関連事項

 

『INTO THE WEST』 関 連 年 表

1826年

ジェッド・スミス、大陸横断に成功

ジェッド・スミス(本名:ジェディダイア・スミス)は、1822年に元ミズーリ准州の副知事ウィリアム・アシュレイが組織した探検隊に加わり、ミズーリ川を溯り、ワイオミング高原を探検し、23年にロッキー山脈のサウス・パス(峠)を発見しました。この峠は起伏する丘に囲まれた広大な渓谷で、ここを通るとゆるやかな斜面づたいの大陸越えの分水嶺にたどり着きます。荷馬車で旅をするのに、もっとも役に立つ通路として後に利用されるようになります。

さらにスミスは、コロンビア河流域のイギリス人基地と接触し、またソルトレーク地域に入って南下し、1826年夏にはコロラド川流域を探検し、モハベ砂漠を西進してサンディエゴに達しました。しかし、メキシコ人とうまくいかず、メキシコ政府から退去を命じられます。翌年にはモハベ族インディアンと衝突し、その後、サクラメント川に沿って北上し、コロンビア河の河口に達する探検をしています。

1841年

アメリカ最初のカリフォルニア開拓団移住

1830年までにカリフォルニアに定着したアメリカ人は殆どおらず、いてもメキシコ女性を妻としてメキシコ人と同じような生活をしていました。その後、商人たちが訪れるようになり、1836年にはマサチュセッツ州のジョン・マーシュが貿易商人としてサンタフェ経由でロサンゼルスにやってきました。1840年になると、スイス生まれのジョン・サッターが西部各地を歩いた後、メキシコ政府から正式の土地使用許可をとり、サクラメントに落ち着き、牧場を始めます。この頃サクラメント川流域には、定着しているアメリカ人の数も500人近くになっていました。

1841年5月、ミズーリ州のスプリング・グローブに64名のカリフォルニア移住者が集まります。彼らは、オレゴンに向かう隊と合流してソーダ・スプリングスに達し、オレゴン隊と別れてソルトレークの北を通ってサクラメントに到着しました。このルートがカリフォルニア・トレールと呼ばれるようになり、その後5年間に約4000人の人たちがこのトレールを通ってカリフォルニアに達しています。

1848年

メキシコ戦争終結、カリフォルニアのアメリカ移管

1945年11月、アメリカ政府はメキシコに対して、リオグランデ川を合衆国の南の境界とすることや、ニューメキシコとカリフォルニアの合衆国への売却を提案しますが、翌年1月にメキシコ政府から拒否されます。するとアメリカは軍隊を派遣して3月23日にリオグランデ河の左岸を占領しました。4月25日にメキシコ軍がリオグランデ河を渡り、アメリカ軍と交戦したことからメキシコ戦争が始まります。

カリフォルニアでは、フレモント大尉がサクラメント渓谷に住む2〜30人のアメリカ人入植者を率いて1946年6月14日にソノマを占拠しました。7月7日には、太平洋艦隊のスロート提督がモントレイに星条旗を掲げますが、スペイン語を話すカリフォルニア人が武装蜂起して再占拠します。しかし、インディペンデンスからサンタフェ・トレール伝いに150人の騎兵を引きつれてきたカーニー大佐の部隊に鎮圧され、46年末までにカリフォルニアは完全にアメリカ人の手中になりました。

1847年9月17日にメキシコ・シティーが陥落し、メキシコはアメリカに降服します。翌年の2月2日に締結したグァダルペイダルゴ条約により、メキシコはリオグランデを境界とするテキサス、ニューメキシコ(アリゾナを含む)、アッパー・カリフォルニア(サンディエゴを含む)をアメリカに譲渡しました。譲渡金額は、たったの1500万ドルです。

1849年

カリフォルニアでゴールド・ラッシュ

1948年1月24日、サクラメント渓谷で製材所を建設中の労務者がサッターの水車用水路で金を発見しました。このニュースは2〜3週間たつうちに太平洋岸一帯に広がり、2〜3ヶ月たつうちに欲で目を血ばしらせた人の群れが街道にあふれます。川の砂を水で洗いながら篩いにかけると、美しい金のつぶが続々あらわれました。一箇所の金が採りつくされると、人々は新しい金鉱を求めてそこらじゅうを探しまわりました。読者がいなくなって発行を停止したサンフランシスコの新聞の最後の号に次のような文章が載っています。「サンフランシスコからロサンザルスまでの地域、太平洋岸からシェラネバダの山麓までの地域は、どこへ行っても金のことでもちきりだ。畑は半ば耕されたまま放置され、建築中の家屋は半分で中止され、シャベルとツルハシ以外のものの製造は全く無視されている」

うわさは、アメリカ全土のみならず世界各地に伝わり、翌49年には数えきれない幌馬車の列が荒野を突破し、ロッキーのけわしい山々を越えてカリフォルニアをめざしました。49年だけで約6万人が大陸を横断してきています。何百隻の船も“金鉱さがし”の人々を満載してサンフランシスコに入港しています。定員250名の船に700名の人たちが乗っていたこともありました。49年に黄金を求めてやってきた人たちは“フォーティ・ナイナーズ”と呼ばれ、西部史に記録されています。

1851年

スー族とララミー条約締結

フォート・ララミーで調印された条約で、スーやクロウなど平原部族に対してアメリカ政府は給付金を支給すると約束した代わりに、インディアンの土地に砦や道路の建設することを同意させました。しかし、アメリカ政府は砦に騎兵隊を配備するや、給付金の支給期間を短縮してしまったのです。

1860年

ポニー・エクスプレス開通

1860年4月3日、ラッセル・メジャー商会によって設立されたポニー・エクスプレスがミズーリ州セントジョセフを出発し、10日後にカリフォルニア州サクラメントに到着しました。それまで駅馬車で25日かかっていた郵便が10日で届いたのですから画期的なことでした。

ポニー・エクスプレスは、セントジョセフからサクラメントまでの約3千キロの道のりを190の中継所によって区切り、足の速い馬で郵便カバンをリレーして運ぶというものでした。インディアンや強盗が出没し、嵐や洪水のたえない悪路を一人で突破する強い体力と勇気と責任感をもった18歳〜22歳くらいの若者80人が選ばれ、受け持ちの80キロから130キロの区間をすっ飛ばしました。つぎの郵便手に郵便を渡す時間は、2分を超えてはならなかったそうです。

しかし、翌61年10月、大陸横断電信が開通したので、ポニー・エクスプレスは、その短い華々しい歴史を閉じることになります。

1863年

カントレル・ゲリラ、カンサス州ローレンスを襲撃

ゲティスバーグとヴィックスバーグで南軍が敗れ、カントレルに率いられた“ブッシュワッカー”と呼ばれる南部の寄せ集めの私兵たちは、北部への報復を狙っていました。1863年8月21日、奴隷廃止論者や北部ゲリラ“ジェイホーカーズ”が多数いるとの情報で、カントレルはローレンスの町を襲撃します。町を焼き払い、180名以上の住民を殺戮しました。

1864年

サンド・クリークの虐殺

1860年代はじめ、コロラドは南部シャイアン族の猟場であったが、インディアン事務局の役人たちは白人と近接しているインディアンを移住させて衝突を避けようとします。1861年2月18日、フォート・ライアンに各部族の酋長を集めて、アメリカ政府はアーカンザス川と東部コロラドのサンド・クリークの間を保留地にする提案します。平和主義者のブラック・ケトルは、この条件に同意しますが、ローマン・ノーズは遊牧生活ができなくなることから不満の意を表明し鉱山キャンプや郵便馬車を襲撃します。当時のコロラド准州知事はインディアンの抹殺を望んでおり、同じ考えを持っているジョン・シビントン大佐のコロラド第3義勇連隊が、1864年11月29日、平和に暮らしているサンド・クリークのシャイアン族キャンプを襲撃し、200名以上のシャイアンを一方的に虐殺しました。虐殺の大半は老人と女子供でした。

1868年

ワシタ川の虐殺

ローマン・ノーズをリーダーとするシャイアン族の攻撃に手を焼いたアメリカ政府は、シャイアンと和平を結ぶために1867年にメディシン・ロッジ・クリークでシャイアン族の酋長を集めて会議を開きます。この会議で酋長たちは保留地への移動を承諾しますが、ローマン・ノーズは会議に参加していません。ブラック・ケトルはサンド・クリークの悲劇を繰り返すまいとして、インディアン管理所が置かれているコップ砦に戦意のないことを伝え、保護を求めますが、砦の指揮官は彼らが攻撃される心配がないことを保証します。しかし、1868年11月27日、ジョージ・カスター中佐率いる第7騎兵連隊がワシタ川上流のシャイアン族キャンプ地を襲撃します。戦う意志のないことを示したブラック・ケトルも一方的に射殺され、シャイアンの犠牲者は100名を数えました。例によって、その大半が老人と女子供でした。

1869年

大陸横断鉄道完成

1858年、アメリカ政府は鉄道建設に多くの援助をあたえる大陸横断鉄道法を成立させます。間もなく南北戦争が始まり大陸横断鉄道どころではなくなりましが、戦争が終結した1866年、東から工事をはじめるユニオン・パシフィック社と西のカリフォルニアから建設をすすめるセントラル・パシフィック社が作られ、競争で鉄道を敷きはじめます。

オレゴン・トレールに沿って西進するユニオン鉄道は労働力不足と労働者をカモにする悪質業者に悩まされ、東進するセントラル鉄道はシェラネバダの険しい山腹に苦労しましたが、1869年5月10日、ユタ州グレート・ソルトレークの近くで黄金の犬釘を打って両鉄道は結ばれました。

1876年

リトルビッグホーンの戦い

1875年、金鉱探しの白人がサウスダコタのブラック・ヒルで金を発見し、欲に目のくらんだ白人たちがなだれ込んできます。ブラック・ヒルはスー族の聖地としてアメリカ政府が約束した聖域だったので、シッティング・ブルとクレイジー・ホースに率いられたインディアン部隊が白人に対して攻撃に出ました。第7騎兵隊を率いるカスターは、ブラック・ヒルの居住地を離れたスー族と北部シャイアン族の部隊を追討するためにノースダコタのビスマークから西進し、1876年7月25日、モンタナのリトルビッグホーン川の近くでインディアンたちを発見します。そこでカスターはインディアンの数を確認することもなく、第7騎兵隊を3部隊に分割し包囲作戦をとります。ところが、逆にクレイジー・ホース率いる2500人のインディアン部隊に包囲され、カスター率いる265名の部隊は全滅しました。

1879年

カーライル全寮制学校設立

リチャード・H・プラット大尉は、フロリダ(フォート・マリオン)でインディアン捕虜を預かっていた時、彼らの順応性に感心し、教育によってアメリカ社会に同化できると考え、インディアンの子供の教育のためにカーライル全寮制学校を1879年に設立しました。彼の理想は、保留地が全廃され、インディアンが完全に白人社会に統合されることでした。

1890年

ゴースト・ダンス運動とウーンデッド・ニーの虐殺

歌い踊ることによって、平原には再び何百万頭のバッファローが棲むようになり、白人と白人流の生活様式は全て消えてなくなるというパイユート族の祈祷師ウォーヴォーカーが唱えた予言が、インディアンたちの希望の光としてあっという間に広まりました。

スー族の祈祷師キッキング・ベアはウォーヴォーカーに帰依し、スー族にゴースト・ダンスを広めます。断食したり踊ったりすることによって陥る無意識の状態の中で大地に戻る気分を味わい、白人たちの弾丸を防ぐという魔法のしるしのついたシャツが作られます。そういう事態に白人移住者は不安を高め、軍関係者やインディアン担当官の中に不安を抱く者が出てきます。

スタンディング・ロックの担当官は、シッティング・ブルがインディアン保留地から抜け出す準備をしている噂を信じてブルを逮捕するために警官隊を派遣しますが、ブルが拒んだために銃撃戦がはじまり警官隊とインディアンに多数の死傷者がでて、ブル自身も死にます。

ゴースト・ダンスに熱狂的に帰依している部族の武器を全て取り上げるために第7騎兵隊がウーンデッド・ニーのキャンプに派遣されます。しかし、抗戦派の戦士がこれを拒んだためにキャンプ全体が騎兵隊の銃火を浴びました。約350人中250人のインディアンが殺されたり負傷したりしましたが、例によって死傷者の半数以上は女と子供でした。

 

 

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