丹下左膳の部屋

(序論)


 チャンバラヒーローの中で、最も容貌怪異な人物といえば、丹下左膳ですね。

箒のようなあかちゃけた毛を大たぶさに結い、右眼の上には大きな刀傷がある隻眼。おまけに右腕がないという片眼片腕の怪剣士。髑髏の紋を染め出した黒襟の付いた白地の着物で、下には女ものの派手な長襦袢を着込んでいます。

腰の名刀“相模大進坊・濡れ燕”が鞘走る時、江戸の町に血の雨が降ります。年齢不詳、独身。現世にはなんの望みもないというだけあって、彼の身辺には妖しく踊る不吉な影が常に漂っています。兇状もちの妖艶な姉御・櫛巻お藤が想いをよせていますが、本人は結婚する気がないみたいです。

 

 昭和2年(1927年)10月から翌3年5月にかけて、「毎日新聞」に連載された林不忘の小説『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』において、丹下左膳は初めて登場します。つまり、最初は“大岡政談”(講談ダネの名奉行・大岡越前守がいろいろな事件を明快に裁く物語)を、新しい時代の大衆文芸(時代小説)として書き直すという創作意図のもとに書かれた長編シリーズだったみたいです。

“新版”と名をつけたのは、林不忘の作品の前に邑井貞吉の『大岡政談』があり、悪党・日置民五郎というのが片眼片腕、これとコンビの悪旗本が鈴川源十郎で、日置が左膳になった他は登場人物の名もそのままだったからとのことです。ただし、ストーリーは全然違うそうですよ。

 

『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』は、関七流の祖・孫六が精魂をかたむけて鍛えた稀代の名刀・乾雲丸坤竜丸という大小一対の刀の争奪戦をテーマに展開する一大伝奇物語です。名刀を入手することを、刀剣マニアの主君から命じられて江戸に上ってきているのが、奥州中村6万石、相馬大膳亮の家臣・丹下左膳でした。

 大岡越前守が登場する他、諏訪栄三郎、蒲生泰軒、鈴川源十郎と乾雲・坤竜をめぐってわたりあいますが、最後には正統な所有者である神変夢想流の二枚目剣客・諏訪栄三郎の手に落ちつきます。林不忘の最初の構想では、左膳は脇役でしたが、読者の人気は左膳に集中したんですね。左膳のキャラクターの魅力もさることながら、左膳の姿が、本編の挿絵を担当した小田富弥の名画によって躍動的に描かれたことも、左膳の人気を高めた大きな理由にあげられます。黒襟の付いた白地の着物を着た左膳の異様な浪人姿のイメージは、挿絵の小田富弥によって、最初に創り出されたのです。

 

 この魅力的なキャラクターに、映画界は当然とびつきます。1928年に、東亜、マキノ、日活の三社競映で製作されました。東亜が当時怪奇スターとして評判の高かった団徳麿、マキノが嵐寛寿郎(当時は嵐長三郎)、日活が極めつけ大河内伝次郎の左膳でした。

 大井廣介氏の『チャンバラ藝術史』によりますと、団徳麿の左膳は得意のメーキャップをこらし、癇をたかぶらせると額の筋をピクピク動かしたりして、怪奇性は一番。それに諏訪栄三郎の雲井龍之介との立回りは見応えがあり、壮観だったとか。ただ、殺陣に定評ある団と雲井が立回りに力を発揮しても、演出がダラダラしていたので、作品的には?だったそうです。

 アラカンの左膳は妖怪味を漂わせ、意外によかったそうですが、出演料のトラブルからアラカンがマキノを退社し、完結編が製作されず、作品としては未完に終わっています。

 この二人の左膳、スチールを見ますと、左眼がつぶれていますね。何か理由があるのでしょうか。(スチールは、歴代左膳役者のコーナーにあります)

 

 日活の伊藤大輔監督、大河内伝次郎の丹下左膳は、封建的な武士社会を批判し、大河内のもつ近代的虚無感が大衆の支持を得て、左膳の人気を決定的なものにしました。ラストで、捕り手に追われた左膳は自分の主君・相馬大膳亮の行列(乾雲・坤竜争奪のために殺戮を繰り返す左膳について、大岡越前が大膳亮に尋ねますが、大膳亮はそんな人物とは関わり合いがないと言って逃げる途中)に駆け寄ります。

前述の大井廣介氏の『チャンバラ藝術史』を、そのまま引用しますと、

<左膳が「殿、おなつかしう存じます」てな具合に声をかけ、逆に「こういうわけだから、悪しからず」と引導をわたされる。大膳亮の行列が去ると、左膳は狂ったように笑い出し、「おめでたいぞよ、丹下左膳。その主信じ、その言信じ、一命これに殉ぜんとした。お前はよほど大馬鹿者だ」という自嘲の絶叫をする。そのヤマ場は伊藤大輔作であって、林不忘ではない。不忘の原作では、血路を開いた左膳が大膳亮に会うことなく、漂う筏に横たわっているが、死ぬのか、再起するのか、読者に任せてある。伊藤版では、裏切られた左膳が自暴自棄になり、猛然と捕り手を斬り捲るのだから、大詰めの大乱闘が盛り上がり、迫力をもつようになっている。むしろ、原作者の方が、伊藤の恩恵に浴したようなものだ>

 

かくして続編では、題名として『丹下左膳』がそのものズバリに使われることになります。この続編は、昭和8年(1933年)6月から11月にかけて「毎日新聞」に連載されましたが中絶し、翌年1月から9月にかけて「読売新聞」に連載され、ようやく完結しています。

 続編の挿絵は志村立美(右3段目の絵)が担当しています。大衆文芸の場合、本文の小説と挿絵は深い関係があって、名作といわれた小説には、それと同じくらい高い評価が挿絵にも与えられていますね。

 

 続編では、柳生家に伝わる名器“こけ猿の壷”の争奪戦がテーマになっています。日光東照宮の改築工事を幕府より下命された柳生藩は、その工事資金の調達に困惑するが、家代々の名器“こけ猿の壷”の中に、祖先が秘蔵した莫大な財宝の地図が隠されていることを知る。ところがその壷は、柳生家次男・源三郎の婿入りの引出物として、源三郎と共に江戸へと渡っている。柳生家、峰丹波一味、大岡越前、鼓の与吉などが“こけ猿の壷”をめぐって四ツ巴となり、主人公・丹下左膳の大活躍となります。

林不忘は映画からのイメージを変えるためか、「こけ猿の壷の巻」では左膳のキャラクターを変えてきています。ニヒルな面影がうすれ、父無し子のチョビ安の親代りをかって出るほどの思いやりある人間に変貌しているんですよ。

 

サイレントで、左膳=大河内のイメージを確立した日活は、この作品を伊藤大輔監督が1933〜34年に小説と並行して、トーキーで『丹下左膳』『丹下左膳 剣戟篇』の二部作で映画化しています。

「シェイは丹下、名はサジェン」と九州弁訛りで有名になった大河内の名セリフ(?)は、この作品からなんですよ。これは、伊藤監督のトーキー第一作で、大 河内にとっても第一声となった記念すべき作品でした。

 

ポスター(右4段目)を見ると面白いですね。<オールトーキー>とあるでしょう。 “オールトーキー”というのは現在では当り前なんですが、1933年当時はパート・トーキー(ラストとか重要な部分にだけ声の入っている映画)とか、オール・サウンド版(セリフは入っておらず、伴奏音楽だけが入っている映画)とか、無声映画とか、それこそ色々なタイプのフィルムが上映されていたんですね。オールトーキーという謳い文句だけでも客は呼べますけど、人気スターの大河内の声が聞けた上に、内容も面白いので大ヒットとなりました。

 

林不忘は、1935年に35歳の若さで亡くなったため、川口松太郎が未亡人と交渉して丹下左膳を書く権利を得ました。『新編丹下左膳』という題名で、左膳が片眼片腕になる由来を書きましたが、幕末の剣客千葉周作が登場するなど、不忘の左膳とは別物でした。

これも大河内伝次郎主演で映画化されましたが、評判は芳しくないようです。結局、丹下左膳は、林不忘の“乾雲・坤竜”と“こけ猿の壷”に集約されるんですね。

 

大河内伝次郎は戦後も丹下左膳を演っていますが、大河内以外の左膳には、前述の二人以外に、月形龍之介、阪東妻三郎、水島道太郎、大友柳太朗、丹波哲郎、中村錦之助がいます。

戦後の左膳だと、明朗豪傑タイプのキャラクターを確立した大友柳太朗が最高 だと私は思います。

 

 

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