に長屋の住人達が集まっていた。
「今晩は!!」
「あ、五代先生!」
「げ、や、八神」
 ぴくぴく、と響子の眉が引き攣った。いい加減はっきりさせなさいからよ、と五代の脇腹を抓った。
「大家さん(未亡人)も今晩は」
 年頃の八神いぶきが挑発する眼差しで微笑んだ。

          弐の巻:「一朝一夕」に続く。


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