劇場公開作品


『地獄のガンマン』(1967年/監督:ドメニコ・パオレラ)

クーパー(ジョン・アイアランド)とモクソン(ミルコ・エリス)は銀行襲撃し金を奪うが、逃げる途中で独り占めしようとしたモクソンをクーパーは馬車から叩き落す。しかし、途中でミゲル(アントニオ・サバト)という青年が待ち伏せしていた。ミゲルはクーパーの銀行襲撃を目撃し、自分が預けていた銀行預金を取り返しにきたのだ。クーパーはミゲルが気に入り、預金を返すが、その様子を見ていた目撃者に誤解され保安官に捕えられる。クーパーも捕まり、無罪を証明する代わりに妻子をメキシコまで送り届けてくれるようにミゲルに頼む。クーパーは終身刑となり、ミゲルもクーパーの証言が信用されず有罪になるが、ミゲルの育ての親コヨーテ(フェルナンド・サンチョ)が判事を買収し、放免される。刑務所を脱獄したクーパーは妻子のもとへ行くが、クーパーの隠していた金を奪うためにモクソンが連れ去った後だった。クーパーはミゲルが裏切ったと考え……

長年、本場西部劇に数多く出演してきたジョン・アイアランドだけあって、拳銃さばきが板についています。ガンベルトが腰にピタッときまっているんですよ。

アントニオ・サバトはショルダー・ホルスターからリバース・ドローの早撃ちを見せますが、最初から撃鉄が上がっていましたね。襲ってきたモクソン一味を、ライフルや拳銃に仕掛けをして遠隔から発射するトリックを見せたりして、色々工夫しているところは好感が持てます。

簡単に脱獄できるのはマカロニ刑務所の最大特徴で、今更苦言は言いませんが、モクソンのクーパーの妻子に対する態度が淡白なのはマカロニらしくないですね。マカロニの悪党は、女に対してもっとギラギラして欲しいのだ。

 

『続・さすらいの一匹狼』(1965年/監督:ジョージ・フィンレー)

マカロニ・ウエスタンには、イタリア独自の発想のしかた・シチエーション・展開をもったイタリア式と、アメリカ西部劇の設定をできるだけ踏襲しようとするアメリカ式の2タイプがありますが、『続・さすらいの一匹狼』はアメリカ式の代表的作品といえます。

 この映画にはマカロニ特有のメキシコ山賊も出なければ、どぎついリンチシーンや殺戮シーンもありません。アメリカ西部劇にできうる限り似せて作っているんですね。

 主人公のブレント・ランダース(ジュリアーノ・ジェンマ)は、カウボーイ生活で稼いだ金で土地を買い、牧場でも始めようと考えています。“賞金稼ぎ”や“殺し屋”と違う生活感のあるヒーローなんですよ。服装も小奇麗で、無精髭もありません。ジェンマなのだから、当然といえば当然なんですけどね。主人公だけでなく、登場人物全員が1960年代前半以前のアメリカ西部劇の世界から抜け出したような格好しています。

物語の発端は、ブレントが悪党のジルと出会い、彼に騙されて盗まれた牛を買ってしまうことから始まります。さらに悪いことに誤解した本当の牛の所有者を正当防衛でしたが、殺してしまうんですね。彼は殺人牛泥棒として賞金をかけられます。盗品を売りつける悪党、盗品を買って泥棒に間違われる男、トラブルを大きくする直情径行の本当の所有者、まさにアメリカ西部劇のステレオタイプです。『ヴェラ・クルス』において、悪党のバート・ランカスターから買った馬のため、ゲーリ−・クーパーが馬泥棒と間違えられてメキシコ軍に追っかけられるのと、基本構造は同じですね。

冤罪をはらすためにジルを追いかける途中で、ブレントは暴行をうけて杭につながれていた牧師の娘ルーシー(イブリン・スチュアート)を救います。この映画の唯一マカロニらしいシ―ンです。本場アメリカ西部劇では、女性を大切に扱うので絶対にお目にかかれないシーンです。ブレントは彼女の治療のため、近くの町に連れて行きます。彼女の証言から、3人組が駅馬車を襲い、その中にジルがいたこと、主犯が町の有力者(ピーター・クロス)の息子であることがわかります。医者は二人の話を信用しますが、保安官は半信半疑です。アメリカ西部劇では、医者の存在は、客観的に物事を判断できる人物として登場します。テレビ西部劇『ガンスモーク』に出てくるドクと同じ位置付けですね。同様な存在として、アメリカ西部劇には、弁護士、新聞の発行人などがいます。一方、保安官は正義=法律の実行者として登場しますが、証拠主義の融通性のなさがドラマを生むことになるわけです。

ブレントとルーシーが3人組から襲われたことにより、保安官はブレントの無実を確信します。しかし、息子を盲愛する町の有力者は、ブレントに駅馬車強盗の罪をかぶせて殺すつもりで、部下を引き連れて町にやってくるんですな。馬鹿息子と、その息子を盲愛する権力者というパターンは『ガンヒルの決斗』と同じです。

保安官は自分一人では守りきれないので、町から二人を逃がします。逃げる二人を途中で見つけたジルと息子は、駅馬車から奪った金でジェンマを買収しようとしますが、逆にジルは倒され、息子はジェンマに証拠の金とともに捕えられます。ブレントがジルに銃を突きつけられてピンチになりますが、これを救うのがルーシー。恋人がヒーローを助けるために悪党を射つというパターンは『真昼の決闘』(恋人でなく新妻だったが)に見られます。

息子を捕らえて一安心というところへ、有力者の一味がやってきてブレントと銃撃戦になります。ブレントが弾丸を射ちつくし、もはやこれまでと思われたとき、保安官が駆けつけて二人を救出するのね。主人公が左肩を射たれるのも、弾丸がなくなった時に救援が駆けつけて来るのも、町の住民が一斉にライフルを構えて味方になるのも、アメリカ西部劇ではお決まりのコースです。保安官と医者が、出発する二人を見送るラストは『駅馬車』ですね。

このように本場アメリカ西部劇にそっくりですが、似ているからといって作品として出来がいいかというと疑問でして、演出が粗雑で、内容が散漫になっているのは否めません。封切当時は、イタリア式が好きなマカロニファンからは相手にされず、アメリカ西部劇を観てきた人たちには猿マネと馬鹿にされた作品でした。ジェンマの素早い身のこなしとガンプレーがなかったら、全く評価されなかったでしょう。私自身、数年前にレンタルビデオ(TVサイズの英語版)を見るまでは、殆ど記憶に残っていなかったくらいで、それだけ印象の薄い作品だったといえます。しかし、今改めてこの作品を見る人、本場アメリカの60年代前半のTV西部劇やそれ以前のB級西部劇を知らない人たちにとっては、けっこう新鮮な感じがするんじゃないでしょうか。

 

『星空の用心棒』(1967年/監督:スタン・ヴァンス)

テキサス山中の徒刑場からテッド・バーネット(ジュリアーノ・ジェンマ)が脱獄するところから物語は始まります。徒刑場を警備しているのが騎兵隊で、作業の合図にラッパでなく、角笛というのがマカロニ的です。それと、騎兵隊員が不必要に囚人を痛めつけるのもマカロニ的ね。

テッドは、父親を殺され、自分も殺人罪の濡れ衣を着せられて服役していたのですが、旧式の大砲を使って脱獄に成功します。テッドの目的は、もちろん復讐です。チャールスタウンの顔役コッブ(コンラード・サンマルティン)と配下のゴメス、町の保安官ダグラス(フランシスコ・ラバル)と彼の愛人ドリー(ニエヴェス・ナバロ)が、テッドが狙う仇ね。

テッド脱獄を知ったコッブとゴメスは、4人の手下を討手として差し向けますが、テッドにあっさり返り討ち。テッドはゴメスのもとに行き、彼の口から自分の殺したことになっている殺人の真犯人を聞き出します。ゴメスがかつて理髪屋だったことから、髭を剃らせながら尋問するのですが、危険を冒しながら散髪をするというシチエーションはイタリア人好みなのか、『ミスター・ノーボディ』にも使われていましたね。でもって、ジェンマ君は髪バサバサ髭ボウボウから、スッキリサッパリの貴公子に変身するのです。

テッドはインチキ歯医者のバハリートと娘のダルシー(ガブリエッラ・ジョルジェリ)と知りあい、彼らの馬車に隠れてチャールスタウンに向かいます。町の保安官ダグラスは、フチが刃物になっている保安官バッチを投げて虫を殺したりして、テラスに座って警戒していますが、テッドは亡父の部下から町の情報を聞き出します。そして、コッブ一味がメキシコ山賊と武器密売していることを知り、武器を積んだ列車を横取りして武器を隠すんですな。

ダグラスの屋敷に忍び込んだテッドは、彼の口から自分の父を殺したことを告げられ、トリック・ガンプレイでダグラスを倒します。この手のガンプレイがマカロニの魅力なんですよ。ほてからに、ダグラスの保安官バッチをポケットにしまいます。後で保安官バッチが役立つのは当然の展開ね。

ドリーはテッドの昔の恋人だったことから、真実を判事に話すことを誓い、テッドの味方になります。コッブ一味とメキシコ山賊を仲間割れさせることに成功したテッドは、判事に自首しますが、証拠がなくて絞首刑。しかし、ドリーの証言で刑執行寸前に釈放され、コッブ一味と銃撃戦となるので〜す。

自分に罪をきせた連中に復讐するという変り映えのしない西部劇(マカロニ・ウエスタン)ですが、きびきびしたジェンマの動きが魅力です。それと、保安官バッチを投げて相手を倒すというのが新趣向でしたね。『新・夕陽のガンマン』が大映の『新書・忍びの者』からの頂きであるように、おそらく日本の忍者映画からの頂きね。ジェンマは誰の用心棒でもありませんが、配給したのが東和だったので、星型バッチにちなんで『星空の用心棒』になったのでしょう。

 

 

 

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