怪談映画


怪猫謎の三味線(1938年/監督:牛原嘘彦)

常磐津の踊り子の三津枝(鈴木澄子)は、常磐津の三味線弾きの清二郎(浅香新八郎)と将来を誓った仲だったが、異常に嫉妬深い女だった。お喜世(歌川絹枝)という大久保家用人の娘が清二郎の飼い猫を助けたことから、二人は親しい仲になるが、三津枝が嫉妬して猫とお喜世を殺してしまう。やがて、三津枝は大久保相模守に見初められ側室として屋敷に上がることになるが、そのことに反対したお喜世の父を、相模守を色香で迷わせ、無礼討ちにする。三津枝の引退興行の日、お喜世の妹・お縫(森光子)が父姉の敵討ちのために同じ舞台にあがるが……

戦後の化け猫女優といえば入江たか子ですが、戦前は鈴木澄子なのです。この作品では残念ながら化け猫にはなりませんが、妖婦の魅力を存分に見せています。

内容的には、当時としては技巧を凝らした演出なのでしょうが、現在の目で見ると全然怖くありません。逆に現在の目で見ると、セットや小道具がリアルで、江戸時代の芝居小屋の雰囲気が十分に伝わってきました。

 

怪談累が渕(1957年・新東宝/監督:中川信夫)

中川信夫の怪談映画の原点というべき、本格的怪談映画の第一作目。原作は三遊亭円朝の「真景累ヶ渕」で、川内康範が脚色している。

旗本・深見新左衛門は、借金返済を迫る按摩の宗悦を殺し、死体を累ヶ渕に沈める。しかし、新左衛門も宗悦の亡霊に錯乱して妻を殺し、自らも累ヶ渕に沈んでいく。新左衛門の息子・新吉(和田桂之助)と、宗悦の娘・豊志賀(若杉嘉津子)は成人して、相手の素性を知らないままに夫婦同然の生活をおくっていた。やがて、豊志賀の弟子であるお久と、新吉は三角関係となる。新吉に裏切られた豊志賀は憤死し、駆け落ちした新吉・お久の二人は豊志賀の亡霊に悩まされ、誤ってお久を殺した新吉も累ヶ渕で死ぬ……

親子二代にわたる悪縁、因果の恐ろしさを中川監督は陰惨な描写で押しとおし、低予算ながらも優れた怪談映画に仕上げています。

「豊志賀と新吉の二人を掘り下げ、原作に見るように、新吉が次第に亭主面をしてゆくのが描かれたら、更に高く評価されたと思う」と川部修詩氏が言っていましたが、私も同感です。この作品の上映時間は66分で、あと30分の余裕があれば、その辺も描くことができ、最高だったでしょうね。

ケガをした豊志賀の顔が癒らず、逆に容貌が醜く変わっていくところは、お岩さんです。若杉嘉津子は、後年、同監督の『東海道四谷怪談』で見せた鬼気せまる演技を、この作品でも見せています。

それと、丹波哲郎が演じた浪人・大村陣十郎は原作にない人物ですが、「四谷怪談」における直助と同じような存在で、効果をあげていました。

 

亡霊怪猫屋敷(1958年・新東宝/監督:中川信夫)

医大の助教授が愛妻の病気療養のため、妻の故郷にある古い武家屋敷を借りて開業するが、次々と奇怪な出来事が起こる。助教授が檀家の寺の和尚に相談すると、その屋敷は大村藩の家老の屋敷で、碁のいざこざから相手を殺し、屋敷内の一室の壁に死体を塗り込めたという。殺した相手が飼っていた猫の怨霊により、家老の一族は全て死に絶えたが、奉公人のひとりだけが逃れて生き残った。その奉公人の子孫が助教授の妻だった。和尚から話を聞いた夜、嵐となり、無気味な老婆が愛妻を襲う……

中川監督が取組んだ最初の大型カラー作品。現在→過去→現在(画面もセピア色→カラー→セピア色と変化する)という異なった時空間を、怪猫による怪奇現象を軸に物語を展開していく手法は当時としては珍しいものじゃないかなァ。

50年代の化け猫映画を、私はかなり観ているつもりですが、従来の化け猫映画にない斬新なスタイルだと思いますよ。特に、現在時空をセピア色で描いたことで、映画全体にブキミ感が出ています。

それと、中川信夫の怪談映画には、必ずどこかに輪廻思想が盛り込まれていますね。

 

怪異談・生きてゐる小平次(1982年・ATG/監督:中川信夫)

中川監督77歳の時の作品で遺作。前作『お勝兇状旅』から13年経過していましたが、中川監督が持つ独特の美学が遺憾なく発揮されています。老監督の作品とは思えない斬新な映像ですよ。

ATGの映画なので、製作費は当然少なく(1千万円強)、大きなセットは作れず、群集シーンも撮れない(登場人物はたった3人)という制約の中で、それを逆手にとった画面上の工夫は前衛的ですらあります。

開巻の緞帳芝居の舞台シーンにおいて、おちか(宮下順子)、大九郎(石橋正次)、小平次(藤間文彦)の男と女としての関係、おちかという女の存在を簡潔に、しかも見事に描いています。

“女”そのもの、“男”そのものをこの三人に集約し、人間の持つ“業”を具象化しています。他の登場人物が必要ないんですね。中川監督の脚色の巧さが光ります。

それと、カメラがこれまた素晴らしい。撮影を担当した樋口伊喜夫という人を私は知らないのですが、その鋭い映像感覚はタダ者ではありませんよ。

 

生きている小平次(1957年・東宝/監督:青柳信雄)

鈴木泉三郎の戯曲「生きてゐる小平次」を忠実に映画化したもの。

原作戯曲は三幕からなり、第1幕は、奥州・安積沼に小舟を浮かべて大九郎(芥川比呂志)と釣をしている小平次(中村扇雀)が、大九郎の妻・おちか(八千草薫)への想いを打ち明け、怒った大九郎に殺され、沼に沈められる。

第2幕は、江戸の大九郎の家に、沼に沈められたはずの小平次が現われ、大九郎を殺したとおちかに告げ、駆け落ちを迫る。おちかは、それを承諾するが、そこへ大九郎が帰ってくる。大九郎は、殺したはずの小平次を見て驚き、おちかも大九郎が生きていたことで小平次を責め、大九郎は再び小平次を殺す。

第3幕は、海岸に近い夜の街道で、殺した小平次が生きていて追ってくるのではないかと恐れ悩む大九郎に、疲れたといって甘えるおちか。おちかを抱こうとする大九郎だが、二人の間に誰かがいる気がして、おちかを残して去る。大九郎を追っていくおちか。さらに、去った二人のあとを、トボトボついていく小平次。そして幕。

中川作品と比べると、古色蒼然として時代遅れの感は否めません。それと、おちかの性格と心理が描ききれていないんだなァ。

八千草薫をおちか役に起用したことが、この作品の最大の失敗ですね。彼女の個性からみて完全なミス・キャストですよ。亭主の大九郎に惚れていながら、小平次にも色目をつかうという複雑な女の演技を要求することがムリだったし、イメージ的にもあわなかったなァ。

 

 

 

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