サイレント西部劇のスター


ウィリアム・ファーナム

 前述した『スコオ・マン』に主演したダスティン・ファーナムが、西部劇のヒーローとして日本で知られるようになったのは、配給の関係から1918年以後のことです。ダスティン・ファーナムより、弟のウィリアム・ファーナムの方が日本では先に有名になったようです。

 ウィリアム・ファーナムもブロードウェイの有名な役者で、14歳から舞台に立ち、自分で劇場まで持っていたんですよ。彼がプロデュースし、主演した『ベン・ハー』は5年間のロング・ランを立てたほどでした。

 舞台出身として、映画でも『レ・ミゼラブル』や『二都物語』のような文芸大作に主演するだけあって、単純なカーボーイ映画でなく、人間がしっかり描かれている西部劇に出演しています。ゼーン・グレイの西部小説を映画化した西部劇が好評だったようですが、大ヒットしたのはレックス・ビーチ原作の『スポイラース』(1914年)でした。

 トム・サンチを相手に延々と殴り合いを続ける大格闘は映画史に残るもので、その後4回もリメイクされていますが、ウィリアム・ファーナムとトム・サンチの激闘を上回るものはないようです。

 ちなみに第2作(1923年)は、ミルトン・シルス対ノア・ビアリーで、感情家のシルスが怒り出してホンモノの喧嘩になったとか。第3作(1930年)はトーキーで、ゲーリー・クーパー対ウィリアム・ボイド。第4作(1941年)がジョン・ウェイン対ランドルフ・スコット。第5作(1956年)はカラー(邦題は、暴力には暴力だ!)で、ジェフ・チャンドラーとロリー・カルホーンが大格闘をしました。

 

ウィリアム・S・ハート

 このウィリアム・ファーナムの舞台での共演者がウィリアム・S・ハートで、カーボーイ役者として有名でした。日本ではエス・ハートの愛称で親しまれていますが、その生涯はまさに伝説的ですらあります。

 ニューヨークに生まれ、ブロードウェーで18年の舞台生活からタマス・H・インスの招きで1914年に映画入りしました。その時既に40歳を超していましたが、1925年までの12年間、西部劇スターとして圧倒的な人気を集めました。エス・ハートほど心から西部を、フロンティア・マンの正義と任侠を愛し、生き抜いた人はいません。

 満身の熱情で役に成りきり、西部男という役の中に性格を築きあげました。いつでも彼は無頼の徒に扮し、強者にはあくまでも刃向い、女性には優しく、しかも最後には、思う女性をあきらめて、放浪の旅にただ一人出ていきます。

 現在からみれば、これも単純なヒロイズムの作品ととれるかもしれませんが、その作風には素朴な詩情が流れています。エス・ハートの西部への深い愛情、愛着、高潔な人間性が、彼の風貌、演技からにじみ出てくるんですね。俗に馬づらといわれたエス・ハートのマスクは美男とは程遠いものですが、個性的であり、男性的で人を惹きつけるものがあったんですよ。

 日本には40本以上の作品が輸入され、パラマウントの7年間の作品のほとんどが輸入されています。エス・ハートの代表作はワイルド・ビル・ヒコック(原題)に扮した『二挺拳銃』だと云われています。南部圭之助さんの記事によると、ダッジ・シティに巣くう悪人たちを倒したあと、恋する女性の幸福を祈りながら、丘を去っていく姿に日本のファンは男の哲学を感じたそうです。

 純粋な西部劇とはいえませんが、『鬼火ロウドン』も有名な作品で、ビデオ化されてますので、現在でも観ることができます。

 

ハリー・ケリー

 ジョン・フォードの生涯を通じて最大の親友だったハリー・ケリーは、エス・ハートよりひとまわり若い1878年生まれです。

 ハリー・ケリーはニューヨーク大学出身というインテリで、若い時に西部に来て、カウボーイ生活をしてたのが縁で西部劇映画に主演するようになりました。IMDbのデーターによると1909年に最初の映画出演をしていますね。ということは、30を過ぎてからのデビューということになります。

 ユニヴァーサルで既に西部劇スターだったハリー・ケリーに付いたのが当時21歳のジャック・フォード、後年のジョン・フォードでした。ハリー・ケリー映画の製作責任者として作者も時に兼ね、監督としての地位を固めていったんですよ。

 『武力の説教』(1917年)から始まるハリー・ケリー映画を15〜6本つくっています。ハリー・ケリー映画の主人公は、いつも同じ名前で“シャイアン・ハリー”の名で親しまれていました。日本ではハリー・ケリー無声西部劇が19本公開されているそうですが、人気が高かったのはシャイアン・ハリー・シリーズのようですね。

 私は、フィルムセンター(ジョン・フォード特集)で『誉の名手』を観たのですが、西部劇の原点がここにありました。

 『誉の名手』の概要を紹介しますと、大牧場主があとから移住してきた農民一家を追い出そうとして二人の殺し屋を雇いますが、そのうちの一人シャイアン・ハリーが農民側の味方になり、愛する女性のため殺し屋を倒します。まさに『シェーン』の原点でした。室内にカメラを据え、ドアの内側から外を撮るショットは、『捜索者』でお馴染みのものです。『捜索者』のラストで、戸口に立っているジョン・ウェインが左手を右ヒジにあてるポーズをしますが、『誉の名手』でハリー・ケリーが同じポーズをしているんですよ。

 ハリー・ケリーは、ジョン・フォードに多くの撮影のヒントを与えたといいますし、ジョン・ウェインもハリー・ケリーから影響を受けているかもしれませんね。

 

トム・ミックス

 トム・ミックスは、1880年テキサス州エルパソに生まれました。父親は合衆国第7騎兵隊の大尉でアイルランド系の武人、母親はスコットランド人とチェロキーインディアンの混血という生粋の西部男でした。

 テキサス・レンジャーやU・S・マーシャルの職歴があり、米西戦争ではキューバ戦線で勲功をたてています。乗馬や投げ縄、射撃は本職だったわけです。

 トム・ミックスもハリー・ケリーと同じ1909年に映画入りしています。演技のできない素人ですから、内容の軽いアクション中心の西部劇でした。キンキラキンの派手なカーボーイ衣装に身を包み、愛馬トニーを駆って悪人をやっつける。砂塵をまいて駅馬車強盗を追跡したあとでも、酒場で格闘したあとでも、いつも服も帽子もピーカピカ。馬に乗ったまま2階の屋根からとび降りて、そのまま疾走し去るという芸当はトム・ミックスならではでした。

 トム・ミックスの映画が日本で見られるようになったのは、フォックス映画が活発に輸入されるようになった1920年以後のことだそうです。公開本数が少なかったことと、子どもが喜ぶような単純なヒーローは、日本人の体質にあわなかったこともあり、アメリカと比べて日本ではそれほど人気が出なかったそうです。

 トム・ミックスの代表作は『三つの金貨』(1921年/監督:クリフォード・スミス)と云われていますが、資料がないのでどんな映画かわかりません。

 

後継者たち

 フォックス西部劇のトム・ミックスの後継者がバック・ジョーンズ。ヒタイに刻む深い二本のたてじわがトレード・マークで、ミックスよりひとまわり身体が大きかったので、格闘は見ばえがしたそうです。西部劇の風景にこだわりを持っていて、ハリウッド近郊の西部劇に好適なロケ地は、彼の発見した土地が多いそうです。1942年にボストンで実演中の劇場が火事になり、逃げ遅れた観客を救い出しているうちに焼死するという、映画を地で行く英雄的な最後でした。

 ユニヴァーサル西部劇のハリー・ケリーの後継者がフット・ギブソン。20歳で荒馬乗りの選手権をとったロデオの名手で、童顔で小柄だったので、笑いの要素が多い軽い作品が多かったそうです。

 1920年代を少し過ぎると、今でいうA級・B級という西部劇でいう作品上の分類ができあがってきます。サイレントにおけるA級西部劇については後述しますが、バック・ジョーンズやフット・ギブソンは、白人大衆相手のB級西部劇スターなんですね。出演本数がやたらと多く、今でいえばテレビの人気スターのようなものでしょうか。

 

 白人大衆相手と、あえて表現したのは、ハリウッド映画史には記録として残っていない黒人西部劇に触れたかったからです。

 最初の黒人映画は、1929年に製作されたキング・ヴィダーの『ハレルヤ』と記載されていますが、それはあくまでハリウッドの大手映画会社で作られた映画の中だけであって、

1910年前後にウィリアム・フォスターというインディペンデント系の黒人フィルムメーカーによって、最初の黒人映画がシカゴで作られたと云われています。

 当時の貧しい大都市の黒人たちにとって、映画は大切な娯楽で、大都市を中心に黒人専用の小屋が作られ(当時、黒人専用館が600余りあった)、専用の小屋のないところでは、黒人用と指定された時間帯に黒人映画が上映されていました。

 そこで上映されるのは、ハリウッド製の映画を真似た安手のお手軽なコメディや西部劇やギャング映画でした。しかし、加藤幹郎氏が西部劇ベスト50の中に選んでいる『ハーレムから来たガンマン』(1938年/監督:リチャード・C・カーン)のような秀作?もあったようですよ。

 黒人西部劇にもトム・ミックスのようなスターがいます。黒人カーボーイ出身のビル・ピケットで、バッファロー・ビルのワイルド・ウエスト・ショーにもいたことがあり、数多くの黒人西部劇に出演しただけでなく、アドバイザーとしても活躍したようです。

 

 

トップへ    シネマ館へ     次ページへ