美術教育の実践研究論文の問題点とその改善
金子一夫*
(2000年4月28日受理)
Defects in Papers on Practices of Art Education and their Amendments
kazuo KANEKO
キーワード:美術教育、実践、論文
要旨
美術教育の多くの実践研究論文は内容が実践の丸ごと報告であり、研究論文として限定されていないこと、そこから論文形式の機能不全、美しい言葉の多用が発生することを指摘した。その改善のために、まず実践研究論文を定義した後、具体的な問題点を七つ挙げ、その是正を提案した。七つの問題点とは、1.研究目標と教育実践目標との区別が十分でない、2.年権画曖昧で明確に限定されていない、3.概要がその研究の概要になっていない、4.一論文中に研究目標、研究仮説が複数ある、5.研究主題、研究目標、研究仮説間に論理的連関がない、6.結論がない、あるいは結論が研究目標・研究仮説に対応していない、7.先行研究の無視、東洋画習慣になっている、である。
1.本稿の目的
茨城大学美術教育講座は卒業研究副論文という制度を設けて、教育学部美術コース所属学生に美術科教員養成の一環として論文指導をしている。筆者はその発足に際して、その意義と指導方法を論じた1)。ただ、卒業研究副論文は教育実践の場にいない学生が、論文能力及び美術科教育的思考習得のために書くものである。それゆえ、多くは初歩的な理論研究や教材研究になり、自分の教育実践を素材にすることは、ほとんどない。しかし、卒業して教育実践の場に立ってからの彼らは、自分の教育実践を素材として研究論文を書くことになるであろう。教育実践に携わっている教員は、自分の教育方法の向上を目指して日々の教育実践を検討する。それを論文化したのが、一般的には教育実践研究論文と言われる。美術科卒業生も教員になれば、教育実践研究論文を書くことになるであろう。しかし、美術教育の実践研究論文の現実は憂慮すべき状態にある。そこで、本稿は教育実践研究論文の定義とあり方、現実の美術教育の実践研究論文の問題点とその改善ついて検討する。
*茨城大学教育学部美術科教育研究室
2.教育実践研究の定義
実践研究とは、まず、いわゆる理論研究に対立する概念である。教員は、眼前の教育実践上の課題を解決する研究の必要性を感じる。そのためになされるのが教育実践研究である。それに対して、いわゆる理論研究は最終的には実践に寄与することを目的にしていても、必ずしも眼前の課題に直接応えるものではない。美術教育でも理論研究は現在進行形の教育実践とは直接関係なく、例えば理念や歴史等を対象にしたり、既存理論や諸研究の成果を使ったりして研究を進めることができる。いくらでも現実を捨象して極端な想定や過激な思考実験もできる。それは理論研究の性格上当然である。理論研究は、現実の具体的諸要素を捨象して高度な一般性、あるいは超越性を獲得するところに意義をもつからである。それゆえに理論研究が現在の教育を克服し新たな教育方向を指し示すこともできる。理論研究は、いわば基礎研究と言うべきものである。それに対して、教育実践研究は、いわゆる応用研究や臨床研究にあたるものであろう。それゆえ理論研究との違いから導かれる教育実践研究の特徴は、具体的教育実践上の課題と具体的教育実践による証明根拠をもつことにある。それを踏まえて教育実践研究及び教育実践研究論文を定義すれば次のようになる。
「教育実践研究とは、教育実践上の問題を設定し、具体的教育実践の事実を根拠に、その問題を解決 する認識あるいは方法を、結論として提案する研究である。そして、教育実践研究論文とは、記述言 語による、教育実践研究の具体的発表形態である。」
ただ、教育実践研究も研究であるので、理論的前提や理論的考察を必ず含む。それに美術教育の様々な概念や理論が頭の中で整理されていなければ、美術教育実践を記述したり、考えることができない。様々な概念の整理と定義は、理論研究の役目である。
次に教育実践研究は、研究の素材である教育実践とも対立する概念である。教育実践研究も研究である以上、研究目標(設定した問題)に確実性と独創性のある認識あるいは方法(モデル)を結論として提示し、既存の研究成果(先行研究)を超えようとする。それに対して教育実践(の全体計画・過程や成果)は、教育対象に教育効果をもたらすという実践目標に導かれるもので、研究目標に導かれる研究とは別の行為である。そして生身の人間が相手なので原則として失敗はできない。さらに眼前の児童・生徒やその他の現実を踏まえて発揮される特殊な技能的側面を多大にもつ。教育実践研究は、素材とした複雑な教育実践の一部の要素を抽象して構成されるものである。しかし、単なる教育実践記録も複雑な教育実践をある観点から抽象したものとはいえ、研究目標によって整理されていなければ、教育実践研究論文とは言えない。ただ、教育実践研究の材料にはなる。
教員は皆、所属が小学校であれ大学であれ、教育実践者と同時に教育研究者でもある。実践者と研究者は意識の相対的な区別にすぎない。しかし、研究と実践は前述のように違う。実践意識の強い人は、現実的要素を捨象すればするほど想像力が働かなくなる。すべて研究は現実的要素を捨象するとはいえ、捨象度合いが少ない教育実践研究が、実践意識の強い人には適しているであろう。
具体的実践課題に応える教育実践研究の成果は、すぐに他人が検証、すなわち追実践できる。成果の有効性が確認されれば、多くの実践者に利用され、教育実践上の原理・原則や諸技術として蓄積されていくであろう。残念ながら、美術教育の教育実践研究は、そのような段階に達していない。
3.教育実践研究と実験研究
もう少し教育実践研究を、科学的研究方法の観点から検討する。教育実践研究に近いものとして思い浮かぶのは実験研究である。一般的に実験研究は、ある原因要素(独立変数)を与えた実験群の変化結果(従属変数)と、与えていない統制群の結果を比較して、その原因要素が本当に変化の要因かどうかを調査する方法である2)。実験群と統制群は、原因要素以外の要素では等質でなければならない。そうでなければ、その原因要素が本当に原因であるかどうか確認できない。教育実践研究においても、この実験研究的な手法を利用することができる。例えば、ある授業刺激を与えた学級と与えなかった学級との授業成果を比較し、その授業刺激の有効性を検討する。比較対象の複数の学級集団も、たいていは等質集団と見なすことができる。
ただ、多くの教員は方法的に厳密にではないが、実験研究的思考を自然にしていると言える。例えば、以前はうまくいかなかった指導が、ある授業刺激の採用によってうまくいくことがわかった。あるいは、他人の授業方法を追実践してみたらうまくいくことがわかったということがあろう。これらは実験研究とは言えないが、ある授業刺激を採用した実験群と採用しなかった統制群(採用前の授業)を比較していると言える。そして、その授業刺激が一般に言われていないものであれば、その部分を抽出し、研究目標を後からつけて、実践研究論文にまとめることもできる。
しかし、実験と教育実践とは同じではない。実験は純粋に研究のために意図的に整えられたものである。しかし、教育実践は研究のためになされるのではなく、ある実践目標に沿って生身の人間に教育的効果を生じさせるために行われる。純粋研究のために教育実践をすることは本末転倒で、倫理的問題に抵触するおそれがある。それゆえ、実験研究のように厳密に条件を揃えたり、もしかすると教育対象者に不利益になるかもしれないような研究はできない。ただ、教育実践研究が教育実践の方法を向上させることも確かで、教育実践者は日々の実践を教育研究者の意識ももって取り組んでいなければ、逆に教育対象者の不利益になる。実験研究が困難であるがゆえに、教育実践研究は教育実践から特定要素を抽象してなされる。あるいは、最初から課題がわかっていれば、その研究的要素を含ませて教育実践がなされる。
以上のように、教育実践研究は、複雑な教育実践から研究的要素を抽象して構成することである。教育実践記録や実践成果報告書でも、実践そのものではなく、ある観点から現実を言語によって抽象化したものであるとはいえ、教育実践研究論文は、実践記録よりさらに研究の観点から実践を分割・限定・抽象したものになる。その実践で意識した実践上の問題解決、例えば鑑賞教材の具体的提示のしかたを焦点化して研究目標とする。それが実践成果にどの程度影響を与えたかを、それを採用しなかった他の学級との比較等で検証し、その有効性を結論として示すことになる。
教育実践研究のめざす理想は、教育実践の全ての要素が、すなわち個々の授業刺激、授業過程、教材、教育課程までが、確実な裏付けと明確な言葉で表現された認識・技術体系となることである。そして実際に応用されることである。その体系が、よく言われる教育実践学であろう。しかし、現実は、実践の多くの要素が経験直観的に、あるいは無自覚になされていると言える。それでは、実践上の有効な認識や技術は個人的なコツや営業秘密にとどまり、実践者の共有物にならない。
4.美術教育の実践研究論文の状況
美術教育の実践研究論文の現状は憂慮すべきものである。筆者の関係する美術教育雑誌や学会では、美術教育雑誌・学会誌へ教員の教育実践研究論文の投稿を奨励している。しかし、現実には投稿論文が研究論文の体をなしていないために不合格となることが少なくない。それらの多くは研究としても論文としても、不十分なのである。また、研究発表会で教員のレポートや口頭発表を読み聞き、あるいは論文審査で教育実践研究論文を読む機会がある。そこでも似た状況である。すなわち応募された論文の多くが、研究論文になっていない。これらは学会・研究団体の研究論文の反映であるという観測もあるが、とりあえず何らかの対処が必要である。当事者である教員の責任であるのはもちろんであるが、教育行政・学会・研究団体とともに教員養成機関にも責任がある。
もちろん、優れた教育実践研究論文もある。そして、教育実践研究論文の可・不可は、必ずしもその素材となった教育実践の可・不可を意味するわけでもない。いわんや、実践者の能力や善意の有無を意味するものでもない。もし、実践研究論文の可・不可が教育実践の可・不可と連動しているとなれば、教育実践のほとんどが不可になってしまう。優れた児童・生徒作品を産出している教育実践も多い。そして、優れた教育実践者とされる人が優れた実践研究論文を書いているとは限らない。また、教育実践は不可でも、実践研究論文は優れていることがあるかもしれない。
つまり、一人の人間においても教育実践研究論文と教育実践とは別次元にある。前述のように実践上の問題を設定し、その問題解決のモデルを提示するのが実践研究で、現実の児童・生徒に働きかけて教育成果を挙げるのが教育実践である。別次元にあるがゆえに、教育実践研究が教育実践を方向づけ、向上させる。両者には区別があるというより、なければならないのである。教育実践研究論文の諸問題も、教育実践の諸問題とは区別されなければならない。教育実践研究が具体的な授業等の実践と区別されずに、教育実践内容がそのまま教育実践研究論文の内容になるはずと誤解されている。これが教育実践研究論文が研究論文にならない最大の原因である。
おそらく多くの教員にとって実践研究論文は二義的な問題である。彼らにとって実践研究論文執筆は本務ではない。おそらく実践研究論文が実践と区別され、実践を方向づけ、向上させるものであるとは思っていないであろう。そうでなければ、教育実践研究論文があのようになるはずがない。
教育実践が教育実践研究論文と別次元の一定水準にあると言っても、この現状は安心できるものではなく、大きな問題を含む。教育実践研究が教育実践と一体化していて、教育実践を方向づけないのが当然の事態であれば、研究行為や教育理論一般は単なるたてまえにすぎなくなる。それは教育実践が自ら意義・価値を客観的に証明したり、方向づける手段をもたない事態である。表に現れる言説と実態が関係ないことの常態化は、一般化して言えば法律や規則の無効化である。教育に関して言えば、見えないものによって教育が方向づけられ、教育実践が推進されることである。そのことに誰も当事者としての危機意識をもたなければ、こわい事態である。
それゆえ、教育実践とは区別される教育実践研究論文が、教育実践方法の向上に寄与することを理解してもらう必要がある。それによって、多くの教員が教育実践研究論文を進んで書き、現実に教育実践方法を向上させることを期待したい。
5.教育実践研究論文のあり方についての先行研究
美術教育における教育実践研究論文のあり方については、研究らしきものがない。教科一般についても、以下の@〜Dしか見ることができなかった。授業研究という課題にずらすと、美術教育でもEのような雑誌特集がある。授業研究における理論及び言葉の問題について参考にすべきは、宇佐美寛のFGである。その他、木下是雄のHIが論文のあり方について参考にすべきものである。
@福岡県教育連盟『教育研究のすすめかた・論文のまとめ方』(第一法規出版、1981年)
A西田雄行『教育現場における教育研究の進め方と論文の書き方』(東洋館出版社、1986年)
B向山洋一『実践研究論文の書き方』(明治図書出版、1987年)
C同(編)『応募論文の書き方』(明治図書出版、1988年)
D同(編)『レポート検討の方法』(明治図書出版、1988年)
E『アートエデュケーション』第27号「特集 授業研究の可能性」1997年。
F宇佐美寛『授業にとって「理論」とは何か』(明治図書出版、1978年)1993年10版を参照。
G宇佐美寛『授業の理論をどう作るか』(明治図書出版、1983年)1988年6版を参照。
H木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書、1981年、1984年11)
I木下是雄『レポートの組立方』(筑摩書房、1990年)
@Aは総合的に問題を扱い参考になる。ただ、@は重要な点が目立たない、Aは事例が理科的研究に偏った嫌いはある。向山洋一のBは、研究レポートの四条件を端的に主張している3)。
一 テーマはできる限り具体的に示せ。 二 結論はテーマに正対して示せ。
三 結論を支える根拠(実践記録・実態調査)を示せ。
四 研究結果が他に分ち伝えられるようにせよ。(教材・発問・指示・留意点を示せ)
同書では「研究の成果」と「実践の成果」の混同事例も紹介されている。向山は、すぐれた教育技術を他に分かち与えるために、論文は目標や結果の考察ではなく教育方法の部分を重点的に示すべきとしている。具体的には、1.発問、2.指示、3.配慮事項、4.効果(結果)を明瞭に示すことである。そうすれば、他の教員が追試できる。そして、かなり細分化された授業要素を問題(対象)に一論文を構成すべきと主張している。そうしないと何が問題であるのか不明確になるからである。
宇佐美のFは、授業を「教科内容」「教材」「授業刺激」「(学習者の)解釈内容」というシステムとしてとらえるべきこと、様々な概念はその概念を含む概念体系、つまり理論を抜きに語っても意味がないことを主張している。例えば「学力とは何か」は「学習の理論」や他の関連概念の検討抜きで議論しても解決しない。宇佐美の次のような一節は、美術教育とは関係ない文脈でかかれているのではあるが、美術教育の実践研究が陥りがちな傾向を想起させる。
「子どもの喜びをたてにとって教員が自分の授業を高く評価するのは無責任である。『喜び』は、 授業内容の言葉に翻訳されなければ、異なる個人の間での検討に耐えうる授業記録の文章には 入り得ない。」4)
また、Gで宇佐美は「授業についての論述の本質的部分が致命的に弱いとき、『人間』的な語は、カモフラージュに使われる」と指摘する5)。本稿でもそれを「美しい言葉」として問題にしたい。
6.ある教育実践研究論文形式の発生
既述の向山や宇佐美の主張に、本稿が屋上屋を重ねる必要がない。それゆえ、本稿は美術教育、そして茨城県内の小・中学校の教育実践研究論文に引きつけて検討することに意味を見出したい。
美術教育実践を素材とした論文はたくさん発表されている。多くの教育実践研究論文は、教育実践研究としての限定がなく、教育実践の丸ごと紹介になっている。何を問題にして、何を結論として主張したいのかは不明確である。論文構成の形式的要素は揃っているが、機能しない。その機能不全を隠すために美しい言葉、すなわち多義的で曖昧な言葉が多用される。また、他人の研究成果を何の言及もせず自分の研究かのように書いてある論文も少なからずある。全国的には、教育実践の事実を既成理論で通俗的に解釈した論文もあるが、県内ではあまりない。
教育実践研究論文は、よく「著者本人しか読まない」と言われる。しかし、新たに実践研究論文を書かなくてはいけない実践者には読まれて、その論文形式や性格が引き継がれている。この形式的先例主義ゆえに、一般的傾向が存在する。本節では、次節での問題点検討の準備として、実際の論文構成形式の一般的傾向を確認する。それらは一般的傾向の事例として確認するだけの話で、特定の研究発表会や特定の発表者を批判する意図では決してないので了解されたい。
例えば茨城県教育研究集会での美術教育分野のレポートの多くは、おおよそ表1のような構成をとっている。事務局がこの構成形式での発表を義務づけているのではない。発表者に何となく受け継がれている構成形式である。ただ「研究主題」の項目は発表会発足時から存在していた。「研究の主張点」は少し後から、事務局が要旨の意味でつけるように指示した。遅くとも昭和43年以前から指示していたことが確認される。「研究の主張点」は、木下是雄のGで主張されている「概要」に機能が似ている(表2参照)。それ以外の形式要素はどのように出現したのかわからない。参考のため、美術コース学生に課している副論文の形式を示す(表3)。
美術教育の分野で表1のような論文構成形式が一般化したのは、昭和62年頃からである。それ以前は、多様な論文形式で書かれていたことが実際のレポートから確認できる。昭和60年の事務局が発表した活動指針中の美術教育研究分野の「研究のすすめ方」の一項として「これまでの自他の研究成果に基づき、仮説を立て独創的かつ着実な研究方法を考える」が加わった。筆者も昭和59年から助言者として研究発表会に関わったので、この項目追加に筆者も関与したはずである。記憶がはっきりしないが、おそらく、科学的な研究方法を取るべきということで入れたのであろう。この一項が論文の要素として「研究仮説」の導入に一役買ったのであれば、教員の論文形式理解の実状を考えずに導入させた責任は著者にもある。そして、この項目は効果を発揮しなかったと言える。平成 年に削除された。その他の論文形式要素がどのように出現したのかは、明確ではない。
いずれにせよ表1のような論文構成形式の原形が、既存の要素と時折々の研究指針や発表先例を参考にして誰が作ったということもなく出現し、成長して今日に至ったのであろう。論文構成形式に絶対的なものはないのであるから、それは一つのあり方ではあろう。しかし問題は、実践研究が実践そのものと混同されているので、論文構成形式は踏襲されるだけで、その意図・機能が理解されない。そのために研究課題・目標の明確さと論述の論理がないことである。
表1 茨城県教研集会美術 表2 木下『レポートの組み 表3 本学部美術コース学生 教育分野のレポート形式 立て方』にある一形式 の卒業研究副論文の形式
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木下の用語そのままでは なくアレンジして作成。
7.現実の実践研究論文の問題点とその克服
前述のように多くの実践研究論文の問題は、まず研究内容と研究素材となった授業等の実践内容との区別が十分になされていないために、論文内容が実践の丸ごと紹介になっていることである。論文の形式的な構成要素はあっても、当然、正常に機能しない。そして研究論文としての主張、すなわち問題と結論も不明確になる。その機能不全を美しい言葉、すなわち多義的で曖昧な言葉で隠蔽している。現実の実践研究論文においては、実践研究内容と実践内容の一体化が最大の問題で、そこから論文形式の機能不全、主張の不明確さ、美しい言葉の多用等の問題が派生している。
しかし、実践研究内容と実践内容を区別すれば実践研究論文ができると言われても、当事者にとっては雲をつかむような話であろう。それよりは、その一体化も含めて実践研究論文の実態が研究論文のあり方からずれていることを知らせ、そしてその是正法を具体的に示した方がよい。さらにそれに沿って研究論文を書いてもらうことで理解してもらうしかない。具体的な方法によってしか働きかけられないのは、児童・生徒に対してでも大人に対してでも同じである。
また、他人の研究成果を自分の研究成果かのように書くのは、研究者倫理とか著作権に反する。ただ、これは引用や出典表記の習慣を知らないためと思われるので、習慣であること知らせるべきである。ただ、実践研究論文は大げさなものではないと意識されているならば、深刻には受け取られないかもしれない。この問題はさらに複雑な背景をもっているように思われる。後に検討したい。
本節では、「茨城県教育研究集会」の美術教育分科会レポートを素材にして、七つの具体的問題を提示し検討する。相互に関係している(1)〜(6)は、一般性の強い順に挙げる。
(1) 実践研究における研究目標と授業等の実践における実践目標とが十分に区別されていない。
(2) 研究主題、研究目標、研究仮説等に使われる文言が曖昧で明確に限定されていない。
(3) 「研究の主張点」(概要)が,その研究の概要になっていない。
(4) 一論文中に研究目標・研究仮説が複数ある。
(5) 一論文中の研究主題、研究目標、研究仮説間に論理的関連が無い。
(6) 結論が無い、あるいは研究目標・仮説に結論が対応していない。
(7) 先行研究の無視、あるいは盗用が慣例になっている。
(1) 実践研究における研究目標と授業等の実践における実践目標とが十分に区別されていない。
実践研究論文が実践の丸ごと報告になり、研究論文にならない最大の原因は、実践研究が、素材となった授業等の実践との区別が意識されていないことである。それが研究目標に端的に表れている場合がある。実践研究論文に掲げられた研究目標(ねらい)が、授業での実践目標、さらには児童の学習目標になっている場合がある。実例を挙げる。
例1.「豊かに発想し、表現の楽しさを味わい、自分の目当てに向かって、生き生きと活動する子 どもを育てる。」
例2.「材料や場所との出会いを楽しみ、そのよさを感じながら思いのままに造形活動をすること を通して、自分なりの新しい表現の世界を広げていけるようにする。」
これでは、実践研究論文の内容が実践の丸ごと紹介にならざるを得ない。研究目標がない実践研究論文もあり、これも当然ながら、実践を丸ごと紹介しようとする内容になってしまう。
研究目標の末尾が「究明する」「研究する」となっている場合でも、末尾の前に書かれた究明内容、研究内容がほとんど「豊かな表現ができるような支援の工夫を」「自ら進んで表現できる学習活動を」といったもので、きわめて具体的ではない。それらは実践研究における研究目標として機能しない。つまり研究目標が論文内容を規定していかない。実践研究と実践との区別が実質的にされていないので、それらも実践の丸ごと紹介になっていく。
実践研究の定義で示したように、実践研究は「教育実践上の問題を解決する認識あるいは方法を結論として提示する」ものである。実践は児童生徒に理解させる、表現させるとかいう実践目標をもってなされる。もともと両者は違うものである。もちろん、理解・表現させる内容が妥当かどうかを研究目標にすることはできる。その場合は、「妥当かどうかをこのような方法で明らかにする」ことを研究目標にして論文を構成しなければならない。
実践研究と実践そのものとの区別が十分でないのは、実践研究者の思い違いによるものであろう。論文の分量は多くしなければならないという外見的強迫観念から、余分なことを書いて分量を増やしている場合もあるかもしれない。そうだとすれば、まったく逆方向の努力である。長年、実践研究論文のあり方が議論されずに何となく書かれてきたため、それを是正する機会がなかった。代々の実践研究論文の総体が厚い層をなしている。それを変えようとするのは大変なことである。是正を提案すると、児童でなくても、「去年まで(あの人には)それでよかったのに」「今年は(私には)どうしてまずいのか」という声は必ず出るであろう。しかし、厖大な数の実践研究論文が書かれていることを考えると、早急に是正すべきである。そうでないと県全体、あるいは日本全体で費やされている実践研究論文執筆の厖大な労力の総体は、無駄なものになってしまう。
(2)研究主題、研究目標、研究仮説等に使われる文言が曖昧で明確に限定されていない。
昭和60年代から徐々にレポートの「研究主題」には、「生き生き」「豊かな」「たくましい」「一人一人」「個性」「想像力」「創造力」「思い」「願い」「喜び」「ふくらます」「楽しむ」といった美しい言葉が多用されるようになる。それらを組み合わせると似た「研究主題」がいくらでも作れる。いくつか作って示す。
例1「児童一人一人の豊かな発想をたくましく表現させる指導のあり方」
例2「児童一人一人の豊かな感性を生き生きと表現させる支援のあり方」
例3「自ら学ぶたくましい態度、能力を育成する美術教育」
例4「一人一人が自分の思いや願いをふくらませ表現する図工教育」
日教組の教研全国集会の報告である『日本の教育』の、美術教育分科会での発表題目を散見すると、このような美しい言葉の多用は必ずしも全国的な傾向ではない。けれども、茨城県だけの傾向でもない。この現象の原因の美術教育史的検討は興味ある課題である。しかし、それは別稿に譲り、ここではそのような「研究主題」が、いわゆる研究主題になっていないことを問題にする。
まず、これらは研究主題と言うよりタイトル、「研究題目」と言うべきものである。「研究題目」のない形式が裏目に出て「研究主題」が「研究題目」化している。しかも、それらは研究内容を端的に表わさず、誰も否定しにくい美しい言葉で発表者の希望、願いを表わしている。しかし、研究主題は、曖昧な美しい言葉ではなく限定的・具体的・明晰な言葉で、その研究の問題(目標)、研究方法、結論等を端的に伝える一文にすべきである。そうでなければ、研究できない。また、後から先行研究として読まれる可能性もない。事務局に論文が保管されても実体を表さない類似「研究主題」リストからは、検索のしようがないからである。
「研究目標」「研究仮説」へ行っても事情は同じである。つまり、それらも限定的・具体的・明晰ではなく、多義的・曖昧である。または研究しなくてもわかるようなことが挙げられる。研究目標がはっきりしなければ、研究方法や結論もはっきりしない。論理の無さが、曖昧で誰も否定しにくい美しい言葉の多用という悪循環になっている。宇佐美の言うように、論理が致命的に弱い部分のカモフラージュである。研究論文が論理ではなく、雰囲気や情緒で読者を説得してはいけない。
(3)「研究の主張点」(概要)が,その研究の「概要」になっていない。
事務局が発行する各年度の「教育活動研究推進について」には次のような説明がある。
「目次の次の第1項に、本文とは別に『研究の主張点』という項目を必ず設け、主張したい点を を要約して1ページ以内にまとめておくこと(単なる前書きではないので注意してほしい)」
つまり「研究の主張点」を設ける指示は、それが「概要」(「アブストラクト」「サマリー」「レジュメ」)として機能することを意図してのことと思われる。「概要」は、研究関心が様々な読者にその研究論文の目的・方法・結論を端的に示すためにある。読者はそれによってその論文の主張を早く把握したり、論文全体を読む必要があるかどうかを判断する。しかし、現実の「研究の主張点」の多くは、それができる「概要」になっていない。著者の美術教育観や心構え・気もちを述べる「前がき」のような機能を果たしている。これでは、その論文が何を主張しているのか把握できず、論文全体を読むべきかどうかの判断もつかない。
(4)一論文中に並立する研究目標あるいは研究仮説が複数ある。
一論文中に研究目標が複数あり、それに対応して結論が複数示される研究論文はある。例えば、美術教育史の論文では、資料の関係から目標を二つ立てた方がわかりやすい場合がある。しかし、実践上の問題の解決を具体的実践の事実によって証明しようとする実践研究論文に、関連してはいても研究目標あるいは研究仮説を二つ以上並立させるのは困難であろう。論文が複雑になり(論理的な)整合性が困難になるからである。読者にとっても、非常にわかりにくくなる。素材となった実践に二つ以上の実践目標があったとしても、実践とは別次元にある研究論文の研究目標は一つにした方がよい。研究目標を複数立てたいのなら、素材が一つの実践であっても目標の数だけ別々の論文にすべきであろう。そうしないと、非常に読みにくい論文になってしまう。ただ、研究目標が一つの小さな論文を集合させて、大きな論文にすることは可能である。その場合でも一つ一つの論文は相対的に独立している。
(5)一論文中の研究主題、研究目標、研究仮説間に論理的関連が無い。
表1のような論文形式を取るとすれば、研究主題→研究目標(解決すべき具体的問題)→研究方法・作業仮説→実践→結果→考察と論理的に展開していくはずである。最初の研究主題が抽象的であっても、目標、仮説にいくにつれ範囲が限定され、意味が明確にならなければ研究できない。
「研究主題」「研究目標・ねらい」と「研究仮説」の例を二人のレポートから引用する。これは引用された特定個人を問題にしているのではなく、一般的傾向の事例としてたまたま選んだだけで、二人の実践そのものの是非とは関係ないので了解されたい。
発表者A (下線は引用者。研究主題は表紙より引用。本文最初記載の主題には「TTの」が欠)
研究主題「一人一人の個性と創造性を生かしたTTの授業の構成と支援のあり方−夢や思いを楽
しく表現させる活動を通して」
研究目標「児童一人一人の個性と創造性を生かすために、ティームティーチングによる多様な指
導法や支援・援助のあり方を研究する。」
研究仮説「ティームティーチングを導入し、支援援助のあり方を工夫した授業を展開すれば、夢
や思いが楽しく表現でき、児童一人一人の個性と創造性が生かされるであろう。」
上の場合、研究主題、研究目標、研究仮説はみな同じような抽象的段階にとどまりながら、文言が違い意味が微妙に変わる。例えば、支援が支援・援助に変わる。また、研究目標だけに多様な指導法という文言がある。逆に研究主題と研究仮説に「夢や思いが楽しく表現でき」という文言があり、研究目標にはそれがない。これらが三者の関係をわかりにくくさせる。「一人一人の個性と創造性を生かす」ことと「夢や思いを楽しく表現させる」ことは、どのような関係にあるのかもはっきりしない。あってもなくても同じなのであろうか。また研究目標が「多様な指導法や支援・援助のあり方を研究する」では、当然の一般論すぎて、研究目標としての具体性がない。「ティームティーチングの何を具体的にどのようにすれば、『児童一人一人の個性と創造性を生かす』ことになるのかを明らかにする」とすべきである。研究仮説は「具体的にこうすれば児童一人一人の個性と創造性が生かせる」とすべきである。そして、「個性」「創造性」「を生かす」という言葉を入れる以上は、クラスの児童一人一人の個性、創造性、夢、思いの現状がこのようであり、授業によって「生かせた」状態がどのようであり、どのようにして判定できるのかを示すべきである。そしてその「生かせた」状態がより望ましい事態であることを論証すべきであろう。「夢」「思い」「楽しく」に関しても同じである。このような言葉間の関係や実態を論証しないのに、何となく使ってしまうのは混乱の原因になるので、そのような言葉は使うべきではない。
発表者B (〈研究のねらい〉と仮説が3セット設定されている。そこから、1セットだけを引 用する。符号と下線をつけたのは引用者)
研究主題「自分なりの発想を創造的に楽しんで表現できるようにするための支援の工夫」
ねらい 「A児童の経験や関心などをもとにしながら、B発想や表現が豊かに広がっていくよう
な題材を設定するとともに、C一人一人のよさや可能性を生かすことができるような
ゆとりと幅のある展開をめざす」
研究仮説「a児童の先行経験を生かしながら、b創造的な想像力をふくらませることができるよう
な題材を設定し、c一人一人の表現に対応できるような展開を工夫することにより児童
の発想は豊かに広がり、さまざまな表現欲求が生まれ、思いのままに自分なりの表現 を楽しむことができるようになるだろう。」
「展開の工夫」は主題で言う「支援の工夫」の一つであるのか明確でない。ただ、ねらいと仮説に引用者が引いた下線部間を対応させていることはわかる。その対応を表にして、どのように限定、あるいは明確化しているかを見てみよう。
発表者Bの研究の〈ねらい〉 | 仮説中の文言 |
A 児童の経験や関心などをもとにしながら | a 児童の先行経験を生かしながら |
B 発想や表現が豊かに広がっていくような |
b 創造的な想像力をふくらませることができるよ うな |
C 一人一人のよさや可能性を生かすことので きるようなゆとりと幅のある展開をめざす | c
一人一人の表現に対応できるような展開を工夫 |
A-a, B-b, C-cと対応する文言は似ているが、意味が違っている。「児童の経験や関心など」は「児童の先行経験」と同じではない。限定したものでもない。「もとにしながら」と「生かしながら」も同じではない。「発想や表現が広がっていく」と「創造的な想像力をふくらませることができる」とは同じではない。「一人一人のよさや可能性を生かすことのできるようなゆとりと幅のある展開をめざす」は「一人一人の表現に対応できるような展開を工夫」と同じではない。いずれも、似てはいるが意味は違うし、限定されたものでもない。二つの関係は、意味が定まらずにふらふらしている状態である。これでは、読者は論文が何をやろうとしているのかわからない。
以上のように意味が定まらないのでは、研究は不可能であるし、何をやろうとしているのか本人もはっきりしないであろう。教育実践研究も明確に限定された問題を立て、それに対して実証・検証の明確な方法を導き、明確に表現された命題を結論として示すべきである。そうでなければ他人がその研究方法で追研究したり、研究成果を自分の実践に取り入れることもできない。
発表者Bの場合、レポートを読んでいくと、「発想や表現の広がりが期待できる題材の工夫」として一つの題材例が紹介されている。少なくとも、その題材を一つの論文にするくらいの限定をすべきであろう。それを材料に本論筆者なりに研究主題・目標、研究仮説を作ってみよう。
研究主題:児童の発想や表現の幅を広げることができる題材内容として、ふたつの世界の対立 がある。 研究目標:上記題材例を作成・実践して、児童の発想や表現の幅が広がるかどうかを確認する。 実践仮説:二つの世界の対立の表現という題材内容は、児童の発想や表現の幅を広げる。 実践方法:(実践した時、実践者、実践対象児童・生徒等のデータ、その他特記事項) 実践内容:(指示、発問、児童の変化等を正確に記録して示す) 実践結果:(実践前の児童の発想や表現の幅の実態、それと比較して実践によって幅が広がっ たかどうか。その判断基準も明らかにする。結果はできるだけ人数等の数値で示す。) 結 論 :この題材内容は、実践する前と比較して児童の発想や表現の幅を広げた、あるいは 広げなかった。 考 察 :上記結果の客観的検討。 さらなる課題等を言及したいときは、「あとがき」を作って言う。例えば「上記題材をさら に効果的にするためには、二つの世界をつなぐ扉や橋を表現要素として入れさせる」という 研究主題が出てくる。 |
「個性」や「表現の幅」という言葉の意味や実態については、発表者Aの場合と同じように明確にしなければならない。ただ、それを差し引いても、このような個別研究で研究論文として明確な成果、そして十分な評価を得られるであろう。研究成果も他人に役立つはずである。最初からある実践全体をまるごと限定・構造化せずに書くと、研究論文にならない。個別研究をたくさんまとめ、積み重ねた後にしか、それらを組み合わせて構造化した大きな論文はできない。
(6)結論が無い、あるいは「研究目標」「研究仮説」に結論が対応していない。
結論が無い、あるいは最初に掲げられた研究目標と対応しない結論になっている実践研究論文が、かなり多い。しかも、研究目標と対応しない結論が、実践してみての感想や希望、曖昧な研究目標の繰り返しであったりする。研究論文は目標が論述を結論に向けて推進させ、構造を作っていくわけであるから、研究目標と対応しない結論はおかしい。
しかし、研究目標が明確に限定されない、たてまえにしかすぎなければ、結論がそれに対応しなくても、あるいは結論がなくても、気にならないのであろう。実践研究と実践そのものが区別されていない場合は、実践がうまくいったことが研究成果として述べられる。しかし、実践研究は、具体的な方法、教材、考え方等(のモデル)の妥当性の証明が目標とされ、それが実践によって証明された、あるいは証明されなかったというのを結論とすべきである。最後の結論が感想や目標の繰り返しであったら、苦労して読んできた人は怒ってしまうであろう。
(7)先行研究の無視、あるいは盗用が慣例になっている。
美術教育関係者なら誰でも知っているような有名な題材やマニュアルを、そっくりそのまま自分の案出物かのように書いてある論文が時々ある。無断借用、盗用というべき事態である。借用元が有名であったから気がついたものの、有名でない論文や研究物からの盗用は、たくさんあるのではないかと思う。実践研究論文には、引用や典拠を示すという習慣がない。参考文献を載せている実践研究論文はよい方で、註や本文中に典拠や引用を示している論文は、あまりない。それは引用や典拠を示すという習慣を知らないだけで、意図的なものではないと思うが、しかし、単純にそれだけではないように思う。
教育研究発表会が、教員にとって新ネタ探しの場として機能しているかぎり避けられないのかもしれない。新しい教材や指導方法を開発しても、開発者の名が記憶されることなく広まっていく。その際、よい教材や指導方法開発者への敬意は払われるべきである。それらを他人が授業の実践に使うことは許されるであろう。しかし、それを他人が実践研究論文やその他の研究発表に典拠なして使ってしまうのは、研究者の倫理や著作権に抵触する。あたかも自分が開発したかのごとく発表してしまうのは許されるべきではない。
他人の研究成果に敬意を払う習慣がないところでは、有能な教員が開発した授業のコツや新教材等は、各教員の企業秘密として研究発表中においても公開されなくなる。実践研究論文や口頭発表から、児童・生徒がどうしてこのような優れた作品を作ったのが少しもわからないことがよくある。自分の実践が相対化できないので、その要因となる指導要素を抽出できないということはあるかもしれない。そうでなければ、その指導要素を意図的に隠している、あるいは変更して発表しているのではないかと思うのである。この推測が当たっているとすれば、研究成果に敬意を払う習慣がないことが公開しない原因であろう。苦労して研究開発した成果が、典拠も示されず研究発表で盗用されることが横行しては、誰も研究成果を発表しなくなる。開発者の名前でもつけて、ある教材や方法が呼ばれるようになっていれば、状況はまったく違ったのではないかと思う。それゆえ追試験的研究も存在を認められ、はっきり追試験的研究と銘打って研究発表もされるべきである。
8.実践研究論文の対象と形式
実践研究論文の問題点とその改善について検討は、以上でほぼ終了した。最後に教育実践研究の対象と形式の問題について、確認と提案を若干述べる。
教育実践の実際は、様々な要素が複雑に絡み合っている。複雑であるがゆえに、その解明は方法的に行わなければならない。まず何を明らかにするのか、対象と問題が決まらなければ研究は始まらない。宇佐美寛の主張も参考にして言えば、教授学の問題領域は次の四つに分類される。
@教育内容 A教材 B授業方法、教育技術 C学習者(児童・生徒)
教育実践研究の対象も、これら四つに分類されるであろう。当然AとBの領域の研究が多くなるであろう。実際に研究する、実践研究論文をまとめる時は、各領域の細目、かなり具体的な事項が研究対象そして問題(研究目標)にしなければ、例えば、ある教材の授業での発問のしかた、指示のしかたといったレベルまで細分化されたものにしなければ、研究としての明確さは実現しないであろう。授業構造とかの研究は、それらが積み重なって、初めて可能になる。
複雑な要素が絡み合った実践から細分化された一部を抽出して研究対象にすることに疑問をもつ人がいるかもしれない。それに対しては、科学的研究の方法論を確認してもらうしかない。すなわち、科学的研究とは対象事物から関係の薄い要素を捨象して研究対象と問題を設定し、論理を積み重ねて認識モデルや方法・原則を構成し結論として示すことである。それが可能であるという前提に立っている。美術教育実践研究において、例えば指示、発問、教材、素材等の要素が独立して検討可能であると仮定する。そうしないと検討はできない。例えば、素材は他の要素である教育技術や児童生徒の状態と切り離して検討できる。教育技術や児童は理想的状態、少なくてもある条件下の安定を保っていて、素材に関わる事項に影響を与えていないと想定する。
その素材が適用可能な学年の範囲とかは、成立条件の確定という次の段階の研究となる。それゆえに、第一段階の研究から事実や数値は正確に記されるべきである。そうでなければ、読んだ人は判断が正しくできない。ある発表会で一教員が、児童が教材に喰いついてこないと発言した。ただ、その教員の話し方は聞いている人をイライラさせずにはおかないものであった。うまく行かないのは教材や児童の問題というより、教員の話術が原因ではないかと推測された。指示・発問等の要約が記録されただけではわからなかったであろうが、文書発表でも指示・発問等が正確に再現されていれば、児童や教材ではなく話術が原因である可能性が高いと読んだ人は推定できたであろう。
次に「研究仮説」について述べる。従来の論文形式でいう「問題の所在」で設定された問題に対する推定回答としてのモデルが、普通「作業仮説」「実験仮説」と言われるものである。あるモデルを仮定して、研究、実験をしてみたらうまくいった、いかなかったという結論を導く。また、ある事態の説明として、そのように仮定しないと説明がつかない、しかし科学的に実証できないという場合も、その仮定を「仮説」という。ただ、科学的研究においては問題設定でも結論でも、仮説といえば仮説である。現実から抽象したものである。実践研究論文は、具体的実践の事実によって証明するので、研究目標で言うある認識なり方法が有効であるという作業仮説、実験仮説に該当するものを立てることになる。しかし、この場合研究目標の末尾を言い換えるだけにすぎない。それゆえ、ことさら仮説と称して設定しない方が混乱は少ないであろう。
最後に実践研究論文の形式であるが、表2にも掲げた、木下是雄の『レポートの組み立て方』のいうB形式を基本とするのがよいであろう。本学部美術コースの副論文形式にも、それを参考にして鑑賞教材化研究用論文形式を作り加えた。それを本稿末尾付録としたので、参照されたい。
註
1) 拙論「教科教育の卒業論文を課す美術科教員養成」『茨城大学教育実践研究』第16号、1997 年、1−10頁.
2) 高根正昭『創造の方法学』(講談社現代新書、1979年)83頁.
3) 11頁. なお、同部分は最近発行の『教え方のプロ・向山洋一全集15 校内研究を組織化する』(明治図書出版、1999年)38頁にも収録。この本も実践研究の参考にすべきであろう。
4) 宇佐美寛『授業にとって「理論」とは何か』(明治図書出版、1987年、1993年10)160頁.
5) 宇佐美寛『授業の理論をどう作るか』(明治図書出版、1983年、1988年6)117頁.
付録 美術コースの副論文で鑑賞教材化研究を選択した場合の論文の形式。
○研究題目……………(作者)「(作品題名)」の鑑賞教材化の研究 −○○の理解(・体験)を目標に− ○目次 ○概要…………………原則1頁以内に端的に,(作者)「(作品題名)」の何(美術の方法論) を理解・体験目標にして,どのような授業細案を作成し,実際に実践 してみた結果,その結果についての客観的判断を要約する。 T序 論 1.対象作品について…作者「作品題名」大きさ,制作年,所蔵館等。作者とその作品に ついての情報。その作品写真か良質の電子複写も貼付する。 2.先行研究・研究史…その作品についての先行鑑賞教材研究を論評し,自分の研究の必然性 を導く。 3.理解・体験目標……その作品で児童・生徒に理解・体験させる目標(その作品に即した具 体的な美術の方法論),なぜそれを目標として設定したかを書く。 4.対象学年……………授業細案が教育対象として想定する学年,及び実践した学校・学年。 5.授業方法……………主にどのような方法を使って,理解・体験させるか。特に作品を十分 に見させる手だて,目標とした美術の方法論を理解・体験させる手だ ては必ず書く。 U本 論…………………以下のように授業細案,実践,結論で構成する。 第1章 授業細案……授業細案1.2.…とその授業方法としての特徴。授業細案は配布される 参考事例と同じように予定する指示・発問、予想される児童・生徒の 発言まで書くこと。これを実践した場合は,実践授業細案を実践結果 に合わせて後から改変してはいけない。 第2章 実践…………授業細案を実際に実践してみた結果(正確に書く。実際と違うことを 絶対に書かない。) 第3章 結論…………実践の結果,授業細案1.2.…は成功,あるいは失敗であった。 V考 察…………………結論に関しての客観的な論評。失敗の場合はその原因も書く。 ○註 ○文献目録 ○あとがき・謝辞……実践させてもらった学校(匿名にしても)への謝辞は必ず書く。 |