ジョン・ウェインとB級西部劇


ジョン・ウェインの登場

 ゲーリー・クーパーが西部劇スターの道を着実に歩んでいた頃、6歳年下のマリオン・マイケル・モリスン(後年クーパーのライバルとなるジョン・ウェイン)は、ジョン・フォード監督に目をかけられ、フォード作品のエキストラとして映画出演していました。

 カリフォルニア大学在学中、アルバイトでフォックス撮影所の小道具係をしている時に、ジョン・フォードの『マザー・マクリー』(アイルランドを舞台にしたホーム・ドラマみたいな映画らしい)にエキストラで出たのがデビューだといいます。『血涙の志士』、『最敬礼』、『踊るカレッジ』(ミュージカル映画)、『最後の一人』を経て、200万ドルの巨費を投じて製作された超大作西部劇『ビッグトレイル』(1930年/監督:ラオール・ウォルシュ)の主役に抜擢されます。

 私は、エキストラ時代のジョン・ウェイン(草競馬の観客のひとりとして画面に登場した『血涙の志士』)を観ています(興奮のあまり飛び上って、前の柵をこわしてしまうシーン)が、エキストラといっても存在感がありましたよ。

 ラオール・ウォルシュは、フォックス社の小道具係をしていたウェインを見て、主役のイメージにぴったりだと思ったそうです。ウォルシュもウェインの存在感を感じたのでしょうね。

 『ビッグトレイル』の出演に当って、マリオン・モリスンは新しく芸名をつけることになります。ジョン・ウェインの誕生です。(由来は、独立戦争の英雄アンソニー・ウェイン将軍から命名)

 

 『ビッグトレイル』では、ウェインは、親友を殺した犯人を捜す幌馬車隊の若き道案内役を演じています。彼に率いられて行く、ミズーリからオレゴンに向かう幌馬車隊の旅が大規模に描かれています。大河横断、バッファロー狩り、インディアンの襲撃、猛吹雪の襲来といったスペクタクル場面の迫力は、サイレント西部劇の傑作『幌馬車』に勝るとも劣らないものと、私は思いますね。

 この作品は“グランデュール方式”と呼ばれる70ミリ版も同じに撮影されましたが、上映できる映画館はアメリカ国中で、たった2館しかなかったんですよ。

 ワイド画面の迫力が、結局いかされなかったんですね。ほどほどの当りはみせましたが、金銭的にはフォックス社に大損害をあたえました。

 「ミスター・ウェインは非凡さに欠けるが、その演技は自然で好感が持てる。若きウェインはどこまでも未熟で、それが露呈しているが、将来性がほの見えている」と評されたジョン・ウェインは、フォックス社がスターに仕立て上げることをやめたため、1939年の『駅馬車』までB級映画スターとして雌伏の時を過ごすことになります。

 

B級映画

 B級映画は一般に低予算映画(低予算だからセットはチャチ、フィルムの使い回しは当り前、出演料の安い二流スターの主演映画)と考えられていますが、起源は地理的な区別からきたものと云われています。

 1930年代、フォックス社の撮影所は二つあって、ウェストウッズ・ヒルズの撮影所が建っていたのが“A地域”、ウェスタン・アヴェニューの撮影所が建っていたのが“B地域”と呼ばれていました。ウェスタン・アヴェニューの撮影所では低予算の作品を製作していたので、製作費の安い作品は、“B地域の作品”と呼ばれ、やがて“B映画”と略称されることになります。この名称は、他の映画会社でも、同種の作品を呼ぶのに採用されたそうです。

 それでは、B級映画が製作されるようになったのは、何故でしょう。それは、大恐慌がきっかけでした。不況時代に入り、観客動員数の減少をくいとめようとして、A級映画に50〜70分の添え物(B級映画)をつけた二本立てという興行システムが考えだされました。この方式は、暇を持て余していた失業者を呼び寄せることに成功しました。

 1932年頃から始まった二本立て興行は、35年には2万館近く存在する映画館の85%で実施されていました。普通は週1回の番組改変でしたが、中には週に3度も番組を改めて観客をつなぎとめようとする劇場まであって、B級映画の需要が急激に高まります。

 

 そして、メジャーだけでは手が回らないため、B級専門のマイナー・カンパニーが続出してきます。

 『ビッグ・トレイル』でコケた後、ジョン・ウェインがB級西部劇スターの地位を確立したのが、B級専門のモノグラム社の西部劇でした。(『ビッグ・トレイル』の後、モノグラム社と契約するまでに、ウェインは、フォックス、コロムビア、ワーナー、B級専門のマスコットといった映画会社で20数本の作品に出演していますが、アイデンティティは確立できていません)

 ウエインは、モノグラム(後にリパブリックと合併)で『駅馬車』に出演するまでに28本(リパブリックでの出演も含む)のB級西部劇に主演しています。

 モノグラムでの第1回作品が『宿命のカウボーイ(RIDERS OF DESTINY)』

(1933年)で、これはシンギング・カウボーイの先駆けとなった作品でした。

ジョン・ウェインがリパブリックで

主演した“三銃士”シリーズ

 

『宿命のカウボーイ』

  ♪カウボーイは運命の歌を歌った 荒野をさまよいながら

    目には復讐の炎 銃には怒りの銃弾

    腰にまいたベルトに 銃が揺れる〜

と、冒頭で主人公のシンギング・サンデー(J・ウェイン)が馬上でギターを弾きながら、歌っているんですよ。

 サンデーは、背中を撃たれ負傷した保安官の頼みで、キンケイドという悪党が支配する町にやってきます。途中でフェイ・デントンという娘を助け、デントン家に滞在することになります。夕食後、サンデーはフェイに歌声を聴かせます。

  ♪ああ、荒野のそよ風 あの頃を思い出す

    歌っておくれ あの荒野の歌を

    もう一度ささやいておくれ あの美しいメロディを〜 

 

 ダムに貯水して水の権利を独占し、住民から土地を安く手に入れようとしているキンケイドは、井戸の水を住民に供給するデントンは目の上のタンコブ。住民に配る水を入れたタンクを積んだ馬車を手下に襲わせるが、サンデーに妨害されてしまう。

 キンケイドはサンデーを倒すために、殺し屋をさしむけるが、殺し屋は逆にサンデーに倒される始末。キンケイドはサンデーを買収して、仲間にするが、サンデーはある考えを持っていた。

 サンデーは、水を独占するためにデントンの井戸を爆破することをキンケイドに提案する。サンデーは、デントンの井戸とキンケイドのダムが地下でつながっていることを発見し、井戸を爆破すれば涸れ川に水が戻ることを知っていたのだ。井戸が爆破され、水が川に戻る。元気になった保安官も帰ってきて、悪事の全てがバレたキンケイドは逃走するが、サンデーに追われ、ダムに落ちて命を落とす。流れ者のサンデーは、実はワシントンの秘密捜査官だったが、恋人となったフェイに戻ってくることを約束してエンド。

 

 ウェインは、この後も『ユタから来た男』や『WESTWARD HO』で歌っていますが、全て吹き替えのようです。『宿命のカウボーイ』も輸入DVDでは吹替えでしたが、BS2が“カラーで甦った若き日のジョン・ウェイン”シリーズ放映した同作品は、ウェインの声でしたね。お世辞にも上手いと言える歌ではありませんでしたよ。

 ウェインは歌うのを止めましたが、シンギング・カウボーイは、ジーン・オートリー、ロイ・ロジャースによって一つのジャンルとして成立します。

 ところで、モノグラムでのウェイン作品は、当時のB級西部劇の中でも群を抜いた存在だったそうです。それは、ヤキマ・カヌートのスタントの素晴らしさにあります。

 カヌートはほとんどの作品に出演(『宿命のカウボーイ』でもキンケイドの手下役でした)しているだけでなく、危険なシーンはカヌートが全て吹き替えています。ウェインが暴走する馬車に馬から乗り移るシーンや、キンケイドが馬もろともダムに落ちるシーンは、間違いなくカヌートですね。

 ウェインはカヌートと友人になり、その後の西部劇人生とっての得難い師匠を得ました。

 

 

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