02nikki


                      2002年の日記
 
 
 
紅白歌合戦
 しかし、なんと言っても、ツライのは審査員だろう。紅白歌合戦の話だ。ま、出ているほうはいい、それなりに忙しいだろうし時間も経ってゆく。だけど最初から最後まで適当にうなづいたりしながら見通すのはツライだろうなあ。拷問に近いよ、これは。
 いくらギャラが高くてもあれだけはやりたくない。もちろん俺に依頼などくるわけないけど。

12月31日 グランプリ考
 11月4日時点での賞金ランクのベスト9は、山田、松本、村上、小野、神山、岡部、小嶋、山口、小橋。グランプリ終了でも順位に変動はあったがおなじ9人。この9人でやるグランプリを想像してみてください。
 昨年までの選出方法ならこの9人でやれたのだ、昨日のグランプリは。
 ほんとうにもったいないことをしてしまったんだよ、このグランプリポイントという愚作は。

12月30日 鳥肌は立たなかった
 夕闇迫るバンクで、ぼくはこれまで何回グランプリを見たことになるのだろう。すべてを思い出すことは到底できないが、どのレースにおいても大概、鳥肌が立ったのだけは憶えている。周回板の数字が減っていくたびに場内の興奮は上がってゆき、ふっと背骨が動くのである。
 しかし今年のグランプリでぼくの背骨は動かなかった。競走がどうのこうのと言うわけではない。小橋と松本の競りは「いいドラマ」だったし、「競輪らしい競輪」だったと思う。だけど鳥肌は立たなかった。その理由がぼく自身の「内」の問題なのか、それとも「外」にあるのかはわからない。わからないが、ともかく何十年とつづいた、グランプリのときにぼくの背骨を動かしにくる「熱」はことし現われなかったのだ。
 
 いつだったか友人が言った言葉がよみがえる。「あの松本の、「おじさんに夢とロマンを」の垂れ幕はかんべんしてほしい。松本がどうのこうのというのはないよ。だけど俺は松本の競走を見て、ああ俺もがんばろう、何かやらなければ、などと思ったことは一度もないし、そんなものは競輪に求めていない」
 


12月25日 クリスマスなのに職務質問
 「あーちょっといいですか」と制服の警察官。「年末でケンカも多いし、すいませんが荷物など見せてもらえますか」
 「どういうこと、こんな昼間に」
 「いや、まあ、とにかく」
 ぼくは警察が大嫌いだ。もめたい、でも急いでいたし、これからギャンブル場だ。心のうちで、このポリと思いながらも従った。コートーとズボンのポケットあたりを外側からチェック、「鞄も開けてくれますか?」。月刊競輪は出てくるが凶器はない。「いやあお手数かけました、ありがとうございました」
 「あのやっぱりおれの人相が悪いから職質なんですか」
 「いえいえ、あなたケンカ強そうだから」
 「どこがですか」
 三上寛似の警察官、恐るべしだ。

12月23日 「て言うか、座りたいんですけど」
 朝日新聞の読者投稿「声」から、ある会社員(37歳・女性)の一文。
 夕方、仕事帰りの電車でのこと。私の向かい側で、座席に掛けていた40代ぐらいの女性の前に、紺の制服の、小学生らしい男の子が立った。カバンやら道具箱やら幾つも荷物を提げている。/ 女性が「重そうね。おばさんのひざに一つ載せなさい」と声をかけると、男の子は「て言うか、座りたいんですけど」。一瞬、周囲の乗客の誰もが、「えっ」と驚いた様子だった。/ 女性は「そうねえ。おばさんも、さっきやっとここに座れたのよ。どうしようかな。まあ、いいわね」とユーモラスに言って席を譲った。/ 隣席の若い女性が見かねたように自分の席を勧めたが、その女性はニコニコと立っている。/ 当たり前のような顔で腰掛けている男の子。/ 私はたしめなようかと思ったが、それでは女性の親切心に波風を起こすだろう。やりきれない気分のうちに降りる駅に着いてしまった。男の子もここで降り、女性はそのまま乗っていた。/ 話して聞かせれば、きっと素直に分かってくれるであろう様子の男の子だった。それでも、あの一言には言葉を失った。
 「て言うか、座りたいんですけど」だぞ。親、教師、あんたら大丈夫なのかい?
  

 
12月22日 平成20年まで有効
 このあいだ更新した免許書を何の気なしに見ていたら「平成20年何月何日まで有効」とある。
 平成20年ってあんた、俺50歳じゃないの。こんど、まあそれまで無事だったらだけど、どこかの警察署だか免許センターで「安全協会への加入お願いできますか?」とか言われて、芸のないスライド見させられ、次なる免許を交付されるときは俺50なんだと思ったら、うーん、なんだかなあ。


12月21日 SION
 新宿リキッドルームでのシオンのライブ。
 何曲目かでシオンがハーモニカを鳴らしたとき、ぼくは十何年か前の渋谷ライブ・インでの、いきなりハモニカを鳴らしながら登場し、それを客席に投げ、「風向きが変わっちまいそうだ」を歌いだしたオープニングの衝撃を思い出したりした。
 「メーリークリスマス、よいお年を」といういつもの決めゼリフでシオンは退場した。
 年末はいつも、ライブの後半からこのシオンの「メリークリスマス、よいお年を」の言葉を待つ自分がいる。

12月17日 1600円
 「本人書き下ろしの短編収録」という広告が平台から吊るされ、そのうえに村上春樹・編訳「バースディ・ストーリーズ」が平積みされていた。もちろんレイモンド・カーヴァーの「風呂」など村上が選んだ作品たちの集まりなのだから信用はできる。だけどとりあえず読みたいのは村上の新作だ。それだけのためとなると1600円はなあなどと思い、出版社の年の瀬戦略にも感じたが、でも買った。
 結局、村上の短編「バースディ・ガール」一本だけでも1600円の価値ありと納得するぼくであった。

12月16日 初滑り
 昇ってゆくリフトは継ぎ目継ぎ目で独特のゆれをぼくのからだに伝える。最初のリフトでぼくはいつも、ああ、今年もはじまったな、また今年もこれたなというやわらかい感慨をもつ。
 曇りのち一時雨という予報はみごとにはずれ、陽焼けが心配なほどの太陽光線が丹原のスキー場には降りそそいでいた。今シーズンの初滑り。エッジの切れもいい、なかなか板に乗れてるぞなどと上機嫌で、一気に滑ってはビール、などと調子こんでたら、いつからか声が出なくなっている。
 風邪は悪化、歯も痛むし鼻には吹き出物。いいことばかりはありゃしないのである。


12月15日 アメリカン・パイ
 織物会館という名称の、いかにも地方の商工会議所のセンスで作られたようなビルの自動ドアを潜る、そしてそのビルにふさわしい店やら事務所やらを横目に一階のフロアを抜ける。大通りとは逆の向こう側にもう一度自動ドアを通過して出ると、いきなりその地下にその店はあった。アメリカン・パイというライブハウスだ。ほんとにいきなりという感じで、ロックのにおいが立ち昇る場所がそこに現われた。織物会館、そのなかのいかにもという商店街、そこを突っ切ってすぐ右側の地下というアクセスの妙には、そう、七三分けの髪型が並んでいたのに突然パンクヘアというようなたとえの驚きがあった。
 店にはいるとCOZO LIVE VIBEというバンドがリハの真っ最中だった。間違いなくストーンズの「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」のイントロなのだが、曲はなにか違うものに変化していく。なんだ? そう「聖この夜」だった。マスターの奥さんがテーブルにこられて「ようこそ」と歓迎してくれた。「主人がお世話になりまして」という挨拶をもらったのにもかかわらず、奥さんがカウンターに戻るときにぼくは、「Yさんの奥さんなんですか」という奇妙な質問をしてしまった。すでにけっこう酔っていたのか。きっと店の雰囲気やらなんやらで心拍数が上がっていたのかもしれない。ある心拍数を超えると、ぼくの脳内での処理精度は一気にダメになる。
 コーソ゜ー・バンドの演奏は爽快だった。「ジャンピング・ジャック…」からはじまる「聖この夜」、ほんとの「ジャンピング…」、「ノー・ウォーマン・ノー・クライ」、「ルート66」、「ジョニー・B・グッド」、「ホンキー・トンク・ウィメン」、「ファッド・アイ・セイ」、「アメイジング・グレース」のスライド・ギターには背骨が動いた。そしてまさかこんなところ(失礼な表現を許されたし)で「クラッキン・アップ」を聴けるとは思わなかった。怒ったような突き刺す眼光のドラムスが奏でるレゲエのリズムにからだは踊り、ぼくは一緒に歌っていた。
 ステージの休憩時間にグランド・ファンクがかかった。「アメリカン・バンド」の次に鳴った「ハートブレーカー」に合わせて、ぼくとIさんは「これ、傘がないとおなじコード進行なんだよね」と得意げにに井上陽水の「傘がない」を合わせて歌ったりした。
 店を出ると外は吐く息が凍てつきそうな寒さだった。ホテルまでの通り道で屋台のラーメンを食べた。ふたりともミソラーメン。食べ終わって屋台をあとにして歩いているとき、「このまえはにんにく入りミソラーメンにしたら、もうにんにくだらけでまいった。でも普通のもけっこうにんにく入ってるね」とIさんが言うとおり、即席ラーメンににんにくだけ入れましたという感じのラーメンだった。それでもまあまあおいしかったけど。アルコールと歌い過ぎとはしゃぎ過ぎと風邪の菌で喉がやられていた。いまならトム・ウェイツも歌えそうなしわがれ声が午前2時の街角にゆれていた。
 一泊して東武線の各駅停車で鳩ヶ谷に帰った。駅前のドムドムとかいうハンバーガーショップでハンバーガーとフィッシュバーガーとコーラを買って車内で食べた。食べながらぼくはウォークマンでディランの「ローリング・サンダー・レヴュー」のライブ盤を聴き、車窓の枯れた畑や無人駅みたいな寂しい駅をぼんやり見ていた。
 ふとアメリカン・パイでグランド・ファンク・レイルロードが流れたときIさんが、「俺、こいつらの後楽園のライブいってるんだよ」と話してくれたのを想い出した。それはどしゃ降りの雨のなかでの伝説のライブとして、いまも語り継がれているほどの有名なライブだった。「俺は高校生のときで…」とIさん。そのときぼくは中学の1年か2年生で、グランド・ファンクの「アー・ユー・レディ」のシングル盤は宝物だった。
 そのときなんの接点もなく、別宇宙にいたと言っても言い過ぎでないふたりが何十年か経ったいま、これまた別宇宙にいたマスターが選曲した「グランド・ファンク」に吸い寄せられていく。
 ヘッドフォンではディランが弾き語りで「SIMPLE TWIST OF FATE」を歌っていた。まさに題名のごとく、運命のひとひねりでぼくらは昨日の晩アメリカン・パイにいたのだと考えたりした。電車はわざとのようにゆっくり、各駅に充分すぎるほどの停車時間をほどこしながら走ってゆく。
 
 足利市駅にはマクドナルドもなかった。HMVもない。スターバックスもない。でっかい本屋もない。だけどアメリカン・パイがあった。


12月12日 五人囃子
 地下鉄住吉駅からすぐのティアラこうとう大ホールにて「五人囃子」。
 「能」と真矢の「ドラムス」が融合という史上類を見ない企画だ。
 「船弁慶」(ふなべんけい)にいったいどうやってドラムスの音がかぶるのだろうとすこし心配? もしたが、真矢は出過ぎもせず遠慮もなく、新しいというかそのままとも言える「能・船弁慶」がそこにはあった。
 パンフレットには演出・旅川雅治とあった。ぼくの大学からの先輩だ。昔、旅ちゃん(ぼくはそう呼んでいる)と「志成会」なる団体をつくったことがある。「いろんなことに手を出して、そして皆が食えるようになれば一番いい」というコミューン(ちょっと違うか)思想が柱の会だった。が、気づいてみれば結構大勢だった先輩、後輩、友人、知人は去っていった。それもつまらない額の金が原因だった。最後、ぼくと旅ちゃんがなにがしかの帳尻合わせを強いられることになったはずだ。
 開演前にすこししか話せなかったけど、「俺は旅ちゃんのこと誇りに思うよ」とぼくが言うと、「いやあ、まあ観てくれよ」と彼は照れていた。
 会場にはそれこそ「お能」の鑑賞でございますといういつもの客に交じって、あきらかに真矢のファンというなりの客も目立った。ふと俺はどっちに見られるのかなという思いがわいたが、そんなことはどうでもよい。
 旅ちゃん、初演出、おめでとう。

12月11日 E・YAZAWA
武道館で矢沢永吉のライブ。
 矢沢のライブは二十何年ぶりだ。そのときはまだ東京ドームになっていない後楽園球場だった。アンコールが終わると矢沢はそのままロールスロイスかなんかに乗り込み、それをたくさんのバイクが追っていったのを憶えている。
 さて現在のライブはというと。開演前から白スーツの男たちが応援団のように、「えいちゃん、えいちゃん」と連呼、それに呼応してホール全体が「えいちゃん、えいちゃん」の大合唱になる。
 それは演奏中もおなじで、超抜のギターソロが「えいちゃん」のコールにかき消されてしまうのは残念だった。
 でもそれでも、
「ひとつ星が流れて ふり向く遠いあの頃 気のいいあいつの声が 聞こえる気がする街角 オーバイバイ ボーイ もう帰らない 風の中で笑った あいつが今も見えるか 忘れたはずのせつなさ どこかになくしたあの頃」と懐かしの「ボーイ」を歌われると、涙がこぼれそうになるぼくだった。

12月7日 オートレース?
 昨日の金曜日、京浜東北線車内での会話。
 「やはりいままではオートなら勝てていたわけで」
 「だからそれがね。もうそういう時代ではなくて、オート以外でも儲けていかなくては」
 「そうですよね、オートが絶対ではないし。やっぱり違うもので勝ちにいかなくては」
 オートってオートレースなの?違うものってたとえば競輪とか異なる種目でということ?
 しかし会話の主はどう見ても実直なサラリーマンだ。どうやらオートというのはオートレースのことではなく、なにか製品の俗称らしい。ま、この会話で、オートレースの車券師の話ではなんて勘違いするオレの感性がおかしいのだろうけど、ひとり車内で笑ってしまったのでした。

12月6日 クリスマス気分
 パチンコ屋の店員も居酒屋の店員もサンタの格好。あちらこちらにクリスマスツリー、街はまったくのクリスマス気分だ。人が死のうが生きようがクリスマス気分だ。そして俺もなんとか、無理してでもそれにひたろうとしている。
 12月と言えば、クリスマス、そしてすぐに正月といううきうきした月だった。だけどいつからか、身体から剥がれない寂しさや悔やみを意識されられる月でもあるようになった。

12月5日 父の孤独
 年増芸者におくられて酔ひて帰り来し 
 父の孤独も順に受けつぐ   高村豊周

 
 
朝日新聞「折々のうた」で大岡信が解説している。高村の父は上野公園の西郷像の作者光雲、兄は詩人光太郎。近代日本の有名な芸術家父子だった。急激な変化の中での光雲の孤独、そしてそれを順に受けついだと歌う晩年の豊周…。
 そんな背景を抜きにしても、この歌は直接ぼくに、昔のある感情を喚起させる。

 

12月1日 歌詞カードの男
 京王閣競輪へむかう京王線の車内、「北海…漁り火…」はっきりしないが、演歌の歌詞カードをぶつぶつ読んでいる男が座っていた。どうやら歌詞の暗記に励んでいるらしい。その歌詞カードの下には競輪の予想紙があった。競輪場までの道すがら演歌の歌詞を憶えている男。ぼくに一瞬、その男の車券にのってみたい気持ちが強く起こった。が、しなかった。競輪記者としてのプライドが止めさせた? いえいえ、「きょうはどこかいいところあるんですか」、などと初対面でたずねられるほどの器量がぼくになかったからだけだ。
 あの演歌男とおなじ車券買って、並んで一緒にレースを見てみたい。


11月29日 孤独の旅路
 「ぼくは生きたい ぼくは捧げたい ぼくはこれまでずっと 美しい心を掘りあてようとする鉱夫だった 口では言い表せないさまざまな思いが ぼくに美しい心を探し求めさせ続ける そしてぼくはだんだん歳をとっていく」(ニール・ヤングの「孤独の旅路」から)
 
もう明日から12月だ。
 「12月 街はクリスマス気分 あちこちから思い出したようにジョンの声 そして俺ときたらいつもこのごろになると なにかやり残したよなやわらかな後悔をする」(シオンの「12月」から)

 ことしもなーんもできずに終わっちまうが、ま、それもいいやな。 
 「いやいやまだ一ヶ月あるぞなもし、なにが起こるかわからんぞ」とニャンコ先生(いなかっぺ大将にでてきた猫です)。その叱咤を励みに、12月を楽しもう!

11月29日 せっかく生まれてきたからよ
 高知のタクシーに乗っていやな気持ちになったことは一度もなかった。沖縄の食べ物屋さんでも気に障ったことは一度としてなかった。すぐ怒るオレだが、スターバックスではカチンときたことがない。ところだなんだ、取手駅ビルのスタバは。店員は注文間違えるし、覇気のない態度。そのスタバの奥にあるレコード屋(CDショップですな)の自己満足この上ないジャンル分けの仕方もかったるいし、もうなに取手は! という感じだったんだけど、夜いったキャバクラの女の子が聡明で美人で、うん取手もなかなか…。
 
「せっかくよ生まれてきたからよ(中略) 生きさしてもらうぜ(中略) どうせいつか死ぬ とんびでも鷹でも だから人を掻き分けて行くとこじゃないだろう うまい酒を飲んで いい女にキスして 叩かれてもまた また手をのばすさ」とシオンが歌っている。

11月26日 閉鎖された売り場
 ひさしぶりにいった花月園競輪場、バックスタンド下の売り場は閉鎖され、暗がりに、破棄されるであろうテーブルやら椅子が醜く積み上げられていた。
 昔、競輪場に冷房などない時代、夏の花月園でのぼくの居場所はここだった。すぐ上のスタンドに上がれば、最後の半周をもがく選手が金網越しに見えた。3コーナーのほうにまわれば、すし、てんぷら、おにぎり、煮込みの店が軒を連ね、それらは最終レースが近くなるたびに価格破壊? を起こしてゆく。最終が終わるといろいろなものが載った皿が100円になり、やられた客は皆それをほうばりながらぞろぞろ駅までの道を歩いた。
 バックスタンド下、そしてその付近をホームとしていたファンは移動を余儀なくされ、いまはどこにいるのだろう。そういえば入場門前の「当たり餅」も消えていた。ま、いろいろな事情はあるのだろうが、これじゃむかえる側が「べつにきてくれなくてもいいですよ」という態度にあるのとおなじだ。
 案の定というか場内は、これが花月園記念かと疑うような人の少なさだった。

11月18日 れいちゃん
 「北の国から」のサントラ盤をよく聴く。そのなかでも数多く聴くのは「五郎のテーマ」だ。「五郎のテーマ」を聴いてぼくが想起するのは、横山めぐみ演ずる中学生のれいだ。「れいのテーマ」という曲もべつにあるのだが、なぜだか「五郎のテーマ」が純とれいの中学時代につながっていく、ぼくのなかでは。ふたりの中学生の恋愛シーンの数々がくっきりと浮かんでくる。チェーンのはずれた自転車。雪原のなかに立つ小屋、まるで旧式で安物のカセット・ウォークマンと尾崎豊のテープ。
 れい役は内田ゆきだとずっと思い違いしたいた時期がぼくにはあって、ある友人の「横山めぐみですよ100%」という断言にさからって一万円払うはめになった経験もある。
 純とれいの恋愛は、ぼくがそれまで観たどんな映画の恋愛の場面よりきれいでせつなかった。「小さな恋のメロディ」のトンネルのなかだけ手をつなぐトレィシイ・ハイドとマーク・レスターも素敵だったけど、純とれいにはかなわない。
 横山めぐみがどう変わろうと、毛糸の手袋でほほをさすり白い息を吐くれいちゃんのかわいさは永遠だ。

11月14日 初体験
 きのう、はじめてセルフサービスのガソリン給油というのを経験した。セルフのスタンドと言えば、アメリカ南部の砂塵が舞うなかにぽつんとあるコイン・スタンドを思い起こす。片側二車線の国道沿いに設置されたそれは、紙幣でも大丈夫な最新式だった。その場所は車の往来も激しく、頭にあったセルフ給油とはまるで違う風情なのだが、それでも車に戻ったぼくはトム・ペティの「ラスト・DJ」にCDを換えたりして、「ひとりアメリカ南部」をつかのま楽しんだのだった。
 
 「大人のための哲学授業」(西研)のなかでアメリカコンプレックスに触れている箇所がある。

 「ある時期までの日本人はほとんどが、愛憎の混じったコンプレックスをアメリカに対してもっている思うんですね。戦争で負けた、原爆まで落とされた、憎らしい、という感情がある。でも一方で、アメリカからいろいろな文化が流れ込んでくる。「奥様は魔女」のようなテレビ番組を見ると、夫婦がキスしてから夫は会社に出かけていく、という生活、そういう近代的な生活に対する憧れの感覚をもつ。反発と憧れの両方を、アメリカに対して感じている。その感じが、若い人たちにはない。」「このことに気づいたのは、九〇年代に入ってしばらくしてからのことです。大学などで学生と話をしていると、彼らはアメリカに対する独特の愛憎の混じった感覚をもっていないんですね。」

11月13日 お日様の力
 「山は紅く紅く色づいて すすきが風に風にゆれている 朝はとても冷たい もうすぐ冬が来るね」(岡林信康・「26ばんめの秋」)――とまで見ごろではなかったが、長瀞の山は美しかった。
 若いころに紅葉を見にいこうと思ったことはなかったような気がする。そのころのぼくは季節というものを軽んじていたのかもしれない。もちろんティーンエイジャーのころから季節をちゃんと意識して暮らしてきたひとはたくさんいるのだろうけど、どうやらぼくはそうではないつまらんガキだったのだ。
 ライン下りの船頭はかなりの爺さんで、もうそれだけでそこに在るという感じのつわものだった。そんな爺さんの息子くらいの年齢の中年が、途中の崖から愛想よくスナップ写真撮影なんかしたりして、「よろしかったら記念にどうぞ」と、ライン下りも営業、営業であったが、それでも水量の減った荒川上流をゆったり下るのは快感だった。
 秩父の山々の背後から陽の光が射す宝登山の山頂のベンチに座って目を閉じると、まぶたの裏が紅く染まった。手をかざせば暗闇になり、どけるとまた紅くなる。標高に比例して下がった気温を、太陽はそこだけゆるやかなものにしてくれていた。「お日様の力ってすごい」、誰かがぽつりと言った。
 「緑が瞳をえぐり出し 谷川と鳥たちのうた 申し訳ないが気分がいい 全ては此処につきるはず どうしてこんなに 当たり前のことに 今まで気づかなかったのか」(岡林信康・「申し訳ないが気分がいい」)

11月12日 トイレットの前の楽屋
 ショーがはじまる前に手洗いに立ったら、狭い通路の長椅子で出番直前のギターラ2人、カンタオーラ1人、カンタオール2人、バイラオーラ3人、バイラオール1人の総勢9人が弦の音、声、パルマ、サパティアードで「最後の調整」をしていた。その光景に、黙々と競輪場の控え室の前の廊下でアップするS級選手某がダブった。手洗いから戻るぼくに1人のバイラオーラが微笑んだ。ぼくもなんとか返したが、はたしていい笑顔をつくれたかどうかはあやしい。新宿、エルフラメンコでのことを書いている。
 ベレン・フェルナンデスの意外性ある上半身の動きには不謹慎? だが、赤羽の高級クラブMでのミスター・Tの踊りを思った。タシロさんはフラメンコの才能があるという確信がふと湧いたが、そんなことはどうでもいい。
 いままで観たこともない「アレグリアス」をベレン・フェルナンデスは踊った。踊り終えたとき、ベレンは斜め上・前方をきつく見つめ、荒い息で弾む肩を抑えていた。

11月11日 別府記念の二日目・優秀競走
 稲村成のイン粘りを許さず、三宅伸のまくりも止めてしまった小野俊がよかった。結果2着でも最高の競走だった。稲村も初日に続いて厳しい競りを見せた。こんなレースを金網越しに――しかもできうるなら荒井崇と小野の裏表車券を勝負して――見られたら興奮するだろうなあ。

11月8日 最近ありがちな興ざめする光景
 逃げ一車の本命。選手紹介は競りだ。だけど本番は選手紹介ジカのマーク屋がSを取ってしまいイン待ち。逃げ屋のほうはこれ幸いと後ろのスジの先輩を気づかって中バンクを一気にいってしまう。イン待ちのマーク屋は全然飛び付けない。それでも逃げ切り−マークの決着ならまだいい。しかし自分の勝ちを放棄したような仕掛けでは3着にも残れない。
 「ジカ」と選手紹介で見せたのに前に入るのは褒められない。だけどそれでも本命がきちんと押さえ先行してくれれば競りになる可能性は高い。イン待ちのほうから言わせれば、「本命だし勝つ仕掛けなら押さえて駆けるはず、だからインで待ったほうが…」となる。そしてそれはひとつの競輪的考えでもある。一番ダメなのは、先行屋の、本命なのに後ろの先輩を必要以上に気にして自分の勝ちをないがしろにする行為だ。先輩を気づかう競輪道はあってしかるべきだ。だけどそこには限度というか節度がなくてはいけない。だってあなたは本命で、ファンの大多数はあなたのアタマを支持しているのだから。

11月6日 「海辺のカフカ」から
 「実を申しますと、ナカタには思い出というものもひとつもありません。それといいますのも、ナカタは頭が悪いからです。思い出というのは、いったいどのようなものでありましょうか?」
 佐伯さんは机の上に置いた自分の両手を見て、それからまたナカタさんの顔を見た。「思い出はあなたの身体を内側から温めてくれます。でもそれと同時にあなたの身体を内側から激しく切り裂いていきます」
 

11月4日 12チャンネルの中継は競艇だった
 4時からのテレビ東京、当然全日本選抜の生中継かと思いきや、この枠をとったのは競艇だった。
 定番とも言えるこの枠を競艇にとられてしまったという事実は、競艇に対する「政治的な敗北?」であるなどとは大仰か。
 ともかく競輪はスピードかUHF系のみで競艇は12チャンネルとくれば、競艇ファンにそっくり返られても目を伏せるしかない。
 
 「ロックのパワーを落とさない映画を作りたかった」と監督・主演のジョン・キャメロン・ミッチェルが言った「ヘドウィッグ・アンド・アングリー・インチ」はほんとうにいい。暇さえあれば観ている。
11月2日 何がスタールビーだよ
 岸和田の12レース。村上の逃げが強すぎるから誰も動けない。山田も神山も自分から先に動いては「自分がない」。それなりにもっともだし、競輪の理屈は立とう。だけど、あれじゃあ誰も興奮などせんよ。
 かつて特別競輪の全員権利の競走といったら、ともかく自分の一番いいところを相手に見せつけるという、脚ももげよとばかりの壮絶なファイトが演じられていた。井上茂徳と滝澤正光のもがき合いなぞは鳥肌が立った。だけど最近の「全員権利」はなんだ。まるで「脚」を準決勝に温存いたしますという走りばかりではないか。
 引き上げてきた村上の一礼だけが「救い」だったスタールビー賞でありました。

10月28日 ジョンとヨーコ
 ジョンとヨーコが一緒の写真が好きだ。
 「ダブル・ファンタジー」のジャケットでキスをしているやつは最高だし、ニューヨーク・タイムズの表紙となった裸体のふたりの写真も素敵だった。内田裕也は映画「嗚呼、女たち猥歌」のなかで何回もこの写真を切り抜きで映し、相手役の女優は心なしかオノ・ヨーコに似ていた。
 あと冬になると引っ張り出してくるのがボブ・ディランの「フリーホイーリン」というアルバムだ。ジャケットでは冬の雪化粧をほどこしたニューヨークをディランと当時の恋人が腕を組みながら寒そうに歩いている。
 いつかディランが背をすぼめて歩いたおなじ道をぼくも歩けるのだろうか。
 ニューヨークがしばらく頭に座ったぼくだが、その30分後には本屋でスノボーの雑誌なんか立ち読みしたりして、そろそろまた山の季節だななんて、能天気このうえない。

10月27日 勝手にしやがれ
 「いい予想するねえ、納得した」と客に褒めてもらったフォーカスはことごとく外れた。
 立川競輪場の正門前でやったイベントのことだ。
 俺が考える競輪に選手がついてこれないのだと強がってみても滑稽なだけで、ギャンブルは結果がすべてだ。
 まったく当たらない競輪記者というレッテルが固定化しつつある?
 
 西国分寺のプラットホームでの一場面。ぼくの右斜めのショートカットの女が携帯電話で話しながらきょろきょろしている。左のほうでもセミロングで長身の女が携帯片手にうろうろしている。このふたりの携帯はつながっているのかも? と直感したぼくはなんだかドキドキしてくる。セミロングが逆のほうへ歩きはじめたりして、やっぱり違うのか。しかしまた引き返してきて接近。お互いに相手を発見すると、ともに驚いて笑ってすぐに携帯を切って、そして歩み寄った。
 ただそれだけのこと。
 帰宅途中に「勝手にしやがれ」のDVDを買った。さっそく観たのだか、歯の痛み止めが効き過ぎたのか寝てしまい、中途半端な時間に起きてしまっていまこの文章を書いてる。

10月26日 TO LOVE SOME BODY
 以前、新宿歌舞伎町のボーリング場での出来事を書いたことがある。
 ぼくはジュークボックスにコインを入れてマイケル・ボルトンの曲をかけた。曲名は「TO LOVE SOME BODY」。ビージーズのヒット曲のカバーだった。ぼくはこの曲を映画「小さな恋のメロディ」で知った。マイケルの歌がサビの部分にはいると、ぼくの背部にいたフィリッピーナのカップルふた組がいきなり大声で歌いはじめた、マイケルの映像と音に合わせて。
 そのときの、なんとも言えない恥ずかしさと気持ちのよさの同居を忘れないでいる。
 あの大合唱を聴いたときからもう10年が経つ。
 家でビージーズのベスト盤を時々聴くが、あの異国から来た男女たちはいまごろ何処でどうしているのだろう、などと思うことがある。

10月25日 再会
 地下鉄の改札を出た地下通路のむこうから「タケバヤシさん」と女の子が手を挙げた。誰だ? と小走りに近づくと、半年前までぼくの髪を切ってくれていた美容師の子だった。
 彼女はぼくが川口にいたときに通っていた美容院に新人としてはいってきた。もう七、八年以上も前のことだ。小柄だけど芯の強そうな女の子で、何人かがはいっては辞めていったその店にあって、いつのまにか店長の信頼を得る存在になっていった。彼女が担当する客も増えはじめたとき、彼女はロレックスを買った。その真新しい時計をはめた細い腕をすこしだけぼくの顔に近づけ、「都内のお店にはじめて就職したとき、先輩がしていたロレックスの腕時計がともかくかっこよく見えて。わたしもいつか、なんとかお客さんの髪をカットできるようになったら、絶対ロレックスを買うんだって思ったんです。ついに買っちゃいました、丸井のローンで」彼女はうれしそうに説明した。
 彼女がロレックスを欲しかった理由がぼくにはなんとも素敵に思えた。実際そのときの感激が誘い水となって、それまでぼくの物欲の対象としてはかけらもなかった「ロレックス」という高級腕時計を、ぼくはのちに自ら身につけることになる、ローンで購入して。
 彼女から店を移るという話を聞いたのは一年ぐらい前になるのだろうか。「大塚のほうのお店になると思うんですが、決まったら連絡します」。なんたって彼女はぼくの「ロッケンロール」な注文に応えられるひとだから、頼りにできる美容師だった。だけれどもその店を辞めて一ヶ月たっても二ヶ月たっても連絡がない。どうしたのかな? と思っているうちに半年が過ぎた。
 というところできょうの再会となったわけだ。
 「どうしてたの?」とぼく。「いったん大塚の店に勤めたんだけど、じつは妊娠しちゃって…」「じゃ結婚したの」「ええ、まるっきりのできちゃった結婚」と彼女は照れ笑った。ぼくはおめでとうと言ったが、なんだか声音がぎこちなかったかもしれない。「三ヶ月を過ぎたばかりでまだつわりがひどくて…いま小さな店でパートみたいに勤めているんだけど」と彼女が口にした店は、ぼくの家の近所にある俗に言う「パーマ屋さん」だった。
 「お客さんは年輩の女の人ばかりで、もう朝から晩までシャンプーばっかり。子どもが生まれて落ち着いたら、また自分が髪を切れるようなところで働きたいし、そのときはかならず連絡します」と彼女は言った。「おお、頼むぜ。また切ってくれよ」とぼくは返した。「きっと女の子だよ、顔がなんだか優しくなったもの」とぼくが言うと、「ほんとですか、うれしい。わたしはどっちでもいんだけど、彼のほうは女の子希望だから」とよろこんだ。「それじゃ、また」と互いに手をふってぼくらはわかれた。
 とてもうれしくなった。もう二度と会えんのかなとも思っていたひとに再会できたときの喜びはなんとも言えない。心はスキップで家に帰ったら、注文していた「ヘドウィグ・アングリー・インチ」のDVDとサントラのCDが届いていた。
 「世の中がちょっとうまくいかない こんな夜には トレーラー村の 明かりも消えていく 独りぼっち だまされて 今にも頭がおかしくなりそう でもタイムカードを押さなくちゃ メイクして ミュージック・テープをかけて カツラをかぶる すると私はミス・中西部 真夜中のレジの女王 家に帰って ベッドに潜るまでは」(ウィッグ・イン・ア・ボックス)
 

 丈夫な子が生まれてきますように。
 

10月20日 やっかいなもの
 「人は、一度巡りあった人と二度と別れることはできない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである。」(大崎善生の「パイロットフィッシュ」の冒頭の文章)
 記憶とはほんとうにやっかいなものである。
 なんでここで、なぜにこの状況でというときに、忘れ去っていたことが、いや忘れてしまっていたつもりの記憶が突然せり上がってくる。
忘れてしまいたい記憶があったとする。その記憶に関係する事象を見まいとする。だけれどもその記憶を起こさせる呼び水みたいなものは無数にあって、いくら注意深く目をつむり耳をふさいでも、どこかで呼び水のトラップにはまってしまうのである。
 花園神社の裏から新大久保駅のほうへ歩いている。むこうから貸しスタジオでの練習帰りなのか、ギターのギグ・バッグを抱えた少年と少女が歩いてくる。すれ違う。そのまったくの偶然から、ある記憶が見事な鮮やかさでよみがえったりするのだから、これはもう防止策? はない。
 これで終わりにしましょうと彼女が言う。しかし終わりにしたということは、いままで「在った」ということを確定したに過ぎないのだ。

10月17日 6年目の準優勝 《祝・東京スライダーズ…表彰風景へGO!

 6年前、野球チームをつくろうと発案した言いだしっぺは誰だったんだろう? デビュー戦の朝、河川敷のグランドとそのむこうに流れる川を隔てる叢はまるで暗黒大陸のようで、3月の夜明け前の寒さと風は半端じゃなかった。その試合のベンチ前では、いまはもうチームにいないアライの彼女がチアガールもどきの踊りで声援してくれた。セカンドの守備位置からは、腕組みして立っている当時の監督榎本さんのマイッタナという困惑顔が見えた。三試合目で初勝利を挙げたのは4月で、西武園記念の前検日だった。ぼくはうれしくてうれしくて、なぜだかネクタイを締めて取材にいったのを憶えている。  
 6年もの歳月だから、いろんなことがあった。不眠症が続いて安定剤に頼る夜でも、グランドまでたどり着けばかなり楽になるという発見をしたのは何年前のことだろう。まだ眠っている街から陽が昇りかかる。その陽にむかって首都高速を飛ばせば、「なんだ大丈夫じゃないか」と投げ出せる瞬間があって、頭のしこりがすこしだけ溶けた。
 セカンドの守備に着いているとき、忘れられぬひとが現われてはすっと消える。ぼくは投手の投球動作に合わせて中腰になって構える。すると流れる雲のようにキツさの膜が薄れて、ぼくの意識は野球に集中していった。  
 まるっきり眠れず車で街を徘徊し、それでもグランドには2時間前に着いてしまう。カーラジオには沈鬱なジャズばかりが流され、深夜のひとりの車内はひどく孤独だ。それでもなんとか2時間を耐え、やっと後ろからチームの誰かの車のヘッドライトが迫る。そのときの安堵感をぼくは忘れないでいる。  
 誰かは別離した女を、誰かはこれからの冒険を、それぞれがそれぞれの守備位置で、やっぱりぼくとおなじように思い、吹っ切っていたのなら、スライダーズに救われたのはぼくだけじゃないのだろう。
 
 準優勝のカップはチープなメッキ作りだけれど、ぼくにはワールドカップ・サッカーのジュール・リメ杯みたいな宝物だぜ。

10月15日 アジアンタムブルー
 <アジアンタムブルー>とは、観葉植物アジアンタムの淡緑色の葉が、茶色くなってちりちりと萎れていく状態。ブルーは「憂鬱」。とハードカバーの背表紙の裏に説明があった。
 村上春樹「海辺のカフカ」読後のショックは半端ではなかった。だからそのあとに手にした大崎善生「アジアンタムブルー」は、新幹線のなかで3ページ、宇都宮のホテルで5ページというぐあいに遅々として進まなかったのだが、いまやっと読み終えた。部屋にはマリア・カラスのオペラが流れている。1958年のパリ・デビューのものらしい。カラス35歳のときだ。1958年といえばぼくが生まれた年でもある。「アジアンタムブルー」のなかの「僕」は、「葉子」という30歳の恋人を末期癌で失う。
 44年前のソプラノ、30歳の死、そして本を読んでいる44歳の俺。身体がくたくたなせいか、なんだか妙な弱気の虫がせり上がってくる。
 

10月14日 世にも奇妙な、物語なんかにゃほど遠い話……愚か者の涙
 宇都宮共同通信社杯の二日目の夜。ぼくは居酒屋、バーなど少なくとも三箇所で、「ありゃないよなあ」というファンの声を聞いた。その日の7レース、浜口の失格のことだ。ルールにのっとった判定ということなのだろうけど、落車もなにもなく、きれいに3人のラインがゴールしたのを、その順番で払い戻さないという行為が及ぼすマイナスの効果というものは意識されなかったのだろうか。いまさら金が返ってくるわけでもないし抗議する気もない。だけどいいですか、あの失格は明らかに競輪をダメな方向にむかせます。。どれだけ判定に自信があったとしても、その下された判定は競輪をダメにしているということだけは認識してください、お願いだから。
 今回のワースト競走は三日目の3レース、本命の三和の走りだ。車券を買っている大半のファンは「三和は前を取る。下げて中団は…無理かなあ…でも他が叩き合ってしまえばひとまくりだし、たとえ七番手でも三和なら…」という考え方でいたはずだ。むろんそういったベーシックな推理から、三和は七番手になるから不発という車券を選ぶかもしれないし、三和のダッシュを信用するかもしれないし、それは自由だ。だけどファンの推理の前提にあるのは三和の「まくり」だったはずだ。しかしレースは三和が力的には第三ラインに評価される高橋健太ラインを突っ張って出て、もうひとつのラインのまくり。500バンクで、「まくりの」三和が突っ張り先行だと。しかも本命で。勝つとか負けるとか、それ以前の問題だと思う、これは。もちろん三和が選ぶ戦法に制約などない。だけどあれはひどい。あのメンバー構成で、突っ張り先行という組み立てを選ぶという三和をプロの競輪選手とは呼びたくないというのが正直なぼくの感想だ。ある意味でファンをないがしろにしているレーサーだと言わざるを得ない。
 客の考えと選手の考えは違う。それはいつも言っていることだ。だけどあの突っ張り先行は限度を越えている、とぼくは思う。
 

10月8日 時代は変わる
 チャボこと仲井戸麗市のアルバム「タイム」が発売された。そのなかにボブ・ディランの「時代は変わる」をカバーしたライブが収録されている。仲井戸は、「泣いてるひと、笑ってるひとが歩いてく、北風のなか時代は変わってゆく」と絶妙の訳詩でディランの名曲を歌っている。

10月7日 ビニール袋にプチトマト
 オーストリア大使館がある坂道やら、ライトアップされた教会の側道をふらふら歩いていく。上をむくと見える東京タワーの位置が右になったり左になったり、近くなったり遠ざかったりする。脚がいっぱいになったらコーヒーを飲んでまた歩く。二度目にはいった、いかにも麻布でございという感じのオープンカフェ。端の席で老夫婦がアイスクリームを食べていた。テーブルにはプチトマトのはいったビニール袋が置かれている。なぜだか知らんが、薄透明? のビニールを透して見えたプチトマトの赤が深夜になっても記憶から離れないでいる。

10月6日 竜二Forever
 レンタルで「竜二 フォエバー」を観る。高橋克典というのはなかなかうまいんだなあと関心した。役名はすこし変わっていたけれど、ぼくの好きだった内田栄一を初老の役者が演じていた。内田栄一が死ぬ直前に残した「きらい・じゃないよ」という映画、どうにかして観る手段はないものだろうか。
 
 競輪の話。コメントは「先行の番手」で、選手紹介では強いほうの先行にジカ、ファンはなるほどそりゃやるならそっちだよな、と思って車券を買う。だけど本番は…選手紹介でいったほうじゃない弱いほうで競って、強いほう、つまり選手紹介で付けた選手にまくられたしまった。理由は「俺は逃げたほうの番手勝負だから」。最近この手のレースをよく見る。ま、まくりにまわったほうで競るのはつまらん、ということなのだろうが、車券を買っているほうはたまらんものがある。
 なぜまくりにまわったとしても強いほうの後ろでやってくれないのだろうと思ってしまう。もちろんいつも言っていることだが、選手の都合と客の都合は違う。それはわかっている。だけどねえ…。
 そんななかで吉永和生は「ここ」と選手紹介で見せたら、きちっとそこで競り抜くレースが多い。最近このひとの競走が気にいっている。

10月5日 グランプリポイントの愚かしさ
 今年最後の全日本選抜におけるグランプリポイントは「格上」のG1とも言えるダービーより高い。最後のG1「全日本」如何でグランプリ出場が左右される、というのが「売り」なのだろうか。だけどこれじゃアホなテレビの陳腐なクイズ番組とおなじではないか。せっかく得点を積み上げても、最後の問題で大逆転があります、というあれだ。
 まったく愚かしいの一言だ。
 「何もない頃に生まれ だからこそ今に生きる 何もない頃に生まれ だからこそ意味がある」と歌うケツメイシの「花鳥風月」が意味深に聴こえる、窓を開けっぱなしの部屋でひとり憤っている。

10月2日 煙草の歴史
 千代田区の路上喫煙禁止条例。禁止されるのは歩き煙草だけではないらしい。これじゃ携帯灰皿を持っていても吸えないということで、愛煙家にはキツい。ぼくは10年前に煙草やめちゃったけど、けっこうヘビースモーカーだったから煙草の「美味さ」はまだ忘れていない。いつかまた吸いはじめるのではという予感もある。
 喫煙、いや煙草というのはすごい歴史がある。何年か前に発生した現象とはわけが違う。言い換えれば路上喫煙にも長い歴史があるのだ。ぼくたちが「カッコいい」と憧れたスクリーンのヒーローも、みんな道で煙草を吸っていた。
 もちろん「いいこと」ではない。だけどいいことでないそのことには、けっこうな歴史が存在しているという事実は軽く見ないほうがよい気がする。
 ともかくマナーの問題っていうのはもっと大きな、根の張った部分からいじらないと、いかんともしがたいものなのだ。歌舞伎町の混雑した交差点で吸われれば、そりゃアブねえなと思う。ポイ捨てがみっともないのは子どもだってわかる。だけど吸ってるの見たら「はい、二千円」というのもねえ。
 煙草はまわりのひとにも有害です、歩き煙草は凶器ですとヒステリックにしゃべる女。でもきみの香水の匂いに一日気分が悪くなるひとがいるかもしれない、とか書いたらずれてしまうか。

9月29日 悲しいときにゃ 悲しみなさい 気にすることじゃ ありません……伝道
 土曜日の朝日新聞朝刊に「ゆーったり一曲」というコーナーがある。先週は大杉漣が加川良の「伝道」を挙げていた。
 ギター一本、スリーフィンガー奏法からはじまるこの曲、「悲しいときにゃ 悲しみなさい 気にすることじゃありません あなたの大事な 命にかかわることもあるまいし」と語られ、そしてピアノがかぶり、子どものコーラスも加わる。「そうですそれが 運命でしょう 気にすることじゃありません 生まれて死ぬまで つきまとうのは 悩みというものだけなのですよ 悲しいときにゃ 悲しみなさい 気にすることじゃありません あなたの大事な命に かかわることもあるまいし」
 ドラム、ベースのリズムも強調されつつ曲は盛り上がっていく。
 最後は延々と、「悲しいときにゃ 悲しみなさい 気にすることじゃありません あなたの大事な命に かかわることもあるまいし」と繰り返される、まるでビートルズの「ヘイ・ジュード」みたいに。
 大杉は、「生まれて死ぬまでつきまとうのは悩みというものだけなのですよ」という歌詞が忘れられなくて、いつも口ずさんでます。撮影現場でもなにげなく口笛で吹いたり、ハミングしたりして「あっ、伝道だ」ってふと我に返ることもある。とインタビューに答えている。
 加川良を口ずさむ大杉漣というのは、いいよなあ。

9月28日 このままが
 東川口のインド料理屋さん。ナンを焼いているインド人の料理人が厨房を仕切るガラス越しに見えて、それを男の子の兄弟が目を見開いて見ている。兄弟の視線に気づいたインド人がおどけた表情をつくる。ぼくの隣のテーブルでは四人の親子の真ん中にいちごのケーキ。まだ小学生前に見える男の子が誕生日らしい。店内の照明が一段落ちて「ハッピイ・バースディ」が流れる。4本だか5本のろうそくを吹き消した彼には、違うテーブルからも拍手が送られる。はにかむ短髪の男の子。ぼくはマハラジャビールとハートランドビールを交互に飲んでいる。夕方に飲んだ鼻炎薬が少し効いているからだに微量のアルコールが作用して気持ちがいい。べつにどうってことはないけど、しばらくこのままでいたい気分だ。

9月27日 誰が見ても
 あるワイドショーで、怨恨殺人事件、家族内の殺人とか専門に出てくるレポーターがいる。その女のひとのルックスは――まあ西洋的美観にそって言えばということだが――失礼だけれどよくない。おめでたい話や心温まる出来事にそのレポーターが出てくることはまずない。つまり猟奇っぽい事件専門レポーターという印象なのだ。むろん「見てくれ」の印象など個的なものなのだろうが、誰がどう考えたってテレビ局側の「意図」や「選別」は存在している。だからってそれを否定するとか言うんじゃないんだが…。

 ストーンズのベスト2枚組「Forty Licks」が発売された。全40曲、ともかくやっぱり、ストーンズはいかしてるぜ。

9月26日 練習帰りの野球部
 本屋の駐車場のところで高校生らしきふたりがアイスクリームをうまそうにほうばっている。頭は坊主、学校のネーム入りのバッグ。いかにも野球部だ。昔、中学二年の部活帰りのことだ。とにかく腹が減って腹が減って、通り道にある菓子屋で買い食いしたライスチョコのうまかったこと。そのときの暗くなりかけの空と、まだぱらぱらとしかなかった外灯、ところどころにある未舗装の道などが醸し出す雰囲気を忘れないでいる。
 あのころの眩暈がするほどの空腹感なぞもうけっして味わえないのだと思うと、なんだか寂しくなる。

9月24日 山田の早仕掛け
 神山は1着をとらなければグランプリには乗れぬ。かたや山田はその切符を確定している。その差が明白にあらわれたオールスター決勝だった。神山にはとらせない、という意識が強かったかどうかは知る由もない。だがあのホームからの仕掛けはそういったものがぜんぜんなしとは言えないだろう。結果は松本の大楽。松本が繰り上がりで名古屋オールスターを制したのをぼくは眼前で見ている。あれからそんな月日が経ってしまっていたのか。
 
 「70's、80's、90'sだろうが、今が二千何年だろうが、死ぬように生きている場合じゃない。……僕は死ぬように生きていたくはない。本音さ、死ぬように生きていたくはない。」と歌う中村一義の「キャノンボール」ばかり聴いている。ちなみにこの曲は池袋HMVの店員さんが教えてくれた。

9月23日 Beni De Cordoba
  Beni De Cordobaとはコルドバのベニと訳せばいいのだろうか。そのベニ先生主催のフラメンコスタジオ・メスキータの発表会。フルートやエレクトリック・ベースがはいったガロティン、セビジャーナス、アレグリアス、ファンタンゴは新鮮だった。スモークが焚かれるたびに香料がホールに漂うという演出も素敵だった。ふらふらのおばあちゃん相手でも、ダンサー・ベニのセビジャーナスは真摯に訴えかける踊りだった。フィナーレを飾るアリミとベニ夫婦のガロティン。まさに息をのむとはこういう状況を言うのだろう。会場の全部が、ステージの磁場に吸い寄せられた。
 やっぱりフラメンコはいい。

9月22日 風に立つライオン
 学生のころ二泊三日でスキーにいったとき、ゲレンデにはさだまさしの「吸殻の風景」が繰り返し流れていた。G−Gメジャー7というコード展開が心地よかった。
 蟻というスナックの女の人がよくぼくに、さだの「案山子」をリクエストしてくれたのはもう何年前のことになるのだろう。
 さだまさしと言えば、こんなちっぽけな思い出と「北の国から」ぐらいのものだったんだ。
 だけどある人が褒めているのを知って聴いてみた「風に立つライオン」、なんともすごい歌でした。

9月21日 先生、そんなこと言うなよ
 歯医者、整形外科とたてつづけにかかった。
 「このレントゲンを見てください。衝撃を受けたあと軟骨も粉砕されて…ほかの間接に比べて隙間がぜんぜんないのがわかると思います」と先生は俺の左手小指について診察の所見を述べた。小指の先はもう手のひらにくっつくまで曲げられず、ちょっと複雑なギターのコードを押さえようとすると痛む。「どうすればいいのでしょうか」と俺。「この場合、対症療法しかなく…、まあリハビリとかでもとの状態に戻すというのは無理だと考えられます。痛みはじきにひくと思いますが」と先生。「じゃあ、この状態に慣れていくしかないということですか?」「というより、この先もっと曲げられる角度は狭くなっていきます。なんと言うか、このアクシデントによって老化が早まるという予測が立ちます」
 なんだかショックだった。そりゃこの歳だからいろいろダメにはなってるけど、完全に損なわれているという宣告だよなあ、これは。もちろん命に別状はないし、もっと大変な病気を患っているひとから見れば笑止だろうけど…。
 このことによって俺の生涯打率はあきらかに影響を受けるだろう。チャック・ベリー奏法のロックンロール・ギターのスピードもやや落ちることになる。
 もうひとつ歯医者の話だ。
 「これが竹林さんの口のなかにいる雑菌です。あのニョロニョロとしたのがなんとかで、あ、いま元気よく動いたのがスピロヘーターです。あっ、ほらあれです」と中学生みたいな童顔の女の子が顕微鏡で拡大した「菌の動き」を説明してくれたあと、先生が現われた。
 「ま、かなり口の中の環境が悪くなっています。金属のブリッジが多いし、そういうところには汚れもつきやすいので…」と先生。「先生、インプラントとかいろいろあるみたいなんですけど、どういったやり方がいいんでしょうか? かなりほっておいたので、ここらでちゃんとしたほうがいいと思って」と俺。「それはそうです。これだけブリッジを使っているということは健康な歯も削ってしまっているわけで、ブリッジをする前なら間違いなくインプラントを進めたでしょう。ただ、いまの状態ではねえ。ま、いろいろ検査をしてから一番いい方法を決めるということでいきましょう」「やっぱり一年とか長い期間を考えていかないといけないんでしょうね、先生?」「一年って竹林さん。この竹林さんの口のなかのいまの環境というのは20年とか30年の長い年月によってつくられたものなんですよ。それを一年でもとの状態に戻すというのはねえ、考えてもらえばわかると思うんですけど」
 妙に説得力のある先生の話にうなづくしかしかない俺だ。

9月20日 今年はじめての太平洋
 「300b先、なんとか交差点を左方向です」「500b先、目的地周辺です」、我が家の新戦力「カーナビ君」に任せておけば大概のところへは迷わずいける。いつも冷静沈着な彼に従って大洗海岸へ。国営ひたち海浜公園の観覧車は古ぼけていたけど、コスモス畑はまあまあだった。ぼくはそこのベンチでいやに甘いソフトクリームを食べた。阿字ヶ浦の先の磯料理の店には客がひとりもいなくて、しかも門構えのしっとりした感じを裏切る食券の販売機が、ドアのすぐむこうにあった。大丈夫なのかなとも思ったが、出てきた料理はなかなかだった。いつも出されたものをきれいに食べられないぼくがきちんと平らげたのだから、推して知るべしだ。
 大洗の海岸にひとはまばらだった。
 用意していったMDにも飽きてきたぼくは、「北の国から・サントラ盤」のCDに換えた。今年はじめて間近で見る太平洋に、さだまさしの声が妙な具合に被さってゆく。

9月19日 ドライブと音楽
 免許とりたてのティーンエイジャーのとき、中古のセドリックにはカーラジオしかなかった。だからFENを聴くか、ラジカセを助手席とか後部座席に積んでテープを流した。粗悪な音だったけど、自分の好きなロックンロールを聴きながら運転するのは快感だった。すぐにカーステレオ付きの車の時代が来た。ドライブのためのベスト盤カセットを作る行為はなんとも楽しかった。そんなカセットがまだ何本か捨てられずに手元にある。車にはCDプレイヤーが常識となり、いまではぼくの車にもCD・MDプレイヤーが備わっている。
 ぼくはいま明日のドライブのための「ベスト盤MD」を作成中だ。ティーンエイジャーのころにボタンを押したり止めたりしながら「ベスト盤カセット」を作った快感が蘇ってくる。

9月18日 新宿昭和館
 新宿昭和館が閉鎖されていた。建物はまだ昔の形で在ったが、まわりはトタンだかなんだかに覆われて、いかにもこれから壊しますという雰囲気だった。「4月30日をもって閉館します」という札書きが吊るされていた。ぼくはそんなに長いあいだここを歩いていなかったことになる。昭和館の向かいの「山田屋」でラーメンを食べて、昭和館で任侠映画三本立てを観る。20歳代前半のぼくの楽しみベスト3のひとつだった。その昭和館が消えようとしている。山田屋はまだあった。だけどラーメンは食べなかった。ぼくは無性にビールが飲みたくなった。少し歩いたはじめてはいる喫茶店とバーが混じったような店で、ハイネケンを飲んだ。
 
 きょうのスポーツ新聞での競輪欄。どこかの誰かが「正攻法の選手がペースを落とし、誘導員を1人にする見苦しいレースはやめて欲しい。」と書いている。それでは訊くが、正攻法の選手はこの滑走路と呼ばれる熊本500バンクを誘導を素直に追ってピッチを上げなければいけないのだろうか。それが勝ちに近づく競走になると本気で思っているのだろうか。ファンだって自分の買ってる選手が正攻法でスローにも落とさずピッチを上げられちゃ、おいおいとなるよ。もちろん競走だから、誘導を使って突っ張り気味にいくのが正解というケースもある。だけど500バンクで素直に誘導のピッチに合わせるという行為は、勝ちから遠ざかる可能性が高いのではないか。だいたい、勝ちたいから、不利になりたくないからピッチを落とすという行為が生まれるのである。その勝負固執の行為をなぜ見苦しいと断言できるのだろう。多くのファンや選手のみんなが「見苦しい」と声をそろえているのなら、まあ納得しないでもない。だけどそうではないはずだ。見苦しいというのは当人と当人のまわりだけの感想という気がするが、いかがなものか。

9月17日 bitter's end
 私立探偵・浜マイクの最終回を録画で見る。
 灰になったシオンの骨箱から永瀬は喉仏のところの骨だけを車に残し、残りの骨を海に撒く。と同時にシオンの「通報されるくらいに」が流れる。シオンの喉仏が歌っているようにぼくには思えた。「早くはない、遅くはない、はじめたらはじまりさ…」。死んでしまったシオンだが、喉仏だけになっても歌っている。

9月16日「神様のボート」
 「十月になると、風が秋めいてきて清澄になり、しつこかった残暑もおさまって、煙草もコーヒーもぐっとおいしく感じられてしまう。」(江國香織の「神様のボート」から)
 この一文が妙に気にいっている。もうすぐ10月だ。このころになると、ぼくはいつも冬物の服が買いたくなる。

9月13日 13日の金曜日
 巣鴨信用金庫のむかいにある王子駅前公園。その壁画には帽子をかむってギターを抱えている人間が描かれている。そのスナフキンのようなギター弾きが好きだ。スターバックスの窓に面した席でコーヒーを飲んでいると、前のバス停に「BUS KANTO」、「郡山→王子→池袋→新宿」とボディに書かれた高速バスが止まった。いつだったかおなじ状況で、眼前に「甲府→新宿」のバスがはいってきたこともあった。区内循環みたいなバスも停車するそのバス停は、どうやら高速バスのためのものでもあるらしい。
 カプチーノ・ショートは飲み終わった。さあ、ここから一番近いギャンブル場はどこだ?

9月10日 天国はあるけれど天国には誰もいない
 ♪神様お願い神様お願い わたしのうわべはどうでも 神様お願い神様お願い わたしの心をよく見て(シーナ&ロケッツの「天国はあるけれど天国には誰もいない」の一節)
 よしもとばななの最新刊「王国 その1 アンドロメダ・ハイツ」がすごそうだ。ほかに読みかけている本があるのでちょっと冒頭をのぞいただけだが、いつものように、ぐいぐいとではなくほわーんと見たことのない靄のなかにはいっていくようだ。部屋のなかではなく外で読めればいいなあ。

9月9日 天王山
 車のなかにはコーヒーのいい香りとモンゴル800のエモーショナルなロッケンロール。きょう勝てば準優勝の可能性があるという野球の試合が終わったあとの車内だ。イシ(我がチームのエース)はノーヒット・ノーラン、打線は爆発で俺まで猛打賞の大勝だ。ハイな気分、きょうは何しよう! やらなければならないこともすこしあるんだけど、とにかく街へ繰り出そう。そうだ、ともかく新宿だ。

9月9日 Grateful Day
 ドラゴンアッシュの「Grateful Day」の二番、つまりジブラのソロがはじまると、ぼくはかならずと言っていいほど鳥肌が立つ。伊集院静の表現を借りれば「背骨が動く」のだ。それほどこの楽曲におけるジブラのボーカルはすごい。ただただすごいのである。
ちなみにGratefulとは、「感謝に満ちた」「ありがたく思う」と辞書にある。

9月8日 蓮
 蓮の葉は水をはじく。はじかれて葉の上にたまった水はいろいろな紋様を見せる。花が終わったあとの蜂の巣のような種子の集まりは、弾が篭められた弾倉みたいで不穏というか、すこし危険な感じがした。
 蓮と睡蓮がたくさん浮いている沼を心地よい風が走る。
 環境問題とかなにひとつわかっていないくせに、この風景はいつまで大丈夫なのだろうなどと自分のことだけ考えている俺だ。

9月7日 「北の国から」最終回
 倉本聰は最後の本として「遺言」を書いてはいないような気がするが、そんなことはどうでもいい。
 地井武男の慟哭のシーンにはまいった。いつか俺にもそういった、大切なひとが先に逝ってしまう日がやってくるのだろうか。俺は残されるより先に逝きたい。でも死ぬのは怖い。
 北の国からは傑作だ、だけど田中邦衛はちょっと…というもの言いを俺はずっとしてきた。あんな人間はいない、あんなしゃべりはないでしょうと周りに言ってきたと思う。だけど前言撤回する。
 あんな人間がいてほしい、いや、いなくてはダメだ、と。
 明日日本中でどのくらいの数の競輪レースが実施されるのかしらんが、「北の国から」を観た選手の感動が呼び水となって、「いい競走」の頻度が上がれば素敵だ。
 いやそんなの大きなお世話か。他人に影響を期待してどうする。俺が触発されなければ。俺がなにかしなきゃいかんのだ。そうだよな。

9月4日 新人
 87期がデビューして各地で走っている。ケタ違いもいれば、なんでこんな弱いの? というのもいる。
 競輪学校を卒業してデピューまでの何ヶ月間が重要だと誰かは言う。俺もそう思う。ただその何ヶ月間をただただ街道100キロとかやられてもとも思う。どういうことかって。プロデビューなのだから、バンクでの実践練習もかなりの頻度でやってほしいのだ。もう新人を見ていると競輪になっていないのが多い。いやこれから覚えていくのだからという人もいるだろう。だけどギャンブルの対象なんだから、最低限の「競輪」はやってくれなきゃ。彼らの運動会に賭けているわけではないのだから。自転車競技者としてはなんとかなったと思って学校は卒業させたつもりかもしれんが、競輪選手にまだなっていない新人がほんとうに多い。

9月3日 たまにあること
 新宿中村屋での出来事。ぼくはインドカリーを食べていた。店内は半分ぐらいの客の入り。むこうのほうの席から中年の婦人がぼくの隣の席に移ってきた。「こっちのほうが落ち着くから、ごめんなさいね」と婦人はウェイターに言い、「インドカリーをください」とはっきりした声で注文した。そこまではいい、至極日常の風景である。ちょっとしたら婦人はハンドバツグを抱えて席を立った、トイレットに立ったのか電話なのかしらんが。それから全然もどってこないのである。女の店員が出来上がったインドカリーを持って席まで来て、不思議な顔をしている。ぼくはとっくに食べ終わっているのだが、どうにも隣が気になる。再度女の子がカリーをおぼんに載せてやってきたが、隣は無人。これってなんかさあ、俺のせいじゃないよなあ。落ち着くからと席まで移動したのに、隣に派手なシャツを着たいかれ風がいたのがショックで帰ってしまったんじゃ…とは考えすぎですよねえ。よく電車やバスで、車内はけっこう混んでいるのに俺の隣だけ誰も座ってくれないことがあるんだけど、その現象と連動しているの? 自意識過剰か。
 でもなんだかこの種の出来事って気になるんだよ、まったく。

9月1日 ドコモのムーバ504i
 弥彦出張のときのこと。俺が504に換えたんだと、ワンプッシュオープンの電話機を得意げに見せたら、ちゃんもKちゃんも同機種を持っていた。ちゃんなどは色まで俺とおなじ黒だった。
 40過ぎた中年男が「504だよ」もないものだが、なんだか皆かわいいのである。

8月31日 夏休みの終わり
 きょうで8月が終わる。いやあ早いねえ、一年あっという間だなあという会話しかできない中年になってしまったが、何十年前まで、8月31日は夏休みが終わってしまう重要な日だった。その何度も吸った、ティーンエイジャーのときの8月31日という気分はもうどこにもない。当たり前だけど。
夜に観た「北の国から」総集編。吉岡秀隆はまるでジェームス・ディーンのような感性を見せる、日本でも特異な役者だ。

8月30日 朝早くでかける海
 朝の首都高速でぼくは河川敷のグラウンドにむかっている。夏の明け方の道は、昔テーィンエイジャーのぼくがぼろいセドリックで海へと走った道にそっくりだ。荷物を積めるだけ積んで、ダチ公を乗せるだけ乗せて、ぼくらは夏の明け方の道を飛ばしたのだ。
 野球の帰り道にインターFMで聴いた曲を探さなくちゃ。7時20分に流れたロックンロールを探さなくちゃ。
 

8月29日 夏休み
 三方の窓を開け放してソファでうとうと。ジェームス・ティラーの昔のなどを聴いていると、一瞬二十年以上もの時間をさかのぼり、ティーンエイジャーの夏の日にいるような錯覚におちいることがある。
 いくら暑くったって夏はじきに終わってしまう。

8月28日 ゴッドファザー漬け
 映画「ゴッドファーザー」ばかりを繰り返し観ている。「ゴッドファーザー」、パートU、パートV、特別完全版。ゴッドファーザーの何番目が一番いいかという議論は、映画ファンのなかでかならずといっていいほどなされるものだろう。いままでずっと最初のやつにはかなわないと僕は思っていた。が、じっくり見返すとUのロバートデニーロが演ずる若き日のコルレオーネもいい。そしてあんまりなあと評価が低かったVのなかにも素晴らしいシーンがあった。それはこうだ。老境にはいったアルパチーノが娘とダンスを踊る。そのダンスシーンに、シチリアの爆死してしまった妻とのダンスが、娘の母とのダンスシーンが被る。老いたアルパチーノと娘。若いアルパチーノと死んでしまったシチリアの若き美女。「この世界」とは無関係であった若き日のアルパチーノと恋人。むろんこれだけの三部作あってがゆえの名場面ということになるのだろうが、なんとも言えぬ哀感が伝わってくるのだ。
 
8月26日 弥彦ふるさと
 落車がなければゴールは誰と誰だったんだろう。村上の逃げ切りで神山と小野の競りは…、いやいやこぼれそうになった小野がもう一度いって、それなら山田のまくりだって…という会話もなんだかむなしくなってしまう。
 最後まで見せてくれよというのが切なる気持ちだが、落車が起こる前の競りは訴えるものがあった。
 村上の優勝には、逃げていればいいこともあるという言葉と、逃げて勝てる選手なのだという両方を思った。
 このシリーズ一番の「不快」は初日の九州の某。頭有力の先行屋の番手が競り。九州の某が番手を取りきってくれるだろうという本命の逃げと某の2着が一番人気だった。だけど本命がまくり展開になったところで某は切り替え、日本中でどのくらいの人がその瞬間、「そりゃないだろう」と言ったことか。本命の先行はもともとまくりの決め手も多い選手だし、ともかくメンバー的に逃げてもまくっても最後はこの本命の主導権と考えられた。なのにねえ…。
 結果は本命が簡単にまくり返して、自然にマーク取りきったかたちの選手は千切れ、それにスイッチした某が2着、終わってみれば一番人気だった。しかし結果2着だからって某の走りを俺は認めない。ああいうのは見ているお客さんをがっかりさせる競走だ。こんな結果オーライの車券じゃ払い戻しは拒否するというわけにもいかないが、せっかくの「本線的中」もよろこびは半減だ。
 それから佐藤慎太郎の一晩考えてのコメント。悩むのはわかる。わかるけれど競輪なんだから、朝から車券は売れるのだから、苦しくても前日に態度を、作戦を決するべきだと俺は思う。しかも特別の決勝なんだからなおさらである。
 明日の先発は一晩考えてからと言われても、プロ野球ファンは球場にくる。先発投手が誰かわからなくてもファンのその試合に対する興味が大幅に減じてしまうことはあまりない。だけど佐藤が競るのか三番手なのかがわからなければ、そのレースの車券はかなり買いにくくなるのである。昼過ぎの選手インタビューで「三番手に決めた」と公言した佐藤のやさしさは認めるが、できれば前日にその「やさしさ」を見せてほしかった。
 表彰式のとき弥彦村村長が、目標の売り上げをクリアし180億云々という発言をしていたが、なぜファンにむかっての発言が売り上げの数字なのだろう。もちろん買ってくれてありがとうという意味なのだろうが、なんだかいい気持ちはしなかった。もちろんまともにゴールしたのが3人だけという決勝戦のあと、ということも影響していたかもしれないが。
 選手のインタビューを聞いていると、大半の選手が最初に感謝を口にする対象は家族であったり先輩である。うそでもいいからまずファンに感謝するというコメントを発せられないものだろうか。公の電波を通して家族にメッセッージを発してなにになる。帰ってからだって伝えられるでしょう。電波を通じてしか感謝できないファンというものを、選手はもう少し意識すべきなのではないか。

8月20日 命!
 幼稚園年長組の甥っ子がやる、「命!」と発声しながらの人文字? のギャグに家族皆が大笑いする。俺もおかしくて笑うのだが、そのギャグの出どころは知らない。テレビを見ないとこういうところの関わりにはすごく弱い。
 さあ、前々検の日から弥彦だ。 

8月、とりあえずの目標 バカには目の前でバカ!と
 言ったってしょうがないでしょう。まあまあ、もうそんなに怒らないで。うん、もう関わり合うだけ時間の、人生の無駄だな。アホはほっておこう。ありゃどうしようもないと陰口でなんとか自分のバランスを保つ、なんとことでは俺は狂う
 バカには目の前で「このバカ!」と言わなきゃいかんのではないか?

8月19日 神様お願い
 きのうは地乗りでびしっと番手競り、ところが本番は一度もいかなかった千葉の某。きょうはその某が逃げ一の後ろ。きのうの愚行の天罰があるはずと、その某だけはずせばその某が流れ込む。競輪の神様はいったいどこを見ているのだ、なんて言ったってはじまらない。きのうだらしなかった選手を買うのが競輪だと言った人もいたけれど…。
 コメントも地乗りも人気ラインの三番手。だけど本番は違うラインの三番手だった岐阜の某。三連単の口開けシリーズだというのに、あきれてものも言えない。
 競輪の神様、こいつらなんとかしてくださいよう。
 
 「海馬」という本が面白かった。海馬とは脳のなかで、はいってくる無数の情報が必要か不要かを判断する部位らしい。その海馬の隣に扁桃体というのがあって、そこは好き嫌いを判断する。このふたつの部位は密接な関係にあり、扁桃体の活動が活発になると、海馬も活発に活動する。等々、じつに興味深い脳の話が続く。
 「脳は疲れない、疲れたと勘違いしても実際に疲れているのは目だ」という一文も印象的だった。

8月18日 975万の配当
 大井競馬の三連単で975万余の日本最高配当。的中は二票で、一人のひとが200円買ったものだそうだ。
 ということはそのひとが100円しか買わなければ1950万の払い戻しとなっていたわけで、主催者とすればそのほうがより話題づくりとなりよかったのでは? いやいや、そのひとがその馬券を選択してくれなければ「無投票」で的中なしの可能性もあったわけで、ともかくそのひとに感謝であります。

8月15日 黙祷
 正午からの一分間の戦没者を慰霊する黙祷。そのたった一分間のさなかに立川競輪2レースの払戻金が場内に読まれた。
 べつに競輪客に黙祷しましょうという強制やアナウンスもいらないが、せめてその一分間を意識している人のために、気配りはできなかったのだろうか。
 正午、テレビでそのことを伝えるのはNHK総合と教育テレビだけだ。もちろんその瞬間に全員が黙祷できるわけではないし、仕事をしながらでも心で慰霊はできる。一年に一回黙祷すればいいという問題じゃない、という考え方もまた真であるかもしれない。だけど、どう見ても、きょうが終戦の日だとわかっていない、そういう意識のかけらもないバカが日本にはうじゃうじゃいる。
 日の丸は揚げたいやつが揚げればいい。君が代は歌いたいやつが歌えばいい。国歌斉唱に起立しようが座っていようが、その人の勝手だと俺は思う。だけど戦争の犠牲者を追悼する気持ちとその戦争を反省することは、日本人の義務なのではないか。

8月13日 事故のビデオ
 名神高速で五人が死亡する事故があった。その事故を目撃した人のビデオというのがテレビで流れていた。
 炎上する現場を撮りながら「怖いねえ」とか「気をつけようねえ」とかビデオをまわしている女の、なんとも「不快」な声も一緒に流されていた。いつもこの種の「視聴者からの提供」で思うのだが、起きてしまった惨事にたいして、あまりにも無遠慮な「声」がセットになった「素人映像」が案外多い。

8月8日 ピンポン
 銀座テアトルの整理券入場なるものの手際の悪さにはいらついたけど、映画はほんと、よかった。
 窪塚は若いころのショーケンを彷彿とさせる。セリフだなんだというよりも、なんたって身体表現がかっこいい。
 ARATAもよかったし、荒川良々の演技にはほろっときた。
 ぼくは「ピンポン」を先に原作で読んでいたので、はたして…という気持ちで観にいったのだが、そんな杞憂は無用だった。唯一のミスキャストは竹中直人ぐらいで、あとはほぼ原作のイメージどおりだった。むろん原作どおりでなくたって全然かまわないのだが、ま、ぼくが竹中を嫌いだということもある。
 いやいや「ピンポン」、いい映画を観たなあ。
 

8月7日 アニータさん
 「アニータさんを告訴」「損害賠償請求へ」「自宅差し押さえ」などの見出しが躍る新聞の社会面。
 まったくお笑いというか恥晒しだ。
 日本のひとりの男がチリ出身の女に貢いだ。そしてその金の出所が公金だった。だから皆、躍起になって取り戻そうとしている。ま、たしかにこの事件で責任をとらされる人にも少しは同情はする。だれかが穴埋めさせられるから、とにかく幾らかでも戻させるということなのだろうけど…。
 こんなつまらん事件を大仰に伝えたニュースステーションで久米宏は、「青森の人に同情します」と発言した。こんなことで奔走しなければならない県民に同情するという意味なのだろうか? 
 もう格好悪いから、一人千円の募金で八億集めてチャラにすれば。俺も出すよ。もちろんこんなことに募金するなら、もっとほかのことにという意見には負けるし、街頭で「アニータ事件で騒ぐなんて日本の恥、ですから募金を」なんて活動したってほとんどのひとは無視するだろうけど。


8月6日 ホロコースト
 57年前、広島に原爆が落とされた、アメリカによって。
 小林よしのりは「わしズム・2号」のなかで、「アメリカの都市空爆や原爆投下は、人種差別によって、実験としてなされたものであるから、これは戦争の目的を逸脱しておりホロコーストであって、人類史上、最大の「悪」と言ってよい」と書いている。ホロコースト、つまり大量虐殺という意見には同感である。忠臣蔵なら、いつか憎いアメリカに仕返しをというふうになるのだが、日本のなかにそういう「風」は吹いてはいないし、「あれがなければ戦争はもっと悲惨な結果を招いたのだから」というアホな意見をしたり顔で言う輩までいるのだ。
 二度と核の悲劇を起こさないという日ではあるが、ホロコーストに対する怨みを忘れない日でもあるのだ、きょうは。

8月5日 この夏の…
 本屋さんにいくと、「○○文庫、この夏の100冊」とか銘打って文庫本が平積みにされている。それを見て誰かが、よしこの夏は本を読もう、この100冊を読んでみようと思ったとする。そしてそれを実行したとする。俺はそれがうらやましい。そんな夏休みがやってみたかったと、いまになって思う。なんなんだろうねえ。
 レネ・パウロという人の「浜辺の歌」という日本の唱歌ばかりをピアノで弾いたアルバムを、俺は部屋で聴いている。なんだかくすぶってはいるが、まんざら悪い気分でもない。

8月2日 シャンプーハット
 通販のアブトラニクス?とかいう筋肉収縮のマシン。最初は一個幾らだったのが、二個で価格据え置き、ついには三個でおなじ値段となった。いまに「いまなら10個ついてお値段据え置き」とかなるのだろうか。きっと倉庫に余ってしまってどうしようもないのだろう。
 CMの話でもうひとつ。
 メリットというシャンプーのCMで、三歳だか四歳の子どもがきちっと目を開けて、にこにこしながら気持ちよさそうに自分の髪をシャンプーしている。俺はこれが不自然でしょうがない。だって俺は小学六年までシャンプーハットをかぶらなけれぱ゛、自分で髪を洗えなかった。現代っ子は違うのだろうか。それとも俺がただのバカだっただけなのか。
 シャンプーハットという言葉が皆に通用するのか知らんが、説明はしません。なんたって文字通り「シャンプーハット」なのだから。


7月28日 イメージトレーニング
 前橋は松本整の優勝。松本は毎日のもがき練習の時、G1決勝のゴール前をイメージしているに違いない。イメージが現実になった。最初のG1制覇が繰り上がりのものだっただけに、喜びもひとしおなのではないか。
 俺だってイメトレはしている。たとえばジムのエアロバイクや脚を鍛えるマシン、頭に描くのは一塁への全力疾走だ。あと一歩早く一塁ベースに到達すれば内野安打がとれる。その時のためのもがきなのである。
 イメトレはまだまだある。たとえば2万円の配当を八千円とったときにいかな行動を示すかとか。払い戻しはどうする? 周りに見つからぬよう明日まで、いやいや、ちよっと抜け出して、鞄が必要だ、鞄を持って記者席を出るのは不自然では…、などなどいろいろ。トレーニングでもなんでもないな。ただの夢想であります。
 夕方、赤羽の駅前広場にはいい風が吹いていた。


7月27日 ただ、それだけ
 夏休みの高校。野球部とサッカー部がグランドを半分ずつ使って練習をしている。
 吹奏楽部の楽器の音が漏れてくる。
 水を撒いているいる先生、はしゃいでいる生徒。
 ぼくも二十年近く前、そこにいた。なにをしていたわけではないが、そこにいた。
 そしてそのとき、20年近くのちにぼくがこうやって高校生を見て、なんとも言えない郷愁を覚えるということは想像できなかった。それはいまぼくが見ている男子学生もおなじなのだろうか。ちらりと目が合った。彼はぼくが昔、彼と同じ高校生だったということ、いまぼくがそんなことを考えていることなど及びもつかない。当たり前だ。だけど彼も何十年かあとに、ぼくとおなじように学校の風景に郷愁を感じるのだろうか。
 ぼくが激しく競輪に淫していた時期、やられて帰る街中に笑う女子高校生の脚はいやにまぶしかった。あの女高生たちもいまではいい大人だ。そして街にはいつでも、新しい女子高生が笑っているのである。ただ、それだけだ。
 アンニ・サルバドールの甘い声が「人生はあっという間」、とささやいている。


7月26日 LOVE AND ROCK'N'ROLL
 この暑さ!
 身体はだるいし足は重い。足には冷えピタ、体内には頭痛薬という毎日だ。
 せめて音楽でリラクゼィションと、ハワイアン、ボォサノバァ、沖縄…、CDショップのワールドミュージックの棚ばかりを漁る日々が続いていた。だけどなんだか、いいんだけどなんとなく…というところに現われたのがYO−KINGのアルバム。真心ブラザーズのYO−KING だ。アルバムタイトルは「ラブ&ロックンロール」。冒頭の「ドリーム・イズ・オーバー」は強烈だ。この一曲で、ぼくは再びロックンロール地帯まで揺り戻されてしまった。


7月25日 レイクのCM
 パソコンがどうしても欲しいという亭主、そんな余裕はないという妻。でかいレイクの看板のビルからヘリが出動する。
 と、妻がパソコンが福引で当たったと大騒ぎする。ガックリという感じでヘリはもとのビルに戻る。
 こんな低脳なサラ金のCMがある。
 いいか、金がなくてパソコンを買うのに、どうして信販系より金利の高いサラ金で借りて買わなくちゃいけないんだ。信販ローンの組めない人はうちで、というメッセージならまだわかるけど…。
 信販クレジットという知識のない若い人があのクソCMを見たら、レイクで借りてパソコンを買うという手段にでるかもしれない。もちろんサラ金系も大手は金利を下げているし、信販系よりメリットがあるのかもしれないが、それならそのことを明示すべきである。
 レジャー資金などが足りないときはサラ金へどうぞ、というのがいままでのサラ金CMの論調?だった。むろん現実に金を必要としているひとたちにはいろんな場合があることは承知しているし、そんな論調は建前だけと言えなくもない。
 だけどとりあえずはそうだった。
 しかし最近は物を買うのもサラ金で借りて、という戦略に変わってきている。
 なにをごちゃごちゃ、消費ということには変わりはしない、という言葉もあろう。だけどぼくには、このごろのサラ金CMに嫌な意思を感じるのである。

7月23日 そもそもは
 俺はこのホームページを競輪のことを書くために立ち上げた。
 数年前の開始当初のページは大半が競輪ネタだった。
 いいドラマ観た、すげえ競りだった。そんな言葉が踊っているページだった。
 いまだってほんとうはそうしたい。
 あいつの競りは半端し゜ゃないとか、これが競輪だよ皆の衆とか書いていたい。そういきたいのはマウンテン・マウンテン(某記者が…したいのはやまやまなんだがという時に使う高等な表現方法)なんだが。
 だけどなんだ。番手勝負と言っておいて何もしないで罵声を浴びる不信な選手。敗者戦にまわるやすぐに帰郷してまう選手。なにが厳しい勝ち上がりだ。負けりゃ帰ってしまうのだから話にならん。
 繰り返す。俺は、こんなすげえ競輪があったんだというページにしたいのだ。だけど現状の腐った競輪ばかりを見させられて何が書けよう。


7月22日 550円殺人
 8チャンネルのワイドショー(ダメな番組だとか言いながらもけっこう見てしまうんだ、ここを)で、550円の商品を万引きした男に刺殺された店員のニュース。そこでおすぎだかピーコだかしらないが、こういう小額の商品ばかりのところでは、経営側が従業員に犯人を追いかけることをしないとか徹底しないと…などと発言していた。じゃ高額の商品なら追いかけるように指導するのだろうか。むろん550円で命を落とすのは無念だ。しかし殺された店長の頭のなかに「550円」はない。細かい経緯はわからないが、ただ悪を憎むという念が沸騰したうえの行為だと思う。550円だろうと一億だろうと追っかける人間は追っかけるし、いかないやつはいかない。
 悪を許せぬという気持ちは金額の多寡ではない。
「550円」「おにぎりの万引き男が」という見出しが暗に誘導する論調は、亡くなった桶田さんにたいして失礼である。
 まずは桶田さんの行為を賛辞する。くだらない私見はそのあとに発言するべきだろう。

7月18日 プライベート サーファー
 「いつだって 泳げなくても 飛びこめるように ねえ誰か この世界を 全部 洗って」
 UAのプライベート・サーファーがえらく気に入ってしまって、何回もリピートして聴いている。
 ケンジ・スズキのギターが気だるくていい。ケンジ・ジャマーの「フラ フラ ダンス」、ソロ・アルバムもいい。
 今井栄一のハワイの本を読んでしまったら、ハワイへの欲望がせり上がってきた。
 泳げなくても、ノースシェアだよ、うん。

 レッチリの新しいのもいい。
 UAのひさしぶりの新譜も出るらしい。

7月15日 初め戦争はなかった
 11日付けの朝日新聞・天声人語から。
 
「(前略)考古学は「もの」を手がかりに時代や社会を再現しようとする学問だ。(中略)「もの」の分析は進んだかもしれないが、時代や社会の全体像を描こうとする迫力に乏しい。(中略)ところが、意欲的な研究がいろいろ現れ、考古学に活気が出てきた。そんな研究者の一人が10日に亡くなった考古学者の佐原真さんだ。常に現代いう地点から古代を考える人だった。たとえば「初め戦争はなかった」と唱えて戦争の起源を探る研究は刺激的だった。戦争は農耕社会とともに始まったという説だ。人類の400万年にのぼる歴史から見れば、ごく最近のことにすぎない。しかし文明が世界を滅ぼすほどにまで戦争を育ててしまった、と。(後略)」
 欄の最後は佐原氏の言葉でこう結ばれている。
 
「しかし、戦争は人類の宿命ではない」

7月13日 悲しきギャンブラー
 高石友也の懐かしき「受験生ブルース」の出だしは、「おいで皆さん聞いとくれ、オイラ悲しき受験生」だったか。(不正確かも) 
 今日から中央競馬の三連単が全国発売。アツい、聞いてくれっていうのは格好悪いんだが、「悲しきギャンブラーのブルーズ」を聞いてください。
 新潟の10レース。ぼくはいろんな理屈をつけながら七頭の馬を選んだ。七頭の三連単ボックスは35通り。多すぎると大外のアツスパーコを切った。アツスパーコを一頭切って20通りのボックスにした。
 ところがだ。そのアツスパーコが三着で配当はなんと39万余り。くわあーーーーーーー。
 一頭切って、千五百円ケチったために39万円を逃したのだった。
 ま、命をとられたわけではない。などとすぐに平常心には戻れない。戻らない。
 思い出させてくれるなと、岩井志摩子の「ぼっけえ、きょうてえ」を読む。地下鉄でも読み続ける。なんとか物語に入り込もうとする。なんとも言えぬ変な怖さに身体が覆われた、とそのとき、知らぬ誰かの腋の匂いがぼくの鼻先に漂ってきた。汗の匂いが。
 シオンが「アイリッシュ・ララバイ」という歌で、「好きだったあなたの その香りが 汗のにおいだったと 気づいたとき…」と歌っている。
 ぼくはベニというダンサーのフラメンコ舞踏を観に都内のタブラオに向かっている。39万を逃したアツさを身体のどこかにぶら下げて。
 フラメンコの踊りも汗のにおいがした。
 

7月9日 エデンの東
 ある写真家が、エデンの東のテーマ曲は何百回聴いても鳥肌が立つと言っていたが、ぼくも同感である。
 いまジェームス・ディーンの三つの主演作のサントラが集められたアルバムが部屋に流れている。
 以前に書いたかもしれないが、ぼくはジャイアンツのラストシーンがすごく好きだ。
 それはこうだ。石油王になったディーンのばかばかしいほど派手なパーティ?からロック・ハドソンの一家が帰ってくる。ハドソンは元のディーンの雇い主である。
 ハドソン、ディーン、そしてハドソンの妻、エリザベス・テーラーとの間に流れる物語なのだが、それはここには書かない。ともかくハドソンももう孫がいる年齢になっている。ハドソン一家は帰る途中にあるレストランに入る。そしてそこで差別的な応対を受ける。なぜなら、息子の嫁が黒人であったからだ。以前ハドソンは黒人が自分の家族になることに大反対したことがあった。店主はハドソンに「黒人お断り」と書いた吊るし看板みたいなものを見せる。
 ハドソンは店主に殴りかかる。いい歳をした男同士の喧嘩が続く。皿は割れ、店は滅茶苦茶になる。喧嘩が終わって店主は、負けたよという表情になって「黒人お断り」という看板をはずす。
 画面が切り替わる。ハドソンとテーラーがいる家。幼児ベッドのなかに色の黒い赤ちゃんと色の白い赤ちゃんが一緒にいる。その赤ちゃんの眼がアップになる。そしてそこにオルゴールの音色で「テキサスの瞳」が流れて映画は終わる。
 サントラ盤の最後もその「テキサスの瞳」だ。
 
 昔、ゼロックスのCMで、やっぱり赤ちゃんの眼がアップになって「What Do Next」と歌われるというのがあった。

 そういえば、そのCMが映画「青春の蹉跌」に使われていたなあ。「青春の蹉跌」、しばらく観ていない。

7月8日 七夕の願い事
 何日か前の地下鉄の駅。七夕飾りにたくさんの願い事を書いた短冊が括りつけられていた。「いい役者になれますように」「平和な国家」「パチンコで確変がきますように」などなど。まだ余っていた短冊にぼくも書くことにした。黄色の短冊を選んだ。「車内で化粧、電話、バカ女が消えてしまいますように」と書いた。
 いまになって、せっかくの七夕様の願い事につまらんことを書いてしまったと後悔している。
 もっとなにかねえ、七夕なんだから。


2002年の七夕
 「あなたが雲に隠れようとしたら わたしは強い風を吹かす 雲が切れたらそよ風になって やさしく包んで暖める Get It On ,Get It On Baby」(シーナ&ロケッツ)
 2002年の七夕、今夜晴れるか。


7月7日 どうしようもない奴ら
 6日の立川F2開催。異常なピッチで、まるでレースに参加しているかのような誘導員、逃げ一の大本命だというのにジャンカマシでつぶれる先行屋。こんな腑に落ちない、下等な、疑心の募るものを見せておいて、なにが競輪は変わっただよ。
 どうしようもない、この世界は。
 場内の大罵声の意味を選手はわかっているのだろうか。
 反省はどこにもない。

7月6日 花の名前
 ベランダの小さな向日葵は終わって、ハイビスカスが咲いた。何年も冬を越しているせいか、買ってきたときよりは随分と小ぶりな花になっている。
 ぼくは花の名前をほとんど知らないのだが、ハイビスカスだけはすぐに識別できる。(当たり前か)
 昔、ぼくの着ていたアロハシャツの模様を見て、「これがハイビスカスという花」と教えてくれた彼女は元気にしているのだろうか。

 もう7月、「それにしても短いのさ、春、夏、秋、冬」とチャボが歌っている。
 それにしても3連単は当たらない。

 
6月30日 ワールドカップでもなく、浜崎あゆみでもない
 横浜のワールドカップ決勝に負けるなと、お台場で浜崎あゆみのコンサート、という記事があった。
 ワールドカップに負けるな、野音でシオンのコンサート、という記事はどこにもない。
 「野音でシオン」、日比谷野外音楽堂でのシオンのライブにぼくはむかう。
 「もしワールドカップ決勝の切符があったら、どうする?」「もちろんシオンのほうを選ぶわよ」とあの人は言った。「じゃ、チケットがあって、しかも決勝に日本が出ていたら」「うーん、日本がいるならワールドカップかな、やっぱり」
 俺は日本が出ていようがなんだろうが、なんのためらいもなくシオンのライブのほうを選ぶ。

6月23日 「竜二」
 文庫化された生江有二著「竜二 映画に賭けた33歳の生涯」を読む。
 
<「金子、どうした。おい、起きろ」 ベッドの脇で松田優作が声をあげる。 「松田さん、金子さんの手を握ってあげていてください」 看護婦の頼みを松田は断った。 「駄目だ。手なんか握らない。おい、金子、起きろ。起きるんだ、金子」 それから臨終までの四時間、松田優作は立ちっ放しで正次を呼び続けた。>
 
松田優作の葬式での原田芳雄の弔辞が蘇ってくる。「優作、役者だったらもう一度生き返ってみろ」
 金子正次と松田優作の命日は奇しくも同じ11月6日だったという。


6月21日 二人前食われちゃあ
 酔っ払って王子駅周辺。味噌汁が飲みたいという理由で松屋へ。誰かと一緒だったら、味噌汁だけ三つを頼むという行為を俺は平気でするが、ひとりだけだと恥ずかしくてとっともできない。しょうがなく牛丼だ。と、あとから入ってきた野球帽をキャッチャーのように逆にかぶったあんちゃんが騒がしい。声がでかい。「これほんとうにごはん大盛り?」とか店員に聞きながら生姜焼き定食かなにかを食べている。食事のときぐらい帽子を脱げと言ってやりたい。目が合えば戦闘モードだ。きれいに食べ終わったあんちゃん、もう一度食券を買って店員に渡した。「マーボライス一丁」と男の店員。にっ、二人前か。勝てない。俺の戦闘モードはしぼんだのであった。

6月18日 日本のワールドカップ
 あの戸田の涙にはもらい泣きしてしまった。
 日本のワールドカップは終わった。一億総評論家でトルシエがどうの、松田がどうのといろいろな意見が渦巻くのだろうが、やっぱり日本はよくやったと思う。トルシエはまず、自分の荷物は自分で持て、というところからはじめたと言う。フランス人が日本人に対しての言葉として、ぼくはなんだか奇妙に感じたが、感心もした。
 サッカーのベンチ。世界級の監督はヨーロッパ人が圧倒的に多い。スーツを粋に着込んだ伊達男がベンチで狂喜するさまは見ていて実に楽しい。
 しかしなぜ選手たちはユニフォームを引っ張るという醜い行為を隠れて繰り返すのだろう。やらなきゃ損ということなのだろうが、あれだけのすごいスポーツなのに、この行為だけは白けた気分にさせられる。審判が全員を裁くのは無理だろうから、自主規制すべきだろう。ユニフォームを引っ張るという行為はボディ・チャージとはかけ離れたところにある。
気のせいかもしれないし結果が負けだからかもしれないが、宮城スタジアムのサポーターは関東や関西に比べて迫力がなかったというか、おとなしく感じたのはぼくだけだろうか。ま、東北らしいと言えばそれはそれで納得なのだし、べつにどうというわけじゃないが。
 選手たち、監督、コーチが場内を一周しサポーターに手をふっているとき、スタッフだか関係者だか知らないが、その集団のなかで携帯電話をいじっているやつがテレビに映った。どんな場面でも、どんな団体にもバカはいるものだ。
 
 韓国の勝利を放映したテレビでセルジオ越後が言った。「日本のゲームで日本人は皆感動したと思う。いまここでは日本人の私が韓国のゲームに、韓国のサポーターに鳥肌が立っている」と。この人、いつまでたっても日本語は巧くならないが、時々素晴らしい感性を伝えてくれる。

6月17日 トルコ
 いよいよ日本−トルコ戦。新聞、テレビはこぞって、トルコというチームは、その力は、日本は勝てるのか? トルコという国、面積は、人口は、世界三大料理のトルコ料理…等々「トルコ特集」だ。その昔、現在のソープランドは「トルコ風呂」という名称でとおっていた。ある年齢以上の日本人の男子にとって、「トルコ」と言えばまずはそのことなのでは、などと考えてしまうのは俺だけではないだろう。
 
6月16日 釣りはいらねえ……そのこころは
 吉本ばななの「不倫と南米」「虹」、そして音楽雑誌を一冊持ってレジへ並ぶ。商品券を三枚出すと、「この券だとお釣りが出せないので2枚と現金のほうがよろしいかと…」と本屋の店員。「いやそれでいいです」と俺。これって釣りはいらぬということだよな。しかして実態は、俺が現金を一銭も持ち合わせていないということなのだ。

6月14日 さすが、ポルトガル
 アメリカが嫌いだからという理由だけでポルトガルを応援した。退場ふたりで9人というまったくの数的不利のなかでの、まさに怒涛という表現がぴったりくるポルトガルの攻めには鳥肌が立った。いいドラマ観させてもらいました、だ。
 街に氾濫する「ニッポン」の嬌声、君が代に日の丸。俺は正直、嫌悪に近い気持ちが沸いてくる。
 だけど俺が19やはたちのガキだったら、おなじことやって街に繰り出すだろうという確信もある。
 
6月12日 44歳
 どこの局でもトップニュースはワールドカップ。ニュースの順番はほんとうにこれでいいのだろうか、などと思いながらも「熱狂」に引っ張られてしまう俺だ。
 韓国−アメリカ戦での韓国選手の復讐?パフォーマンスは滑稽だった。あのソルトレークでの「恨」がいかほどのものだったかは俺にはわからない。しかし勝ってもいない引き分けの局面であの行為は…。サッカーの神様がすっと引いてしまったのを俺は見逃さない。
 「41」という曲のなかでシオンは、「なにかのせいにする歳でもないし 思い出に浸る歳でもない ただやることをやるとしたら ちったあ鍛えられているはずの歳だ」「街は忙しい そして騒がしい だからちょっと静かに 人は悲しい そして寂しい だからもっともっと強く」と歌っている。
 
 44歳の俺もちっとは鍛えられていればいいのだが。

6月2日 伏見稲荷と伏見俊昭と高松宮記念杯
 前検日の前の日に京都に着いて、そのまま伏見稲荷へいった。なぜ伏見稲荷なのか。かつて安吾が原稿用紙何千枚かを入れたトランクひとつだけを持ってやってきたのが伏見稲荷の周辺だった、という記憶は頭にあった。
 一の峯までは30分くらいと案内されていたと思ったのだが、歩けど歩けど急な坂道が続く。誰かが言った。「これだけ伏見稲荷で歩いたんだから、特選は伏見からでしょう」
 初日の特選レース、伏見−岡部とそのまま入って2550円もついたのに、ぼくは一枚も持っていなかった。
 決勝の9人でのファンサービスのとき、「欠場してしまった金古さんの分までがんばりたい」と伏見は言った。らしくないレースが続き当日欠場した金古のためにがんばるという発言は、ぼくにとっては不快である。競輪は国体ではない。そのレース、レースで地域戦になるという性質はあっても、レースに関係なく福島の皆がんばれと思っているのは選手の家族やその関係者だけだ、と書けば極論に過ぎるのか。伏見にはこう言ってほしかった。「二日目のレースでファンの期待に応えられなかった分も決勝はがんばりたい」と。
 「いいドラマだ」と思わせるレースが、「無気力、背信、不可解」というレースの数を圧倒的に下回った4日間だと思うが、いちいち説明はしない。面倒くさいし言っても無駄だ。
 風邪と酒とカラオケのせいでのどが痛い。
 「今日が最後の夜だ」と言って酔っ払う、出張の、明日帰るという夜、つまり準決の夜は最高だ。
 いったいぼくはこれからあとどのくらい、特別競輪出張の準決の夜をむかえられるのだろうか。それはこれからぼくがむかえられる夏の回数とおなじく、たいした数ではないのだ。

5月20日 「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」
 体はたしかに疲れているのだが、一日中ぐたぐた寝ているという休息をぼくは得意ではない。
 映画でも観ようと新宿へ。だけど時間が合わず中途半端。
 「エスパス」でパチンコ、エスパス二号館には初代の「大工の玄さん」があった。
 打っている途中でふと下北沢の沖縄そばが頭に浮かんで、うん、オリオンビールと沖縄そばだとパチンコはやめ。
 小田急線で下北沢、下北沢南口商店街の端にある店はシャッターが閉まっていた。うーん。
 新宿へ戻って中村屋の2階で生ビールにインド・カリー。中村屋のインドカリーは高校の同級の三瓶君に教わった。何年か前、その三瓶と平のオールスターのときに会った。三瓶は故郷の福島県、平に戻っている。三瓶は元気にしているのだろうか。その平オールスターから何日かしたあと、某所にこんな葉書が届いた。「平の帰りの電車でアオケイの竹林さんを見ました。グリーン車でビールを飲んでいました。競輪記者はなかなか豪勢で…」というような内容であった。悪意のない友好的な手紙だったので、それを受け取ったひとがぼくに教えてくれた。
 その平オールスターはひどくやられた。ぼくの経済的スケールに照らせば身に染みる負けの額だった。そんな「どうでもいいや状態」のぼくがクリーン車でビールを飲んでいる。そんな光景がその人には楽そうに見え、ぼくの肩ががっくり落ちているのはわからない。「ひとは見かけによらない」の格言とは少しニュアンスが違うかもしれないが、その葉書のことを知ったとき、なんともおかしかった。
 江國香織の短編集「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」の表紙が気にいってつい買ってしまった。
 江國香織を読むのかあ。

5月19日 「特選」という表示
 何日か前の新聞に、「特選牛肉」などの「特選」という表示は曖昧であり今後やめる旨の記事があった。
 競輪もやたらこの「特選」という言葉が多い。初日はたしかに「特選」なのだろうが、敗者戦に「特選レース」というのもなんだかなあと思ってしまう。

5月15日 十七年ぶりの新宿の店
 三鷹の駅の改札口で手を挙げた母は黒い帽子をかぶっていた。
 母の背骨が少し前傾していて、前より母が小さくなったような気がして動揺した。
 「見てみたい」と言った神代植物公園のばら園は平日だというのにすごい人手だった。ぼくが大人500円の入場券を買ってきたら、「65歳以上は半額って書いてあるわよ」と母。「もう買っちゃったからいいよ」。母は改札の男のひとと話を交わしている。「以前は65歳以上は無料だったんですけどねえ」と係のひと。
 「どうせ石原でしょう、あのひと来年も出るらしいよ」と言った母は石原慎太郎が嫌いである。
 ばら、バラ、ばら。
 写真を撮るひと、絵に写すひと、においをかぐひと。
 一番気にいった風の「スパニッシュ何とか」、そのつるバラの前のベンチで母は煙草を吸った。そしてぼくはそれを写真に撮る。
 ラッシュ状態のバスの車内の95%はお年寄りだった。「これ以上は乗れません」という大威張り? な感じでバスは途中の停留所に立っているひとたちを「パス」して吉祥寺に゜到着した。
 まだ夕飯には時間が早いと井の頭線で下北沢へ。商店街を歩くと以前雑誌で読んで気になっていた沖縄そばの店があった。食べようというぼくの提案は、「さっき深大寺そばを食べたでしょう」というもっともな意見で却下、壁一面に絵画を飾っている喫茶店でコーヒーを飲んだ。
 「ここからは新宿も近いんだろう」と母。二十年近く降りていないという新宿へ行きたいという。「二十年っていうのは大げさだろう」とぼく。
 母は唯一知っているらしき住友三角ビルにぼくらを誘導した。そのビルの上で魚を食べた。ビールとライチ酒にほろ酔いの母は唐突に、昔いった飲み屋さんにいってみたいと言い出した。
 住友ビルの地階まで降りて、ホームレスを排除するために奇妙な物体を並べた非効率的な醜い道を歩く。「これも石原のせいだ」とぼくが言おうとする前に母が「石原がダメだから」だと言った。
 線路をくぐって西武新宿駅を左に折れる。「アメリカンブルーバード」の商店街にそって大久保の方向へ。奥の角にあるビルを指差し「このビルの4階にあったはず、店長は大久保さんっていうの」と母。エレベータで4階に上がった。エレベータの右隣にあるはずの店はシャッターが降りていた。閉店のシャッターではなく、現在使用していないことを表す鉄のシャッターだ。
 母は納得のいかないような顔をしている。そういうことは得意じゃないけど、ぼくはその隣の店にはいって「事情」を訊いた。「大久保さんのお店は隣でしたよ、去年の8月かなあ、店を閉められて。いやあ、移ったとは聞いてないなあ」と「メンバーズ・クラブ何とか」と看板のあった店のマネージャーらしき男が教えてくれた。
 外へ出ると夜風が気持ちよかった。もうひとつ、よくいっていた店があると母が言った。場所は西口、偶然にも数日前にぼくがうろうろした柏木公園のそばだった。乗りかかったる舟だ、西口へと引き返すことにしたが、新宿ぺぺのまわりはやたら混雑してきていた。ぼくの歩き方が不機嫌に映ったのだろう、母が「もうやめにしようか、疲れてるでしょう」と言った。「いや、いくよ」とぼくはぶっきらぼうに答える。どうして近しいひとの前だと感情がすぐに出てしまうのだろう、と自分で自分が嫌になるのだが、わざと重そうに歩いてしまう。いつまでたっても、俺はオフクロにとってのいかした息子にはなれやしない。「21世紀」という店の名前を母は言った。
 「21世紀」は柏木公園のよこの墓地がある道をはいったところにいまもあった。 ロカビリー風の衣装をまとった女の子が階段の下から「いらっしゃいませ」と笑顔をむけた。
 口開けに近い時間らしく店内には客はいなかった。小さなステージの横でバンドマンが音合わせらしき行為をしていた。
 「ここでいいの?」「そうここなのよ」と母は微笑んでいる。
 ぼくはカナディアンクラブを頼み、ぼくらは水割りを飲みはじめた。母は横で酒を作ってくれる女のひとに、しきりに店長のことを尋ねていた。母はすこし緊張しているようにも見えた。ステージでいろいろな音が鳴りはじめ、客もぽつぽつと来店し、店が少しずつうねりはじめ、ぼくはやっと落ち着いてきた。
 一時間ぐらいが経過したのだろうか、店にはいってきた男が母に手を挙げ、母も返した。「店長ふとっちゃって、まあ」とぼくにむかってか隣の女性にむけてか、母は言った。
 店長がぼくらのテープルにきた。「懐かしい」「何年ぶり」「17年?」「うちの息子」「ぼくも孫が」「このあいだ平井賢の番組で…」「京子ちゃんが」「清水建設の」等々のことばが二人のあいだで速射砲のように交わされていくのを、ぼくは聞くともなく聞いていた。
 「一度ひどくここで酔っ払って、なんとか八王子に着いたんだけど、そのときあなたがコスモ(マツダの車)で迎えにきてくれて、帰ったはいいけど、あなたたち四人が全員起きて怒った顔をしてて…」。たしかにそんなことがあったような気もする。俺もふくめて、三人の弟たちにとって酔っ払って深夜に帰ってくる母から受ける動揺があったのだろう。
 「息子とこういうところで飲むのが夢だったのよ」と母は店長に何度も言った。
 母が手洗いに立ったとき、ぼくは店長に「当時」の母のことを訊こうと思ったのだが、どう訊いていいかもわからず、要領を得ない会話になっただけだった。「竹林さんは人気があってねえ、ともかく痩せてて…」。母が帰ってきて「息子とこういう場所で飲むのが夢だったの」と繰り返し、そのたびに店長はそれに絶妙の相槌を打つ。
 母が十何年か前、ここでジルバを踊り、バンドに合わせて歌謡曲を歌ったりしていた。
 母はたしかにここで遊んでいたのだと思うと、ぼくは妙にうれしくて酒が進むのだった。
 店を出るとき、店長は母の腰をやさしく抱きながら出口までエスコートした。
 母の背骨はまっすぐにのびていた。
 
 5月14日 多大なる影響
 昔、高校生のころだ。吉田拓郎の「島田順子が吉田拓郎に与えた多大なる影響」というタイトルも長いが本編も10分以上という曲があった。島田に出逢わなければ、ぼくは音楽の道など選ばす河合楽器のサラリーマンになっていただろう…。そんな内容の拓郎の曲のメロディは、ボブ・ディランの「ハッテイ・キャロルの寂しい死」という曲から借りたものだということをある先輩から知らされた。ぼくはその「ハッテイ…」がはいっている「時代は変わる」のアルバムが欲しくて、ある日曜日、古レコード屋をまわり歩いたのを憶えている。なぜ古レコード屋だったのか、多分お金の問題だったのだろう。
 何かが欲しくて買いたくて、街を歩くという行為はぼくにとってポジティブなものだ。ただの物欲だろうと批判するなかれ。消費意欲とは立派なエネルギーなのだ、少なくともぼくにとっては。
 「だが すべての恐怖を理論化し はずかしめ 批判するあなたがたよ 顔からハンカチをとりなさい いまは泣くときではない」とディランは「ハッティ…」で歌う。
 なんだか脈絡のないことを記してしまった。

5月13日 「あべこべ」
 久世光彦の「あべこべ」に登場するなんとも魅力的な「弥勒さん」。
 その「弥勒さん」には誰かモデルがいるのかしら? と、ぼくが訊くとあの人は、「樹木希林じゃないかしら」と弥勒さんみたいな口調で答えてくれた。
 いかにも、弥勒さんは樹木希林だよなあ。
 
 瀋陽の日本領事館での事件の模様が繰り返しテレビで流される。
 泣き叫ぶ母子をひきずる武装警官。その眼前で警官の帽子を拾う職員はたしかに阿呆に見える。しかし、もしあの場にぼくがいたら、ぼくはどういう行動がとれるのだろうか。
 願わくば反射的に、警官に蹴りを入れてしまう人間でいたいものだが。

5月12日 ホテル・カリフォルニア
 新宿西口から少し外れたレゲエ・ショップの前の柏木公園では、蛍光オレンジ色の細長い風船みたいなものを飛ばし合って、ジーンズの男女が遊んでいた。それを見るともなく座っているホームレスのベンチの横にある木の枝には、洗濯物が風にゆれている。近くのライブハウスへ繰り出す「集合場所」なのか、黒っぽい服にやたらピアスを顔にほどこしている女の子たちが、ホームレスが座るベンチの先の道にたむろしているのも見えた。
 ぼくがはじめてサングラスを買った露店のような眼鏡屋。ロックのビデオばかり売っているショップ、インディーズ専門店。
 歌舞伎町へ抜ける地下道には風景画が飾られていた。ぼくは新宿を歩きながら考える。
 花園神社の境内に隣接しているビルにあった「アジア探偵事務所」は「アジアグループ」と名称が変わっていた。すごく派手な衣装の老女が杖をつきながら歩いてきた。
 「末広演芸亭」、「どん底」、新宿二丁目、新宿御苑、ぼくはともかく歩く。歩いて思考して脱出を試みる。
 とりあえずいままでは、この方法でピンチを脱してきた。ハイとローを調節してきた。
 まだ利くか、まだ有用か、それとももう使えないのか。ともかくぼくは新宿を歩いている。歩いてなにかが降りてくるのを待つのだ。
 「最後に覚えていることは 僕が出口を求めて走りまわっていることだった 前の場所に戻る通路が どこかにきっとあるはずだ すると夜警がいった“落ち着きなさい われわれはここに住みつく運命なのだ いつでもチェックアウトはできるが ここを立ち去ることはできはしない”」イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」の最後のほうの訳詞である。
 
 ピンチのあとにチャンスあり、 じゃなかっのかよ!

5月10日 「君は裸足の神を見たか」
 昔、「君は裸足の神を見たか」という映画を観た。独立プロ系だったか、いや、どこかの映画学校の卒業制作だったか、ともかく二番館(いまはこんな言い方は通用しないか)での細々とした上映だったように記憶している。
 秋田県の角館でのロケ作品で、東北の小京都の風景が画面にあふれていた。
 角館には父の墓がある。もう何年、十何年参っていない父の墓がある。その父の墓がある角館の川や桜や駅や道路が映し出される「君は裸足の神を見たか」がときどき無性に観たくなる。ビデオ化はされているのだろうか。たとえなっていたとしても入手できるかどうかはあやしい。ま、ビデオより小さくってもいいから映画館のスクリーンで観たい、というのが正直なところだが。

 「テレビもない、ラジオもない ビデオもない ファミコンもない 電話もない FAXもない 車もない お金もない 時間はある 僕らは自由さ 暇つぶしをしよう 何して遊ぼう 思いつくかな どうかな
 ローソンもない 東急ハンズもない 少年ジャンプもない 週刊モーニングもない カラオケもない ゴルフ場もない カードもない 仕事もない 君がそばにいる 僕らは自由さ 暇つぶしをしよう 何して遊ぼう 楽しくやれるかな どうかな
 イメージしよう 君とのバカンス イメージしよう 気ままなバカンス イメージしよう 自由なバカンス イメージしよう すてきなバカンス」
とリクオが歌っている。
 
 沖縄に行きたい!

5月9日 人生は過ぎ行く
 「ヨイトマケの唄」が聴きたくて買ってきた「美輪明宏全曲集」。
 「時間は流れる 恐ろしい速さで 私を見捨てて 人生は過ぎ行く 指からこぼれる 最後のこの恋 すがって泣いても 残酷に去りゆく」と歌う美輪の言霊が背骨を動かす。
 
 おい竹林、ちょこまかなにかをやっているつもりだろうが、あんたなーんもやっちゃおらんぜ!

5月7日 大垣記念
 大垣記念のダイジェスト。
 9レースは、会田正一−大網俊昭と並んでいたのが、いきなり逆になって会田の番手まくり。どんな作戦を組もうと自由なのだろうが、個人的なもの言いを許してもらうなら「姑息」である。
 10レースはどう考えたって伏見俊昭の番手で競りのメンバー。だけど最後は皆外競りを嫌ったのかのようなイン切り合戦に。そこを伏見−有坂で出きってしまった。だれかはずっと伏見ジカでいなきゃ。最後まで客を魅せるという競走にはなっていない。
 それにしてもここの実況アナはやたらと興奮する。
 11レース、「外から西郷!」という絶叫が頭の芯に響いた。

5月6日 駅の広場の喫茶店
 スターバックスでコーヒーを買って、駅前の広場の銀色の柵に腰かけて飲む。
 鳩の動きを気にしながら飲む。赤羽の駅前広場は心地よい喫茶店だ。
 コーヒー屋の店員にカフェラテとカプチーノの違いを教わったのだけれど、ぼくには理解できなかった。

5月5日、子どもの日、「もう一杯だけ飲ませてくれないか」
 もう一杯、もう一杯だけと時間延ばししても、皆帰るべきところがある。
 いくら楽しくても、どこかで解散しなければならない。
 昔、修学旅行が学校の前で解散するとき、かならず先生はこう言った。「いいですかァ、旅行はここで終わりじゃありません。家にちゃんと帰り着くまでが修学旅行ですから」と。
  「その教え」を守れないぼくは赤羽をうろうろ。こどもの日の深夜の赤羽は閑散としてい た。「ジール」も開いていないし、「セル・ソウル」も暗く、ドアに鍵がかかっていた。客引きも少なく、寂しいかな? 寄ってきてくれない。
 どこか、誰か、もう一杯だけ飲ませておくれよ。
 

5月1日〜2日の朝
 ビールを飲んで腹いっぱい晩飯を食べたら、テレビの前ですぐにうとうと。
 ナイターの映像が切れ切れにはいってくるが、すぐに意識が飛ぶ。
 昔、子どものころのことだ。晩酌と夕餉が終わった父がテレビの前のソファでうとうとしていると、「寝るんなら布団を敷きましょうか」と母の声。父はむきになって「野球を観てる」と不機嫌に声を荒げ、また寝てしまう。まったくどうしようもねえなあと、ぼくは思ったものだが、この歳になってやっと、仕事が終わったら飯の前にはビールが飲みたくなるということや、そのあとにテレビの前でだらしなく寝てしまうということが分かったような気がする。

 早朝の首都高はすいていた。ラジオからはイーグルスの「ホテルカリファルニア」。大好きな曲だ。きょうの試合はいけるかもしれない、と勝手に思い込む。野球の試合のためグランドにむかっている。高速を降りて河沿いの広い舗装道路。前方にカラスが見えた。何かをつついている。近づくとそれは猫の死体だった。内臓が晒された猫にカラスの鋭いくちばし。やっぱりきょうの試合は…。
 腰が痛くなるほど走れば、とりあえず嫌なことは忘れる。早朝のグランドにいるのは野球好きとホームレスのおっさんたちだけだ。バカ女や破廉恥な人間、クソガキもいない。
 だからいい。

4月29日 春爛漫
 近所のココスというファミレスで遅い昼食。「グラスビールにエビとホタテのリゾット、それから食後にエスプレッソコーヒーを」と片岡義男の小説の登場人物のようにオーダーしたら、「コーヒーはドリンクバーでお好きな種類をどうぞ」と冷たく言われた。
 リゾットは荒れた胃を軽く刺激し美味かった。キャラメルソースで食べるサンデーとかいうものに惹かれたが、やめて店を出る。すぐそばにあるミニストップでソフトクリームを買って、歩きながら食べた。新宿のディリークィーンには負けるけど、ここのソフトはなんだか下品な? 甘さがなんとも言えず美味い。
 公園では怪しい風体の男が、一人でボールをバットでノックして一人でボールを追いかける、という「修行」めいた所作を繰り返している。
 ぽかぽかした午後の春の陽が心地よい。
 公園の入り口に「新しい社会」という表題のついた教科書が落ちていた。裏には「6年3組、何々」とある。ぼくも6年のときは3組だった。どこの小学校かは書いていないし、住所もない。
 警察とはなるべく接触したくはないけれど、しかたないから交番へ届けた。
 うららかな春の月曜日。

4月28日 ひまわりの芽
 ベランダの鉢のひまわりは、二葉からしっかりした葉に。
 ビデオ屋にソフィア・ローレンの「ひまわり」でも借りにいこう。
 外はほんとうによい天気。

4月27日 「ろくでもない明日にしたくなければ」
 シオンの新しいアルバム、「アンタイムリー・フラワリング」をずっと聴き続けている。
 「言わなくてもいいことしか喋っていない ろくでもない 一日の終わりに 聞かなくちゃいけない声は聞こえているさ ろくでもない 明日にしたくなければ」と歌う『ろくでもない明日にしたくなければ』は、何年か前のライブでやった曲で印象に濃かったやつだ。
 それ以来ライブでもやっていないし、その間に発売されたアルバムにも収録されなかった、どういう理由かはわからないけど。
 やっと聴けた。

4月25日 心根のまるでない解説者の発言
 西武園記念のテレビ放送。明日の優秀競走、「ギャブルレーサー関優勝杯」についての司会とのやり取りの時、解説者は、田中誠のギャンブルレーサーを知らないのは競輪ファンとしてはモグリだというような内容の発言をした。
 もぐり、モグリ、潜り。辞書には「正式の許可を得ないで物事をすること」とある。
 気の利いたジョークか、田中誠賛辞か施行団体へのリップサービスか知らないが、よく平気でこんな発言をするものだ。

4月22日 満月の夕
 「飼い主をなくした柴が 同胞とじゃれながら車道(みち)を往く 解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕」と歌うソウル・フラワー・ユニオンの「満月の夕」。この曲を聴くとぼくは、何年か前の阪神淡路大震災でのある光景を想いだしてならない。
 その光景とはこうだ。
 地震から数日たった瓦礫の街。スーパーカブに乗った男が現われ兄弟だったか友人だったかと、無事を喜び合う。スーパーカブの男が「おふくろは?」と母の安否を訊く。相手は「あんちゃん、あかんかった。なんとか掘り起こしたんだけど…」。
 男はまわりにあった木箱だったか何かを狂ったようにに蹴り続けた。

4月21日 防府ふるさとの決勝戦
 1着でゴールしてすぐに斉藤登はガッツポーズをした。
 外の東出剛を飛ばした気迫はすごかったけど、自分が守る位置である谷津田の番手を新田に奪われ、その新田の番手まくりを差した優勝である。内容的には…という小言のひとつも言いたくなる。が、斉藤にしては内容よりも完全優勝、そして初のビッグ優勝という喜びのほうが優ったということなのだろう。斉藤は4日間とも、自分を買ってくれたファンに応えたのだ。斉藤から買ってるファンは、かえってあそこの場面で谷津田の番手に固執したら怒るかもしれない。
 そうだな、いいのか。自分の周りがうまくいかないからって、他人のことをちまちまつついてもしかたない。
 「昨日もダメで 今日もダメだった だから明日 できるかもしれない」
 シオンが歌っている。

4月20日 国際電話のカード
 飲み屋ばかりが入っている雑居ビルの前に、国際電話の通話カードなるものの自販機が置いてある。
 何種類もの通話カードが並んでいる。額面が三千円、その内訳は中国までなら80分、韓国幾ら、アメリカ…という具合だ。ハングル、中国語、英語など表記に使われる言語もいろいろだ。
 いつだったかの深夜、その自販機の前で激しく諍っている男女の中国語を聞いたことがあった。
 あのふたりはどうなったんだろう。

4月18日 枠番のオッズは喪中か
 車番ごとの色が決まり、車番連勝式のオッズはその配色にならい9色が散っている。
 それに比べ枠番のほうの表示はモノトーンで、まるで葬式だ。
 枠独自の色というのがなくなったわけだから、苦慮の上でのことなのだろうが、なんとも味気ない画面である。
 まあ、どうでもいいか。
 きょう遅い昼を食べようと赤羽を歩いていたら、小さな女の子から「こんにちわ」と声をかけられた。たじろいでいると再度「こんにちわ!」。恥ずかしげに、こんにちわと返したが悪い気はしない。ぼくはだいたいの子どもからこわがられることが多いのだが、この女の子は将来楽しみである?
 ぼくの子どもたちは皆元気でやっているのだろうか。

4月15日 ジョンの歌なのに
 テレビのCM、サラダ油かなんかのやつだ。
 そのCMにジョン・レノンの「POWER TO THE PEOPLE」が挿入されていた。誰かがカバーした軟弱なバージョンではあるけれど、ともかくジョンの「パワー…」である。
 健康にいくべし、というCMだから「パワー・トウ・ザ・ピープル」なのかしら?
 ジョンはこんなことのために「パワー…」と歌ったわけではない。
 このCMのディレクターの軽薄さにはあきれるばかりだ。

4月14日 声が小さいだと
 どこかの国会議員がみずほの社長に詰問していた。
 しどろもどろの社長。「もっと大きな声で!」と恫喝気味の威嚇はあの鈴木宗男議員にみたいに映った。
 みずほの社長の低姿勢がにえきらぬもので、心の中で舌を出しているという気もしないではない。だけどもだ。謝るしかない相手に、強気、強気、強気という態度もなんだかなあと思ってしまう。
 威嚇してまでも暴かねばならない巨悪はもっと他にいるのではありませんか? 刑事ドラマの主人公みたいな国会議員さんよ。

4月13日 絶望の生首
 自爆テロは殺人であると誰かが言う。それはそのとおりだ。
 だけれども、18歳の少女が自爆テロを実行する気持ちについては誰も触れない。
 18歳だよ。無限大の未来があるはずの少女が死を賭す。そこには想像を絶する絶望があるのだろう。
 美容院で見た写真誌に自爆テロを実行した男の生首の写真が掲載されていた。生首の二つの眼は、かっと見開いている。
 ぼくはその写真に衝撃を受けながらも、髪の毛をアッシュに染めたりしている。
 
 連日、ニュースはみずほ銀行の失態を非難する。パレスチナのことよりも時間を割いている。
 むろん、このことによって迷惑以上の災難をこうむる中小企業のひとたちの怒りはわかる。しかし公共料金の引き落としが叶わぬぐらいで怒り心頭に達する人間たちには、どうだかなあと思ってしまう。
 銀行なんて大嫌いだけど、そんなことに怒りっぱなしというのは格好悪い、と考えるのはぼくだけだろうか。
 もっと怒らねばならぬことは山ほどある。
 

4月10日 堕落した天国と罪のない地獄
 きょうの朝日新聞に、パレスチナのろうあ者学校の校長からの訴えが掲載されている。
 想像を絶する難民キャンプ内の地獄。キャンプだけではない、イスラエルが侵攻した地区での外出禁止令は、イコール外へ出れば銃で打つということで、重病人がいても救急車すら呼べない。それによるストレスと絶望をぼくらは計ることができない。
 小まめに冷暖房を調節する快適な日本の電車の車内で、相変わらず化粧に余念のないブスに恥知らずの人間たち。衛生環境最悪のキャンプで暗澹とするパレスチナの人々、そしてバカ満載のニッポンの電車。
 この差はなんなんだ。
 自分をふくめて、日本の腐り具合は半端じゃない。

4月9日 およそ3
 新学習要領では円周率は「およそ3」でいいらしい。
 割り切れない円周率の魔性というか、昔コンピューターで延々と計算した話をぼくの先生はしてくれた。
 およそ3は円周率を見つけ出した数学者にたいして失礼である。
 およそ3でいいなら、なんでもおよそでこと足りてしまうのではないか。
 日本全国の教師たちには何か意見がないのだろうか。
 むろん、こういう流れに抵抗する運動はあるのだろうが、見えてこない。週休二日はいいけれど、ニッポンの先生って大丈夫なの?

4月8日 川崎、桜花賞
 電車は蒲田を過ぎ川を渡る。ぼくの横には小さな子どもが並んでいて、電車のドアの二つの窓からそれぞれ流れる景色を見ている。川べりのホームレスのダンボールで作った家(ホームレスなのに家、というのは言葉としてはおかしいが、ぼくは妙にこの表現が気にいっている。ホームレスの家なのだ)をふたりとも見ている。彼の目にはホームレスの家はどう映るのだろう。ともかく子どもと中年が並んでおなじ景色を見ている。
 川崎は昔から好きな競輪場だった。
 ともかく混む競輪場だったから、駅から競輪場までの道も何種類かもっていた。その一つである、中学校(小学校だったかも)の前を通る道を選んで歩く。ゆっくりと歩く。ところどころ建物が変わっているし、道だって歩道橋だって新しくなっている。「だけど約20年、俺は何もかわってないじゃないか」という気持ちがせり上がってきたが、なあに、深呼吸でもしてしまえば、他のつまらんことが「こわさ」を薄めてくれる。

4月7日 卒業式
 20代のある時期、ぼくは教員志望だった。
 ま、公立も私立も相手にされなかったのだが、そのときのぼくの一番の関心というか心配は採用試験のことではなく、もし教員になったとき、自分は三年ごとにやってくる教え子との別れに耐えられるだろうか、ということだった。
 卒業式や入学式の季節になると、そんなことを想い出す。

4月5日 水増しされたS級
 新制度による競走がスタートした。
 選手生命も危ない67点ぐらいの選手が、旧A級でも一発があった80点以上の自力型にマークする。この力関係というか、競走得点10点以上の差はどう考えればいいのか。専門紙の数字にはあらわれない、というか蓄積されたデータがない。110点と100点の差は旧S級戦で経験済みだから、それなりにわかったつもりになれるのだが…。
 ユニフォームも変わり、前の6番車の黄色は5番車だし、青は8番ではなく6番だという。なんだか競走に集中できない。きっとお客さんもおなじなのではないだろうか。
 そして誰も彼もがS級だ。S級1班の多いこと多いこと。
 エキサイティングなS級戦が増えましたではなくて、S級が水増しされただけのことだ。
 旧制度のS級は430人。全国のファンへの認知度も高く、S級戦はそれなりに売れた。しかし新制度でのS級はなんと850名余り。約、倍だ。850名を覚えるのはほねである。そして半年に一度200名を入れ替えるという。せっかく覚えたとしても半年でまた…。競輪という種目は選手を手の内に入れて(むろん思い込みに過ぎないのだが)こそ「こく」がある。しかし今度の新制度はそのことを無視してしまっている。もちろん「新しい競輪」という改革意識はわかるし必要なのだろう。ただ競輪を支えているのは圧倒的に年配のファンで、そのファンにとっては「わずらわしい」新制度と言えなくもない。

3月29日 電車の運転席
 武蔵野線の一番前の車両に乗った。
 運転席の後部の窓から電車が切り裂いていく景色を見る。
 運転席の左半分は仕切りのようなものでほぼ覆われていて、運転手さんを見ることはできない。したがって運転席の計器類も目にすることができなくなっていた。
 ぼくが子どものときとはまるで違う。これはプライバシーの保護というものなのか、少し前に流行ったゲームの影響なのか、安全のためなのかはわからぬが、なんだか殺伐としている。
 これじゃ、将来は電車の運転手になりたいなどという子どもなど現われないのではなどと心配してしまうのだが、いまはバーチャル体験のほうが上をいっているのかもしれない。
 一人分しか空いていない運転席後部の窓の景色を独占していたら、後ろの男が不満そうにしている。
 あなたもこの窓から見たいのですか? などとは聞けないから、少し間をおいてからさりげなく横にずれた。すると男はうれしそうに窓に顔をぐっと近づけ、なにか言いながら先の景色が流れていくのに見入った。
 男にはすこし障害があるらしく、発する言葉や体の動きがともにゆらゆらしている。
 男の後ろに立って一緒に電車のスピードに乗りたい欲求に駈られたけど、それはできなかった。

3月24日 一番人気とは、なんぞや
 立川ダービーが閉幕した。
 6日間、計66個レース、二連単にかぎって言えば一番人気ではいったのが、小野俊−森内章の280円、渡邊晴が伏見俊を差した760円のふたつだけだった。
 66個レースが実施されたなか、ファンが一番人気に支持したフォーカスの出現率は33分の1だったということだ。
 もちろんこれは結果であり、そこに至る過程といったものをすべて検証したわけではないから、いいとか悪いとか言うつもりはない。だけども、これが本命の選手の走り方なの? というのが少なからずあって、がっくりというよりあきらめと記せばいいのか、車券から「ひいてしまう」ことがあった。
 選手は一番人気を意識して走るべきだとは言わないが、もう少しファンの期待というか考えに歩み寄った? レースをしなければならぬのではないか。
 車券を買うほうには競輪という確固とした推理のギャンブルがある。選手のほうにはそれとは違うスポーツとしての競輪がある。それは承知しているし、その「温度差」が競輪の「こく」でもある。
 しかし。
 その「温度差」も限度を超えると不快と不信に変化する。

3月23日 犠牲的精神、ダービー準決勝が終わった夜に
 いつだかのテレビで若者むきの居酒屋の「舞台裏」というか、お互いに刺激し会う居酒屋の店員、店長の奮闘ぶりが放映されていた。その居酒屋の店員は互いに自己申告の時給を批判し合い、認め合ったりする。店長はゴルゴ13のごとく動き、他店の店長と競争する。そしてそれが自分の収入に即ひびくのだそうだ。そのテレビを見進めるうちにぼくは気分が悪くなった。そして「こんな居酒屋、誰がいくか」とつぶやいた。
 店員たちは実に素晴らしい営業スマイルできびきびと店内を動く。だけどあの店員同士のミーティングを見せられたあとなので、そのスマイルが100パーセント「営業」であることがはっきりわかってしまう。
 よくこの店のオーナーはこのテレビの企画を認めたなと思う。
 ま、このテレビを見なかった客でも何度かこの店にかよえば、店員たちの「営業」がきっとはなにつくはずだ。
 彼らには「犠牲的精神」というものがかけらもないのである。
 銀行の窓口の女の心がまるでこもっていない笑顔。芸能人と怖いやつと、ずうずうしい人間ばかりを気にしているスチュワーデスの作り笑顔。それらと同等ないやらしさを感ずるのはぼくだけだろうか。
 犠牲的精神だけでは商売にはならない。それこそ主の行為になってしまう。だけどひとの心を打つのは、たとえ営業の笑顔が8割であったとしても、残りの何割かに犠牲的な、無償の、心がこめられた行為が存在したときなのではないだろうか。
 現在の競輪という興行に、はたしていくばくかの無償の行為というものが、犠牲的なサービスと呼べるものがあるだろうか。
 そのことに気づかない限り競輪の斜陽は続く、というのがぼくの私見である。

3月8日 パラリンピック
 パラリンピックの開会式。セレモニーのなかでサッチモの「この素晴らしき世界」のメロディが流れていた。
 テレビのなかで歌手の桑名が「無理をしないで…」というような発言をしていた。その発言はいかようにも解釈できるし、批判する気もないが、これだけは言える。パラリンピックに出場している人たちは「無理をしてでも」勝ちたいはずだ。
 パラリンピックとはそういう大会だ。すごいレベルの四年に一度の競技会なのである。
 パラリンピックという世界レベルの大会は、健常者の驕りにも似た陳腐な同情を一番嫌うのである。

3月1日 配慮なし
 スピードチャンネルで競輪場風土記(タイトルは正確ではないかも)なるものが放映されていて、西宮競輪場の章だった。番組の最後ほうのナレーションで、西宮はかなり以前からナイター開催を模索し…これからも実現にむけて…うんぬんと言う内容があった。西宮は三月で廃止されるのに、ナイター実現もへったくれもない。もちろんその番組はかなり以前に制作されたものなのだろうけど、状況が激変してしまったのにもかかわらず、古い素材をたれ流す配慮のなさにはあきれるばかりである。

2月21日 超常現象
 以前北陸に旅したとき、松本清張の小説で有名になったヤセの断崖に寄ったことがある。タクシーの運転手はあまり乗り気ではなかった。というか「あそこは海風が激しく危険ですよ。ついこのあいだも女の人が身を投げて…」と暗にいかないほうが…という感じだった。
 「これ以上は前にいかないでください」という崖の先端に近い場所から見た眼下の海の激しさをいまでも憶えている。海からの風と、それが背面の岩にぶつかって舞う風とでまっすぐ立っていられない状況だった。「油断しているとうしろからの風にさらわれることもあるんです。死ぬつもりでここまで来たけど海を見てこわくなって、思いとどまったのにはねっ返りの風にやられたという場合もあるんじゃないかな」と運転手は言った。
 なんだか無口になって車に戻った。
 車は次の目的地まで幹線道路を走ったのだが、その道中に不思議なことが起こった。いきなりノッキングが生じたり、ギヤがはいらなくなったり。運転手はしきりにくびを傾げ、動揺している。あとから聞いた話だが、同行のものは心のなかで「南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華…」とふたつの宗派の御経を交互に唱えたという。
 ほどなく車は正常に戻ったが、あのとき何かがぼくらの車を取り巻いたのだろうか。
 たまにあのことを思い出すが、そのたびに背筋にゾッとしたものが走る。

2月20日 この暗い時期にも
 片岡義男の「海をもらった人」から。
 「四方八方に散らかって締まりのない生活はもう嫌だし、話だけを右から左へ運んで上前をはねるような仕事も嫌だし、水商売も嫌だ。自分ひとりで気持ちを集中させ、形のあるものがはっきりと手のなかに出来上がるような生活をしたいと、俺は思った。」
 
 遠藤周作の「深い河」のなかに挿入された聖書の一頁。
 彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい
 人は彼を蔑み、見すてた
 忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる
 まことに彼は我々の病を負い
 我々の悲しみを担った

 
 生田敬太郎の20年以上前の曲、「この暗い時期にも」
 「この暗い時期にもいとしい友よ 僕の言葉を聴いてくれ
  だましたり苦しめたり はずかしめたり 見放したりおどしたりなどはしないから
  この世にゃどうしようもないことなどはない 人は独りということ以外にゃ
  人生は甘いものにせよ 苦いものにせよ 好ましい糧(もの)として役立てよう
  君の悩みはぜいたくな悩みさ 君の苦しみはかってなものさ 自分の力で立ち上がり 
  何か新しいことをしようとするとき 
  いつかのみじめな自分の姿が ことさら頭をもたげるものさ
  人生は甘いものにせよ 苦いものにせよ 好ましい糧として役立てよう
  後悔するなんて おろかなことさ 後悔するなんてバカなことさ
  陽の輝きと嵐とは同じ空の違った表情にしかすぎない
  人生を明るいと思うときも
  暗いと思うときも 僕はけっして人生をののしりたくはない
  人生は甘いものにせよ 苦いものにせよ
  好ましい糧として役立てよう」

  なんだか気恥ずかしくなってしまう歌詞だが、ぼくはこの曲が持っている「気」というかパワーというか、そんな「力」を二十何年信じていて、自分でも時々歌ったりする。
 俺は言葉で人を攻撃することがあるらしい。それは反省しなければいけない。しかしだからいって俺は、バカ女やアホなガキとは絶対に迎合しない。
  
 映画「オーシャンズ11」と四日市S級シリーズ5レースの感想
 ラスト近くに主人公の男がブラピに「ロックンロールのシャツだな」というセリフしか残らない愚作であったが、池袋の映画館はほぼ満員だった。

 四日市の5レースは補充の先行−正規配分の追い込み二人−そして補充の追い込みと四人で組んだ。ちなみに中部−中部−近畿−中部と折り合った。それはいい。補充の先行が引き出し役のようなブン逃げ、それもいい。許せないのは四番手をまわったT選手が後ろの別線の先行型ばかりを気にしながら千切れたことである。むろんわざとかどうかは本人のみ知ることだろうが、ぼくには故意的に見えた。補充が正規の選手のアシストをするのはかまわない。だけど自分が前に離れるという行為で敵のラインを不利な状況にするのは言語道断である。
 繰り返す。T選手の行為が故意かどうかは誰も証明はできない。みんな、もう一回そのレースのビデオを見て検証しようなどと言う気はない。だいたいそんな暇人じゃない。だけどもだ。T選手、あれが故意でないのならそれでいいです。しかしもしわざとであったなら、あなたは断罪されるべきだと思う、ぼくは。

2月19日 インドというキーワード
 ここ数日「インド」という言葉がぼくに寄ってきている。
 
 大学のT先輩がやっている能楽の事務所に久方ぶりに顔を出したら、バイトで若い男の子がいた。彼はディズニー・シーの舞台装置の制作にたずさわった後、T先輩のところでアルバイトをしている。いまは二人である女子大に納入する能舞台の制作に忙しい。彼はアジア・アフリカ語学院出身であった。この学校、ぼくも学校案内をもらって見たことがあったので懐かしかった。彼はインド帰りでもあった。
 
 何の気なしにテレビをつけたら「アジア古都物語・インド・べナレス」を放送していた。ベナレスで死ぬことを切望し死を待つ人々。

 レストランの向かいの席に50歳ぐらいの夫婦とその親と見られる老人男性。「大学病院の先生が言うには…」退院なのかこれから入院なのかは分からぬが、ともかく息子の話を父が黙って聞いている。若いころはこんな光景に出くわしても、ほとんど何も反応できなかった、ぼくは。だんだんに歳を重ねるごとに、こういう話が周りのいたるところにあるのだということが少し分かってきた。

 遠藤周作の「深い河」「深い河・創作日記」を再読している。

2月18日 ゴールデンタイムのサラ金のCM
 一方で個人破産の問題を取り上げ、その直後にサラ金のCMを平気で流すテレビ局。
 サラ金という商売が悪だとは思わない、俺も世話になっているし。だけどいま現在のサラ金は大手をふっている。そしてそれを威張らせているのは金になるならスポンサー選ばずという体質のテレビや新聞である。少し前まではサラ金のCMといえば深夜帯に限られていたはずだ。それがどうだ。昨今のサラ金CMの乱発。
 かなり昔の話だが、テレビのワイドショーだったか、大規模な家出人捜査の番組があって、その途中だか終了前に演歌歌手の「蒸発…」なんとかいう歌がかかってひんしゅくを買ったことがある。その当時からテレビのアホ体質はなんにも変わっていない。それはいい番組も何本かはあるし俺だってテレビは見るけど、テレビばっかり見ていると間違いなくバカになる。

2月17日 冬季オリンピック考
 試合がはじまる前にVサインだかピースの合図だかしらんが笑顔でポーズするカーリングの女性たち。
 「楽しむことができました」と負けてもくやしさを見せないスノーホードの選手。マスコミの前だからわざと笑顔を、ということかもしれないが、敗れて笑顔という図にはなんだかなあと思ってしまう。
 日本はほとんどの競技に出場している。そして結果だけ見ると、世界のレベルに相手にされない競技が多い。「参加することに意義がある」と誰かは言う。しかしそれを言うなら、全世界的に機会均等での「参加することに意義」なのではないのか。あるレベル以上の予選をとおしての参加選手決定ではあるのだろうが、どう見ても日本の豊かさゆえの大選手団派遣とぼくには映ってしまう。たぶん世界には選手はいても予選にすら派遣する余裕のない国がたくさんあるはずだ。
 「腹いっぱいの日本人」チームに見えてしまうことが、中継を見ていて時々ある、正直に言うと。

2月16日 平成22年という響き
 東京駅庁舎を昔の赤レンガの建物に復刻するという計画があるらしい。完成は平成22年の予定とあった。完成予定の絵だったか模型だったかが映し出された。レトロな東京駅が完成したとき、「ああ、できたんだ」とぼくはきっと見学にいくのだろう。平成22年といえばぼくは52歳になっていることになる。そんな「計算」をしたら少しだけ寂しい気持ちになった。

2月13日 新聞の扱いの違い
 今朝の日刊スポーツの一面は、男子ハーフパイプの結果にに対して中井陣営が無言の抗議をしたということが書かれている。一方、朝日新聞はスポーツ欄で「苦戦予想 覆す活躍」と書き、ジャッジに対して不快感をあらわしたことについては一行もない。
 速さや高さを数字でのみ争うスポーツではないこの種の競技につきまとう悩み? についての「不満」の是非はわからない。わからないが、そういったことがあったという事実を無視してしまう朝日新聞というのはなんなんだろう。むろん記事の取捨選択は新聞自身によるものでなければならない。それは当たり前だ。このこと(中井陣営の不満)が伝えるべきことではない、取るに足らぬことと判断したのだろうか。ま、それは想像の域を出ないが、ぼくにはわざと、故意に「抗議」の文字を封印したように感じてしまう。大新聞が書くことによる影響は格段に大きい。それとおなじくらい大新聞が無視することは「情報統制」に近い効果がある。
 と、力むことでもないか。ま、どうでもいいや。

 訂正。女子ハーフパイプの優勝者に10.0の満点をいれたのはアメリカではなかった。よって「自信満々のアメリカ」の文章は削除しました。
 
 車で15分ほどいったところにある「サンマルク」というパン屋さんとレストランの混じった店で昼食。人前で弾くにはまだ拙いだろうという若い男がピアノで数曲、拍手は起こらない。だけど最後に弾いたショパンの「ノクターン第二番」にぼくは鳥肌が立ってしまう。まったく上手ではないのだけれど、ピアノという楽器からあのメロディが流れるだけで感情がゆすられてしまう。あるとき宇崎竜童が、「自分が死んで100年とかたって、誰かが自分の歌を口ずさんだりして、その誰かは曲の作者を知らない。そんな詠み人知らずの曲を残せたら、それは音楽家冥利につきる」と発言していたけど、それに近いことが、とくにクラシックという分野の音楽では日常頻繁に起こっているとぼくは思う。
  「ノクターン第二番」が使用されている「愛情物語」が観たくなってビデオ屋にいったけど、お目当ての物はなかった。

2月11日 女子モーグルの中継、解説者の涙
 何の気なしに女子モーグルのテレビ中継を見た。解説の男はなんだかやたら興奮する人間だったが、最後、感極まって泣いてしまった。おいおいという気にもなりかけた俺だが、結局はもらい泣きしてしまった。男はやはりスキーのプレイヤーらしい。現役かどうかは俺にはわからない。きっとスキーを、モーグル競技を愛しているのだろう。この解説の男の涙には賛否両論あるのかもしれないが、俺は断固支持する、というか俺が一緒に泣いてしまったということだけが事実なのだから。むろん俺は競技に泣いたのではない。モーグル競技になにかを与えてもらい涙した男に俺は泣いたのだ。ただそれだけだし、それでいい。たとえ男の涙が芝居であったとしても、いい。
 ありきたりなレースが終わったあとの感想を求められて、「9人の選手がそれぞれ存分に持ち味を発揮してくれました」とある競輪の解説者が言っていた。俺にはまったくそうは思えないレースだった。ま、それはいい、個人の評価は違うのだから。ただその解説者の言葉が誰かの胸に届くとは俺には到底思えなかった。「9人の選手が……」の言葉に理論的説明は皆無だったし、その声音になにか迫るものはなかった。そう、女子モーグルの解説者とはかけ離れた醒めたおざなりのものだけがあった、とあえて独断で言ってしまおう。
 競輪のレースが終わって、涙を流したという解説者を俺はまだ見たことがない。いつかそういう場面に出くわせるのだろうか。競輪では涙なんか流せないって? そんなことはない、断じてない。
   
  LIFE GOES ON
  ウォークマンでDragon Ashの「Life goes on」を聴きながら歩く。リピート機能をかけて何度も何度も繰り返し聴きながら歩く。赤羽、浦和、池袋。途中の電車。車窓に流れる景色を見ながら音楽を聴くことは快感だ。
 街の雑踏、人ごみをよけながら歩く。ぼくの歩きはヒップホップ歩き? になっているはずだ。

   大局観の欠けらもないやつらの競輪中継
 スピードチャンネルで西王座戦の中継。
 「第6レースと第7レース(レース番は不確か)では、車番連勝単式で一万円を超える高配当となっております」とよくとちるアナウンサーが言っている。おいまてよ、高松は三連単もやっているんだぜ。なぜ、三連単で続出しているすごい配当を意識的に無視するのだろう。レースが終了して確定というときも、三連単の配当は読まれない。いったいどういうことなのだろう。この女子アナウンサーはそう命じられているだけのことだから、彼女のせいではない。三連単をわざと軽視するという偏向がこのテレビ中継を作成している側にあるということだ。
 まさか「視聴者の大半が電話投票をする人たちで、いま現在電投で三連単が買えないのだから…」などというアホな言い訳はしないでしょうね。そもそも電投で三連単が買えないというのは、すべて……。
 やめた、時間の無駄だ。さっき買ってきた谷川俊太郎の本でも読もう。アホなテレビも消せばいいことだ。ただそれだけのことだ。プチッ。 

2月10日 トップレーサーの皆様へ
 東西対抗に出場しているS級レーサーの皆様、とくに一流、トップレーサーと一般的に目されている皆様へのお願いです。
 君たちの競走は全国のファンが見ていると同時に全国の選手も見ています。君らの競走ぶりはかならず全国の選手に影響を及ぼします。
 トップの人たちが、せこいインコースばかり突くレースをすれば、「あ、あれでいいんだ、そのほうが得だよな」と全国でそのようなレースが繰り返されるのです。
 全国のファンが「すげえ」と感嘆するレースをトップレーサーが見せてくれれば、それを見た選手たちも「自分たちも」となるのではないか。「すげえ」と皆が言った「素晴らしい競走」が伝播されるのである。
 トップレーサーの人たちには責任があります。もちろん人間だから、自分の着、自分の賞金、自分の競走得点が優先されるのは当たり前です。だけど、だけど。
 あなたたちトップの人たちには、「いい競走で魅せる」という義務があるはずです。「せこい競走はなるべくしない」という暗黙のなにかもあるはずなのです。それがいまでは「そんなせこい競走」専門の某S1もいるではありませんか。
 いい競走もせこい競走もルールの範囲内ではある。あるのだけれど、競輪斜陽のいま、あえて「いい内容」を意識することに固執しなければならないのではないでしょうか。
 もっと極論すれば、ルールの枠を出てしまっても(たとえ失格という判定でもということです)いい競走はあり、ルールの範囲内でも「せこく、がっかりさせ、なにも伝えず、不愉快」な競走はありうるのです。
 犠牲的精神などと言うつもりはないけれど、すこしだけ君たちは、そのことを考えるべきだ。

2月9日 ヨイトマケの歌
 美輪明宏の「ヨイトマケの歌」はほんとうにすごかった。
 ぼくはテレビの美輪にむかって拍手をした。
 1965年にあの歌が全国に流れる図を想像した。1965年、昭和で言えば40年、ぼくが小学校二年のときだ。なんとも、すごい。
 歌う前に美輪がこの歌のエピソードめいた話をしているとき、今田とかいうガキだけは脚をくんでいた。子どもみたいな?キャラクターで売っているエナリカズキだって、ちゃんと聞いていたのに。
 今田という男は、ただのバカで低脳である。

2月8日 子どものことだけは言えない
 テレビ東京で中村雅俊がやってた「俺たちのなんとか」という古いドラマを放映していた。
 たぶんいまの若い人が観たら理解不能というか、価値観や考え、泣きや笑いのつぼがまるで違うドラマなのだろう。
 俺はこのドラマ好きではなかったが、かなり人気があった。このドラマの支持者だった人たちは、いまの子どもたちの「堕落」?を嘆くのだろうか。いまの若者たちの貞操観念の変化に、嫌な唾が胸の先にたまるのだろうか。
 しかし、まってくれ。子どもたちの道徳は風前のともし火だけれども、俺たち大人たちの享楽的な生き方を、俺たちが若かったときの当時の大人たちが見たら、やっぱり「ダメだ、こいつらは」と言うのではないだろうか。
 いまの若いやつは…、などと言ってる前に我がふりを正さねばならない。

2月1日 「なんでなんだよ!」はS記者の常套句だけど
 サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」という曲をはじめて聴いたのは中学生のときだったか。
 AMラジオ、文化放送から流れる生ギターとコーラスが被るイントロ、絶妙のコード進行とそれに振られたメロディに鳥肌が立ったのを憶えている。「ピッツバーグ」「ヒッチハイク」など、ところどころに中学生でもヒアリングできる英単語が五感にもろにはいってきた。
 そしていまその曲を聴いてもやっぱり鳥肌は立つ。ぴちぴちとした中学生は、皺も染みも増え、なんだか訳知り顔の中年へと変化したものの、「アメリカ」のイントロにはおなじ反応をする。
 「日本一ついていない」と形容されることが多いS記者が、おかしな並びやレースに「なんでなんだよ」と怒る名文句ではないけれど、「アメリカ」のメロディに肺が鳴くとき、俺も「なんなんだよ、このあっという間の三十年は」と叫びたくなる。

1月28日 責任
 読まなければと思っていた浦沢直樹の「モンスター」にやっと手を出した。既刊の17巻までを読んでいる。次の18巻で完結するらしいが、へたな映画より面白い。という褒め方は失礼か、いい映画を観たときに起こる「のどの渇き」がそこにはある。
 ホームレスの男が中学生に集団暴行の新聞記事。
 「ホームレスの何々さんが殺された」ではなく、「無職の何々さんに集団暴行」と書くべきではないのだろうか。それともそう考える俺になんらかの差別意識があるのだろうか。
 中学生たちのいた学校や、その事件の発端となった図書館にマスコミは押しかける。
 しかし、もう、その中学生たちの親元にもマスコミはいかなければならない時期にきているのではないか。むろんプライバシーのことは重大なのかもしれない。だけど現行法で中学生たちが一つの命を奪った贖罪ができるとは俺には思えない。 
 ならば責任は親がとらなければいけないのではないのか。
 これは暴言でもあろうし、賛否両論あろう。
 責任は親だけにあるわけではない。当然だ。いまの社会はアホなガキどもにとって、すべての場所が談話室であり喫煙所みたいなものだ。むろん昔だってそうだった。駅の隅っこや図書館などどこでも。だけどそこには、その時代のアホなガキどもなりの(俺もそのアホなガキの一人だった)自主規制というか暗黙の遠慮が存在した。逆に言えばその境界線みたいなものに対して大人は厳しかった。しかしいまのアホどもにそれはない。そしてそこまで増長させてしまったのは暁かにいまの大人のせいなのだ。
 ここまで迷走してしまっている日本。
 いろんなことに対して誰かがきちんと責任をとる。これは私の責任ではないのか? いや私にも責任が…。という時代が日本にはたしかにあった。しかしいまはひとりも責任をとらないというのが、日本国だ。
 もう、だめなの、ねえ? もう、遅いの?
 

1月27日 「風の男 白州次郎」
 青柳恵介著「風の男 白州次郎」を読む。
 昭和史においてかなりの頻度で名前が挙がる白州次郎、その白州の写真が本の表紙となっている。
 白州は白いTシャツにジーンズ姿で椅子に座っている。それはまるでジェームス・ディーンのように格好よい。晩年には三宅一生の服を着た白州の写真もあった。
 本の内容の詳細はここでは避けるが、白州の残した遺言だけを記しておく。
 「葬式無用 戒名不用」

1月25日 愚者の旅
 風邪薬を飲んで一日中寝そべりながら本を読んでいた。
 倉本聰の「愚者の旅」と長田弘の「深呼吸の必要」。
 倉本聰という名前を見るとぼくは茨城の倉持聡という選手の名前をつい思ってしまう。
 「愚者の旅」の文中で倉本は自身の人生を変えた一文として、加藤道夫著「ジャン・ジロドゥの世界」のなかにある一節を挙げていて、それにはこうある。
 「街を歩いていたらとてもいい顔をした男に出逢った。彼は良い芝居を観た帰り道にちがいない」
 昔、競輪場からの道を「いいドラマ」を観た客が「いい顔」をして歩くさまをぼくは思い浮かべた。
 競輪祭がやっているというのに、ぼくは最終レースをやっとこさ見ただけだ。風邪薬の効いただるい体で見た何とか賞とかいう全員権利のレースは、ただの「ゆるい」競輪だった。
 もちろん「ゆるい」というのはぼくの個人的な感想である。金を賭けて見ていないからかもしれないし、単純にぼく個人の堕落ゆえの八つ当たりであるかもしれぬ。

1月24日 思うこと
 テレビで「祭ばやしが聞こえる」の再放映。
 萩原健一演ずる休業中の競輪選手・沖が、ふとしたことでインチキ予想を競輪場の周りで売る男と知り合う。
 男は競輪に会社の金をつぎ込み公金横領で手配中らしい。やがて男は最後の金を沖のレースに全額いれたことを沖に告げる。沖はそのレースでまくっていったところをハジかれ落車、大けがを負ったのだ。
 「だけどちっともあんたを恨んでなんかいないですよ、俺はあんたのまくりを信じて買ったんだから」と男は言う。長い間休んでいる沖は選手をやめる決心を男に告げるのだが、「あんたのまくりがもう一度見てみたい」という男の言葉に心がゆれる。
 もう二十年以上も前の話だ。しかもドラマだ、つくりものの。だけど、だけど…。
 この金がなくなれば会社がぱあだ、という「勝負」が理不尽な無気力レースだったら。最後の金がやっと的中して、これでなんとかなるとほっとしたのもつかの間、納得のいかない失格判定でぱあになったら。これで最後だと競輪新聞を読んでいる。ぐっと睨んでいる。だけどそこに書かれた記事が片手間のものだったら。
 もう血眼になってばくちをやる時代ではないでしょう、と誰かが言う。それはそうだろう。とくに昔のように一か八か150円の本命車券にぶち込むというレース形態などはなくなっている。
 だけどぼくらは、選手も、レースをつかさどる関係者も、新聞も、命まで賭けてしまう可能性がある人たちを相手に生計を立てていることを忘れてはならないのではないか。
 

1月20日 阿佐田哲也杯のM選手
 静岡のMという選手をぼくはずっとひいきにしていた。ぼくは彼がはじめてのS級のとき、逃げども逃げども9着を取り続けていたのを憶えている。それでもMは逃げていた。
 Mが追い込みに変わってから、「いいドラマ」を何回も見せてくれた。「いいドラマ」の出現率は、全選手中なんたって一番だった。当然ぼくは彼のレースを楽しみにするようになり、追いかけた。
 そのMに先日の立川ではがっかりさせられた。
 初日と準決勝はともに「どこか体わるいんじゃないか?」というような三着。準決勝はバック、4コーナー、ゴール手前まで「大楽」のハコまわりだった。
 決勝戦。前受けから中川誠一郎のラインが押さえてきたとき、ファンのほとんどが番手勝負だと思ったのではないだろうか。しかしずるっと下げた。ま、彼には彼の考えがあってのことだろうけど、なんで?っていう感じだった。
 二日間の脚を見ればMの調子がかなり悪いことは明白だったし、もしかすると事故点などの影響があるのかもしれない。だけど彼なら、あのMなら、たとえ最低の状態でも「闘う」という精神だけは見せてくれると信じていた。
 ぼくの辞書「信頼に値する選手編」からMの名前は削除された。
 
1月19日 「GIRL」
 はじめて彼が彼女の部屋を訪れたとき、彼はギターを持っていた。アコスティックのギターだ。
 彼は彼女の前で彼の一番好きな曲を弾き語った。
 彼はビートルズの音楽を愛していて、とくにジョンがボーカルをとる曲が好きだった。そのジョンの曲のなかでもとびきりのお気に入りがガールという曲だった。
 ♪AH GIRL と歌った直後にすうーと息を吸い込む音がはいるのがかっこよくて仕方なかった。たまらなかった。彼はそのとおり歌い息を吸い込んだ。と彼女はげらげら笑いだした。「なあに、それ」。彼女はこの曲を知らなかったのだ。
 彼とは何十年か前のぼくだ。

1月18日 歳をとることを恐れないでください
 人間、どういうふうに生きても、これ勉強である。
 やっぱりへこむときは人間へこむ。ちょっとしたことで弱気になる。全力でやったんだからとプロセスを褒めようとしても、やっぱり感情は結果に左右される。
 なんだかなあと、とぼとぼ新宿を歩いていた。ふと歩調をゆるめた楽器店の前。そのなかからモッズの「TWO PUNKS」が聴こえてきた。ライブ・バージョンらしく間奏のときに森山がMCを入れる。「どうか歳をとることをみんな恐れないでください」と。
 きょうで俺は44歳になった。
 その誕生日の夜、新宿の街に流れていたモッズの森山の声。
 
 歳をとることを恐れないで、か。
 

 久しぶりに、しかも偶然に会った太田君も元気だったし、よしとしよう、今日の一日。
 

1月17日 ギブソン
 「何をみんなツベコベ そういう俺もツベコベ それなら金でも貯めて あのショーウィンドウの ギブソン手に入れ あの娘にBLUES 聞かせよう」とチャボが歌っている。
 俺もアホの女やガキにかまってないで、ギブソン買ってブルース、といきたいものだが。

1月16日 夏のボーナス一括払い
 数週間前の銀座、山野楽器本店での目撃談。
 若い男がギターを試奏している。ストラト(ギターの名前です)の高そうなやつで、いい音している。隣にはいかにもロック系という彼女。「これいいね」「いいよなあ」「幾らだっけ」「三十万ちょっと」「……」
 どこかへいって戻ってきた店員に「夏のボーナス一括ってもう大丈夫なんですか?」と男が言った。「いやそれはまだ対象期間じゃなくて…」「そうですか」と言いつつ男はまたギターを弾く。「いい音だよね」と彼女。「ほんといい」と男。
 それからいかにこのギターを購入するかについてカップルの話し合いがはじまった。
 ぼくはそこで場所を移動したが、その後の結末は?
 彼がどこかのライブハウスであのストラトを鳴らしていればいいのだが。
 最近競輪ネタが減ってるねえと誰かに言われたけれど、ほんとにそうだなと自分でも思う。だけども語るべきことがないのだ、最近の競輪には。ま、ぼくのアンテナが鈍いだけなのかもしれないけど…。
 M記者が先日の伊東競輪ですごい競りがあったと教えてくれた。太田耕二と相原健樹の競りで両者失格だったらしいが、「久々にいい競輪を見た」と言っていた。そういうのをなまで見て「いいドラマ見せてもらったぜ」と言ってみたいのだが、悲しいかなぼくの周りではそういう出来事が起こらない。

1月13日 永瀬正敏はT記者だ
 中央競馬のテレビCM。俳優の永瀬正敏の持っている新聞の馬柱のほとんどが黒く塗りつぶされている。残ったのは二つの枠で二頭の馬名、「これ一点だ」と永瀬が言う。
 この方式?(新聞上でいらない馬、選手を消して限りなく一点に近づける)は、専門紙一の勝負師T記者の専売特許ではないか。さすがJRA、いいコマーシャルを作ってくれる。京成杯を本線で的中したから言うわけではないけれで、中央競馬のやることはセンスがある。
 ちなみにT記者とは竹林ではありません。

1月11日 消費税のある風景
 夜のコンビニでの話。
 何点かの買い物をした若いあんちゃんにレジの女の子が「何百何十何円です」。するとヤングボーイはポケットをごそごそ。どうやら一円足りないらしい。「これをはずして」とボーイ。「では幾らです」とレジの女。支払うやいなや「それじゃこれを」とさっき引っ込めた品物を出す。「幾らです」と女。支払うボーイ。なんで今度は足りちゃうの? どうやら消費税は一円以下切捨てという計算方法から生まれる現象らしい。別々に購入することによって消費税の額が減り、足りなかった一円分を補ったのだ。
 しかしそのことを瞬時に計算してしまえるボーイ、恐るべし。

1月10日 1月9日という日
 川口オートのすぐ近くにあるバッティングセンターで今年の初打ち。なんとホームランボードに直撃して「ホームラン」のコール。こいつは新春から縁起がいい? ホームラン賞の景品を教えましょう。缶のコカコーラ一本。バッティングのただ券3ゲーム分。そして青木グランドポールで使えるボーリング1ゲーム分の招待券だ。なんだか牧歌的?だろう。
 気分をよくして南越谷へ。ぼくはこの駅にあるオーパというショッピングビルが気に入っている。ラブサイケデリコの新譜と、BBキングの古いやつ、「ライブ・アンド・ウエル」、それに漫画「鉄コン筋クリート」の主人公であるシロとクロのフィギアを三体買った。
 ラブサイケのギターはほんとすごい。BBのほうは昔アナログ盤で持っていたやつで、なんと1500幾らだったから、BBをなめてると、おもわず買ってしまった。
 外に出るとエスプレッソばかり飲んでしまう。よって胃の具合は相変わらずだ。しかしエスプレッソマシンっていったい幾らぐらいするのだろう。

1月9日 夢の話
 あまり夢は見ないというか覚えていないほうなのだが、今年になって見た夢で頭に残っているものを三つ。
 その一。ぼくはどうやらジャズのバンドの一員だ。そのなかに死んだNさんがいてサックスを吹いている。
 これは多分、Nさんと親しかったTさんが「榛名にNさんの墓参りにいったんだけど、いくら探してもNさんの墓が見つからないんだ」という話をしていたのからきているのと思う。
 その二。医者に胃の大病を宣告される夢。
 昨年の暮れから胃の調子が悪くて、なのに「コーヒー病」が復活し、胃を気にしつつエスプレッソばかり飲んでいるからか。
 その三。プールみたいなところでいろんな魚が闘っている。すごいバトルをたくさんの観客が見ている。これがどうやら新しいかたちの競輪らしいのだ。(なんで自転車もないのに競輪なのかは知らんが)
 とそのとき、背広にネクタイというなりの男がやってきてぼくに言う。「どうですこれなら。皆ファイトしているし」と。ぼくは、「いやでもぼくは人間が人間をもっていく(ブロックするとか競りのことを言っているのだと思う)競輪というのを、もうからだに覚わってしまっているから…これはちょっと」とこたえる。

 これはどこからきている夢かしら。ぼくの家にある猫のカレンダーに「心に猫が住む人に」というタイトル書きがあるが、ぼくの心にはいつも競輪が住んでいるのだろうか。

1月8日 凧揚げと車のしめ飾り
 別に目を皿のようにして注意していたわけではないが、この正月、ぼくは凧揚げしている子どもも、フロントにしめ飾りをしている車も見ていない。バスとかタクシーなどはかならずといっていいほどしめ飾りをしていたような気がするのだが。
 西新井大師へ初詣に。正月も明けて平日だというのに、なんだこの人の多さは。日本人はほんとに、いや人間は誰でも皆、なにかの節目になにかにすがって、狂ってしまったなにかを「矯正」しようとする。
 西新井大師にいく道すがら、携帯にOさんから電話。「仕事場ですか?」「いやきょうは休みで、これから初詣なんです」「また、らしくないことして」とOさん。
 
 イメージに逆らうのも、これまたロックンロールなのです。(なんのこっちゃ)
 しかしロックンローラーはおみくじは引かんよ。
(ますます、なんのことやら)

1月7日 「言葉・音楽の力」
 7日付けの朝日新聞朝刊、長田弘と坂本龍一の対談「暴力の前に言葉・音楽は無力か」より。
 「私は、複数によってかたちづくられていくのが本来のアイデンティティーなのだと考えたい。21世紀のアイデンティティーにとって最も重要なのは純粋な一つのものではなくて、混在と複合という、プルーラル(他者のいる)アイデンティティーの持ち方だと思う。」(長田)
 「そのお話はとても示唆的です。AかBかという原理主義、排中律に陥らない。種に水をあげるように、このことを大事に育てていきたいですね。」
(坂本)
 排中律という言葉をはじめて知った。
 排中律、ハイチュウリツ、「任意の命題についてAとBの中間を認めない論理的原理の一つ」とある。

1月6日 マリオ
 映画「イル・ポスティーノ」の主人公マリオは共産党の大会で不慮の死をむかえる。
 マリオ役の俳優が心臓病をおしてこの撮影にむかい、すでに逝ってしまっていることを知った。
 シチリアの海辺を歩いたり、坂道を自転車で走ったあの人間はもうこの世にはいないのだ。

1月5日 「サルビアを焚く」から
 雑誌「文学界・一月号」の冒頭に載っている長田弘の詩、「サルビアを焚く」から抜粋。
 「ことばは感情の道具とはちがう。 悲しいということばは、 悲しみを表現しうるだろうか? 理解されるために、ことばを使うな。 理解するためにことばを使え。」
 「九十九年生きても、人の一生は一瞬なのだ。」

1月4日 幸福の瞬間
 だるい体で外に出るのをためらっていたが、年賀状を投函するという「目的」をつくって地下鉄に乗った。
 十数枚のはがきはダウンジャケットのポケットに入れた。
 地下鉄を降りる、エスカレーターを上がって地上へ出る。歩く。歩いているうちにはがきの存在を忘れた。本屋にはいってうろうろ。山田詠美が今回の戦争について話している雑誌を買った。ドトールで読もうと本屋を出て歩きだしたとき、年賀はがきを投函するという目的を思い出した。
 郵便ポストが駅前にあるのは知っていた。だけど駅まで引き返すのはすこし億劫だと考えていたとき、交差点の向こう側に赤いポストが見えた。と、そのときだ。ポストの前に赤い軽自動車が横づけされた。郵便物の集配車だった。
 初老の男が車を降り、すばやい身のこなしでポストを開けた。ぼくは小走りに近づいた。そしてすこし躊躇った。
 電車のホームなどでゴミをゴミ箱に捨てようとしたときに、そのゴミ箱のなかのゴミを回収している場面に出くわし、その回収している人にゴミを渡せばいいのか、空になりつつあるゴミ箱のほうに捨てたほうがいいのか迷うことがある。そしてその場合は捨てないことが多い。それとおなじようなためらいだ。
 でももう手にははがきが握られている。そのはがきに男が気づいた。「年賀かな?」と男は言った。「はい」、「もらいましょう」、ぼくの年賀状は郵便ポストを経ずに直接、集配の人に手渡されたのだ。
 はじめての経験だった。なんだかとっても気分がよくなった。誰かの歌のタイトルではないが、それはあきらかに幸福の瞬間と呼べるものだろう。

2002年、1月3日の月
 午後9時、こんなに星や星たちが織り成す星座がたくさん見えるのに月は見つからない。
 まだ下のほうにいるのかもしれない。
 フィリピン・パブも店を開け、赤羽の繁華街も人が行き交いはじめた。

2002年、元旦の月
 高崎アーバンホテルで飲んだスペインのワインもすこし効いたけど、そのあと電車を待つあいだに「吉野家」で飲んだ冷酒が効いた。
 新幹線を降りてのエレベータ、前のスキー帰りのカップルの大きな鞄がぼくの脚に当たった。
 ぼくは鞄を膝で蹴った。男が振り向いた。「なんだ」とぼく。「いや、なんでもありません」と彼。
 新年早々、ガキにからんでいるアホがいる。
 ほとんどの店がシャーターを降ろしている赤羽の商店街。「マッサージいかがですか」と寄ってくる中国系の女性も、香水の匂いを撒き散らしているフィリッピーナもいなかった。彼女らは異国の地でどんな正月をむかえているのだろう。
 見上げた夜空の月はてっぺんに近い高さにあった。その高い位置のせいか、頼りなげな小さい月に見えた。

2002年、1月1日 「ただ東京に出たかったから」と母は言った。
 日本酒でほほをほんのり赤くしたオフクロが父との結婚のことを話しはじめた。
 「見合いをしたのが5月3日で、結婚式が11月。それまでおとうさんとは結納で一回あったきり。秋田で式を挙げて帰りに寄った熱海が新婚旅行、東京のアパートにはじめて入ったとき、こんな狭いところで暮らすのかとおどろいた」、母はけっこう大きな農家の出だ。
 「12月の最初におとうさんが給料を持ってきて、その何週間かあとにもう一回もらった。給料というもの自体はじめてだから、サラリーマンというのは月に二回給料をもらうのだと、そのとき思った」、ところが1月、2月と親父が家に入れる給料は月一回だった。当たり前だ。しかしオフクロは「おかしい、おかしいと思いながらもガマンした」らしい。しかしたまりかねて親父に詰問した。
 「おまえはほんと、なんにも知らないやつだ」と笑われた母は、そのときはじめてボーナスという制度を知った。
 なんでそんなに簡単に見合いで結婚したの? と俺が訊くと、オフクロはいともあっさりと「東京にいけるからよ」と答えた。
 この「東京にいけるから」という言い方が俺は気に入っている。
 「東京にいけるから」と親父と結婚した母は、40歳のときその親父を東京で亡くし、ずっと東京に住んで今年66歳になる。そしてその母が22のときに生んだ長男の俺はもうすぐ44歳だ。
 2002年、「東京にいけるから」と言ってのける母の血を受け継いでいるこの俺に、それと同類の「勇気」は生まれるのだろうか。