ビリー・ザ・キッドの史実


ビリー・ザ・キッドは、21歳の生涯で21人殺したと云われる西部の無法者です。その人気の高さは、ジェシー・ジェームズと並んでエース級ですね。本名はウィリアム・H・ボニイというのが通説ですが、パット・ギャレットの著述になる『ビリー・ザ・キッドの信頼しうる生涯』という本が元になっています。ビリー・ザ・キッドの物語の殆どは、この本が元ネタになっていますね。

“信頼しうる”とことわっているのは、キッドの生存時からダイム作家やインチキ新聞記者によってキッド伝説がひろまっていたからです。だけど、この本もアッシュ・アプソンというダイム作家が、パット・ギャレットから聞き書きしたもので、ギャレットの語ったわずかばかりの話を、針小棒大に脚色したものであることが後年の研究から判明しています。でもって、現時点での信頼しうるキッドの生涯は……

本名ヘンリー・マッカーティ、1859年9月17日、ニューヨークで生まれました。11月23日という説がありますが、これは前述のアッシュ・アプソンの誕生日のようです。母親のキャサリンは、ヘンリーとその兄ジョゼフの二児を抱えて1866年、インディアナ州の田舎でウィリアム・H・アントリムと同棲します。夫のパトリックはニューヨークで死んだとキャサリンは語っていたそうですが、パトリックは家族を捨てて失踪したのが真実のようです。義父となったアントリムは農民でしたが、当時の金銀採掘熱にかられ、一家をつれてカンザス州ウィチタ、コロラド州デンバーなどを経て、ニューメキシコ州のサンタフェで正式に結婚します。結婚式の証人として兄弟が残したサインが現存しています。その後、シルバー・シティに移り、アントリムは鉱山で働き、キャサリンは下宿人をとって家計を助けましたが、1874年に死亡します。ヘンリーは不仲だった義父のもとを去ります。

伝説では、母を侮辱した鍛冶屋を殺して逃亡したことになっていますが、そんな事実はないようです。記録に残っているのは、1875年に不良仲間と中国人の洗濯屋から衣類を盗み逮捕されたことです。2日後に煙突から脱走し、アリゾナへ逃れてカウボーイとして雇われます。その時に、ウィリアム・H・ボニイを名乗ったようですね。ウィリアムは義父から、Hは自分のヘンリーから、そしてボニイは酒場女からボニイ(可愛い子)の愛称で呼ばれていたのを利用したというのが有力な説となっています。その地で、カウボーイ仲間からザ・キッドと呼ばれ、ビリー・ザ・キッドが誕生するわけです。

1877年の夏、J・W・スミス牧場で働いている時に、酒場で黒人の鍛冶屋フランク・P・カーヒルを殺します。カードゲームの縺れから、「ピンプ(ポン引き)」と呼ばれて喧嘩になり、相手の拳銃を引抜いて射ち殺しました。この話が、母を侮辱した鍛冶屋の殺害にすり替わったのでしょうね。ビリーは逮捕されますが、脱走してシルバー・シティ時代の不良仲間ジェシー・エヴァンスの一味に加わります。ジェシー・エヴァンスは家畜泥棒の頭目で、エヴァンスと組んで馬泥棒や駅馬車強盗を働き、悪業の訓練をつんだようです。

1877年冬にビリーはジョージ・コウという小さな牧場主と知り合い、コウに気に入られたビリーはコウ牧場の世話になります。そして、英国出身の裕福な牧場主タンストールを紹介され、1878年1月からタンストール牧場で働きはじめます。タンストール牧場はリンカン郡の郡庁が置かれていたリンカンの町の南、リオ・フェリス河畔にありました。タンストールはビリーを気に入り、ビリーもタンストールの親切に恩義を感じ、堅気の生活を決心します。しかし、“リンカン郡戦争”の幕が開けようとしていたのです。

当時、リンカン郡は二つの勢力によって不穏な状況になっていました。一方は、テキサスからニューメキシコに勢力をのばしてきた大牧場主のジョン・S・チザムで、もう一方は、サンタフェ・リングの中心人物ウィリアム・ローゼンバーグです。チザムが精肉事業に乗り出した時、サンタフェで軍隊などを相手に牛肉販売していたローゼンバーグは、政治・経済・司法の実力者を結集(サンタフェ・リング)して、チザムの勢力を駆逐することに全力をあげます。経済の中心が牛で支えられていたわけですね。リンカン郡でリングの傘下にあったローレンス・G・マーフィーとジェームズ・J・ドーランは、郡における商売を独占しており、その資金力で郡保安官、裁判官、地方検事を味方にして、中小牧場主や農民の生活まで支配していました。しかし、中小の牧場主は公共の放牧地を先取権で独占しているチザムのような大牧場主を憎んでいたようです。1876年にジョン・H・タンストールがリンカンにやって来て牧場を開き、翌年はリンカンの町で弁護士をしているカナダ生まれのスコットランド人アレグザンダー・マクスウィーンと組んで雑貨屋を開店し、さらに銀行を作ってチザムを頭取にすえます。それまで町にはドーランの雑貨屋とリングの銀行しかなかったのですから、ドーラン一味の怒りを買うことになります。

1878年1月、タンストールは新聞へ、リングに買収されている郡保安官ウィリアム・ブレディの不正を暴く投書をします。しかし、逆にドーランは政治家と共謀してタンストールの馬の一部を負債の決済分として差し押さえる裁判所命令を出します。タンストールが拒否したので、ブレディは無法者のウィリアム・モートンとその仲間を助手(デュピティ)に任命し、馬の押収を命じました。

2月18日、抗議のためにリンカンの町に向かっていたタンストールは、逮捕にきたモートンと一味のジェシー・エヴァンスに殺されます。ビリーは牧童頭ディック・ブルアーが犯人捜索のために結成したレギュレーターズ(自警団)に加わり、3月9日、モートンと一味のフランク・ベーカーを捕らえて殺します。4月1日には、ビリーと仲間の5人が、ブレディと助手のジョージ・ヒンドマンを殺します。その3日後には、ビリー捜索の保安官一派と自警団の射ち合いがあり、保安官側はジェシー・アンドルースが、自警団側はリーダーのブルアーが死にます。その後も死人の出る抗争が何度か続きますが、7月15日、タンストールの共同経営者だったマクスウィーンの家に、ビリーとその仲間17人が集結します。しかし、それは新任の郡保安官ジョージ・ペピンの知ることとなり、助手に任命した牧畜業者マリオン・ターナーたち40人がマクスウィーン家を包囲しました。激しい銃撃戦が開始されますが、2日経っても家に近づくことができず、ペピンはスタントン砦に軍隊出動を要請します。N・S・ダドリー大佐がガトリングガン2丁と大砲1門を装備した騎兵分隊を率いて18日に到着します。19日の早朝、マクスウィーン家の女性3人を家から退出させ、再び戦闘がはじまります。家に火が放たれ、炎に包まれはじめます。夜中に、ビリーは脱出しますが、マクスウィーンを含めて4人が殺され、1人が重傷を負いました。マクスウィーンの死でリンカン郡の戦争は終結します。

ビリーたちに活動資金を出していたチザムは、マクスウィーンの死で支援する対象がなくなり、争いから手を引きます。スポンサーがいなくなったビリーたちは家畜泥棒に戻り、チザムの牛を盗みはじめます。

1878年9月にルー・ウォレスが新知事に就任し、リンカン郡戦争に関係した者に特赦を与えて不問にする通達を出します。しかし、ビリーはリンカン郡戦争以前にブレディ殺しの逮捕状が出ていたので、特赦の対象になりませんでした。だが、ビリーの行動に危険を感じたウォレスは、何人かの仲介によって、1879年3月17日にビリーとウィルソン治安判事の家で秘密会談をします。この会談の結果は不明ですが、ウォレスはビリーに自由の身を約束したものと思われます。というのは、4日後にビリーは仲間のトム・オファリアードと自首してきたからです。ところが、ブレディとヒンドマン殺害でビリーは告発され、裁判にかけられることになります。6月17日にビリーとオファリアードは留置所から脱走します。その後は、デイブ・ルダボー一味もビリーの家畜強盗団に加わり、以前にも増して泥棒家業に精を出すことになりました。

1880年11月、ビリーと交友のあったパット・ギャレットが郡保安官に選出されます。ビリーに対抗できる男ということで、チザムたち有力者が推薦したようです。パット・ギャレットは、1850年にアラバマの農園主の子に生まれましたが、南北戦争で全てを失い、カウボーイをしたりバッファローハンターをしたりした後、ニューメキシコへ流れてきました。フォート・サムナーのビーバー・スミス酒場でバーテンをしている頃に、フォート・サムナーを根城に泥棒稼業をしていたビリーと知り合ったようです。ビリー逮捕に向かったパットとビリー追跡隊は、1880年の12月半ばにフォート・サムナー郊外で待ち伏せします。フォート・サムナーにやって来るビリーと4人の仲間をパットたちは一斉射撃します。トム・オファリアードが射殺されますが、吹雪で視界が悪かったために、他の4人は逃げることに成功します。数日後、スティンキング・スプリングズにビリーが隠れているという情報を得たパットは、追跡隊を率いて夜のうちにビリーたちがいる石造りの廃屋を包囲しました。明け方、外に出たチャールズ・ボウダーが追跡隊に射ち殺されます。銃撃戦がはじまり、逃げるのが不可能と考えたビリーは降伏します。逮捕されたビリーは裁判で絞首刑を宣告され、5月13日にリンカンの町で執行されることになりました。

ビリーはリンカンの郡役所の二階に監禁されます。4月28日、看守のボブ・オリンジャーが向かいの食堂へ夕食に出かけた隙に、ビリーは別の看守ジェームズ・ベルを説き伏せて、中庭の屋外便所へ連れていってもらいます。そこで、油断しているベルを襲いベルを射ち殺します。使われた拳銃はベルのものでしたが、ビルの仲間が便所の中に拳銃を隠していたという説もあります。ビリーは事務室でショットガンを取り出し、二階のバルコニーから、銃声を聞いて駆けつけるオリンジャーを射殺して脱走します。

パット・ギャレットは再びビリーの追跡を開始します。ビリーがフォート・サムナーの周辺にいることを聞き込み、助手のティップ・マッキニーとジョン・W・ポウを連れて、ビリーの情報を得るため友人のピート・マクスウェルを訪ねます。マクスウェルはビリーの友人でもあり、パットが訪ねた時、ビリーもマクスウェル家に来ており、敷地内の別の建物にいたんですね。7月13日の夜、マクスウェルの寝室で待っていたパットは、月光を背にして入ってきたビリーを射殺します。こうして、ビリー・ザ・キッドは21歳の生涯を終えます。

 

 

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