忠臣蔵映画


忠臣蔵が初めて映画になったのは、御園京平さんの調査によりますと、1907年(明治40年)12月7日、本郷座で封切られた『忠臣蔵五段目』のようです。

これは、11代目片岡仁左衛門の襲名を記念して、保存を目的に吉沢商店によって同年5月に撮影されたもので、劇映画というよりドキュメンタリーみたいなものですね。

劇映画としての最初の忠臣蔵は、日本映画の父といわれた監督牧野省三が、映画スター第1号といわれる尾上松之助の主演で1910年に撮った横田商会の『忠臣蔵』です。

松之助が、浅野内匠頭、大石内蔵助、それに吉良の剣客・清水一角の3役を演じており、忠臣蔵といっても、名場面には必ず松之助が目玉をむいて登場するのですから目玉の松ちゃんのワンマン映画ですね。

牧野省三と尾上松之助は、その後毎年のように忠臣蔵映画を製作しており、現存するフィルムを編集して一本の映画にした松田映画社の『尾上松之助の忠臣蔵』で映画スタイルを知ることができます。

忠臣蔵映画の見せ場のひとつである、江戸入りにおける大石内蔵助と日野家用人・立花左近(映画によっては垣見五郎兵衛)の対決は、歌舞伎の勧進帳からアイデアを頂いた牧野省三のオリジナルで、当時は新手法として好評だったそうです。

『尾上松之助の忠臣蔵』は、ひたすら赤穂“義士”の忠誠を強調しており、武士道鼓吹、忠君愛国、それに忠孝という戦前教育のキーワードそのものがテーマになっています。それは、牧野省三と尾上松之助が熱烈な忠君愛国主義者だったこともありますが、当時の世相そのものがそうであり、大衆もそれに踊らされていたんですね。

初期の忠臣蔵映画は、一人で何役もこなすのが普通(帝キネの『実録忠臣蔵』は、一人4役は当り前、嵐笑三なんか8役ですよ)でした。しかし、昭和に入る頃にはそのような例は少なくなり、むしろ製作会社の勢威を誇示する場になっていきました。

1926年(大正15年)の日活作品『実録忠臣蔵』は、牧野とコンビを解消し、撮影所長となった松之助が自分の総決算として製作したもので、全20巻(フィルム1巻は、10〜12分)におよぶ超大作でした。この作品は大ヒットし、当時の金で30万円の純益をあげたそうです。

伊井蓉峰

この松之助に対抗するように、牧野省三が50年(50歳誕生)記念に一世一代の情熱を傾けて製作したのが『忠魂義烈・実録忠臣蔵』でした。

1928年3月5日にクランクアップしたのですが、翌日省三がフィルムを編集している時に、百ワットの裸電球から引火して、部屋にあったフィルムが全て焼失します。当時、牧野省三の助手をしていたカメラマンの大森伊八氏の回想や、マキノ雅裕の自伝『映画渡世』を読むと、省三がわざとフィルムを裸電球の上に置いて燃やしたような気がします。編集でカバーできないほどの失敗作だったんですよ。

原因は、新派の重鎮・伊井蓉峰を大石内蔵助に起用したことにあります。

伊井蓉峰のヒドサについては、竹中労の『聞書アラカン一代、鞍馬天狗のおじさんは』で、嵐寛寿郎も語っていますが、前述の『映画渡世』によると、

<撮影中、金屏風が張られ、そこで立花左近が大石内蔵助と対決する。 勧進帳のあらばこそ……と大石が白紙で芝居を見せるシーンだ。それで、 立花左近が「行け!」と言い、「有難うございます」と大石内蔵助一行が去 って行く。それをスーッとやりすごして、左近を殺しに行くのが寺坂吉右衛門。大石主税、武林唯七が後に続く。と、大石内蔵助がハッと振り返って、「待てエッ」と言ってターッと走って来るはずのシーンだった。ところが突然そこで伊井蓉峰は、新派出の俳優なのに六方を踏んだのであった。「待てエッ」と言って、ターッ、ポーン、ポンポン、とやってしまったのだ>

省三は撮りなおしを頼んだが、伊井蓉峰は「もう、やれん」と言って、さっさと帰ってしまったとのこと。万事がこの調子で、使えるところだけを編集して完成させても、見られたものじゃなかったと思いますね。

ところが、この映画、焼け残ったフィルムだけで3月14日に浅草観音劇場で上映されているんですね。牧野省三の奥さんが残っていたフィルムを売ったんですよ。どんな映画だったんだろう。

長谷川一夫

忠臣蔵映画がトーキーになったのは、1932年の衣笠貞之助が監督した松竹映画『忠臣蔵』でした。ハリウッドで悪役として活躍した上山草人が吉良上野を演っています。浅野内匠頭は、もちろん長谷川一夫(当時は、林長二郎)です。衣笠監督らしい、絢爛豪華な作品でしたが、内容は仇討美談を一歩もでないワンパターン忠臣蔵だったようです。

戦前の忠臣蔵で最も注目すべきは溝口健二の『元禄忠臣蔵』でしょうね。ビデオが発売されていますが、私は未見なんですよ。観たらレビューしたいと思います。

戦後は占領軍の方針によって、復讐をテーマとするものは一切認められず、忠臣蔵が復活するのは敗戦から7年後の1952年でした。東映の『赤穂城』がそれで、忠臣蔵のタイトルを避け、封建制度打破のため幕府に抵抗した民主主義者の物語だと、占領軍に対して説明したそうです。

封建的忠義からデモクラシー忠臣蔵に様変わりしたんですね。ただ、これも過度期的現象で、結局はオールスター映画としての顔見せ作品にすぎなくなっていきます。

詳しくは、個々の作品を通して、おいおいレビューしていきますね。

 

 

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